目に映る景色を信用するようであれば、あなたは正しく理解することができません。
あなたは錯覚の中に生きています。
あなたは虚像を見ているのです。
この世界の真実は、あなたの見ているものとは違っています。
あなたが見ている景色は、あなたにとっては真実に他なりません。
しかし、それを認識する時には様々な要因がそこに継ぎ足されます。
純粋な心で生きている人がいるでしょうか?
我欲を反映しない心があるでしょうか?
立場に捉われずに判断する人がいるでしょうか?
すべての人が歪んだ心で世界を捉え、立場によってそれを歪めています。
しかし、心が作り出す虚像は余りにも精巧にできているため、その歪みに気が付くことはできません。
それに加えて、正当化と美化という塗装を施してあるために、余計に認識することができない状態なのです。
形と質量の等しい異なる二つの物体に同じ塗装を施せば、それは同じ物体に見えるのです。
その物体が何であるのか?ということを判別することはできません。
あなたの認識は、塗装(見た目)を超えることができないのです。
五感を働かせても、その物体を判断することはできません。
すべての人がそのような状態によって生きているのが現状なのです。
そのため、世の中には錯覚が溢れ、誤解が飛び交います。
あなたは嘘を吐き、嘘に騙されます。
歪んだ景色を歪んでいるとは認識することをせず、その歪みを調整しているのです。
あなたが完全に静止することはありません。
あなたがどれだけ静止しようと努めても、微かには動き続けているのです。
心臓が鼓動する時点において、あなたは揺れているのです。
その揺れを脳が処理することによって、目の前の景色が止まって見えるのです。
その働きがなければ、あなたは揺れをそのまま認識することになり、とても生活することができません。
錯覚によって虚像を見ることは、この世を生きるにおいては仕方のないことです。
純粋な心ほど生き難く、我欲に溺れる者ほど生き易いのが現状です。
そして、立場に逆らうことはできません。
皆、そのように生きてるのです。
虚像を受け入れることは気楽です。
しかし、考えなければならないのは、虚像を喜んでいて良いのか?ということなのです。
塗装の下にある物体の正体を知ることもなく、生きて死ぬことが本当に幸福なのでしょうか?
真実を知らずにいることが、本当に良い人生であるのでしょうか?
塗装を剥がすことは勇気のいる作業です。
塗装を剥がすことによって、それは確実に価値を失うからです。
この世は虚像に価値を付けて売買しています。
あなたが取引しているものは、本当に価値のあるものなのでしょうか?
人生とは何か?
という問いと共に生きなければなりません。
自動車を運転している時に、遠くの景色は穏やかに流れ、近くの景色は激しく流れます。
それ等は違うものでしょうか?
例えば、遠くの穏やかに流れる景色に価値を見出し、近くの激しく流れる景色には価値を見出せずにいるとします。
それは、真実なのでしょうか?
あなたが自動車の運転を止めた時、遠くの景色と近くの景色は止まります。
しかし、次には遠くの景色はその像を霞(かす)ませ、近くの景色は細部まで鮮やかに見せるようになるのです。
例えば、近くの鮮やかな景色に価値を見出し、遠くの霞んだ景色には価値を見出せずにいるとします。
それは、真実なのでしょうか?
遠くの景色と近くの景色には、どのような違いがあるのでしょうか?
違っているのは自身の認識だけなのです。
その景色自体は変わりませんが、あなたがそれを遠くに置くか、近くに置くかで変わるのです。
それは錯覚であり、虚像であるのです。
目に映る景色を信用するようであれば、あなたは正しく理解することができません。
この世界の真実は、あなたの見ているものとは違っています。
そのことを考慮する必要があります。
そうでなければ、判断を誤るでしょう。
正すべきは自分自身であるということを忘れてはなりません。
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