過去に価値を見出すことは、未来に価値を見出さないということです。
	人は後ろを振り返りながら真っ直ぐに歩むことはできません。
	真っ直ぐ前進したいのであれば、前方を見つめ、次の一歩をどこに置くのかを決めなければならないのです。
	後ろを振り返りながらでは、次の一歩を踏み出すことすら、恐ろしくて叶わないでしょう。
	後ろを振り返りながら前進するということは、矛盾している行為であるのです。
	すべての人が幸福を求めています。
	幸福の形はそれぞれに違いますが、それは満足感によってもたらされるのは共通しています。
	それは、満足感によって成長することができるからです。
	幸福とは、成長の結果であるのです。
	人が成長するためには、向上しなければなりません。
	向上するためには立ち止まっていてはなりません。
	一歩でも前進することによって、人は成長を実現することができるのです。
	前進するためには、未知を求めなければなりません。
	無知を埋めていくことが、成長に繋がるのです。
	ただ歳をとって老いるだけでは、幸福は得られません。
	それは、正しい道のりではないのです。
	無知な老人ほど扱いに困るものはないのです。
	人が老いれば、それに伴って知恵が増すことが求められます。
	無知を放置すれば、幸福は実現しないのです。
	過去に価値を見出す人は、無知を気に掛けません。
	無知であるが故に、過去に価値を見出すのです。
	多くの人は過去に憧れを抱いています。
	昔は良かったと賛美(さんび)しますが、それは同時に現状と未来を否定しているということなのです。
	人が生きることができるのは現状と未来です。
	過去に生きることはありません。
	自らの生きる現状と未来を否定するのだから、無知に違いないのです。
	自らの足場を崩して幸福を得ることができるのでしょうか?
	現状と未来を否定して、どうして満足感が得られるのでしょうか?
	そのような浅はかな考えの人は、否定している現状が過去になった時には、それを賛美するのです。
	過去の回想の中に生きることによって、その繰り返しから抜け出せないでいるのです。
	大切なのは現状と未来を生きるということです。
	残念ながら、過去には価値がありません。
	人は新たな可能性(考え方、価値観、生き方・・・)を求めて生きなければならないのです。
	過去に執着する人は、可能性を得ることができません。
	既成概念の中に取り残され、更なる苦悩を引き込むようになるのです。
	過去の幸福な記憶は幻想です。
	それは現実ではないのです。
	幻想を掴むことはできません。
	どう足掻(あが)いても、過去を取り戻すことはできないのです。
	それは、価値がないからです。
	過去を回想するよりも、未来に期待しましょう。
	未来に可能性を得るために、多くのことに興味を持ち、多くのことを学ぶのです。
	世界には、毎日新たな発想が生まれています。
	それが非常識であろうとも、その可能性を否定してはならないのです。
	非常識であるということは、新しいということです。
	それが正しいかどうか?ということは問題ではないのです。
	仮説であろうとも、可能性であるということを理解する必要があるのです。
	新説というものは信じ難い側面を持ちます。
	しかし、それが常識となった時に受けれたのでは遅過ぎるのです。
	その時には、その考えは過去の遺物となっているのです。
	それでは、再び過去に生きることになるでしょう。
	未知に向かうことには勇気が必要です。
	しかし、後ろを振り返りながら歩くことに比べれば簡単です。
	過去に価値を見出すことによって、現状と未来の可能性を潰すことに注意しましょう。
	前を見て、真っ直ぐに歩みましょう。
	
0 件のコメント:
コメントを投稿