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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年5月18日水曜日

世の法と天の法

人は、主人に仕えなければなりません。
すべての人が主人に仕えます。
この世界において、主人に仕えない者は存在しません。
すべての人が下僕(げぼく)であるということを理解しなければなりません。
人は誰もが、誰かや何かを主人に迎えます。
世の権力者であろうとも、主人に仕える下僕であるのです。
すべての人が下僕です。
下僕は主人ではありません。
しかしながら、多くの人は自分が下僕であるということを忘れています。
自分が仕える下僕であるということを忘れ、主人であると思い込んでいるのです。
それは思い上がりであって、下僕(人)に苦しみを与えます。
下僕が逆らえば、主人はその行いに従って懲(こ)らしめを与えるでしょう。
下僕が思い上がれば、それに相応しい苦悩を受けることになるのです。
人生において苦悩を得る者は、自分が主人であると思い上がり、真を忘れている愚か者に過ぎないのです。
人が幸福を得るためには、真を思い出し、自分が主人に仕える下僕であるということを知らなければならないのです。
しかしながら、人はすべてを”世の法”に従って判断します。
主人と下僕を上下関係であると思い込むのです。
そのため、下僕と聞けば哀(あわ)れな気分に陥(おちい)り、主人となるものを排斥(はいせき)しようとするのです。
世の法に従えば、主人と下僕は上下関係となるために、そのように考えるのは無理もないことなのです。
しかしながら、主人と下僕を上下関係とする考えは、主人と下僕のどちらに対しても争いの感情を引き起こす原因となるのです。
優劣を決める方法であっては、幸福は実現しないのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、”世の法”に従ってはなりません。
あなたが幸福を求めているのであれば、”天の法”に従わなければならないのです。
”天の法”とは、真理のことです。
それは物事の本質であり、あるべき姿です。
世の法に従えば、あなたは苦悩を得ます。
天の法に従えば、あなたは幸福を得るのです。
世の法と天の法は別のものです。
例えば、世の法である常識は、人に財産を得ることを求めています。
世の法は、人に優位を勧(すす)めているのです。
世の法に従う者は、自分を高く上げ、優位を得ようと争うのです。
他人よりも優位に立つことによって、人は財産を得ることができるのです。
世の法は、それによって人を満足させようとするのです。
しかしながら、どれだけの財産を得ようとも、人が満足することはありません。
使い切れないほどの財産を所有したところで、人は幸福にはなれないのです。
寧(むし)ろ、多くの財産を得ることによって、多くの煩(わずら)いを受けるでしょう。
天の法は、人に必要を必要な分だけ与えます。
天の法は必要を満たすだけなのです。
それは、多く持ち過ぎることを防ぎます。
それは、少なく持つことを防ぐのです。
必要が必要な分だけ与えられることによって、煩いを避けることができます。
腹が空いていないのに、多くの食物を飲み込まなければならないのは煩いです。
満ち足りているのに、それ以上に求めるのは煩いであるのです。
世の法はそれを勧めますが、天の法はそれを勧めません。
必要を満たしていれば良いのです。
必要以上に所有すれば、他に負荷が掛かるのです。
満腹に飲み込めば、腹が痛むようにです。
あなたは二人の主人に仕えることはできません。
世の法か、天の法のどちらかに仕えるのです。
(ただし、これは状況の度に選択することができます)
どちらの主人を選んでも構いません。
その選択はあなたに任されているのです。
世の法と天の法では、異なった方法によって、異なった結果を受けるようになります。
どちらの主人に仕えるかはあなた次第であるため、人生がどのようなものになったとしても、それはあなたの責任なのです。
決して、誰かや何かの責任ではないのです。
あなたには多くの無知が蔓延(はびこ)っています。
先ずは、自分が下僕に過ぎないことを知りましょう。

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