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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年7月31日日曜日

重要視

あなたは、どこまで見えていますか?
あなたはどれ程の理解を得ているのでしょうか?
人は、成長を目的としています。
人が成長するためには、本質を得なければなりません。
物事を認識する時、偽りの情報を得ているのであれば、本質を得ることはできません。
偽りの情報を得たとしても、成長することはできないのです。
人が成長するためには、真実の情報を得る必要があります。
本質に近い情報でなければ、先へ進むことはできないのです。
多くの人は人生に不満を抱いています。
多くの人が不安や心配を抱えて生きているのです。
そのような人たちが満足していることはありません。
そのような人たちの人生は、決して豊かなものではないのです。
不満や心配などの、破滅的な感情の原因は無知や誤解です。
無知や誤解が、人に偽りの情報を与え、不幸を実現しているのです。
人が豊かな人生を生きるためには、知恵を育まなければなりません。
人は知恵によって真実の情報を手にし、幸福を実現するのです。
知恵を育まなければ、真実の情報を手にすることはできません。
知恵を育まない者には、豊かな人生も幸福も手に入れることはできないのです。
あなたが知恵を育むためには、真実の情報が必要です。
真実の情報を手に入れるためには、”よく見える目”が必要なのです。
”よく見える目”無くして、真実の情報を得ることはできないということを理解しましょう。
”よく見える目”とは、重要視の範囲のことです。
人が見るものとは、重要視の範囲内だけのものです。
あなたが重要視しているものだけを認識しているのです。
重要視していないものは、認識に上がることもありません。
肉眼では捉えていても、心には引っ掛からないのです。
そのため、見ていても見ていない状態が引き起こされるのです。
それは、”見えない目”であるのです。
あなたの認識は、肉眼によってもたらされるのではありません。
あなたの認識は、心の目によってもたらされるのです。
心の目とは、重要視のことです。
あなたの心が興味を持つものだけを、あなたは認識することができるのです。
あなたの心が興味を持たないものは、目の前にあっても認識することができないのです。
多くの人は見えていません。
それは、好き嫌いによって、物事を分け隔(へだ)てているからです。
人は好きなものに対しては、それを重要視します。
しかし、嫌いなものに対しては、それを重要視しないのです。
そのため、好きなものは認識するものの、嫌いなものは認識することが難しいのです。
その結果、多くの人はほとんど見えていない状態で生きているのです。
見えていないから問題を抱えるのです。
見えていたのであれば、問題を抱える必要はないのです。
あなたはどこまで見えていますか?
多くの人は好き嫌いによって偏見を所有します。
それは、偏った情報しか得られないということなのです。
偏った情報が真実を伝えるでしょうか?
好きな部分だけを以て、対象を説明することができるのでしょうか?
すべての存在には、必ず陰陽の性質が備わっています。
好きな部分と嫌いな部分が合わさって真実なのです。
好きな部分だけを抽出(ちゅうしゅつ)して、知ったつもりでいてはなりません。
不満や心配の部分を否定して、どうして本質を得ることができるのでしょうか?
不満や心配を抱えている人には、決して真実は見えません。
そのような態度の人が幸福を得ることはできないのです。
どのような方法を用いても、真実の見えていない人に豊かな人生は与えられないのです。
あなたが不満や心配を抱えているのであれば、それを嫌わないように注意しましょう。
不満や心配に思える部分も、あなたに真実を教える大切な情報なのです。
不満や心配に思える部分からも情報を得るのです。
それは、前向きに向き合うということです。
不満や心配に思える部分を見なければなりません。
そうすれば、あなたには”よく見える目”が与えられるでしょう。
それが知恵であるということを理解しなければなりません。

2016年7月30日土曜日

失う恐怖

この世界において、失うことは避けられません。
あなたは受け取りもし、失いもするのです。
受け取ることだけでは許容を超えます。
受け取り続けることは苦悩を生むのです。
そのため、失うことによって許容を保っているのです。
失うことがなければ、許容を超えて抱えなければなりません。
失うことは決して悪いことではないのです。
しかしながら、多くの人は失うことを恐れています。
そして、失わないように努めるのです。
失わないように努めることはできますが、許容を超えて抱えることはできません。
そのため、失わないように努める人は苦悩を受ける以外に可能性はないのです。
多くの人が所有を守ろうとします。
守ることに必死になる余り、余分を抱えているという状態に気が付いてはいないのです。
多くを抱えれば、どちらにしても倒れることになるのです。
大切なのは許容を超えないことなのです。
あなたはそのことに気が付かなければなりません。
失うことを恐れることは、抱え込むということだからです。
あなたは失わなければならないのです。
失うことによってバランスが保たれているのです。
あなたは、失うべきであるということを理解しましょう。
多くの人が失うことを恐れるのは、所有が少ないからです。
わずかなものを失うことに恐れているのです。
それならば、所有を増やせば良いだけなのです。
所有を増やすことによって、失うことを恐れる気持ちを制することができるでしょう。
所有に余裕があれば、失うことなど恐れないはずです。
しかしながら、失わなければならないのも事実です。
そのため、どれだけ失っても問題のないように所有しましょう。
要は、失うものよりも、所有の方が多ければ良いだけなのです。
失うことを恐れている人の所有は増えません。
所有を守ろうとする余り、所有を増やす力を失っているのです。
人は器用ではありません。
人は一つの方針に集中するのです。
そのため、守りながら増やすことはできません。
守るということは、増やさないということなのです。
守っているだけでは、いつかは底を突きます。
預金を切り崩しているだけでは、生活が破綻するのと同じなのです。
生活を豊かなものにするためには、稼がなければならないのです。
稼ぐためには仕事をしなければなりません。
ただ、仕事をするだけではなりません。
費用を回収するように仕事をし、利益を上げなければならないのです。
仕事では損(費用)から始めなければなりません。
どのような仕事も、始めは損をするのです。
守ろうとすれば、費用を回収することも、利益を上げることもできないのです。
仕事で利益を上げるためには、費用を上回る収益を得る必要があるのです。
そのためには、新たな商法を生み出し、顧客に満足を与える必要があるのです。
仕事の可能性とは、損失を恐れない姿勢にあるのです。
人生の可能性も同じです。
失うことを恐れて守りに入る人の人生は、可能性を失って尻窄(しりつぼ)みなものとなります。
失うことを恐れず、失うものよりも多くを生み出す人の人生は、末広(すえひろ)がりなものとなるのです。
あなたは、失うことを恐れてはなりません。
失うことを恐れるよりも、より多くを生み出すように努めなければなりません。
一つ失う時に、一つ以上を生み出せば良いのです。
そうすれば、失うことは何の問題にもならず、却(かえ)って活性化するということを理解しなければなりません。
失えば、新たに得られるのです。
失わなければ、古いままであるということを覚えておきましょう。
あなたは大いに失いましょう。
そして、それ以上に生み出しましょう。

2016年7月29日金曜日

生死の分岐

この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
この世界においては、すべてが陰と陽の役割を担っているのです。
どのような事柄に関しても、必ず陰陽の仕組みが働きます。
それは、生死(せいし)のように二つの働きを所有しているのです。
それが、世界を豊かに導く方法なのです。
物事は生じます。
物事は死するのです。
生と死の協力によって、物事は豊かさを得るのです。
あなたは常に、陰陽の仕組みの中に存在しています。
あなたには常に、生じる力と死する力とが働いています。
物事は必ずこの二つの力の中に存在するということを覚えておきましょう。
あなたの意図に関係なく、物事は陰陽の力に引き寄せられます。
あなたが手を下さなくても、物事は生じ、又、死するのです。
あなたは、それを少しだけコントロールすることが許されています。
陰陽のどちらかに確定するまでは、どちらにも進めることができるのです。
あなたの働き掛けが、陰陽のどちらかに導くことの幇助(ほうじょ)となるということを理解しなければなりません。
あなたの目の前で、蜘蛛の巣に虫がかかったとします。
あなたには、その虫をどのようにすることもできるのです。
虫を蜘蛛の巣から救い出すこともできますし、蜘蛛の空腹を満たして救うこともできます。
どちらかは生を受け、どちらかは死を受けるのです。
物事には、必ず陰陽の力が働き掛けています。
あなたは、ある程度の幇助によって、決定に対してある程度の猶予(ゆうよ)を与えることもできるのです。
しかしながら、近い内に物事の行き先は決定するということを覚えておきましょう。
人生は決して決まっているものではありません。
原因によって結果が決まりますが、それは原因によって結果を決めることができるということなのです。
蜘蛛の巣から虫を救い出せば、その虫はその蜘蛛には食べられず、違う結果を受けるのです。
何が最善であるかを決める必要はありません。
それは、結果が最善であるからです。
どのような結果も、それが最善であるのです。
そのため、どのような選択をしても構わないのです。
あなたは、自分が思うように選択してみましょう。
自分の大切だと思うものに必要な方を与えれば良いでしょう。
この世界においては、生と死のどちらかを選ばなければなりません。
それが、この世界における学びであるからです。
すべての存在は必ず生と死のどちらかの結果に至るのです。
善悪の判断ではないのです。
生と死を善悪で判断することなどできないのです。
それは、昼と夜、男と女、などの相対的な存在に善悪を求めるようなものだからです。
どちらも大切なのです。
そのため、どちらを受けても良いのです。
ただし、決めなければなりません。
あなたにとって大切なものが何であるのか?ということを考えていなければなりません。
ただし、それが狭い視野によって考えられているのであれば、あなたは判断に後悔するでしょう。
早めに判断しなければ、方向性が確定してしまいます。
その時には、どうすることもできないのです。
蜘蛛の巣にかかった虫の命は短いのです。
すぐに蜘蛛は虫に近付き、簡単に糸で包んでしまうのです。
あなたは何を生かすべきでしょうか?
何が死するべきであるのか?ということを考えましょう。
人生は、あなたの操舵(そうだ)によって、大きく結果を変えるのです。
一つ一つの操舵は小さな結果を導くのみですが、その積み重ねが大きな成果となるのです。
あなたは自分自身で選ばなければならないということを理解しましょう。
人生や他人に任せておいて、後で文句を吐いても意味がないのです。
そのような卑怯(ひきょう)なやり方には、何の効力もないということを覚えておきましょう。
後悔しないように選択しましょう。
人生が理想通りに進むことはありませんが、後悔しないように進ませることはできるのです。

2016年7月28日木曜日

生きるということ

時間とは、最も価値のある資産です。
あなたが何を手に入れようとも、時間よりも価値のある資産は存在しません。
時間がなければ、その他のすべてが無価値となるからです。
価値とは、時間のことであると言っても良いでしょう。
それほど時間は貴重です。
時間を浪費してはなりません。
多くの人は金銭に対する浪費には注意を払っているのに、時間に対する浪費には考えを深めません。
そのため、多くの人が時間と成果を不釣り合いなものとしているのです。
多くの人は人生に不満を抱いています。
それは、思うような成果を得られないからです。
なぜでしょうか?
時間が足りないのでしょうか?
お金が少ないのでしょうか?
あなたが人生に対して不満を覚えているのであれば、それは時間に対する浪費を許しているということなのです。
時間を浪費する者には、思うような成果は得られません。
人生を豊かなものにするためには、何よりも価値のある時間という資産を浪費していてはならないということなのです。
多くの人は、自分が良く考えていると思っています。
考えがまとまらず、また、考えが浅いことによって悩みを抱えます。
決して深く考えてはいません。
なぜなら、深く考えるということは、本質に近付くということであり、悩みを抱えるという結果には至らないからです。
深く考えれば知恵が生じます。
そのため、悩みを抱えている人が深く(良く)考えているということはないのです。
知恵を導くためには、材料が必要です。
考えるという行為は、調理をするようなものです。
知恵とは完成した料理のことです。
人は、知識という材料を考えるという調理によって結び付け、新たな価値である知恵(料理)を生み出しているのです。
知識という材料がなければ、どれだけ考えたところで納得のいく料理は完成しません。
知恵を導くためには、様々な材料が必要なのです。
多くの人は悩みを抱えています。
悩みを抱えているということは、材料が足りないということなのです。
次に鍋に投入する材料がないために焦げ付かせてしまうのです。
悩みを抱えている人は、鍋の前を離れなければなりません。
鍋を離れて、料理の材料を冷蔵庫や畑に探しに行かなければならないのです。
材料も無いのに、ただ鍋の前に佇(たたず)んでいる場合ではないのです。
悩みを抱えているということは、そのような状態を言うのです。
それは時間の無駄です。
知恵が生じず、問題が解決しないのであれば、考えることをやめましょう。
現状の知識をどれだけ思考したとしても、決して解決策が導かれることはないからです。
材料(知識)が変わらないのであれば、料理(知恵)も変わらないのです。
知恵が変わらないのであれば、状況も変わりません。
それでは悩みは解決しないのです。
変化することが豊かさへの唯一の方法です。
多くの人は変化することをしません。
同じことを、飽きることなく繰り返しているのです。
多くの人が同じことを考え、同じことをして、同じように死んでいきます。
そこにどのような価値があるというのでしょうか?
あなたは時間を浪費してはなりません。
常に新たな知識、考え方を求めましょう。
新たなものを求めて奔走(ほんそう)している人が、時間を浪費することなどないのです。
そのような人にとっての時間とは、より価値のあるものとして輝くからです。
変わらずにいてはなりません。
変わらないということは、時間を無駄にしたということなのです。
あなたは毎日変わらなければなりません。
それが生きるということだからです。

2016年7月27日水曜日

醜い足掻き

あなたは決定を覆すことはできません。
それは決められたのです。
決められたことは認めなければならないのです。
認めた上で、次の展開を求めなければならないのです。
多くの人は決定に不服を表します。
決定したにもかかわらず、それを受け入れられずにいるのです。
そのため、決定を否定し、別のものを求めるのです。
しかし、決定を否定したところで、決定が覆ることはありません。
あなたには、決定を覆す力はないのです。
決定に対して醜(みにく)く足掻(あが)いても、何の価値もないということを理解する必要があるのです。
目の前に導かれるすべての状況は、因果の仕組みによる決定です。
あなたの人生は正しく導かれています。
何一つとして間違っていることはありません。
その決定が気に食わないものであったとしても、あなたに相応しい決定なのです。
すべては因果関係にあり、不相応はないのです。
この世界におけるすべての現象が”美しい”ということを覚えておきましょう。
あなたが受け取るどのような状況も、あなたにとって”美しい”のです。
美しい状況に対して、醜く足掻いているのが現状なのです。
人生には受け入れることができないこともあります。
寧(むし)ろ、あなたにとっては受け入れ難いものばかりでしょう。
多くの人は状況を書き換えようと奮闘します。
目の前に導かれた状況が最善であるにもかかわらず、それを理解することができないのです。
多くの人は受け入れることができない状況を変えようと必死です。
しかし、変えることはできません。
どのような方法を以(もっ)てしても、決定は覆らないのです。
多くの人は様々な方法によって、目の前の問題を回避しようと企(たくら)みます。
しかし、決して覆ることはないのです。
懸命な努力の結果、結果を書き換えた(ように思った)としても、違う形の同じ結果が導かれるということを理解する必要があるのです。
決定は避けられないのです。
このように強調するには訳があります。
それは、受け入れることが重要だからです。
決定は、あなたの選択である原因によって導かれるのです。
あなたが受け取るすべての状況は、あなたの選択によって必然となるのです。
あなたが自分で選択したのです。
そのため、あなたに相応しく、避けられないのです。
本来ならば、避ける必要がないものなのです。
それは、あなたにとって最高の学びとなります。
自らの選択の結果を直接的に受け取るということは、自らの選択の是非(ぜひ)を知ることができるからです。
それ以上の幸福が存在しているでしょうか?
人生の示唆(しさ)を手に入れることができるのです。
これ以上の価値があるでしょうか?
決定を覆そうとする醜い企みは、そのすべてが破綻します。
決して実を結ぶことはありません。
それは、人生の目的が学び(成長)にあるからです。
目の前に導かれる状況以上の学びなど、世界中のどこを探しても存在しないのです。
それ以外の価値など存在しないのです。
しかしながら、そのようには思えないのです。
あなたは学習しなければなりません。
目の前に導かれた状況を否定する醜い足掻きは、無駄に終わるのです。
それは、余計な労力と時間を浪費するだけであるということを覚えておかなければならないのです。
問題が生じたのであれば、その問題が生じた地点から再出発する必要があるのです。
問題を否定して出発することなどできないのです。
必要があって導かれたのです。
必要なことは大切なことなのです。
あなたには、決定を覆す力はありません。
決定を覆す必要はありません。
決定を受け入れなければ進め(み)ません。
決定を受け入れたのであれば、あなたは躍進(やくしん)することができると知りましょう。

2016年7月26日火曜日

小さな価値と大きな価値

人は未熟な存在です。
未熟な存在は、その思考も未熟です。
未熟な思考は未熟な行為を導きます。
未熟な行為は未熟な状況を導くのです。
未熟さを抱えない人は存在しません。
そのため、すべての人が未熟な状況である問題を受け取ることになるのです。
人生に問題が生じることは当然のことです。
問題が起きない人生など存在しません。
どのような人物であろうとも、必ず何かしらの問題を抱えているということを理解する必要があるでしょう。
すべての人が未熟な選択によって、失敗(だと思える状況)を受け取ります。
人は失敗に苦悩し、人生に不満や不安をぶつけるのです。
不満や不安は投げ遣(や)りな態度を導きます。
そのような態度で臨んでも、人生が豊かさを得ることはありません。
人生に豊かさを得るためには、問題を解決していかなければならないからです。
大切なのは問題を解決していくことです。
不満や不安によって投げ遣りな態度を選択している場合ではないのです。
あなたは問題を解決しなければならないのです。
問題は自分自身の未熟さから生じました。
どのような問題も、その原因は自分自身にあるということを忘れてはなりません。
多くの人は、問題の原因を自分以外の誰かや何かに求めています。
しかしながら、それは見当違いです。
自分以外のせいにしたところで、問題が解決することはないのです。
あなたは自分自身を顧(かえり)みる必要があるということを覚えておきましょう。
問題は、問題を引き起こす自分自身の状態、思考、行為によって導き出された当然の結果です。
自分自身の状態が問題を引き起こすに相応しいものであったのです。
そのため、自分自身の状態を改めなければ、問題が解決することはなく、再発するのは時間の問題なのです。
あなたが問題を解決したいと考えているのであれば、自分自身の状態をそのままに止めておいてはならないのです。
同じレベルで物事を思考してはなりません。
同じレベルで行為してはならないのです。
それは、同じレベルの状況を導くからです。
状況を変えるためには、思考と行為がこれまでとは違うレベルでなければなりません。
変化することが求められているのです。
人生において失敗することは何等恥ずかしいことではありません。
すべての人が失敗を重ねるからです。
人が成功し続けるためには、その前に失敗し続けなければならないのです。
失敗を原因としなければ、成功は生じないのです。
そのため、失敗を重ねても問題ではありません。
しかし、失敗から学ばずに、同じ思考や行為を繰り返しているのは問題なのです。
多くの人は自分を変えることを否定します。
未熟な者ほど、自分が正しいと思い込んでいるのです。
それは、視野の狭さが影響しているのです。
未熟な者ほど視野が狭いために、より良い方法を知ることができず、受け入れることも難しいのです。
あなたが頑(かたく)なに自分の主張を押し通そうとしていることに気が付いたのであれば、それでは何も変わらないということを思い出しましょう。
知識を実行するのは簡単ではありません。
頭では分かっていても、意地を張るのです。
人は未熟です。
あなたは未熟なのです。
そのため、頑なに押し通そうとする主張も未熟です。
あなたが大切にしていることなど、何の価値もないということを理解する必要があるのです。
あなたには信じられないかもしれません。
しかし、あなたの主張など、次の瞬間には役に立たないようなものであるのです。
価値のないものを守るほど愚かなことはないのです。
人は、新たな価値を求めて進まなければならないのです。
自分自身を改めることによって、先へ進みましょう。
小さな価値を守ることに必死になって、大きな価値を損なってはなりません。

2016年7月25日月曜日

人は、謙虚でなければなりません。
どのような人も、謙虚さを忘れてはならないのです。
人生は学びの場所です。
すべての時間が学びなのです。
人生が学びを忘れることはありません。
その証として、無駄なことは何一つ存在しないのです。
人生において無駄なことがあるとするのならば、それを無駄と考える思考があるだけなのです。
振り返ってみれば誰にでも確認することができることではありますが、人生には無駄な時間など存在しないのです。
どのような時間も学びのためであり、あなたを成長させるためなのです。
すべてが大切な時間であり、大切な経験であるということを理解するのであれば、この世界が輝きを増すことに気が付くでしょう。
多くの人は人生の意味を履き違えています。
思い通りにいかないことの前では、人生が大切な時間であるということを忘れてしまうのです。
そのため、人生に対して簡単に文句を吐くことになります。
人生が穏やかな時には感謝することもできます。
しかし、少し荒れただけで感謝することは難しくなるのです。
雨は、大地を潤します。
雨が降らなければすべての生き物が生きることを難しくするでしょう。
しかし、少し降らないだけで人は文句を吐くでしょう。
そして、少し多く降るだけでも同じなのです。
思い通りに進むことが良いことだと思い込んでいる人間は、思い通りに進まない状況に対する免疫(めんえき)を失っているのです。
人に、天候を左右する力があるでしょうか?
雨は、自然界からの恩恵(おんけい)なのです。
雨は命そのものです。
すべての生命が雨を必要としているのです。
その雨は天から降り注ぎます。
最も高い場所から落ちた雨は、最も低い場所に注がれるのです。
すべての生命が必要としている雨は、最も低いところを好みます。
雨は、あなたの足の下を流れるのです。
あなたは、雨よりも必要とされているでしょうか?
あなたが傲慢(ごうまん)である理由はどこにあるのでしょうか?
思い上がって自惚(うぬぼ)れることに、何の益があるのでしょうか?
あなたは自分自身を省みなければなりません。
自惚れを所有する愚かな者は、他人と向き合うことによって自分自身を見失っています。
あなたは他人と向き合っている場合ではないのです。
あなたが向き合わなければならないのは自分自身なのです。
自分自身と向き合うことによって、身の程を知るのです。
そうすれば、人は謙虚さを忘れずにいられるのです。
他人の世話を焼くことは大切です。
しかし、自分を知らないのであれば、役に立つことはできません。
自分自身の身の程を知らない者が、どうして他人の役に立つことができるのでしょうか?
雨は自分自身の身の程を知っています。
そのため、高くから降りても、低くあるのです。
身の程を知らない者は、低くあるにもかかわらず、自分を高くします。
すべての人は低く生まれました。
しかし、傲慢が人を高くしたのです。
人が生まれた時、地を這(は)っていたのです。
それは、人が低くあることの示唆(しさ)です。
立って歩くことで、人は自分が大きなことをしていると勘違いしたのです。
あなたには何ができるというのですか?
あなたには、何もできないのです。
雨が降らないだけで命を失うのです。
何もできない者が思い上がってはなりません。
人は謙虚さを忘れてはなりません。
この世界に最も貢献している雨は最も低くあるのです。
あなたが世界に貢献したいと考えているのであれば、低くあるべきなのです。
低くあることによって、他人とは違う景色を見ることができます。
他人は高くあるために、高い景色を見ているのです。
それは、不足を理解するのに必要なことなのです。
不足を満たす人が貢献し、豊かさを得るでしょう。
人生に豊かさを求めているのであれば、低くあることを覚えておきましょう。

2016年7月24日日曜日

意義深い人生

人生とは、学びの場所です。
人は、人生に学びます。
人は、人生に学ぶことによって成長を実現しようとしているのです。
それは、汚れを取り除くためです。
人生とは、魂の汚れを取り除くための場所なのです。
すべての人は人生において、自らの汚れを取り除く作業をしなければならないのです。
誰一人として、この作業から逃れることはできません。
それは、それが人生の目的であるからです。
人は、魂の汚れである人格と共に生きています。
これは取り除くべき歪みです。
人格とは、人の未熟さであり、魂にとっての汚れでもあるのです。
人は、これを清めなければならないのです。
すべての人が自分が未熟であることを知っているでしょう。
すべての人が自分が汚れていることを知っているはずです。
すべての人が自分が歪んでいることを知るはずなのです。
人生を懸命に生きる程に、人は自らの汚れと向き合わなければならないのです。
人生を真剣に生きる程に、人は自分自身という人格と向き合うのです。
それは、汚れとの対峙です。
それは、人に苦悩を導くのです。
汚れである人格との向き合いは簡単なものではありません。
それは、自分自身の弱さと向き合うことになるからです。
すべての人の人生の目的が成長にあるため、すべての人が向き合わなければならない課題です。
そのため、誰にとっても自分自身の汚れと向き合うことは苦しいのです。
そこで、多くの人は汚れと向き合うことを拒絶します。
それが楽であるからです。
自分自身の汚れと向き合うことがなければ、苦しみに悩まされることもないからです。
それは、平凡な日常を導いてくれるでしょう。
平穏無事な毎日は、人に安心感を与えてくれるのです。
人はそれを喜び、それが八千代に続くように願います。
しかし、平穏無事な毎日は、人に退屈という苦しみを導くことになるのです。
退屈とは、学びが滞った時に導かれる状況です。
人は、自分自身の汚れと向き合うことをしなくなった時に、退屈という苦しみを受け取ることができるのです。
退屈を受け取れば、その生き方が虚しいことに気が付くのです。
自分自身の汚れと向き合うことをせず、平穏無事な日常を喜んでいる者には、虚しい人生が導かれるのです。
生活するだけでは、人生は虚しいのです。
生きることが人生の目的ではないのです。
人生の意義とは、どれだけ自分自身と向き合うことができたか?ということなのです。
自分自身の汚れを取り除かなければなりません。
あなたは、人生が虚しいと感じたことはありませんか?
あなたの過ごしている日常が、虚しくないと言えるのでしょうか?
あなたは幸せですか?
人は常に自分自身と向き合い、新しい可能性に向き合わなければなりません。
どのように小さなことでも良いのです。
何か新しいことを始めましょう。
それは、自分自身を知るための布石となります。
あなたは新しい行動によって、知らない自分を知るのです。
汚れと向き合うことがなければ、それを取り除くことはできません。
どのようにして取り除くのかを試行錯誤しなければならないのです。
実際にいろいろ試して初めて、有効な方法に巡り合うことができるのです。
何の試みもせずに汚れを取り除くことはできません。
あなたが人生に虚しさを感じたのであれば、何でも良いので、新しいことを試してみましょう。
今までとは違う考えを持つのも良いでしょう。
今までとは違う選択をしても良いのです。
それだけで、あなたは自分を知ることができるでしょう。
自分の汚れと向き合っていれば、人が退屈を得ることはありません。
それは、あなたに意義深い人生を導くでしょう。
虚しく生きてはなりません。
平穏無事で退屈な日々を生きてはならないのです。

2016年7月23日土曜日

人生の疑問

あなたには疑問があるでしょうか?
あなたには知りたいことがありませんか?
人生には様々な疑問が付き物です。
人生を生きていれば、数々の疑問に出会うのが自然なのです。
そして、その疑問の答えを求めて進み、納得する答えに到達するのが人生の意義なのです。
人は、抱える疑問を解消しなければなりません。
どのように小さな疑問にも、納得する答えを導き出さなければならないのです。
そうでなければ、納得する人生を生きることなどできません。
納得する人生こそが、豊かな人生であり、幸福というものなのです。
すべての人が豊かな人生を求めています。
そして、幸福を願っているのです。
しかしながら、疑問の答えを求めてはいません。
疑問の答えを求め、納得することがなければ、人生の豊かさや幸福を得ることはできません。
そのため、疑問の答えを求めない時点において矛盾を抱えることになるのです。
矛盾を抱えていては、いつまで経っても豊かさや幸福を手にすることはできないのです。
しかしながら、多くの人は人生の豊かさや幸福が得られると考えているのです。
疑問を解決しなければ手にすることはできません。
しかし、目の前のことを一生懸命にやっていれば、それだけで手にすることができると考えているのです。
目の前のことを一生懸命に行うことは当然のことです。
当然のことをしたところで、何の益もないのです。
どうして、マイナスがゼロになっただけで、豊かさや幸福を手にすることができるのでしょうか?
大切なのは、ゼロからプラスを実現することなのです。
そのためには、当然のことだけをやっている訳にはいきません。
当たり前の延長には、人生の豊かさも幸福も存在しないのです。
この世界においては、当たり前を生きている人が大半です。
その人たちが人生の豊かさや幸福を手にすることができるでしょうか?
この世界の大半の人が満足してはいないのです。
それは、当たり前の生き方をしているだけだからです。
当たり前の生き方とは、マイナスからゼロへ向かう生き方です。
その生き方を続けても、ゼロを得るだけなのです。
ゼロは無(む)なのです。
抱える疑問に答えを求めない者は、虚しい人生を生きるでしょう。
何を得ても、疑問の答えを得ることができないのは虚しいのです。
それは、虚無(きょむ)を得ることと心得ましょう。
あなたは疑問に向き合い続けなければなりません。
小さな疑問も蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
あなたは人生を研究し続けなければなりません。
人生に挑み続けなければならないのです。
忙しさや、目の前の快楽に自分を偽ってはなりません。
あなたには知らなければならないことがあるはずです。
多くの人は人生を諦めています。
あなたの人生は、本当にあなたがしたかった生き方ですか?
自分勝手に生きることはできません。
分相応に生きることが大切です。
しかしながら、何の努力も挑戦もしないで諦めるのは虚しいのです。
あなたには知りたいことがあるのではないですか?
見たい景色があるのではないですか?
経験したいことがあるのではないですか?
本当に与えたいものがあるのではないですか?
人生を安易に考えてはなりません。
今回の人生は一度切りです。
後悔を抱えるよりも、喜びを抱えて生きる方が豊かであり、幸福なのです。
自分を偽って生きることもできるでしょう。
しかし、その方法によって豊かさや幸福を得ることができるのか?ということは考えなければなりません。
あなたは、人生に向き合いましょう。
そして、疑問を解き明かしましょう。

2016年7月22日金曜日

考える力

あなたが目の前の問題を解決したいと考えているのであれば、考える力を育まなければなりません。
その問題は、あなたのために導かれたのです。
その問題は、あなたが対峙する必要があるために導かれたのです。
誰かや何かのせいで問題が導かれたのではありません。
あなたの成長のために導かれたのです。
そのため、あなた自身が成長することがなければ、問題が解決することはないと心得なければならないのです。
多くの人は、自分が変わることがなくても、問題を解決することができると考えています。
自分以外の誰かや何かの力によって、問題が解決すると思い込んでいるのです。
しかしながら、誰かや何かの力によって問題が解決することはありません。
その場しのぎの対策はできるでしょうが、問題の解決には至らないのです。
それは、問題があなた自身から生じているからです。
あなたが問題の原因なのです。
それなのに、どうして自分でない誰かや何かが問題を解決するのでしょうか?
それは不可能なのです。
自らが病気を生み出しているのに、医者に治せと言っているようなものなのです。
残念ながら、医者はあなたの病気を治すことはできないのです。
それは、他人だからです。
医者があなたの病気を軽くしたとしても、あなたがそれを重たくするのです。
すべての問題は、自分自身で作っているということを忘れてはならないのです。
考える力が不足している時に問題が生じます。
考える力が足りているのであれば、それが問題という形を得ることもないのです。
不足しているために問題となるのです。
そのため、問題を抱えたのであれば、考えなければならないのです。
考える力を育めば、問題の解決策を導くこともできるのです。
そうすれば、問題は徐々に解決に向かうのです。
考える力が不足しているのは、考えないからです。
多くの人は考えていません。
自分では考えていると思い込んでいますが、考えていないために問題が生じているのです。
人が考える力を育むためには、高い目標が必要です。
目標が高いほど、それを達成するために考える必要に迫られるからです。
しかしながら、多くの人の目標は高くはありません。
失敗を恐れるあまりに物事を無難にこなし、目標が低くなるのです。
低い目標のためには、考える必要はありません。
当たり障りのない退屈な人生ならば、考える力がなくても良いのです。
そのような人生を欲しているのであれば、苦悩が寄り添うでしょう。
考える力の無い者に、豊かな人生は実現しません。
考えることがなければ、可能性を手にすることができないからです。
考えない者は、受動的な生き方をする以外に方法はありません。
与えてもらうもので腹を満たすのであれば、家畜と変わりないのです。
家畜には自由が与えられません。
その結末は想像の通りです。
あなたが自由を欲し、可能性を生きたいと考えているのであれば、考える力を育まなければなりません。
そのためには、目標を高く設定する必要があるということを覚えておきましょう。
目標が高ければ、同じことや当たり前のことをしても達成することができないということに気が付きます。
そうなれば、同じことや当たり前ではない方法を見付け出さなければならないのです。
同じことや当たり前のことは、簡単には手に入りません。
それは、自分の力によって生み出さなければならないのです。
考える力の向上は、豊かな創造力を導きます。
豊かな創造力によって道を築けば、人生は豊かなものとなるのです。
あなたは高い目標を掲げましょう。
簡単なことばかりを選択してはなりません。
難しい状況においては、考える以外に方法はないのです。
目標を低くすれば、考える必要はありません。
人生とは何か?を考えなければなりません。
そうすれば、自分がどうするべきか?ということを考える力も育まれるでしょう。
高い目標を掲げて生きましょう。

2016年7月21日木曜日

世界を作り替える

どのような道においても、そこに可能性を見出すためには、不足を満たす働きをしなければなりません。
不足にこそ可能性があるのです。
道は、不足に向かって切り開かれます。
不足が存在するために、道が出来るのです。
しかしながら、多くの人は不足に気が付きません。
多くの人が気が付いているのは、飽和(ほうわ)なのです。
道における飽和とは、常識のことです。
満たされているものが常識となります。
多くの人は常識に従って行動します。
そのため、道を切り開くことができないのです。
すでに満たされているものを供給したところで、何の益もないのです。
不足しているものを供給するからこそ、そこに益が生じるのです。
道における不足とは、非常識のことです。
多くの人は非常識を嫌います。
それは、過去から連なる自分にとっての合理的な思考を所有しているからです。
過去の成功や失敗体験が、人に常識的な思考を植え付けます。
今まで通りに行っていれば成果が上がると考えるのです。
しかしながら、人の所有する合理的な思考は、すでに道に飽和している状態です。
合理的な思考によって導き出される方法は、他の誰もが考え付くことなのです。
道は、可能性を求めています。
それをあなたに求めているのです。
常識的な考えや方法は安心を導くでしょう。
それは、多くの人の心の底には不安があるからです。
常識を離れることは、不安を煽(あお)ることに繋がります。
合理的な思考がそれを嫌います。
そして、常識から外れないようにと働き掛けるのです。
そして、多くの人が飽和の中に更なる飽和の材料を投じるのです。
可能性を得ることがなければ、道は衰退していきます。
根が詰まれば、樹木は衰えるのです。
樹木が豊かに育つためには、根を伸ばし続けられる空間が必要なのです。
人の道は、無限の空間です。
人は可能性を無限に伸ばし続けることができるのです。
しかし、可能性を伸ばすためには、常識から離れる必要があるのです。
非常識を愛し、道の不足を満たそうと努めるのであれば、あなたは可能性を得ることができるでしょう。
既存の方法を続けて豊かさを増す仕事があるでしょうか?
仕事が豊かさを増すためには、新しい試みを行う必要があるのです。
同じことを続けるのが仕事の意義ではありません。
変化し続けることが仕事の意義であるのです。
あなたは変化し続けなければなりません。
停滞を許してもらえるほど、この世界は簡単ではありません。
物事を展開させるためには、常識を覆す必要があるのです。
どのような道においても、非常識を始める者が可能性を得るのです。
常識に捕われてはなりません。
なぜ、他人を気にするのですか?
他人に対する配慮は必要です。
自分勝手に行ってはなりません。
しかし、それは非常識を行ってはならないということではありません。
あなたは履き違えてはならないのです。
自分のために非常識を行えば、それは自分勝手な行為となるでしょう。
しかし、他人や世の中のために非常識を行うことは、最高の貢献となるということを覚えておきましょう。
退屈な繰り返しに益があるのでしょうか?
この世界は非常識を求めているのです。
新たな可能性を待ち侘(わ)びているのです。
常識を打ち壊すのはあなたの仕事なのです。
あなたの仕事は、不足を満たすことなのです。
他人が求めているのは不足を満たしてくれる仕事です。
他人が求めているのは、新しい環境なのです。
非常識によって、あなたは世界を新しく作り替えましょう。

2016年7月20日水曜日

自分を知る機会

あなたは、現状を生きています。
あなたは、現状にしか生きることができません。
あなたは、現状と向き合わなければなりません。
あなたは、現状と向き合う必要があるのです。
現状とは、あなたの導き出した結果です。
それは、あなたの状態を知らせているのです。
現状とは、自分を知る機会なのです。
現状と向き合うことをしなければ、自分を知ることもできません。
人生を築いているのは誰ですか?
誰が選択を判断しているのでしょうか?
それは、自分です。
あなたが自分で人生の選択を判断し、実行しているのです。
あなたによって人生は築かれているということを忘れてはならないのです。
自分を知ることは、人生を知ることでもあります。
自分を知ることがなければ、人生を知ることもありません。
人生が何のためにあるのか?
それは、自分が何者であるのか?という根本的な問いに答える必要があるのです。
しかしながら、自分が何者であるのか?という問いには、簡単に答えることはできません。
それは、人生が何のためにあるのか?という問いと同様に、一生涯を掛けて導き出していく答えであるからです。
そのため、あなたは今の自分にできることをしなければならないのです。
あなたのできることとは、現状の把握です。
自分が何者であるのか?という問いには答えることができなくても、今の自分が置かれた状況を知ることはできるのです。
多くの人は現状を軽んじています。
多くの人は現状を否定し、別の状況を欲しているからです。
多くの人が現状に文句を吐いていますが、あなたは自分が現状に生きているということを忘れてはならないのです。
現状以外に生きることなどできないのです。
多くの人が現実逃避によって、様々なことを妄想しています。
妄想は幻想なのです。
どれだけ幻を求めても、現状が変わることはないのです。
それがどのような現状であろうとも真摯(しんし)に向き合い、その現状から道を生み出すのです。
多くの人は現状に関連しない道を生み出すことができると思っています。
現状から逃げ出せば、全く違う状況が手に入ると考えているのです。
しかしながら、そのように甘いものではありません。
人生の目的は、成長にあるのです。
問題を放置した状態で成長することはできません。
なぜなら、成長とは、問題の解消であるからです。
人生の目的が成長である以上、問題との対峙とその解消から逃れることはできません。
現状を放棄したとしても、同じ状況を得ることになるのです。
逃げられると思い込んでいるのならば、考えを改める必要があるでしょう。
あなたがどこに行こうとも変わりません。
誰と何をしようとも変わらないのです。
現実逃避は、あなたに一時の平安をもたらすでしょう。
しかし、それは一時のものなのです。
必ず、同じ問題が生じます。
どこで、誰と、何をしようとも、あなたは自分の抱える現状(問題)に向き合うようになっているのです。
それは、あなたを成長させるためです。
それ以外の目的はないのです。
苦しいことは本当に苦しいことなのでしょうか?
あなたは深く考えなければなりません。
現状から生み出すことのできる可能性を探しましょう。
視点を変えることによって、現状には可能性が残っているということを知ることができます。
あなたが吸い付くせるほど、目の前の状況の可能性は小さなものではないのです。
他人なら、同じ状況から可能性を見出すことができるでしょう。
それは、視点が違うからです。
現状と向き合うことをせずに、現状を打破することはできません。
現状とは自分を知らせる機会です。
それは、人生にとって大切なことなのです。
現状を嫌ってはなりません。
それがどのようなものであろうとも、前向きに向き合う気持ちを持たなければなりません。

2016年7月19日火曜日

過去の子ども

すべての人は過去を所有しています。
すべての人にとって、過去とは過ちです。
それは、未熟な見解によって導かれた判断です。
多くの人は過去を嫌うのです。
多くの人は過去を恥じます。
過去に苦しむ人は多いのです。
多くの人は過去に縛られ、そこにとどまっているのです。
過去に拘(こだわ)っているのであれば、未来を得ることはできません。
多くの人は未来を得ることもなく、過去を繰り返しているのです。
それは、停滞を導きます。
停滞は苦悩を生み出すのです。
苦悩は心に辛く、人生の理想ではありません。
人は心に喜びを持って生きなければならないのです。
そのためには、過去に縛られずに未来を切り開くことです。
過去に縛られている者には、未来を切り開くことはできません。
未来を切り開くことのできる者は、過去に縛られることなく、新たな可能性に立ち向かっていくことのできる者だけなのです。
未来を得るためには、過去を清算(せいさん)しなければなりません。
過去から離れなければならないのです。
過去を過ちとするのは、未熟な見解です。
すべての人にとって、過去は栄光です。
すべての過去に理由があり、意味があるのです。
それは、あなたの成長のためであり、それ以外の理由も意味もないのです。
それを理解することのできない未熟さがあるだけなのです。
多くの人は過去を嫌います。
過去を嫌うということは、現在よりも”簡単”なことに対して、弱音を吐いているということです。
すべての人にとって、過去は”簡単”なのです。
時間を重ねる程に、あなたに対する要求は難しくなるのです。
初心者が許されることは誰もが知っていることです。
時間の経過と共に、人は許されなくなると心得ましょう。
過去を嫌い、簡単なことに弱音を吐く者が、どうして未来という難しいことに成功するのでしょうか?
過去を嫌っているような者に未来は切り開けません。
過去を嫌う者には、未来は重すぎるのです。
あなたが過去を嫌っているのであれば、未来は諦めましょう。
それは、掴み得ないものです。
過去に縛られ、拘っている者には、未来を切り開く発想すら浮かばないのです。
そのような者が安易に未来を描いても、すべての努力は徒労(とろう)に終わるのです。
チケットを持たない者は未来へ進むことができないのです。
あなたが過去を清算していないのであれば、未来を諦めましょう。
すべての過去があなたの成長のために導かれたのです。
あなたのために導かれた過去に感謝することさえできない者は、未来を得る資格などないのです。
この言葉が厳しいと思う者は諦めましょう。
当然の条件も整えられない者には荷が重いのです。
あなたには嫌っている過去があるでしょう。
それをいつまで嫌っているつもりですか?
その行為には益がないということに気が付かなければならないのです。
無益なことを続けてはなりません。
それは、破滅を導くからです。
小さなプライドが、人を過去に縛ります。
少し深く考えれば感謝に至り、いつまでも嫌っている訳にはいかないのです。
少しだけ深く考えるだけです。
自分勝手に考えているために、少しも深く考えることができないのです。
我が儘(わがまま)をやめましょう。
それは、詰まらないことです。
いつまでも過去の子どもであってはなりません。
未来をたくましく生きるのです。
過去を振り返って考えましょう。
そこには、悪いことなどないのです。
思い通りにいかないことが悪いことなのであれば、あなたは少しも成長することはできないでしょう。
成長とは、思い通りにいかない状況を克服した後に与えられる褒賞(ほうしょう)だからです。



2016年7月18日月曜日

自分磨き

時間とは、何物にも代え難い価値です。
この世界においては、時間に変わる価値はありません。
すべての価値は時間によって導き出されるからです。
時間という原因がなければ、何も存在することができないのです。
あなたは時間を大切に扱わなければなりません。
一秒足りとも無駄にすることはできないのです。
時間とは、唯一減少し続けていく資産です。
これを増やすことはできません。
時間は常に減っているのです。
減り続けているものは、大切に扱わなければならないのです。
多くの人は時間の重要性を理解してはいません。
そのため、時間を垂れ流すように浪費するのです。
時間を無駄にする人は、時間を有効に扱うことをしません。
人生の意味や意義を考えた時には、時間の使い方に意味や意義を見出すのです。
あなたは、人生の意味や意義のために時間を使わなければなりません。
人生の意味や意義とは何でしょうか?
ほとんどの人がそれを知りません。
すべての人がそれを探さなければならないのです。
初めから知っている人はいません。
すべての人が人生の意味と意義を探さなければならないのです。
人生の意味と意義を探しているのはあなたです。
あなたは、それを見る目です。
それを聞く耳です。
それを嗅ぎ分ける鼻です。
それに触れる皮膚であり、それを味わう舌なのです。
目が閉じていればなりません。
耳が聞こえなければなりません。
鼻が利かなければなりません。
皮膚で感じなければなりません。
舌が肥えていなければならないのです。
自分という存在が人生の意味と意義を見出すのです。
時間とは、自分を磨くための資産です。
あなたは、時間という資産によって、自分を磨かなければなりません。
自分に投資するのです。
それによって、自分の価値を高めなければならないのです。
多くの人は自分に投資することをしません。
自分を磨くために時間を利用する人は少ないのです。
多くの人は、欲望のために時間を使うでしょう。
人生は何のためにあるのでしょうか?
あなたはそれを問い続けなければなりません。
そして、その時間の使い方は、問いに対する答えを導くのか?ということを考え続けましょう。
戯(たわむ)れに時間を浪費してはなりません。
虚しい時間を生きてはならないのです。
有意義な時間の使い方をしなければなりません。
一度使った時間は戻りません。
時間が余っていると考えてはなりません。
時間が余っているのであれば、あなたが問題を抱えることはないのです。
時間が足りないために、問題を抱えているということを知るべきなのです。
それは、自分を磨く時間が足りなかったということなのです。
自分を磨き、成長を実現しているのであれば、その状況が問題となることもなかったのです。
その状況が問題となるということは、成長が足りなかったということなのです。
後悔しても、時間は戻りません。
時間を大切に扱わない者は必ず後悔するのです。
あなたは時間を無駄にしてはなりません。
その時間の使い方が、自分を磨いているのか?ということを考えましょう。
後悔するような生き方をしてはなりません。
人生の意味と意義を考え続けましょう。

2016年7月17日日曜日

聞く耳

あなたは聞く耳を持たなければなりません。
聞く耳とは、柔軟性のことです。
すべての人が幸福を求めています。
幸福とは、人生の豊かさです。
人生の豊かさとは、成長によって実現するのです。
すべての人が求める幸福とは、成長によって実現するということを理解する必要があるでしょう。
人が成長するためには、学ばなければなりません。
学ぶためには、柔軟に様々な情報を受け入れなければならないのです。
何かに対して否定的な態度は、人の成長の妨げになります。
人は、どのようなものからも多くの情報を得て、それを柔軟に取り入れ、自らの成長に結び付けなければならないのです。
ただし、何もかもを鵜呑みにするということではありません。
情報は必ず精査しなければなりませんが、初めから否定するのであれば、可能性を得ることができないということです。
自分にとって受け入れがたい情報も、そこには何等かの価値があるのです。
それは、あなたの盲点である可能性が高いからです。
多くの人は頑(かたく)なです。
それは、自分が正しいという考えを所有しているからです。
自分が正しいと考えることが悪いということではありません。
人は信念を持って生きなければなりませんが、それが強過ぎれば頑なとなり、それ以上の可能性を引き入れることができなくなるのです。
知らないことを知らなければ、成長は実現しません。
無知は成長ではないのです。
常に(自分にとって)新しく、本質的な情報を手に入れなければならないのです。
聞く耳を持たなければ、新たな情報は手に入りません。
新たな情報が手に入らなければ、それ以上の可能性も成長も実現しないのです。
あなたは頑なになってはなりません。
多くの情報を吸収しなければならないのです。
聞く耳を持たなければなりません。
それがどのような情報であろうとも、あなたには意味のある情報であるのです。
その情報が有益であるとは思えないかもしれません。
しかし、有益であろうが無益であろうが、意味のある情報に違いないのです。
物事の価値を、自分の尺度(しゃくど)で計ってはならないのです。
なぜなら、その情報はあなたの知らない情報だからです。
あなたには、それが有益であるのか?無益であるのか?ということは、情報を得た(得る前の)時点では分からないことなのです。
聞く耳を持たないということは、五割の博打(ばくち)をしているようなものなのです。
あなたは、何のために耳が聞き続けているのか?ということを考えましょう。
あなたは情報を聞き続けなければならないのです。
音を無視することはできません。
耳に蓋(ふた)はないのです。
そして、それは二つ用意されています。
自分の話と他人の話、味方の話と敵の話、良い話と悪い話・・・
必ず陰陽の二つの話(情報)を聞かなければならないのです。
目は二つありますが、瞼(まぶた)があります。
人は耳ほどに見なければなりませんが、目を閉じることが許されているのです。
口は一つです。
それは、多くを話す必要がないということを意味しているのです。
愚かな者は一つの口で多くの言葉を並べ立てるでしょう。
あなたが成長を求め、知恵を得ようと考えているのであれば、口を慎(つつし)みましょう。
あなたの口が動いている間にも、多くの情報が流れていきます。
口を動かすのに一生懸命になっている間に、大切な情報が遠ざかってしまうのです。
あなたの内にある情報は少量です。
少量の情報を語っても益がありません。
語るよりも多くを見なければなりません。
見るよりも多くを聞かなければなりません。
あなたは聞く耳を持つことによって、自らを改めましょう。
聞く耳を持たない者は成長することができません。
どのような忠告も、賞賛も、耳を持たない者には伝わらないのです。

2016年7月16日土曜日

一段一段

あなたが満足する結果を得るためには、物事に対して本質的に働き掛けなければなりません。
本質的な働き掛けによって、本質的な変化が導かれます。
それは、物事の核心を揺るがす変化となり、今までにはない結果を導き出すことになるのです。
物事に対して、表面的な働き掛けをするのであれば、見た目が変わるだけで、核心的な変化は導かれません。
核心的な変化が導かれなければ、革新は導かれないのです。
革新が実現しなければ、満足することはできないのです。
今までと同じことを続けていくことは、停滞を意味します。
停滞に満足することのできる人はいません。
人は、革新的な結果を求めているからです。
どのような人であっても、より良くなることを求めているのです。
人は、より良いものを求めています。
あなたは、より良いものを求めなければなりません。
より良いものを実現するためには、本質的な働き掛けが重要なのです。
本質とは、物事の核心です。
それは、目には映らないものなのです。
多くの人が認識しているのは、物事の表面です。
そのため、多くの人の仕事は”真似事”なのです。
革新的な仕事をする人がいるでしょうか?
多くの人の仕事が、今までにあったものに少しだけ変化を加えたものに過ぎないのです。
今あるものは、過去にもあったのです。
多くの人が革新的なことをしていると思っていますが、そうではありません。
多くの場合、停滞の中にいるのです。
そのため、満足する結果を得られている人はいないのです。
中には、自分の仕事に満足している人もいるでしょう。
しかしながら、それは、自己満足に過ぎないのです。
多くの人の自己満足は、無知によって導かれる誤解です。
本来なら、満足することはできないはずなのです。
満足することができるということは、それ以上の向上がないということだからです。
人は少しずつしか変えていくことはできません。
何かを変えられたことに満足しなければなりませんが、満足してはならないのです。
矛盾しているように聞こえるかも知れません。
それは、階段を一段ずつ上るようなものです。
一段上がれたことには満足する必要があります。
しかし、その先には階段が続いているのです。
そのため、一段上がったことで満足していてはならないのです。
次の一段を上がらなければならないのです。
一段上がったところで、景色は変わりません。
しかし、何十段と上がることによって景色は変わります。
革新とは、変化の積み重ねによって実現するものなのです。
それも、核心的な変化の積み重ねによって実現するのです。
人は大きく物事を変えることはできません。
しかし、核心的な変化を積み重ねることによって、大きく物事を変えることができるのです。
小さな満足と大きな満足があるのです。
階段を一段上がれば、小さな満足が得られるでしょう。
階段を登りきり、階(景色)が変われば大きな満足を得るでしょう。
階段を一段一段上っている段階では、革新的な変化は実現しません。
厳密には、満足を得ることはできませんが、階段を上りきり、今までとは違う景色を見た時に満足しましょう。
結果として、何も変わっていなければ、満足することはできないのです。
自己満足に浸ってはなりません。
物事の本質に働き掛け、より良い変化を導きましょう。
そうすることによって、あなたの仕事に関わる人が革新的な変化に憧れます。
そして、自分も革新的な変化を実現しようとする働き掛けが始まるのです。
それぞれの人が、革新的な変化を求め、本質に向き合うようになれば、良い結果が導かれるのです。
あなたは革新的な変化を求め、一段一段、確実に階段を上りましょう。
小さなことしかできませんが、それを放棄してはなりません。

2016年7月15日金曜日

良い人間関係

人生においては、あなたに相応しいものが導かれます。
目の前の状況、置かれた環境、付き合う人・・・
あなたが手にするすべてのものが、あなたにとって相応しいのです。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
多くの人が、手にするものを受け入れられずにいるのです。
多くの人は否定を用います。
気に入るものは肯定(こうてい)しますが、気に入らないものは否定します。
多くの人の中では、それが”当たり前”となっているのです。
しかしながら、人生を考察した時には、そのようには思えないでしょう。
好き嫌いという幼稚な判断であっては、人生の最善を理解することができないということに気が付くのです。
好き嫌いによって最善が導かれるのであれば、すべての人が人生に満足しているはずなのです。
しかしながら、多くの人が人生に不満を抱えています。
好き嫌いによって判断しているにもかかわらず、豊かな人生を得られていないのです。
それは、好き嫌いという幼稚な発想が、人生の豊かさにはかかわりのないものだということなのです。
好き嫌いによって計ることができるほど、人生は簡単なものではありません。
あなたの判断は常に間違っています。
それは、あなたの価値観が逆転しているからです。
人格とは、魂の汚れです。
人が自分だと思っているもの(人格)は、魂の汚れであるのです。
人生は、魂の汚れを取り除くためにあるのです。
そのため、人生が好き嫌いという判断によって、理想通りに進むことは問題なのです。
多くの場合、多くの人は反対の判断を下さなければなりません。
今、あなたが喜んでいるものには警戒しましょう。
今、あなたが苦しんでいるものには、気を緩めなければならないのです。
汚れであるあなたが喜んでいるものは、汚れているものです。
汚れであるあなたが苦しんでいるものは、清いものなのです。
この矛盾に気が付く必要があるのです。
人生を考察しなければなりません。
自分にとって楽な道を選べば、どのような未来が待っているでしょう?
自分にとって苦な道を選べば、どのような未来が待っているでしょうか?
答えは、体験によって手に入れましょう。
多くの人は人生を考察してはいません。
人生について考えることをせず、感情に流されることによって生きているのです。
そのため、自分にとって何が最善であるのか?
人生が何であるのか?
ということに思い至らないのです。
あなたは自分に相応しいものだけを受け取っています。
そのことを忘れてはならないのです。
”人のふり見て我がふり直せ”という言葉があります。
他人があなたにもたらす行為は、あなたに相応しいものです。
人間関係の問題を抱えている人は少なくありません。
それは、人間関係を考察しないからです。
問題の本質を明らかにすることなく、問題が解決することなど有り得ないのです。
人間関係の本質とは、”人のふり見て我がふり直せ”ということです。
あなたは他人から、自分自身を学んでいるのです。
好き嫌いによって人間関係を選択するのであれば、あなたは益々汚れを増すでしょう。
好き嫌いによって人間関係を築くのであれば、いつまで経っても自分の歪みに気が付かないのです。
あなたを褒(ほ)め、あなたの味方になり、あなたと共に敵を討(う)つような人間に囲まれていては、あなたの成長は実現しないのです。
良い人間関係とは、あなたに自らの歪みを教えてくれる人との関係なのです。
人生の目的は汚れを取り除くことによって成長を実現することにあるのです。
あなたの汚れを指摘してくれる人でなければ、あなたは成長することはできないのです。
好き嫌いで人生を判断してはなりません。
あなたが味方だと思っている人は、あなたの敵かも知れません。
あなたが敵だと思っている人は、あなたの味方かも知れません。
安易に生きてはならないのです。
どの道を進むもあなたの自由です。
しかし、どのような選択も、自分に相応しい結果を導くということを覚えておきましょう。

2016年7月14日木曜日

道のルール

多くの人は、人生に不条理を感じています。
多くの人は、自分が不当な扱いを受けているのだと思っているのです。
人生は思い通りにはいきません。
多くの人は人生を誤解しています。
思い通りにいかないことが自然であり、それが最善なのです。
多くの人は人生を理想通りに進ませることが良いことのように考えています。
そして、理想通りに進まなければ文句を吐くのです。
人生を築いているのは、誰かや何かではありません。
人生を築いているのは、自分自身なのです。
あなたが自らの人生を築いています。
それ以外の原因は存在しないのです。
しかしながら、人生を一見すれば、人生が誰かや何かの力によって築かれているように思えるでしょう。
”誰かのせいで苦しんでいる”
”不景気のせいで上手くいかない”
多くの人はこのように考えているのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
誰にでも、合わない相手がいます。
誰にでも、同じ時代です。
人生は平等なのです。
もちろん、学びの段階によって学ぶことには違いがありますが、それは学びの方向性であって、道のりは同じものなのです。
人生を誰かや何かのせいにすることはできません。
そのような言い訳は価値を持たないということを理解しなければならないでしょう。
人生は自分のせいなのです。
どのような道も、既にルールが決められているのです。
すべての人は既存のルールを受け入れて道を始めるしかないのです。
すべての人はルールを提示された上で道を始めます。
しかしながら、多くの人は提示されたルールを読みません。
それは、自分の責任なのです。
あなたが道を始める前からルールが決められているのです。
それを理解しないのはあなたの勉強不足です。
そして、それを守らないのは自己責任なのです。
多くの人はルールを読みません。
そのために、自らルール違反を犯した後に、文句を吐くのです。
多くの人がルールを破っているのです。
そのために、苦悩が導かれます。
しかしながら、そのような人は自分を正当化するのです。
そうすることによって、人生に不条理や不当な扱いを受けていると思い込んでしまうのです。
そして、責任逃れを企(たくら)み、ごねるのです。
知らないとは言えないのです。
知らないのは誰のせいでもないのです。
知らないのは、ルールを勉強しなかった自分のせいなのです。
そのため、人生にどのようなことが起ころうとも、それは不条理ではありません。
あなたが不当な扱いを受けているのでもないのです。
筋が通っていないのは、ルールを読まず、ルールを知らずに道を歩む者なのです。
そのルールがどのようなものであれ、あなたが道を進む前からそのように決められていたのです。
ならば、筋が通らない道理にはならないのです。
道を進んでみて、思い通りにいかなければ文句を吐くというのは、ただの我が儘(まま)に過ぎないのです。
人生には不条理など存在しません。
すべてに理由があって存在しているのです。
すべてには、因果の仕組みが働きます。
不条理など生じるはずがないのです。
あなたが勝手にそのように思い込んでいるだけなのです。
あなたは自分勝手に考えてはなりません。
都合の良いようには進みません。
あなたが不条理や不当な扱いを受けたと感じたのであれば、自分自身を客観しましょう。
そうすれば、物事の道理が見えて来るでしょう。

2016年7月13日水曜日

知識の量と可能性の数

人生は成長の舞台です。
人は人生において成長を体験し続けなければなりません。
成長の速度を問うのではありません。
成長を実感することを問うているのです。
あなたは、成長を実感しなければならないのです。
成長は、変化によって実現します。
変化することが成長なのです。
それがどのような変化でも構いません。
現状から変化することによって、成長が導かれるのです。
人が変化するためには、行動パターンを変化させる必要があります。
行動パターンに変化が認められなければ、成長することはできないのです。
それは、同じことを繰り返すことによっては、停滞が実現してしまうからです。
停滞は変化を殺します。
それは、苦悩を導くのです。
変化を導き、成長することがなければ、苦悩が導かれるようになっているのです。
それは、苦悩によって人が行動パターンを変える可能性が高まるからです。
行動は、思考によって決定されます。
すべての人は行動パターンを所有していますが、それは思考回路によって導かれるプログラムなのです。
行動は、思考の設定です。
すべての人は、設定された思考に従って行動します。
人の行動は、思考そのものなのです。
そのため、行動パターンを変えるためには、思考回路を変える必要があるのです。
思考は知識の集積です。
知識によって思考を変えることができるのです。
あなたが行動パターンを変えたければ、知識の停滞を許してはならないのです。
新たな知識を手に入れ、思考回路を新たに組み替えなければならないのです。
人は、知っていることを行動します。
知らないことを行動する人はいません。
人の行動は、顕在的(けんざいてき)か潜在的に知っていることなのです。
全く知らない知識を行動することはできません。
思い付きもしないのです。
原因が存在しなければ、結果は導けません。
食材がなければ料理は作れないのです。
知識という材料がなければ、行動という結果を作り出すことができないのです。
新しい知識がなければ、新しい行動はありません。
多くの人は新しい知識に関心を持ちません。
既存(きぞん)の知識で足りていると思い込んでいるのです。
多くの人が思考回路を改めません。
何年、何十年も同じ思考回路で運転しているのです。
状況は常に変化しています。
時代は常に移り変わっているのです。
どうして、同じ思考回路が通用すると思うのでしょう?
あなたは古い電子回路のコンピューターを重宝しているでしょうか?
それが使い物にならないということを、あなたは知っているはずです。
古い回路には益がないのです。
新たな知識を導入しない思考回路には益があるのでしょうか?
残念ながら、そこに益はないのです。
あなたは新たな知識によって、新たな思考回路を完成させましょう。
しかし、満足してはなりません。
どのような回路を完成させようとも、それはすぐに古くなるからです。
同じ行動パターンを繰り返してはなりません。
それは、無知を放置することになるからです。
あなたは勉強しなければなりません。
知識に対する意欲を持ちましょう。
もっと知りたがりましょう。
知識が荷物になることはありません。
複雑な回路は、多様な結果を導くことができます。
多くの知識によって、あなたは多くの可能性を知るでしょう。
知識の量は、可能性の数なのです。
古い思考回路を捨てましょう。
新たな思考回路によって、新たな行動パターンを導き、豊かな人生を実現しましょう。

2016年7月12日火曜日

仕事の目的

人生において、すべての存在は成長を求められています。
どのような存在も、目的は成長にあるのです。
成長を否定した先にも成長の学びがあります。
すべての存在は、この定めから逃れることができないのです。
どのような選択をしようとも、あなたは成長へと向かいます。
逃れようとしても、成長へ辿り着くのです。
否定や逃避も結局のところは成長へと辿り着きますが、肯定や直面よりも道のりが長いのです。
当然、成長を実現するのにも時間がかかります。
何かに対して否定や逃避を選択しているのであれば、頑(かたくな)にならずに肯定や直面する気持ちを少しずつでも浸透(しんとう)させていく方が有益なのです。
あなたは人生におけるすべての状況が、成長へと向かっているということを覚えておかなければなりません。
成長は避けられないことです。
ただし、それを遅くすることは許されています。
しかしながら、成長を遅くしたところで良いことはありません。
そこには苦悩が導かれるからです。
成長を否定する人には、苦悩が導かれます。
苦悩によって、人は成長する必要に迫られるのです。
苦悩するのにも意味はありますが、苦悩せずとも成長することはできるのです。
それは、目的意識が成長へと向けられることなのです。
どのような状況も、それが成長へと繋がっていると考えましょう。
そうすれば、あなたはどのような状況からも学ぶことができるでしょう。
自主的に学ぶことによって成長は早まるのです。
あなたは”人間”を育てなければなりません。
”人間”を育てるというのは、人生を心地好く受け取ることのできる器を育てるということです。
物事に対して否定や逃避、嫌悪や闘争を選択する人がいます。
そのような人の心は乱れています。
そのような人は人生を心地好く受け取ることができてはいません。
それは、器が小さく、余裕を以て状況を受け取ることができないからです。
器が大きければ、激しく注がれる水も綺麗に収めることができます。
そこには喜びが導かれるのです。
器が小さければ、優しく注がれる水であっても撒き散らします。
そこには苦しみが導かれるでしょう。
”人間”が大きな者は喜びの中に生きることができます。
”人間”が小さな者は苦しみの中に生きなければならないのです。
人生におけるすべての状況が、あなたの成長を求めています。
仕事は何のためにあるのでしょうか?
あなたは何のために仕事をしているのですか?
多くの人は金銭のためや生活のためと答えるでしょう。
それは、小さな器です。
金銭や生活のために仕事をしている者には、仕事を収めることはできないのです。
そのような者は仕事によって苦しむでしょう。
人生の目的は成長にあるのです。
人生の枝葉である仕事は、”人間”の成長を目的としているのです。
仕事を通じて、人は”人間”を育まなければならないのです。
多くの人は誤解しています。
あなたは仕事によって”人間”を育てるように努めましょう。
自分自身の成長はもちろんのこと、他人の成長を目指すのです。
仕事というものは、それに携(たずさ)わる人が成長しなければ価値がないのです。
金銭を集めるだけの仕事に何の価値があるのでしょう?
多くの人は仕事の目的を見失っています。
仕事とは、金銭を集めるための”詰まらない”作業ではないのです。
それは、”人間”を育てるための作業であり、金銭などは副産物に過ぎないのです。
副産物を目的にするのは間違っています。
仕事における金銭とは、思い掛けず得られるものなのです。
金銭が存在する前から仕事は存在したのです。
どうして、後から生じた金銭のために仕事をするのでしょうか?
矛盾に気が付かなければならないでしょう。
金銭が存在しなければ、あなたは仕事によって何を得るのですか?
それを考えた時、簡単に答えは導かれるでしょう。

2016年7月11日月曜日

時間を使い切る

すべての人には、必要な時間が与えられています。
すべての人にとって、時間が多過ぎることや、少な過ぎることはありません。
時間は必要なだけ与えられているのです。
しかしながら、与えられるのは必要な時間だけです。
無駄はありません。
与えられる時、あなたはそれを一括で受け取ります。
あなたの人生は、限られた時間の中に築かれているのです。
時間は唯一、常に減少する資産です。
時間だけは増加することがありません。
あなたが生まれた瞬間から、死ぬことが決まっているのです。
人生とは、死への歩みでもあるのです。
人は、死ぬために生きているのです。
どのように生きるか?ということは重要ですが、どのように死ぬか?ということも重要です。
多くの人は死を恐れています。
死を恐れる余り、それを考えないように遠ざけているのです。
死を考えない者に、人生を考えることはできません。
なぜなら、人生には死が必至だからです。
重要な要素を否定するのであれば、決して理解は得られないのです。
死を受けない生はありません。
この世界に存在するすべての存在は、死を以て世界を離れるのです。
人は必ず死を迎えます。
そのため、死を意識した人生にしなければ矛盾します。
生きることだけを意識しても、その人生は大きく傾いてしまうのです。
生と死、この二つは陰陽の性質なのです。
双方で一つなのです。
生と死を切り離して考えてはなりません。
生と死は、互いに高め合う関係にあるのです。
夜と昼が互いに協力して世界を豊かなものにするように、生と死は互いに協力して人生を豊かなものにしているのです。
夜ばかりでは人生が豊かなものにはなりません。
昼ばかりでも同じことです。
光と闇、昼と夜、暖と寒、男と女、大と小・・・
対極する二つの性質が互いに支え合うことによって、豊かさが導かれるのです。
生と死の双方を考える人が、時間を無駄にすることはありません。
それは、始まりと終わりを同時に考えるからです。
期日を考える人は、無駄なく時間を利用するでしょう。
あなたには必要な時間が与えられていますが、それをどのように利用するのか?というのはあなた次第です。
あなたは与えられた時間をどのように利用することもできるのです。
例えば、あなたには1日に約24時間が与えられています。
あなたは約24時間という時間をどのように利用するでしょうか?
あなたはその時間を好きに使うことができます。
欲求とは、人の原動力です。
欲求が志(こころざし)によって生じたのであれば、それは意欲となります。
人が意欲を持った時、約24時間という時間を余すことなく利用するでしょう。
多くの人は”時間が無い”と言います。
しかし、あなたには1日約24時間という時間が与えられているのです。
本当に時間が無いのでしょうか?
時間が無いと思う人は、時間を無駄に利用している習慣を所有しているのではないか?と考えましょう。
厳密には、あなたの選択には無駄はありません。
すべてが必要なことなのです。
しかしながら、より良い方法に変えることができることもあるのです。
時間を無駄にしてはなりません。
それは、初めから減少するのが決まった資産だからです。
時間はあなたの手にする袋から零(こぼ)れ落ちていきますが、それをただ眺めていてはなりません。
時間が袋から零れ落ちるのであれば、それを有効利用する方法を考えましょう。
その繰り返しが、時間に対する無駄をなくしていくでしょう。
時間が無いと考えている人は、時間の使い方に問題はないか?を考えましょう。
あなたには時間や人生を無駄にする習慣があるはずです。
すべては成長のために行われなければなりません。
素早く見極め、時間を無駄にするのをやめましょう。
時間の有効利用が行われて初めて、あなたは豊かな死を得るでしょう。

2016年7月10日日曜日

本道

道は、意欲によって始まります。
道があるのではないのです。
道は、意欲によって築くものなのです。
人は理解を求めています。
理解とは本質を得る行為です。
理解を得るためには、本質へと向かう必要があります。
本質へ向かうためには、道を進まなければならないのです。
道とは理解なのです。
人が理解を深めることを、道を行くというのです。
理解を深めるには、意欲が必要です。
誰かがあなたに理解を導くことはできません。
理解というものは、自分自身によって深める必要があるのです。
誰かに強制されることによっては、道を進めることはできません。
多くの人は”やらされている”のです。
与えられた作業をこなすことでは、道を進み、本質へ近付くことはできないのです。
”やらされている”のであれば、道程に立ちはだかる”関門(かんもん)”を通ることはできないのです。
すべての道には”関門”が設けられています。
それは、資格を有する者を見極めるのです。
資格を有しない者は通ることができません。
それ以上の深みへと進むことは叶わないのです。
資格とは、自主性です。
どのような道を進むにしても、自主性を有しない者は第一の関門によって足止めを食らうのです。
”やらされている”者が進むことのできる道はありません。
それは、意欲を持たないからです。
意欲が道を築くのです。
それを持たない者には、道を進む必要がないのです。
多くの人は意欲を持たずに道を進もうとします。
それは、矛盾している行為なのです。
進みたくない道を進もうとするのは、楽しいことではないのです。
楽しいと感じることに意欲が生じるのです。
どのような道を進むにしても、楽しいと感じることがなければ、決して進むことはできないのです。
多くの人が恐怖(不安、怒り、悲しみなど)を原動力として道を進もうとします。
その道は人の力を奪う道です。
ある程度の所までは進むこともできますが、それ以上は力が足りないのです。
恐怖を原動力として道を行く者は、苦行をしているようなものなのです。
それは、途中で行き倒れるのです。
景色を楽しみながら、多くのことを学びながら、不要を手放し、必要を得ることによって、可能性を手にすることができるのです。
意欲のある者は、創意工夫(そういくふう)によって道を開拓(かいたく)することができるのです。
”やらされている”者には、創意工夫ができないのです。
それは、本質を求めてはいないからです。
あなたは、自分の人生を受け入れなければなりません。
目の前の状況こそが人生なのです。
それが理想とは懸(か)け離れているとしても関係ありません。
あなたが進んでいる道が現実なのです。
文句を吐いても始まりません。
理想的な道を歩みたければ、その道まで達する必要があるのです。
今、歩んでいる道を進まなければ、別の道には辿り着けないのです。
どのような道を進んでいるにしても、それを進んでいるのであれば意欲を持つように努めましょう。
現実逃避によっては、理想の道を得ることはできないのです。
道に迷ったとしても、その道から本道(ほんどう)へと向かわなければならないのです。
すべての道は繋がっています。
現状から理想を得ることができるのです。
そのためには、関門を通らなければなりません。
そのためには、自主性を有しなければなりません。
文句を吐かずに学びましょう。
どのような道においても、学ぶべきことがあるのです。
大切な学びを蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
意欲を以て道を進みましょう。
そうすれば、いつか本道へと合流することができるのです。

2016年7月9日土曜日

強欲

人は、自分の感情を優先させてはなりません。
それは、自分勝手な行為に結び付きます。
人は全体性を失ってはならないのです。
すべての人が全体に所属しているのです。
誰一人として、全体から離れて存在している者はいないのです。
全体があるために、あなたが存在しているのです。
全体が存在しなければ、あなたが存在することはできないのです。
しかしながら、多くの人は自分が例外だと思い込んでいます。
多くの人が全体性を失っているのです。
人は自然界の一員です。
自然から離れて存在することのできる人間は存在しません。
すべての人間が、自然界に抱かれているのです。
しかし、多くの人間はそのことを理解しません。
自分が自然界に関わりがないと思い込んでいるのです。
全体性を失った人間は、自分勝手に振る舞います。
自然界において自分勝手に振る舞うことは、自然環境の破壊に貢献することになるのです。
自分勝手な振る舞いは、全体の破滅に貢献するのです。
多くの人が自分勝手に振る舞います。
そのため、多くを欲しているのです。
多くを欲するということは、全体性の消失です。
どのような資源も有限なのです。
多くを欲することによって、多くを取ることになるのです。
多くの人が多くを取れば、資源は減少していきます。
それは、資源の枯渇(こかつ)に結び付くのです。
果実には、種子が含まれています。
全体性の消失とは、種子まで食らう行為のことです。
種子は果実という資源の原因です。
それは、残しておかなければならないものなのです。
しかしながら、多くの人が種子までも腹に収めるのです。
それほどまでに多くを欲しているのです。
種子まで食らう必要があるのでしょうか?
多くを取り過ぎてはいませんか?
多くの人は恐怖を所有しています。
恐怖は様々な不安を呼びます。
不安に駆られた者は多くを欲するようになるのです。
多くの人は不安に駆られ、多くを欲しているのです。
満ち足りているのに足りないと思い込んでいるのです。
そのため、自分のことで精一杯となり、全体が見えなくなっているのです。
不安が全体性を失わせます。
人の世には不安が溢れています。
そのように不安を抱えなくても生きていけるのです。
あなたは何に怯(おび)えているのですか?
本当にそんなに必要なのですか?
人は多くを取り過ぎています。
それは、後に続かないのです。
可能性を狭める生き方が優れているのではありません。
多くの人は、何かを犠牲にして、自分だけが楽に生きることを喜んでいます。
何かを犠牲にしているということは、因果の仕組みによってその報(むく)いを受けなければならないということなのです。
それは優れた生き方ではありません。
種子まで食らう生き方は、果樹を損なうのです。
果樹が生きている時にはそれでも良いと考えるのです。
しかし、来年は実を付けないかもしれません。
嵐に倒されるかもしれません。
枯れてしまうかもしれないのです。
そうなれば、果実は手に入らないのです。
それで終わりです。
次の果樹が育っているのであれば、何の心配もないのです。
あなたは、種子を残しておきましょう。
そして、次の世のために蒔(ま)きましょう。
全体性を見失わずに、必要で我慢しましょう。

2016年7月8日金曜日

状況を食べる

人生を築いているのは誰ですか?
人生を築いているのはあなたです。
あなたの選択によって人生は展開しているのです。
それは、誰かや何かのせいではありません。
決定権はあなたにあるのです。
他人や環境などの外的要因は、状況を導くことは許されています。
表面的に見ると、誰かや何かによって人生が築かれているように映ります。
しかし、状況で人生が決まることはありません。
人生とは、状況をどのように導くか?によって決まるのです。
状況によって人生が決まるのであれば、あなたの選択や行為はすべてが無意味なものとなります。
何を得ても関係ありません。
それをどう捕らえ、どうするのか?ということが重要なのです。
人は自然から与えられた食材を食す以外に方法はありません。
自然から与えられた命をエネルギーに変えているのです。
自然から与えられた状態では食べることができないものが多いのです。
人はそれを調理という行為によって、エネルギーを摂取し易い形に加工します。
どのように調理するかは自分の選択です。
焼くにしても、煮るにしても、蒸すにしても、和えるにしても、干すにしても、漬けるにしても、発酵させるにしても良いのです。
どのような命も、後の調理法によって人にとっての価値が決まるのです。
人には、選択が許されているのです。
あなたは、受け取った状況を自由にできるのです。
それを喜びに加工しても、苦しみに加工しても良いのです。
受け取った時点においては、何も決まってはいないのです。
諦めを所有している人は、何の努力も工夫も辛抱もせずに決め付けます。
思考停止に陥り、それ以上の価値を見出すことができないのです。
そのため、人生は”誰かや何かのせい”なのです。
そのような人は、食材を”生”で食っているようなものです。
それは、”獣”のような生き方なのです。
人生が”人のせい”だと思い込んでいる人には品性がありません。
そのような人は”獣”のように何かに怯(おび)えており、小さな物音に飛び逃げます。
その割に、自分が偉いと思い込んでおり、下らない地位を求めてすぐに争うのです。
人生が”人のせい”だと思い込んでいる人には、我慢がないのです。
自分の感情を優先し、欲望のままに生きているのです。
自制がなく、自分勝手に生きているのです。
生食は、毒を腹に収めるでしょう。
状況をそのままの状態で飲み込めば、腹が痛むのです。
腹が痛むのを食材のせいにするのです。
大切なのは客観性を得ることです。
人生が”人のせい”だと思い込んでいる人には、主観性しかないのです。
そのため、人生が自己責任であるということ、すべてが身から出た錆(さび)であるということを知らないのです。
悪気はないのです。
ただ、無知なだけです。
しかし、無知ではなりません。
無知を放置するのであれば、人生の意味がないのです。
あなたが人生を築いているのです。
自覚しなければなりません。
あなたは知恵を集めなければなりません。
常に何かを学んでいましょう。
何事も誰かや何かのせいにせず、それが喜びの形 となるまで工夫しましょう。
人生を苦悩のままに生きてはならないのです。
少しでも楽しく生きなければなりません。
楽しく生きるためには、問題を解決しなければなりません。
欲を言えば、問題が生じないように調理方法を学ばなければなりません。
知恵とは、調理方法のことなのです。
知恵のある人は、どのような命も喜びに変えるでしょう。
知恵のない人は、どのような命も苦しみに変えるのです。
どうすれば、美味しく食べられるのか?を考えましょう。
知恵を集めなければなりません。
人生を楽しく生きましょう。

2016年7月7日木曜日

現象と本質

あなたは、物事を見た目によって判断してはなりません。
物事には、表面的な現象と、裏面的(りめんてき)な本質とが共存しています。
現象と本質のどちらかが損なわれることはありません。
現象と本質の二つの性質によって、物事は存在するのです。
現象は表層を形成し、本質は深層を形成しています。
対象を理解するためには、現象と本質の両側面を知る必要があります。
どちらか一方を知ったところで、理解には至らないのです。
しかしながら、多くの人は本質を知らないまま、理解を得たと思い込んでいます。
現象を捕らえただけでは、何も知らないに等しいのです。
多くの人が物事を本質的に考えません。
感情に左右されるように、現象に左右されるのです。
多くの人が現象によって判断しています。
しかしながら、現象とは物事の表層に過ぎず、それは変化し続けているものなのです。
現象に重きを置いていると、判断を誤ることになるのです。
それは、秋になって葉を落とす樹木を枯れたと判断するようなものなのです。
現象によって判断するのであれば、休眠期に入った樹木を切り倒してしまうことになるでしょう。
春になり、花を咲かせ、枝葉を伸ばし、秋には果実を恵みます。
落葉という現象によって樹木を切り倒してしまうのであれば、果実の恵みを受けることはないのです。
それでは益がないのです。
本質を見極めない者は、そのように損をするということを覚えておきましょう。
あなたが豊かさを求めているのであれば、物事の現象に惑わされてはなりません。
物事は、本質的に考える必要があるのです。
そのためには、自分に問い掛けなければなりません。
”それは何か?”
ただこれだけの質問です。
落葉という現象に”それは何か?”と問い掛けるだけで良いのです。
樹木に対して、”それは何か?”と問い掛ければ良いのです。
それによって、あなたは果実の恵みを受けるのです。
直感には根拠がありません。
それは、現象的な力なのです。
直感は大切な”半分”です。
後の半分は思考によって満たされるでしょう。
直感を思考によって理論立てていかなければなりません。
それは、直感の根拠を示すこととなり、本質を得ることができるのです。
多くの人は考えていません。
しかし、本人は考えているつもりなのです。
多くの人の考えているというのは、直感を得た時に現象について考えているに過ぎません。
残念ながら、本質について考えてはいないのです。
それは、質問を怠(おこた)っているからです。
”それは何か?”
ということを問い続ければ、必ず本質へと近付きます。
問い続けない者は、現象を彷徨(さまよ)い続けるでしょう。
あなたは、枝葉が落ちたからといって、樹木を切り倒してはなりません。
樹木が枝葉を伸ばさない時には、地中の根を伸ばしているのです。
畑の作物が育たないからといって、苦悩する必要はないのです。
樹木の本質は根にあります。
根が育たなければ、大風によって倒れてしまうのです。
枝葉を伸ばすことも大切ですが、根を伸ばすことも大切なのです。
要は枝葉という現象と、根という本質のバランスなのです。
枝葉が大き過ぎれば倒れます。
根ばかりだと実りがありません。
多くの人は枝葉である現象を気にしています。
物事を表面的に判断してはなりません。
枝葉が育たない時には根が育っているということを理解しておきましょう。
人生が思い通りに進まなくても良いのです。
苦悩という現象を受ける時には、見えない本質である心が育っているからです。
苦悩という枝葉が育つ時、バランスを取るために心という根が育つのです。
苦悩はあなたを育てるでしょう。
多くの人は直感的に苦悩を嫌いますが、あなたはそれを大切にしましょう。
そうすれば、苦悩の中に心が育つでしょう。
心とは、人の本質です。
それは、仕事の本質であり、人生の本質であるのです。

2016年7月6日水曜日

反対の方法

この世界には陰陽の仕組みが存在しています。
すべての存在は陰と陽の二つの方向性の力を所有しています。
それは、死と生とも言えるでしょう。
すべてのことに死があり、生があるのです。
死と生のバランスが豊かさの原因なのです。
死と生のバランスが崩れた時、豊かさの原因も崩れるのです。
それは、乏しさの原因を導くのです。
死と生のバランスが崩れた時、そこには乏しさが導かれるということを覚えておきましょう。
大切なのはバランスです。
死が強過ぎても、生が強過ぎてもなりません。
死と生のバランスは、循環によって知ることができます。
死と生が循環するのであれば、それはバランスが保たれているということです。
死と生が循環しなければ、バランスが崩れているのです。
循環とは調和です。
それは豊かさを導くのです。
循環とは、物事が円滑(えんかつ)に進む様です。
循環が途切れた時、そこには滞(とどこお)りが生じるのです。
それは、問題として現れます。
状況的な問題として現れるかも知れません。
心境的な問題として現れるかも知れません。
どのような形であろうとも、あなたを停滞させるための問題が生じるのです。
物事が停滞すれば、豊かさを生み出すことができません。
それは、樹木が実りを得ないようなものなのです。
根を伸ばし、枝葉を茂らせ、花を咲かせて実ります。
根が伸びなければ実りはありません。
枝葉が茂らなければ実りはありません。
花が咲かなければ実りはないのです。
循環が滞れば、豊かさは導かれないのです。
多くの人は問題を抱えています。
その問題が豊かな人生を妨げているのです。
問題を問題としなければ、人生の豊かさは実現するのです。
問題を問題とする生き方には循環がありません。
それは、問題を問題とすることによって、調和を乱しているからです。
問題を抱えている人には、嫌悪があります。
何かに対して嫌悪感を抱えているのです。
それは、その対象に死を与える力です。
嫌悪の対象が多い、又は、強烈な嫌悪感を抱いているのであれば、死と生のバランスが崩れます。
なぜなら、人は死の方法は知っていても、生の方法は知らないからです。
多くの人は殺し方は知っています。
しかし、生かし方は知らないのです。
例えば、散財の方法は知っていますが、蓄財の方法は知りません。
時間を浪費することは知っていても、有効活用することは知らないのです。
そのため、バランスが崩れています。
多くの人の場合、死の方に傾いているのです。
バランスが死に傾くのであれば、物事は破滅的な方向性を持つのです。
それは、多くの問題を抱える乏しい人生を得る結果となるのです。
あなたは生かし方を考えなければなりません。
あなたは自分の信じる方法とは、反対の方法を用いましょう。
問題を抱えて乏しく生きてるのであれば、その方法を続けても乏しさが増すだけです。
乏しさの反対は豊かさです。
ならば、反対をすれば良いだけなのです。
簡単なことができません。
考え方を反転させましょう。
あなたは敵を愛し、味方を疑いましょう。
苦難を喜び、気楽を恐れましょう。
死に傾いたバランスを、生の方向に傾けましょう。
反対のことをしなければなりません。
簡単なことです。

2016年7月5日火曜日

人生の主導権

あなたが良い結果を導きたいと考えているのであれば、感情に流されてはなりません。
多くの人は感情的に選択します。
決定権は感情にあるのです。
感情とは、幻想です。
それは、一時の思いに過ぎません。
感情には何の根拠もないのです。
多くの人が感情に決定権を委(ゆだ)ねています。
そこには、何の根拠も無いにもかかわらず、それに頼っているのです。
人の行為とは、最善を導くための選択です。
感情に流されて行為する人は、それが最善の選択なのです。
あなたは、他人がなぜそのような選択をするのだろう?と疑問を持ったことはありませんか?
すべての人が他人の行為に疑問を持つのです。
他人のことを理解することができる人はいません。
人は他人を理解することができないのです。
その人がそのように行為するのは、それが最高の選択だからです。
それ以上の選択はできないのです。
それが、どのように下劣な行為であろうとも、その人にとってはそれが最高の選択なのです。
それ以外の選択はできないのです。
それ以上の行為は導けないのです。
それは、あなたにも言えることです。
人の行為は、その人の最高の選択の結果なのです。
多くの人は他人を裁(さば)きます。
しかしながら、本来ならば他人を裁く権利などないのです。
それは、多少の程度の差はあっても、すべての人は同じことをしているからです。
例えば、上級者が下級者を裁くとします。
しかし、その上級者には更なる上級者がいて、同じように裁くのです。
その時には、同じことをしているのです。
そのため、人に他人を裁く資格などありはしないのです。
人が他人を裁こうとする時には、感情が主導しているのです。
感情が主導しなければ、他人を裁こうなどとは思わないからです。
人が他人を裁こうとする時には、自分が裁かれる立場の人間であるということを忘れている時だけなのです。
それは、感情によって引き起こされる幻想です。
あなたが誰かよりも偉(えら)いのでしょうか?
あなたは他人を裁くことができるほど、優れた人物なのでしょうか?
自らを顧(かえり)みるのであれば、自分の立場を理解することができるでしょう。
感情に流されているのであれば、人は本質を見失います。
人が良い結果を導くためには、良い結果を導くための根拠が必要です。
原因が存在しなければ、結果は存在しないのです。
冷静さを欠けば、根拠を失います。
それでは良い結果を導くことはできないのです。
多くの人は一時の感情によって本質を手放します。
感情に主導権を与えているために、見当違いなことを考えているのです。
すべての人が豊かさを求めていますが、それを実現することができる人はどれほどの割合なのでしょうか?
豊かさを手に入れる人は、全体の中の少数なのです。
それは、多くの人が感情をコントロールすることができていないからです。
多くの人が感情に翻弄(ほんろう)されます。
それは、老体を得ても変わりません。
感情に流されて幻想の中に生きてきた人には、現実が見えていません。
そのため、良い結果の原因を見付けることができないのです。
多くの人が不幸です。
それは、感情に任せているからです。
あなたは冷静に判断しなければなりません。
自分の感情くらい、責任を以てコントロールしなければなりません。
感情は、愛情を以て仕付けた飼い犬のように従順で穏やかな状態になければなりません。
しかし、多くの人の感情は何の訓練も施されておらず、庭先で牙を剥き出しにして吠(ほ)える飼い犬のような状態を得ているのです。
飼い主の命令に従わない飼い犬には益がありません。
思い掛け無い問題を引き起こすでしょう。
その責任は飼い主にあるのです。
感情に流されてはなりません。
未来を見据(みす)え、根拠を以て冷静に選択しましょう。

2016年7月4日月曜日

美しい人生

人生を豊かなものにするためには、美学を持たなければなりません。
何をするにも、それを豊かなものとするためには美学が必要なのです。
多くの人は美学を持ちません。
美学とは、美しく仕上げるためのルールです。
それが美しく仕上がるためにやらなければならないこと、やってはいけないことがあるのです。
そのルールを守らなければ、美しく仕上げることはできません。
美しさとは豊かさです。
感性はそれぞれに異なります。
そのため、美しさを美的感覚で計ることはできません。
例えば、自然界に存在するすべての存在は調和しています。
すべてが共存し、共栄しているのです。
そこには何の無駄もありません。
それは豊かさを導きます。
それが美しさなのです。
個人的な感覚による美醜(びしゅう)によって分けられるものではないのです。
あなたが醜(みにく)いと思うものであっても、調和の中にあれば美しいのです。
蜘蛛(くも)を嫌う人がいます。
蜘蛛の姿形(すがたかたち)や動きを嫌うのです。
しかし、蜘蛛は美しい存在です。
それは、蜘蛛を嫌っている人よりも、十分に自然界に貢献しているからです。
その生き方は美しいのです。
生き方が美しいことを認識すれば、その姿形や動きの美しさに気が付くこともできるでしょう。
美しさを理解することができないのは、無知を所有しているからなのです。
必要な存在は美しいのです。
この世界に存在するもので不要なものがあるでしょうか?
残念ながら、そのようなものは存在しません。
あなたが嫌悪している苦悩や敵なども、そのすべてが必要であるのです。
それは、すべてが美しいということなのです。
美しいものを嫌う生き方に、美学があるでしょうか?
多くの人は信念は持っています。
しかし、美学は持たないのです。
例えば、嘘を吐いてでも結果を残そうとします。
そこには信念が存在するでしょうが、美学は存在しません。
自然界は正直です。
生存するために擬態(ぎたい)を用いますが、嘘を吐いている訳ではありません。
そこには生存という単純な目的しかありません。
それは、美学であるからです。
嘘とは、目的を隠すことです。
人は嘘を用いることが許されています。
そのため、美学を持たずに生きることも許されているのです。
相手のため、社会のため、世界のために貢献するかどうかは、自分の意思によって決めることができるのです。
人が美しく生きるということは、貢献して生きるということです。
何かに対して貢献する生き方こそが、美しいのです。
多くの人は自分勝手に生きています。
自分の感情や事情を優先し、主観を主体として生きているのです。
そこには美学はありません。
自分勝手な者が美しく仕上げようとは思いません。
何かを美しく仕上げるためには、それを受け取る相手が必要なのです。
プロフェッショナルの仕事が美しいのは、顧客のために生産しているからです。
自分のためのアマチュアの仕事は、美しさに欠けるのです。
それは、自分のための仕事であるために妥協(だきょう)を許してしまうからです。
貢献することが美しさの原因なのです。
信念を持って生きることは大切なことです。
しかし、それだけでは十分ではありません。
信念の上に美学を持って生きなければならないのです。
あなたは人生という仕事をしているのです。
美しく生きなければなりません。
心が汚れないように注意しましょう。
美しい人生に仕上げましょう。
顧客である全人類、全生命体のために、美しい人生を遺しましょう。

2016年7月3日日曜日

中間地点

偏(かたよ)りは、物事を傾かせます。
傾くことによっては、良い結果を導くことができません。
それは、歪みを導くのです。
あなたが良い結果を導こうと考えているのであれば、偏りに注意しなければならないのです。
多くの人は偏りに気が付きません。
それが正しいと考えています。
自らの思考や行為が偏っているにもかかわらず、それを正当化することによって誤魔化します。
自らが偏り、結果が歪んでいたとしても、それを認めようとはしないのです。
結果は出ているのです。
しかし、それを認めません。
大切なのは客観視を身に付けることです。
自らを正当化する人は、主観を身に付けています。
しかし、主観に傾倒するあまり、客観を失ってしまうのです。
そこに苦悩が生じていたとしても、それを認めようとはしません。
楽しくもないのに続けるのです。
何をするにしても、楽しくなければ益がないのです。
物事のバランスが保たれるのであれば、楽しくなるのです。
それは、喜びにも苦しみにも益を導くことができるからです。
良い結果とは、どちらかに傾くことはありません。
喜びにも苦しみにもバランス良く益を見出し、どちらにも楽しめることが良い結果であるのです。
多くの人は喜びに対して傾倒しています。
それは、主観の成す結果なのです。
そのような人は苦しみを否定します。
苦しみに楽しむことができないのです。
それでは、道が閉ざされてしまうのです。
例えば、景気に左右される仕事を成すでしょう。
相手に左右される人格に成るでしょう。
自分に有利な時には喜び、不利な時には苦しむのであれば、道は続かないのです。
どのような時にも道を進まなければならないのです。
人生とはそのようなものです。
人生の道に立ち止まる訳にはいかないのです。
多くの人は苦しい時に立ち止まります。
それは、主観を中心とした生き方をしているからです。
しかし、それでは益がないのです。
苦しい時に立ち止まる人は、苦しい時に進むように努めなければならないのです。
それぞれの状態によって、バランスの取り方は異なります。
主観に強過ぎる人は、客観に比重を置きましょう。
客観に強過ぎる人は、主観に比重を置くのです。
自分に無い物を大切にするのです。
そうすることによってバランスが保たれるのです。
多くの人が何かを始める時、最高のことばかりを考えます。
夢を持つことは良いのですが、理想ばかりが先走り、計画性が伴いません。
それは、最悪のことを考えていないからです。
見切り発車によっては、良い結果を導くことができないのです。
多くの人はバランスを失っています。
どうしても偏ってしまうのです。
それは、無知を所有しているからです。
あなたが何かを始めようと考えているのであれば、最高の結果と最悪の結果の両方を想定していましょう。
最高の結果だけではなりません。
最悪の結果だけでもならないのです。
最高と最悪の中間に、良い結果が存在しているのです。
ただし、中間は最高に近い場合もあり、最悪に近い場合もあります。
バランスの良い場所を探すのです。
自分本位に考えてはなりません。
相手本位に考えてもなりません。
自分と相手の中間の、バランスが取れる場所で考えるのです。
偏りを所有してはなりません。
陰陽のバランスが世界を豊かに保つのです。

2016年7月2日土曜日

天の仕事

仕事とは、天命です。
どのような仕事も、それに携わるということは、”天”からの役割を担っているのです。
すべての仕事が天命の結果です。
それがどのような仕事であろうとも、それを通じてあなたの成長の実現を図っているのです。
人は仕事を担うことによって成長の機会を得ることができます。
それがどのような仕事であろうとも、成果を導くためには考えなければなりません。
工夫しなければなりません。
変化し続けなければなりません。
辛抱しなければなりません。
謙虚(けんきょ)でなければなりません。
学び続けなければならないのです。
傲慢(ごうまん)であり、怠惰(たいだ)であり、停滞し、向上することがなければ、成果を導くことはできないのです。
多くの人は仕事に対して文句を吐きます。
仕事が何であるのか?ということを知らないのです。
あなたは仕事の本質を知っていますか?
あなたは何のために仕事をするのですか?
仕事とは何ですか?
多くの人は表面的な回答を導きます。
金銭を得るため、暮らしを安定させるため、不安を取り除くため、周囲に認められるため、誰かに褒(ほ)められるため・・・
このような回答を導くのです。
本当にそうでしょうか?
そのような回答を導く人の仕事に対する熱意は知れているでしょう。
それは、仕事を良くするための理由ではないからです。
見当違いの回答であっては、本質から遠ざかってしまうのです。
本質から遠ざかった人の仕事は粗雑です。
仕事に対する向き合い方は稚拙(ちせつ)です。
仕事に対する考えは浅く、工夫は足りず、変化を許さず、辛抱が続かず、謙虚を知らず、学びを否定するのです。
そのような状態の者が、仕事によって成果を導くことなどできないのです。
仕事に対する意識が低いのです。
そのため、簡単に文句を吐くのです。
不満や悪口が絶えません。
熱意もなく、不埒(ふらち)に時間を過ごすのです。
多くの人が仕事に対する崇高な理念を持ちません。
金儲けの道具、生きていくため、家族を養うためにやらなければならないこと、などと考えているのです。
そのような低俗な理念によっては、仕事で成果を導くことなどできないのです。
あなたの仕事を評価するのは他人です。
自己満足ではならないのです。
自分がどれだけ評価したとしても、他人に評価されなければ成果ではないのです。
自己満足ほど愚かな自惚れはありません。
仕事とは、自分のためにするものではありません。
そのため、文句を吐いている時点において、本質を見失っているのです。
本質を見失っている者が、仕事で成果を導くことなどできないのです。
それは、成果を決めるのが他人であるからです。
他人からの感謝を以て、仕事の成果としましょう。
この世界には一つとして、自分のための仕事は存在しません。
仕事とは、自分以外のためのものなのです。
仕事で自分を幸せにしようと考えているのであれば、その浅はかな考えを呪いましょう。
仕事で自分を幸せにすることは、今までに誰一人として実現することができなかったのです。
どうして、あなたにそれができるのですか?
あなたを幸せにするのは他人からの感謝です。
人は、他人に感謝されることで初めて、幸せを得ることができるのです。
あなたの仕事は、誰かに感謝されているでしょうか?
あなたは仕事に対する理念を改めて考えてみなければなりません。
あなたは何のために仕事をしているのでしょうか?
それは、何のための仕事なのでしょうか?
仕事が”天”から与えられているということを忘れてはなりません。
そのレベルの仕事に文句のある者は、そのレベルの仕事を続けなければなりません。
別の仕事を始めても、レベルは同じです。
それは、あなたのレベルが同じだからです。
人生は、あなたに相応しい状況のみを導くのです。

2016年7月1日金曜日

消費者と生産者

すべての人は豊かな人生を望んでいます。
誰もが幸福を求めているのです。
幸福の形はそれぞれです。
それを一緒くたにすることはできません。
それぞれがそれぞれの形の豊かさと幸福を求めているのです。
人生の豊かさと幸福の形には違いがありますが、それを実現する方法は同じです。
どのような形の豊かさと幸福であろうとも、同じ方法によって実現することができるのです。
その方法を無視するのであれば、どのような豊かさも幸福も実現することはありません。
それは、貢献するということです。
どのような豊かさも幸福も、貢献することによってのみ実現するのです。
あなたが豊かさと幸福を実現したいと考えているのであれば、貢献することを考えていなければならないのです。
貢献を考えずに、豊かさと幸福を考えても意味がないのです。
それは、原因も無しに結果が導かれることがないからです。
豊かさと幸福の原因は貢献です。
貢献という原因が存在しなければ、豊かさと幸福が結果として実現することはないのです。
多くの人は豊かさと幸福に憧れを抱いています。
憧れを抱いているということは、実現していないということです。
多くの人は豊かさと幸福を手にしてはいないのです。
多くの人は不足と苦悩を手にしているのです。
なぜでしょうか?
答えは簡単です。
貢献していないからです。
貢献しようと考えていないのです。
当然の結果として、豊かさと幸福が実現しないのです。
貢献することを考えていなくても、豊かさと幸福を欲しているのです。
そのような矛盾が実現することはありません。
しかし、そのような矛盾に気が付かないのです。
あなたは豊かさと幸福を欲しているでしょう。
では、貢献することを考えたことがありますか?
多くの人は貢献することを考えていません。
多くの人は不満を考えているのです。
どうすれば少しでも楽になるか?
どうすれば少しでも利益を増やせるのか?
どうすれば自分が主役になれるのか?
どうすれば優位な立場になれるのか?
このようなことしか考えていません。
これ等の考えのすべてが自分勝手な思考です。
自分勝手な思考の持ち主が貢献について考えることなどないのです。
あなたはこれ等の思考を所有してはいませんか?
一つでも当てはまれば、豊かさや幸福を実現することはできません。
多くの人は消費者となります。
それは、欲しているからです。
消費者が豊かに暮らすことはありません。
消費者は乏しく暮らすのが常なのです。
豊かに暮らすのは生産者です。
生産者は生み出すからです。
生み出すことによって消費者に貢献します。
消費者は貢献されることによって乏しくなり、生産者は貢献することによって豊かになるのです。
この世界には目に見えるレベルの取引と、目には見えないレベルの取引が存在しています。
目先の利益ばかりを求めているのであれば、展望には損失が待つのです。
貢献をせずに、自分勝手に利益を貪(むさぼ)る者が豊かさと幸福を実現したことはありません。
そのようなことは不可能なのです。
あなたが豊かさと幸福を求めているのであれば、貢献することを考えていましょう。
目に見えるレベルの利益を追求する余り、目に見えないレベルの利益を忘れてはなりません。