あなたは、貢献しなければなりません。
	あなたは、貢献することが求められているのです。
	貢献とは、役に立つことです。
	とても簡単なことです。
	相手が喜べば良いのです。
	相手を喜ばすことは簡単なことなのです。
	あなたはそれをしなければなりません。
	ただし、相手に糠喜(ぬかよろこ)びをさせてはなりません。
	糠喜びとは、偽りの喜びです。
	それは、一時の喜びを与える表面的なものなのです。
	一時の喜びは喜びではありません。
	それは偽りであるのです。
	本質的な喜びというのは、いつまでも喜んでいる状態を得られるものです。
	後に喜んでいられるものが喜びなのです。
	後に苦しむものを与えてはならないのです。
	貢献するというのは、後に喜んでいられるものを与えるということなのです。
	多くの人は糠喜びを取引しています。
	多くの人は一時の喜びを貪っているに過ぎないのです。
	それは後に苦しみとなります。
	あなたの抱えている喜びは、後にも喜びであるでしょうか?
	後に喜びとして存在することがないのであれば、それは糠喜びに過ぎないのです。
	相手のためを思うのであれば、相手が後に喜んでいることを想像する必要があります。
	例えば、嘘を吐いてその場を凌(しの)ぐことによって相手を喜ばしたとします。
	後にその嘘が暴かれた時には、相手は二重の苦しみを受けることになるのです。
	それは、真実を知らなかったことと、あなたに嘘を吐かれたことです。
	その場を繕(つくろ)ったとしても、それが喜びであり続けることはありません。
	それでは、相手に貢献することにはならないのです。
	相手が求めることをやれば良いということではありません。
	相手の最善を与えるということなのです。
	しかしながら、相手に対する最善を知ることは難しいでしょう。
	そのため、あなたは自分が求めることをすれば良いのです。
	あなたが自分の求めに応じて行っていることが重要です。
	それを求める人にとって、それが最善であるということを理解することができるからです。
	相手が求めるのであれば、それは相手にとっての最善なのです。
	相手が求めたものをあなたが準備するのではないのです。
	このことを理解しなければなりません。
	多くの人は相手の求めに応じることが最善であると思い込んでいます。
	相手が求めるのだから、それを与えれば良いと考えているのです。
	相手が求めているものを与えるのであれば、一時の喜びと、一時の報酬を受けることができます。
	しかしながら、後にそれは苦しみと変わります。
	相手の求めに応じることには、大きなリスクがあるということを覚えておかなければなりません。
	多くの人は相手の顔色を伺(うかが)って行動します。
	しかしながら、それが相手に対する侮辱(ぶじょく)になるということを理解している人は少ないのです。
	言われた通りに動くだけであれば、それ(自分)以上の価値を生み出すことはできません。
	相手があなたに言付けを守るように求めるのであれば、その人は自分のレベルを超えることができないのです。
	他人を使って自分の仕事をしているに過ぎないからです。
	自分の仕事を他人に手伝わせた分、徳を失うことになります。
	相手の求めに応じるだけでは、相手に対する貢献にはならないのです。
	多くの人は相手の本当に求めているものを知りません。
	糠喜びに浸っていてはならないのです。
	親は子どもの将来を見据えて与えます。
	しかしながら、子どもはそのことを理解しません。
	現状を喜びたいのです。
	しかしながら、そのような方法は糠喜びに終わります。
	遊んだ(快楽に溺れた)分、後に苦しむからです。
	相手に貢献するということがどういうことなのか?を改めて考えましょう。
	相手の求めに応じてはなりません。
	あなたの求めに応じる人に施(ほどこ)せば良いのです。
	
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