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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年1月31日火曜日

熱り立つ人

あなたは、自分が未熟であることを知っているでしょうか?
多くの人は、自分が未熟であることを知りません。
多くの人が自分が正しいと思っているのです。
残念ながら、自分が正しいという状況など、人生には存在しないのです。
あなたの考えや選択が合理的な割合として相手や何かに勝っていたことはあったかも知れません。
しかしながら、その選択も決して正しいとは言えないのです。
なぜなら、あなたはいつか自分の未熟さに気が付くからです。
その時には有利な選択であったとしても、後には不利な選択となることもあります。
その時には自分が正しくても、後には相手が正しいということもあるのです。
あなたが正しい訳でも、相手が正しい訳でもありません。
どちらも正しく、どちらも間違っているのです。
すべての存在が未熟です。
未熟であるために変化を求められているのです。
すべての人は問題を抱えます。
どのような選択も、必ず問題に向かいます。
それは、その選択がどれだけ正しいと思えても、その中には必ず未熟さが含(ふく)まれているからです。
小さな未熟さも問題として提起されるのです。
白いシャツの小さな染(し)みが問題となるようにです。
あなたは、今のあなたの実力によって出来る限りの未熟さを取り除かなければならないのです。
あなたが未熟さを取り除くためには、成長する必要があります。
変わることがなければ、未熟さを取り除くことはできません。
成長することによって初めて、あなたは未熟さを取り除くことができるのです。
あなたが成長するためには、学ぶ必要があります。
学ぶということは、より良い方法を得るということなのです。
それは、”外”から受け入れなければなりません。
受け入れることがなければ、変わることはありません。
自分の中だけで循環しているのであれば、それ以上を実現することはできないのです。
外から取り入れることによって、それ以上を実現することができるでしょう。
あなたは受け入れなければなりません。
未熟なあなたが自己完結を行ったところで、成長することはできないのです。
多くの人は自分が正しいと思い込んでいます。
その結果、受け入れることができずに反発します。
多くの人は自分が正しいと思い込んでいるために、発情期の雄牛のように熱(いき)り立っているのです。
多くの人は強い欲求に支配されています。
理想の実現に対して荒ぶっているのです。
残念ながら、強過ぎる欲求には理想を実現する力はありません。
それは、強過ぎる欲求によって、それ以上を受け入れることができないからです。
発情期の雄牛を宥(なだ)めることができないように、強い欲求に熱り立っている人を宥めることはできません。
強い欲求によって、自分が正しいと思い込んでいる人には、外から何かを取り入れることはできないのです。
そのような人には、それ以上を受け入れる器がないのです。
何かを受け入れるためには、力が弱まらなければなりません。
力が有り余れば、成長に必要な材料も跳ね除けてしまうでしょう。
多くの人は強欲に熱り立っているのです。
理想を実現するために利己的な状態に陥っているのです。
しかしながら、自分ではそのようには認識してはいません。
それは、自分が正しいと思い込んでいるからです。
正しい自分が、利己的であるはずがないと思うのです。
正しい自分が、成長を否定しているとは思ってはいないのです。
あなたは力を緩めなければなりません。
力を抜いて丁度良いのです。
豊かな人生のためには気迫など必要ではありません。
謙虚(けんきょ)な姿勢を保たなければ、豊かさは得られないのです。
雄牛が常に発情していれば、豊かさを得られるでしょうか?
それは、常に争っているということなのです。
それは、常に雌牛を求めるということなのです。
利益を求めて争うことが、豊かさを導くと思いますか?
多くの人は理想を実現するために強欲を用いて争っています。
自分が正しいなどと思い込んではなりません。
力を抜きましょう。
そして、”外”から受け入れるのです。

2017年1月30日月曜日

人生の土台

人生には様々な価値の形が存在します。
人は、自らの学びに沿った価値を追い求めるのです。
あなたが求める価値は、その学びに由来します。
学びとは、経験しなければならない状況です。
それは、人生の目的に起源します。
人生には様々な目的が存在しますが、その最たる目的は成長です。
あなたは成長を実現しなければならないのです。
どのような事柄においても、成長することが求められているのです。
知識でも技術でも、何においても成長することが必要なのです。
成長するということは、変化を実現するということです。
あなたは、様々な状況を通じて、自らの心を経験するのです。
すべての経験は自らの心に通じているのです。
自らの心に関係しないものはありません。
それがどのような状況であれ、自らの心に関係しているのです。
それは、あなたが常に自らの心と向き合っているということを意味しているのです。
どのような状況も自らの心に通じています。
どのような相手も、自らの心を教えています。
どのような問題も、自らの心を改めるためなのです。
人生におけるすべての経験は、自らの心なのです。
あなたは経験を通じて自らの心を改善し、成長することが求められているのです。
人生において、心を美しく保つことよりも重要なことがあるでしょうか?
すべての経験は心に起源します。
美しい心が美しい人生を実現します。
醜(みにく)い心は、多くの問題を引き起こすのです。
苦悩とは、醜い心の所有物なのです。
美しい心が苦悩に捕らわれることはありません。
それは、美しい心が苦悩の原因を所有してはいないからです。
苦悩の原因となる歪みを所有していないために、美しい心であるのです。
美しい心は、歪みなく真っ直ぐに状況を捕らえます。
それは、状況の本質を見極める力を持つのです。
目の前の状況の意味を知るのであれば、苦悩に捕らわれることはないのです。
目の前の状況の本質を知らないがために、それを問題と理解し、苦悩という状態に仕立て上げているのです。
そのため、あなたの受け取る状況や、その総体である人生というものの形(質)は、あなたの心によって決められているのです。
心とは人生の土台です。
すべての人は心という土台の上に人生を築いているのです。
どのように立派な人生を築いたとしても、その運命(成り行き)は土台である心に任せられています。
堅固な人生を築いたと思う人がいたとしても、土台である心を無視する人が多いのです。
どのように立派な人生も、泥(どろ)の上に築くのであれば、傾いて倒れてしまうでしょう。
どのように立派な人生も、中州(なかす)に築くのであれば、洪水が襲って流されてしまうでしょう。
どのように立派な人生も、崖の上に築くのであれば、崖崩れによって埋もれてしまうでしょう。
人生は、心の上に築かれます。
多くの人は家の土台を慎重に選びますが、人生の土台を選ぶことには疎(おろそ)かです。
どのような家も、土台に従います。
どのような人生も、心に従うのです。
しかしながら、心の美しさに慎重な人は少ないのです。
多くの人が心を歪めることによって得られる価値に酔い痴れています。
そのようなものに価値が無いということを知らないのです。
純粋に求めない者は、毒を溜め込むことになるでしょう。
人生には様々な価値の形が存在します。
あなたは自らの求める価値の形に従えば良いでしょう。
どのような家を建てても構いません。
どのような家に住もうとも、あなたは豊かさを得ることができます。
しかしながら、その家が倒壊すれば、豊かさを得ることはできないのです。
どのような人生を築こうとも、それが問題にはなりません。
しかし、心を汚すのであれば、問題となるでしょう。
美しい心は豊かさを導き、醜い心は乏しさを導くということを覚えておきましょう。

2017年1月29日日曜日

依存の穴

すべての人は、自分の人生を生きています。
あなたは、あなたの人生を築かなければなりません。
あなたが他者の人生を生きることはできません。
それと同じように、他者があなたの人生を生きることもできないのです。
人は、自分の人生を生きなければならないのです。
他者の人生に介入しようとしても、その試みは失敗に終わります。
なぜなら、人には自分の人生の問題があり、他者の人生の問題に携わるほどには力が無いからです。
多くの人は他者を助けようと考えます。
他者を助けようと考えることは崇高(すうこう)です。
あなたが他者を助けようと考えているのであれば、その考えを大切にしなければなりません。
しかしながら、あなたが他者の人生に介入できることがあるとすれば、それはあなたが考えているよりも小さなことなのです。
あなたは、隣の家の敷地に入ることは許されても、敷居を跨(また)ぐことは許されません。
他者の人生に介入しようと試みても、近付くこと以外には何もできないのです。
隣家に侵入すれば、主人によって報復を受けることになるでしょう。
どのような理由を掲げても、あなたは他者の人生に介入することはできません。
あなたが他者の代わりに何かを成し遂げることはできません。
他者の代わりに問題を解決し、豊かさを導くことなどできないのです。
あなたには、他者の代わりは務まりません。
あなたには、あなた以外を務めることはできないのです。
そのため、あなたが他者を助けようと考えるのであれば、直接的な介入を避けなければなりません。
己(自我意識)を働かせて、差し出がましくでしゃばってはなりません。
あなたが他者を助けるのではないのです。
他者は、自分を自分で助けるのです。
あなたにできることは、その手助けだけなのです。
多くの人は、自分を”救世主”と誤解しています。
残念ながら、どのような人物にも他者を救う(助ける)力はありません。
どのような力を以てしても、他者の人生に介入し、その主導権を奪うことはできないのです。
あなたにできることは、他者に方法を伝えることだけです。
どう考えるかを伝えることだけなのです。
どうするかは、他者が自分で決めることです。
行為するもしないも、他者に任せれば良いのです。
人生は自分によって決断し、自分によって創造するものだからです。
他者の介入を受ける人生など存在しないのです。
あなたは他者から何かしらの影響を受けているかも知れませんが、他者があなたの人生を決定している訳ではありません。
他者からどのような影響を受けようとも、人生を決定しているのはあなた自身なのです。
自分以外が人生を創造してはいないのです。
しかしながら、多くの人は自分が人生を決定していることにすら気が付いていません。
そのため、他者に依存する心を強めます。
そして、幸福も問題も他者の責任とするのです。
幸福であるのは、誰かがいてくれるからだ。
問題があるのは、誰かがいるせいだ。
このように、幸も不幸も他者に依存するのです。
あなたの幸福は、本当に他者によるものなのでしょうか?
あなたの問題は、本当に他者によるものなのでしょうか?
考察しなければなりません。
その人がいてもいなくても、あなたは幸福を実現することができるはずです。
その人がいてもいなくても、あなたは問題を抱えていることでしょう。
他者があなたの人生に介入することは許されてはいないのです。
あなたがいてもいなくても、相手は幸福を実現することができるはずです。
あなたがいてもいなくても、相手は問題を抱えていることでしょう。
あなたが他者の人生に介入することは許されてはいないのです。
自分と他者の人生を混同してはなりません。
あなたが許されるのは、どう考えるかを伝えてもらうことだけです。
あなたが他者から新たな方法を得たのであれば、それを試しましょう。
自力でしか、人生を変えることはできないのです。
互いに許されていることは、考え方の交換だけです。
それ以上を求めてはなりません。
目測を誤り、依存の穴に落ち込んではなりません。

2017年1月28日土曜日

知恵の布

すべての人は、豊かな人生を求めています。
どのような人物であれ、豊かな人生を欲してるのです。
豊かさは人それぞれに違う形をしていますが、それぞれの豊かさの形を求めているのです。
あなたにも、豊かさの形があり、それを求めてるはずです。
人生に豊かさを求めない者はいないのです。
例えば、自らの力で命を絶つことを願う者にとって、その行為は豊かさなのです。
豊かさには様々な形があるのです。
そして、様々な形があって良いのです。
すべての人が、自らの求める豊かさの形を追求すれば良いのです。
誰もあなたの豊かさを否定することはできません。
誰もあなたの豊かさを破壊することはできないのです。
あなたは自らの求める豊かさを実現すれば良いのです。
しかしながら、人生の豊かさが勝手に実現することはありません。
もしも、人生の豊かさが勝手に実現するのであれば、誰も苦しんではいないのです。
すべての人が苦しみを受けます。
それは、人生の豊かさが実現してはいないからなのです。
人生が乏しさを実現しているために苦しんでいるのです。
人生が豊かさを実現しているのであれば、喜んでいるはずなのです。
あなたは人生に喜んでいるでしょうか?
多くの人が苦しんでいることでしょう。
それは、豊かさの実現に対して力不足であるからです。
力が足りないために、乏しさが実現しています。
では、どうすれば豊かさを実現することができるのでしょうか?
それは、知恵を得ることです。
豊かさを実現するために必要な力とは、知恵のことなのです。
知恵によって、人生は豊かさを得ます。
しかし、知恵の不足は人生に乏しさを実現します。
あなたが人生を豊かなものにしたいと願うのであれば、知恵を得なければならないのです。
知恵とは、知識と経験によって紡(つむ)ぎ出される力のことです。
それは、綾織(あやお)りの布のようなものです。
知識は緯糸(よこいと)であり、経験は経糸(たていと)です。
知識と経験を織り込むことによって、知恵という布が生み出されるのです。
知恵の布によって、あなたは人生に存在するすべての問題を解決することができるのです。
その布が広く、厚い程に、人生は豊かなものとなるでしょう。
多くの人は、知恵を用いずに問題を解決しようと試みます。
知恵を用いずに解決する問題は存在しません。
元来、問題とは知恵の不足によって導かれる状況を示すのです。
知恵の不足によって導かれている状況を、知恵が不足している状態で解決することなどできないのです。
そのため、問題を解決するには知恵が必要不可欠な要素なのです。
先述したように、知恵とは知識と経験の総合力です。
知識だけを蓄えるのであれば、緯糸だけを蓄えることになります。
それは、大量の糸を集めるに過ぎません。
多くの人は知識によって問題を解決しようと試みますが、糸を何本用意しようとも問題を解決することはできないのです。
弱い糸であっても、それを交互に織り込むことによって、強い布が生み出されるのです。
掌(てのひら)では運ぶことができない荷物も、知恵の布に包めば簡単に多くを運ぶことができます。
知恵の布がなければ、小さな荷物を少しずつ何度も運ばなければなりません。
掌に収まらない大きな荷物を運ぶことはできないのです。
知恵が不足するということが、乏しさを導くという意味を理解することができたでしょうか?
広い知識と深い経験によって、知恵は益々広大となるでしょう。
あなたの求めている豊かさを運ぶためには、それに相応しい知恵が必要なのです。
知恵が不足すれば運べません。
知識と経験を求めない者は、豊かさを諦めましょう。
何もしない者には豊かな人生の実現は不可能です。
淡い期待も抱いてはなりません。
理想論は必要ないのです。
待っていれば、豊かさが実現するということは有り得ません。
どうして、時間が豊かさを運んでくるのでしょうか?
あなたは既に時間を所有しているのです。
時間と豊かさには直接的な因果関係はないのです。
知恵と豊かさにのみ、因果関係が存在することを理解する必要があるのです。
知識と経験によって知恵を得ましょう。

2017年1月27日金曜日

踏んだことのない地

あなたは、変化と共に生きなければなりません。
変化こそが、あなたの可能性であるということを理解しなければなりません。
変化を否定する者には、可能性は導かれません。
あなたが可能性を求めているのであれば、変化を求めなければなりません。
変化を求めない者、変化を受け入れることができない者には、可能性が導かれることはありません。
それは、豊かさへの可能性なのです。
可能性を手にする者は、同時に豊かさを手にするでしょう。
可能性を失う者は、同時に乏しさを手にするのです。
変化を求めなければなりません。
停滞に落ち着いていてはならないのです。
あなたは常に変化と共にありましょう。
あなたは価値観によって人生を築きます。
あなたの価値観は、常に変化を必要としています。
それは、大地を踏み締める足取りのようなものです。
現在の価値観とは、地を踏み締める足です。
それは、大地を捕らえます。
大地を捕らえることによって、あなたはその場にとどまることができるのです。
しかしながら、あなたは次の一歩を踏み出すことを求められます。
次の一歩を踏み出すことによって、道を進むことができるからです。
次の一歩を踏み出し、道を進むためには、それまでに大地を捕らえていた足を離さなければなりません。
そうして、軸足(じくあし)となる価値観を変化させるのです。
新しい価値観とは、人生における新たな一歩です。
一歩一歩の変化によって、人生は豊かさを導きます。
そして、変化と豊かさによって、人生の目的は達成されるのです。
多くの人は、自分を大切にします。
もちろん、あなたは自分を大切にしなければなりません。
現在の価値観を蔑(ないがし)ろにするのであれば、大地を踏み締める軸足を蔑ろにするのに等しいのです。
それは、足を挫(くじ)く結果を導くのです。
堅固に大地を捕らえなければ、倒れてしまうのです。
軸足を挫いてしまえば、その場に倒れ込んでしまうのです。
停滞は苦悩を導きますが、その場に倒れ込むことは絶望を導きます。
次の一歩を出すことが叶わない状況というものには、可能性は絶望的に映るのです。
捻挫(ねんざ)した足で歩むのは困難です。
そのため、あなたは自分を大切にしなければなりません。
自らの抱える価値観を否定することなく、嫌うことなく、大切に扱わなければなりません。
しかし、大切にし過ぎれば、次の一歩を踏み出すことは叶いません。
そのため、あなたは自分を手放さなければならないのです。
自分を大切にしなければなりませんが、自分に執着してはなりません。
いつでも、それを手放せるようにしておくのです。
そうでなければ、あなたが前進することはできないからです。
価値観を得ては手放すのです。
あなたは一つの価値観に執着してはなりません。
価値観の変化を受け入れられない者はゆっくりと歩むでしょう。
価値観の変化を受け入れる者は素早く走るのです。
自分というものは大切ですが、大切ではありません。
あなたは、どのような自分にも長居してはなりません。
同じことをただ続けてはなりません。
歩みは繰り返しの作業ですが、新しい地を踏み締めます。
それは、繰り返しの作業ですが、変化を実現しているのです。
自分を手放すことにためらう者は、その場で足踏みをしている者のようです。
そのような者は、変化を得ようと試みますが、再び同じ状況を得るでしょう。
手放そうとしても、やはりそれに戻るでしょう。
ためらってはなりません。
古い価値観は必要ないのです。
それは、足跡として過ぎ去ったものなのです。
足跡を辿(たど)る必要はありません。
その場を踏み固める必要もありません。
あなたは新しいことに挑戦しなければなりません。
踏んだことのない地を踏むのです。
あなたは自分を大切に扱い、しかし、それを簡単に手放しましょう。

2017年1月26日木曜日

人生の断片

人生は成長という目的のために存在しています。
あなたがどのような道を生きようとも、その目的は成長にあるのです。
それは、心の成長です。
すべては、あなたの成長のために行われる経験なのです。
すべてがあなたの成長に繋がっています。
何一つとして、成長に関係しない経験はありません。
それがどのような経験であれ、あなたの成長の礎(いしずえ)となるということを知らなければなりません。
多くの人は、人生の目的を見失います。
目の前の経験が何のために存在しているのかを見失うのです。
あなたは、その経験が何のために存在しているかを自覚していますか?
思い通りにいかない経験を受け取る時、あなたは心を乱すでしょう。
それは、その経験が何のために存在してるかを見失っているためです。
見失った目的は、再び見出さなければなりません。
人生は、あなたが目的を思い出すまで、それに関わる経験を導くでしょう。
すべてはあなたの成長のために行われます。
あなたが聞く耳を持たなければ、人生はあなたに躓(つまず)きを与えるでしょう。
それは、あなたが聞くようになるためであり、聞けるようになるためです。
あなたが見る目を養わなければ、人生はあなたを立ち止まらせるでしょう。
それは、あなたが見るようになるためであり、見えるようになるためです。
あなたが理解することがなければ、人生はあなたの計画の腰を折るでしょう。
それは、あなたが受け入れるようになるためです。
愚かな者は、人生の行為の本質に気が付きません。
人生があなたを見限ることはありません。
どこまでも、あなたに尽くすのです。
そのため、あなたが気が付くまで経験は続きます。
聞く耳を持たなければ、聞くようになるまで、聞けるようになるまで躓かせます。
見る目を養わなければ、見るようになるまで、見えるようになるまで立ち止まらせます。
そして、理解することがなければ、受け入れるようになるまで腰を折り続けるのです。
多くの人はその本意を理解しないために、そこに苦悩を導くのです。
人生に対して苦悩を以て反応しているのです。
残念ながら、あなたの常識は通用しません。
あなたの価値観が正しい訳ではないのです。
例えば、他人を以て、あなたの常識を否定し、あなたの価値観の歪みを指摘します。
あなたは他人によって苦悩するでしょう。
それは、他人があなたに行為しているのではありません。
他人を通じて人生が行為しているのです。
人生は、あなたの反応を引き出すことに専念します。
あなたが恐れているものを利用するのです。
あなたが最も心に掛け、最も嫌うものを使って揺さぶります。
そのため、あなたは苦悩から逃れることはできません。
多くの人は苦悩から逃れることが幸福だと思い込んでいますが、苦悩の原因は心にあるために、それから逃れることは不可能なのです。
人生の目的を考えなければなりません。
人生の目的を見失ってはならないのです。
人生を考える時、あなたは全体を観るでしょう。
人生を見失っている時、あなたは個体を見ているのです。
個体を以て理解を得ることはできません。
全体を観ていないために、聞く耳を持てないのです。
全体を観ていないために、見る目が養われないのです。
全体を観ていないために、理解することができないのです。
目の前の経験は”小さなこと”です。
それは、細分化された人生の断片に過ぎません。
多くの人は断片を見て、それを人生だと思い込むのです。
別々に置かれた車の部品を指して、それを車だと言えるでしょうか?
それは、ハンドルやタイヤであり、車ではないのです。
人生の断片を切り取って、それを人生だと思い込んではなりません。
人生とは、全体なのです。
死を迎えてもいないのに、どうして人生を評価することができるのでしょうか?
あなたは全体を観てはいないのです。
もしも、人生を評価したいのであれば、死後にそれをすれば良いでしょう。

2017年1月25日水曜日

盗人と友人

あなたは、自尊心を大切にしなければなりません。
あなたは、自らの品位を軽んじてはならないのです。
人は気高く生きるべきなのです。
それは、周囲を気にして生きることや、自己顕示欲に執着して生きるということではありません。
誰かに気に入られるためでも、誰かに良い顔を見せるためでもありません。
あなたは自分のために崇高な生き方を選ばなければならないのです。
あなたは自分でどう有るのかを決めることができます。
人生には選択が許されているのです。
あなたは気高く生きることを選ぶこともできますし、下劣に生きることを選ぶこともできるのです。
どうするかは自分次第です。
誰かや何かに決められるものではありません。
例えば、あなたの親兄弟は、あなたの品性には関係ありません。
例えば、あなたの属する環境や状況も、あなたの品性には関係ないのです。
どのような生まれであり、どのような暮らしを得ようとも、気高く生きることはできるのです。
どのような生まれを得て、どのように暮らしても、下劣に生きることもできるのです。
他人や何かを言い訳にしてはならないのです。
あなたが高貴であろうと、下劣であろうとも、それはあなたの責任なのです。
人は選択によってどう有るかを決めることができるのです。
気高く生きる者には分別があるでしょう。
下劣に生きる者には分別がありません。
気高く生きる者は思慮深(しりょぶか)く、恥を知るのです。
下劣に生きる者は思慮に乏しく、厚かましく生きるでしょう。
気高く生きる者には賞賛(しょうさん)が与えられ、友人として歓迎(かんげい)されるでしょう。
下劣に生きる者には批判が与えられ、盗人として追い返されるのです。
言っておきますが、豊かさを得るのは気高く生きる者だけです。
下劣を選ぶ者には乏しさが導かれるでしょう。
それは、盗人の乾きが潤うことはないからです。
盗人は満ち足りることを知りません。
欲望に底がないために、その者は盗人となるのです。
欲し続けることによって、乾きが潤うことはないのです。
欲望を愛する者は、欲望に満たされることはありません。
気高く生きるということは、欲望を愛さないということなのです。
高貴な人は克己(こっき)を愛しているのです。
気高く生きる者の克己(心)が満たされることはありません。
それは、更に磨かれた自分を導くのです。
盗人は不義を働いても自覚がありません。
自らの盗みが不義であるということを知らないのです。
盗人はその不義によって盗んだものよりも多くを奪われますが、盗んだものが多過ぎて、何を奪われたのかさえ知ることはできません。
盗人は、自分が何をしているのかを知りません。
自分が何を得て、何を失ったのかも知らないのです。
この世界には因果の仕組みが働いています。
この理(ことわり)から逃れられる者はいません。
すべての原因が結果に結び付くのです。
その原因を生み出すのはあなたです。
あなたの選択が結果を導くのです。
気高く生きる者は豊かさを避けることはできません。
気高く生きるという選択は、人生の豊かさとして導かれるからです。
下劣に生きる者は乏しさを避けることはできません。
下劣に生きるという選択は、人生の乏しさとして導かれるのです。
どのような者も、自らの因果を離れることはできません。
高貴な人は必ず豊かになり、必ず幸福を受けます。
盗人は必ず乏しくなり、必ず苦悩を受けるのです。
高貴な人は可能性を手にし、盗人は可能性を失うでしょう。
どのように生きるのも、あなたの自由です。
人生はどのような経験も許されます。
どちらが正しいということではありません。
ただ、覚悟を以て責任と向き合わなければならないのです。
人生はあなたの選択に従って展開しているだけであるのに、それに文句を吐く者が多いのです。
どのような状況を得ようとも、それに悔やんではなりません。
すべては、あなたの選択が導く学びの成果なのです。
あなたはそれを大切にしましょう。

2017年1月24日火曜日

利他と利己の割合

人は、独りで生きるものではありません。
人は、独りで学ぶものではありません。
人は、独りで死ぬものではないのです。
しかし、人は独りで生きなければなりません。
人は独りで学ばなければなりません。
そして、独りで死ななければならないのです。
人は独りではなく、独りなのです。
あなたの人生は、他者のために存在していますが、それは自分のために存在しています。
あなたは他者のために行為しますが、それは自分のための行為なのです。
人生には、利他と利己が存在しているのです。
それは、陰陽のように避けることのできない理(ことわり)なのです。
人は利他と利己を抱えているのです。
人にとっては、どちらも大切なものです。
どちらかを重視し、どちらかを軽視して良いというものではありません。
あなたは、利他と利己のどちらも大切にしなければならないのです。
この世界においては、あなたは利己の割合を多くしなければなりません。
それは、この人生があなたの学びだからです。
あなたが他者を助けるためには、成長しなければなりません。
力のある者でなければ、他者を助けることはできないのです。
しかしながら、利己の割合を多くした者は、功(いさお)を自分のものにしたいと考えます。
利己の強化によって、功を手にすることを当然の権利だと考えるのです。
人は弱さを抱えています。
それは、恐怖を教えます。
多くの人は恐怖に従うことによって、功を独占(どくせん)しようと試みます。
しかしながら、その企みはあなたに乏しさを導くでしょう。
どのような功も、あなた独りで成し遂げたものではありません。
しかしながら、あなたが独りで成し遂げたという側面もあるために、誤解するのです。
例え、1から10までを独りで成し遂げたと(思い込んでいると)しても、あなたは独りではそれを成し遂げていないのです。
10を取れば、あなたの手元には8しか残りません。
それは、理によって2を与えなければならないからです。
しかし、7を取れば、2を与えられます。
そうすれば、あなたの手元には9が残ることになるのです。
強欲に従って多くを取れば、少なく蓄えることになるでしょう。
謙虚に従って少なく取れば、多くを蓄えることができるのです。
人生において学ぶべきは、謙虚であることです。
あなたの強欲が、あなたを苦しめているのです。
傲慢(ごうまん)も怠惰(たいだ)も、強欲の現れです。
利己に傾く者はそのように振る舞うでしょう。
勤勉や勤労は、謙虚の現れです。
利他に傾く者はそのように振る舞うのです。
強欲な者は自分の立場を理解しません。
それが、傲慢や怠惰という愚行を導くのです。
謙虚な者は自分の立場にある程度の理解を示すでしょう。
それが勤勉や勤労という知恵を導くのです。
自分を知る者は、自分の行為を知るでしょう。
しかし、自分を知らない者は自分の行為を知ることもないのです。
多くを取る者は少なく受け、少なく取る者は多く受けるでしょう。
恐怖に急(せ)き立てられて、多くを取ってはなりません。
あなたは少なく集めるのです。
知恵は、あなたに少なく集めることを教えるでしょう。
強欲は、あなたに多く集めることを教えます。
その行為がどちらの教えによって導かれたのかを考えましょう。
そして、それを人生のバランスを取るために利用しましょう。
多く集めることも、少なく集めることも大切です。
しかし、時を見誤ってはなりません。
すべてには時があるのです。
あなたは自分の時を見極め、利他と利己の割合を決めましょう。

2017年1月23日月曜日

欠陥品

あなたは、理想になど価値が無いことを知る必要があります。
多くの人は理想に価値を見出します。
理想が実現することが最善だと考えているのです。
理想が実現することによってのみ幸福が得られ、それを豊かさだと思い込んでいます。
しかしながら、あなたの掲げる理想とは、現状のあなたの価値観によって導かれる理想なのです。
現状のあなたは未熟です。
未熟な価値観の見せる理想とは、欠陥(けっかん)を抱えた状況に過ぎないのです。
あなたの理想は、あなたに幸福を導くでしょうか?
あなたの理想は、あなたを豊かにするでしょうか?
残念ながら、欠陥を抱えた理想によっては、あなたが幸福を得ることはありません。
もちろん、あなたが豊かさを得ることもできないのです。
理想はあなたを裏切ります。
理想は、あなたの考えるような現実ではないのです。
あなたは、自分を知りません。
あなたが知っているのは、正当化され美化された自分であるのです。
あなたは主観でものを見ています。
客観は欠けているのです。
それが正しい姿でないことを知る必要があるのです。
理想とは、主観によって導き出される幻想です。
それは悪夢となって襲うでしょう。
理想の実現とは、悪夢の実現であると心得なければなりません。
あなたの願い求める理想は、本当に実現しても良いのでしょうか?
それは、多くの汚れや歪み、利己や欲望に塗(まみ)れた願いなのです。
そのようなものが実現してしまえば、あなたは簡単に苦悩に引き込まれてしまうのです。
あなたにとって、本当に必要なのは理想ではありません。
理想が実現しないことが必要なのです。
人生は、あなたにとっての必要を知っています。
そのため、人生においては、あなたの理想は実現しません。
あなたは、ことごとく理想を砕かれるでしょう。
あなたの理想が実現することはありません。
実現する状況は、本来のあなたの理想(画策)とは異なっているはずです。
あなたの理想が実現することは好ましくないのです。
あなたは、理想が実現しない人生に感謝しましょう。
多くの人はいつまでも理想に執着します。
あなたの掲げるどのような理想も、それは必ず未熟な願望なのです。
理想を追い求めてはなりません。
理想など実現しなくても良いのです。
目の前に導かれる現実を大切にしなければなりません。
目の前の現実から逃れるのであれば、あなたは自分を理解することができないでしょう。
いつまでも理想に逃げ込んではなりません。
あなたは、自分の立場を弁(わきま)える必要があるのです。
あなたが問題を抱えて苦しんでいるのは、知識が不足しているからです。
無知であり、未熟であるために苦しんでいるのです。
その現実から逃れる手段が理想なのです。
そのため、多くの人は理想を追い求めるのです。
理想を追い求めている間は、苦しい現実に向き合わずに済むからです。
理想を追い求めることには価値がないのです。
それは、理想には価値がないからです。
あなたは学ばなければならないのです。
自分が未熟であり、掲げる理想は欠陥品であるということを知るのです。
知ることによって、あなたは見えるようになるでしょう。
知ることがなければ、見えることもありません。
学ぶのです。
理想に逃避してはなりません。
現実を受け入れることが、学ぶことなのです。

2017年1月22日日曜日

新しい枝に花は咲く

人は、価値観の停滞に陥(おちい)ります。
それは、人生の停滞を意味しています。
人生は、あなたの価値観に従って展開するものなのです。
あなたの価値観が変わることがなければ、人生が展開することはありません。
多くの人は、人生が勝手に展開するものだと思い込んでいます。
例えば、時間の経過が人生を展開させると思い込んでいるのです。
残念ながら、時間が人生を展開させることはありません。
どうして時間が、あなたの人生を決めるのでしょうか?
あなたの人生は、あなたが決めるのです。
あなたの価値観によって導かれる選択が行動を導き、行動によって展開していくものなのです。
人生が誰かや何かによって勝手に決められるということはないのです。
時間の経過によって見た目には多くのものが変わったように映るかも知れません。
しかしながら、本質は何も変わってはいないのです。
年齢を重ねても、幼稚な者は多いのです。
幼稚な者が得る人生は、苦悩に満ちたものであるでしょう。
それは、幼稚とは無知に他ならないからです。
無知が導くのは問題なのです。
あなたが問題に苦しんでいるのであれば、それは無知を抱えているということになるのです。
無知とは、価値観の停滞です。
価値観の変化こそが、あなたを無知から救うでしょう。
価値観の停滞に注意しなければなりません。
あなたは常に新しい知識を得なければなりません。
あなたは毎日、新しい価値観を築かなければならないのです。
あなたはいつも、変化の中に存在していましょう。
価値観を停滞させてはなりません。
どのような価値観であろうとも、それは未熟なものなのです。
執着する価値はありません。
新しい価値観は、あなたにとっての価値となるのです。
あなたは、花が新しい枝に咲くということを知らなければなりません。
古い枝には花は咲かないのです。
花芽は新しい枝に付きます。
古い価値観に執着しているような者には豊かさは導かれないのです。
樹木が果実を実らせるためには、花を咲かすことのできる新しい枝が必要なのです。
あなたが人生に豊かさを求めるのであれば、喜びを導く新しい価値観が必要なのです。
古い価値観では喜びを得ることはできません。
古い価値観は通用しなくなるからです。
古い価値観によって豊かさを得ることのできる人はいないのです。
停滞によって幸福を得る人はいません。
多くの人はそのことを知らないでいるのです。
そのため、古い価値観に執着します。
古い枝を大切に扱っても、そこに花が咲くことはありません。
古い枝には果実は実らないのです。
あなたが人生の豊かさを求めているのであれば、古い価値観を手放さなければなりません。
短くても、新しい枝を伸ばすのです。
そうすれば、一つでも花が咲きます。
そうすれば、一つでも果実が実るのです。
あなたは古い価値観を気に入り、それに執着するでしょう。
しかしながら、それを続けているのであれば、人生は活力を失うのです。
古い枝を落とせば、そこからは多くの新しい枝が伸びます。
それは、樹木を若返らせるのです。
古い価値観を手放し、新しい知識を受け入れるのです。
そうすれば、新しい価値観を形成することができます。
新しい価値観によって、人生は活力を得るでしょう。
価値観の停滞に陥ってはなりません。
あなたの大切にしている価値観になど価値はないのです。
手放しましょう。

2017年1月21日土曜日

嫌な雨

人生が、あなたの思い通りに展開することはありません。
人生は、あなたの深部に存在する本意に従って展開しているからです。
あなたの理想は、あなたの本意ではありません。
多くの人が理想と本意を混同しています。
理想とは、表層の意識である己(自我)によって導かれる幻想です。
それは、あなたに幸福を導くでしょう。
しかしながら、その本質は苦悩です。
そのため、理想は次第に”化けの皮”が剥がれていきます。
幸福だった理想は、いつの間にか苦悩へと豹変(ひょうへん)しているのです。
人は、理想によって苦しむのです。
それは、理想が幻想であり、その幻想は”悪夢”であるからです。
多くの人が理想を夢見ています。
しかしながら、理想の原因は己です。
それは、歪んだ心であるのです。
歪んだ感情の集積が己であり、そこから導き出される理想は悪い夢なのです。
多くの人は、理想が実現することを最良と考えています。
しかしながら、理想が実現するということは、苦悩が始まるということなのです。
あなたは自らが未熟であるということを知っているでしょうか?
あなたは、自らの思考や価値観が歪んでいるということに気が付いていますか?
あなたの理想はそこから生じているのです。
未熟な者の理想は、それに相応しく歪んでいるのです。
多くの人が自分が未熟であることを知りません。
そのため、軽々しく理想の実現を待望しているのです。
残念ながら、理想の実現は褒(ほ)められたものではありません。
それは、目的を達するための段階が一つ増えるからです。
理想が実現し、苦悩を受けることも必要ではありますが、あなたに与えられた時間は限られているのです。
限られた時間の中で、あなたは目的を達する必要があります。
そのためには、理想が実現することに執着するのを手放す必要があるのです。
理想が実現することが幸福だとする価値観を手放すのです。
残念ながら、理想が簡単に実現することはありません。
殆(ほとん)どは、理想とは懸け離れた状況が導かれるのです。
多くの人はそれに絶望しますが、それで良いのです。
人生において大切なのは、本意が実現されることだからです。
本意とは、深層の意識である真(真我)によって導かれる現実です。
それはあなたに苦悩を導くでしょう。
しかしながら、その本質は幸福です。
そのため、現実は次第に磨かれ、錆(さび)を落とされていきます。
苦悩だった現実はいつの間にか、幸福へと変貌(へんぼう)を遂げているのです。
人は、現実によって喜ぶのです。
それは、現実は実体であり、その実体は瑞夢(ずいむ)であるからです。
多くの人が現実を否定します。
しかしながら、現実の原因は真です。
それは、純粋な心であるのです。
純粋な心である真は、あなたの成長にとっての最良を知っています。
真に従えば、あなたは成長することができるのです。
成長とは人生の目的であり、それは幸福なのです。
嫌な雨も、あなたのために降っているということを理解しましょう。
雨が嫌いな者は、雨天を疎(うと)ましく思います。
雨はすべての命を潤すために降ります。
それは、雨を嫌っている者の命をも潤すのです。
人生には気に食わない現実が存在します。
しかしながら、それを導いているのは真であり、あなたの本意なのです。
嫌な雨があなたのために降っているように、気に入らない現実はあなたのために導かれているのです。
理解することは容易ではありません。
受け入れることは難しいでしょう。
しかし、あなたはこのことを覚えておかなければならないのです。
理想を追い求めることをやめましょう。
幻想を追い求めたとしても、行き着くのは悪夢なのです。
現実と向き合いましょう。
目の前の状況や問題と向き合うのです。
現実を追い求めれば、瑞夢に行き着くでしょう。
人生の目的を果たすためには、本意に従わなければなりません。
嫌な雨は命です。
気に入らない現実は、あなたの命なのです。

2017年1月20日金曜日

苦悩と苦労

人生は、自らの選択によってどのようにも姿を変えます。
人生は、自らの選択の結果に過ぎません。
どのような状況を受け取ることになったとしても、それは自らの選択の結果に過ぎないのです。
多くの人が、目の前の状況と自らの選択の因果を知りません。
目の前の状況が受け入れ難い時には、自らの選択との因果を否定するでしょう。
多くの人は身勝手に振る舞うのです。
自分にとって有利に思える状況は歓迎することができますが、自分にとって不利に思える状況は否定するのです。
有利も不利も、すべてが自分の解釈によって決められています。
あなたは未熟であり、その解釈は常に不安定であり、変化の途上にあるのです。
そのため、あなたには何が有利であり、何が不利なのかを決めることはできません。
しかしながら、多くの人はそれを自らの解釈の中で決めているのです。
今の自分にとっての有利が、後の自分にとっての有利として働くことは稀(まれ)です。
多くの場合、今の自分にとっての有利は、後の自分にとっての不利として働くことになるからです。
例えば、多くの人は目の前にある楽を選びます。
楽が有利だと解釈している人が多いのです。
短絡的に解釈するのであれば、目の前の楽を選ぶ方が有利を得るように思えます。
しかしながら、後になって気が付くことは、楽が有利に働いたことはないという事実なのです。
楽とは、知恵を以て効率化するということではありません。
効率化することによって円滑に物事を運ぶ状態だけを見れば楽ではありますが、そのために知恵を働かせているのです。
ここでいう楽とは、怠惰(たいだ)のことなのです。
肉体的な労働であろうと、知的な労働であろうとも、怠惰を戒(いまし)めているのです。
多くの人は楽(怠惰)を選ぶことによって、他人に人生を預けていることを知りません。
楽を選ぶ者は、他者に自らの人生を預けることになるのです。
しかしながら、多くの人は気が付きません。
楽をすることによって、他人を働かせます。
他人が働くことによって自分に有利な状況を導けると思い込んでいるでしょう。
しかしながら、成果を上げるのは行動した者だけなのです。
怠惰を目的として他人を働かせる者には決して豊かさは導かれないのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
そして、人生の目的は経験することにあるのです。
豊かさは、経験することによってのみ導かれるのです。
そのため、怠惰によって有利を得ることはできません。
豊かさの原因とは、苦労だからです。
苦労とは、苦悩のことではありません。
苦労とは、自分が不利と思える状況においても最善を尽くして働くということなのです。
苦しみの中に労することです。
多くの人は苦しみを否定しますが、それはこの世界の理(ことわり)を理解していないからです。
楽を得れば不利を得ます。
労すれば有利を得ます。
経験しない者には豊かさは導かれません。
働かない者が成果を得ることはないのです。
あなたが怠惰によって楽を求めようと考えているのであれば、その心を改めなければなりません。
多くの人は怠惰に陥っています。
あなたが周囲の人達を参考にするのであれば、簡単に怠惰に陥ってしまうでしょう。
人生は、自らの選択によってどのようにも姿を変えます。
周囲の人達がどのような選択をしようとも、それを気に掛けてはなりません。
あなたには、あなたの人生の目的があるのです。
それは決して怠(なま)けることではないのです。
怠惰によって楽を得れば、あなたは苦悩を生きることになるでしょう。
勤労によって楽を得れば、あなたは苦労を生きることになるでしょう。
苦悩は停滞であり、苦労は展開です。
どちらにしても苦しみは避けられませんが、苦しみの中に苦しむことと、苦しみの中に喜ぶことは違うのです。
あなたは好きな方を選ぶことができるのです。
どちらでも好きな方を選びましょう。
あなたは行動によって、どちらか好きな方を選ぶでしょう。

2017年1月19日木曜日

真っ直ぐ

あなたは、人生という道を歩まなければなりません。
それは、成長のためです。
人は、人生を歩むことによって様々な経験を積み、成長することができるのです。
成長とは喜びです。
あなたが求めている幸福という状態は、成長の最中(さなか)に存在している一瞬の煌(きら)めきなのです。
成長を手放した途端に幸福の煌めきは失われます。
そのため、あなたが幸福を感じていたいと願うのであれば、成長を続けなければならないのです。
成長にも様々な形がありますが、変化することが成長と理解すれば良いでしょう。
それがどのような変化であろうとも、変化することが成長なのです。
変化することなく、停滞することによっては、決して成長という状態は導かれません。
多くの人は理想とは懸(か)け離れた変化を不幸だと考えています。
しかしながら、あなたが成長した暁(あかつき)には、その変化が不幸などではなく、初めから幸福であったことを知るのです。
どのような変化も幸福です。
不幸は停滞の最中に存在している沈黙なのです。
あなたは変化を受け入れる必要があるということを覚えておきましょう。
変化を受け入れる者は歩みを進めることができるでしょう。
しかしながら、歩むことにはリスクを伴います。
それは、歩むことによって状態が変わるからです。
変化を得るということは、同時に問題を得るということをあなたは知っているでしょう。
多くの人は、新たな問題を抱えることを恐れているのです。
しかしながら、成長にとって問題は欠かすことのできない要素です。
問題が存在しなければ、成長も存在しません。
問題とは成長の原因なのです。
成長とは問題の結果であるということを覚えておかなければならないでしょう。
すべての人は偏見を所有しています。
人は、度量(どりょう)によって世界を見ているのです。
度量によって世界に反応しているのです。
すべての人の度量が未熟な状態です。
そのために、偏見を避けることはできないのです。
偏見とは、偏った見方です。
それは、人の視点(価値観)を固定します。
多くの人は、人生を歩む時にその歪んだ度量に相応しく偏って見ています。
例えば、強い野心を抱えて生きる者がいます。
そのような者は上を見て歩みます。
例えば、強い卑屈(ひくつ)を抱えて生きる者がいます。
そのような者は下を見て歩みます。
すべての人が上か下を見ながら歩んでいるのです。
そうすれば、どちらか一方に偏った視界を得ることになるでしょう。
上を見て歩く者は何かに躓(つまず)き、下を見て歩く者は何かに頭を打ち付けるのです。
偏見は多くの問題を引き起こすでしょう。
それは、あなたに成長の機会を導きます。
あなたは偏見によって問題と向き合うでしょう。
多くの人はそれを否定しますが、人生の目的に従うのであれば、それで良いのです。
あなたが偏見から生じた問題を体験して成長した暁には、視点は偏見の少ないものになるでしょう。
上を見ていた者は下を見て、下を見ていた者は上を見るでしょう。
そうすることによって、あなたは真っ直ぐに見ることができるようになるのです。
真っ直ぐに見るということは、素直に見るということです。
それは、上でもなく、下でもありません。
真っ直ぐに見ることによって、上下を同時に見ることができるのです。
真っ直ぐを見て歩む者には大きな問題が起きません。
真っ直ぐに見る者は足元の問題と、頭上の苦悩を事前に知ることによって、それを避けられないと知っても受け入れることが出来るからです。
問題は受け入れることによって問題としての形を失います。
躓くことを知っていたのであれば、躓くことを問題とはしないでしょう。
頭を打ち付けることを知っていたとしても同じことです。
偏見を捨てて真っ直ぐ素直に見るのであれば、人生には問題が生じないのです。
あなたは、上を見ることを離れなければなりません。
下を見ることからも離れましょう。
真っ直ぐに歩み、すべてを受け入れましょう。
受け入れることが変化です。
否定は変化を実現しません。
真っ直ぐに歩む者が、豊かな人生を生きるでしょう。

2017年1月18日水曜日

不貞腐れないこと

あなたは、腐らずにいなければなりません。
あなたは心を汚してはならないのです。
心の汚れは、感情の乱れによって生じます。
多くの人は、感情を乱し、心を汚し、不貞腐(ふてくさ)れているのです。
不貞腐れている者は抗(あらが)います。
反抗的な態度は、人の心眼(しんがん)を奪うのです。
不貞腐れている者には、ものの本質を理解することができません。
それは、不貞腐れている者は、心を以て事に当たることができないからです。
不貞腐れている者は心を失うのです。
心とは、大切に思う気持ちです。
心眼とは、それを大切なものとして捕らえる視点のことなのです。
それを大切なものとして見るのであれば、その本質を理解することに近付くことができます。
しかしながら、それを軽んずるのであれば、本質からは遠ざかってしまうのです。
あなたが何かを始めたのであれば、それに抵抗が生じるのが自然です。
それは、逆境や他者の反対などによって導かれます。
あなたの行為には、状況や他者が抵抗するのです。
多くの人は、その抵抗に耐えることができません。
逆境や他者からの反対によって感情を乱し、心を汚し、不貞腐れてしまうのです。
多くの人は素直に聞き過ぎるのです。
物事を真面目に捕らえ過ぎているのです。
残念ながら、逆境や他者からの反対は重要なことではありません。
それは、人生があなたの決意を確認しているに過ぎないからです。
あなたが本当にそれを達成したいと考えているのであれば、逆境や他者からの反対などに屈することはないのです。
達成したいという気持ちに揺らぎがあるからこそ、逆境や他者からの反対に感情が乱れ、心は汚れ、不貞腐れてしまうのです。
達成したいという気持ちに揺らぎがなければ、どのようなことにも不貞腐れることはないのです。
あなたは人生に試されているのです。
何かによって不貞腐れている者は、不貞腐れる原因に対して甘えているに過ぎません。
不貞腐れる原因を導いたものによって、逃げ口上(こうじょう)を得ることができたのです。
自分に不貞腐れることを許すということは、本当は達成したくないものなのです。
その本意を不貞腐れることによって理解することができるのです。
決意が揺らいでいるのです。
そのような者に資格はありません。
なぜなら、あなたの達成したいことを達成したいと考えている人は大勢いるからです。
あなたの代わりに、あなたよりも貢献する者を据(す)えた方が良いのです。
その役割をより良く演じる者に与えられるのです。
不貞腐れるような者には与えられません。
その程度の気持ちの者には与えられないのです。
人は、自らの気持ち(心)に相応しい立場を得るのです。
不貞腐れるような者には、それに相応しい立場を与えるのです。
あなたは自らの立場を考察してみましょう。
それは、あなたに相応しいということを理解することができるでしょうか?
あなたは、それ以上でもそれ以下でもないのです。
人生はあなたの気持ちを優先します。
役割を演じ、それを果たすことの出来ない者には頼みません。
あなたが何かを達成したいと考えているのであれば、どのような抵抗を受けたとしても不貞腐れていてはならないのです。
道を行けば、問題が生じることは当たり前のことなのです。
それで立ち止まるのであれば、道を諦めた方が良いでしょう。
どれだけ進みたいと進言したところで、その願いが聞き届けられることはないのです。
条件に相応しくないものには決して与えられません。
条件は簡単です。
不貞腐れないことです。
ただ、それだけなのです。
しかし、この簡単な条件を達成することのできない者が多いのです。
あなたは不貞腐れずにいられるでしょうか?
どのようなことがあっても、不貞腐れてはなりません。
如何なる道においても、冷静に前進しましょう。

2017年1月17日火曜日

小さな石の垣(かき)

すべての人は成果を求めています。
それは、自らの掲げる理想に対する一致です。
多くの人は理想に対する矛盾を嫌います。
理想が実現しないことを恐れているのです。
その恐れから逃れるためには、理想の実現が必要なのです。
多くの人は、恐れを寄せ付けないために理想に対して一致する成果を求めているのです。
あなたには、求めている成果があるはずです。
何事に対しても理想を掲げているために、何事に対しても求める成果が存在します。
それは、無意識の内の働きかも知れませんが、あなたが不満や不安を覚えるのは、理想に対して状況が矛盾を抱えているためなのです。
もしも、理想通りに状況が展開しているのであれば、あなたが不満や不安を覚えることはないでしょう。
思い通りに進まないために心を乱しているのです。
あなたは、自らが理想を掲げ、それに相応しい成果を求めているという事実を受け入れなければなりません。
あなたは何かしらの成果を求めているのです。
そして、その成果は実力よりも大きいものなのです。
理想とは、現実離れしている状況です。
理想は現状とは懸け離れている状態です。
現状から理想に到達するためには、大きな成果を必要としているのです。
多くの人は大きな成果を手にしようとする時、一攫千金(いっかくせんきん)を狙います。
例えば、宝くじの当選などの奇跡的な変化を妄想します。
あなたが、一度で大きな成果を得ようと考えているのであれば、あなたが大きな成果を実現することはできません。
なぜなら、あなたには大きな成果を実現させるだけの力が無いからです。
理想に対して、あなたは余りにも未熟なのです。
多くの人はその事実を忘れています。
自らの実力を見誤り、一攫千金という何の根拠も無い妄想に取り付かれてしまうのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
すべての結果は、それに相応しい原因によって導かれるのです。
この世界には奇跡は存在しません。
あなたはどうやって、食材も無いのに料理を振る舞うというのでしょうか?
あなたが料理を振る舞うためには、食材がなければならないのです。
原因が存在しなければ、結果は存在しません。
あなたの求める成果に対して、あなたの実力が相応しいものでなければならないのです。
残念ながら、あなたの実力が奇跡的に成長を遂げることはありません。
あなたは少しずつでなければ成長することができないのです。
あなたの成長は小さな変化の積み重ねです。
朝目覚めたら別人のようになっていることなどないのです。
朝目覚めてあなたが目にするのは、眠りに就く前の特徴を備えた自分なのです。
少しずつ、あなたは成長するのです。
それは、小さな石を積み重ねることに似ています。
あなたが(単独で)石垣を築こうとする時、あなたの力(知恵と体力と精神力)で運ぶこと、積み上げることのできる大きさの石を選ぶ必要があります。
力の及ばない大きな岩を運ぼうとしても、それは理想を追い求めるだけで終わってしまいます。
あなたの力では、大きな岩を運ぶことも積み上げることもできないのです。
大きな成果を求めることは、何も変わらないことを意味しているのです。
大切なのは、自分の力によってできることを実現することです。
あなたが小さな石を運び、積み上げることができるのであれば、小さな石を積み重ねれば良いのです。
今の自分にできることをしないでどうするのですか?
誰も、あなたの代わりに成果を上げることはできません。
あなたは、自力によって成果を上げなければならないのです。
他者の成果は他者の人生にのみ反映されるのです。
他者があなたのためを思って成果を上げようとも、それは他者の石垣を積み重ねるだけなのです。
大きな成果を求めるのであれば、小さな成果を積み重ねなければなりません。
多くの人は理想ばかりを追い求め、できることを蔑(ないがし)ろにしているのです。
小さな石で築かれた石垣は心許(こころもと)ないでしょうが、無いよりはましです。
小さな石であっても石垣を築いた経験のある者には、それよりも大きな岩で石垣を築くことも容易いでしょう。
しかしながら、石垣を築いたことがない者には、小さな石で石垣を築くことも難しいのです。
大きな成果を求めるのであれば、小さな成果を積み重ねましょう。
あなたの実力に相応しい成果を得ることができます。
それ以外にはありません。
できることを、一つ一つ積み重ねましょう。

2017年1月16日月曜日

人生の計画書

人生は、あなたの成長のために存在しています。
人生におけるどのような出来事も、それはあなたの成長を促(うなが)しているのです。
人生において、あなたの成長に関係のない出来事は存在しません。
それがどのような出来事であろうとも、あなたの成長に関わる事柄なのです。
多くの人は目の前の出来事が自らの成長のために導かれているということを知りません。
また、自らが成長のために人生を経験しているということを知らないために、目の前の出来事が自らの成長に関わる事柄であることに気が付かないのです。
そのため、自らの成長と目の前の出来事を関連付けることができません。
それは、目の前の出来事が自分にとって無関係なものだとする思考を導くのです。
多くの人が目の前の出来事を自分のことだとは思っていません。
それは、無関心を生むのです。
無関心とは、気に掛けないことだけではありません。
否定や反発でさえ、無関心と同義なのです。
目の前の出来事に関心を持つということは、それが自らの成長のために導かれる最善であると受け入れることなのです。
無関心を振る舞えば、目の前の出来事と向き合うことができません。
それでは、人生は益々苦悩と乏しさを増していくのです。
人生を豊かなものとする上で重要なのは、目の前の出来事を体験することによって成長することなのです。
成長することがなければ、因果の仕組みが働いているこの世界では、豊かさを実現することができないのです。
あなたに相応しい人生が得られます。
それがどのような人生であれ、それはあなたに相応しい形なのです。
あなたの変化と共に、人生は変わります。
それは、あなたという原因が人生という結果を導くからです。
多くの人は自らが原因であるということを知らないでいるのです。
誰かや何かによって人生が決められていると本気で思い込んでいるのです。
残念ながら、誰かや何かによって人生が決められることはありません。
すべての状況はあなたが決めているのです。
そのようには見えないでしょうし、信じることはできないでしょう。
しかしながら、深く考察してみれば、すべての状況を引き起こしているのが自分であるということを知ることができるのです。
誰かや何かは、あなたの”計画書”通りに事を進めているだけなのです。
計画書とは、あなたです。
あなたの思考や感情や価値観があなたの人生を形作ります。
人生は、あなたの計画書通りに展開していくのです。
誰かや何かがあなたの人生の計画書を書くことはできません。
それは、あなたにだけ許されていることなのです。
あなたのすべてが、人生の計画書に記されています。
あなたが自分では気が付いていないことまでも記されているのです。
あなたは心の中で、計画書を書いています。
あなたは自分の心を知りません。
そのため、計画書がどのように書かれているかも知らないのです。
人生は計画書通りに展開します。
どのような努力も、計画書に逆らうことはできません。
それは、人生が初めから決まっているという意味ではありません。
あなたの原因は、”ある時点”において結果を導かなければならないのです。
それは、肉体がアレルギー反応を起こすタイミングに似ています。
”ある時点”において、今までは平気だったものにアレルギー反応を示すようになるのです。
”ある時点”を教えることはできませんが、あなたが学ぶのに最適な時点だと覚えておきましょう。
人生の目的は成長です。
あなたを苦しめるために何かが導かれるということはありません。
すべては最善なのです。
あなたはそれを覚えておかなければなりません。
人生は、あなたの最も恐れている状況を実現するでしょう。
人生の計画書は、成長のための計画書であるからです。
あなたの最も恐れている状況こそが、あなたを成長させるためには最適なのです。
人は問題と向き合うことによって成長することができます。
問題とは苦悩です。
苦悩を受けることがなければ、人は成長することができないのです。
あなたは最も恐れている状況を受け取ります。
そのことを覚えておきましょう。
どのような状況を得ようとも、心を乱してはなりません。
それは、計画書通りの状況だからです。
すべてに意味があり、すべてが最善です。
すべてが成長のためであるということを覚えておきましょう。
人生の計画を理解しましょう。

2017年1月15日日曜日

価値を探す

あなたは価値を探し続けなければなりません。
それは、学びが目の前に存在しているからです。
学びとは、あなたの問題として導かれます。
あなたは、問題と向き合い続けているのです。
それを苦しみと思うか、喜びと思うかはあなた次第ですが、問題は常に目の前に存在しているのです。
あなたは問題と向き合い、それを成長という形に変換しなければならないのです。
問題を成長に変換するためには、問題を成長に変換する価値観が必要です。
問題に向き合い、それを成長に変換しようとしても、それを変換する道具である価値観を持たなければ、問題が成長に変換されることはないのです。
がむしゃらに向き合ったとしても、問題を成長に変換することはできません。
多くの人ががむしゃらに努力を重ねますが、それだけでは問題が成長へと変換されることはないのです。
新たな価値観が必要なのです。
今までの方法によっては、今までの行為と結果を導くだけなのです。
それでは、問題を成長に変換することはできません。
それは、今までの方法によって導き出された問題なのです。
同じ方法を繰り返してはならないのです。
価値観の変容こそが、あなたに違う方法をもたらすのです。
人は価値観に従って行為します。
すべての人が価値基準を持つのです。
そして、価値を求めているのです。
すべての人が自らの信じる価値を実現するために行為しているのです。
そのため、価値観を変えずに努力したとしても、新たな価値を得ることはできません。
価値観は、あなたの内に存在しています。
そのため、外を変えることには意味がありません。
多くの人は、環境や人間関係を変えることによって、問題を解決しようと画策します。
しかしながら、それは虚しい結果を導くだけなのです。
外を変えたとしても、問題の状態は変わりません。
大切なのは内を変えることなのです。
同じ環境や人間関係に身を置くとしても、自らの価値観が変われば問題はその状態を変えるのです。
価値観の変化によって、問題は問題としての状態を保つことができないのです。
外に探してはなりません。
内に探すのです。
外とは、外面です。
価値は内面に存在しています。
そのため、あなたが何を見るにしても、その内面を見極めなければならないのです。
多くの人は物事の外面を見ています。
それは誰にでも簡単に見付けることができます。
それは、多く溢れているからです。
例えば、常識があなたの問題を成長へと変換することは容易ではありません。
なぜなら、常識という価値観は溢れているからです。
溢れているということは、それに問題を解決するための力(価値)は乏しいということなのです。
しかしながら、多くの人は溢れているものに価値を見出そうとしています。
溢れているものに力があると思い込んでいるのです。
皆と同じ価値観であることを安心しようとしているのです。
あなたは一度、俯瞰(ふかん)してみる必要があるでしょう。
離れて見ると良く分かるのです。
常識には、問題を成長へと変換する力はありません。
あなたが常識(多くの人の支持する価値観)を大切に思うのであれば、その問題に苦しみ続ければ良いでしょう。
問題を解決するのは簡単なことですが、常識という価値観に執着している者には困難であるのです。
これはあなたの人生なのです。
そして、それはあなたの問題です。
あなただけの答えが必要なのです。
常識とは、多くの人の答えの平均に過ぎません。
それは、あなたに当てはまるとは限らないのです。
多くの場合、常識としての価値観があなたの問題を成長へと変換することはないでしょう。
あなたにとって価値のあるものは、例えば世間が求める価値とは違うはずです。
内に探してみましょう。
例えば、多くの人は財産を求めていますが、あなたの問題が財産を求める価値観によって成長へと変換されるでしょうか?
それに当てはまる場合はそれが価値のある価値観ですが、そうでない場合は他を探しましょう。
どちらにしても、これまでの価値観は役目を終えます。
あなたは常に新たな価値観を探し続けなければなりません。

2017年1月14日土曜日

干渉

これは、あなたの人生です。
他の誰のものでもありません。
あなたはあなたの人生を経験しているのです。
そのことを忘れてはなりません。
そして、他者は他者の人生を経験しています。
そして、それぞれが自分の人生を経験する必要があるのです。
あなたが他者の人生を経験する必要はありません。
他者があなたの人生を経験する必要もないのです。
それは、それぞれの人生に干渉してはならないということなのです。
他者の人生に対する干渉は、自らの人生に矛盾を導きます。
あなたが経験しなければならないのは自分の人生です。
自分の人生を経験しなければならないあなたが、他者の人生に干渉し、それを自分のもののように経験するということは、矛盾を抱えることになるのです。
多くの人が矛盾を抱えています。
矛盾は苦悩であるのです。
多くの人が苦悩を抱えているのは、他者の人生に干渉しているからに他なりません。
他者の人生に干渉することによって、自分の人生を蔑(ないがし)ろにしているのです。
その因果を受け取っているのです。
多くの人は他者を気に掛けています。
残念ながら、他者はあなたの人生に関係ありません。
親であろうと、兄弟であろうとも、それは他者であるのです。
どのような人物も、あなたの人生に関係なく、どのような人物の人生にも、あなたは関係ありません。
あなたの人生において、他者は部外者です。
他者の人生においては、あなたは部外者なのです。
そのことを理解しない多くの人は、自分と他者の人生を混同し、矛盾を生じさせるのです。
自分と他者の人生を混同し、そのことによって混乱している多くの人は、他者を尊(とうと)びません。
他者を侮(あなど)っているために、他者の人生に干渉するのです。
隣家(りんか)の庭にけちを付けるものではありません。
隣家の主人はそれを喜んでいるのです。
他者の決断にあなたの意見など必要ではありません。
それは、あなたの庭ではないのです。
その人の良いようにさせなければなりません。
あなたが他者を評価し、裁く必要はありません。
あなたは自分の仕事に専念し、他者の仕事に介入する必要はないのです。
自分の仕事が満足でない者程、他者の仕事を気に掛けています。
自分の仕事が満足である者は、自分の仕事に専念しているのです。
自分の仕事に専念している者は、他者の仕事に介入している暇はないのです。
あなたが他者の人生を気に掛け、他者の行為に気を病んでいるのであれば、それと同時に自分の仕事が疎(おろそ)かになっているということを理解しましょう。
あなたが自分の人生や行為に専念しているのであれば、他者の人生や行為を気に病むことはないのです。
多くの人が他者の人生や行為に世話を焼いています。
それは御節介(おせっかい)に他なりません。
他者の人生に対する干渉は、余計な世話となるのです。
他者は他者の学びを経験しています。
あなたにとって、他者がどのように振舞おうとも、他者はそれを経験する必要があるためにそうしているのです。
他者への干渉は、その学びを否定し、必要な経験を阻害していることに気が付かなければならないのです。
多くの人が他者を気に掛けています。
多くは、他者に自分の人生の選択を任せている始末です。
他者に何かを決めてもらう必要はありません。
決定権はあなたにあるのです。
これは自分の人生なのです。
あなた以外に最善を知る者はいません。
他者を気に掛けることによって、自らの人生を蔑ろにしてはなりません。
未熟なあなたには、何が正解なのかを知りません。
それが他者の行為ならば尚更です。
正解を知らないのに、自分勝手に抗(あらが)ってはならないのです。
他者の人生に干渉してはなりません。
そして、自分の人生に干渉を許してはなりません。
それぞれが自分の人生を経験するのです。
あなたは、その人の良いようにさせましょう。
因果の仕組みがその人を裁くでしょう。
あなたが他者を裁く必要などないのです。
人生を信じましょう。

2017年1月13日金曜日

内向

あなたは、人生が思い通りに進むと思ってはいませんか?
あなたは、理想が実現すると思い込んではいないでしょうか?
あなたには酷(こく)なことかも知れませんが、人生が思い通りに進むことも、理想が実現することもありません。
人生はあなたの思いを否定し、理想を拒絶するのです。
あなたの思い通りに進む人生はありません。
あなたの理想が反映される人生もないでしょう。
人生は常にあなたを裏切り続けます。
多くの人はそこに苦悩を覚えます。
しかしながら、それで良いのです。
人生の目的は成長することにあります。
あなたが成長するためには、内向する必要があります。
多くの人が外向しています。
それは、自分が何者であるのか?という問いの答えを導く結果には至りません。
自分が何者であるのかも知らずに、どうやって成長するのでしょうか?
あなたが成長するためには、内向することによって、自分と向き合わなければならないのです。
見当外れの方法は、見当外れの結果を導きます。
多くの人が外向することによって人生の意義を見出そうと試みますが、それは人生の外装の意味を見出すことに繋がるだけなのです。
もちろん、外向することも重要です。
しかしながら、外向することは既に身に付いているのです。
外装を作ったのであれば、内装を考えなければならないのです。
家の外装を考えるのであれば、内装も同じように考えないでしょうか?
寧(むし)ろ、内装に重点を置く必要を感じるはずです。
それは、あなたがその家で生活するのに本当に必要なのは、内部の構造であるからです。
外装に満足していたとしても、内装に不満を覚えるのであれば、生活は乱れたものになるでしょう。
内装に満足しているのであれば、外装の不満は取るに足らないのです。
生活の乱れは家の内に存在します。
人生の乱れは心の内に存在するのです。
容姿を磨こうとも、心を磨いていないのであれば、人生は乱れるのです。
あなたは、物事の本質は内に存在しているということを理解しなければならないでしょう。
多くの人は外面に捕らわれています。
外面を美しく飾ることは知っていながら、内面を美しく整えることは知らないのです。
エンジンが故障して走らない高級車に価値があるでしょうか?
それよりも、不備無く走る錆(さび)た車の方が価値を持つでしょう。
役に立たない美しい装飾品よりも、役に立つ汚れた道具に価値を見出す必要があるのです。
繰り返しますが、どちらも価値はあります。
外面と内面はどちらも必要です。
比重の違いを考えなければならないのです。
外面に比べ、内面は余りにも広大なのです。
容姿と心を比べてみましょう。
どちらの比重が大きいかを理解することができるでしょう。
外向に使っている力を、内向するために使わなければならないのです。
あなたがそれを自主的に行わない時には、理想を阻(はば)み、苦しみを導くことによって強制的(本当はあなた(真)の望んでいること)に内向するために力を使わせるのです。
あなたが内向するために、不幸が存在しています。
不幸というものに実態はありません。
それは、解釈によって生み出される幻想ですが、あなたの心の内でそれは真実となるのです。
あなたは病気や怪我、不仲や不調和によって苦悩を受けるでしょう。
苦悩はすべての人を内向的にします。
そうすることによって、人は自分と向き合い、広大な心の世界を知るのです。
多くの人は人生を思い通りに進ませるために努力を続けています。
多くの人は理想が実現することを日夜願い続けているのです。
しかしながら、それは人生の目的に抵抗する行為でもあるのです。
あなたは苦しむ必要があります。
思い通りに進まない人生を受け入れ、理想が実現しないという現実と向き合うのです。
そうすることによって、あなたは自分を知ることに近付くことができるでしょう。
言っておきますが、すべてが上手くいきません。
しかし、それで良いのです。
外面が存在すると同時に、内面も存在しています。
しかし、内面の比重が大きいということを忘れてはなりません。
苦しみによって内向することができます。
苦しみを安易に否定してはなりません。

2017年1月12日木曜日

終始

すべての始まりは、終わりへと向かいます。
始まったもので終わらないものはありません。
すべては始まり、そして終わるのです。
それはこの世の理(ことわり)です。
どのような人物であろうとも、それに抗(あらが)うことはできません。
あなたがどれだけ拒絶しようとも、それは始まるでしょう。
そして、どれだけ拒絶しようとも、それは終わるのです。
この世においては、常に始まりが有り、常に終わりが有るのです。
始まりがあれば、それと同時に終わりが存在しています。
始まりを受ければ、同時に終わりを受けるのです。
あなたは始めました。
それは、終わりへと向かいます。
あなたが何を始めようとも、その行き着く先は終わりなのです。
それは、山形(やまなり)の軌跡を描きます。
人が幼く生まれ、勇猛に育ち、衰微(すいび)を経て死に帰結(きけつ)します。
肉体は始めと終わりを所有しているために、その軌跡は山形なものであるのです。
多くの人は、自分を肉体だと思っています。
自分という存在は心臓や脳の働きだと思っているのです。
そのため、多くの人は衰微を恐れています。
肉体の衰えは避けられません。
そして、この世におけるすべての存在の衰えは避けられないのです。
始まりは必ず衰えます。
そして、終わりを受け入れるのです。
肉体は、生まれた瞬間から同時に死を所有しています。
肉体は、始まりから死に向かって生きているのです。
つまり、生きることとは死ぬことなのです。
死とは終わりの一形態です。
死とは、この世の理です。
死は避けられません。
死を避ける必要はありません。
それは、理であるからです。
そのため、衰えを避けることはできません。
そして、衰えを避ける必要はないのです。
あなたは衰えなければなりません。
衰えることは、死を受け入れる作業だからです。
肉体の死も受け入れれば良いのですが、あなたは常に終わりを受け入れなければなりません。
あなたはいつも始まりと終わりを経験しています。
例えば、価値観です。
何かに価値を置く思考が始まれば、人はその価値に執着します。
すべての人の価値判断は未熟です。
そのため、どのような価値観も後には必ず不要となるのです。
すべての価値観は成長しなければなりませんが、栄華(えいが)に達すれば衰えなければなりません。
衰えた価値観は、やがて無用の長物として捨て去られるのです。
それは同時に、新たな価値観の始まりを意味しているのです。
新たに始まった価値観は、終わった価値観に比べて洗練されているのです。
その繰り返しによって、人は成長していくのです。
多くの人は衰えることの価値を知りません。
肉体の衰えは最良な過程でしかありませんが、それを知らない人にとっては恐ろしいことなのです。
衰えを最悪と同一視してはなりません。
あなたはより良く始める必要があるのです。
そのためには、終わりを得なければなりません。
衰えを拒絶するのであれば、より良く始めることなどできないのです。
衰えは避けられません。
それは、成長を促す最良の方法だからです。
衰えを受け入れましょう。
衰えを受け入れることによって、あなたは知恵を増すことができるでしょう。
いつまでも”子ども(何も知らない状態という意味)”のままであってはならないのです。
いつまでも愚(おろ)かに暮らしてはならないのです。
人生とは何ですか?
あなたは誰ですか?
無知な者には答えられないでしょう。
答えたとしても、それは多くの矛盾を含んだ答えであるでしょう。
始まりを終わりへと向かわせましょう。
終わりによって、新たな始まりを得るのです。
そして、あなたは成長を実現するのです。

2017年1月11日水曜日

未熟者の画策

あなたは、自分が未熟であることを知っているでしょうか?
あなたは常に未完成であり、変化し続けなければならないことを知っているでしょうか?
あなたは決して何かに達してはいません。
あなたは常に不足しているのです。
一つの未熟さを克服すれば、別の未熟さを目の当たりにします。
何かを完成させたと思うと、未完成の部分が見えてきます。
安定を手に入れたと思えば、すぐに変化の必要を迫られます。
満足したと思えば、すぐに不足が目に付くのです。
あなたは未熟です。
他のすべての人も未熟です。
すべての人が変化を必要とし、すべての人が何かに達している訳ではないのです。
そのため、あなたがあれこれと画策する必要はありません。
あなたの目論見(もくろみ)は、必ず問題を引き起こします。
未熟な者の方法は、世界に矛盾を生じさせるのです。
多くの人は自分が未熟だと認めません。
中には、自分が未熟だと知らない人もいるのです。
自分が完成しており、変化する必要がないと考えるのは傲慢(ごうまん)です。
そのような思い上がりこそが未熟さなのです。
人生を思い通りに進めようと考えている人が多過ぎます。
理想に反する状況に対して反発し、抵抗する人が多いのです。
結果は状況に導かれます。
あなたの受け取る状況こそが、あなたの現状を教えているのです。
理想に反する状況が導かれたのであれば、そのような現状を所有しているということなのです。
多くの人は理想を追い求める余り、結果を気にしています。
結果がどうなろうとも気にする必要はないのです。
それは、あなたにはどうすることもできないからです。
あなたは自らの現状を受け取るだけです。
未熟な者は未熟な状況を受け取りますが、それで良いのです。
理想を追い求める余り、先回りして結果を画策しますが、その思惑(おもわく)は外れるのです。
あなたは思いためらうことなく決断し、行動すれば良いのです。
あれこれと画策したところで実力以上の状況を導くことはできません。
あなたが実力以上の状況を求めているのであれば、実力を知らなければなりません。
そして、実力(未熟さ)を受け入れなければならないのです。
多くの人は、自らの実力を受け入れることなく、理想を得ようとしているのです。
しかしながら、そのような理想が実現することはありません。
因果の仕組みが、あなたに相応しい状況のみを導くからです。
あなたに相応しくない状況など、決して導かれはしないのです。
多くの人が考え過ぎています。
余計なことばかりを考えているのです。
あなたにできることは観察することです。
そして、そこから発見することだけなのです。
それ以上のことはできません。
あなたは目の前に導かれる状況から、自分の実力を発見するのです。
そうすれば、次の選択は自然と決まっているでしょう。
観察し、自分を発見すれば、他に何かをする必要はないのです。
あなたの画策はすべて失敗に終わります。
例え状況が思惑通りに進んだとしても、後にそれに相応しい代償(だいしょう)を求められるでしょう。
どのように賢く画策しても、それは未熟さの中の振る舞いに過ぎません。
あなたよりも賢い理(ことわり)が、この世界には存在しているのです。
あなたは自分が未熟であることを知っているでしょうか?
見当が外れているのであれば、結果も外れているのです。
あれこれと考える必要はありません。
損得を勘定するものではありません。
未熟な者の算段は歪んでいます。
損を得と思い、得を損と思うでしょう。
あなたには判断することができません。
とにかく行動し、どのような結果でも受け取ってみましょう。
理想の結果などを求めてはなりません。
結果など、どのようなものでも良いのです。

2017年1月10日火曜日

知恵の輝き

あなたは、常識を疑わなければなりません。
当たり前のことを当たり前としてはなりません。
どのようなことにも疑いを持ち、その真意を確かめなければなりません。
これはあなたの人生なのです。
人は、それぞれの人生を所有しています。
人生の数だけ心の真実が存在するのです。
あなたの真実と他者の真実は必ずしも一致するということはありません。
それは、それぞれの人生の目的が違うからです。
目的が違えば、真実も異なるのです。
多くの人は、それぞれの人生の目的を混同しています。
そのため、常識や当たり前のことを鵜呑(うの)みにすることを許しているのです。
残念ながら、あなたの必要と他者の必要は違います。
他者にとっての常識や当たり前のことは、あなたには通用しない可能性が高いのです。
多くの場合、常識や当たり前のことはあなたの役には立ちません。
あなたは、あなたの人生の目的を果たさなければならないからです。
他者は他者の人生の目的を果たさなければなりません。
それは、幹から分かれた枝のように、それぞれの形を成すのです。
常識や当たり前のこととは、根幹として重要なものですが、枝として成長しなければならないあなたがそれに捕らわれていてはならないのです。
あなたは自分の人生の目的を果たす必要があるのです。
枝は枝としての役割を果たさなければならないのです。
根幹は大切ですが、自分とそれを混同してはならないのです。
疑う姿勢を持たない者は、自分が枝であることを見失います。
そこに矛盾が生じるのです。
枝の仕事と幹の仕事は異なります。
枝が幹のように振る舞うということは、枝としての役割を疎(おろそ)かにするということなのです。
それは、自らの人生の目的を疎かにする行為であり、そこに豊かさを導くことはできません。
枝は枝として、葉を茂らせ、花を咲かし、果実を付けるのです。
幹のように太る枝は、その重みに耐え切れずに折れて地に伏(ふ)すでしょう。
自らの役割を見失う者は、滅びを得るということを覚えておかなければならないのです。
常識や当たり前のことを疑わず、それを鵜呑みにしているのであれば、あなたは自らの人生の目的を見失うことになります。
あなたは常識に従うために生まれたのではありません。
あなたは当たり前のことをするためにここにいるのではないのです。
あなたはあなたの課題と向き合うために生まれ、ここにいるのです。
あなたの課題と常識とは異なります。
あなたは自らの歪みと向き合い、それを克服する必要があるのです。
歪みとは未熟さです。
例えば、あなたの苦しみは未熟さであり、歪みなのです。
それを克服するのです。
常識や当たり前のことを鵜呑みにしていれば、苦しみを否定し、そこから逃避するようになるでしょう。
常識や当たり前のことを鵜呑みにしていれば、あなたが自らの歪みと向き合うことはできないのです。
枝の役割は、枝の方法によって果たすことができます。
あなたの人生の目的は、あなたの方法によってのみ果たすことができるのです。
常識や当たり前のことを疑ってみましょう。
そうすれば、苦しみに向き合うことの重要性が理解できるはずです。
寒風に晒(さら)されなければ花を咲かすことができない枝があるのです。
人は苦しみによって成長することができます。
苦しみに会わなければ、浅はかな人と成るのです。
苦しみに会えば、常識や当たり前の形は変わります。
人は苦しみによって知恵を増すのです。
人は苦しみによって器を育てるでしょう。
暗闇の深さによって、光の明るさが変わります。
暗闇が深い程に、光は明るさを増すのです。
苦しみが深い程、知恵は輝きます。
苦しみを否定し、そこから逃避してきた人の知恵の輝きを見ましょう。
それは、日差しの中で見る蝋燭(ろうそく)の火のようです。
それは、見えません。
苦しみを受け入れ、それに向き合ってきた人の知恵の輝きは、宇宙に輝く太陽のようです。
常識や当たり前の考えは、あなたを弱くするでしょう。
疑わなければなりません。
あなたは苦しみに向き合うのです。
苦しみを受け入れなければなりません。
苦しみの大きさによって、知恵の大きさが決まります。
浅はかに生きてはなりません。
軽薄(けいはく)な人格で生きてはならないのです。
苦しみを大切にしましょう。
そうすれば、苦しみは即座に喜びに変わるでしょう。

2017年1月9日月曜日

一つの力

人は、多くのものを分離して考えています。
人は、それぞれの形や性質に応じて、それぞれを分類しているのです。
それは、それぞれの間に隔たりを置く思考を形成します。
それは、支離滅裂(しりめつれつ)な状況を導くでしょう。
それぞれを分離する思考は矛盾を抱えます。
それぞれを分離する思考は、敵対関係を生み出すからです。
この世界においての相反する関係は、矛盾でしかないのです。
あなたが深く世界を眺めた時には、”すべては一つ”であることを理解することができるでしょう。
何一つとして、分離している存在はありません。
相容(あいい)れないように見えるものであっても、それよりも深いレベル(別の方法)によっては共存しているのです。
この世界におけるすべての存在は一つなのです。
相反するものなど存在しないのです。
表面的、部分的に観察すれば、世界は敵対関係を築きます。
例えば、あなたが生物を殺し、それを食物とするのを表面的、部分的に観察するのであれば、食う者と食われる者という敵対関係が導かれるのです。
一部を切り取ってしまえば殺し合いです。
しかしながら、全体を観察するのであれば、自然界の営みなのです。
全体的に観察すれば、あなたが生物を殺すことは、自然界を豊かにする行為なのです。
勿論、それはあなたが全体性を所有して、自然界に参加している場合です。
物事を分離して考えている人の自然界への参加は、自然界に敵対関係を持ち込む結果となるのです。
例えば、自分に害を成すと考える生物(害虫や害獣など)を殺すことは、自然界の豊かさには繋がりません。
他の生物を殺すことが悪ということではありません。
物事を分離して考えているのであれば、その行為は乏しさを導くということを言いたいのです。
恐怖によって害を成すと考える存在を排除していくのであれば、そこには必ず矛盾が生じるのです。
それは、”すべては一つ”という原理から外れることになるからです。
未熟な心は、物事を分離して考えます。
それぞれを隔てて考えるために、全体性を理解することができません。
大人が子どもに教育を施(ほどこ)す時、子どもには見えていない視点によってそれを行うはずです。
大人は、子どもに(自分の知っている)全体性を教えているのです。
子どもにはそれが理解できないために困惑するのです。
しかしながら、経験を重ねて成長することによって、大人の教えようとしたことの意味を理解することができるようになっていきます。
それは、分離して考えていたそれぞれのものの繋がりを認識したからに他なりません。
それぞれの繋がりを見出すことが成長です。
視野を広げ、全体性を高めることが成長なのです。
成長の乏しい人には、それぞれの繋がりを理解することができません。
そのため、害を成す生物を無闇に殺すように、状況に対して争いを持ち込むのです。
全体性を理解せず、何かに対して敵対関係を結んでいる人は、自らの抱える矛盾に苦しむことになるでしょう。
外の世界には矛盾は存在していません。
外の世界には苦しみはないのです。
それを苦しみとしているのは、物事を分離して考える思考なのです。
物事を分離して考えなければ苦しみは消え去ります。
簡単なことなのです。
この世界には様々な形や性質が存在しています。
それ等は全体性をそれぞれに分離した状態です。
それぞれに”力”が分け与えられたのです。
”すべては一つ”という状態こそが、力を集結させて全体性を取り戻した状態なのです。
人は、様々な形や性質を組み合わせることによって、大きな力を得たのです。
鉄材や木材や石材などの形や性質。
火、水、風、電気、磁気、摩擦などの形や性質。
様々な形や性質を持つ存在を融合(共存)させることによって、大きな力を得たのです。
分離して考えるのであれば、大きな力を得ることはできないのです。
分離して考えるのであれば、暗闇を照らす懐中電灯すら手にすることはできないのです。
あなたが人生に苦しみを抱き、その道のりが暗闇の中にあるのならば、物事を分離して考えることをやめてみましょう。
すべてが一つの力なのです。
ただそれが、それぞれの形や性質を得ているに過ぎません。
どのような存在にも敵対する必要はありません。
全体性によって世界を観察しなければなりません。
敵はいません。
苦しみもありません。
この世界には何も存在せず、すべてが存在することを知りましょう。

2017年1月8日日曜日

巨大な欲求

人は、多くのものを求めています。
人は、大きなものを求めているのです。
人は、抱えきれない程に求めます。
人は、持ち運べないものまで求めるのです。
人は、巨大な欲求を所有しています。
大抵の場合、それは実力を超えているのです。
多くの人は、欲求に潰されます。
それは、苦悩を導くのです。
巨大な欲求は、多くのものや大きなものを導くでしょう。
あなたは望み通りに、多くのものや大きなものを手に入れるでしょう。
しかしながら、あなたが手に入れたものは、抱えなければなりません。
それは、責任を持つということなのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
すべての結果には原因が存在しているのです。
巨大な欲求は、巨大なものを導くでしょう。
しかしながら、それが実力に相応しいとは限りません。
多くを求める人、大きく求める人は、自分の実力を知りません。
実力を知らないために欲求が膨(ふく)らんでいるのです。
自分の実力を知っている人は、必要を求めます。
必要以上に求めることはないのです。
それは、抱えきれない荷物は、苦悩となることを知っているからなのです。
あなたは、実力以上の荷物を運ぶことはできません。
力に合わせて運べる量が決まります。
あなたは力以上に運ぼうとしてはなりません。
知恵が備わっているのであれば、より多くを運ぶことができるでしょう。
しかしながら、知恵を超えて運ぼうとしてはなりません。
実力に相応しくない財産(荷物)は、無用の長物に過ぎないということを知る必要があるのです。
多くの人は恐怖を抱えています。
恐怖はより多くを運ぼうと考えるのです。
それは、不足の事態を想定するためです。
不足の事態に陥(おちい)らないためには、より多くを所有しておく必要があります。
それでも、不足の事態に陥るのであれば、それよりも多くを所有する必要があるのです。
そのようにして、恐怖が膨らみ、同時に欲求と荷物が膨らむのです。
荷物を所有する程に、あなたは苦悩することになります。
重荷を背負って道を進まなければならないと知れば、あなたは苦悩するはずです。
そして、重荷によって道を進むことができなければ、尚更のことです。
人は身軽に進まなければなりません。
あなたが道を進むためには、必要な荷物だけを運べば良いのです。
恐怖を抱えていると、必ず荷物は増えるのです。
恐怖の大きさに従って、苦悩の大きさが決まるでしょう。
あなたは恐怖の数だけ求めます。
あなたは恐怖の大きさだけ求めます。
人生という道は、恐怖を抱えては進むことができないのです。
多くを求めている人が、人生を進むことはありません。
多くの荷物に埋もれて動けないのです。
恐怖を手放せば、本当に必要なものが見えてきます。
あなたの人生という旅路に必要なものを恐怖は知りません。
そのため、あなたは恐怖に聞いてはならないのです。
あなたの人生の旅路に必要なものは、心の中の穏やかさが知っているのです。
あなたは必要な荷物を穏やかさに尋(たず)ねてみましょう。
そうすれば、今までに抱えていた荷物が必要ではないことを教えてくれるのです。
穏やかに人生を眺めてみましょう。
そうすれば、恐怖が思い込みであると知ることができるはずです。
あなたは何にも困ってはいません。
何にも苦しんではいません。
何にも悩んではいないのです。
ただ、そう思い込んでいるだけです。
恐怖に尋ね、多くを求める習慣を手放しましょう。
穏やかさに尋ね、必要を求める習慣を手にするのです。

2017年1月7日土曜日

感情的な抵抗

人生を豊かなものにするためには、どうしてもやらなければならないことがあります。
それは、感情的な抵抗を手放すことです。
多くの人は目の前の状況に対して、感情的に抵抗しています。
人生には思い通りにいかないことばかりですが、それを受け入れることができないのです。
受け入れることができなければ、それに抵抗するのです。
何かに抵抗するということは、冷静さを欠いている状態です。
それは、感情論に過ぎないのです。
感情論であっては、物事の本質を見極めることはできません。
それは、感情が反射に過ぎないために、感情によって得られる認識は物事の表面的な情報に限定されるからです。
感情に翻弄(ほんろう)される人物とは話を進めることができません。
それは、話にならないからです。
感情論とは主観的な思想でしかなく、そこには何の理性も備わってはいないのです。
感情によって状況に対応するのであれば、利己的な選択をする以外に方法がないのです。
目の前の状況に対して、感情的な抵抗を続ける者は、利己的な思惑(おもわく)によってそのように振舞っているのです。
人生を自分の思い通りに進めたいという利己的な思惑こそが、目の前の状況に対する感情的な抵抗に執着させているのです。
利己的な思惑を手放せば、目の前の状況がどのようなものであろうとも、感情としての抵抗を手放すはずなのです。
これは、状況に抵抗することを否定しているのではありません。
受け入れられないこともあるのです。
それは、新たな価値を創造するためには必要は作業です。
そのため、あなたは状況に抵抗する必要もあるのです。
しかしながら、状況を受け入れることがなければ、新たな価値を創造することはできません。
そのため、感情的に抵抗することを手放そうと言っているのです。
それがどのような状況でろうとも、それを導いたのはあなたです。
目の前のすべての状況は、あなたに起源するのです。
あなたの心が原因です。
あなたの言動が原因なのです。
状況は、あなたに相応しい形で導かれます。
すべての状況は、あなたに相応しいのです。
自分に相応しいものに抵抗することは愚行なのです。
それは、あなたの成長に相応しいからなのです。
目の前の状況に対して、感情的な抵抗を手放せば、あなたの心は軽くなるでしょう。
抵抗を手放さない限りは、緊張は続くのです。
心の緊張は、次の状況に影響します。
それは、更なる問題を引き起こし、あなたはそれに再び抵抗するでしょう。
それは、抉(こ)じ開けようとすると固く閉じる貝のようなものなのです。
抵抗(抉じ開けようとする気持ち)をやめ、ただ待つことによって貝は開くでしょう。
追えば逃げます。
抗(あらが)えば難儀(なんぎ)するのです。
相手の言動に反発することによって、あなたは相手と争わなければならないでしょう。
あなたが相手の言動に感情的な抵抗をやめれば、相手はあなたと争う理由がなくなります。
あなたが抵抗を手放すのに合わせて、相手も抵抗を手放すでしょう。
状況に対する感情的な抵抗を手放せば、状況はあなたに対しての抵抗を手放します。
多くの人は状況を好転させるために特別な方法を探していますが、それは何かを行う(追加する)ことではありません。
抵抗を手放すことこそが、状況を好転させる特別な方法なのです。
しかも、抵抗を手放すことによって、状況は驚くほど簡単に好転します。
状況に抵抗することは、川の流れに逆らって泳ぐようなものです。
上流を目指しているとして、その状況に抵抗するということは、川の中を遡(さかのぼ)るようなものです。
抵抗を手放せば、川から上がり、川沿いの道を歩む方法を見付けることができるのです。
状況に真正面からぶつかる必要はありません。
抵抗を手放すことによって、側面からアプローチすれば良いのです。
方法は一つではありません。
あなたの思い付く方法になど価値はないのです。
感情的な抵抗を手放した時に導かれる思いも寄らない方法こそが価値を持つのです。
抵抗を手放すということは、古い方法を手放すということです。
抵抗とは、古い方法に対する執着に過ぎないのです。
状況に対して通用しないために抵抗せざるを得ないのです。
抵抗を手放せば、状況に通用する新たな方法が導かれます。
あなたには簡単なことではないでしょうが、古い方法に対する執着を手放し、感情的な抵抗を手放しましょう。
そうすれば、驚くほど円滑(えんかつ)に状況が好転するでしょう。
力を抜くのです。

2017年1月6日金曜日

あなたの心が最も強く念じていることが状況に実現します。
世界は心の現れに過ぎません。
あなたの体験は、抱える念に過ぎないのです。
念とは、今に有る思いです。
それは、心を支配している思いなのです。
人は心に従って思考し、心に従って行動します。
この世界には因果の仕組みが存在しているために、行為という原因は、状況という結果を導くのです。
あなたが心に念じていることが、あなたの体験する現状なのです。
しかしながら、多くの人は状況と心の繋がりを理解することができません。
自らの体験が、念によって導かれているということを受け入れることができないのです。
それは、弱いからです。
受け入れる度量が無いのです。
多くの人は、自らの体験を他人のせいにします。
苦悩の原因を他人に探します。
幸福の原因をも他人に探しているのです。
誰かによって問題が引き起こされていると考えています。
そして、誰かによって幸福が得られていると考えているのです。
幸不幸は、他人によって決められていると錯覚しているのです。
あなたは敵意の相手によって苦しんでいるのでしょうか?
好意の相手によって喜んでいるのでしょうか?
答えは単純です。
敵意の相手も、好意の相手も変わります。
敵意の相手は誰でも良く、好意の相手も誰でも良いのです。
ただ、そのような認識があるだけなのです。
あなたは念によって導かれる状況を体験しているに過ぎないのです。
あなたは、今、心に抱えている思いを体験します。
それは、心を知るためです。
心を知ることによって、あなたは自分の現状を知ることができるのです。
自分の現状を知ることによって、どう変化するか?を知ることができるのです。
多くの人は方向性を求めています。
どう生きるべきか?
どう在るべきか?
多くの人はその答えを求めているのです。
あなたがどう生きるべきか?どう在るべきか?は、目の前に導かれる状況を体験することによって理解することができるでしょう。
あなたはすべての状況から、心の現状を教えられています。
あなたは心地好く過ごせば良いのです。
何事においても、気分が晴れていれば良いのです。
心を汚さなければ良いのです。
穏やかな心持ちであることが大切です。
多くの人は状況に対して穏やかに過ごせてはいません。
それを苦悩と認識しているのであれば分かり易いでしょう。
苦悩を認識した時、あなたは不安や怒りによって心を乱しているのです。
しかしながら、理解しなければならないのは、幸福と認識している場合です。
多くの人は幸福を体験している時、穏やかな心持ちであると考えています。
しかしながら、大抵の場合、それは偽りの穏やかさに過ぎないのです。
例えば、それが他人によってもたらされる幸福であるのならば、好意の相手が別の誰かに傷付けられたり、好意の相手からの裏切り(だと思う行為)に会った途端に、穏やかな心は乱れます。
幸福だと思い込んでいたものが崩壊する時の方が、苦悩によって導かれる心の乱れよりも大きな乱れを生じるのです。
人の念は、期待から大きく外れる結果を受け取る時に強化されるのです。
あなたが他人に苦悩や幸福を依存しているのであれば、その期待は簡単に崩れ去るでしょう。
それは、あなたに強く歪んだ念を抱かせるのです。
あなたは次に、強く歪んだ念の現れである状況を受け取ることになるでしょう。
念が歪む程、人の考えは歪むのです。
あなたの念が歪む程、他人に対する依存心は強くなるのです。
あなたは、状況が念に過ぎないということを理解しましょう。
他人や自分以外の何かが原因ではありません。
すべてはあなたの思い込みに過ぎないのです。
あなたが苦しみを念じているために苦悩を受けます。
あなたが喜びを念じているために幸福を受けるのです。
ただ、それだけです。
あなたは恐れている状況を拒絶するでしょうが、その強い念が懸念を実現するということに気が付かなければなりません。
心の有り形を変えましょう。

2017年1月5日木曜日

浅はかな企み

すべての人は、己(自我意識)を抱えています。
己とは弱い心です。
大抵の場合、それが人を支配しています。
多くの人は己に従っているのです。
己に従って行動し、己に従って人生を築くのです。
人が己を離れることは簡単なことではありません。
多くの人が己の存在にすら気が付きません。
そして、己の存在に気が付いたとしても、それを手放すための条件に絶望するのです。
己を手放す条件は単純なものです。
それは、克己(こっき)することだけです。
それ以外の方法は必要ではありません。
人は己である弱い心に克(か)つことによって、その支配を切り離すことができるのです。
心を強く保ち、真(強い心)に従わなければ、己からの支配を離れることはできないのです。
この世界において、人は陰と陽の内に属します。
どのような人物であっても、陰陽の輪を離れることはできないのです。
どのような人物であっても、陰陽を所有し、その比率が異なるだけなのです。
あなたは己と真を離れることはできませんが、どちらを主体とするかを決めることはできるのです。
己は破滅的な性質を持ちます。
真は建設的な性質を持つのです。
どちらも重要な性質であり、大切なものです。
己と真を善悪によって区別することはできません。
状況に対して比率を改めなければならないのです。
多くの人が己を主体として人生を築いています。
それは破滅的な性質を所有しているために、多くの人の人生は問題で満ちています。
それは苦悩を導く結果となり、恐怖に根差す思考を導くでしょう。
恐怖に根差す思考は、浅はかな企(たくら)みを導くのです。
それは、利己的な企みであり、争いや集積を目的とするのです。
争いによって集積すれば、その樹木は苦い果実を結びます。
あなたはその果実が”毒”であることも知らずに飲み込まなければならないのです。
自らの育てた果実は、自らの口に入るということを覚えておかなければなりません。
甘いだけでは”毒”となり、苦いだけでも”毒”となります。
大切なのは、甘みと苦みの塩梅(あんばい)なのです。
強い心だけでも歪んでしまうし、弱い心だけでも歪むのです。
安全だけでは退屈を導き、危険だけでは恐怖を導くのと同じです。
安全と危険が良い塩梅で混在することによって、人は喜びを見出すことができるのです。
利己的な企みは、必ず苦悩を導きます。
例え、その企みが利他的なものであったとしても、苦悩を導く結果となるのです。
大切なのは、利己と利他の塩梅です。
あなたは自分のためだけに人生を選択してはなりませんが、他者のためだけに人生を選択してもなりません。
あなたは必ず、自分のためと他者のために人生を選択するようにしましょう。
その選択によって、あなたが喜べなければなりません。
そして、同時に他者が喜べなければならないのです。
バランスの欠いた企みは、決して満足のいく結果を導くことはありません。
陰陽のバランスによって深みが得られます。
光だけでも、影だけでも、深みは得られません。
光と影のバランスによって深みが得られるのです。
しかしながら、この世界においては、利己的で浅はかな企みも成就(じょうじゅ)してしまいます。
この世界においては、すべてが許されているのです。
あなたが思い描くことはどのようなことも実現します。
しかしながら、その企みが実現した後には、責任が伸し掛かるでしょう。
人生においては、自分の選択した結果を受け取ることができます。
それが人生の目的でもあるのです。
あなたは受け取った結果によって、塩梅を改めましょう。
己と真のバランスを考えるのです。
浅はかな企みを手放しましょう。

2017年1月4日水曜日

内的矛盾の発見

すべての人は未熟さを抱えています。
すべての人が未熟であることが自然です。
すべての人が未熟であるために、変化を受け入れなければなりません。
未熟さを克服し、成長し続けることが人生の目的であり、あなたの喜びであるのです。
すべての人は自分なりの喜びを求めています。
それがどのような形の喜びであれ、それを実現するために必要な条件が存在しています。
喜びを実現するための条件とは、それに相応しい成長のことなのです。
あなたがどのような喜びを求めていたとしても、未熟さを克服することによって成長を実現しなければ、それを手にすることは出来ないのです。
すべての人は成長する必要があります。
成長するためには、自らの現状を理解する必要があります。
現状を理解することがなければ、未熟さの形が見えません。
未熟さの形を理解することがなければ、成長する方法を理解することは出来ないのです。
未熟さを抱えている者が成長するためには、未熟さを認める必要があります。
未熟さとは現状のことです。
あなたが喜びを求め、そのために成長を求めているのであれば、自らの現状を受け入れなければならないのです。
現状を受け入れることなく、現状の形を変化させることは出来ません。
自分の現在位置が分からなければ、道程は分からないのです。
多くの人は自らの未熟さを認めることが出来ません。
それは、恐れを抱いているからです。
恐れを抱いているために、自らの未熟さを認めることが恐いのです。
多くの人は喜びを欲していながら、自らの未熟さを認めることが出来ません。
それは、喜びを手にするためには自らの未熟さを認める必要があるという条件に矛盾します。
このような矛盾を抱えたままでは、決して喜びを手にすることは出来ませんが、そのことには気が付きません。
多くの人は矛盾を抱えたままで喜びを求めるために、求めても喜びを手にすることが出来ないのです。
喜びを手にすることが出来ずに悲観する者もあれば、憤慨(ふんがい)する者もあります。
どのように振る舞おうとも、矛盾を抱えたままでは決して喜びを手にすることは出来ないのです。
あなたが喜びを求めても手にすることが出来ないと感じるのであれば、自らの自尊心について考察してみましょう。
多くの人は自尊心によって自らの未熟さを認めることが出来ません。
自尊心も、恐れを隠すための虚勢(きょせい)に過ぎません。
恐れている者が喜べるはずがないのです。
自らの未熟さを認めることがなければ、自らの抱える矛盾に気が付くことは出来ません。
あなたがすべきことは、自らの未熟さを認めることです。
あなたにはそれ以外に出来ることなどないのです。
あなたが自らの未熟さを認めるのであれば、最善の方法は自然と見付かります。
自尊心によって未熟さを否定しているのであれば、あなたは決して抱えている矛盾を発見することは出来ないのです。
特別なことをする必要はありません。
ただ、自らの未熟さを認めるのです。
誰にでも出来ることです。
それは今すぐに、どこであっても可能です。
言い訳をやめてみましょう。
そうすれば、あなたは自らの実力を思い知ることが出来るでしょう。
自らの実力を自尊心から切り離し、実像を認めなければならないのです。
そうすれば、あなたは自らの実力が未熟であることに気が付くことが出来るでしょう。
自らの内に矛盾を発見することは、その矛盾を解体することに繋がります。
発見された矛盾は、今までのように隠れることは出来ないのです。
それは、あなたが矛盾に苦しむからです。
内的矛盾を苦しまない者はいません。
内的矛盾を発見したあなたは、その苦しみに耐えることが出来ないのです。
あなたはそれをどうにか解決しようと努めるでしょう。
それは小さな積み重ねであるでしょうが、確実に矛盾を解体するのです。
内的矛盾が解体された時、あなたは成長を実感し、喜びを手にしているでしょう。
内的矛盾を解体することなく覚える喜びは、矛盾を抱えた喜びであることを知りましょう。
あなたが成長する時、内的矛盾を抱えることのない喜びを見出すことができます。
それは何度も繰り返される作業ですが、諦めることなく続けましょう。
あなたは、自らの未熟さを知って、より良い喜びを探しましょう。

2017年1月3日火曜日

純粋な人生

人にはそれぞれに学ぶべきことがあります。
人はそれぞれの学ぶべきことのために人生を経験しているのです。
人は、それぞれの学ぶべきことを経験する必要があり、学ぶべきことを経験すればそれで良いのです。
それは、学ぶべきことを学ぶことが目的であるからです。
多くの人は、人が学ぶべきことを所有していることを知りません。
自分が学ぶべきことと、他者が学ぶべきことを知りません。
自分が何を学んでおり、他者が何を学んでいるかを知らないのです。
そのために、その両者を混同しているのです。
多くの人は自分の学びと他者の学びを錯覚します。
自分の学びと他者の学びを錯覚する者は、他者を自分として見ることになるのです。
他者を自分として錯覚する時、自分の学ぶべきことを押し付けることで、他者の学ぶべきことを蔑(ないがし)ろにするのです。
それは困ったことに、無意識の内に行われるのです。
あなたの学ぶべきことを他者が学ぶ必要はありません。
他者の学ぶべきことをあなたが学ぶ必要もないのです。
人生はそれぞれが自分の学ぶべきことを経験する場所であり時間です。
それ以外には必要なことはないのです。
多くの人は、恐れを抱いています。
恐れは他者への関心を導きます。
他者に関心を抱くことによって、他者を自分と同一視します。
それは他者を仲間に引き込もうとする行為を導くのです。
人は他者を仲間にすることによって恐れを軽減しようとしているのです。
人が他者に理解を求め、自分の学ぶべきことを押し付けるのは、恐れを抱いているからなのです。
人が恐れを手放した時には、自分と他者の学ぶべきことを混同することはなくなります。
それは、他者の学ぶべきことを許すことができるようになるということなのです。
自分と他者の学ぶべきことを混同しないためには、他者の学ぶべきことを容認する必要があるのです。
他者の学ぶべきことを容認することが、自分と他者の学ぶべきことを分離することなのです。
他者を許すことが出来なければ、他者に対する依存心を手放すことはできません。
他者を容認することが出来ない人は、他者に依存しているのです。
それも、無意識の内に行われるのです。
本人には、依存しているという自覚はありません。
自覚することなく依存しているために問題は根深いのです。
あなたは他者を容認しなければなりません。
他者の人生を妨げてはならないのです。
他者に依存することによって、自分の人生をも妨げているということに気が付かなければならないのです。
あなたには、他者の学ぶべきことを学んでいる暇はありません。
他者のことを気に掛けている訳にはいかないのです。
あなたにはあなたの学ぶべきことがあります。
他者の人生に口を出すものではないのです。
他者が苦しみを学ぶべきであるのならば、それを学ばせてやるのです。
例えば、過保護な親のように、子どもに苦しみを経験させたくない一心で、それを取り上げてはならないのです。
子どもは苦しみであっても学ぶべきなのです。
学ぶべき苦しみを経験することが出来なかった子どもは、学びが不足するために成長することが出来ないのです。
あなたが豊かな人生を望んでいるのであれば、学びが不足しても、学びを不足させてもいけません。
学ぶべきことはそれぞれの人の目の前に存在しているのです。
あなたはそれを取り上げてはなりません。
学ぶべきことを取り上げるということは、自分と他者の歩むべき道を取り上げるということなのです。
歩むべき道を歩まずに豊かさに到達することは出来ないのです。
人はそれぞれに違う目的地があるのです。
人がそれぞれの寝台へ帰るように、それぞれの目的地へ帰るのです。
人は独りで産まれ、独りで生きて、独りで死んでいくのです。
あなたは孤独です。
他者も孤独なのです。
それが理(ことわり)なのです。
他者を許し、手放しましょう。
そして、純粋な人生を得るのです。





2017年1月2日月曜日

信念という重荷

すべての人は信念を所有しています。
どのような人物にも信じる価値観が存在し、それに従って人生を選択するのです。
多くの人は自らの信念を離れることができません。
強く信じた価値観を手放すことができないのです。
そのため、状況に対して明らかに通用しない価値観をいつまでも引き摺(ず)っているのです。
状況に対して通用しない価値観は重荷となります。
それはあなたを苦しめるための用途はあっても、あなたを喜ばせるための用途はありません。
状況に対して通用しない価値観は、人に苦悩を導くのです。
多くの人は、自らの信念が状況に対して通用しない状態にあっても、それに気が付きません。
それは、美化と正当化によって実像を覆い隠してしまうからです。
自分でも、自らの実像と状況に矛盾が生じていることを見失っているのです。
すべての人の信念は未熟であり、歪んでいます。
それは決して完全な姿ではありません。
完全な姿でないということは、変化しなければならないということです。
変化するためには、執着を手放す必要があるのです。
それはいつまでも、自らの信念にしがみ付いていてはならないということです。
残念ながら、信念は過去の情報によって構成されています。
あなたの信念は、過去の経験によって構築されたものなのです。
過去の成功と失敗が信念の本質です。
多くの人の場合、それは反発心から導き出されるのです。
過去の成功と失敗に対する反動によって信念が構築されるのです。
信念に従うのであれば、無意識の内に過去を生きることになるでしょう。
過去を生きるということは、繰り返しを生きるということなのです。
そこには豊かさは存在しないのです。
同じことを繰り返すのであれば、消耗するだけだからです。
大切なのは”今”に生きることです。
そして、”今”に生きることができれば、過去と現在と未来という全体を生きることができるのです。
それは、執着を手放す行為です。
全体性を持つのであれば、過去を生きるように個別への執着は必要ではなくなるのです。
信念に執着するのであれば、全体性を失います。
例えば、信念によって人は正義に執着します。
正義に執着するということは、相対的に悪を作り出すということなのです。
正義を掲げている人は悪を敵とするでしょう。
敵を作り続け、それと争い続けることは、破滅的な選択だと言えるのです。
それは消耗を実現し、あなたは苦悩を生きることになるでしょう。
そのような信念が豊かさを導くことはないのです。
人は信念に執着します。
あなたは自らの信念を大切に思うでしょう。
多くの人は自らの信念を特別なものだと思い込んでいるのです。
しかしながら、どのような信念も決して特別なものではありません。
どのような信念も、それが偏見でしかないことを理解する必要があるでしょう。
あなたは信念が歪みであることに気が付かなければなりません。
そして、信念に執着する自分に気が付かなければならないのです。
あなたはいつでも信念を手放す必要があります。
あなたはいつでも、信念を手放さなければならないのです。
あなたは信念を超えて考えましょう。
”今”を過去の投影としてはならないのです。
”今”を生きる人に信念は必要ではありません。
”今”を生きる人には、過去の成功と失敗は関係ないのです。
”今”を生きる人は、特定の何かを必要とはしません。
”今”を生きる人にとっては、目の前の状況こそがすべてなのです。
信念とは過去の自分です。
あなたは自分を超えて考えましょう。
既成概念に捕らわれてはなりません。
あなたは新しく始めなければならないのです。
恐れを抱く人にとっては、信念という支えが必要です。
恐れを抱かない人にとっては、信念という支えは必要ではないのです。
”今”を生きる人は、すべてを信じています。
そして、”今”を生きる人は、何も信じてはいないのです。
これを矛盾だと思うのであれば、あなたは信念を掲げている人であるでしょう。
信念を手放すのであれば、あなたはすべてを信じ、同時に何も信じない状態を実現するでしょう。
そこに自由が存在することを、今のあなたは知らないでしょう。