多くの人は世の中を喜びます。
	多くの人は、世に属することによって幸福を見出します。
	多くの人にとって、この世は幸いです。
	多くの人にとって、この世は尊(とうと)いのです。
	多くの人は、世の中に満足を探すでしょう。
	彼方(かなた)に幸福が存在していると聞けば、何処(どこ)までも行くでしょう。
	また、目の前のそれが幸福だと教われば、それを幸福と信じるでしょう。
	多くの人は世の中に幸福を探し求めているのです。
	そして、多くの人は世の中に存在しているものの内から、幸福を見付け出すでしょう。
	しかしながら、多くの人の見出した幸福は幻想に過ぎません。
	なぜなら、その幸福も一時のものに過ぎないからです。
	世の中に存在するものは必ず腐敗します。
	世の中に存在するものすべてが変化し続けているのです。
	世の中に存在するもので、変化を避けられるものは存在しません。
	あなたが世の中に存在するものに幸福を見出したのであれば、それを見出した時と同じように、別の対象にそれを見出すでしょう。
	世の中は繰り返します。
	世にあって、繰り返さないものはありません。
	世の中は、ただ繰り返しているものだと知るのであれば、そこに価値を見出そうとはしないでしょう。
	世の中は己によって築かれています。
	己とは、弱い心です。
	それは、恐怖に根差します。
	己は不安や心配を拠(よ)り所とします。
	あなたは世の中を見ましょう。
	そうすれば、そのすべてが不安や心配を拠り所としていることを理解することができるでしょう。
	世の中は、恐怖によって形成されているのです。
	恐怖を抱くことによって、人は世に根差すでしょう。
	恐怖を失えば、それは己を離れるということです。
	己を手放せば、世の中に価値を見出すことはできないでしょう。
	己によって生存し続けてきた人物には、それが悪いことのように映ります。
	世の中に価値を見出し、幸福を探すことが正義だと思い込んでいるのです。
	それは、そのように教わったからです。
	また、周囲の人たちがそのように振舞っているからです。
	異端者は不義なのでしょうか?
	残念ながら、異端者こそが新たな価値を創出する力を持つのです。
	信念は、人を執着の虜(とりこ)にします。
	世の中の価値を信じて疑うことのない人物には、それ以上の価値を創出することはできません。
	自分を世の中の正統派だと信じる者たちは、生存の欲求を満たすことだけで人生を使い切ります。
	例えば、財産を出来るだけ多く所有すること、満足するだけ食物を口に運ぶこと、他人やその肉体を所有物とすること・・・
	世の中を貪(むさぼ)ることが目的となっているのです。
	それを喜びと広言するでしょう。
	あなたはすぐに世の中を離れます。
	あなたはすぐに世の中のすべてを手放さなければならないのです。
	あなたはすぐに死を迎えるのです。
	すぐに死を迎えるのに、どうして世の中のものに価値があるのでしょうか?
	それは、恐れているからに他なりません。
	己は、無知です。
	無知による見解は必ず濁(にご)ります。
	世の中の多くの人の目は濁っています。
	そのため、価値の少ないものを価値と見るのです。
	知恵によって視界は澄(す)みます。
	知恵とは、無知を克服した状態です。
	知恵は人を真にします。
	真とは、強い心です。
	それは恐怖に根差すことなく、豊かさと共に存在するのです。
	真によって、人は世の中を見極めるでしょう。
	そうすれば、世の中に価値を求めることはなくなります。
	それは決して、世を嫌うことではありません。
	世の中の在り方を認め、それを許すことができるのです。
	真は世の中が歪んでいることを承知しています。
	そのため、世の中を喜ぶ多くの人のようには振る舞いません。
	真の人は、世の中にではなく、自らの内に喜びを見出すでしょう。
	それは、世の中がどのように変化しようとも変わることがありません。
	どのような時代、どのような環境、どのような状況においても変わることのない価値がそこにあるのです。
	あなたが世の中を尊ぶことができないとしても、それを憂(うれ)う必要はありません。
	寧(むし)ろ、それは健全なことだと理解しなければなりません。
	無知よりも知恵の方が健全であることは自然なことなのです。
	
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