道は、意欲によって始まります。
	道があるのではないのです。
	道は、意欲によって築くものなのです。
	人は理解を求めています。
	理解とは本質を得る行為です。
	理解を得るためには、本質へと向かう必要があります。
	本質へ向かうためには、道を進まなければならないのです。
	道とは理解なのです。
	人が理解を深めることを、道を行くというのです。
	理解を深めるには、意欲が必要です。
	誰かがあなたに理解を導くことはできません。
	理解というものは、自分自身によって深める必要があるのです。
	誰かに強制されることによっては、道を進めることはできません。
	多くの人は”やらされている”のです。
	与えられた作業をこなすことでは、道を進み、本質へ近付くことはできないのです。
	”やらされている”のであれば、道程に立ちはだかる”関門(かんもん)”を通ることはできないのです。
	すべての道には”関門”が設けられています。
	それは、資格を有する者を見極めるのです。
	資格を有しない者は通ることができません。
	それ以上の深みへと進むことは叶わないのです。
	資格とは、自主性です。
	どのような道を進むにしても、自主性を有しない者は第一の関門によって足止めを食らうのです。
	”やらされている”者が進むことのできる道はありません。
	それは、意欲を持たないからです。
	意欲が道を築くのです。
	それを持たない者には、道を進む必要がないのです。
	多くの人は意欲を持たずに道を進もうとします。
	それは、矛盾している行為なのです。
	進みたくない道を進もうとするのは、楽しいことではないのです。
	楽しいと感じることに意欲が生じるのです。
	どのような道を進むにしても、楽しいと感じることがなければ、決して進むことはできないのです。
	多くの人が恐怖(不安、怒り、悲しみなど)を原動力として道を進もうとします。
	その道は人の力を奪う道です。
	ある程度の所までは進むこともできますが、それ以上は力が足りないのです。
	恐怖を原動力として道を行く者は、苦行をしているようなものなのです。
	それは、途中で行き倒れるのです。
	景色を楽しみながら、多くのことを学びながら、不要を手放し、必要を得ることによって、可能性を手にすることができるのです。
	意欲のある者は、創意工夫(そういくふう)によって道を開拓(かいたく)することができるのです。
	”やらされている”者には、創意工夫ができないのです。
	それは、本質を求めてはいないからです。
	あなたは、自分の人生を受け入れなければなりません。
	目の前の状況こそが人生なのです。
	それが理想とは懸(か)け離れているとしても関係ありません。
	あなたが進んでいる道が現実なのです。
	文句を吐いても始まりません。
	理想的な道を歩みたければ、その道まで達する必要があるのです。
	今、歩んでいる道を進まなければ、別の道には辿り着けないのです。
	どのような道を進んでいるにしても、それを進んでいるのであれば意欲を持つように努めましょう。
	現実逃避によっては、理想の道を得ることはできないのです。
	道に迷ったとしても、その道から本道(ほんどう)へと向かわなければならないのです。
	すべての道は繋がっています。
	現状から理想を得ることができるのです。
	そのためには、関門を通らなければなりません。
	そのためには、自主性を有しなければなりません。
	文句を吐かずに学びましょう。
	どのような道においても、学ぶべきことがあるのです。
	大切な学びを蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
	意欲を以て道を進みましょう。
	そうすれば、いつか本道へと合流することができるのです。
	
0 件のコメント:
コメントを投稿