あなたは、自分の行為によって道を進みましょう。
	すべての人は人生という道を進んでいます。
	それは、学びの道であり、成長によってのみ進むことができるのです。
	精神的な成長、心の成長、霊的に成長によって人は道を進むことができるのです。
	それ等の成長がなければ、人が道を進むことはできません。
	どれだけの歳月を生きても、精神、心、霊などの意識の成長がなければ、人生という道を進むことはできないのです。
	人は、意識を成長させなければなりません。
	意識の成長は、正しく生きることによって実現します。
	正しく生きるというのは、思いやりを以て生きるということです。
	思いやりという愛に従って生きることによって、人は成長することができるのです。
	思いやりを見失った者の意識が成長することはありません。
	思いやりとは、成長への扉を開く鍵のようなものだからです。
	それを無くしては先へ進むことができないのです。
	多くの人は思いやりを見失っています。
	誰かや何かに対して、思いやりを見失っているのです。
	何かに対して不満を抱くことは、思いやりに欠ける行為です。
	否定や拒絶は、思いやりとはなりません。
	しかしながら、多くの人は自らの受ける状況に対してそれを行うのです。
	すべてが必要であり、自らに相応しい学びであるにもかかわらず、それを受け入れはしません。
	思いやりに従うのであれば、それを受け入れることができるのです。
	受け入れることによって学ぶことができるでしょう。
	学ぶことによって成長は実現するのです。
	思いやりを見失っている者には、それを学び、そこから成長することはできないのです。
	学ぶことがないのに、どうやって成長するというのでしょうか?
	学ぶこともないのに、成長することはできません。
	あなたが成長を欲しているのであれば、学ばなければなりません。
	学ぶためには、受け入れる必要があるのです。
	そのためには、思いやりが必要なのです。
	思いやりに従う者は、物事を建設的に運びます。
	それは、その者に豊かさを導くのです。
	思いやりに背く者は、物事を破滅的に運びます。
	それは、その者に乏しさを導くのです。
	この世界には因果の仕組みが存在しています。
	人は、自らの行為である原因に相応しい結果を、状況を通じて受けるのです。
	どのような結果を得ようとも、それはあなたの行為がもたらした当然の結果です。
	あなたに関係の無い状況が与えられることはありません。
	すべては、あなたに相応しいのです。
	結果は、思い掛け無い形で導かれます。
	思いやりに背く者が木に登って果実に手を伸ばす時、葉の裏には百足(むかで)が潜み、指先に毒針を差し込むでしょう。
	そのような場所に百足が潜んでいるとは思いもしないので、警戒は無駄に終わったのです。
	しかし、思いやりに従う者が果実に手を伸ばしても、葉の裏の百足が毒針を向けることはありません。
	思いやりに従う者は葉の裏の百足に気が付き、難を避けるでしょう。
	両者の違いは思いやりだけです。
	思いやりに従って生きているか?
	それに背いて生きているか?の違いでしかないのです。
	あなたは、人生に対して、すべての状況に対して、思いやりを見失ってはなりません。
	すべては必要であって、あなたに相応しいのです。
	無駄なものは何一つとしてありません。
	自らにとって必要な状況に対して、思いやりを以て受け取るのは当然のことなのです。
	あなたは人生に対して、思いやりを見失ってはなりません。
	それがどのような状況であろうとも、あなたに相応しいのです。
	あなたは自分に何が相応しく、何が相応しく無いのかを知っているのですか?
	知らないのであれば、文句を吐くのをやめましょう。
	思いやりを以て受けなければ、人生は先へは進みません。
	あなたは自分の行為によって、自分を救いましょう。
	神仏に頼んでも、あなたの人生が進むことなどありはしないのです。
	
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