人は、自分の感情を優先させてはなりません。
それは、自分勝手な行為に結び付きます。
人は全体性を失ってはならないのです。
すべての人が全体に所属しているのです。
誰一人として、全体から離れて存在している者はいないのです。
全体があるために、あなたが存在しているのです。
全体が存在しなければ、あなたが存在することはできないのです。
しかしながら、多くの人は自分が例外だと思い込んでいます。
多くの人が全体性を失っているのです。
人は自然界の一員です。
自然から離れて存在することのできる人間は存在しません。
すべての人間が、自然界に抱かれているのです。
しかし、多くの人間はそのことを理解しません。
自分が自然界に関わりがないと思い込んでいるのです。
全体性を失った人間は、自分勝手に振る舞います。
自然界において自分勝手に振る舞うことは、自然環境の破壊に貢献することになるのです。
自分勝手な振る舞いは、全体の破滅に貢献するのです。
多くの人が自分勝手に振る舞います。
そのため、多くを欲しているのです。
多くを欲するということは、全体性の消失です。
どのような資源も有限なのです。
多くを欲することによって、多くを取ることになるのです。
多くの人が多くを取れば、資源は減少していきます。
それは、資源の枯渇(こかつ)に結び付くのです。
果実には、種子が含まれています。
全体性の消失とは、種子まで食らう行為のことです。
種子は果実という資源の原因です。
それは、残しておかなければならないものなのです。
しかしながら、多くの人が種子までも腹に収めるのです。
それほどまでに多くを欲しているのです。
種子まで食らう必要があるのでしょうか?
多くを取り過ぎてはいませんか?
多くの人は恐怖を所有しています。
恐怖は様々な不安を呼びます。
不安に駆られた者は多くを欲するようになるのです。
多くの人は不安に駆られ、多くを欲しているのです。
満ち足りているのに足りないと思い込んでいるのです。
そのため、自分のことで精一杯となり、全体が見えなくなっているのです。
不安が全体性を失わせます。
人の世には不安が溢れています。
そのように不安を抱えなくても生きていけるのです。
あなたは何に怯(おび)えているのですか?
本当にそんなに必要なのですか?
人は多くを取り過ぎています。
それは、後に続かないのです。
可能性を狭める生き方が優れているのではありません。
多くの人は、何かを犠牲にして、自分だけが楽に生きることを喜んでいます。
何かを犠牲にしているということは、因果の仕組みによってその報(むく)いを受けなければならないということなのです。
それは優れた生き方ではありません。
種子まで食らう生き方は、果樹を損なうのです。
果樹が生きている時にはそれでも良いと考えるのです。
しかし、来年は実を付けないかもしれません。
嵐に倒されるかもしれません。
枯れてしまうかもしれないのです。
そうなれば、果実は手に入らないのです。
それで終わりです。
次の果樹が育っているのであれば、何の心配もないのです。
あなたは、種子を残しておきましょう。
そして、次の世のために蒔(ま)きましょう。
全体性を見失わずに、必要で我慢しましょう。
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