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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年5月31日火曜日

泳ぎ方

あなたの人生は、あなたのものです。
それは、あなたのための時間です。
あなたは、自らの人生において学びを得なければなりません。
人生における学びとは、多くの場合、あなたにとっては問題として現れます。
人生は学びの時間であるために、問題が失われることはありません。
一つの問題を解決すれば、新たな問題が生じます。
その積み重ねによって、人は成長を実現することができるのです。
問題とは、あなたにとっての吉報(きっぽう)です。
人は、問題と向き合うことによってのみ、成長の機会を得ることができるからです。
成長するために問題に向き合わなければならないのは、自らの未熟さを克服することこそが成長であるからです。
未熟さとは、問題を引き起こす原因です。
それは、汚れであり、歪みなのです。
歪んだ方法を用いれば、歪んだ結果が生じます。
歪んだ結果とは、人にとっては問題であり、それは苦悩として認識されるのです。
そのため、人は人生において問題から離れることはできません。
どのような人物も必ず問題と向き合うのです。
それは、それが人生の目的であるからです。
あなたは問題と向き合わなければなりません。
それを避けることはできません。
多くの人は問題を避けようと努めます。
問題に会えば、それから逃れようと努めます。
しかしながら、問題の原因は自らの未熟さにあります。
未熟さはあなたの内に存在し、どこで何をしようとも逃れることはできないのです。
どのような方法も、問題から逃れるためには有効ではありません。
それは、浅はかな考えから生じる愚かな方法であり、問題を解決する力はないのです。
問題と向き合うことをしなければ、決してそれを解決することはできないのです。
人生は、自らの未熟さを克服するたの時間です。
あなたが求められているのは、自らの未熟さの克服なのです。
あなたは自らの未熟さを克服しなければなりません。
誰かや何かの未熟さのことではないのです。
克服しなければならないのは、自分自身の未熟さであるということを忘れてはならないのです。
多くの人は誰かや何かが変わることによって、人生が変わると思い込んでいます。
そのため、懸命に自分以外の存在を動かそうとします。
人生の目的が自分自身の未熟さの克服であるため、どれだけ自分以外の存在を変えることに専念しても、本質を得ないのです。
変わらなければならないのは自分自身なのです。
自分以外の誰かや何かが変わる必要はありません。
自分が変われない言い訳を、自分以外の存在に擦(なす)り付けるのをやめましょう。
あなたは誰かや何かに変化を求めてはなりません。
例え、あなたの要請(ようせい)によって誰かや何かが変わろうとも、あなたには同じ問題が生じるのです。
人生はあなたという原因によるため、誰かや何かを変えようとも、同じ役割として他の誰かや何かがそこに収まるのです。
あなたが変われば、原因も無くなります。
原因が無ければ、結果は無いのです。
大切なのは、原因である自分を変えることなのです。
あなたは常に自分が変われることがないか?と探しましょう。
外に答えを求めてはなりません。
誰かや何かに期待してはならないのです。
他力本願では、人生の目的は果たせないのです。
根本である自分自身を変えることがなければ、人生が変わるはずがないのです。
あなたは自分自身を変えることに専念しましょう。
誰かや何かを変えることによって、利益を得ようなどと考えてはなりません。
自分の力で泳ぐことができなければ、水に飲まれるのです。
慌てずに息を止めれば良いのです。
水を飲まなければ溺れることはありません。
水に落ちても慌てることをやめましょう。
そうすれば、泳ぎを覚えます。
水に落ち(問題を得)なければ、泳ぎを覚える機会もないのです。
自分の方法を変えるだけで良いのです。
簡単なことなのです。
今までの方法をやめましょう。

2016年5月30日月曜日

現象の原因

この世界における現象は、霊的情報の具現です。
すべての現象は霊的情報の具現化であるのです。
現象は結果に過ぎません。
結果には、それに相応しい原因が存在しています。
この世界における現象の原因は、この世界(唯物世界)にはありません。
それは、霊から出るものであって、別の次元(唯心世界)から生じるものであるのです。
この世界の原因は、別の次元に存在しているのです。
人の行為は、この世界における原因ではありません。
人が行為する時には考えています。
人の考えは思い(感情)によって導かれます。
感情は心によって生じ、心は人格によって生じるのです。
人格は霊から生じ、霊は魂から生じます。
そして、魂は”神”から生じるのです。
”神”の意思が魂を生じました。
魂の意思が霊を生じました。
霊の意思が人格を生じました。
人格の意思が心を生じました。
心の意思が思いを生じました。
思いの意思が考えを生じました。
考えの意思が行為を生じたのです。
人の行為という現象は、その根源には”神”があります。
”神”という呼び方を好まなければ、真理でも、知性でも構いません。
呼び方など、何でも良いのです。
考察すれば、この世界における現象が、この世界に原因を置くのではないということを知ることができるのです。
あなたが自分だと思っているのは人格です。
人格はあなたではありますが、あなたの本質ではありません。
人格は魂の汚れであり、あなたの解消すべき課題なのです。
あなた(人格)が選んでいるように思えますが、あなたが選んでいるのではありません。
あなたの目の前に導かれる現象の原因は、もっと深いところに存在し、それは、あなたの理解を超えるのです。
そのため、人は目の前の現象の意味(真意)を知ることができません。
それが何のために目の前に存在しているのか?ということを知り得ないのです。
それは、自分が人格だと思い、思考や感情が原因であると思っているからです。
もちろん、思考や感情は原因となります。
しかし、それは一部に過ぎないということなのです。
思考や感情の更生は、状況に対する問題を解決します。
思考や感情の歪みを取り除くことによって、人は煩(わずら)わしい問題から解放されるのです。
しかし、それは苦悩を取り除いたことにはなりません。
それは気楽を得ただけであり、後に気楽が苦悩となるからです。
目の前の現象は、あなたが考えているよりも深い意味が込められています。
それは、あなたに人生の意味と、自分自身の正体を教えるでしょう。
あなたはその答えを手にすれば良いのです。
そのためには、現象が霊的情報の具現であるということを理解しなければなりません。
霊的情報(不思議なこと、信じられないこと)を理解するように努めるのです。
常識や経験上の知識によって理解を求めてはなりません。
それは、人格の段階の情報を読み取るに過ぎないからです。
人格の段階の情報は、すでに”大きい”状態です。
人格から心、心から思い、思いから考え、考えから行為という段階で、それは”大きく”なるのです。
霊的情報の最も大きな形が現象であるのです。
人格から霊、霊から魂、魂から”神”という段階で、それは”小さく”なるのです。
小さい程に本質であり、原因です。
最も大きな状態が結果であるのです。
原因に到達する前の段階における判断であれば、その結果の意味を理解することはできません。
多くの人は人格の段階(主観)で判断するため、現象の意味を理解することができないのです。
人格の段階までは唯物論です。
考えを主要としているのであれば、現象の意味を理解することはできません。
あなたは決して、自分で考え、自分で判断して、自分で行っているのではありません。
更に深い理由が存在しているということを知りましょう。
現象を否定的に捕らえてはなりません。
それは、人格までの段階での判断だからです。

2016年5月29日日曜日

欲求のための要求

人は、欲求を所有します。
すべての人が自らの欲求を実現するために動いています。
人は自らの欲求を実現しなければなりません。
それは、人生の目的でもあるからです。
人は、自らに与えられた役割を果たさなければなりませんが、それを果たすための欲求であるのです。
人は、欲求を実現することによって成長することができます。
人の所有する欲求とは、成長するための工程であるのです。
一つの欲求を実現することによって、一つの工程が実現します。
その積み重ねによって、成長が完成するのです。
すべての人は欲求を実現しなければなりませんが、多くの人はそれを焦ります。
自らの欲求を実現することに焦るあまり、それを他人に求めるのです。
多くの人は他人に求めます。
自分の思い通りに進まなければ不満を露(あらわ)にします。
他人に求めることによって、自らの欲求が実現すると考えているのです。
他人が譲歩し、協力することによって、自らの欲求が実現するというのは、安易な考えです。
他人が何をしようとも、あなたの欲求が他人によって実現することはありません。
他人が妨害しようとも、自らの力によって欲求は実現するのです。
それができないというのであれば、力不足であるに過ぎないのです。
多くの未熟者は、自らの欲求を実現するために、他人の協力を求めます。
自分の欲求が実現するように、他人に要求するのです。
多くの人は、自分では無い他人や何かを変えることによって、欲求を実現させようと考えます。
それによって欲求が実現すると信じているのです。
しかしながら、それは浅はかな考えです。
それは、人生が自分のものであって、他人のものではないからです。
他人がどのように行おうとも、あなたの人生には何の影響力もないのです。
他人は、あなたの人生の塵(ちり)の一つも動かすことができないのです。
あなたは誤解してはなりません。
理解を深めなければなりません。
浅知恵によって生きてはなりません。
他人に要求してはなりません。
他人がどのように行おうとも、あなたは実力によって欲求を実現するのです。
その程度の力もないのであれば、あなたには相応しくないのです。
その欲求が実現しないのは当然の結果であるということを受け入れましょう。
他人に求めるよりも、自らが率先しましょう。
自分がやっていないことを、他人に求めてはなりません。
そのような不義によっては、どのような欲求も実現することはないのです。
他人に頼ることによって何かを実現したとしても、それがあなたの成長でないことは明らかなのです。
他人の力による功績は、他人の成長に他なりません。
あなたが成長を実現するためには、自らの力による功績を上げなければならないのです。
他人に要求することは、他人の功績となります。
自らが行ったことが功績となるのです。
重要なのは、誰がそれを行ったのか?ということです。
あなたが自ら行わなければ、あなたが成長することはないのです。
あなたは、自らの欲求のために、他人に要求してはなりません。
他人に譲歩を迫り、その道筋を曲げてはなりません。
他人を邪魔することは、義人(ぎじん)のすることではないのです。
他人は、他人の欲求を実現する必要があります。
あなたは、あなたの欲求を実現する必要があるのです。
それぞれが自力によってそれを手にしなければなりません。
他人に協力して欲しければ、先ずは自分がそのようにしましょう。
人は、初めに受けることをしなければ、出し惜しむでしょう。
初めに受けるのであれば、出し惜しむことはないのです。
寧(むし)ろ、あなたが考えているよりも多くのものを与えてくれるでしょう。
どうしても、他人の協力が必要な時には、初めに自分が協力するのです。
そして、期待せずに待ちましょう。
人生は、あなたに相応しい状況を導きます。
あなたが相応しいのであれば、協力が得られるでしょう。
自らの欲求の実現のために、他人に要求してはなりません。

2016年5月28日土曜日

目覚め

あなたは、いつまで眠っているのですか?
あなたは眠りを好んではなりません。
眠りの誘惑に負けず、瞼(まぶた)を開き、身体を引き起こさなければなりません。
愚かな者は眠りを好みます。
その瞼が光を得てものを見ることはなく、身体は重たく地に伏せています。
眠っているのであれば、人は暗闇を見るのです。
暗闇には益が無く、地に伏す身体は痩(や)せて衰(おとろ)えるのです。
人は、眠りを好むことによって力を失います。
それは、満足を失うことに等しいのです。
眠りを好む人は、出歩くことをしません。
それは、光を得ず、発見を得ません。
光によって世界は照らし出され、見ることによってそれを知ります。
光によって照らされることもなく、それを見ることもなければ、それを理解することもできないのです。
理解することがなければ成長は無く、苦悩を受けることになるのです。
眠りを好んで幸福を得る者はいません。
眠りは苦悩をもたらすのです。
畑を持つ者があって、眠りを好んでいるのであれば益はありません。
その者が眠っている間に太陽が畑を焼き、空の鳥が啄(つい)ばみ、地の獣が根刮(ねこそ)ぎにするのです。
眠っている者の畑には、作物が育たないのです。
そこには、食べることのできない茨(いばら)が茂り、樹木が野に帰すのです。
眠っている者は、生きる糧(かて)である畑を失うのです。
あなたが眠っているのであれば、乏しさを得ます。
人生に苦悩を覚え、乏しさを感じている者の瞼は閉じています。
その者は、腹が減り、その身体が痩せ衰え、獣によって畑が荒らされ、跡形も無く野に帰ったにもかかわらず、未(いま)だに眠り続けているのです。
後に気が付いた時には、再び開墾(かいこん)する力はないのです。
愚か者は眠りを好み、畑を耕(たがや)しません。
その者は自分で畑を手に入れたのではありません。
それを先人から引き継いだに過ぎません。
それにもかかわらず、その者はそれを後人(こうじん)に引き継ぐことをしないのです。
愚かな者は何も与えません。
愚かな者は奪うのです。
眠りを好む者は、先人の財産を食い潰すでしょう。
眠りを好む者の先人も後人も、その懐(ふところ)には益がないのです。
あなたはいつまでも眠りを好んではなりません。
いつまでも眠っていてはならないのです。
多くの人は眠った状態です。
あなたはなぜ、人生に存在しているのか?を知っているのですか?
あなたは何者なのですか?
あなたが目覚めているのであれば、この問いに答えることもできるでしょう。
しかし、未だに眠りの中にあるのであれば、この問いに答えを導くことはできません。
あなたは何をしなければならないのでしょうか?
あなたは畑に何を育てるのでしょう?
そして、何を収穫するのでしょうか?
それは、どのような味をしており、あなたの骨肉と成り得るのでしょうか?
あなたは今すぐに瞼を開き、地に伏せる身体を引き起こさなければなりません。
太陽の下で畑に出向き、作物の世話をしなければなりません。
遊び呆(ほう)けてはなりません。
遊びには益がないのです。
あなたは人生という畑に何を収穫するのでしょうか?
遊びによっても、眠りによっても、作物は育ちません。
あなたは人生の管理者であるということを理解しなければなりません。
それを蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
あなた以外には、誰もあなたの畑(人生)を管理する人はいないのです。
誰も、あなたの畑に種を蒔(ま)くことはありません。
誰も、あなたの畑に水を撒(ま)き、育った作物を収穫することはありません。
そして、それをあなたの蔵に運ぶことも、それを食事として、口に運ぶこともしないのです。
あなたには多くの仕事があります。
眠りを好んではなりません。
目覚めて働きましょう。

2016年5月27日金曜日

過去の反復

多くの人は、自分の理想通りの人生を求めています。
人生が理想通りに進むことを幸福であると考え、それから逸れることを不幸だと考えています。
物事が自分の予測の範囲にとどまることを安心とし、それを超えることを恐れています。
しかしながら、人生というものを考察した時には、理想通りの展開には幸福を導く力が無いことを知るのです。
理想通りの展開とは、自分の予測の範囲内の出来事です。
自分の予測とは、過去の経験から導き出される推測(すいそく)です。
推測は経験値を超えません。
そのため、理想通りの展開を求める価値観とは、過去の反復に他ならないのです。
過去を反復するだけなら、何も変わることはありません。
それは、人に成長を導かないのです。
過去を反復するだけの人生において、人は成長することができません。
それは、人生の目的に反する行為であり、幸福を得ることはできないのです。
幸福とは霊的な満足のことです。
それは、霊を満たさなければ得られません。
肉体的な満足は、脳と五臓六腑(ごぞうろっぷ)を満たすことによって得られます。
それは、良い食事と良い運動と良い睡眠によって実現します。
肉体的な満足が人生の目的ではありません。
肉体をどれだけ満足させても、残念ながら幸福を得ることはできないのです。
霊的な満足を忘れて、肉体的な満足のみを追求しているのであれば、あなたはいつの日か、良い食事と良い運動と良い睡眠によって不幸を得るのです。
あなたは人生というものを考察しなければなりません。
浅はかに生きてはなりません。
それは、人に苦悩を導きます。
肉体的な満足のみを追求する生き方は、やがて人に苦悩を導くでしょう。
それは、”良いもの”であるはずなのに、苦悩の原因となってしまうのです。
それは、それが如何(いか)に”良いもの”であろうとも、半分に過ぎないからです。
如何に”良いもの”であろうとも、バランスを崩せば苦悩の原因となります。
多くの人は肉体的な満足を得れば良いと考えているため、苦悩が尽きないのです。
どれだけの努力を重ねようとも、それは、バランスを崩すための努力となるのです。
努力を重ねるほど、苦悩が増すのです。
人は肉体的な存在ではありません。
どうして、肉が意思を所有しているのでしょうか?
どうして、心臓が休むことなく鼓動しているのでしょうか?
人が肉体的な存在であるのならば、あなたが不満を覚えることはありません。
それは、あなたは十分に食べ、十分に動き、十分に眠っているからです。
人生を考察しなければなりません。
あなたが不満を覚え、幸福を手にしていないというのであれば、過去の方法が(人生の目的に対して)間違っていたのです。
あなたの現状は、あなたの方法によって導かれた当然の結果です。
あなたはそうは思わないかも知れませんが、人生はあなたの選択によって実現しました。
人生は、あなたの因果の証なのです。
それは、あなたの理想通りに展開したのです。
今、あなたが幸福を手にしていないのは、あなたの理想通りに進んだからなのです。
それを認めなければなりません。
あなたの自我が、あなたの思う通りに事を運んだのです。
あなたの目の前に存在しているものは、あなたの理想通りの結果です。
あなたがそれを求め、そのように選択したのです。
新しいものが無いのは、過去の反復だからです。
満足しないのは、心が歪んでいるからです。
人生は、あなたの現状を映しているのです。
すべては当然の結果です。
理想通りに進んだ結果がそれなのです。
実は、人生は理想通りに展開しています。
あなたは信じられないかも知れません。
しかし、あなたは自分の心を知らないのです。
ならば、理想がどのようなものかを知らないのです。
知ったつもりでいてはなりません。
人生を否定してはなりません。
それは、あなたに自らの現状を教えています。
理想通りに進んでいないと思っても、それを否定してはなりません。
それは、心を入れ替える機会を奪う行為だからです。

2016年5月26日木曜日

感情問題

人生とは、状態に過ぎません。
現在とは、一時(いっとき)の状態に過ぎず、それは不安定なものです。
現状が継続するということはありません。
それは、必ず変化するのです。
変化することが自然であり、変化することが有益であるのです。
しかしながら、多くの人は現状に対する変化を受け入れることをしません。
多くの場合、現状を保存しようと努めているのです。
多くの人が、現状を克服することができないと考えています。
目の前の状態を変えることができないと考えるのです。
そして、惰性(だせい)に身を委(ゆだ)ねます。
その内に、変わらないことを喜ぶようになり、幸福の掏(す)り替えが起きます。
本来ならば、変化すること、成長することに喜びを覚えるはずが、現実逃避によって、変わらないことに喜びを覚えるようになるのです。
変わらないことに喜びを覚え、一時の状態を保存することに専念し始めると、成長することができなくなります。
新たな可能性を取り入れることを否定し、停滞と荒廃が導かれるのです。
それは、人の苦悩となります。
今度は、苦悩という状態を保存するようになるのです。
状態を保存するという惰性を続けているために、苦悩という状態であっても、それを続けることになるのです。
誰にとっても苦悩の状態は好ましくないために、そこから抜け出そうとします。
しかし、普段からそのように行為していないために、すぐに力尽きてしまいます。
変化することを継続することができず、苦悩の状態に引き戻されてしまうのです。
多くの人は、自らの作り出した”蟻地獄(ウスバカゲロウの幼虫)”に落ち込んだ蟻のようなものです。
勝手に苦しんでいるのです。
人生とは、一時の状態に過ぎません。
それは、簡単に変わります。
あなたは、人生を簡単に変えることができるのです。
先ずは、思い込みを手放しましょう。
人生が変わらないなどと考えてはなりません。
あなたは、自分が次の瞬間どうなるのか?を知らないのです。
次の瞬間には、全く違う状況が目の前に広がっている可能性があるのです。
それなのに、どうして人生が変わらないと断言することができるのでしょうか?
人生は簡単に変わります。
あなたはそのことを覚えておきましょう。
人生の状態を作り出すものは心です。
それは、感情だと考えれば良いでしょう。
あなたの用いる感情が、次の瞬間の状態を決めます。
あなたは感情によって、目の前の状況を決めているのです。
人生は感情問題に過ぎないのです。
すべてのことが、感情に起源しているのです。
信じられないのであれば、自分を俯瞰(ふかん)してみましょう。
すべては、成るべくして成っていることが分かるでしょう。
誰のせいでもありません。
あなたが勝手にそうしたのです。
人生における問題は、誰かや何かによって引き起こされたように思えます。
しかしながら、それに会う人は限られています。
それに会わない人がいます。
この違いは感情に過ぎません。
それを苦しむ人は苦しみ、喜ぶ人は喜ぶのです。
物事はとても単純です。
人生とは、それだけのことです。
それだけのことを直せば良いのです。
特別な方法に頼る必要などありません。
特別な場所に出向き、特別な人に会うこともないのです。
心を静めれば良いだけです。
人生が一時の状態に過ぎないということを忘れてはなりません。
現在とは、薄い紙のようなものです。
それは、少しの風によって舞い上がり、どこかへ飛ばされてしまいます。

2016年5月25日水曜日

天性の才

あなたの理想が、あなたに豊かさを導くとは限りません。
多くの人は理想を実現させることが豊かさであると思い込んでいます。
理想が実現することが幸福であり、理想通りに進まないことを不幸であると思い込んでいます。
そのため、多くの人は自分の理想を実現することに必死です。
理想が実現しなければ、そこには苦悩が導かれ、絶望に打ち拉(ひし)がれる者もいるのです。
言っておきますが、理想と豊かさには因果関係はありません。
理想の実現があなたに豊かさを導くこともあれば、あなたに乏しさを導くこともあるのです。
理想の実現が豊かさであると誤解してはなりません。
多くの人はその誤解を信じ込んでいるために、苦悩に満ちた生涯を送ることになるのです。
理想が豊かさに直結しているのではないのだから、必ずしも理想を追い求める必要はないのです。
理想が実現しなくても、豊かさを得る人がいます。
理想が実現することによって、乏しさを得る人がいるのです。
理想の実現にこだわる必要はありません。
あなたはそのことを知っておかなければなりません。
すべての人は未熟です。
その知恵は浅いのです。
自分が何者であるのか?
人生が何であるのか?
このように重要なことを知らずに生きているのです。
すべての人が未熟であるということを知りましょう。
未熟者の理想は、未熟です。
未熟な理想がもたらすものは、矛盾なのです。
そこには苦悩が導かれます。
矛盾に満ちた人生が、あなたに豊かさを導き、それによってあなたが幸福を覚えることができるのでしょうか?
残念ながら、そのような結果を得ることはできません。
未熟者の行く末は、未熟な状況なのです。
それは、成るべくして成ったのです。
当然の結果以外を受け取ることはできないのです。
”奇跡”など起きません。
すべてが必要な因果関係の内に存在していることなのです。
あなたが豊かさを得るためには、豊かさを導く原因を所有する必要があります。
人が豊かさを得るためには、貢献する必要があります。
理想を実現したとしても、誰かや何かに対して貢献することがなければ、豊かさを得ることはできません。
自分勝手に生きる者が、どうして豊かさを得るでしょうか?
貢献するためには、成果を上げなければなりません。
それがどのような成果でも良いのです。
何かしらの実績を導くことが求められているのです。
何かしらの成果は、その人の貢献です。
それが豊かさを導くのです。
人生が理想通りに進む必要はありません。
しかし、人生において、誰かや何かに貢献する必要はあります。
理想通りに進まなくても、貢献していれば良いのです。
あなたは理想ではなく、最も成果の上がることを大切にしましょう。
あなたの中で、最も貢献することができるものを育むのです。
得意なことは、天性の才であるのです。
誰にも、得意なことはあります。
他人と比較する必要はありません。
自分の得意なことで良いのです。
それがあなたの力です。
それがあなたに豊かさを導くのです。
理想を掲げていても、それが貢献しないのであれば、あなたに豊かさを導くことはありません。
人は、得意なことを探求しなければなりません。
それがどのようなことでも良いのです。
あなたの得意なことが、あなたを幸福にするのです。
理想は必ず変わります。
現在の理想が固着(こちゃく)することはありません。
明日には、理想は変わっているかも知れません。
あなたの理想とは、その程度のものなのです。
そのため、理想の実現に執着する必要はありません。
最も得意とすることによって貢献し、豊かさを実現しましょう。

2016年5月24日火曜日

思考停止

決め付けは、人生を乏しいものとします。
決め付けを所有している者の受けるものは、そのすべてが乏しいのです。
決め付ける者が、豊かさを得ることはありません。
それは、決め付けによって”良いもの”得られないからです。
決め付けは、打ち止めを意味します。
それは、物事に終わりを与えるのです。
決め付けは、それ以上の発展を許しません。
決め付けは、命を奪う行為であるのです。
作物を収穫する時には、それが良く茂ってからにしなければなりません。
若い作物には益がありません。
それは、あなたに乏しさをもたらすのです。
多くの人は決め付けによって、若い作物を根刮(ねこそ)ぎにします。
もう少し待てば、何倍もの益をもたらすにもかかわらず、決め付けがそれを許しません。
自分で決め付けているため、後の可能性を受け入れないのです。
決め付けは、可能性を奪う行為であるのです。
多くの人は自らの決め付けに従って行為します。
それは、その人の可能性を奪います。
乏しさを得る者が、どうして豊かさを得るのでしょうか?
畑の作物を若い時に根刮ぎにしているため、思い直して出向いても、そこには何も無いのです。
決め付けに従わない者は多くの益を得ます。
そのような者の畑には、多くの作物があり、それ等はたわわに茂っているのです。
自分自身には信じられないことは、より良いものです。
作物を待てば、それは花を咲かせます。
花は種をもたらすのです。
あなたはその種を来年まで取って置き、春に撒(ま)けば良いのです。
決め付ける者の懐(ふところ)には、来年の種が無いのです。
あなたは何事においても、決め付けてはなりません。
結論を所有してはならないのです。
あなたの考え付くことなど、何も知らないに等しいのです。
どうして、あなたが何かを知っていると言えるのでしょうか?
あなたは何も知らないのです。
何も知らないあなたが、どうして決め付けることができるのでしょう?
人は、常に探求しなければなりません。
人が知っていることなど、何も無いのです。
知っていると思い込んでいる者ほど、何も知らないのです。
どうして、あなたの結論が正しいと証明することができるのでしょうか?
あなたは、自分の人生を顧(かえり)みなければなりません。
あなたの結論は、後に覆されます。
それが正しいように見えるのは、一時(いっとき)のことなのです。
決め付けによって思考を止めてはなりません。
心臓が鼓動しなければ、肉体は死を得ます。
思考が働かなければ、精神は死を得るのです。
あなたの肉体が、常に新鮮な空気を求めるように、あなたの精神は、常に新鮮な思考を求めています。
決め付けによって、新鮮な思考を離れてはなりません。
それは、簡単にあなたを殺すのです。
呼吸を止めれば、肉体が簡単に死ぬように、思考の停止によって、簡単に精神は死ぬのです。
あなたは、思考が止まらないように注意しましょう。
常に新鮮な発想を生み出すのです。
それは、違う視点によって導かれる結果です。
物事を同じ視点によって見てはなりません。
常に違う視点を探すのです。
その時、あなたは人生が豊かになることを実感するでしょう。
人生を決めるのは自分自身です。
あなたが決め付けなければ、それだけで人生は豊かさを得るのです。
信じられないことを否定してはなりません。
それは、今のあなたのレベルでは、理解することができないだけだからです。

2016年5月23日月曜日

問題の原因

すべての人は問題を抱えます。
すべての人は、何かしらの問題によって苦悩を得るのです。
問題に関わらない人は存在しません。
それは、すべての問題が自らの内から生じているからです。
すべての問題は、その人に原因があるのです。
誰かや何かによって、その問題が導かれるのではありません。
あなたの受ける問題は、あなたであるために受けます。
あなたの受ける苦悩は、あなたであるために受けるのです。
あなたの問題や苦悩を、他の誰かが受けることはありません。
それは、その人に原因が存在しないからです。
それがどのような問題や苦悩であろうとも、それは、あなたに関わることであるのです。
そのため、人が問題と苦悩を解決するためには、自らの内にその原因を探さなければならないのです。
内に原因を探すことなく、外ばかりを探しているのであれば、見当違いによって、問題や苦悩を更に肥大させてしまうのです。
何度も繰り返しますが、問題と苦悩の原因を外に探してはなりません。
誰かや何かは、あなたの問題と苦悩には関わりがないのです。
それを問題とし、苦悩としているのは、他でもないあなたなのです。
状況は、誰にとっても同じものです。
例えば、誰にでも同じ人生が与えられています。
それを豊かなものにするのか?
それとも、乏しいものにするのか?は、自分で決めることであるのです。
生まれた環境や立場、そして、身体的特徴などの生まれ持ったものは関係ありません。
人生というものは、誰にでも平等に与えられているのです。
どのような状況を所有していようとも、それをどのように受けるのか?を決めることができるのです。
人生をどのようなものにするか?
あなたはそれを自分で決めているのです。
あなたの決定が、原因となるのです。
目の前に問題が生じ、苦悩が導かれるのであれば、あなたがそれを問題とし、苦悩としたのです。
初めから問題や苦悩が存在する訳ではありません。
それが初めから問題や苦悩であるというのであれば、なぜ、それを喜ぶ人がいるのでしょう?
初めから問題や苦悩であれば、誰もが同じように問題を抱え、苦悩するはずなのです。
しかしながら、そのようなことにはならないのです。
それは、目の前の”それ”が何か?を決めるのが、その人であるということの証明となるのです。
それを問題とし、苦悩とする考えがあるのです。
原因は、自分の中に存在しているのです。
本質を見極めるのであれば、それは問題ではなく目的に、苦悩ではなく喜びに変わるのです。
多くの場合、子どもは物事の意味(本質)を理解しません。
それは、経験が不足しているためです。
そのため、目先のことを考えて、将来を無視するのです。
多くの場合、大人は物事の意味を理解します。
それは、十分な経験を積んだからです。
そのため、将来を考え、目先のことを無視するのです。
問題とは、偽りの結果です。
偽りを用いれば、すべてが問題となるのです。
人が問題を抱えているということは、その原因である偽りを抱えているということなのです。
それは、真理を偽るものです。
真であれば、それが問題となることはないのです。
問題を解決するためには、偽りを手放さなければなりません。
間違ったやり方であっては、問題が解決することなど有り得ないのです。
間違ったやり方によって、問題は大きなものとなるのです。
正しい方法によって行わなければならないのです。
あなたは偽りを解消するために、知識を集めなければなりません。
そして、多くの経験を重ねましょう。
知識と経験によって知恵が生じます。
知恵が問題と苦悩を生じさせることはないのです。
偽りを捨てて、真を得ましょう。
問題と苦悩を離れて生きましょう。
あなたには、問題と苦悩に手間取っている暇はないのです。
あなたには、他にやるべきことがあるのです。


2016年5月22日日曜日

生死

人は、人生において多くの生死を体験します。
物事は生じ、そして滅びるのです。
それは、すべての事柄に当てはまるのです。
すべての事柄が、生死を所有しています。
人が新たな経験をする時、そこには生死が存在しています。
新たな経験をする時に、古い状態は死に、新たな状態が生じるのです。
その繰り返しが人生なのです。
人は死ななければなりません。
そして、新たに生まれなければならないのです。
それを繰り返すことによって、人は成長することができるのです。
蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように。
芋虫が蝶に変わるように、古い状態に死を与え、新たな状態に生を与えなければならないのです。
生まれ変わることは、重要なことです。
生まれ変わりを経験しなければ、何の発展も得られないのです。
多くの生死を経験している者と、その経験が浅い者では、成長の段階に違いが生じるのです。
多くの生死を経験している者の方が成長しているのです。
人は、多くの生死を経験することによって悟りを得ます。
幼子が悟ることができないのは、生死を必要な数だけ経験していないからです。
人が悟りを得るためには、それに必要な数を生まれ変わらなければならないのです。
物事が生じ、物事が滅び、また、物事が生じる。
このプロセスを多く得なければなりません。
それが”気付き”を得させ、悟りを導くのです。
物事が生じたままであってはなりません。
また、それが滅びたままであってもなりません。
物事は、生まれ変わることに価値があるのです。
あなたには、生まれ変わりの機会が与えられています。
あなたは、自分でいつ生じ、いつ滅びるのか?を決めることができます。
生まれ変わりは、あなたの意志によっていつでも可能なのです。
あなたは毎日生まれ変わらなければなりません。
そのために、毎日滅びなければなりません。
多くの人は生き長らえることを益としています。
長らえることが目的であると思い込んでいるのです。
しかしながら、愚かな生を続けたところで、何の成長も実現しません。
愚かな生は、人に気付きを得させず、悟りを遠ざけるのです。
愚かな生とは、生き長らえることにあります。
それは、活力を失わせます。
命に活力を得させるためには、生まれ変わらなければならないのです。
愚かな生を滅ぼし、新たに始めなければなりません。
あなたは意図的に滅ぼし、意図的に生を得させましょう。
当てもなく、生き長らえてはなりません。
あなたは古い価値観、考え方、生き方を滅ぼしましょう。
既成概念(きせいがいねん)に捕らわれてはなりません。
あなたは眠り落ちるように、毎日、価値観、考え方、生き方を滅ぼさなければなりません。
そして、毎日、目覚めるようにそれ等に生を与えるのです。
昨日までのあなたを、今日に生かすことはやめましょう。
あなたは毎日、新たな”あなた”でなければならないのです。
あなたは毎日、新たな価値観、考え方、生き方を改めましょう。
次の日には、新たな”あなた”を実現しましょう。
あなたは毎日生まれ変わらなければなりません。
古い自分に執着していれば、そこには虚しい延命が導かれるだけなのです。
未熟な自分の執着しているのだから、未熟さが延命されるだけなのです。
古い自分に執着しても、良いことなどないのです。
生死は当然の結果です。
生も死も、どちらも大切な役割を担っています。
しかし、多くの人は生を好み、死を嫌います。
そのような詰まらない見解に頼ってはなりません。
生死は共にあるのです。
あなたは毎日自分を滅ぼしましょう。
そして、毎日生まれ変わりましょう。
その数だけ、あなたは成長しているでしょう。

2016年5月21日土曜日

人生において重要なことは、価値を生み出していくということです。
この世界におけるすべての存在は、価値を生み出し続けています。
自然界に目を向ければ、そのことを理解することができるでしょう。
自然界におけるどのような存在も、価値を生み出すこと以外には行ってはいないのです。
未熟な見解がそれを理解しないだけです。
自然は、完全な調和を示しているのです。
無駄に思えることは、人にとって、あなたにとって無駄に思えることに過ぎません。
どのような些細(ささい)なことであっても、そこには重要な価値があるということを覚えておきましょう。
人は、自分勝手な見解によって、物事に優劣を付けます。
偏見によって、善悪を決めているのです。
そのため、調和は分断されることになります。
調和が分断されてしまえば、豊かさも分断されてしまいます。
人の世を見れば分かることですが、調和が分断されてしまっているために、豊かさも分断されています。
恩恵に与(あずか)る者は限られます。
大半の人間は虐(しいた)げられているのです。
それは、調和とは程遠い状態です。
それは、価値を生み出すことをしないからです。
人の世には嫌悪が蔓延(はびこ)っています。
それは、否定を生み、争いに発展します。
争いによって調和は分断され、豊かさは限定されました。
しかしながら、限定された豊かさというものは存在しません。
すべての調和によって初めて、豊かさという状態が導かれるからです。
限定された豊かさとは、偽りものであるのです。
それは、長くは続きません。
あなたは嫌悪を捨てなければなりません。
すべては必要であって存在しているのです。
それがどのようなものであろうとも、重要な役割を与えられているのです。
人は、嫌悪を価値に変えていかなければなりません。
例えば、昆虫を嫌う人がいます。
しかしながら、それは価値を生み出すのです。
鶏は昆虫を好みます。
昆虫によって、鶏は”強い”卵を産むのです。
その人における嫌悪の対象である昆虫は、鶏を介(かい)して、卵という価値を導いたのです。
その人が卵を食すのであれば、それは間接的に昆虫を食しているということなのです。
昆虫に価値が無いと言えるでしょうか?
すべての存在は価値を生み出しているのです。
あなたはどんな価値を生み出すのでしょうか?
あなたは心の中に”鶏”を飼わなければなりません。
嫌悪の対象を憎んではなりません。
それは、価値のある卵の原因であるからです。
多くの人は簡単に嫌悪の対象を否定します。
しかしながら、それでは栄養価(価値)の高い卵を得ることはできないのです。
”すべては一つ”なのです。
無駄なものなど一つもありません。
すべてが何かしらの価値を生み出す、大切な存在です。
人生において苦しく感じることはあるでしょうが、それが無意味であったり、無価値であるということはありません。
そのような無駄は存在しないのです。
苦しいことも、価値に変えなければなりません。
あなたは考え方を変えなければなりません。
捉え方を変えるのです。
直接的に昆虫(嫌悪)を食する必要はありません。
鶏(考え方、捉え方)を介して食すれば良いのです。
苦しいことをそのままの状態で受け取ってはなりません。
苦しいことにも必要な意味があり、それは価値のあるものだと理解するのです。
そうすれば、あなたは昆虫を見付けると踏み潰すのではなく、鶏に食べさせるでしょう。
そして、後に卵を得るのです。
熟考しなければなりません。
知恵の無い人生を歩んではなりません。
嫌悪を価値へと変えましょう。

2016年5月20日金曜日

真の仕事

人は、自分の仕事を果たさなければなりません。
人には、それぞれに仕事が与えられています。
その仕事は、その人の能力を最大限に引き出すことのできる作業です。
その仕事によって、人は活躍することができるのです。
どのような人も仕事をしなければなりません。
多くの人の場合、仕事とは生きるための手段です。
それは生命を維持するための働きです。
生き長らえるために仕事をするのです。
それが自分の能力を抑制する作業であろうとも、従事しています。
多くの人は、仕事に対して嫌悪感を抱えています。
嫌悪感を抱きながら、それでも仕事を続けるのです。
嫌悪感を抱いたままで働けば、肉体と精神は力を抑制されます。
ネガティブな感情は、すべてを抑制する力を持っているのです。
ネガティブな感情が悪いということではありません。
要(よう)は使い方なのです。
豊かさを求める時には、ネガティブな感情を用いることは不利に働きます。
何かに対して、乏しさ(抑制)を求める時に用いるべきなのです。
人は自分の仕事を果たさなければなりません。
それは、生まれた目的です。
仕事を果たすためには、仕事に対して力不足ではならないのです。
力が足りなければ、仕事を果たすことはできないのです。
力を得るためには、ポジティブな感情が必要です。
向き合うことがなければ、力を得ることができないからです。
人は、心に従って行います。
肉体も精神も、心の状態(感情)に左右されるのです。
ネガティブな感情は、すべてを抑制します。
肉体の働き(脳、筋力、体力など)も、精神の働き(精神力、集中力、想像力など)も抑制するのです。
仕事を果たすためには、実力以上の力を発揮する必要があるのです。
成果を上げるためには、常に最高のパフォーマンスを発揮しなければならないのです。
手を抜いては、仕事を果たすことはできないのです。
あなたは常に最高のパフォーマンスが求められています。
そのために、肉体と精神を最高の状態に保っておく必要があるのです。
あなたはポジティブな感情を得なければなりません。
そのためには、”好きなこと”を仕事にしなければなりません。
嫌悪感によって仕事に向き合うのであれば、最高のパフォーマンスを発揮することはできないのです。
人は、楽しい時間を過ごさなければなりません。
それが問題であろうとも、楽しく乗り越える必要があるのです。
何を選択するにしても、”好きなこと”でなければ長続きしません。
嫌悪感を抱えながらも長続きはするでしょうが、成果には大きな違いが生じるのです。
”好きなこと”があなたに与えらえた真の仕事です。
好きでもないことを長続きさせるのであれば、真の仕事を果たすことができないのです。
時間は何物にも代え難い財産です。
人生において、時間よりも高価なものは存在しないでしょう。
好きでもないことを続けるのは、時間の無駄遣いであるのです。
既存の価値観に捕らわれてはなりません。
生きるための合理的な思考は、あなたの真の仕事を否定するのです。
生きるための合理的な思考は、”好きなこと”を否定します。
”好きなこと”では稼ぎが少ない。
”好きなこと”では認められない。
”好きなこと”では苦労する。
”好きなこと”では恥ずかしい。
本当にそうでしょうか?
何を仕事にしても豊かに生きる者はいます。
何を仕事にしても乏しく生きる者はいるのです。
仕事には、あなたを左右する力はありません。
あなたの進退(しんたい)は、あなた自身が決めているのです。
”好きなこと”は何ですか?

2016年5月19日木曜日

人生の説明書

成長とは、理解を深めることです。
理解を深めることによって、成長は実現します。
より深い理解を得ることが成長の証なのです。
人は理解を深めなければなりません。
理解することによって、すべての問題は解決します。
すべての苦悩も、理解によって解決するのです。
理解が及ばなければ、どのような問題も苦悩も解決することはないのです。
理解を深めることによって、その問題や苦悩の構造を知ることができます。
どのような問題も苦悩も、物事が問題や苦悩となるように組み上げられているに過ぎません。
言うなれば、物事の組み間違えによって、それが問題や苦悩となっているだけなのです。
正しく組み上げることによって、問題や苦悩は解決するのです。
物事を正しく組み上げるためには、その構造を理解する必要があります。
構造を理解している者であれば、それを組み間違えて、問題や苦悩とすることはないのです。
同じことをしても、それを喜ぶ者と苦しむ者に分かれます。
同じ方法によって行っても、結果は違うのです。
それは、個人的な違いに他なりません。
理解が深いか?浅いか?の差でしかないのです。
理解の深い者は、喜びの結果を得るでしょう。
理解の浅い者は、苦しみの結果を得るのです。
何かを組み上げる時、理解の深い者は正しく組み上げることができます。
そこには、安全と安心、そして、豊かさが導かれるのです。
しかしながら、理解の浅い者は正しく組み上げることができません。
そこには、危険と不安、そして、乏しさが導かれるのです。
安全と安心、そして、豊かさのためには、間違った組み上げ方をしてはならないのです。
豊かさと乏しさは紙一重です。
それは、簡単に傾くのです。
一つの部品の組み方が違うだけで、結果は大きく異なります。
そのため、人は理解を深める必要があるのです。
誰よりも理解しなければなりません。
あなたは知識を集めなければなりません。
知識を集め、知性を育まなければなりません。
知性は豊かさへの鍵です。
知性によって、豊かさは戸口を開くのです。
人は、知性に従って理解します。
同じ言語を用いても、知性によって理解力は区々(まちまち)です。
同じ言語であっても、子どもと大人では違う結果を得ることになるのです。
知性の高い者は、理解を深めるでしょう。
人生におけるすべての状況は”神”の言語です。
”神”はすべての状況に”言葉”を込めているのです。
それは、深い場所に潜在する本質です。
目の前の状況の本質を見極めるためには、”神”の言葉を理解する知性が必要です。
知性に乏しい者は、この言葉を解読することはできません。
”神”の言葉である本質は、ある程度の知性を有する者にしか読み解くことができないようになっているのです。
知性に乏しい者が苦悩するのは当然の結果です。
”神”の言葉通りに組み上げれば良いだけのものを、それに逆らって組み上げるからです。
説明書に従って組み上げれば良いのです。
しかしながら、多くの人は説明書に記されているにもかかわらず、正しく組み上げることができないのです。
それは、説明書に記されている言語を読み解くことができないからです。
知性が足りないのです。
人生を豊かなものにするためには、知性を育むだけで良いのです。
そうすれば、あなたの知性に合わせて、それに相応しい状況が導かれるからです。
それを経験することによって、あなたはより成長することができるのです。
何度も経験することによって、人は理解を深めることができます。
理解を深めるためには、何度も挑戦する必要があるのです。
あなたは諦めずに挑み続けなければなりません。
そうして、理解を深め、成長を実現しましょう。

2016年5月18日水曜日

世の法と天の法

人は、主人に仕えなければなりません。
すべての人が主人に仕えます。
この世界において、主人に仕えない者は存在しません。
すべての人が下僕(げぼく)であるということを理解しなければなりません。
人は誰もが、誰かや何かを主人に迎えます。
世の権力者であろうとも、主人に仕える下僕であるのです。
すべての人が下僕です。
下僕は主人ではありません。
しかしながら、多くの人は自分が下僕であるということを忘れています。
自分が仕える下僕であるということを忘れ、主人であると思い込んでいるのです。
それは思い上がりであって、下僕(人)に苦しみを与えます。
下僕が逆らえば、主人はその行いに従って懲(こ)らしめを与えるでしょう。
下僕が思い上がれば、それに相応しい苦悩を受けることになるのです。
人生において苦悩を得る者は、自分が主人であると思い上がり、真を忘れている愚か者に過ぎないのです。
人が幸福を得るためには、真を思い出し、自分が主人に仕える下僕であるということを知らなければならないのです。
しかしながら、人はすべてを”世の法”に従って判断します。
主人と下僕を上下関係であると思い込むのです。
そのため、下僕と聞けば哀(あわ)れな気分に陥(おちい)り、主人となるものを排斥(はいせき)しようとするのです。
世の法に従えば、主人と下僕は上下関係となるために、そのように考えるのは無理もないことなのです。
しかしながら、主人と下僕を上下関係とする考えは、主人と下僕のどちらに対しても争いの感情を引き起こす原因となるのです。
優劣を決める方法であっては、幸福は実現しないのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、”世の法”に従ってはなりません。
あなたが幸福を求めているのであれば、”天の法”に従わなければならないのです。
”天の法”とは、真理のことです。
それは物事の本質であり、あるべき姿です。
世の法に従えば、あなたは苦悩を得ます。
天の法に従えば、あなたは幸福を得るのです。
世の法と天の法は別のものです。
例えば、世の法である常識は、人に財産を得ることを求めています。
世の法は、人に優位を勧(すす)めているのです。
世の法に従う者は、自分を高く上げ、優位を得ようと争うのです。
他人よりも優位に立つことによって、人は財産を得ることができるのです。
世の法は、それによって人を満足させようとするのです。
しかしながら、どれだけの財産を得ようとも、人が満足することはありません。
使い切れないほどの財産を所有したところで、人は幸福にはなれないのです。
寧(むし)ろ、多くの財産を得ることによって、多くの煩(わずら)いを受けるでしょう。
天の法は、人に必要を必要な分だけ与えます。
天の法は必要を満たすだけなのです。
それは、多く持ち過ぎることを防ぎます。
それは、少なく持つことを防ぐのです。
必要が必要な分だけ与えられることによって、煩いを避けることができます。
腹が空いていないのに、多くの食物を飲み込まなければならないのは煩いです。
満ち足りているのに、それ以上に求めるのは煩いであるのです。
世の法はそれを勧めますが、天の法はそれを勧めません。
必要を満たしていれば良いのです。
必要以上に所有すれば、他に負荷が掛かるのです。
満腹に飲み込めば、腹が痛むようにです。
あなたは二人の主人に仕えることはできません。
世の法か、天の法のどちらかに仕えるのです。
(ただし、これは状況の度に選択することができます)
どちらの主人を選んでも構いません。
その選択はあなたに任されているのです。
世の法と天の法では、異なった方法によって、異なった結果を受けるようになります。
どちらの主人に仕えるかはあなた次第であるため、人生がどのようなものになったとしても、それはあなたの責任なのです。
決して、誰かや何かの責任ではないのです。
あなたには多くの無知が蔓延(はびこ)っています。
先ずは、自分が下僕に過ぎないことを知りましょう。

2016年5月17日火曜日

丁寧な仕事

あなたは、結果を残さなければなりません。
結果とは変化のことです。
どのような変化でも構いません。
しかし、それを実現しなければならないのです。
すべての人は結果を求めています。
どのような人も変化を求めているのです。
変化にはそれぞれの価値観が反映されますが、すべての人がより良い変化を求めているのです。
しかしながら、変化を実現することができる人は多くはありません。
多くの人は、本質的な変化を実現することができないままに時を浪費しているのです。
多くの人は変哲もない人生を生きることになるのです。
それが悪いということではありません。
しかし、それは退屈を生じ、やがては苦悩を導くということを覚えておかなければならないのです。
退屈な人生に満足を得ることはできません。
そのような人生において、人は常に乾いているでしょう。
苦悩を生きることは、人生を乏しくさせます。
そのような人が幸福を得ることはできません。
人は変化を実現しなければなりません。
誰であろうとも、変化を以て幸福を得ることができるということを知らなければなりません。
変化を実現するには、”一発逆転”を狙ってはなりません。
”奇跡”は起きません。
奇跡的に状況が逆転し、本質的な変化が起きることなど有り得ないのです。
変化とは、不確定なものではありません。
それは、確実な過程を経ることによって実現するものなのです。
例えば、ある日突然、大金が転がり込んできたとしても、本質が変わることはありません。
大金によって、あなたの隠し(され)ている本質は顕著(けんちょ)となり、大金に翻弄(ほんろう)されることよって人生は崩壊します。
突如(とつじょ)として大金を手にしても、同じように破滅するのです。
そのような変化は、本質的な変化であるとは言えません。
そのようなことは、変化ですらないのです。
”奇跡”的に何等かの変化が生じても、本質的な変化には至らないのです。
変化とは、自分自身の力によって作り出すものです。
変化とは、一つ一つの過程(原因)の積み重ねです。
それ以外には変化は生じません。
一つ一つのことを理解していくことによって、あなた自身が変化するのです。
それによって、状況や環境などの人生が変わるのです。
人生の原因である自分自身が変化しなければ、結果である人生は変化しないのです。
結果を残すためには、変化が必要です。
功績を残すためには、良い変化が必要なのです。
良い変化とは、一つ一つの過程をより良いものとして積み重ねることによって実現します。
過程をより良いものとして積み重ねるためには、過程において前向きな気持ちが必要です。
一つ一つの部品が精密なものであるほど、全体はより良い働きをするのです。
部品が精密であることは、粗悪であることよりも良い結果を導くのです。
多くの人は一つ一つを積み重ねることの重要性を理解してはいません。
”より楽な方法があるだろう”と追求し続けるのです。
苦労を取り除くことは大切ですが、質を落としてはなりません。
一つ一つの積み重ねを蔑(ないがし)ろにして部品を省けば、どのような結果が導かれるか?想像しなければなりません。
すべての部品が組み込まれていても、それが粗悪品であっても同じです。
”奇跡”など起きないのです。
結果を導くのは、丁寧な仕事です。
”神”があなたに結果を導くのではありません。
あなたの行為があなたの受け取るべき結果を決定しているのです。
ただ、それだけのことです。
懸命に丁寧な仕事を続ける者には、それに相応しい報いが訪れます。
楽をして、いい加減な仕事を続ける者には、それに相応しい報いが訪れるのです。
すべては当然の結果です。
現状を見れば、あなたの仕事がどのようなものであったのか?を知ることができます。
強いては、あなたの人生観、生き方、思考まで知ることができるのです。
結果から逆算すれば良いだけです。
あなたは丁寧な仕事によって、功績を残しましょう。
一つ一つの丁寧な仕事の積み重ねの重要性を忘れてはなりません。

2016年5月16日月曜日

勇者と卑怯者

あなたは、卑怯(ひきょう)な生き方を選択してはなりません。
あなたは勇敢(ゆうかん)に生きなければならないのです。
勇敢に生きなければ、人生の目的を果たすことができないのです。
人生の目的とは、自らの汚れを取り除くことです。
汚れとは、弱さのことです。
弱さは、人に卑怯な生き方を選ばせます。
それは、苦悩を導くのです。
人は、弱さによって恐れます。
恐怖は、弱さによって生じるのです。
弱さを抱える者は恐れます。
恐る者は、卑怯な生き方を選択するのです。
恐る者は結果を求めます。
恐る者は、結果によって虚(むな)しい安心を得るのです。
人生において、理想の結果を得ることは目的ではありません。
理想の結果を得たからといって、それによって満たされるということはないのです。
理想の結果を得ることがなくても、汚れを取り除くことができれば、それによって満たされるのです。
理想の結果を得なくても、満足する者がいます。
理想の結果を得ても、満足しない者がいます。
(ここでいう満足とは、諦めから来るものではありません)
あなたの求めるのは、どちらの者でしょう?
理想の結果を導くことは、人生の目的ではありません。
それに拘(こだわ)る必要はありません。
誰もが、理想の結果を求めていますが、それが得られることはありません。
それが人生なのです。
人生は、あなたに理想の結果を求めてはいません。
理想の結果を求めているのであれば、あなたはそれを受け取ることができるからです。
しかしながら、そのようにはなりません。
人生は、あなたに別の目的のために生きて欲しいと思っているのです。
それが、弱さの克服であり、汚れの浄化であるのです。
勇敢に生きる者を求めているのです。
卑怯者の間には、偽りと争いが生じます。
それは、苦しみです。
勇者の間には、真と思いやりが生じます。
それは、喜びです。
多くの人は恐れています。
多くの人はそのために理想の結果を求めます。
多くの人はそのために偽り、争っているのです。
世の中を見なさい。
そうすれば、どれだけの偽りと争いが存在しているのかを知ることができるでしょう。
それだけ、人は恐れ、弱さを抱えているということなのです。
大切なのは、勇敢であることです。
大切なのは、どのように生きたのか?ということです。
何を所有したのか?
何を人よりも多く得たのか?
という虚しいことではありません。
この世のものを多く得たからといって、何の益(えき)があるのでしょうか?
それは、虚しいだけです。
真の目的を実現することなく、偽りの目的をどれだけ実現しても、あなたは満たされないのです。
卑怯な生き方は虚しさを増すだけです。
恐怖に対して、勇敢でありましょう。
恐怖に負けて、卑怯な選択をしてはなりません。
人は、誇(ほこ)り高く生きなければなりません。
あなたは自らの姿(生き方)を見ましょう。
虚しい一生を過ごしてはなりません。
勇敢に立ち向かいましょう。
理想の結果など、得る必要はないのです。
勇敢に生きた証を遺しましょう。

2016年5月15日日曜日

飽き足りること

あなたは、魂の汚れである人格を取り除かなければなりません。
人格は、人に苦悩を導きます。
それは、人格が苦悩の原因であるからです。
人は、人格という自我を明け渡し、比我(ひが)に生きる必要があります。
人生はあなたのものですが、世界はあなたのものではありません。
あなたは人生に学び、世界を向上させなければならないのです。
自分勝手に生きることは、人の目的ではありません。
それは、人格を増すことになり、あなたに苦悩を導きます。
人格はあなたに自分勝手な行為を導くのです。
それを頼りにしてはなりません。
あなたは、自分勝手に生きるために存在しているのではないのです。
あなたは、人格である自我を取り除き、世界に貢献するため、世界をより良い場所にするために存在しているのです。
あなたは自我を手放さなければなりません。
しかしながら、自我を手放すことは、自我を否定することではありません。
自我を手放すためには、自我を認めなければならないのです。
それは、自我を解放するという表現の方が相応しいでしょう。
自我を解放するには、それを受け入れる必要があります。
自我とは、感情に過ぎません。
感情が強固になった状態が人格なのです。
感情は認められること、受け入れられることによって解消します。
怒りであろうと、悲しみであろうとも、それを認め、受け入れることが許されたのであれば、解消するのです。
あなたを愛する人の前では、怒りも悲しみも消え去るでしょう。
そして、あなたは愛する人に尽くすでしょう。
あなたがあなたを愛する人に対してそうするように、あなたの中の人格を解消するためには、それを愛する必要があるのです。
否定することは争うことであり、争いによって、物事は強く結び付きます。
愛することは解くことです。
それは、愛することが与えることであるからです。
愛が豊かであるほど、物事は解け離れるのです。
そこには、信頼と安心が存在しているからです。
愛に乏しければ、恐怖と疑心が存在するのです。
人は恐怖と疑心によって与えることも、それを手放すこともできなくなり、執着と所有が導かれるのです。
愛情に乏しい人ほど、人格を手放すことができません。
愛情に乏しいために、多くを欲しているのです。
それは、愛情に乏しい人を自分勝手な行為に駆(か)り立てます。
重要なのは認めること、許すことなのです。
あなたは欲求に従いましょう。
自我に対して、気が済むまで与えるのです。
満たされることによって、気が済みます。
満たされているものが、それ以上を求めることはありません。
否定して奪うのであれば、より不足することになり、却(かえ)って長引くことになるのです。
これは、甘やかすということではありません。
愛情によって満足させ、指導を与えるということなのです。
満たされていなければ、決して何かを受け入れることはありません。
満たされていないのであれば、満たされていないと叫び続けるからです。
欲している者は欲するのです。
欲している者が聞き入れるという施(ほどこ)しをすることはないのです。
腹が減っているのであれば、腹一杯食わせれば良いのです。
腹が張って苦しめば、それを悩むことになるからです。
一度で理解しなければ、二度三度と苦しんで悩めば良いのです。
それを繰り返すことによって、腹が減っているという問題に躓(つまず)くことはなくなるでしょう。
あなたは欲求が途切れるまで求め続けます。
それは、苦しみ続けるということです。
あなたは苦しみ続けなければなりません。
自我があるほど、苦しまなければなりません。
それを避けることはできません。
それを避ける必要はありません。
人生は人格という魂の汚れを取り除く場所です。
誰も、その目的を否定することはできないのです。
あなたは満足しましょう。
満足しても飽きるまで与え続けるのです。
飽きれば止めます。
飽き足りることによって、問題を解決しましょう。

2016年5月14日土曜日

水やり

あなたは、思い付いたことを素早く行動に移さなければなりません。
素早く行動しなければ、その思い付きは滅びてしまうからです。
畑に種を蒔いたのであれば、素早く水をやらなければなりません。
発芽したのであれば、素早く水をやらなければなりません。
愚図(ぐず)愚図としているのであれば、畑には作物が育ちません。
あなたは素早く行動しなければならないのです。
あなたが何をするべきなのかは、あなたの心が教えてくれます。
あなたは、自らの心に従って行えば良いのです。
それは、あなたにとっての最善であるのです。
心は、あなたに最善を導きます。
あなたは、それを思い付きという形で受け取ることができます。
それは、心による種蒔きです。
心は、あなたの人生という畑に種を蒔いたのです。
それを管理するのがあなたの仕事なのです。
あなたは近くの川へ出向き、畑にやる水を運ばなければなりません。
愚図愚図としているのであれば、夏の内に食物を得ることはできないのです。
多くの人は愚図愚図としており、心に従うことをしません。
様々な言い訳をして、行動することをしないのです。
それは、多くの人が現状を欲しているからです。
変化を恐れているのです。
変化するには苦労しなければなりません。
それを嫌うのです。
畑仕事(人生)は簡単ではありません。
しかし、人は畑を管理しなければなりません。
そうしなければ、作物が得られず、命を得ることもできないからです。
思い付きは、あなたの命であるのです。
多くの人は思い付きを実現することをしません。
多くの思い付きは、発芽することなく、空の鳥に啄(つい)ばまれるのです。
それは、愚図愚図としたからです。
あなたは、人生において、どれだけの思い付きを実現するでしょう?
その数だけ、あなたは喜ぶでしょう。
それは、畑が豊かな作物で満たされるからです。
それは、あなたの命を強くするのです。
あなたは思い付きを素早く行動に移さなければなりません。
しかし、計画も無しに行動すれば、思い付きは破綻します。
計画も行動の内です。
思い付きを得たのであれば、あなたは素早く計画を練るのです。
想像力と経験によって、あなたは素晴らしいアイデアを導き出すことができます。
素早く計画を練れば、計画を練る時間を多く得られるのです。
愚図愚図としているのであれば、常に時間を失います。
季節があなたを待つことはありません。
すぐに夏は過ぎ去り、すぐに冬が来るのです。
冬の畑に作物を求めても、あなたは何も得ることができません。
作物は、夏の間に集めなければならないのです。
あなたには十分な時間が与えられていますが、愚図愚図としているのであれば足りないのです。
あなたは時間を無駄にしてはなりません。
どのようなことでも構わないのです。
思い付いたことが、あなたの収穫すべき作物です。
あなたの畑には、あなたの収穫すべき作物が育つのです。
あなたはそれを豊かに育まなければなりません。
誰に何を言われようとも、誰も何も言わなくても、あなたは素早く畑に水をやりましょう。
思い付きは、あなたに豊かさを導く唯一の方法です。
それを蔑(ないがし)ろにするのであれば、あなたが豊かさを得ることはできないのです。
あなたは、あなたの畑の作物によって命を得ます。
他人の畑は、他人の命なのです。
そのことを忘れてはなりません。
あなたは素早く行動しましょう。

2016年5月13日金曜日

思い掛けない形の報い

あなたは、自分の行為によって道を進みましょう。
すべての人は人生という道を進んでいます。
それは、学びの道であり、成長によってのみ進むことができるのです。
精神的な成長、心の成長、霊的に成長によって人は道を進むことができるのです。
それ等の成長がなければ、人が道を進むことはできません。
どれだけの歳月を生きても、精神、心、霊などの意識の成長がなければ、人生という道を進むことはできないのです。
人は、意識を成長させなければなりません。
意識の成長は、正しく生きることによって実現します。
正しく生きるというのは、思いやりを以て生きるということです。
思いやりという愛に従って生きることによって、人は成長することができるのです。
思いやりを見失った者の意識が成長することはありません。
思いやりとは、成長への扉を開く鍵のようなものだからです。
それを無くしては先へ進むことができないのです。
多くの人は思いやりを見失っています。
誰かや何かに対して、思いやりを見失っているのです。
何かに対して不満を抱くことは、思いやりに欠ける行為です。
否定や拒絶は、思いやりとはなりません。
しかしながら、多くの人は自らの受ける状況に対してそれを行うのです。
すべてが必要であり、自らに相応しい学びであるにもかかわらず、それを受け入れはしません。
思いやりに従うのであれば、それを受け入れることができるのです。
受け入れることによって学ぶことができるでしょう。
学ぶことによって成長は実現するのです。
思いやりを見失っている者には、それを学び、そこから成長することはできないのです。
学ぶことがないのに、どうやって成長するというのでしょうか?
学ぶこともないのに、成長することはできません。
あなたが成長を欲しているのであれば、学ばなければなりません。
学ぶためには、受け入れる必要があるのです。
そのためには、思いやりが必要なのです。
思いやりに従う者は、物事を建設的に運びます。
それは、その者に豊かさを導くのです。
思いやりに背く者は、物事を破滅的に運びます。
それは、その者に乏しさを導くのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
人は、自らの行為である原因に相応しい結果を、状況を通じて受けるのです。
どのような結果を得ようとも、それはあなたの行為がもたらした当然の結果です。
あなたに関係の無い状況が与えられることはありません。
すべては、あなたに相応しいのです。
結果は、思い掛け無い形で導かれます。
思いやりに背く者が木に登って果実に手を伸ばす時、葉の裏には百足(むかで)が潜み、指先に毒針を差し込むでしょう。
そのような場所に百足が潜んでいるとは思いもしないので、警戒は無駄に終わったのです。
しかし、思いやりに従う者が果実に手を伸ばしても、葉の裏の百足が毒針を向けることはありません。
思いやりに従う者は葉の裏の百足に気が付き、難を避けるでしょう。
両者の違いは思いやりだけです。
思いやりに従って生きているか?
それに背いて生きているか?の違いでしかないのです。
あなたは、人生に対して、すべての状況に対して、思いやりを見失ってはなりません。
すべては必要であって、あなたに相応しいのです。
無駄なものは何一つとしてありません。
自らにとって必要な状況に対して、思いやりを以て受け取るのは当然のことなのです。
あなたは人生に対して、思いやりを見失ってはなりません。
それがどのような状況であろうとも、あなたに相応しいのです。
あなたは自分に何が相応しく、何が相応しく無いのかを知っているのですか?
知らないのであれば、文句を吐くのをやめましょう。
思いやりを以て受けなければ、人生は先へは進みません。
あなたは自分の行為によって、自分を救いましょう。
神仏に頼んでも、あなたの人生が進むことなどありはしないのです。

2016年5月12日木曜日

義人

人は、義によって生きなければなりません。
義とは人の歩むべき道です。
それは義理であり、それは思いやりなのです。
思いやりによって、人は豊かさを得ることができるのです。
何事に関しても、思いやりを以て行えば、そこには豊かさが導かれるのです。
しかし、思いやりに欠ける行為は、そこに乏しさを導くのです。
人は、義によって生きなければなりません。
あなたは、義を離れてはなりません。
多くの人は簡単に義を離れてしまいます。
それは、短絡的な思考によって行動しているからです。
多くの人は目先のことのみを考えています。
物事を考察することがなく、其(そ)の場凌(ばしの)ぎの方法を用います。
それは、快楽に溺れる傾向にあるからです。
そのような行為は、無知によって引き起こされる愚行です。
多くの人は無知を生きていますが、短絡的に生きているのが現状です。
快楽に溺れるのであれば、義に尽くす必要もありません。
その時が良ければそれで満足するのです。
そのような人は義を持たない”獣”に過ぎません。
”獣”とは、野生動物のことではありません。
彼等は、秩序の中に生きている賢者であるのです。
”獣”とは、人が人であるための義を持たない愚者のことをいうのです。
義を尽くさない者は”獣”です。
それは、秩序を保ちません。
秩序が保たれない世界には、混乱が導かれます。
義人の住む世界には混乱は生じません。
それは、互いが思いやりによって繋がっているからです。
それぞれが、己の快楽を優先する”獣”の世界においては、混乱が蔓延(はびこ)るのです。
そこには豊かさがないのです。
互いが己の快楽を優先し、奪い合う世界に、どうして豊かさが存在するというのでしょう?
そこには、必然的に乏しさが導かれるのです。
互いが義によって結び付き、思いやりの溢れる世界でなければ、豊かさは導かれないのです。
与え合う世界でなければ、豊かさを得ることはできないのです。
義人によって、世界は豊かさを得るでしょう。
しかし、”獣”によっては乏しさを得るのです。
義人の数が増えることがなければ、世界に豊かさを導くことはできないのです。
あなたが義人と成らなければ、人生に豊かさは実現しません。
奪い合っている間は、乏しさが絡み付くのです。
義を尽くす時に初めて、人は与えられるのです。
義を尽くすまでは、人は奪われるということを覚えておきましょう。
義によって得た富は、あなたを満たすでしょう。
しかし、義に背いて得た富は、あなたを苦しめるのです。
義によって得た富は、あなたのものです。
誰も、それを疑いません。
しかし、義に背いて得た富は、あなたのものにはなりません。
誰も、それを認めはしないのです。
働いて得た富はあなたのものですが、盗んで得た富はあなたのものではないのです。
尊(とうと)い労働とは、思いやりによって導かれます。
義を尽くして働くのであれば、あなたは義によって報酬を受けることができるのです。
不当に取り立てることは、義に反しています。
与えられないものを取ってはならないのです。
あなたは義を尽くし、与えられる富によって満足しましょう。
義を尽くしもしないのに、報酬を求めてはなりません。
不当な富は、あなたを殺すということを覚えておかなければなりません。
乏しさと共に死にたくなければ、義を生きましょう。
あなたは義を尽くすことによって、豊かさと共に生きましょう。

2016年5月11日水曜日

商売の成功

あなたは、人生の目的について考え続けなければなりません。
人生の根源的な目的についてです。
あなたは何のために生まれ、何のために死ぬのでしょうか?
人生という限られた時間は、あなたに何をもたらすのでしょうか?
あなたは何を築き、何を遺(のこ)すのでしょうか?
あなたは何を与え、何を得るのでしょうか?
人生には目的があります。
それは人ぞれぞれに段階の違いはありますが、根源的な目的には違いはありません。
すべての存在が目的を以て人生に存在しているのです。
個人的な目的は、根源的な目的ではありません。
多くの人は、個人的な目的を人生の目的であると思い込んでいます。
それは、決して悪いことではありません。
例えば、豊かに暮らすことを目的としている人がいます。
多くの人は、多くの財産を得ることが人生の目的であると思っています。
そのため、人生における成功とは、社会的な成功である、財産、地位、名誉・・・
これ等の”飾り”に収まります。
人生を様々な装飾品によって飾り付けることによって、人生の目的を果たした気でいるのです。
もしくは、子孫繁栄、愛する人と添い遂げる、多彩な人間関係・・・
このような肉体的、精神的欲求の成功である”飾り”に収まるのです。
商売の成功は、人生の成功であるとする価値観が蔓延(はびこ)っています。
商売を成功させることによって、満ち足りると思い込んでいます。
そのため、多くの人は商売を成功させる方法に対しては死力を尽くします。
それによって、財産も地位も名誉も、子孫繁栄も愛する人と添い遂げることも、多彩な人間関係も実現するでしょう。
しかしながら、それが実現したからといって、人生の根源的な目的に対する答えは満たされないのです。
それ等を手に入れた人なら、世の中にたくさんいます。
しかし、その人達は人生の根源的な目的と向き合わなければなりませんでした。
人生の根源的な目的が何であるのか?ということが分からない内は、苦悩は続くのです。
問いは簡単です。
”人生とは何か?”
ただそれだけなのです。
この問いに答えを導くことができれば良いのです。
この問いに答えを導くことができるのであれば、商売の成功は必要ではありません。
財産も地位も名誉も、子孫繁栄も愛する人と添い遂げることも、多彩な人間関係も必要ではないのです。
多くの人は本質を知りません。
本質を知らないために、彼是(あれこれ)と迷うのです。
本質を知らないために、多くの経験を必要とし、多くのものを集めなければならないのです。
本質を知るために多くの財産を集め、本質を知るために高い地位を求めます。
本質を知るために大きな名誉を欲し、本質を知るために多くの子孫を生み出します。
本質を知るために他人を愛し、本質を知るために様々な人と関係を結ばなければならないのです。
すべては学びのために導かれる状況です。
人は、学びによって状況を得るのです。
あなたが手にする状況は、不足によって手にするのです。
多くの財産を必要とする人は、多くの財産がなければ学ぶことができないのです。
少ない財産によって満足する人は、少ない財産によって学ぶことができるのです。
そこには学びの段階があるのです。
すべての商売は、”安い物を高く売る”だけのことです。
商売の成功とは、”安い物を高く売る”ことに成功しただけに過ぎません。
それによって、どうして人生の根源的な目的を理解することができるのでしょうか?
あなたが商売に成功した人であるのならば、次は人生について考えてみましょう。
あなたが生活に困窮(こんきゅう)していなければ、人生について考えなければなりません。
戯(たわむ)れに時を過ごしている場合ではありません。
人生を無駄にしてはならないのです。
多少の財産という”飾り”を得たくらいで、知った気になってはなりません。
”飾り”は簡単に剥(は)がされてしまうのです。
あなたから”飾り”を取り除くことなど簡単なのです。
一瞬の内に、あなたはすべてを失うでしょう。
あなたは、剥がされることのない財産である悟りによって、人生の根源的な目的を探しましょう。

2016年5月10日火曜日

小さな靴

人は、人生において成長しなければなりません。
人生におけるあなたの目的は、成長することにあるのです。
あなたが幸福や豊かさを求めているのは、成長することが根本的な欲求としてあるからです。
成長することがなければ、幸福や豊かさは実現しません。
多くの人は現状維持によって幸福や豊かさが実現すると思い込んでいます。
それは、愚かな誤解なのです。
現状維持は問題を生じ、苦悩を導く以外の手段ではないからです。
成長するということは、向上するということ。
成長するということは、前進するということ。
成長するということは、拡大するということです。
そのままの状態でいるのであれば、状況や環境や他人の変化に対応することができません。
陽の当らない植物が枯れてしまうように、成長によって希望を見出さない者は乏しさ(破滅)を得るのです。
向上し、前進し、拡大することによって、あなたは希望の光を受けなければなりません。
それ以外には、幸福や豊かさを得る方法がないということを覚えておかなければなりません。
あなたが成長するということは、変化を実現するということです。
あなたは成長することによって変わります。
それは、これまでのあなたではありません。
あなたは成長によって、新たな状態を得るのです。
自分が変化することによって、状況や環境や他人(人間関係)も変化します。
すべては、自分に相応しい状態へと変化するのです。
あなたが成長すれば、これまでの状況や環境や他人と共に存在することはできません。
それは、あなたが向上し、前進し、拡大したからです。
これまでの状況や環境や他人とは接点を失うのです。
多くの人はそれを悲しみます。
しかし、それが正しい結果であるということを、あなたは知らなければなりません。
これまでの状況、環境、他人を手放すことができない者は、成長を諦めなければなりません。
それは、人生における幸福や豊かさを諦めなければならないということです。
これまで通り、苦悩と乏しさの中に存在していれば良いでしょう。
無理をして変わる必要はありません。
成長と衰退。
幸福と苦悩。
豊かさと乏しさ。
希望と絶望。
可能性と限界。
未知と既知(きち)。
感動と無関心。
変化と荒廃。
好きな方を選べば良いのです。
人生は強制ではありません。
どのような人生にするかは、あなたに任されているのです。
現状(過去)を捨てられない者は、未来を生きることはできません。
多くの人は自分が狭い世界の中に存在しているということを知りません。
”お山の大将”として面目(めんぼく)を保ちたいのです。
そこには、小さなプライドがあるのです。
そこには愚かさが横たわっています。
それは、小さな山です。
しかし、それを大切に思っているのです。
幼い頃に与えられた靴(くつ)を履き続けることはできません。
それは、足が大きく育ったからです。
成長を拒む愚かな者は、小さくなってしまった靴を履いて歩こうとする道化です。
小さな靴を履こうとして座り込みます。
無理に履いても、歩く度に苦痛が襲うのです。
多くの人はこのように生きているのです。
小さな靴は手放しましょう。
愛着があることは知っています。
しかし、それはあなたの苦悩の原因となるのです。
あなたが本気で幸福と豊かさを求めているのであれば、これまでの人生を捨てましょう。

2016年5月9日月曜日

暢気な生活

あなたは何のために人生を経験しているのですか?
あなたは暢気(のんき)に生活するために人生に存在しているのでしょうか?
安心の中に暮らし、決まり切った日常を繰り返し、誰かが決めた価値観の中に命を終えるのでしょうか?
それは本当に幸福なのでしょうか?
あなたは変哲もない人生に我慢することができるのでしょうか?
人生には刺激が必要です。
あなたは苦しまなければなりません。
あなたは迷わなければなりません。
あなたは悩まなければなりません。
あなたは絶望しなければなりません。
人生は、ただ死を待つ場所ではありません。
自分勝手に決めた幸せを噛み締めながら生存を続ける場所でもないのです。
あなたはそこで経験を重ねなければなりません。
それも、今までに経験したことのない、未知の経験を重ねる必要があるのです。
多くの人は恐れています。
恐れは、人を安心の中に押し留めます。
嵐の日には、人は外出しないのが”普通”です。
身を守るためにはそれで良いのです。
しかし、人生において身を守るあまり、部屋の中に閉じ籠(こも)っているのであれば、新たな経験を得ることができないのです。
新たな経験を得ることができなければ、人が成長を実現することはできないのです。
人生の目的は成長です。
成長するためには、知らないことを知る必要があります。
できなかったことができる必要があり、考え付かなかったことを考え付かなければならないのです。
人生を切り開き、可能性を見ることが人生の目的であるのです。
そのため、本来ならば、あなたは常に新たなことを始め、経験したことのない経験を自らに与え、その刺激によって成長する必要があるのです。
既存の価値観の中に生きるのであれば、人生の可能性を見ることはできません。
同じ思考による同じことの繰り返しは、何も変わらないのです。
そのため、人生に暢気に生活することを求めている人には、何の変哲もない人生が与えられるのです。
苦しみもなければ、迷いもなく。
悩みもなければ絶望もない。
このような刺激のない詰まらない人生に、何の価値があるというのでしょうか?
あなたは、繰り返していくだけの人生に対して、本当に満足することができるのでしょうか?
苦しみの中にいる時には、変哲もない人生に憧れを抱くでしょうが、そこには退屈という名の苦悩が待ち構えているのです。
刺激を受けている時の苦悩は、問題とはなりません。
それは、刺激によって成長することができるので、その苦悩はやがて解決するからです。
しかし、退屈によって受ける苦悩には救いようがないないのです。
それは、成長を止めている状態であるからです。
成長を止めている状態では、事態を脱する術がありません。
それは、水の中にあって、泳ぐのをやめるようなものです。
泳ぐことをやめれば、身体は忽(たちま)ち水に飲まれてしまうのです。
経験するということは、人生という川を泳ぐようなものです。
新たな経験とは、新たな動作となります。
手足を動かさなければ、人は簡単に溺(おぼ)れてしまうのです。
あなたは人生に暢気な生活をするために生まれたのではありません。
安心の中に閉じ籠って、変哲もない人生を生き長らえるためでもありません。
あなたは経験するために生まれたのです。
人生は実験場のようなものです。
そこには成功も失敗もありません。
あるのは、経験を重ねたという事実だけです。
どのような結果を得ても構いません。
それが必要な経験だからです。
あなたはそのために生まれたのです。
実験なのだから、気負わずに素早く行いましょう。
とにかく経験する必要があるのです。
恐れを抱き、経験を先延ばしにしてはなりません。
思い付いたことの計画をすぐに練り、できる限り素早く行動に移しましょう。
行動は早い方が良いのです。
あなたは、自分が何のために人生に存在しているのかを考えましょう。

2016年5月8日日曜日

”神”の言葉

人生におけるすべての問題は、理解不足に起源しています。
理解不足が問題を引き起こしているのです。
それ以外の原因によって、問題が生じることはありません。
なぜなら、理解していれば、それは問題とはならないからです。
人生とは、理解を深めるための場所です。
人は様々なことを知らなければなりません。
知識を得ることによって、目の前のそれが何であるのかを知るのです。
目の前のそれを知る理由は、”神”の言葉を理解するためです。
あなたは何のために人生に存在しているのでしょうか?
そもそも、あなたは何者なのでしょうか?
この問いに答えを出さずに、どうして満足することができるのでしょう?
自分が何者であり、何をしているのかも分からない者が、どうして幸福なのでしょうか?
残念ながら、多くの人は何も知らずに幸福を覚えています。
幸福であると自分勝手に思い込んでいるのです。
しかしながら、それは虚像に過ぎません。
人生や自分が何者であるのかすら知らない者が、どうして幸福が何であるのかを知っているのでしょう?
決して理解してはいないのです。
すべての人は幸福を求めています。
しかしながら、それが何であるのかを知りません。
幸福が何であるのかを知らないにもかかわらず、それを探そうとはしません。
目の前の虚像、漸(ようや)く手に入れた歪んだ快楽をそれと思い込みたいのです。
それは、現実逃避なのです。
目の前の虚像を幸福であると思い込むことによって、人は考えることをやめます。
それは、可能性の放棄となり、人はそれ以上のものを手にすることができないのです。
多くの人は自分が納得する何かを手に入れた途端に、それを守ろうと努めるようになります。
それが古くなり、使い物にならなくなっても、それを守り続けるのです。
しかし、それは使い物にならない廃品です。
それを大事に抱えていたとしても、残念ながら幸福を得ることはできないのです。
状況は常に移り変わります。
それは、一瞬も止まることをしません。
状況の変化の蓄積が時代を築きます。
そのため、時代も変化し続けているのです。
時代遅れの考えは、豊かさをもたらしません。
そのため、人は死を与えられ、全体の若返りが求められているのです。
古い人は去らなければなりません。
それは、理解に乏しいからです。
理解に乏しいために、古いのです。
老人であっても、新しい人はいます。
常に理解を深めることに努め、知恵を育む人は豊かに生きているのです。
それは、煩(わずら)わしい問題に引き摺(ず)られることがないからです。
理解を深めることに努めず、戯(たわむ)れを好む者は、無知によって更なる問題を抱えることになるでしょう。
理解に乏しい者には、それがなぜ問題となるのかを理解することができないのです。
知恵のある者にとって、それをわざわざ問題に発展させる必要はないのです。
その選択の違いがあるだけであって、運命や幸運などといった”不確定”なものに原因がある訳ではないのです。
人は、人生を自分の力によって獲得しています。
その問題はあなたが受け取る必要があるのであって、他人が受け取る必要はないのです。
自分だけが苦悩していると勘違いしてはなりません。
すべての人が、その無知に相応しい問題に会うのです。
あなたは勉強しなければなりません。
努力しない者はそれまでです。
理解が不足しているのであれば、決して問題は解決しません。
どこで、誰(に)と、何をして(もらって)も、決して問題は解決しないのです。
最後は自分の力でやるのです。
”神”の言葉を聞けば良いだけです。
それは、状況の中にあって、あなたに語り続けています。
すべての状況が”神”の言葉であるということを理解しましょう。
理解を深め続けなければなりません。
死ぬまで勉強をやめてはなりません。

2016年5月7日土曜日

普通のこと

人は、人生において、自らの汚れを取り除く作業をしています。
人生とは、人格を磨くための場所なのです。
すべての人は人格を磨かなければなりません。
それは、人格を増すことではなく、磨いて取り除くことであるのです。
人格とは、魂に生じた錆(さび)のようなものです。
それを磨くことによって取り除けば、魂の輝きを放つことができるのです。
人格を磨くことなく、そのままの状態で放置していれば、人格は増し、魂の輝きが失われます。
それは、人の心の暗雲となり、人生は暗闇となるのです。
多くの問題を抱え、多くの苦しみを受ける人は、魂の輝きが損なわれた暗闇に生きているのです。
問題を解決し、苦しみを制するためには、魂の輝きを引き出す必要があります。
魂の輝きを引き出すことができれば、問題も苦しみも取り去られるのです。
あなたが問題と苦しみを解決したいと考えているのであれば、人格を磨き、魂の輝きを引き出すことに集中しなければなりません。
それ以外の方法によって、問題や苦しみが解決することはないのです。
どれだけの財産を得て、何不自由無い暮らしをしても、あなたの問題と苦しみが取り去られることはないのです。
その時には、財産を得たことによって、何不自由無い暮らしによって、問題と苦しみが生じるのです。
何事においても、抜本的な解決をしなければなりません。
そのためには、原因を断つ必要があるのです。
人生における問題と苦しみの原因は人格にあるのです。
多くの人はそれを磨き、取り除くことをしません。
問題と苦しみの原因は他にあると考え、自分を省みることをしないのです。
することと言えば、他人に対する批判や、状況や環境に対して文句を吐くことくらいです。
言い訳をして自分の主張を正当化し、卑怯(ひきょう)に生きているのです。
多くの人には無知から生じる誤解があります。
”人のふり見て我がふり直せ”ということなのです。
多くの人は自分が正しいと思い込んでいます。
しかし、そこには何の根拠もありません。
客観的な考察も、論理的な解釈もないのです。
ただ、そう思い込んでいるだけです。
そう思い込ませているのは人格です。
人格とは、魂の錆である汚れです。
それは、歪みを所有しています。
歪みを所有しているものの口からは、歪んだ言葉が発せられます。
人格の言うことは、歪んでいるのです。
しかしながら、多くの人はそれを自分であると思い込んでいるために、人格の言うことは正しいと思い込みます。
その結果、自分が正しいと思い込んでしまうのです。
残念ながら、あなたの主張は正しいものではありません。
それは、あなたの思想が人格から生じているからです。
あなたは未熟です。
多くの汚れと歪みを所有しているのです。
あなたは常に自らを磨き続けなければならないということを覚えておきましょう。
磨くことをやめれば、錆はすぐに広がります。
努力を続けなければなりません。
あなたの口からネガティブな言葉が出るのであれば、それは錆が出ていると考えましょう。
あなたは自らの言動を観察し、それを磨かなければなりません。
ネガティブな言動が出ることは悪いことではありません。
しかし、それは汚れである錆であるため、取り除く必要があるのです。
ネガティブな言動に苦しむ必要はありません。
それを理解して、変えれば良いのです。
あなたは、人生において、自らの汚れを取り除く作業をしています。
そのことを覚えておけば、苦しむこともないでしょう。
思考を切り替えることによって、受ける結果は変わるのです。
人格を磨く作業をしていると考えれば、問題が苦しみを導くこともないのです。
輝きを増すのだから、喜びを得ることになるのです。
誤解してはなりません。
人生は問題が生じるのが普通です。
そして、それに向き合うことが喜びであるのも、普通なのです。

2016年5月6日金曜日

すべては美しい

”神”は、すべてを美しく作りました。
この世の一つとして、不要なものはありません。
どのような形にも意味があり、どのような色にも意図があるのです。
それ等はその時になって完全に調和し、美しさは極まります。
美的感覚とは、人の価値観に依存しています。
価値観によって、人の見る美の形は変わります。
それは、人それぞれの美の相違を生み出すのです。
”神”は、世界をより美しくするために、それぞれの色と形を分けたのです。
様々な種類の花が咲き乱れることによって、美しさが極まるようにです。
一種類では極まりません。
それも美しく見えますが、極まることはないのです。
世界は多様な状態で構いません。
それぞれの色と形で良いのです。
それがどのような色や形であろうとも、”神”の創作です。
それが醜(みにく)いはずはありません。
不要であるはずがないのです。
あなたは必要とされています。
あなたは美しいのです。
しかし、輝きを放つためには、時と場所を必要としています。
”神”はすべてを美しく創作しましたが、人はそれを歪めています。
自我という汚れが、”神”の意図に反するのです。
どのように美しい存在も、それを汚し、歪めてしまえば美しさを損ないます。
この世界においては、本質が隠されているのです。
表面を覆うものは、汚れや歪みです。
人はそれを取り除かなければなりません。
”神”はすべてを美しく作りましたが、それを破滅させることも許したのです。
それが、汚れや歪みです。
汚れや歪みは自然と生じます。
何もしなくても、それ等は生じるのです。
美しさを保つためには、汚れと取り除き、歪みを直さなければなりません。
美しく輝かせるためには、管理が重要になるのです。
美しさとは必要です。
美しいものが必要とされます。
汚れや歪みを生じたものは必要とはされません。
あなたは、汚れや歪みを取り除かなければなりません。
常に美しさを求め、磨き続けなければならないのです。
それは、何に対しても同じです。
自分自身に対しても、他人に対しても、状況や環境に対しても、人生に対してもです。
”神”はすべてを美しく作りましたが、その管理をあなたに任せているのです。
あなたは、そのことを忘れてはなりません。
人生の目的は成長することにありますが、成長の条件として美しさは必須です。
例えば、心が整い、美しく無い者は成長することはできないのです。
美しくある時、それは成長することができるのです。
その心に汚れや歪みを生じた人がいても、それを美しく整えるのであれば、成長することができるのです。
しかし、汚れや歪みを放置している人には成長は実現しないのです。
あなたは”神”の意思を知らなければなりません。
”神”は何を求めているのでしょうか?
何のための人生であり、何のための自分なのでしょうか?
それは重要なことです。
あなたは思慮深くありましょう。
すべての本質は美しいのです。
晴れの時は晴れを楽しみ、雨の日は雨を楽しみ、風の日は風を楽しみ、曇りの時は曇りを楽しみましょう。
本質を理解すれば、あなたは汚れや歪みを取り除くことができます。
それは、苦しみを退けるのです。
すべての本質が美しいことを理解すれば、あなたが苦しむことはなくなるでしょう。

2016年5月5日木曜日

人生を変える方法

あなたはとにかく学ばなければなりません。
人生とは学びです。
学びを得ることによって成長することが目的であるのです。
それ以外にはありません。
学びとは様々な経験によって導かれます。
学びの種類は多岐(たき)に渡りますが、学びから成長することは同じです。
どのような経験からでも、人は学ばなければなりません。
人は経験によって人生の理(ことわり)を学んでいます。
すべての経験は、真理を得るための機会です。
すべての経験の中には、真理が存在しているのです。
栗の果肉を味わうためには、殻斗(かくと)を取り除き、堅果(けんか)の果皮(かひ)を剥(は)がなければなりません。
栗の果肉を味わうためには、(調理を含めて)多くの苦労を必要とします。
殻斗のままでは食することはできません。
堅果のままでもなりません。
これと同じように、学びには多くの層が存在しているのです。
その本質を得るためには、壁となる層を取り除き、深みを得る必要があるのです。
物事を真正直に認識することは、学びを得ることにはなりません。
それは寧(むし)ろ、学びを歪めてしまうのです。
本質である真理は、決して表層には現れません。
どのような経験であっても、真理は隠されているのです。
経験をそのままの状態で受け取ることは、殻斗のままの栗を飲み込むようなものです。
それが如何(いか)に愚かな行為であるのかを、あなたは理解することができるでしょう。
誰も、栗を殻斗のまま飲み込みはしません。
そんなことをすれば、苦しみ悶(もだ)えることを知っているからです。
しかし、経験に対してはそのようには考えません。
思考が停止しているのです。
有りの儘(まま)とは、あなたの認める幻想です。
それは、決して真実ではありません。
素直に認識するということは、目の前の状況に対して未熟な見解を押し付けることに過ぎないのです。
残念ながら、人の見解は未熟です。
未熟な人の認識は、必ず未熟なものなのです。
素直に認識してはなりません。
それは、真理ではありません。
それは、人の傲慢(ごうまん)に過ぎないのです。
あなたは勝手に喜んだり、苦しんだりしているに過ぎないのです。
それは、真理が導く結果とは違うものなのです。
あなたの受け取る状況は、あなたの導く結果に過ぎません。
人生は学びであり、すべては必要であり、大切なものです。
しかし、そこに善悪を導いているのは、他ならないあなた自身なのです。
あなたが勝手にそうしているだけなのです。
真理に気付き、成長することができれば、あなたが受け取る結果は違うものになるのです。
しかし、真理を得たとしても、それだけでは成長することはできません。
熱意の無い者には、何も変えることができないのです。
あなたが真理を得たのであれば、それを人生に反映しなければなりません。
あなたは何事に対しても、より良い方法を見付けるはずです。
それは、あなたの人生を豊かにさせる材料です。
しかし、多くの人はそれを人生に反映させることはありません。
そこには諦めがあるからです。
目の前の状況、人生、自分は変わることがないと諦めているのです。
そのような者の状況、人生、自分が変わることはありません。
自分が信じていないのだから、当然の結果なのです。
あなたが人生を豊かなものにしたいと考えているのであれば、すべてが変わることを信じなければなりません。
それは、自分の力によって変わるのです。
あなたはとにかく学ばなければなりません。
少しでも、深く思考しなければなりません。
表層ではなく、深層を得るのです。
真理に気付き、それを人生に反映させましょう。
行動しなければなりません。
懸命に生きましょう。

2016年5月4日水曜日

雇用主と雇用者

人は、人生において自らの抱える汚れを解消することを求めています。
人の本質は魂です。
それは、肉体でもなければ、人格でもないのです。
人生の仕掛人は魂であるのです。
肉体や人格は、それに従っているに過ぎません。
簡単に言えば、魂という雇用主と、肉体や人格などの雇用者とに分かれるのです。
経営は、雇用主である魂が決めます。
肉体や人格などの雇用者は、その意図を汲(く)み取り、より良い仕事に努めなければなりません。
魂の雇用主としての手腕が試されていますが、肉体や人格などの雇用者の協力がなければ、経営は成り立ちません。
魂の訴えを退ける肉体や人格であっては、経営は苦しくなるのです。
あなたは、人生が経営のようなものであると知りましょう。
大抵の人は経済の中に人生を築いています。
大抵の人が雇用主であり、雇用者です。
そのため、この例えを想像することは可能でしょう。
雇用主と雇用者の間には、大きな隔たりが存在するのが普通です。
雇用主と雇用者の間には、目的の違いがあるのです。
価値観の違いが、目的の違いを生みます。
魂は、自らの抱える汚れを取り除くことを目的としています。
肉体や人格はそれを守ることを目的としているのです。
どちらかが正しく、どちらかが間違っているということではありません。
それぞれに正しいのです。
しかしながら、それぞれの主張はそれぞれの結果を生みます。
魂に従えば、汚れを取り除く結果を得ます。
それは、多くの問題との対峙であり、苦悩を受ける道です。
肉体や人格に従えば、汚れを増す結果を得ます。
それは、多くの問題との対峙であり、苦悩を受ける道です。
どちらに従っても、過程は同じです。
しかし、魂に従うことは豊かさへと繋がり、肉体や人格に従うことは乏しさへと繋がるのです。
魂は厳しい要求を所有しています。
肉体や人格は優しい要求を所有しているのです。
魂に従うことは厳しく、肉体や人格に従うのは優しいのです。
しかし、受ける結果はその逆となります。
経済の世界において、経営を豊かにするのは簡単なことではありません。
経営に携わるすべての人が、聡明(そうめい)であり、懸命でなければなりません。
雇用主であろうと、雇用者であろうとも、誰もが努めなければならないのです。
怠惰(たいだ)で厚かましく、思慮に欠ける者たちであっては、経営は成り立ちません。
それは、遠くに見える嵐が、すぐに到達するようなものです。
遠くに見える嵐でも、愚者に対しては何の準備も許しません。
備えを怠っている者には、嵐は脅威となるのです。
しかし、備えを整えている者には、嵐は益(えき)となるのです。
あなたが現在、”自分”だと思っているものは肉体や人格です。
あなたは雇用者の立場によって、人生に存在しているのです。
多くの場合、雇用主は厳しさを求め、雇用者は楽を求めます。
多くの場合、雇用者は楽をして多くを求めているのです。
多くの報酬を得るためには、多くの働きが必要なのです。
雇用主はそのことを知っています。
そのために、厳しさへと向かうのです。
雇用者であるあなたは、肉体や人格の欲求に従い、人生には楽を求めています。
人格とは魂の汚れであり、肉体とはそれから生じた歪みです。
そのため、魂の目的と、肉体や人格の目的とは違うのが普通なのです。
雇用主は雇用者のようには考えられません。
雇用者も雇用主のようには考えることができないのです。
それは、立場によって思想(価値観)が違っているからです。
あなたは、両者に従うことはできません。
どちらに従うべきなのかを考える必要があるでしょう。
(これは、同時に従うことができないという意味であり、時と場合によって切り替えることができる。選択は自由である)
人生の目的を見失ってはなりません。
人生の目的を見失うことがなければ、あなたは最善の選択を実現することができるでしょう。

2016年5月3日火曜日

生きるべき道

あなたは、自分の道を探さなければなりません。
人にはそれぞれに、自分の生きるべき道があるのです。
それを無視してはなりません。
すべての人には役割が与えられています。
その役割を果たすためには、自分の道を生きる必要があるのです。
あなたにはあなただけの道があり、他人には他人だけの道があります。
しかしながら、多くの人は自分の生きるべき道を探し続けることをしません。
それは、自分専用の道があるということを知らないからです。
ある程度の道筋(生存するのに困らない生き方(安定した仕事や愛する家族など))が見えた時に、探すことをやめるのです。
それは、思考の停止を意味しています。
人は常に探し続けなければなりません。
そうでなければ、人生は展開を離れてしまうからです。
自分の生きる道が見付かったと考えてその道を精進しても、新たに探求することを放棄するのであれば成長はありません。
自分自身が成長することがなければ、人生が展開することもありません。
人生が展開しないのであれば、自分が生きる道だと信じていたものが、あなたを生かすことがなくなります。
それは、却(かえ)ってあなたを殺す道となるのです。
人生に展開が訪れなければ、あなたは死人も同然です。
ただ、事務的作業をこなしていく日々に対して、あなたは生きている実感を得ることができるのでしょうか?
繰り返しの毎日であるのならば、あなたは真の幸福を得ることはできないのです。
繰り返しの毎日を行う者が得るものとは、退屈と憂鬱(ゆううつ)であり、うだつの上がらない人生を遺すことになるでしょう。
それで構わない者は、思考を停止させ、自分の生きるべき道を探すことをやめれば良いでしょう。
それに耐えられない者は思考を巡らし、自分の生きるべき道とは何か?ということを探し続けなければなりません。
人は新たに経験することによって成長することができます。
成長とは、魂の汚れである人格を取り除き、価値観を真理に近付けることです。
真理に近付いた価値観は、より崇高なものに対して価値を見出すことができます。
例えば、自己中心的な思考から、他人を思いやる思考へと移行します。
価値観とは、人の成長段階に比例しているのです。
成長するほどに、人は個(自我)から離れて、全体(非我)に向かうのです。
思考が停止している者は、価値観の成長も停止します。
歳を取ると強情になるのはそのためです。
多くの老人は、生きる道への探求をやめ、既に思考が停止しているためにそれ以上変わることができないのです。
若い者であっても、生きる道を探求することなく、思考を停止させて悪戯(いたずら)に時間を費やしているのであれば、年老いた愚者のように詰まらない意地を張るようになるのです。
そのような者の人生には展開がありません。
いつまで経っても同じような問題を抱え、いつまで経っても同じような楽しみを喜んでいるのです。
価値観の変化と共に問題も喜びも、そのすべてが変わるのが自然です。
価値観に変化を得ない人(成長することのない人)は、いつまでも同じようなことを繰り返さなければならないのです。
例えば、どれだけ歳を重ねても死ぬのが怖いという”幼稚な”問題に苦悩しなければならないのです。
そんなものが、あなたの生きるべき道なのでしょうか?
人は死に場所を探さなければなりません。
それは人が、生まれた時から死ぬことが決まっているからです。
人生において大切なことは、どう死ぬか?ということであるのです。
最高の死のために、人は生きる道を探求するのです。
最高の死を得るためには、最高の生を得なければならないのです。
最高の死を得るために、あなたは最高の生を探しましょう。
それは、あなたの生きるべき道です。
それは、あなた専用の道なのです。
自分の生きるべき道を探求することが、人に安らかな死を与えるのです。
あなたは何のために生きているのですか?
深く探し続ける者にしか答えることができない問いです。
何のために生きているのか?を知らずに、そこで得られるものがどうしてあなたに幸福をもたらすのでしょうか?
どれだけの財産を得て、どれだけの人間を得ようとも、何のために生きているのか?すら分からないのです。
財産も人間も、それが何であるのか?を知ることはできないのです。
それが何かも分からないのに、どうしてそれが価値であることを理解し、満足を得ることができるのでしょうか?
あなたの所有している生きる道は、本当にあなたの生きるべき道なのでしょうか?
疑問は持ち続けなければなりません。
苦労して獲得した立場であろうとも、それが自分の生きるべき道でないのであれば、放棄する必要もあるということを覚えておきましょう。

2016年5月2日月曜日

知ること

あなたは、理解を深める必要があります。
あなたは知らなければなりません。
知らずに過ごしてはならないのです。
自分が何者であるのか?
人生が何であるのか?
なぜ、生きているのか?
生きているとは何なのか?
何のために”それ”を行っているのか?
正しさとは何か?
あなたには、知らなければならないことがたくさんあるのです。
あなたはきっと、それを知りたいと思うでしょう。
それは、あなたの存在意義でもあるからです。
人は知る必要があります。
無知のままに時を過ごしてはなりません。
一つでも多くのことを知り、一つでも多くのことを理解するのです。
知るということは、本質を得るということです。
表面的な認識では、知ることにはなりません。
それが何であるのか?ということを理解する必要があるのです。
それが何であるのか?ということを理解するためには、経験する必要があります。
人は、それを経験することによって、少しずつ理解を深めることができるのです。
経験することがなければ、決して理解は深まりません。
経験とは、それと向き合うことです。
例えば、あなたは目の前の相手がどのようなことに興味があるのか?を、初見で知ることができるでしょうか?
どのような相手も、初見において自分のことを詳しくは教えないでしょう。
何度も会う中で、相手の興味を知ることができるのです。
相手に会うほどに、人は相手を理解することができます。
会う機会が少なければ、相手を理解することはできないのです。
どのような事柄に対しても、その本質を理解するためには、経験を重ねなければならないのです。
自分のことを知りたければ、自分と何度も向き合う必要があります。
自分自身に何度も向き合い、自分とは何であるのか?ということを少しずつ理解していくのです。
人生に対しても、生きていることに対しても、正しさに対しても・・・
何に対しても、それを理解するためには、向き合い続ける必要があるのです。
多くの人は理解に乏しいのです。
世の中には無知が蔓延(まんえん)しています。
多くの人が経験不足によって、偏見を抱えているのです。
偏見は、経験不足の産物です。
人は、経験不足によって、未熟な見解を得るのです。
未熟な見解とは偏見のことなのです。
あなたは”それ”の本質を知っていますか?
知っているのであれば、苦悩はないのです。
あなたが苦悩を抱えているのであれば、その原因は知らないからです。
知らないために問題を引き起こすのです。
知っていれば、問題を引き起こす必要はないのです。
多くの人が問題を抱えています。
多くの人が苦悩を生きているのです。
それは、知らないからです。
原因はそこにしかないのです。
知ることは大切なことなのです。
しかし、多くの人は知ろうとはしません。
理解を深めることをせずに、豊かさを欲しているのです。
それは、矛盾しています。
豊かさとは、理解そのものだからです。
不理解とは、乏しさなのです。
理解が知恵であるということを知りましょう。
それは、人を豊かにします。
あなたは経験しましょう。
自分で行わなければなりません。
あなたは、経験によって理解を深めましょう。

2016年5月1日日曜日

受けるものの代償

すべての人は欲求を持ちます。
すべての人は必要を欲しなければならないのです。
すべての人は必要を満たそうと努めています。
意識的にも、無意識的にも、必要に対する欲求を持っているのです。
すべての人は欲求に従って行為します。
欲求に従って考え、欲求に従って行い、欲求に従って得るのです。
欲求とは、人に必要な学びを導く材料です。
欲求を持つことは悪いことではありません。
すべての人が欲求を持たなければなりません。
欲求を持たなければ、学びを得ることができないのです。
あなたは欲求に従います。
欲求を否定することはできません。
なぜなら、それは学ばなければならないことだからです。
欲求を否定しても、それに従わなければなりません。
あなたが否定することができるとすれば、欲求を満たす方法だけでしょう。
様々な方法によって欲求を満たすことができます。
その方法は多くあるのです。
方法によって、幾らか心境に変化は生まれるでしょう。
あなたは様々な方法の中から選べば良いでしょう。
そうすることによって、必要な学びを快(こころよ)く受けることができるのです。
しかし、どのような方法によっても避けられないことがあります。
それは、因果の仕組みです。
原因には必ず結果が伴います。
同じように、結果にも必ず原因が伴っているのです。
人は、何かを得る時には、何かを手放さなければなりません。
人は、その掌(てのひら)に掴むことができるものを所有することはできますが、それ以外は所有することができないのです。
掌からこぼれ落ちたものは、あなたの所有ではないのです。
新たなものを所有するのであれば、これまでのものを手放さなければなりません。
これまでのものを手放したくなければ、新たなものを所有することができなくなります。
しかし、人は成長という目的のために存在しているため、新たなものを所有しなければなりません。
その時には、必ずこれまでのものを手放さなければならないのです。
多くの人はこの覚悟をしてはいません。
これまでのものを所有したまま、新たなものを所有することができると考えているのです。
新たなものを前にして、これまでのものを手放すことができません。
それは強欲、もしくは恐怖が心に蔓延(はびこ)っているからです。
あなたは掌以上のものを所有することはできません。
新たなものを得る時には、これまでのものを手放さなければならないのです。
あなたは覚悟しなければなりません。
失うことは避けられません。
あなたは受けたのだから。
受けたにもかかわらず、失いたくないと意地を張るのであれば、それは、商品を受け取りながら代金を支払わない盗人と同じ扱いとなるのです。
”神”は不義(ふぎ)を許しません。
受けたにもかかわらず、手放さない強欲な者には、強制的な取り立てが行われることになります。
自ら差し出したのであれば、感謝を得ることができます。
しかし、受けたのに差し出さないというのであれば、罪の報(むく)いがその身に至るでしょう。
差し出すことを前提にして受けなければなりません。
受ければ差し出すことは自然なことなのです。
強欲、もしくは恐怖が不自然を導いています。
欲求の結果は損失です。
あなたが求めた時、何かを失うでしょう。
これは避けられませんが、あなたが自ら差し出したのであれば、受けるものはそれを超えるでしょう。
しかし、あなたが取り立てられたのであれば、受けるものはそれを下回るでしょう。
取り立てられる者は、乏しさを得るでしょう。
差し出す者は、豊かさを得るでしょう。
何かを得るためには、何かを失わなければならないことを受け入れましょう。
都合の良い話はありません。
商品を選ぶ時には、値札を確認する必要があるように、受けるものの代償を考える必要があるということを覚えておきましょう。