あなたは、常識を疑わなければなりません。
	当たり前のことを当たり前としてはなりません。
	どのようなことにも疑いを持ち、その真意を確かめなければなりません。
	これはあなたの人生なのです。
	人は、それぞれの人生を所有しています。
	人生の数だけ心の真実が存在するのです。
	あなたの真実と他者の真実は必ずしも一致するということはありません。
	それは、それぞれの人生の目的が違うからです。
	目的が違えば、真実も異なるのです。
	多くの人は、それぞれの人生の目的を混同しています。
	そのため、常識や当たり前のことを鵜呑(うの)みにすることを許しているのです。
	残念ながら、あなたの必要と他者の必要は違います。
	他者にとっての常識や当たり前のことは、あなたには通用しない可能性が高いのです。
	多くの場合、常識や当たり前のことはあなたの役には立ちません。
	あなたは、あなたの人生の目的を果たさなければならないからです。
	他者は他者の人生の目的を果たさなければなりません。
	それは、幹から分かれた枝のように、それぞれの形を成すのです。
	常識や当たり前のこととは、根幹として重要なものですが、枝として成長しなければならないあなたがそれに捕らわれていてはならないのです。
	あなたは自分の人生の目的を果たす必要があるのです。
	枝は枝としての役割を果たさなければならないのです。
	根幹は大切ですが、自分とそれを混同してはならないのです。
	疑う姿勢を持たない者は、自分が枝であることを見失います。
	そこに矛盾が生じるのです。
	枝の仕事と幹の仕事は異なります。
	枝が幹のように振る舞うということは、枝としての役割を疎(おろそ)かにするということなのです。
	それは、自らの人生の目的を疎かにする行為であり、そこに豊かさを導くことはできません。
	枝は枝として、葉を茂らせ、花を咲かし、果実を付けるのです。
	幹のように太る枝は、その重みに耐え切れずに折れて地に伏(ふ)すでしょう。
	自らの役割を見失う者は、滅びを得るということを覚えておかなければならないのです。
	常識や当たり前のことを疑わず、それを鵜呑みにしているのであれば、あなたは自らの人生の目的を見失うことになります。
	あなたは常識に従うために生まれたのではありません。
	あなたは当たり前のことをするためにここにいるのではないのです。
	あなたはあなたの課題と向き合うために生まれ、ここにいるのです。
	あなたの課題と常識とは異なります。
	あなたは自らの歪みと向き合い、それを克服する必要があるのです。
	歪みとは未熟さです。
	例えば、あなたの苦しみは未熟さであり、歪みなのです。
	それを克服するのです。
	常識や当たり前のことを鵜呑みにしていれば、苦しみを否定し、そこから逃避するようになるでしょう。
	常識や当たり前のことを鵜呑みにしていれば、あなたが自らの歪みと向き合うことはできないのです。
	枝の役割は、枝の方法によって果たすことができます。
	あなたの人生の目的は、あなたの方法によってのみ果たすことができるのです。
	常識や当たり前のことを疑ってみましょう。
	そうすれば、苦しみに向き合うことの重要性が理解できるはずです。
	寒風に晒(さら)されなければ花を咲かすことができない枝があるのです。
	人は苦しみによって成長することができます。
	苦しみに会わなければ、浅はかな人と成るのです。
	苦しみに会えば、常識や当たり前の形は変わります。
	人は苦しみによって知恵を増すのです。
	人は苦しみによって器を育てるでしょう。
	暗闇の深さによって、光の明るさが変わります。
	暗闇が深い程に、光は明るさを増すのです。
	苦しみが深い程、知恵は輝きます。
	苦しみを否定し、そこから逃避してきた人の知恵の輝きを見ましょう。
	それは、日差しの中で見る蝋燭(ろうそく)の火のようです。
	それは、見えません。
	苦しみを受け入れ、それに向き合ってきた人の知恵の輝きは、宇宙に輝く太陽のようです。
	常識や当たり前の考えは、あなたを弱くするでしょう。
	疑わなければなりません。
	あなたは苦しみに向き合うのです。
	苦しみを受け入れなければなりません。
	苦しみの大きさによって、知恵の大きさが決まります。
	浅はかに生きてはなりません。
	軽薄(けいはく)な人格で生きてはならないのです。
	苦しみを大切にしましょう。
	そうすれば、苦しみは即座に喜びに変わるでしょう。
	
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