人にはそれぞれに学ぶべきことがあります。
	
	
	
	
	
	
	人はそれぞれの学ぶべきことのために人生を経験しているのです。
	人は、それぞれの学ぶべきことを経験する必要があり、学ぶべきことを経験すればそれで良いのです。
	それは、学ぶべきことを学ぶことが目的であるからです。
	多くの人は、人が学ぶべきことを所有していることを知りません。
	自分が学ぶべきことと、他者が学ぶべきことを知りません。
	自分が何を学んでおり、他者が何を学んでいるかを知らないのです。
	そのために、その両者を混同しているのです。
	多くの人は自分の学びと他者の学びを錯覚します。
	自分の学びと他者の学びを錯覚する者は、他者を自分として見ることになるのです。
	他者を自分として錯覚する時、自分の学ぶべきことを押し付けることで、他者の学ぶべきことを蔑(ないがし)ろにするのです。
	それは困ったことに、無意識の内に行われるのです。
	あなたの学ぶべきことを他者が学ぶ必要はありません。
	他者の学ぶべきことをあなたが学ぶ必要もないのです。
	人生はそれぞれが自分の学ぶべきことを経験する場所であり時間です。
	それ以外には必要なことはないのです。
	多くの人は、恐れを抱いています。
	恐れは他者への関心を導きます。
	他者に関心を抱くことによって、他者を自分と同一視します。
	それは他者を仲間に引き込もうとする行為を導くのです。
	人は他者を仲間にすることによって恐れを軽減しようとしているのです。
	人が他者に理解を求め、自分の学ぶべきことを押し付けるのは、恐れを抱いているからなのです。
	人が恐れを手放した時には、自分と他者の学ぶべきことを混同することはなくなります。
	それは、他者の学ぶべきことを許すことができるようになるということなのです。
	自分と他者の学ぶべきことを混同しないためには、他者の学ぶべきことを容認する必要があるのです。
	他者の学ぶべきことを容認することが、自分と他者の学ぶべきことを分離することなのです。
	他者を許すことが出来なければ、他者に対する依存心を手放すことはできません。
	他者を容認することが出来ない人は、他者に依存しているのです。
	それも、無意識の内に行われるのです。
	本人には、依存しているという自覚はありません。
	自覚することなく依存しているために問題は根深いのです。
	あなたは他者を容認しなければなりません。
	他者の人生を妨げてはならないのです。
	他者に依存することによって、自分の人生をも妨げているということに気が付かなければならないのです。
	あなたには、他者の学ぶべきことを学んでいる暇はありません。
	他者のことを気に掛けている訳にはいかないのです。
	あなたにはあなたの学ぶべきことがあります。
	他者の人生に口を出すものではないのです。
	他者が苦しみを学ぶべきであるのならば、それを学ばせてやるのです。
	例えば、過保護な親のように、子どもに苦しみを経験させたくない一心で、それを取り上げてはならないのです。
	子どもは苦しみであっても学ぶべきなのです。
	学ぶべき苦しみを経験することが出来なかった子どもは、学びが不足するために成長することが出来ないのです。
	あなたが豊かな人生を望んでいるのであれば、学びが不足しても、学びを不足させてもいけません。
	学ぶべきことはそれぞれの人の目の前に存在しているのです。
	あなたはそれを取り上げてはなりません。
	学ぶべきことを取り上げるということは、自分と他者の歩むべき道を取り上げるということなのです。
	歩むべき道を歩まずに豊かさに到達することは出来ないのです。
	人はそれぞれに違う目的地があるのです。
	人がそれぞれの寝台へ帰るように、それぞれの目的地へ帰るのです。
	人は独りで産まれ、独りで生きて、独りで死んでいくのです。
	あなたは孤独です。
	他者も孤独なのです。
	それが理(ことわり)なのです。
	他者を許し、手放しましょう。
	そして、純粋な人生を得るのです。
	
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