人は、多くのものを分離して考えています。
	人は、それぞれの形や性質に応じて、それぞれを分類しているのです。
	それは、それぞれの間に隔たりを置く思考を形成します。
	それは、支離滅裂(しりめつれつ)な状況を導くでしょう。
	それぞれを分離する思考は矛盾を抱えます。
	それぞれを分離する思考は、敵対関係を生み出すからです。
	この世界においての相反する関係は、矛盾でしかないのです。
	あなたが深く世界を眺めた時には、”すべては一つ”であることを理解することができるでしょう。
	何一つとして、分離している存在はありません。
	相容(あいい)れないように見えるものであっても、それよりも深いレベル(別の方法)によっては共存しているのです。
	この世界におけるすべての存在は一つなのです。
	相反するものなど存在しないのです。
	表面的、部分的に観察すれば、世界は敵対関係を築きます。
	例えば、あなたが生物を殺し、それを食物とするのを表面的、部分的に観察するのであれば、食う者と食われる者という敵対関係が導かれるのです。
	一部を切り取ってしまえば殺し合いです。
	しかしながら、全体を観察するのであれば、自然界の営みなのです。
	全体的に観察すれば、あなたが生物を殺すことは、自然界を豊かにする行為なのです。
	勿論、それはあなたが全体性を所有して、自然界に参加している場合です。
	物事を分離して考えている人の自然界への参加は、自然界に敵対関係を持ち込む結果となるのです。
	例えば、自分に害を成すと考える生物(害虫や害獣など)を殺すことは、自然界の豊かさには繋がりません。
	他の生物を殺すことが悪ということではありません。
	物事を分離して考えているのであれば、その行為は乏しさを導くということを言いたいのです。
	恐怖によって害を成すと考える存在を排除していくのであれば、そこには必ず矛盾が生じるのです。
	それは、”すべては一つ”という原理から外れることになるからです。
	未熟な心は、物事を分離して考えます。
	それぞれを隔てて考えるために、全体性を理解することができません。
	大人が子どもに教育を施(ほどこ)す時、子どもには見えていない視点によってそれを行うはずです。
	大人は、子どもに(自分の知っている)全体性を教えているのです。
	子どもにはそれが理解できないために困惑するのです。
	しかしながら、経験を重ねて成長することによって、大人の教えようとしたことの意味を理解することができるようになっていきます。
	それは、分離して考えていたそれぞれのものの繋がりを認識したからに他なりません。
	それぞれの繋がりを見出すことが成長です。
	視野を広げ、全体性を高めることが成長なのです。
	成長の乏しい人には、それぞれの繋がりを理解することができません。
	そのため、害を成す生物を無闇に殺すように、状況に対して争いを持ち込むのです。
	全体性を理解せず、何かに対して敵対関係を結んでいる人は、自らの抱える矛盾に苦しむことになるでしょう。
	外の世界には矛盾は存在していません。
	外の世界には苦しみはないのです。
	それを苦しみとしているのは、物事を分離して考える思考なのです。
	物事を分離して考えなければ苦しみは消え去ります。
	簡単なことなのです。
	この世界には様々な形や性質が存在しています。
	それ等は全体性をそれぞれに分離した状態です。
	それぞれに”力”が分け与えられたのです。
	”すべては一つ”という状態こそが、力を集結させて全体性を取り戻した状態なのです。
	人は、様々な形や性質を組み合わせることによって、大きな力を得たのです。
	鉄材や木材や石材などの形や性質。
	火、水、風、電気、磁気、摩擦などの形や性質。
	様々な形や性質を持つ存在を融合(共存)させることによって、大きな力を得たのです。
	分離して考えるのであれば、大きな力を得ることはできないのです。
	分離して考えるのであれば、暗闇を照らす懐中電灯すら手にすることはできないのです。
	あなたが人生に苦しみを抱き、その道のりが暗闇の中にあるのならば、物事を分離して考えることをやめてみましょう。
	すべてが一つの力なのです。
	ただそれが、それぞれの形や性質を得ているに過ぎません。
	どのような存在にも敵対する必要はありません。
	全体性によって世界を観察しなければなりません。
	敵はいません。
	苦しみもありません。
	この世界には何も存在せず、すべてが存在することを知りましょう。
	
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