人生におけるすべての問題は、理解不足に起源しています。
理解不足が問題を引き起こしているのです。
それ以外の原因によって、問題が生じることはありません。
なぜなら、理解していれば、それは問題とはならないからです。
人生とは、理解を深めるための場所です。
人は様々なことを知らなければなりません。
知識を得ることによって、目の前のそれが何であるのかを知るのです。
目の前のそれを知る理由は、”神”の言葉を理解するためです。
あなたは何のために人生に存在しているのでしょうか?
そもそも、あなたは何者なのでしょうか?
この問いに答えを出さずに、どうして満足することができるのでしょう?
自分が何者であり、何をしているのかも分からない者が、どうして幸福なのでしょうか?
残念ながら、多くの人は何も知らずに幸福を覚えています。
幸福であると自分勝手に思い込んでいるのです。
しかしながら、それは虚像に過ぎません。
人生や自分が何者であるのかすら知らない者が、どうして幸福が何であるのかを知っているのでしょう?
決して理解してはいないのです。
すべての人は幸福を求めています。
しかしながら、それが何であるのかを知りません。
幸福が何であるのかを知らないにもかかわらず、それを探そうとはしません。
目の前の虚像、漸(ようや)く手に入れた歪んだ快楽をそれと思い込みたいのです。
それは、現実逃避なのです。
目の前の虚像を幸福であると思い込むことによって、人は考えることをやめます。
それは、可能性の放棄となり、人はそれ以上のものを手にすることができないのです。
多くの人は自分が納得する何かを手に入れた途端に、それを守ろうと努めるようになります。
それが古くなり、使い物にならなくなっても、それを守り続けるのです。
しかし、それは使い物にならない廃品です。
それを大事に抱えていたとしても、残念ながら幸福を得ることはできないのです。
状況は常に移り変わります。
それは、一瞬も止まることをしません。
状況の変化の蓄積が時代を築きます。
そのため、時代も変化し続けているのです。
時代遅れの考えは、豊かさをもたらしません。
そのため、人は死を与えられ、全体の若返りが求められているのです。
古い人は去らなければなりません。
それは、理解に乏しいからです。
理解に乏しいために、古いのです。
老人であっても、新しい人はいます。
常に理解を深めることに努め、知恵を育む人は豊かに生きているのです。
それは、煩(わずら)わしい問題に引き摺(ず)られることがないからです。
理解を深めることに努めず、戯(たわむ)れを好む者は、無知によって更なる問題を抱えることになるでしょう。
理解に乏しい者には、それがなぜ問題となるのかを理解することができないのです。
知恵のある者にとって、それをわざわざ問題に発展させる必要はないのです。
その選択の違いがあるだけであって、運命や幸運などといった”不確定”なものに原因がある訳ではないのです。
人は、人生を自分の力によって獲得しています。
その問題はあなたが受け取る必要があるのであって、他人が受け取る必要はないのです。
自分だけが苦悩していると勘違いしてはなりません。
すべての人が、その無知に相応しい問題に会うのです。
あなたは勉強しなければなりません。
努力しない者はそれまでです。
理解が不足しているのであれば、決して問題は解決しません。
どこで、誰(に)と、何をして(もらって)も、決して問題は解決しないのです。
最後は自分の力でやるのです。
”神”の言葉を聞けば良いだけです。
それは、状況の中にあって、あなたに語り続けています。
すべての状況が”神”の言葉であるということを理解しましょう。
理解を深め続けなければなりません。
死ぬまで勉強をやめてはなりません。
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