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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年9月30日金曜日

矢の軌道

あなたは、人生を達成しなければなりません。
誰にとっても、人生には達成するべき目的があります。
すべての人が目的を以て生まれたのです。
あなたはそれを果たさなければならないのです。
しかしながら、多くの人は人生の目的を見失っています。
自分が何のために生きているのか?ということを見失っているのです。
あなたは何のために生きているのかを知っていますか?
その答えは、本当に人生を達成するためのものなのでしょうか?
あなたは常に考え続けなければなりません。
考え続けなければ見失います。
人生の目的を見失えば、人生を達成することはできないのです。
あなたが人生を始める前、人生の目的に向かって矢を放ちました。
それは、夜陰(やいん)に放たれた矢です。
人生は暗闇に満ちています。
あなたは、この世界において、暗闇に覆われます。
そして、放たれた矢を見失うのです。
放たれた矢は目的に向かって飛びます。
それは、目的を射抜くでしょうが、それは先のことです。
射手(いて)であるあなたは、暗闇を飛ぶ矢の軌道を追わなければなりません。
しかしながら、暗闇を飛ぶ矢を追うのは簡単ではありません。
暗闇の中にあっては、足元もおぼつかないからです。
足元もおぼつかないのであれば、矢の軌道を追うことなどできないのです。
そのため、あなたは先ず暗闇に光を導かなければなりません。
光とは希望です。
あなたが希望を以て生きる時、人生という暗闇には光が差すのです。
それは足元を照らし、あなたの歩行を助けます。
安全に進むことができれば、矢の軌道を追うことは比較的簡単になります。
しかしながら、放たれた矢は真っ直ぐには飛びません。
それは、多くの抵抗を受けて曲がりながら飛ぶのです。
空気抵抗や重力、矢のしなりによって、それは軌道を曲げるのです。
そのため、真っ直ぐ飛ぶと考えているのであれば見失います。
人生が真っ直ぐに進むことがあるでしょうか?
誰にとっても、人生は困難の連続です。
すべての人が問題や障壁に向き合わなければなりません。
人生には、様々な抵抗が働くのです。
そのため、真っ直ぐに目的に向かうことのできる人はいません。
必ず、曲がりながら進むのです。
人生が思い通りに進むことなどありません。
あなたはいつも裏切られるでしょう。
どれだけ真っ直ぐに矢を飛ばそうとしても、そうはなりません。
どれだけ真っ直ぐに進もうと思っても、思い通りには進まないのです。
しかしながら、それで良いのです。
この世界においては、真っ直ぐに進まないことが重要なのです。
空気や重力が存在しなければ、あなたはこの世界に存在することができません。
この世界は、あなたを縛(しば)るからです。
そのため、生きることは不自由なことであり、歪むことなのです。
多くの人が生きることを苦しいと感じているでしょう。
この世界には、様々な制約があるのです。
それは理(ことわり)です。
その理に逆らうことはできません。
そのため、矢は軌道を曲げるのです。
あなたは、様々な抵抗を考慮して矢を放たなければなりません。
多くの問題や障壁は当たり前なのです。
それでも、あなたは人生を達成しなければならないのです。
あなたは暗闇を照らし、放たれた矢の軌道を修正しましょう。
そして、人生の目的を射抜きましょう。

2016年9月29日木曜日

苦しみの果実

この世界は、苦しみの果実の収穫場です。
人生は苦しみの果実を生産する果樹園なのです。
あなたは農場主なのです。
そこに植わっている果樹とは、歪んだ感情です。
価値観とは、感情の集合体です。
様々な感情が一つに集まることによって、価値観が形成されています。
様々な感情の樹木が植えられているのが、価値観という果樹園という訳です。
価値観は、感情の状態によって決まるのです。
求められているのは、感情の質なのです。
人生を生きる者は皆、多くの歪んだ感情を所有しています。
歪んだ感情とは、恐怖に根差した感情のことです。
感謝することができない感情は歪んでいるのです。
あなたの目的は、歪んだ感情を解消することです。
歪んだ感情を解消するためには、歪んだ感情と向き合わなければなりません。
歪んだ感情と向き合うことによって、あなたはそれを消化することができるのです。
歪んだ感情から目を背けているのであれば、それを解消することができないということを理解しておきましょう。
果樹園の主人であるあなたの仕事は、苦しみの果実を収穫することです。
あなたは収穫量を上げなければなりません。
そして、質の良い果実を育てなければならないのです。
苦しみの果実は、あなたが苦しみを覚える程に太ります。
あなたが苦しみと向き合うということは、果実と向き合うということなのです。
果実に向き合う程に、果実の質は高まります。
果実に向き合わなければ、虫や鳥や動物、風雨や雪などによって痛んでしまいます。
苦しみから目を背けるということは、仕事を怠けるということなのです。
あなたは苦しみのたっぷりと詰まった果実を育てなければならないのです。
そのために、あなたは苦しみに向き合いましょう。
良い仕事をすれば、良い収穫を得られます。
あなたは苦しみの果実を収穫しなければなりません。
収穫した果実は、調理して食さなければなりません。
苦しみの果実は、そのままでは苦くて食べられたものではありません。
そのため、あなたはそれが美味しくなるように工夫する必要があるのです。
工夫して調理すれば、それは美味な果実となります。
それは、絶品の一品となるのです。
これ以上の食事は存在しないのです。
しかしながら、多くの人は苦しみの果実の本当の味を知りません。
それは、苦しみの果実が食べられるものだとは思っていないからです。
多くの人は、苦しみの果実を捨ててしまいます。
そのため、苦しみの量は減らないのです。
目的は歪んだ感情の解消です。
そのためには、苦しみを喜びに変えなければならないのです。
そのためには、工夫しなければなりません。
あなたは苦しいことに対して、ただ苦しいと決め付けてはなりません。
それは、苦しいことかも知れませんが、工夫次第で最高の喜びとなるのです。
多くの人は価値を知らないために損をしています。
あなたは損をしたくはないはずです。
苦しみは最高の利益を生み出すものなのです。
あなたは苦しみを捨ててはなりません。
他人が苦しみを捨てるのであれば、あなたはそれを拾いましょう。
そして、他人の分の苦しみの果実も調理して美味しく食べてしまいましょう。
そうすれば、あなたは徳を積むことになります。
あなたが苦しみを喜びに変えることによって、他人は苦しみが喜びに変わることを知るのです。
それは人助けです。
そして、あなたは更なる徳を積むことになるのです。
苦しみと向き合い、それを喜びに変える方法を探しましょう。
人生から苦しみが無くなることはありません。
苦しみの果樹が無くなれば、あなたは腹を満たすことができないからです。
苦しみがあることに感謝しましょう。
苦しみが無ければ喜びもありません。
苦しみが無ければ、人生も無いのです。

2016年9月28日水曜日

崇高なる目的のために

あなたは、崇高(すうこう)なる目的のために存在しなければなりません。
あなたはこの世界を豊かなものとし、自己の成長のために生まれて来たのです。
あなたが人生に存在しているのは、成長するためなのです。
世界を豊かにするということは、誰かや何かの役に立つということです。
あなたは、この世界に貢献しなければならないのです。
貢献することによって、後に自己の成長が実現するでしょう。
それは、自己の成長が貢献の度合によって決定しているからです。
貢献の度合が大きい程、成長の度合も大きいのです。
成長は、貢献に比例しています。
大きく貢献する人は大きく成長します。
小さく貢献する人は小さく成長します。
貢献しない人は成長することがありません。
あなたはこの事実を理解しましょう。
貢献することなく成長しようと企(たくら)んでいる者が多いのです。
自分に有利な状況を導くことによって、成長が実現するという淡い期待に溺れているのです。
そのため、多くの人は自分の利益のために働きます。
そして、誰かや何かに対する貢献の度合を小さくしてしまうのです。
貢献の度合を計ることは簡単です。
それは、その行為がどれだけの人や範囲の役に立つのか?ということを予測するだけです。
自分に貢献するよりも、誰か一人にでも貢献する方が貢献の度合は大きいのです。
一人よりも二人、二人よりも三人、三人よりも四人・・・
自分よりも家族、家族よりも友人、友人よりも他人・・・
このように、貢献の範囲を広げることによって、貢献の度合が変わります。
しかしながら、自己中心的な解釈によっては、貢献の度合を知ることはできません。
なぜなら、それは貢献に値していないかもしれないからです。
貢献とは、相手の判断によって決まるのです。
相手が(後にでも)感謝することが貢献したということなのです。
相手に感謝されることもなく、自分勝手な達成感に浸っているのであれば、相手の障害となっていることに気が付かないのです。
相手の障害となっているのであれば、あなたは衰退することになります。
成長とは物事を豊かに運ぶ力ですが、衰退とは物事を乏しく運ぶ力なのです。
貢献する者は、物事を豊かに運ぶことができます。
そのような者の道は、次第に豊かさを増していくのです。
障害となる者は、物事を乏しく運ぶことになります。
そのような者の道は、次第に乏しさを増していくのです。
残念なことに、現状からは自らの選択によって導かれる結果は知り得ません。
それは、後に現れるからです。
知り得ないために、慎重に選択しなければならないのです。
あなたはどれだけの人に貢献しているでしょうか?
どれだけの範囲に役立っていますか?
どれだけの人に感謝されているでしょうか?
どれだけの範囲が美しく輝いたでしょうか?
あなたはしっかりと観察しなければなりません。
人生というものは、自分の選択通りの世界となります。
あなたの貢献度合そのものが、人生なのです。
人生に対して(ある程度)満足しているのであれば、貢献度は大きいでしょう。
人生に対して不満を覚えているのであれば、貢献度は小さいのです。
あなたは常に大きな感覚によって物事を選択しましょう。
自分のために何かをしようとするのであれば、それによって他の誰かも喜ぶ姿を想像しましょう。
他の誰かのために何かをしようとするのであれば、それによって大勢の人たちが喜ぶ姿を想像しましょう。
感覚を大きくしていけば、あなたの仕事はより良いものとして輝くでしょう。
自分のためであれば妥協を許します。
しかしながら、誰かのためであれば工夫が生まれるのです。
あなたは何のために生まれたのですか?
崇高なる目的のために生きましょう。
小さく乏しい世界で生きるのは苦しいことです。
大きく豊かな世界に生きましょう。
そこはとても楽しい世界なのです。

2016年9月27日火曜日

陰陽の境界

この世界において、陰陽は表裏一体です。
この世界には陰陽の対極するエネルギーが存在していますが、それ等は拮抗(きっこう)しているのです。
陰陽のエネルギーは、互いに補い合い、互いの存在を支えているのです。
そのため、この世界においては、陰陽の境界は目の前に存在しているのです。
あなたは簡単に陰陽の境界を超えることができるのです。
簡単に陰の領域に立ち入ることができます。
それと同じように、簡単に陽の領域に立ち入ることができるのです。
出入りは自由です。
あなたはいつでも好きな領域に向かうことができるのです。
陰陽の領域は、どちらも大切なものです。
どちらかを蔑(ないがし)ろにするのであれば、エネルギーのバランスが崩れてしまいます。
それは、歪んだ状況として反映されるのです。
歪んだ状況は、人の心には苦悩として映るのです。
人は、陰陽のエネルギーのバランスを崩すことによって、人生に苦悩を導いているのです。
大切なのは陰陽のエネルギーのバランスを健全化することです。
陰陽のエネルギーのバランスが健全化すれば、素直な状況が導かれます。
それは心にとって違和感やストレスの無い(心地好い違和感やストレスはある)素敵な状況なのです。
素直な状況は、人生に至福を導くのです。
すべての人が人生に至福を得ることが許されています。
どのような人物であろうとも、豊かな人生を生きることができるのです。
しかしながら、陰陽のエネルギーのバランスが崩れているために、苦悩を抱えながら生きているのが現状なのです。
陰陽の領域は繊細(せんさい)です。
それは心によって感知する以外に知る術がありません。
基本的に、苦悩を感じればバランスが崩れており、至福を感じればバランスが保たれているのです。
曖昧(あいまい)な判断基準によって知る必要があります。
些細(ささい)なことで陰陽のエネルギーのバランスは崩れてしまいます。
それは、絶妙なバランスで積み上げられた玉のようなものなのです。
人が苦悩を生きているのは、簡単にバランスが崩れてしまうからです。
繊細な扱いが求められるのです。
例えば、人に何かを”頼む”ことは楽しみを導きます。
それは、人に頼むという行為は、信頼によって任せるからです。
信頼によって何かを任された人は、それを名誉に感じて喜ぶのです。
人を喜ばせるということは、自分にとっての楽しみとなるのです。
似てはいますが、結果は対極にあるものがあります。
それは、人に”頼る”ということです。
”頼む”と”頼る”は似ています。
文字通り、送り仮名ほどの違いしかありません。
頼むことも、頼ることも、相手の力を借りる行為です。
しかしながら、頼るというのは、依存によって縋(すが)ることになるのです。
縋られた相手は、その重みによって自由を失います。
頼られた相手は苦しんでしまうのです。
人に頼むことは楽しみという結果を導き、人に頼るということは苦しみという結果を導くのです。
陰陽の境界とは、このように繊細なものであるのです。
多くの人は弱い心によって誰かに頼ることを優先します。
それは、知らず識(し)らずの内に依存関係を要求する行為となっているのです。
依存関係はあなたの力を奪います。
そして、相手の力をも奪ってしまうのです。
依存関係を結べば、互いに衰弱していくということを理解しなければならないのです。
人の基本は弱い心です。
あなたはそれに対極する選択によって陰陽のバランスを保たなければならないのです。
それは、強い心に従うということです。
あなたは依存関係を導くために誰かに頼ってはなりません。
あなたは誰かに頼むことによって、対等な関係を結びましょう。
他人と対等な立場を築くためには、努力が必要です。
努力しない者が、他人と対等な立場に付くことなどできないのです。
頼むという行為は、相手に与える行為です。
それは、与えることが前提の行為であるのです。
頼るという行為は、相手から奪う行為です。
それは、奪うことが前提の行為であるということを知りましょう。
少しの違いが境界を跨(また)ぎます。
他人に頼らない強い心を育みましょう。
相手の協力を得たい時には、対等な立場で頼みましょう。

2016年9月26日月曜日

幻想の現実

人生において、あなたは成長することを求められています。
どのような立場にある人であっても、成長する必要があるのです。
成長とは、より良くなるということです。
それは、自分の道をより深く進むことを実現することなのです。
道を進むためには、変化する必要があります。
変化には多くの犠牲を必要とします。
どのような人物であろうとも、変化のためには代償を支払わなければならないのです。
変化に支払う代償とは過去です。
あなたが変化し、道を深く進むためには、過去を犠牲にしなければなりません。
過去を代償として支払うことがなければ、道を進むことはできないのです。
多くの人は過去と共に生きています。
それは自然なことです。
過去を否定しろと言っているのではありません。
過去と共にいれば、それ以上進むことができないということなのです。
過去はその場を動きません。
過去は、過去が生じた時にとどまるのです。
過去を背負って進むことはできません。
あなたが先へ進むためには、過去と決別し、それを前進するための代償としなければならないのです。
多くの人にとって、過去は樹木のようなものです。
それは時間の経過と共に大きく育ちます。
地中深くに根を伸ばし、幹は太り、枝葉は栄えます。
美しい花を咲かせ、やがて実を付けるのです。
過去と共に生きる人は、その果実を頬張(ほおば)っているのです。
その果実は、人によって味を変えます。
ある人には甘く、ある人には苦く、ある人には毒となるのです。
それがどのような味の果実であろうとも、過去と共に生きるということは、その場を離れることができないということなのです。
多くの人にとって、過去は心の支えであり、生活の基盤です。
どのような過去であろうとも、自らを正当化することによって美化することができるからです。
嫌な記憶は少しずつ腐食します。
そして、良い記憶を新たに形成することもできるのです。
その果実がどのような味であろうとも、過去に生きる人はそれを有り難がっているのです。
過去と共に生きることも良いかも知れません。
しかしながら、それは可能性を広げることのない生き方となってしまうのです。
過去と共に生きる人には豊かな人生は導かれません。
それは、幻想であるからです。
過去は睡眠中に見る夢のようなものです。
そこに実態は無いのです。
幻想の中に生きることによって、人生は可能性を失っていくのです。
あなたが人生に虚しさを感じるのであれば、過去に原因があるのです。
過去の幻想の中に生きているために、現実が虚しいのです。
人生とは現実です。
それは”今”であるのです。
人生は過去でも、未来でもありません。
過去の幻想に生きることをやめましょう。
未来の希望に縋(すが)る必要もないのです。
目の前の状況がどのように苦しいものであっても、それは一時的なものに過ぎません。
この世界におけるすべての現象は一時的なものに過ぎず、感情は相対的なものに過ぎないのです。
あなたは感情によって惑わされます。
一時的な状態にとどまっているのです。
それは、既に過去と共に生きているということなのです。
状況は常に変化の中に存在します。
それは、可能性を広げるためです。
人生の可能性は常に広がっています。
そのため、過去は途絶えた方が良いのです。
過去と共に生きようとする多くの人は、その道が続くかもしれないという淡い期待を抱いているのです。
その結果として、過去に縛られ、過去に生命力を奪われているのです。
あなたの生命力を使って、過去という樹木はあなたを酔わせる果実を与えるでしょう。
過去と共に弱ってはなりません。
過去と共に死んではなりません。
過去の果実は豊かに実らせておいて、あなたは先へと進みましょう。
過去を美しいものとしてその場に残しましょう。

2016年9月25日日曜日

あなたは、理解されることが必ずしも重要ではないということを知りましょう。
この世界において重要なことは、成長の礎(いしずえ)となることです。
礎とは基礎(きそ)のことです。
成長の土台として存在することにこそ意義があるのです。
多くの人は他人からの理解を求めようとします。
それは、物質的な価値を集めることや、他人からの賞賛(しょうさん)を得ることには長けています。
しかしながら、多くの人から理解されるということは、多くの人の価値観の中に既に定着している価値観の提供でしかないのです。
多くの人は居心地の良さを求めています。
自分の価値観の中に共通するものがあれば受け入れるのです。
価値観の中に共通するものがなければ、それを受け入れることはできません。
価値観の中に共通するものがなければ、それを見ても映らず、聞いても理解することができないのです。
人生の目的は成長にあります。
もしも、あなたが既に理解していることの中から可能性を見出そうとしているのであれば、それは僅(わず)かな可能性を導くのみとなります。
それは、過去の改作(かいさく)に過ぎないからです。
現状の価値観の中から新たな可能性を導くことはできません。
同じ食材を使って、別の見た目の料理を作ることはできるかも知れません。
しかしながら、摂取(せっしゅ)することができる栄養の質はほとんど変わらないのです。
偏食は健康を損ねる可能性が高いのです。
偏った価値観は、人生の豊かさを損ねる可能性が高いということを知らなければならないのです。
あなたは、既存の価値観を過度に重要視することに注意する必要があるのです。
多くの人が受け入れるものは”安全”なものです。
多くの人は変化を嫌います。
これまでに安全であったものは善であり、未知のものには懐疑的(かいぎてき)です。
それは、大切な能力です。
あなたは物事に疑いを忘れず、それが自分にとってどのような影響を持つのかを精査しなければならないのです。
しかしながら、自らの価値観に対して、新たな可能性を導くことを忘れてはならないのです。
そして、他人の価値観に対しても、新たな可能性を導く必要があるのです。
必ずしも、他人に理解されることが重要ではありません。
あなたがより良い(本質的、合理的)方法を知っていたとしても、相手はそれを理解することがなかったり、拒絶するようなこともあるでしょう。
しかしながら、それが相手の(将来の)ためになると考えるのであれば、それを提示する必要があるのです。
現時点においては受け入れることをせず、拒絶するようなことがあったとしても、いつかは理解してくれる時が来る可能性があるのです。
理解してはくれなくても、価値観を広げる可能性に役立つ可能性があるのです。
この世界においては、本質は隠されています。
あなたの本音が相手に隠されているようにです。
この世界において、本質を見極めることは簡単なことではないのです。
そのため、多くの人に支持されているものが本当に良いものであるのかは分かりません。
この世界は完全を現しますが、社会は無知で未熟な人間が形成しているのです。
人間の無知で未熟な部分も完全な形として存在しているために、それを否定しているのではありません。
無知で未熟な部分は、それを改善するために与えられたものであるのです。
それを改善するという目的に対して、人間の不完全さが完全であるということなのです。
あなたがより良いものを提示したとしても、多くの人には理解されず、受け入れられることもありません。
多くの人はそこで悲しみ、挫折(ざせつ)することもあるのです。
しかしながら、あなたはそれを悲しみ、挫折する必要はありません。
将来を見据(みす)えれば良いのです。
半年後、一年後、十年後、三十年後、百年後、千年後・・・
あなたの提唱(ていしょう)する価値観が多くの人に対してどのような利益をもたらしているでしょうか?
それを考えれば良いのです。
将来的に利益をもたらさないと考えるのであれば、提唱し続けても価値がありません。
しかし、あなたが多くの利益をもたらすと考えているのであれば、提唱し続ければ良いのです。
世の中においては、より良い方法は後に理解され、受け入れられるのです。
本当に良いものが直様(すぐさま)受け入れられることはありません。
人は後になって気が付くのです。
そのためには、経験が必要だからです。
人が何かを経験するのには時間が必要です。
新たな価値観を理解し、受け入れるのにも時間が必要なのです。
そのため、人の理解が及ぶまで提唱し続けなければならないのです。
人の理解が追い付いた時には、その利益によって感謝されるでしょう。
人から感謝される時には、再び理解されることのない価値観を提唱していましょう。
そうやって、理解されることなく生存し、理解されることなく滅びましょう。
それが、礎としての生き方なのです。

2016年9月24日土曜日

自分自身との対話

あなたは、自分が不完全であるということを理解しなければなりません。
あなたには足りないのです。
あなたは成長を求めなければなりません。
成長を求めなければ、何一つとして満たされることはないのです。
多くの人は自分が不完全であるということを黙認しています。
不完全であるということを黙認しているために、不完全さが改善されることはありません。
そのような人は不完全な状態であり続けるのです。
あなたは、不完全さを克服しなければなりません。
少しでも不完全さを減らしていくのです。
そのためには、成長する以外に方法はありません。
あなたは成長を求め続けましょう。
成長するためには、何かを探求する必要があります。
探求する対象はどのようなものでも構いません。
あなたが興味のあるもので良いのです。
自分の興味があるものを探求しましょう。
あなたは、何かを探求する中で多くの問題に向き合うことになります。
それは、自分が無知であるということを知るためです。
無知であるということを知れば、自分が不完全であるということを理解することができるでしょう。
大抵の人は、自分が不完全であるということを認識すると恥(はじ)を覚えます。
しかしながら、恥を恥とも思わなくなる瞬間があるのです。
恥を放置していれば、その状態に慣れてしまいます。
その結果、自らの不完全さを黙認する土壌が導かれてしまうのです。
無知の放置が恥であるということを知らなければなりません。
魂の目的は成長することにあるのです。
あなたは成長することを目的として生まれたのです。
無知は成長の妨げとなります。
無知が問題を引き起こしているからです。
他人や環境などの外的要因が問題の原因ではないということを理解しましょう。
あなたが何かを探求する時には、結局のところ自分自身との対峙であるということに気が付くでしょう。
あなたはこの人生において、何を以てしても、必ず自分自身と向き合っているのです。
それ以外はありません。
人生の本質とは、自分自身との対話であるからです。
人生は常に心の問題であるということを理解しなければなりません。
誰と向き合っていても、それは自分自身と向き合っていることになります。
どのような環境にいても、それは自分自身の心を体験しているのです。
それ以外はありません。
しかしながら、不完全を恥ともせず、無知を放置している者には理解することができません。
人生が自分自身との対話であると伝えても、それを受け入れることができないのです。
無知をある程度克服すれば、この言葉の意味を理解することができるようになるのです。
現在のあなたには理解することができないことであっても、後のあなたには理解することができるのです。
そのため、あなたは成長を焦る必要はありません。
ゆっくりと、確実に自らを成長させれば良いのです。
自分自身と向き合うことは簡単なことではありません。
それは、あなたが不完全であり、無知であり、未熟であるからです。
そのような者には受け入れることが難しいのです。
しかしながら、あなたはその難しいことをしなければなりません。
困難な道のりも、一歩一歩を積み重ね、乗り越えていかなければならないのです。
一歩一歩を積み重ねれば、確実に乗り越えることができます。
あなたは心配する必要はありません。
安心して、自分の興味があることを探求しましょう。
探求することがなければ、理解は導かれません。
深く進むことによって、今までには無い視点(価値観、観点)が得られるのです。
探求することがなければ、理解は深まらないということを理解する必要があるのです。
そのため、あなたは我慢してでも続けなければならないのです。
新たな視点を手に入れ、それに満足すれば他を探求しても良いでしょう。
しかしながら、何も得ずに道を変えることには注意が必要です。
どのような道を進むにしても、あなたは成長のための材料を手に入れなければならないのです。
自分自身との対話を通じて、不完全さを克服しましょう。

2016年9月23日金曜日

後の喜び

あなたは、貢献しなければなりません。
あなたは、貢献することが求められているのです。
貢献とは、役に立つことです。
とても簡単なことです。
相手が喜べば良いのです。
相手を喜ばすことは簡単なことなのです。
あなたはそれをしなければなりません。
ただし、相手に糠喜(ぬかよろこ)びをさせてはなりません。
糠喜びとは、偽りの喜びです。
それは、一時の喜びを与える表面的なものなのです。
一時の喜びは喜びではありません。
それは偽りであるのです。
本質的な喜びというのは、いつまでも喜んでいる状態を得られるものです。
後に喜んでいられるものが喜びなのです。
後に苦しむものを与えてはならないのです。
貢献するというのは、後に喜んでいられるものを与えるということなのです。
多くの人は糠喜びを取引しています。
多くの人は一時の喜びを貪っているに過ぎないのです。
それは後に苦しみとなります。
あなたの抱えている喜びは、後にも喜びであるでしょうか?
後に喜びとして存在することがないのであれば、それは糠喜びに過ぎないのです。
相手のためを思うのであれば、相手が後に喜んでいることを想像する必要があります。
例えば、嘘を吐いてその場を凌(しの)ぐことによって相手を喜ばしたとします。
後にその嘘が暴かれた時には、相手は二重の苦しみを受けることになるのです。
それは、真実を知らなかったことと、あなたに嘘を吐かれたことです。
その場を繕(つくろ)ったとしても、それが喜びであり続けることはありません。
それでは、相手に貢献することにはならないのです。
相手が求めることをやれば良いということではありません。
相手の最善を与えるということなのです。
しかしながら、相手に対する最善を知ることは難しいでしょう。
そのため、あなたは自分が求めることをすれば良いのです。
あなたが自分の求めに応じて行っていることが重要です。
それを求める人にとって、それが最善であるということを理解することができるからです。
相手が求めるのであれば、それは相手にとっての最善なのです。
相手が求めたものをあなたが準備するのではないのです。
このことを理解しなければなりません。
多くの人は相手の求めに応じることが最善であると思い込んでいます。
相手が求めるのだから、それを与えれば良いと考えているのです。
相手が求めているものを与えるのであれば、一時の喜びと、一時の報酬を受けることができます。
しかしながら、後にそれは苦しみと変わります。
相手の求めに応じることには、大きなリスクがあるということを覚えておかなければなりません。
多くの人は相手の顔色を伺(うかが)って行動します。
しかしながら、それが相手に対する侮辱(ぶじょく)になるということを理解している人は少ないのです。
言われた通りに動くだけであれば、それ(自分)以上の価値を生み出すことはできません。
相手があなたに言付けを守るように求めるのであれば、その人は自分のレベルを超えることができないのです。
他人を使って自分の仕事をしているに過ぎないからです。
自分の仕事を他人に手伝わせた分、徳を失うことになります。
相手の求めに応じるだけでは、相手に対する貢献にはならないのです。
多くの人は相手の本当に求めているものを知りません。
糠喜びに浸っていてはならないのです。
親は子どもの将来を見据えて与えます。
しかしながら、子どもはそのことを理解しません。
現状を喜びたいのです。
しかしながら、そのような方法は糠喜びに終わります。
遊んだ(快楽に溺れた)分、後に苦しむからです。
相手に貢献するということがどういうことなのか?を改めて考えましょう。
相手の求めに応じてはなりません。
あなたの求めに応じる人に施(ほどこ)せば良いのです。

2016年9月22日木曜日

学びの段階

人は、自らの学びの段階によって理解します。
人は、自らの学びの段階によって受け入れます。
人は、自らの学びの段階の言動を現します。
人は、自らの学びの段階の生き方をするのです。
自らの学びの段階以外の理解は示しません。
自らの学びの段階以外のことを受け入れることもありません。
自らの学びの段階以外の言動を現すことはできません。
自らの学びの段階以外の生き方をすることはできないのです。
人は、自らの学びの段階に生きているのです。
同じ場所に存在しているように思うかも知れませんが、人はそれぞれに違う場所、違う段階に生きているのです。
あなたが理解することを理解することができない人がいます。
他人が理解することを理解することができない自分がいるでしょう。
受け入れることも、言動も、生き方も、それぞれの段階に応じて導かれるのです。
それは、小学生が大学生とは異なるようなものです。
学びの段階が違う者は、別の学びを得る必要があるのです。
小学生に大学生の生き方はできません。
大学生にも、小学生のような生き方はできないのです。
小学生と大学生は同じ場所に暮らしています。
しかしながら、手にする状況は異なるものなのです。
同じ場所に生きてはいても、異なる世界を生きているのです。
小学生の理解は、大学生にはできません。
大学生の理解は、小学生にはできないのです。
人は、同じ段階であれば理解し合うこともできるでしょう。
しかしながら、段階が違えば、理解は難しいのです。
人が理解し合えない理由はここにあるのです。
人は、それぞれに学びの段階が違います。
それは、それぞれに別々の主義や生き方を導きます。
主義や生き方が違う人間が、どうして理解し合うことができるでしょう?
小学生が大学生に理解を求めてもできません。
大学生が小学生に理解を求めても同じことです。
人は、学びの段階によって分け隔(へだ)てられるのです。
同じ文章を読んでも、読解力によって内容は変わります。
語彙(ごい)が豊かである程に、読解力は高まります。
例えば、語彙に乏しい小学生であっては、文章の内容を把握することは難しいでしょう。
そのため、文章の解釈には想像や願望が投影されることになるのです。
未熟な者の想像や願望が投影されるということは、その文章が歪んで伝わるということです。
間違った解釈は、苦悩を導くということを理解しなければならないでしょう。
語彙が豊かな大学生がいるとして、文章の内容を把握することは難しいことではありません。
語彙力によって、文章の解釈には余計な想像や願望が投影されるリスクは少なくなります。
未熟な者の想像や願望が投影されなければ、その文章がある程度は正しく伝わることでしょう。
ある程度の正しい解釈によって、楽しみや喜びが導かれる可能性が高まるのです。
目の前の状況とは、人生が提示する文章です。
すべての人はそれを読み解かなければなりません。
状況の解釈を誤れば苦悩が導かれ、正しく解釈すれば幸福が導かれるでしょう。
人生においては、成長することによって学びの段階を進むことができます。
成長するということは、学び終えるということです。
状況に対する怒りや恐怖などの破滅的な感情による対応が導かれなければ、成長したということです。
状況に対して破滅的な感情によって対応しているのであれば、試験に合格しないということなのです。
試験に合格しなければ、再び学び直さなければならないのです。
そして、後に再試験を受けなければならないのです。
成長するまで学びは続きます。
あなたが試験を逃れる方法はありません。
試験に不正を働くこともできません。
人生は、あなたの真の実力を計っているのです。
人生に向き合う時、あなたは自分の実力を見せ付けられるでしょう。
その度にあなたは苦悩することになるかもしれません。
しかしながら、それで良いのです。
あなたは苦しめば良いのです。
苦しんで、次からは真剣に取り組みましょう。
人生は”玩具(おもちゃ)”に囲まれて遊ぶ場所ではありません。
それは、小学生がすることです。
状況から学び、成長しましょう。
そうすれば、いつの日か、人生が何であるのか?ということを読み解くこともできるでしょう。
次の段階へと進みましょう。

2016年9月21日水曜日

進歩

あなたは、その道がいつまでも続かないということを知らなければなりません。
あなたの進んでいる道は、いつかは途絶えるのです。
道が続くためには、別の道が生じなければなりません。
別の道と合流するか、新たに道を生み出さなければならないのです。
真っ直ぐに続く道は存在しないのです。
あなたはその道がいつまでも続かないということを理解しましょう。
そして、目的地へと辿り着くためには、その道に拘(こだわ)ってはならないということを理解する必要があるのです。
あなたは柔軟に、道を進んでいく必要があります。
道程(みちのり)の変化に対応し、目的地へと向かいましょう。
人は所有している価値観を大切にします。
それは良いことです。
しかしながら、拘りによって問題となることを知らなければなりません。
拘りは、時間の経過と共に価値観を”腐らせる”作用があります。
拘りの中に長く所有された価値観は、変化が阻害され、新鮮さを失います。
酸素が供給されない細胞が壊死(えし)してしまうように、変化の供給されない価値観は心を苦しめる原因となるのです。
多くの人は現状の価値観に拘り過ぎています。
その結果として、価値観の変化が実現することなく、古い概念(がいねん)や古い生き方に縛られることになります。
それは、道が行き止まりになっているにもかかわらず、新たな道を模索(もさく)しないのと同じです。
拘る時間が長引く程に、価値観の変容は難しくなります。
大抵の老人が古い価値観の中に生きているのはそのためです。
これまでに生き延びたという自負が、首を絞めているのです。
これ程の皮肉はないのです。
人は常に新たな価値観に目覚める必要があるのです。
変化、向上していくことが求められているのです。
古い価値観によっては、世界に貢献することができません。
若者は次の世界を担う存在です。
老人はこれまでの世界を担ってきた存在なのです。
年齢の話をしているのではありません。
世界に貢献する価値観と、そうすることができない価値観があるということなのです。
前時代的な価値観は、現代には役立ちません。
それは、世界は常に向上しているからです。
水準の高い場所に、水準の低い知識や技術を持ち込んだとしても、貢献することはできないのです。
新しいものが良く、古いものが悪いと言っているのではありません。
環境に適合した状況を導く必要があるのです。
樹木は古い枝を落とします。
それは、新たな枝が光を受けるために、古く光を受けない枝が必要ではなくなったからです。
樹木に対して貢献する枝とは、多くの光を集めることのできる枝なのです。
そのため、古い下枝は朽(く)ちるのです。
下枝を落とし、上枝を伸ばすことによって、樹木は成長するのです。
すべては大きく成長し、世界に貢献するためなのです。
巨大な樹木は生命の宿となります。
住み処(か)や食事、水源を提供します。
朽ちれば苗床ともなるのです。
あなたは成長しなければなりません。
成長する程に、貢献することができます。
どのような種類の樹木であろうとも、成長する程に貢献することができるのです。
あなたは他人と自分を比較する必要はありません。
あなたは、あなたの役割を果たせば良いのです。
あなたらしく大きく成長するべきなのです。
心を大きく育てましょう。
道を伸ばすのです。
一つの形態、価値観に拘ってはなりません。
時には折れて、道を伸ばすのです。
真っ直ぐに進めなければ曲がれば良いのです。
あなたは枝のように折れ曲がり、光を集めましょう。
そして、美しい花を咲かせ、豊かに果実を実らせましょう。
拘りに時間と労力を集中してはなりません。
目的のために柔軟に、時間と労力を使いましょう。

2016年9月20日火曜日

分かち合い

あなたは、真の価値を追求し続けなければなりません。
あなたの価値観は常に変化し続けています。
あなたの価値観は変化するのが自然なのです。
価値が不変であることはありません。
それは、あなたの認識が未熟であるからです。
認識が未熟であれば、認める価値も未熟なものとなります。
あなたが過去に価値を見出していたものは、現在では価値のないものとなっているかも知れません。
現在に価値を見出しているものであっても、未来には価値を損なうようになるのです。
価値観は変化し続けます。
あなたは経験によって、より本質的な価値へと近付いていくのです。
すべての人は真の価値を探し求めています。
自分にとっての最高の価値の答えを求めているのです。
そのため、人は常により良いものを求めているのです。
これは、強欲なのではありません。
より良いものを求め、より本質的な価値を見出すことは、人生の目的であるからです。
それは決して、無駄なことではありません。
すべての人は、より良いものを求め続け、より本質的な価値観を育み、真の価値を得なければならないのです。
あなたには、真の価値が必要です。
偽りの価値によって、あなたが満足することはないからです。
あなたは、真の価値によって初めて、幸福を実現することができるのです。
真の価値は、利他意識の中に存在しています。
利己意識の中には、偽りの価値が存在しています。
自分のために何かを行うことは、徳にはなりません。
あなたが自分のために行う時、相手はあなたのために行いません。
相手が自分のために行う時、あなたは相手のために行うことができますか?
相手が自分のために行うのであれば、それに倣(なら)ってあなたも自分のために行うでしょう。
あなたが相手のために行う時、相手はあなたのために行います。
相手があなたのために行う時、あなたは相手のために行うでしょう。
相手があなたのために行うのであれば、それに倣ってあなたも相手のために行うでしょう。
自分で生み出すものを集めたところで、豊かさには限界があるのです。
他人が生み出すものを集めることによって、豊かさは限界を得ないのです。
あなたは他人の行為を集めなければなりません。
そのためには、相手にあなたの行為を与えるのです。
先に与えるのであれば、相手は満足し、あなたに惜しみなく与えるでしょう。
相手の最高の仕事を受け取る必要があるのです。
そうすれば、あなたは真の価値を得ることができるのです。
真の価値を得ることができれば、人生は必ず豊かなものとなるのです。
多くの人は物質的なものを受け取ること、集積することを豊かさであると考えています。
しかしながら、この世界において物質の量は決まっているのです。
そこには必ず限界があるのです。
そのため、物質的なものは移動しているに過ぎないのです。
誰かが大金を手にすれば、誰かが大損をしているのです。
誰かが満腹に喜べば、誰かが空腹に苦しむのです。
物質的な価値は移動しているに過ぎにないということを理解しなければなりません。
そのため、物質的な価値を求めたところで、幸福を実現することはできないのです。
大切なのは、意識的な価値を求めるということです。
物質的な価値を求めるのであれば欲が出ます。
人は弱いのです。
欲が争いを生むのです。
意識的な価値を求めるのであれば愛が出ます。
心を大切にする人は強いのです。
愛が協力を生むでしょう。
そうすれば、互いの仕事を分かち合い、真の価値を得ることができるのです。
争いは仕事を奪い合う行為です。
そして、どこかから奪って来ては、どこかへ集積するのです。
それは価値ではないのです。
物質的な価値に惑(まど)わされてはなりません。
唯物的な価値観は、人に争いを教えます。
唯心的な価値観は、人に協力を教えます。
唯物的な価値観も、唯心的な価値観も大切です。
あなたは偏ってはなりません。
両者の長所を融合させるのです。
争うことなく、物も意識も分かち合えば良いのです。
物でも、意識でも、相手のためを考えましょう。
互いが相手のために考えるのです。
それだけで、あなたにとって必要な答えが導かれるでしょう。
自分のために求めれば、暗闇によって可能性が閉ざされてしまうでしょう。
相手のためを思い、分かち合うことを目指しましょう。

2016年9月19日月曜日

幸福のレシピ

すべての人は幸福を求めています。
幸福とは、心の平穏です。
心が平穏であることが、幸福であるのです。
何を得て、何を失っても、心の平穏がなければ幸福ではないのです。
人は、幸福という名の平穏を求めているのです。
心が平穏であるためには、問題を解決する必要があります。
問題が心の平穏の妨げになるということはありません。
心の平穏のためには、問題が必要不可欠です。
嵐が去る時、人は心に平穏を認識することができるのです。
問題が生じなければ、その対極に位置する平穏を得ることはできないのです。
多くの人は問題を拒絶することによって心の平穏を得ようと考えています。
問題が存在しなければ幸福であると信じているのです。
それは、浅はかな考えであるということを知らなければならないのです。
幸福のためには、問題が必要です。
あなたは問題を拒絶してはなりません。
花が好きで昆虫が嫌いな人がいるとします。
そのような人は昆虫を問題として、拒絶するでしょう。
しかしながら、花は昆虫のために咲いているのであり、人のために咲いているのではないのです。
花にとって、昆虫は協力者です。
花は、昆虫のために咲いているのです。
昆虫が存在しなければ、花は存在しないのです。
花を愛でるためには、昆虫をも愛でなければならないのです。
問題である昆虫を拒絶するということは、花をも拒絶するということになるのです。
昆虫を拒絶することによって、花を愛でるという目的は頓挫(とんざ)するということを理解しなければならないのです。
幸福を得ようとしている人が、問題を拒絶してはなりません。
幸福とは、問題のために存在しているからです。
問題が存在するために、幸福が存在しているのです。
主体が幸福ではないのです。
人生の主体は問題にあるということを知りましょう。
あなたは成長するために存在しているのです。
成長するためには、問題を解決しなければならないのです。
ただ、自分勝手に心の中で幸福感に浸(ひた)っているだけでは、成長することはないのです。
実際には幸福ではないものを、幸福だと思い込むことはできます。
しかしながら、それは虚しい幻想に過ぎないのです。
それは、睡眠時の夢のようなものなのです。
幻想から覚めた時、心の平穏も失うのです。
しかしながら、問題は存在し続けているのです。
大切なのは、問題を長期化しないということです。
問題をできるだけ素早く解決すれば良いのです。
何かを問題としている感情を、素早く変えれば良いのです。
それだけで、あなたは心の平穏を実現し、幸福を得ることができるでしょう。
争いが存在しなければ、思いやりを理解することはできません。
死に対する認識がなければ、生を大切にすることはできないのです。
この世界には必ず陰と陽が存在しているのです。
幸福のためには問題が存在しなければなりません。
あなたは問題を拒絶してはなりません。
それは大切な土台です。
問題という土台がなければ、幸福は実現しないのです。
あなたは問題を大切に扱わなければなりません。
感情的に対応してはなりません。
冷静に、前向きに対峙するのです。
問題を問題視してはなりません。
問題は幸福の材料です。
それ以外ではありません。
食材がなければ料理は完成しません。
問題とは食材のようなものなのです。
幸福のためのレシピが用意されているのです。
あなたは、そのレシピに従って食材を拵(こしら)えているのです。
食材に愛情を込めましょう。
問題に愛情を以て向き合いましょう。
そうすれば、あなたは美味しい料理を味わうことができます。
問題を大切にする人だけが、幸福を得ることができるのです。
愛情の籠(こも)った美味しい料理を作りましょう。


2016年9月18日日曜日

理不尽

多くの人は、この世界に理不尽が存在していると考えています。
多くの人は理不尽を感じています。
道理に反した状況が導かれていると考えているのです。
この世界には、理不尽が存在しているのでしょうか?
もしも、この世界に理不尽が存在しているのであれば、秩序(ちつじょ)が保たれることはありません。
あなたの過ごしている当たり前の日常も、脆(もろ)くも崩れ去ってしまうのです。
もしも、この世界に理不尽が存在しているのであれば、当たり前のことすら当たり前ではなくなってしまうのです。
残念ながら、この世界には理不尽は存在しません。
理不尽に思う幼い心があるだけなのです。
道理を理解していない者は、理不尽に苦悩するでしょう。
道理を理解していないために、道理に反した状況が導かれると考えるのです。
この世界には遍(あまね)く道理が行き届いています。
この世界には、道理に反することは存在しないのです。
しかしながら、そのようには理解することができない人が多いのです。
もしも、この世界に道理に反する状況が導かれるのであれば、過去は救いようがないのです。
しかしながら、人生を探求した時には、どのような過去であろうとも、それが最善であったということに気が付くことができるのです。
無駄な過去など存在しません。
その価値を理解することができない心があるだけなのです。
この世界には因果の仕組みが存在しているのです。
すべての結果には、それに相応しい原因が存在しているのです。
あなたが理不尽に感じることは結果です。
どうして、理不尽に感じる状況を受け取ったのでしょう?
どうして、それはあなたの目の前にあるのでしょうか?
それは、あなたの原因によって導かれた当然の結果であるからです。
原因はあなたにあるのです。
あなたがそのように選択したので、そのような結果が導かれたのです。
自らの選択がどうして理不尽なものなのでしょうか?
自分が選んだのです。
他人に選ばれた訳ではないのです。
自分で選んだにもかかわらず、それを理不尽と訴(うった)えるのは愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)であると理解することができるでしょうか?
理不尽を感じている人は、自分が選んだ結果に文句を吐いているのに等しいのです。
それこそが理不尽な態度であることを知らなければならないのです。
道理に適(かな)った状況が導かれたのです。
それに文句を吐くことの方が十分に理不尽な態度であるということを知らなければならないのです。
自分の理不尽な態度を棚に上げて、人生に文句を吐いてはなりません。
何かに対して理不尽を訴えている間は、成長することはありません。
道理を拒絶しているような者には、成長が導かれることはないのです。
あなたは未熟です。
そのため、理不尽に思えることもあるでしょう。
それを拒絶するのであれば、学びは得られません。
大切なのは、学びを得て成長することなのです。
この世界のすべての瞬間に学びが存在しています。
自らの未熟さが理不尽として拒絶することによって、大切な学びを損なうのです。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、成長する以外に方法はありません。
成長するためには、現時点において理不尽に思えることを学ばなければならないのです。
すべての結果には、必ず原因が存在しているのです。
その原因が自分にあるために、すべての結果が道理に適っているのです。
あなたは誤解してはなりません。
理不尽を感じている者は、誰かや何かが原因によって道理に反した状況が導かれていると思い込んでいます。
自らの選択によって導いだ当然の結果を、誰かや何かのせいにしなければ、理不尽さを感じることはないのです。
何かに対して理不尽さを感じている時点において、歪んでいるということを理解しなければならないのです。
あなたが理不尽さを感じた時には、自らを顧(かえり)みなければなりません。
そうすれば、あなたは謙虚さを身に付けて、多くを学ぶことができるでしょう。
理不尽さに腹を立てているようであっては、何も学ぶことはできないでしょう。
泣き寝入りしろと言っているのではありません。
理不尽というものが存在しないのだから、被害者意識による現実逃避はやめようということなのです。
今すぐに理不尽さに苦しむのをやめ、大いに学びましょう。

2016年9月17日土曜日

期待する者へ

あなたは、期待することに注意しなければなりません。
多くの人は期待しています。
何かが良くなることを期待しているのです。
自力であろうが、他力であろうが、次の展開に対して何等かの期待を抱くのです。
期待を抱くことは、理想を実現したいという願望の現れです。
理想が実現することを、世間では良いことのように考えるでしょう。
しかしながら、未熟な者の理想は歪んでいるものなのです。
歪んだ状況が導かれるのであれば、そこから得られる結果も歪んだものとなるのです。
それは、苦悩を導くことになるのです。
本来ならば、理想は実現しない方が良いのです。
多くの人は、理想の実現を期待しているのです。
それが歪んだ行為であるということを知らなければならないのです。
多くの人は他人に期待します。
しかしながら、他人は理想通りには動きません。
他人が理想通りの結果を導くことなどないのです。
他人に期待するということは、他人からの行為が期待外れに終わるという認識を導きます。
他人に期待するということは、他人に対して失望するという結果を導くのです。
他人に失望することは歪んでいます。
なぜなら、他人は他人の仕事をしただけであって、その行為は世界に対して最善であったからです。
他人はあなたのために仕事をしているのではありません。
誰一人として、あなたのために生きてはいないのです。
他人に期待するのは間違っています。
あなたの期待は何一つとして叶えられません。
他人に期待する人は、人間関係に対して苦悩を抱くことになるでしょう。
多くの人は社会に期待します。
しかしながら、社会があなたの期待に応えることはないのです。
社会に対する期待は、見事に裏切られるでしょう。
それは当然のことなのです。
社会はあなたのためだけに形成された組織ではないのです。
社会は、社会構造のために形成されたからです。
仏神に期待する人がいます。
しかしながら、仏神があなたの祈りを受け入れることはありません。
仏神の存在を肯定(こうてい)している人は、仏神が超自然的な力によって、自分を救うと期待しています。
残念ながら、仏神があなたの理想を実現させることはありません。
なぜならば、仏神はあなたよりも優れた存在だからです。
あなたよりも優れた存在が、あなたを苦しめることはないのです。
抱擁(ほうよう)をねだる子どもに、体罰を与える親(体罰をする者は親という立場に無い)はいないのです。
仏神は、あなたの成長に最善の状況を導くことはあっても、あなたを甘やかし、苦しめるための状況を導くことはないのです。
仏神に期待するのは間違っています。
あなたの祈りは決して受け入れられません。
もしも、あなたの祈りが受け入れられたというのであれば、それは仏神では無いということを知りましょう。
それは、仏神ではなく、あなたを堕落させる”妄想”に過ぎないのです。
期待はあなたを歪めます。
多くの人が苦悩を抱えているのは、期待を抱えているからです。
多くの人は”棚から牡丹餅(ぼたもち)”を待っているのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
原因もなく、結果を貪(むさぼ)るのであれば、借金をして分不相応の物を手にするようなものです。
借金をして分不相応の物を手にするのであれば、それによって苦悩するのは必至なのです。
期待するということは、資金もなく商品を欲するようなものなのです。
原因もなく結果を求めるのは歪んだ考えなのです。
あなたは、何かに期待する必要はありません。
原因を築けば、自ずと結果が導かれます。
結果を導くための根拠を揃(そろ)えれば良いだけなのです。
そうすれば、期待することはなくなります。
状況は当然のものとして導かれるからです。
期待は言い訳のようなものです。
期待は怠慢(たいまん)の現れです。
何かに対して期待する程に、あなたは乏しさを得るということを覚えておきましょう。
期待することなく、一つ一つの原因を積み重ねましょう。

2016年9月16日金曜日

仕事の本質

すべての人が仕事をしています。
それがどのような行為であろうとも、目的を以て行われているからです。
仕事とは、するべきことです。
すべての人が仕事をしなければならないのです。
仕事とは、金銭を循環させるようなものではありません。
仕事とは、やらなければならない義務なのです。
人の義務とは、成長することです。
人は、成長という成果を求めて仕事をしなければならないのです。
子どもであろうが、身体が不自由であろうが、すべての立場のすべての人が、成長するための仕事をしなければならないのです。
例外はありません。
すべての人が仕事を抱えているということを知りましょう。
人は成長しなければなりません。
生きるということは、成長するということです。
成長することなく、生きることにはなりません。
人が成長を諦めた時、同時に生きてはいないのです。
あなたは成長しなければなりません。
成長のための仕事に努めなければならないのです。
金銭を循環させるためだけに仕事をしてはなりません。
金銭を動かしたところで、あなたの人生が豊かさを得ることはないからです。
金銭が人生の豊かさに影響することがあるとすれば、金銭によって成長が実現した時だけなのです。
ただし、金銭を敵にしているのではありません。
金銭は箸(はし)や茶碗と同等です。
他の道具と同じなのです。
ここで金銭を例えているのは、多くの人の中に金銭に対する特別視が存在しているからです。
世の中においては、金銭が大きな地位を占めていますが、世の中が考えている程、金銭に力はありません。
金銭によっては、本質的なものは得られないからです。
金銭によって得られるものは、表面的なものに限られるからです。
多くの人が金銭によって豊かさを実現しようと考えていますが、それは表面的(物質的)な豊かさに過ぎず、本質的(精神的)な豊かさを得ることはできないのです。
そのため、仕事の成果を金銭の量に求めるのであれば、表面的な豊かさを得るばかりで、本質的な豊かさを得ることはできないのです。
目的を見失ってはならないのです。
あなたが仕事をするのは、金銭のためではありません。
あなたは成長のために仕事をするのです。
目的は、成長にあるのです。
あなたは仕事によって、自分自身と相手を成長させる必要があります。
そのためには、仕事を通じて互いの力を引き出す必要があるのです。
仕事とは、互いの力を引き出す行為であるということを覚えておきましょう。
あなたは仕事によって、自らの力を引き出さなければなりません。
そして、仕事によって、相手の力を引き出さなければならないのです。
その仕事によって、その仕事に携わる人が成長することが求められるのです。
多くの人は、相手から金銭を引き出そうと考えています。
あなたは自分の仕事をそのようなレベルにまで下げてはなりません。
金銭を得るために仕事をするのですか?
それでは、金銭が得られなければその仕事を辞めるのですか?
金銭の量によって、仕事の価値が計れるのでしょうか?
金銭が仕事をしているのですか?
その仕事をしているのは、あなたではありませんか?
金銭によって仕事を左右するのであれば、あなたには成長はありません。
それは、本質的な部分を計る力が失われているからです。
あなたは相手を容姿で判断するのですか?
相手を資産で判断するのですか?
容姿と資産が豊かであれば、それだけで幸福が得られると考えますか?
心が醜(みにく)く、他人から奪い取って築かれた資産であったとしても、あなたは幸福なのでしょうか?
互いに高め合うことが豊かさなのです。
本質的な価値観に目覚めなければ、互いに高め合うことはできません。
表面的な価値観に従っている人は必ず、争いの中に身を置きます。
互いの力を奪い合う仕事をしているのです。
仕事とは、互いの力を引き出す作業であるということを覚えておきましょう。
あなたは常に、自分と相手の力を引き出そうと努めていましょう。
それが仕事の本質であることを覚えておきましょう。

2016年9月15日木曜日

読解力

人生を豊かなものにするためには、読解力が必要です。
それは、人生を読み解く力なのです。
あなたは、人生を理解しなければならないのです。
目の前の状況が何を意味しているのか?
どのような意図があるのか?
ということを読解しなければならないのです。
残念ながら、人生が丁寧に説明してくれることはありません。
あなたは、自力によって読み解かなければならないのです。
それは、惜しみ無く与えることは、容赦(ようしゃ)なく与えることに等しいからです。
あなたは、力の無い子どもに、抱え切れない程の荷物を担(にな)わせるでしょうか?
抱え切れない程の荷物を担わされた子どもは、重さに耐え兼ねて倒れてしまうでしょう。
あなたに惜しみ無く与えるということは、あなたを苦しめるという結果を導くだけなのです。
そのため、あなたには、必要最低限のみが与えられます。
抱えて歩むことができる量の荷物だけを与えるのです。
しかしながら、多くの人はそのことを理解しません。
”親の心子知らず”という言葉があります。
多くの人は読解力が不足しているために、人生の意味や意図を理解しません。
そのために、必要として与えられている荷物の量に納得することができず、より多くを欲するのです。
求める量の荷物が与えられなければ、不満や不安によって心を汚します。
自分がどれだけの実力であるのかを知らないのです。
人生に対して、目の前の状況に対して不満や不安を抱いている人は、例外なく読解力が不足しています。
そのような人は、実力不足であるということを知りましょう。
そして、”余計な”思いを捨て置き、”簡単な”気持ちで歩み直すのです。
あなたには、”余計な”欲が備わっているのです。
必要の無い荷物を抱える必要はありません。
抱え切れない荷物は、苦しみの原因となることを理解する必要があるのです。
山に登るのに、(例えば)冷蔵庫など必要ではないのです。
あなたには、それが無駄であるということを理解することができるでしょう。
人生はあなたに、”山に登るのに冷蔵庫は必要ない”と教えているのです。
しかしながら、読解力に乏しいために、どうしても冷蔵庫を抱えて山を登ろうとするのです。
電源を抜いた直後は食品が新鮮に保たれているかも知れません。
しかしながら、山道には電源はありません。
時間と共に食品は痛みます。
そして、生ごみの入った大きく重たい箱を抱えながら登山することになるのです。
苦労が報われることはありません。
山頂に辿り着くことも困難です。
人生を読み解くことをせず、余計な荷物を抱えて不満や不安によって苦しんでいるのであれば、豊かさを実現することはできないのです。
腐敗臭を放つ大きく重たい冷蔵庫を抱えていては、ただ歩むことさえ苦しいのです。
その場に腰を下ろし、休憩しようとしても、腐敗臭が苦しめます。
不満や不安などの破滅的な感情は、あなたを休ませることがないのです。
寝ても覚めても、あなたは苦しむことになるのです。
余計な荷物を捨て置きましょう。
あなたは、目の前の状況を読解しなければなりません。
理由も分からず、根拠もなく、不満や不安に身を委(ゆだ)ねてはなりません。
良いですか。
人生はあなたに、”山に登るのに冷蔵庫は必要ない”と教えているのです。
それ以外のことを伝えてはいないのです。
恐怖を手放しましょう。
あなたの考えるような備えは必要ではありません。
理想は幻想なのです。
未熟なあなたの理想が、良い結果を導くことなどないのです。
あなたには、人生の伝えていることすら理解することができないのです。
そのような者の理想が最善であるはずがないのです。
人生の意味や意図を理解することに努めましょう。
自分の小さく未熟な考えに固執(こしゅう)する必要はありません。
人生を読み解くのです。

2016年9月14日水曜日

束縛

自由の無い場所に可能性はありません。
可能性が無ければ、苦しみが増すのです。
喜びとは可能性であり、可能性とは自由なのです。
自由が無ければ、人生に幸福が実現することはないのです。
あなたは、自由を得なければなりません。
どのような道を歩もうとも、心が自由の中に生きなければならないのです。
心が束縛(そくばく)されて自由を失えば、心の可能性が絶たれてしまうでしょう。
心は自由を得ることによって、伸び伸びと成長することができます。
あなたは、心を束縛から解放しなければならないのです。
心は多くのことで束縛されています。
自由な心を生きる人は少ないのです。
多くの人が、何かに心を捕らわれ、自由を失っているのです。
根を伸ばすことのできない樹木は弱ります。
やがては枯れてしまうのです。
根を伸ばすことができれば、樹木は弱ることもなく、枯れることもなく、命を全うすることができるのです。
根を伸ばす自由がないために、根が詰(つ)まり、水と空気を得ることができないのです。
根が枯れると樹勢(じゅせい)は弱まり、枯れてしまうのです。
樹木が元気であるためには、根が充分に伸び、多くの水と新鮮な空気が必要なのです。
樹木にとっての根とは、人間でいう心のようなものです。
根は地中にあって目視することができません。
心は胸中にあって、やはり目視することができないのです。
根が伸びれば、多くの水と空気と栄養を得ることができます。
心が広がれば、多くの知識と経験と知恵を得ることができるのです。
心が広がれば、健康な精神と肉体が備わるのです。
そして、健康な精神と肉体は、健全な状況を導くでしょう。
健全な状況の積み重ねが、豊かな人生となるのです。
豊かな人生にとって大切なのは、自由を得るということなのです。
多くの人は心の自由を軽視しています。
例えば、お金や生活のため、不安や怒りのために心を不自由な状況に強いるのです。
心の自由を我慢することによって、人生の豊かさや幸福が実現すると考えているのです。
本当にそうでしょうか?
例えば、不自由の中に得るお金があなたに豊かさや幸福を導くと思いますか?
不自由な中に強いられた分、そのストレスを解消するためにお金が使われるかも知れません。
ギャンブルや酒や薬、無駄遣いなどに走ることもあるのです。
それでは、多くのお金を得たとしても、豊かであり、幸福であるとは言えないのです。
心を自由の中で伸び伸びと育めば、ストレスに脅(おびや)かされることは少なくなります。
ストレスが少ない分、余計な選択肢は排除されるのです。
余計な選択肢が無いために、多くの所有を必要とはしないのです。
現代人は多くのものを所有しています。
しかしながら、本当に豊かな人生を幸福の中に築いていると言えるのでしょうか?
あなたは豊かな人生を生きていると自信を持って言えるでしょうか?
あなたは本当に幸福なのでしょうか?
深く考えなければなりません。
多くの人は心の自由を軽視しています。
残念ながら、物はあなたを満たしません。
しばらくはストレスを紛らわせることもできるでしょう。
しかしながら、それも長くは続かないのです。
物が豊かさや幸福の本質ではないために、次から次へと所有しなければならないのです。
多くの人は、所有しながらも別の物を探しているのです。
そのようなものが、どうして豊かさや幸福の本質なのでしょうか?
あなたは、心に自由を与えなければなりません。
それは、生きたいように生きるということなのです。
様々な理由によって、心を束縛してはなりません。
締め付ければ腐るのです。
それは、樹木も人体も心も同じです。
生きたいように生きなければなりません。
心の自由が最も価値があるということを覚えておきましょう。
これは、あなたの人生なのです。

2016年9月13日火曜日

大切な仕事

あなたには、果たさなければならない目的があります。
それは、人生という目的です。
しかしながら、それを壮大なものとして考える必要はありません。
なぜなら、人生というものは、小さな選択の積み重ねであるからです。
人生と聞けば、多くの人は萎縮(いしゅく)してしまうでしょう。
人生について考えることは、多くの人にとっては難しいことなのです。
それは、目の前のことに目を向けてはいても、人生という遠いものには目を向けてはいないからです。
小さなものを見る習慣は育まれていても、大きなものを見る習慣は育まれてはいないのです。
そのため、いきなり人生について考える必要はありません。
現状から、できることによって、最終的に人生というものを考え、その目的を達成すれば良いのです。
人生を焦る必要はありません。
焦ってしまえば、達成すべき目的を達成することが難しくなってしまうのです。
あなたは焦ることなく、一つ一つを丁寧にこなしましょう。
一つ一つの地道な積み重ねが、壮大な計画を支えることになるのです。
一つ一つの積み重ねを疎(おろそ)かにしているのであれば、全体が大きく積み上がった時に崩れ去ってしまうのです。
石垣は、高くなるほどに精妙(せいみょう)さが求められるのです。
いい加減に積み上げられた石垣では、高く積み上げることはできません。
少しの風雨にさらされただけで問題が発生するのです。
いい加減に積み上げることは、短時間の内に作業を終わらせることができるでしょう。
そのため、次の石垣に取り掛かることもできるのです。
そうやって、短時間の内に多くの石垣を所有する人がいます。
しかしながら、その石垣は少しの衝撃によって崩れ去ります。
それでは、豊かさを実現したことにはなりません。
そのようないい加減な仕事であっては、目的を果たすことはできないのです。
丁寧に積み重ねることは、多くの時間と労力を必要とします。
丁寧な仕事は仕上がりが遅く、なかなか先が見えません。
そのため、多くの石垣を所有することはできないのです。
しかしながら、丁寧に積み重ねられた石垣が簡単に崩れ去ることはありません。
丁寧に積み重ねられたために密度が濃く、衝撃に耐えることができるのです。
時間と労力は、それに相応しい成果を導きます。
時間と労力の投入が無駄になることはありません。
多くの人は表面的な豊かさを求めます。
それは、良質な石垣を一つ所有するよりも、粗悪な石垣を複数所有する方が豊かであるとする考え方があるのです。
どれだけ多くの石垣を所有していたとしても、そのすべてが崩れ去ってしまうのであれば、乏しいのです。
一つだけであっても、崩れ去ることのない石垣を所有している方が豊かであることは明白なのです。
中身の無いものを豊かさと考えてはなりません。
中身の無いものを生み出してはなりません。
中身の無いものを欲してはなりません。
時間と労力を掛けても、良いものを生み出し、良いものを求めるのです。
あなたが豊かさを得るためには、一つの理(ことわり)を守っていれば良いでしょう。
それは、”より良い仕事をする”ということです。
あなたは、より良い仕事をすれば良いのです。
より良く考え、より良く行い、より良く喜び、より良く与え、より良く感謝し、より良く感謝されれば良いのです。
丁寧な仕事を心掛けながら石垣を積んでいれば、石垣を頑丈にするのにより良い方法を知ることができるでしょう。
しかしながら、焦り(不安や強欲など)によっていい加減な仕事によって石垣を積んでいるのであれば、石垣を早く積み上げる方法を知ることになるのです。
それは、より粗悪な積み方となるのです。
両者の方向性は全く別の成果を生み出すのです。
あなたには果たさなければならない目的があります。
日常とは、そのための作業です。
それは、石を一つずつ積み重ねていく作業なのです。
石には様々な形状があります。
日常には、様々な問題や発見があるでしょう。
あなたはその問題や発見を丁寧に積み重ねなければなりません。
いい加減に毎日を過ごしてはなりません。
あなたは日々、自分を磨くように努めなければならないのです。
自分を磨く程に、良い仕事ができるようになるのです。
今日という石をどのように積むかはあなた次第です。
不貞腐(ふてくさ)れていい加減に生きないようにしましょう。
一つのいい加減な仕事が、石垣を崩すことがあるのです。
侮(あなど)ってはなりません。
毎日が大切な仕事なのです。

2016年9月12日月曜日

人生を変える方法

あなたは、自分自身と向き合い続けなければなりません。
この世界には、変えるべきことはありません。
この世界には欠陥はないのです。
この世界は常に完全な形を保っています。
あなたは世界を変えようと考えてはなりません。
世界を変えようと考えたとしても、あなたには変えることができないのです。
あなたが変えることができる唯一のものは、自分自身という存在です。
あなたは、自分だけを変えることができるのです。
あなたが自分を変えることによって、人生が変わるでしょう。
あなたは初めに思考を変えることができます。
思考が変われば選択が変わります。
選択が変われば状況が変わります。
状況が変われば環境が変わります。
環境が変われば人生が変わるのです。
人生を変えるための布石(ふせき)は、思考を変えることなのです。
それは小さな変化です。
小さな変化が、やがては大きな変化として導かれるということを覚えておきましょう。
多くの人は世界を変えようと努めます。
世界とは、自分以外の存在のことです。
多くの人は他人を変えようと努めるでしょう。
しかしながら、あなたがどのように努めても、他人が変わることはありません。
あなたには、他人を変える権利が与えられていないのです。
多くの人は状況や環境を変えようと努めます。
しかしながら、あなたには状況や環境を直接的に変えることは許されていないのです。
あなたには、自分を変えることによって、間接的に状況や環境を変える権利が与えられているのです。
世界を変えようとするのは、簡単な考え方です。
他人や状況や環境が変わってくれさえすれば、問題は解決するように思えます。
浅知恵は、あなたにそのように思い込ませるでしょう。
例え、他人や状況や環境を変えたところで、再び同じことが繰り返されるのです。
それは、すべての原因が自分自身であるからです。
どのような外的要因も、その本質は自分自身であるのです。
すべては自分自身から始まるということを覚えておきましょう。
他人から始まるものはありません。
状況や環境から始まるものなどないのです。
そう思えるだけです。
あなたが向き合わなければならないのは、自分自身だけなのです。
自分以外の何かに向き合うということは、結果に向き合うことです。
結果を変えるためには、その原因に向き合う必要があるのです。
結果を変えようとしているのに、その原因を知ることがなければ、変えることはできません。
そのため、あなたはどのような問題を前にしても、自分自身と向き合う必要があるのです。
あなたは他人と向き合ってはなりません。
状況や環境と向き合う必要はありません。
結果に答えを求めても、答えは得られないのです。
原因である自分自身にその答えを探すのです。
多くの人は敵を作ります。
そして、それを外に見ているのです。
他人や状況や環境が悪いのではないのです。
他人や状況や環境は自分の役割を果たしているだけなのです。
それが悪いと見ているのはあなただけなのです。
あなたの考える悪いものは、別の人には必要な学びの場所であるのです。
それがどのようなものであろうとも、存在理由と存在価値があるということを知らなければなりません。
広い視野を持てば、すべてが必要であるということを理解することができるでしょう。
それが、あなたにとってどのようなものであろうとも、そこから自分自身の歪みを学ぶのです。
嫌悪を抱いている弱い心が存在しているだけなのです。
外に存在するものは決して悪くはありません。
悪いものがあるとするのならば、自分自身の弱さであるということを覚えておきましょう。
あなたは敵を作ってはなりません。
自分自身と向き合うだけで良いのです。
それだけで問題は解決します。
信じられないのであれば、あなたは問題を抱えていることでしょう。
信じられないのであれば、あなたは敵によって疲弊(ひへい)していることでしょう。
信じられないのであれば、あなたは苦悩を抱えていることでしょう。
浅知恵に従ってはなりません。
人生を変える方法を覚えておきましょう。

2016年9月11日日曜日

溺れる人の意見

多くの人は、他人の意見を気にしています。
他人がどう考えているのかを気に掛けているのです。
多くの人は、他人の意見によって、自己の在り方を定めようとします。
他人に好かれる自分になろうとしているのです。
誰もが他人に嫌われることを恐れています。
そのため、他人に対する自己の形成に努めるようになります。
他人にために尽力することは良いことです。
しかしながら、他人に対して本当に役立つ形によって助力しなければ価値がありません。
相手にとっての最善は何か?ということが前提になければ、他人の役に立つことはできないのです。
あなたが他人の役に立つためには、自分の役割を果たすことができる自己でなければなりません。
自分の役割を果たすことさえできない者が、どうして他人の役に立つことができるのでしょうか?
泳げない者が溺れている者を救うことはできないのです。
十分に泳げたとしても、溺れている人を救うことは簡単ではないのです。
他人の意見を気にして、他人に合わせて自己を形成する人は、泳げないようなものなのです。
溺れている人の真似をしてはなりません。
それは、溺れていることに等しいのです。
泳げない者、溺れている者が、どうして溺れている人を救うことができるのでしょう?
それは無理であるのです。
溺れている人を救うためには、十分に泳げることが最低限の条件なのです。
自己を確立させることができていない者が、他人を救うことなどできません。
他人の意見を気にして、他人に合わせて自己を形成している者には、誰も救うことができないのです。
あなたは、”あなた”である必要があります。
”あなた”とは、自らの役割を果たすことができる状態のことです。
他人の意見を気にして、他人に合わせて自己を形成してはなりません。
あなたにはやらなければならないことがあるのです。
あなたは自らの役割を果たすことのできる自己を形成しなければならないのです。
残念ながら、他人の意見は(基本的に)役に立ちません。
なぜなら、他人は違う役割を担っているからです。
違う役割を担っているのであれば、意見が分かれるのが自然です。
他人は、(多くの場合)自分の立場からあなたを判断しているのです。
そのため、他人の意見を信用してはならないのです。
多くの人がこの世界に溺れている状態です。
溺れている人の意見など、役に立たないのです。
この世界を十分に泳いでいる人の意見は、あなたをより良く泳がせるでしょう。
多くの人が他人からの批判を恐れています。
しかしながら、あなたは他人からの批判を恐れる必要はありません。
なぜなら、あなたに対して批判的な意見を投げ付けるのは、溺れている人であるからです。
溺れている人は、声を荒げます。
助けようとしている者に対しても罵(ののし)るでしょう。
溺れているために余裕が無いのです。
余裕が無いために溺れるはめになったのです。
溺れている人の意見を受け入れていれば、あなたは溺れている人を救うことはできません。
批判的な意見というものは、歪んだ感情から生じます。
そのような言葉を所有する者の心は歪んでいるのです。
歪んだ心を所有する者の意見は、あなたの役には立たないのです。
ただし、あなたに注意を促(うなが)し、別(反対)の意見を言う人がいます。
そこにはしっかりとした意図が込められています。
多くの人は批判と注意の区別が出来ません。
そのため、育たないのです。
あなたは批判と注意の違いを見極めましょう。
あなたに対してネガティブに批判する人の意見を気にする必要はありません。
あなたに対してポジティブに注意をする人の意見を気にしましょう。
他人の意見を主体としてはなりません。
あなたには果たさなければならない独自の役割があるのです。
思うままに進みましょう。
思うままに生きてみましょう。
他人に合わせる必要はありません。
自己を確立した状態によって、他人と協力するのです。
自己を確立しない状態では、他人と依存するようになるということを覚えておきましょう。

2016年9月10日土曜日

本当に必要なもの

人生には、様々な学びを必要としている人達がいます。
すべての人が自分に必要な学びを所有しています。
人は自分に必要な学びによって、必要な成長を実現しなければならないのです。
人生の目的は成長にあるのです。
そのためには、それに相応しい学びが必要になるのです。
どのような人も成長を実現しなければなりません。
成長以外の方法によっては、どのような幸福も実現することはないからです。
資産によって人生を飾っても、残念ながら心を満たすことはできないのです。
資産の増減は、心の満足には直接的な関係を結ばないのです。
資産が多くても心に不足を感じている人がいます。
資産が少なくても、心に満足を覚えている人はいるのです。
”物”によっては、誰も幸福にはなれないのです。
人生を本質的に考えなければなりません。
多くの人が迷い込む物質主義という迷路では、目的地へと辿り着くことはできないのです。
道は真っ直ぐに伸びる方が良いのです。
あなたは、”物”が(直接的に)幸福を決めているのではないということを理解しましょう。
”物”とは、車や道路標識や道端に咲く花のようなものに過ぎません。
それ等が多くあることは、便利ではあるでしょう。
しかし、道が迷路のように複雑に入り組んでいるのであれば、車で道路標識に従い、時に道端に咲いている花に和(なご)んでも、目的地に辿り着くことは難しいのです。
自転車でも徒歩でも良いのです。
道が真っ直ぐに伸びているのであれば、道路標識も必要ありません。
あなたは、あなたの道を選択すれば良いのです。
あなたは心を所有しています。
それは”物”ではありません。
心が資産を引き寄せているに過ぎません。
それも、流動する全体の一部を引き込んだに過ぎないのです。
それは、地球を循環する水の一部を蓄えるようなものなのです。
地球を循環する水は、様々な形であなたに与えられます。
本来ならば、それを蓄えておく必要もないのです。
しかしながら、恐怖に根差した物質主義的な考え方が、人に水を蓄えさせるのです。
それによって、人は多くの”荷物”を抱えなければなりませんでした。
多くの人は、多くの荷物を抱えて、複雑な迷路を歩んでいるようなものです。
それでは、余計に目的地が遠くなるのです。
生き方が、あなたの荷物と道を決めます。
あなたにとって本当に必要な生き方はどのようなものでしょうか?
他人と比較することなく、利己的に陥ることなく、自分にとって本当に必要な生き方について考えてみましょう。
そうすれば、あなたが余計な荷物を抱え、遠回りしているということに気が付くこともできるでしょう。
人生には、様々な生き方があって良いのです。
それは、様々な学びを必要としている人がいるからです。
あなたは、他人に生き方を否定する必要はありません。
他人は、他人に必要な学びを得ようとしています。
あなたは、自分に必要な学びを得ようと心掛ければ良いのです。
他人の生き方にとやかく言う(考える)ことをやめ、互いの生き方を尊重するようにしましょう。
それが親族であろうとも、互いの生き方を尊重する必要があるのです。
なぜならば、人は自分の成長のために生まれたからです。
すべての人が自分に必要な目的地を持っているのです。
その目的地へと辿り着くことが求められているのです。
様々な人がいて良いのです。
様々な考え方があって良いのです。
様々な生き方があって良いのです。
寧(むし)ろ、多様性がなければならないのです。
一様な生き方では、人生の目的を果たすことはできません。
あなたが自分に必要な生き方を選択する時、余計な荷物や別れ道はなくなるでしょう。
あなたは自分が本当に必要としているものを探しましょう。
それがどのようなものでも構いません。
他人に批判されようが、それが必要であれば掴むのです。
あなたは、あなたの人生を生きる必要があるのです。

2016年9月9日金曜日

人生の貧富

人は、多くのことに思い煩(わずら)い、人生を乏しいものとしています。
人生は豊かな場所であるべきです。
人生を乏しいものとしてはなりません。
その権利はあなたにあるのです。
あなたが自らの権利によって、人生を乏しくも、豊かにもできるのです。
人生は自分次第でどうにでもなるのです。
人生は心一つなのです。
心の状態が人生を決めるということを覚えておきましょう。
しかしながら、多くのことに思い煩っている者には、心が人生を決めるということを理解することができません。
それは、本質を理解してはいないからです。
人生における状況の本質は、意識であるのです。
意識の周囲に物質が付属しているのです。
そのため、目の前の状況は意識(心)の副産物であると言えるのです。
あなたの見解によって、状況は大きく異なるでしょう。
同じ状況に対しても、人それぞれに受け取る結果が異なるのは、境遇に起源しているのではないのです。
どのような境遇であろうとも、それが心境に起源しているために、受け取る結果が異なるのです。
それ以外の原因は存在しないということを知りましょう。
あなたは表面的な部分に惑わされてはなりません。
見た目に惑わされるのであれば、状況が意識の副産物に過ぎないということを理解することができません。
あなたは状況に翻弄(ほんろう)されているのではありません。
あなたは、自らの心に翻弄されているだけなのです。
本来ならば、思い煩う必要などないのです。
なぜなら、人生におけるすべての状況には大切な意味があり、そのすべてがあなたの成長の助けとなるからです。
人生の本質を見詰め、心に寄り添って生きるのであれば、人生には煩いも乏しさも導かれることはないのです。
あなたは心に向き合わなければなりません。
心がどういうものであるのかを知れば、状況がどのようなものであるのかを知るでしょう。
心を知らずに、その副産物である状況を理解することはできないのです。
心とは、一瞬の誤解に過ぎません。
あなたの心は未熟です。
それは判断を間違えます。
少ない情報から判断を求められる心は、未熟な決断を下すのです。
それは、あなたに知識が乏しいからです。
心は、あなたの所有する知識によって、物事を判断するのです。
知識が乏しければ、判断も未熟です。
心は知識に相応しい判断をするのです。
そのため、人生とは知識の量に比例しているということを理解する必要があるのです。
知っていれば、豊かさが導かれます。
知らなければ、乏しさが導かれるのです。
ただ、それだけのことです。
人生の貧富には、特別な方法など関係してはいないのです。
豊かに生きる人を見て、それを羨(うらや)む必要はないのです。
羨むという行為は、あなたに時間を無駄にさせます。
あなたには、他人を羨んでいる暇などないのです。
あなたは他人と比較することをやめ、自分の心に向き合い、そこに存在する未熟さを克服しなければならないのです。
それだけで人生は変わります。
心は簡単に変えることができます。
あなたの心は簡単に変化しているのです。
それは、心の副産物である状況にも同じことが言えます。
状況も簡単に変わります。
それも、すぐに変わるのです。
本来ならば、あなたが思い煩っている間に状況は変わるのです。
しかし、あなたが思い煩っているために変化を阻害しているということを知らなければならないでしょう。
あなたは心配する必要はありません。
状況などすぐに変わります。
過去を反省し、成長を実現することを目指さなければなりません。
多くのことに思い煩い、状況の変化を止めてはなりません。
状況など、あなたの心次第なのです。
それは、簡単に変えられます。
何かに対する執着を止め、心を簡単に変えてみましょう。
そうすれば、簡単に状況が変わることに気が付くでしょう。
前向きに生きましょう。


2016年9月8日木曜日

特別な力

あなたには、あなただけの人生が与えられています。
あなたは自分に与えられた特別な力を使い、特別な人生を生きる必要があるのです。
ここでいう特別とは、他者との優劣を競うものではありません。
誰もが特別な力を与えられ、特別な人生を生きることができるのです。
それぞれの性格が違うように、能力も人生も違うものとなるのです。
すべての存在は、それぞれが特別に創造された特別製なのです。
そのような意味での特別であるということを理解しなければなりません。
あなたは、この世界に唯一の特別です。
他者も同様に唯一の特別です。
特別なものは特別であるべきなのです。
特別なものが一般的な状態を欲するのであれば、特別な力は失われます。
特別な力が失われるのであれば、特別な人生も失われるでしょう。
あなたが自分の能力と人生を求めないのであれば、所謂(いわゆる)”普通”の人と成り、”普通”の人生を生きることになります。
ただし、”普通”という状態は自然ではありません。
あなたにとっての自然とは、特別な状態であるからです。
特別な者が”普通”を得るということは、歪むということです。
”普通”に生きるだけで歪むのです。
ただし、これは世の中から離れて生きろということではありません。
地に足を着けて生きることは重要です。
世の中に存在するすべての仕事や生き方は、尊重されるべきなのです。
あなたは、世の中に根差しながら、特別な自分を忘れないように努めなければならないのです。
特別とは自然な形です。
”普通”という状態は不自然なのです。
あなたは、自然体で生きれば良いということなのです。
多くの人は自分を偽り、様々な思惑(おもわく)に埋もれています。
例えば、他人からの教育や自分自身による学習が、あなたを歪めています。
あなたは自分が特別だと思いますか?
この世界において、唯一の存在だと自負していますか?
もしも、あなたが自分を特別だと思わなかったり、取り柄(え)が無いなどと考えているのであれば、既に歪んでいるということを知らなければならないのです。
多くの人は自分を”普通”だと思っています。
もしくは、”普通”よりも劣っていると考えているでしょう。
そのような自己憐憫(じこれんびん)は、自らの可能性を決め付ける態度であるのです。
多くの人が自らの可能性を決め付けています。
しかしながら、そのような人は自分が何者であるのか?さえ知らないでいるのです。
自分が何者であるのか?さえ知らないのに、どうして自らの可能性を決め付けることができるのでしょうか?
残念ながら、あなたは自分が考えているような人物ではありません。
あなたは自分のことを知らないのです。
あなたは自分が何者であるのかを知っていますか?
もしも、知っていて自己憐憫に陥っているのであれば、認識が間違っています。
もう一度自分を見つめ直す必要があるでしょう。
あなたは可能性を決め付けてはなりません。
もちろん、何でもできる、何でも叶うという現実逃避を押し付けるつもりはありません。
何ができて何ができないのか?
何が叶い、何が叶わないのか?
という自らの可能性を多少なりとも見極めることはできるのです。
そのためには、自分を知ることです。
あなたの中には、特別な可能性が眠っているのです。
それは、あなたにだけ開示される可能性なのです。
あなた以外には得られない可能性です。
それはこの世界の宝であるということを知りましょう。
あなたが”普通”であることをやめるのであれば、世界に宝が導かれるでしょう。
力んで生きる必要はありません。
無理を重ねる必要もないのです。
世の中に根差していても、苦しまない生き方があります。
あなたが世の中に苦しみを覚えているのであれば、”普通”をやめましょう。
自らが特別であるということ、唯一の存在であり、この世界の宝であるということを理解するのです。
その理解を以て、今までと同じことをしてみましょう。
そうすることによって、あなたは不平不満から解放され、それを特別な仕事にするでしょう。
誇(ほこ)りを持って生きましょう。
人生を変えるのは、自分の特別な力であるということを覚えておきましょう。

2016年9月7日水曜日

器の大きさ

大切なのは、”器”を育むことです。
受け取るものは器の大きさに比例します。
器の大きさに合わせて、どれだけを受け取ることができるのかが決まります。
与えるものは器の大きさに比例します。
器の大きさに合わせて、どれだけを与えることができるのかが決まるのです。
”器”とは、あなたの心です。
あなたの心の大きさに比例して、受け取るものと与えるものの量が決まるのです。
器の大きさに関係しないものを取引することはできません。
あなたは必ず、器の大きさに比例した取引を強制されるのです。
それは、それがこの世界における理(ことわり)であるからです。
あなたが多くを取引したいと考えているのであれば、器を育む以外に方法がないということを覚えておきましょう。
しかしながら、多くの人は考えや技術によって、大きな取引を企(たくら)みます。
しかしながら、それは器に相応しくない取引と言えるでしょう。
器の大きさよりも多くを受け取ろうとしたり、多くを与えようとするのは、理に反する方法なのです。
器の大きさに相応しくない取引は、不正な取引であるということを理解しなければならないのです。
どのような取引も、器の大きさに比例しているということを覚えておかなければなりません。
器が育まれていないにも関わらず、多くを受け取ろうと企んだり、多くを与えようとしてはなりません。
不正によっては、必ず無理が生じるからです。
あなたは、”無理が祟(たた)る”ということを覚えておきましょう。
理に反すれば、問題は避けられません。
問題を生じさせる方法によって、どうやって豊かさを実現するというのでしょうか?
あなたは器に相応しい量を受け取り、器に相応しい量を与えるのです。
それ以上を望んではなりません。
あなたが望むべきは、器を育むことなのです。
小さな器で多くを取引しようと望んではならないのです。
器を育むのには多くの時間と労力が必要です。
しかも、理に沿わなければ育まれません。
弱さを抱える人間には難しい方法なのです。
しかしながら、豊かさを得るためには、器を育む以外に方法はありません。
多くを求めているのであれば、大きな器を求めましょう。
あなたは器を育まなければなりません。
そのためには、器に向き合うことです。
先述したように、器とは心です。
あなたは内なる心と向き合い、そこに不正を許してはならないのです。
心の不正とは、自分自身に対する偽りです。
自分に嘘を吐き、欺(あざむ)くのであれば、心は育まれません。
自分に対して実直であり、真摯(しんし)でなければ、心を育むことはできないのです。
どのような状況においても自分に対して実直さと真摯さを忘れることがなければ、あなたの心は大きく育まれるでしょう。
大きな心は、それに相応しい寛容性(かんようせい)を身に付けています。
寛容性の大きさこそが、受け取るものと与えるものの量を決めるのです。
心が育まれておらず、狭量(きょうりょう)であるのならば、受け取(入れ)ることは限られてしまいます。
小さなことに不安や怒りを現すのは、その心が狭いからに他なりません。
そのような人の心は育まれておらず、器は浅く小さなものであるのです。
浅く小さな器であれば、与えられるものも自ずと少なく小さなものに限られるのです。
心が育まれ、広量(こうりょう)であるのならば受け取(入れ)る、ことには限りがありません。
少々のことでは動じず、寛大(かんだい)であり、包み込むような力を身に付けています。
そのような人の心は大いに育まれ、器は深く大きなものであるのです。
深く大きな器であれば、与えるものも自ずと多く大きなものとなるのです。
小さな器であっては、手間取るばかりなのです。
小さな心で豊かさを求めるのであれば、消耗は甚(はなは)だしく、乏しさは避けられないのです。
小さな器で水を運ぶのであれば、畑は干からびてしまうでしょう。
大きな器で水を運ぶのであれば、畑は潤っているのです。
あなたは、小さな心のままに生きてはなりません。
小さなこと、どうでも良いことに足を取られ、思い悩んで生活してはなりません。
あなたの抱えている問題は、その器では受け切れないために問題となっているのです。
器によって受け切れるものは問題とはならないということを理解しましょう。
器を育むことが重要です。
どのような問題に対峙したとしても、あなたは心を育むことに集中しましょう。
それ以外の方法では、残念ながら問題が解決することはありません。

2016年9月6日火曜日

橋の材料

あなたには、辿り着かなければならない場所があります。
あなたには、積み上げなければならない高さがあります。
あなたには、掘り下げなければならない深さがあります。
あなたには、達成しなければならないことがあるのです。
人生とは、達成するための場所です。
すべての人生が達成を求めているのです。
あなたは、あなたの人生の目的を達成する必要があります。
目的を達成することがなければ、もう一度目的へと向かわなければならないのです。
あなたは自覚してはいないかも知れません。
しかしながら、誰もが目的を持って生きているのです。
そして、その目的を達成したいと願っているのです。
あなたは、あなたの人生の目的を達成しなければなりません。
人の性格がそれぞれに違うように、人生の持つ性格も違うものとなります。
あなたは、自分の人生の目的を達成することに努めましょう。
人生の目的が分からないというのであれば、目の前のことを懸命にこなしましょう。
目の前のことを丁寧に行うのです。
妥協(だきょう)しない姿勢が、人を目的地へと向かわせるからです。
あなたが自覚していないだけで、目の前のそれは目的地へと向かう掛け橋のようなものです。
すべてに意味があります。
すべてが最善なのです。
あなたの目の前に存在しているものは、あなたの人生に深く関わるものであるということを自覚しましょう。
それがどのようなものであろうと、それが気に食わなくても、あなたにとっての最善であり、目的を達成するための唯一の道なのです。
多くの人は不満を吐きます。
そして、目の前のことを蔑(ないがし)ろにするのです。
目の前のそれが自分の人生の掛け橋となるということを知らないのです。
やりたくないこと、嫌なものは自分には関係ないと考えているのです。
あなたは、やりたくないことや嫌なものが重要な役割を担っているということを理解しなければなりません。
あなたの人生の掛け橋には、様々な種類の材料が使われます。
人生の掛け橋には、多種多様な材料を必要とします。
そこには、やりたくないことや嫌なものも含まれているのです。
例えば、ある程度道を進めば、誰にでも偏見が可能性を狭めることを理解することができます。
好き嫌いによって可能性を狭めるのではなく、嫌いを活用する方が賢い選択であることを理解するのです。
可能性を広げることこそが、重要なのです。
簡単に崩れ落ちる橋を作るのであれば、偏った材料を使えば良いでしょう。
やりたいことや好きなものを続けていれば良いでしょう。
しかしながら、それでは強度が足りないのです。
橋が伸びる程にもろくなってしまうのです。
そのため、あなたは何でも活用することを覚えなければならないのです。
無駄と決め付けて否定するのであれば、橋を掛けることはできません。
積み上げたものはもろくも崩れ落ちるでしょう。
掘り下げても崩れて埋もれてしまうでしょう。
目の前にあるものすべてを活用しなければ、あなたは目的地へと辿り着くことができないのです。
否定的な思考は可能性を狭めます。
あなたにとって良いことなどないのです。
敵を作ってどうして安心して眠ることができるのでしょうか?
否定的な思考が導く偏見とは、敵を作る行為なのです。
敵がいれば、橋の建設は上手くいかないのです。
勘違いしてはなりませんが、敵がいたのではないのです。
あなたが敵を作ったのです。
すべてが必要な材料です。
組み合わせを考えなければなりません。
根拠もなく切り捨ててはなりません。
それは必ず何かの役に立ちます。
必要であるために、それは目の前に存在しているのです。
人生には、達成しなければならない目的があるということを覚えておきましょう。
すべてと協力しなければ届きません。
すべてを材料としなければなりません。

2016年9月5日月曜日

未知の選択肢

人は、所有する価値観の中に人生を築きます。
人は、価値観の中に選択肢を見出しているのです。
あなたにとって、価値観の外にあるものには選択肢がありません。
あなたには、それが見えない(正確には見えずらい)し、認識することができないのです。
あなたの価値観の中に存在しないものは、あなたの世界には存在しないようなものです。
あなたには知らないことがあります。
それは、価値観の中に存在しないために知らないのです。
価値観の中に存在しないために、これまでに選択肢として選ばなかったのです。
それは以前からこの世界に存在していました。
しかしながら、あなたの価値観の中には存在しなかったものなのです。
人は、視野の範囲のものしか受け入れません。
自分の視野が届く範囲のものしか認識することができないからです。
認識することができないものを受け入れることはできません。
あなたは、見えないものを他人に信じさせることができますか?
人は、価値観の中において認識することによって信じることができるのです。
目には見えないものであっても、価値観の中に存在すれば信じます。
例えば、”神”という存在を見ることはできません(正確には、すべての存在が”神”そのものである)が、価値観の中にその存在を許せば、”神”を信じるでしょう。
宗教においては、偶像を”神”として見せることによって、信者の価値観の中に認識を植え付けるのです。
そのため、宗教における信者は、石製(せきせい)や木製の像を”神”として信仰しているのです。
教典や寺院や社殿も同じようなものです。
宗教における信者の視野には、偶像としての”神”が映ります。
宗教における信者は、それを受け入れることによって”神”を信じているのです。
人は価値観の中に見えるものを信仰します。
そのため、あなたが豊かさを実現するためには、価値観の成長が必要であるということが分かります。
価値観によって人生が決まるようなものです。
あなたは、価値観によって人生を築いているということを理解しなければなりません。
偶像を”神”として信仰している者に、それが石や木の像であると告げても、それを理解することはできません。
なぜなら、価値観の中には、その像が”神”として認識されており、”石や木の像”とは認識されていないからです。
それがどのような選択であっても、価値観の中の認識を外れることはありません。
あなたがどれだけ良いものや方法を勧(すす)めても、相手の価値観の中に認識されなければ受け入れられることはないのです。
どのような働き掛けも無駄に終わります。
人にとって、本当に重要なものは、可能性を導く選択肢であるのです。
しかしながら、可能性を導く選択肢とは、価値観の外に存在する未知の選択肢であるのです。
受け入れ難いものの中にこそ、新たな可能性が存在しています。
既に受け入れている選択肢だけを使い、新たな可能性を導くことはできません。
価値観の中だけで選択しているのであれば、既存の可能性が導かれるだけなのです。
そのため、人が可能性を求めているのであれば、新たな挑戦を選択する必要があるのです。
未知に向き合うことをせずに、新たな可能性は導かれません。
人にとって本当に価値のあるものとは、理解できないものなのです。
あなたが理解することができないことの中にこそ、可能性という価値が眠っているのです。
例えば、あなたが普段ならば選ばないものを選んだ時、今までに無い刺激を受けることになるのです。
それが、自分にとって良いものであろうと、悪いものであろうとも構わないのです。
新しい刺激こそが、新しい可能性に繋がるからです。
人は理解することができないことを必要としなければなりません。
しかしながら、それは難しいのです。
それは、人が恐怖に根差した価値観を所有しているからです。
未知に可能性が存在していることを知ってはいますが、そこには同時に危険が存在しているということを知っているのです。
確かに危険は存在します。
しかしながら、それは、過去の自分に対する危険であり、未来の自分には安全でしかないのです。
本当に良いものは理解されません。
多くの人が必要としているものは、価値観の範囲内のものなのです。
しかしながら、あなたは理解されないことを恐れてはなりません。
人に理解されることがなくても、良いものを提供する必要があるのです。
理解は後から追い付きます。
今、役に立つものも大切ですが、後に役立つものも大切であるということを覚えておきましょう。

2016年9月4日日曜日

最善のプレゼント

あなたは、心に従って人生を創造します。
創造とは選択です。
あなたの選択が人生を決めるのです。
人生は、あなたの心によって創造されます。
あなたは、本心から求めているものを実現しているのです。
あなたの目の前に導かれる状況がどのようなものであろうとも、それがあなたの本心が望んでいる学びであるのです。
あなたはそのことを理解する必要があるのです。
目の前には、必要だけが導かれるのです。
中には、受け入れ難い状況もあるでしょうが、それを求めたのはあなたなのです。
しかしながら、多くの人は自分の本心が求めていることを知りません。
本心と向き合ったことが無いのです。
多くの人は自分のことを知りません。
あなたは自分が誰だか分かりますか?
自分が何者か分からないのに、どうして求めているものが分かるのでしょうか?
残念ながら、あなたは自分が求めているものさえ知らないのです。
しかしながら、本心は求めています。
そのため、目の前には受け入れ難い状況も導かれるのです。
あなたにとって無駄なものはありません。
すべてが、あなたを成長させるためには必要な状況であるのです。
ただ、それを理解することができないだけです。
理解することができないからといって、無駄であるという理由にはなりません。
残念ながら、あなたには目の前に導かれる状況の意図を理解することはできません。
そのため、受け入れ難いのです。
あなたにとって、その状況が受け入れ難いかどうかは問題ではありません。
問題なのは、受け入れ難い状況という理由で否定するということにあります。
必要であるために導かれているのです。
それ以外の理由はないのです。
あなたの成長にとって、あなたの目の前に導かれるすべての状況が必要な意味を持つのです。
すべてはあなたの役に立つということを理解する必要があるでしょう。
しかしながら、多くの人はそのことを受け入れることができません。
どうしても、自分の視野の範囲内で考えてしまうからです。
見えないものは存在しないのです。
知らないものは認めることができないのです。
信じられないものを受け入れることができないのです。
しかしながら、あなたは何も知らないのです。
すべてが見えないに等しく、知らないに等しく、信じられないに等しいのです。
見えている、知っている、信じているものだけを大切にしているのであれば、あなたは可能性を失ってしまうことになるでしょう。
大切なことは、見えないこと、知らないこと、信じられないことにこそあるのです。
未知にこそ、あなたの可能性が存在しているのです。
あなたにとって未知であるからといって、無駄であったことがこれまでにあったでしょうか?
それがどのようなものであれ、あなたの成長の役に立ってきたはずです。
これまでもそうであったように、これからもそうなのです。
あなたの本心は、あなたの成長を誰よりも求めています。
あなたの必要な学びを導いているのです。
あなたは自分が誰であるのかを知らないのです。
本心の愛情にも気が付かないでしょう。
人生に無駄は存在しません。
すべては、あなたの心から生じたのです。
あなたの目の前に導かれる状況は、あなたの心(本心)からのプレゼントです。
それが気に食わないといって、文句を言うものではありません。
あなたのことを本当に愛している人は、あなたが嫌うものをプレゼントすることでしょう。
あなたのためを思うのであれば、あなたの成長を助けるものを贈るからです。
成長するためには、努力と辛抱が必要です。
それは、多くの人にとっては苦しいものなのです。
そのため、多くの人にとって、それ等のプレゼントは苦しみとなるでしょう。
しかしながら、あなたを愛している本心は、あなたに努力と辛抱を必要とする状況を導きます。
あなたは、それが最善のプレゼントであるということを覚えておきましょう。

2016年9月3日土曜日

予想外の成長

人生は、思い通りには展開しません。
多くの人が自分の思い通りの展開を期待しています。
しかしながら、そのようにはなりません。
人生というものは、明確な目的を所有しています。
あなたの意思がどのようなものであろうとも、人生には果たさなければならない目的があるのです。
あなたが否定しようとも、その目的の達成に向けて進むのが普通なのです。
あなたは、人生が目的の達成へ向けて進むことを遅延(ちえん)させることはできます。
しかしながら、目的の達成を阻(はば)むことはできないのです。
遅れようが、遠回りしようが、人生は確実に目的を達成するのです。
あなたは、人生の目的に対して従う必要があるのです。
人生の目的とは、あなたの成長です。
あなたは常に成長することを求められ、人生はあなたが成長するように働き掛けているのです。
あなたは成長を遅延させることができます。
しかしながら、それを阻むことはできません。
そのため、あなたは必ず成長するための過程に向き合わなければならないのです。
人生が導く成長のための過程とは、あなたの苦手を克服させるというものです。
あなたは、苦手と向き合わなければならないのです。
人生は、あなたが苦手と向き合うように段取りをするのです。
そのため、あなたは予想外の展開に身を置くことになるでしょう。
人生が思い通りに展開しないのは、あなたの思い通りに展開することは、偏りを実現するということを知っているからです。
あなたは子どもに偏食を許すでしょうか?
親は、偏食によって生じる問題を知っています。
そのため、偏りなく、栄養を摂(と)らせるのです。
あなたの思い通りに人生が展開するのであれば、あなたは偏った人生を送り、偏った人間となるでしょう。
偏った人間には問題があり、それを改善する過程が必要となるのです。
どちらにしても、偏りを改善する必要がありますが、わざわざ遅延させる必要はないのです。
そのため、あなたは予想外の展開に向き合わなければならないのです。
人生が予想外の展開をした時には、あなたは喜びましょう。
それは、予想外の成長が実現するからです。
予想外の成長とは、普通ならば成長させることが難しい部分のことです。
人は思い通りの人生を求めているために、思い通りの成長しか実現してはいません。
そのため、多くの人は歪(いびつ)に成長しているのです。
その歪みを改善するためには、反対の部分を成長させる必要があるのです。
思い通りの部分が得意であれば、予想外の部分は苦手なのです。
得意な展開によって、得意な部分が成長すれば、その反作用として、苦手な展開によって、苦手な部分が成長するのです。
このことによって、バランスが保たれるのです。
歪に傾いては、先へと進むことができません。
車輪が歪んでいるのであれば、車は進むことができないのです。
車が進むためには、車輪の歪みを取り除く必要があるのです。
あなたは、思い通りの人生を求めてはいませんか?
どのように足掻(あが)いても、人生が思い通りに展開することはありません。
未熟なあなたの思い通りに展開することの恐ろしさを理解しなければなりません。
思い通りに展開したとしても、あなたが豊かさを得ることはできないのです。
豊かさが何かも知らないのです。
どうして、思い通りに展開する人生によって幸福が得られるのでしょうか?
思い通りの展開を切望してはなりません。
予想外の展開によって、あなたは豊かさへと近付くことができるのです。
予想外の展開によって、あなたは幸福を得ることができるのです。
そのことを理解する必要があるのです。
人生が思い通りに展開していなくても、心配する必要はありません。
すべては最善なのです。
人生には、今までに無駄なことは無かったはずです。
これからも無いのです。
必要なことだけが実現します。
そのことを覚えておきましょう。
余計な考えによって、心を汚してはなりません。
感謝して生きましょう。

2016年9月2日金曜日

役割に沿う生き方

あなたは、自らに与えられた役割を果たさなければなりません。
すべての存在には、必要な役割が与えられています。
すべての存在は、与えられた役割を果たすことによって、全体に貢献することが求められているのです。
もちろん、全体に貢献するというのは結果としてのことです。
あなたが目指すべきは、目の前の状況や他人に対する貢献なのです。
その積み重ねが、やがては全体への貢献となるのです。
すべての存在に必要な役割が与えられています。
当然のことながら、あなたにも必要な役割が与えられているのです。
しかしながら、多くの人は自らに与えられた役割を理解してはいません。
そのため、満足してはいないのです。
自らに与えられた役割を果たすこと、自らに与えられた役割に沿う生き方をすることによって、人は大なり小なりの満足を得ることができます。
それは、心からの満足のことであり、例えば、何かを購入することによって得られる表面的な満足のことではありません。
本質的な満足を得るためには、自らに与えられた役割に携わる必要があるということを覚えておきましょう。
多くの人は自らに与えられた役割を知らずに生きています。
与えられた役割があることさえ知らずに生きている人も多いのです。
そのため、自らに与えられた役割から離れた生き方をする人が多いのです。
自らに与えられた役割から離れた生き方をすることも許されていますが、そこでは本質的な満足を得ることはできません。
それは、喉(のど)の渇きと同じように、すぐに不足し、満足することもありません。
あなたが本質的に満足するためには、自らに与えられた役割を知る必要があるのです。
あなたに与えられた役割とは、あなたの能力に関係しています。
現在のあなたの能力こそが、あなたに与えられた役割であるのです。
もちろん、あなたが成長し、能力を向上させることによって、役割の形も変化します。
あなたが成長することによって、更なる役割が与えられるのです。
あなたが更なる役割を得るということは、更なる満足を得るということです。
更なる役割によって、あなたはより豊かに存在することができるのです。
役割を果たすことがなければ、残念ながら豊かに存在することはできません。
”働かざる者、食うべからず”
ということなのです。
この世界には因果の仕組みが存在し、それに逆らうことのできる者はいません。
働きという原因が無ければ、食うという結果も無いのです。
役割を果たすという原因が、豊かに存在するという結果を導きます。
それ以外には、豊かに存在することはできません。
例えば、自分を偽り、嫌なことを続けているのであれば、心からの満足を得ることはできません。
自分の役割を放棄するということは、自らの幸福を放棄することに等しいということなのです。
あなたは、自らに与えられた役割に沿う生き方をしなければなりません。
能力に沿う生き方を目指すのです。
人生には、無理をする必要などありません。
強欲に生きれば、自分を偽り、無理を重ねる生き方をすることになるでしょう。
現在の能力に沿い、能力の範囲において最善を尽くせば良いのです。
能力の範囲外のことをする必要などありません。
それは、自分を偽る行為であるからです。
あなたには、能力以上の役割は求められていません。
能力以上には成果を上げることができないからです。
それは、新たな問題を引き起こすだけなのです。
あなたの役割は、全体への貢献なのです。
全体に対して問題を引き起こすことが目的ではないのです。
強欲は、人に能力以上の働きを求めます。
しかしながら、求めている以上の成果を導くことはありません。
溺れている人を助けるためには、人の何倍も泳ぐ能力が必要です。
自分自身が満足に泳ぐこともできず、人の何倍も泳ぐことができないのであれば、溺れている人を助けることなど不可能なのです。
泳げない人が溺れている人を助けようという愚行は、強欲以外の何物でもなく、問題を大きくするだけなのです。
人の何倍も泳ぐことができないのであれば、溺れている人を助けようとして泳いではならないのです。
他人を助けるためには、先ずは自分自身がしっかりとしていなければならないのです。
意欲ばかりが多く、自らに与えられた役割を蔑(ないがし)ろにしている者が多いのです。
人生はあなたに特別なことを求めてはいません。
自分の能力の範囲内での働きを求めているだけなのです。
あなたは、自らの能力の範囲内で生きましょう。
できないことは、今はしなくても良いのです。
あなたが成長し、できるようになってから行いましょう。
不安や焦りを手放し、現状において確実にできることだけを行うように努めるのです。

2016年9月1日木曜日

個人革命

すべての存在は変化を求められています。
あなたは、変化を受け入れなければなりません。
あなたは、変化し続けなければならないのです。
変化を否定することはできません。
自らの意思によって選ぼうが、選ぶまいが、あなたは変化に導かれます。
自分の意思によって変化することで、あなたはある程度の方向性を定めることが許されます。
しかしながら、自分の意思によって変化することを否定するのであれば、方向性を定めることは許されません。
川の流れを利用して泳ぐか?無抵抗に流されるか?このどちらかを選ぶ必要があるのです。
あなたはすでに流れの中にあります。
それを脱することはできません。
生きるということは、流されるということだからです。
あなたは流れの中に変化を導く必要があるのです。
多くの人は流れに対して、無抵抗に流されていきます。
それは、流れの中で得るものが少ないということを意味します。
流される人にとって、人生はすぐに過ぎ去ります。
流れを突っ切れば、すぐに終わるのです。
流れを利用して泳ぐことは、得るものを増やします。
流れに逆らうことによって、時間と経験を得ることができるのです。
変化を受け入れる者の時間と経験は、それを否定する者の時間と経験を凌駕(りょうが)します。
ただ、流される者には、景色を楽しむ余裕も、考える時間も無いのです。
あなたは人生に何を得るのでしょうか?
流されるままでは、何も得るものが無いのです。
多くの人は流れに導かれるままに人生を過ごします。
”当たり前”のこと、古い習慣に流されていくのです。
あなたは流れに抵抗しているでしょうか?
考えることが抵抗となります。
当然のように目の前に導かれる”当たり前”を、あなたは深く考えたことがあるでしょうか?
古くからの習慣であり、皆がやっていること、という何の根拠もない理由によって、流されてはいませんか?
皆が協力することは大切なことです。
しかしながら、成長することの方が大切です。
変化を否定するということは、成長を否定することに等しいのです。
皆が協力することと、成長することは必ずしも等しくはありません。
時には、成長するために反発する必要もあるのです。
あなたは目的を見失ってはなりません。
戯(たわむ)れるために存在しているのではありません。
群れをなすことが目的ではないのです。
あなたは変化を受け入れなければなりません。
あなたは変化しなければならないのです。
個人の変化が求められています。
一人一人が変化する以外に方法はないのです。
あなたは個人的な革命を図りましょう。
自分の中で変えることができる”小さなこと”を変えるのです。
どのようなことでも構いません。
小さな変化によって、やがては全体が大きく変化することになるからです。
小さな変化を実現することができない者には、大きな変化を実現することができません。
小さくも抵抗することができない者が、どうして大きく抵抗することができるのでしょうか?
あなたは何も得ずに歳を取り、何も得ずに死を迎えるのですか?
抵抗しなければ流されるだけです。
人生は瞬(またた)く間に過ぎ去ってしまうでしょう。
年老いてから悔いても遅いのです。
その時には、肉体も精神もあなたの思い通りには働きません。
そのため、決断は早い方が良いのです。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、流れに抵抗しましょう。
変化するのです。
人生の道筋を変えましょう。
あなたは死体ではないのです。