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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年2月28日火曜日

幸せには意味が無い

人生の目的とは、成長することにあります。
人は、人生において、成長を目指しているのです。
成長とは、誤解と矛盾を手放すことです。
誤解と矛盾を手放すことによって、あなたは成長を実現することができるのです。
それは、積み減らす作業であり、積み重ねることは結果として現れるでしょう。
あなたは意識して積み重ねる必要はありません。
誤解と矛盾を取り除いていけば、結果的に積み重ねることになるのです。
多くの人は、幸せを求めています。
多くの人の幸せとは、多くを積み重ねることによって実現する財産です。
何かを積み重ねることによって築かれる”何か”を幸せと呼ぶのです。
多くの財産を所有することを幸せと呼ぶでしょう。
多くの友人と関わることを幸せと呼ぶでしょう。
家族との時間を積み重ねることを幸せと呼ぶでしょう。
恋人との経験を積み重ねることを幸せと呼ぶでしょう。
何かを積み重ねることを幸せと呼ぶのです。
多くの人の考える幸せには、際限がありません。
それは、大きい程優れているのです。
多くの人の幸せとは、程度が甚(はなは)だしい程に褒められるのです。
この世界に何かを積み重ねたところで、あなたが本当に満たされることはありません。
幸せに際限がなければ、何を積み重ねたとしても、満足には至らないのです。
あなたが誤解と矛盾を抱えている間は、本当の意味で満足することはできません。
すべての人が幸せを求めていますが、多くの人が幸せにはなれません。
幸せが何かを積み重ねるという考えに縛られている間は、積み重ねることはできないのです。
人は積み減らすことによって、本当の意味で積み重ねることができるのです。
誤解や矛盾を積み重ねるのであれば、どのような石垣も崩れてしまうのです。
誤解や矛盾を手放し、知恵を積み重ねるのであれば、その石垣は堅固なものとなるのです。
何を積み重ねるのか?ということが重要なのです。
誤解や矛盾を抱えたままで積み重ねるのであれば、その時は良く見えても、後に悪くなるでしょう。
知恵によって積み重ねることがなければ、却(かえ)って悪くなるということを覚えておきましょう。
そのために、ただ積み重ねることに終始するのではなく、どう積み重ねるのか?ということを考える必要があるのです。
知恵を以て積み重ねることがなければ、結果は必ず悪くなります。
多くの人は恐怖を有し、積み重ねることを焦るのです。
その技は粗雑(そざつ)であり、価値を導くことはできないのです。
多くの人が恐怖によって、幸せを焦ります。
多くの人が幸せになろうと尽力しているのです。
その結果として、積み重ねたものが脆(もろ)くも崩れ去るのです。
あなたは、幸せには意味がないということを知りましょう。
多くの人が幸せを求めています。
しかしながら、幸せになる必要などないのです。
幸せには価値などありません。
例え、不幸であったとしても、人生には価値があるのです。
幸せとは、誤解と矛盾を所有する不自然で未熟な自分の理想であり、それは幻想に過ぎないのです。
現在の幸せとは、後の不幸です。
幼い頃の幸せの形は、現在の幸せの形とは異なっているはずです。
誤解と矛盾が取り除かれるのであれば、幸せの形は変わるのです。
焦りを以て幸せを求めたとしても、それは後悔を導くに過ぎないのです。
積み重ねることに終始してはなりません。
あなたが行うべきは、自らの成長です。
人生は自分に相応しいものだけが導かれるのです。
あなたが積み重ねることができるのは、自分に相応しいものだけです。
あなたの幸せは、あなたにとっての相応しい形なのです。
自分のレベル以上の幸せを手にすることはできません。
焦って積み重ねたとしても、意味がないのです。
幸せになることに意味はありません。
幸せになりたいという抽象的な願望は手放すことです。
どのような自分に成りたいのか?
どのような人生を生きたいのか?
そのように考えて、自らを改めるのです。
成長することに意味があるのであって、幸せになることには意味がないということを覚えておきましょう。

2017年2月27日月曜日

心の過剰

あなたは、心に従う以外に方法はありません。
心に従う以外には、その苦しみを取り除くことはできないのです。
すべての人が苦しみを受けます。
すべての心は苦しむのです。
それは、心にとっては必要な作業です。
すべての心が不自然な状態にあります。
それは、誤解と矛盾に満ちているのです。
すべての心は歪(いびつ)に膨(ふく)れ、過剰によって苦しむのです。
心は過剰によって誤解します。
余計な考えを所有しているのです。
心は過剰によって矛盾します。
余計な憶測が理想を生み出し、心を現実から引き離します。
あなたが行うべきは、過剰を取り除く作業です。
あなたは心に向き合うことによって、過剰を取り除かなければならないのです。
未熟者は、その動作に無駄があります。
それは、技に不慣れだからです。
未熟者も技を磨くことによって、その動作からは無駄が取り除かれます。
成熟した者の技は単純なのです。
単純であるからこそ、最短、最速の最高の技なのです。
未熟者の技は複雑で無駄が多く、最短でもなければ、最速でもありません。
無駄の多い技に力は無いのです。
技の高まりは、無駄を取り除くことによって実現するのです。
それは、豊かな人生が、単純な心によって実現するのと同じです。
人は、余計な思考を抱えているのです。
打算は誤算であるということを覚えておかなければならないでしょう。
過剰によって、心は歪に膨れています。
強欲が心に付着しているのです。
それによって、心は重たくなるのです。
あなたはそれを取り除かなければならないのです。
心の過剰を取り除くためには、それと向き合う必要があります。
多くの人は心の過剰から逃れようとしますが、それでは取り除くことにはなりません。
向き合うことによって何が過剰であるのかを認識し、それを愚かしいと認識することです。
それ以上の方法は必要ではありません。
自らの抱える心の過剰を愚鈍(ぐどん)だと知れば、過剰には頼らなくなるでしょう。
使わなければ衰(おとろ)えます。
衰えれば、やがて剥(は)がれ落ちるのです。
心の過剰を取り除くのに、苦行は必要ではありません。
欲求があるのならば、その欲求に従ってやれば良いのです。
心に従うことによって、あなたは心の過剰と向き合うことができるのです。
空腹を得れば、腹一杯に食えば良いのです。
そうすれば、苦しみに会うでしょう。
苦しみに会えば、腹一杯に食うことの愚かしさに気が付くのです。
そうすれば、腹一杯に食うことをしなくなるのです。
空腹を我慢すれば、満腹への憧れが増します。
それは、心に新たな過剰を積むことになるのです。
あなたの目的は取り除くことにあります。
そのためには、心に従うのです。
目的を果たすためには、与えることです。
空腹には満足するまで食物を与えれば良いのです。
そうすれば、腹が満腹を欲することもなくなるでしょう。
どのような欲にも必ず限度があります。
限度を過ぎれば、すべてが苦しみとなるのです。
限度を超えて苦しめば、それを避けるようになるでしょう。
心に従えば、あなたは必ず苦しむのです。
しかし、それで良いということを覚えておかなければなりません。
苦しみによって、心の過剰を取り除くのです。
目的を見失ってはなりません。

2017年2月26日日曜日

自分がどう思うか?

人生とは、それぞれの大切な経験です。
人は、それぞれの人生を経験しなければならないのです。
人生の目的は、それぞれに違っています。
誰一人として、同じ目的のために人生を経験している者は存在しないのです。
これはあなたの人生です。
親兄弟であろうとも、あなたの人生には関係しないのです。
誰であろうとも、あなたの人生を生きることはできません。
この世界において、あなたの人生を生きることができるのは、あなただけなのです。
他の誰もが、あなたの人生を生きることを許されないのです。
そのため、あなたは自分で決めなければなりません。
あなたは自分で、どう生きるのか?を決める必要があるのです。
あなたの人生の決定権は、あなたにだけ任されているのです。
あなたは自分でどう生きるのか?を決めなければならないということを覚えておきましょう。
他者がどう思うか?よりも、自分がどう思うか?ということの方が重要なのです。
多くの人は、それが自分の人生であるにもかかわらず、他者の顔色を伺(うかが)い、その決定権を譲渡(じょうと)することを厭(いと)いません。
多くの人は、自らの人生に、関係の無い他者を押し入らせているのです。
他者があなたの人生の決定を許されているのであれば、それも価値を生むでしょう。
しかしながら、他者があなたの人生に介入したところで、他者には何の権限も与えられはしないのです。
寧(むし)ろ、他者は、あなたの人生に介入することによってリスクを負うことになるのです。
それは、他者の権限を奪い、自らの人生を放棄するという行為に繋がるからです。
良かれと思い行われることであっても、それが最善の結果を導くとは限りません。
他者の人生に介入するということは、大きなリスクを伴うということを覚えておかなければならないでしょう。
あなたは他者の人生に介入し、それを導こうなどと考えてはなりません。
すべての人生は、その人の必要な経験に向かって進んでいるのです。
他者の介入は、例えそれが善意であろうとも、その人の必要な経験を奪う行為となるのです。
それは、他者を助けるどころか、他者を苦しめるという結果を導くのです。
どのような他者も、自分の人生の通りすがりの人に過ぎません。
母であろうが、父であろうが同じことです。
人生という観点で見れば、すべての人は他者なのです。
多くの人は他者の顔色を伺います。
特に、家族の顔色を伺うのです。
他者がどのように思おうとも、あなたには関係のないことです。
あなたは、自分がどう思うか?と考えましょう。
周囲の他者が反対しても、自分がそれを行いたいと思えば、行うように尽力すれば良いのです。
周囲の他者が賛成しても、自分がそれを行いたくないと思えば、行わないように尽力するのです。
人生には正解は存在しません。
模範(もはん)など、どこにも存在しないのです。
あなたはあなただけの人生を生きなければなりません。
あなたの人生は、前代未聞なのです。
前例が無いということを知りましょう。
そのため、自分で決定する以外に方法はないのです。
誰かに頼っても、前例が無いために答えることができないのです。
誰かに決めてもらおうとしても無駄なことです。
そこには苦しみ以外の結果は導かれないからです。
すべての人が、自分の人生を経験しなければなりません。
人生の目的とは、自分を経験することなのです。
そのため、他者がどのように思うか?ということなど、何の価値もないのです。
人生に価値のあるものといえば、自分がどう思うか?ということだけなのです。
ただし、自分勝手に振る舞えということでも、他者の気持ちを蔑(ないがし)ろにして良いということでもありません。
あなたが自分で決めたのであれば、他者が介入する隙(すき)はないということなのです。
あなたが自分で決めたのであれば、他者の顔色を伺うことも、他者を頼ることもないでしょう。
そうすれば、他者があなたを心配し、好意によって人生に介入することもなくなるでしょう。
あなたが自分で決めたのであれば、他者と争うことはなくなるのです。
人生とは、それぞれの大切な経験です。
人生の目的はそれぞれに違っています。
自分がどう思うか?
どう生きたいか?ということを大切にしましょう。

2017年2月25日土曜日

この世界においての美しさとは、陰陽の一つの姿です。
陰陽が一つに重なることによって、そこに輪郭が生まれるのです。
晦冥(かいめい)だけでは輪郭は生じません。
そこには、ただの暗闇が広がるのです。
光明だけでも輪郭は生じません。
そこには、ただの光が広がるだけなのです。
陰陽の協力によってのみ、美しさが生じるということを覚えておかなければならないでしょう。
しかしながら、多くの人は陰を嫌います。
多くの人は陰を嫌い、陽を求めるのです。
それは、土を嫌い、花を愛でるようなものです。
多くの人は花を好みます。
しかしながら、土は嫌うのです。
花を美しいと思ってはいますが、土を汚らわしく思っているのです。
植物が花を咲かせるためには、土が必要です。
それも、腐敗した土が必要なのです。
植物が花を咲かせるには、多くの栄養が必要です。
植物に必要な栄養は昆虫や微生物の糞尿にこそ存在しているのです。
植物にとっての美しい土とは、腐敗している土なのです。
植物は腐葉土から栄養を得ることによって、花を咲かせるのです。
昆虫や微生物の糞尿が花を咲かせるのです。
多くの人は花を好みますが、昆虫や微生物を好みません。
昆虫や微生物の糞尿は更に好まないのです。
そして、腐葉土を嫌うのです。
多くの人の好む土とは、昆虫や微生物の糞尿にまみれていない土だとでも言うのでしょうか?
砂漠の砂や、鉱山の石礫(せきれき)によって、植物に花を咲かせようと考えるのでしょうか?
すべての人は歪んでいます。
それは、未熟であるからです。
すべての人は、自分にとっての陰陽を所有し、その内の陰を嫌い、陽を好みます。
腐葉土を嫌う反面、花を愛でるようにです。
しかしながら、自然界においては、腐葉土と花は協力しています。
互いの存在が、美しさを実現しているのです。
腐葉土は陰ながら花を支え、花は陽を受けて腐葉土を支えているのです。
自然界は、すべてが協力関係にあるのです。
歪んでいる人の心には、そのことを理解することができません。
それは、人の心が不自然であるからです。
不自然な心には、自然の美しさを理解することはできないのです。
そのため、自分にとっての美しさを追い求めて、醜(みにく)さを咎(とが)めるのです。
美しいものだけを残し、醜いものを排斥(はいせき)します。
その結果、花は失われるのです。
不自然な心が見せるものは、不自然な美しさです。
それは決して、美しさではありません。
あなたの考えている美しさなど、決して美しさではないのです。
すべてを美しく見ることによって、美しさに気が付くことができるでしょう。
美しさと醜さを分け隔てている状態では、本当の美しさには出会えないのです。
化学肥料によって花が咲くと、自己を正当化するかも知れません。
しかしながら、そのような方法は持続不可能です。
作為には限界があるからです。
無為(むい)によって導かれる美しさだけが、無限なのです。
あなたの作為がなくても、自然界は花で彩られます。
しかし、あなたの庭は、作為が滞れば枯れてしまうでしょう。
あなたの庭が枯れた後に、自然の美しさが芽生えるのです。
この世界には、美しさが存在しています。
腐敗も美しさです。
歪んだ正義感を振りかざすような醜態(しゅうたい)を晒(さら)してはなりません。

2017年2月24日金曜日

目に見えない複雑さ

理想を掲げる人は、理想を実現したいと考えます。
理想を実現したいと考える人は、理想を実現するための計画を立てます。
計画を立てた人は、計画通りに事が運ぶことを理想とします。
理想を掲げる人は、理想を抱えるのです。
理想を掲げることは重要です。
理想を掲げることによって、人は行為と経験を得ることができるからです。
理想を掲げることがなければ、人は何の経験も得ることができないでしょう。
人は、理想のために行動し、理想のために心を働かせるのです。
理想を掲げることがなければ、行動も心の働きも乏しいものとなるでしょう。
しかしながら、理想は実現しません。
それは、思うようには実現しないのです。
理想はあなたを裏切り続けるでしょう。
あなたに把握される程、現実の動きは単純なものではないのです。
現実には、単純な様々なものが複雑に動き、絡み合っているのです。
あなたの理想がそのままの形で実現する程、現実は単純なものではないということを覚えておきましょう。
多くの人は、物事の表層を気にしています。
物事の表層は単純です。
例えば、人の浮かべる表情は単純です。
その数は筋肉の可動域に限られているのです。
しかしながら、心境は複雑なものなのです。
目に見える表層は単純であり、目に見えない深層は複雑なのです。
(本来は、単純と複雑の層は幾重にも存在し、最終的には単純です)
多くの人は、理想が実現すると考えています。
それは、物事が見たままに単純だと考えているからです。
多くの人は、目に見える部分をすべてだと考えているのです。
そのため、単純な理想は、単純な計画を立てます。
単純な理想は、単純に事が運ぶと考えるでしょう。
そして、単純に理想が実現すると思い込むのです。
しかしながら、あなたの掲げる理想は実現しません。
それは、どのような道を進むにしても、表層を過ぎれば深層に向き合うことになるからです。
深層には複雑さが存在しています。
道の始めは単純な理想と、単純な計画と、単純な考えで良かったのです。
しかしながら、道を進むためには、複雑さと向き合う必要が出てくるのです。
そこでは、今までの理想は通用しません。
そこでは、あなたは計画の変更を余儀(よぎ)なくされるのです。
多くの技術を学んだ画家ほど、単純な絵画を描き出します。
絵画を見る人にとっては、そこに多くの技術が隠されていることは隠されているのです。
多くの人は、単純な絵画を描くのに、複雑な技法は必要のないものだと思うかも知れません。
しかしながら、単純に描くからこそ、複雑な技法が必要であるのです。
技術に裏打ちされた単純でなければ、ただの雑(ざつ)となってしまうのです。
技術を以て描くのと、技術を以たずに描くのとでは、同じ題材であっても大きく異なるのです。
単純と複雑が合わさってこその価値なのです。
あなたは理想に単純さと複雑さを共生させておきましょう。
理想は実現しません。
あなたはその都度、理想を手放し、計画を立て替え、新たな理想を掲げなければならないのです。
柔軟性がなければ、古い理想の計画に固執(こしゅう)してしまうからです。
人生は単純そうに見えて複雑です。
人生は簡単そうに見えて難しいのです。
他者の技を見れば分かるでしょう。
画家は簡単に描きますが、そのように行うのは難しいのです。
簡単なものを理解するにも、難しい知恵(知識と技術)が必要です。
何も知らずに人生を行うのと、何かを知って人生を行うのでは違う結果をもたらすのです。
複雑さを所有する人は、それを所有しない人よりも、単純な絵画を描くことができるでしょう。
複雑さを所有する人は、より単純な人生を生きることができるでしょう。
あなたは複雑さを学びましょう。
自分にとっての難しいことを学ぶのです。
単純で簡単なことばかりを学んでいてはなりません。

2017年2月23日木曜日

見せ掛け

人は、それぞれの学びを所有しています。
人は、それぞれの所有している学びに従わなければなりません。
自由意思が許されているとすれば、それぞれの所有している学びの範囲においてです。
人は、学びを離れることはできません。
人は、学びに逆らうことはできないのです。
どのような人物であろうとも、所有する学びを経験する必要があり、それに従った役割を演じる必要があるのです。
人は、役割を通じて所有する学びの本質を得るのです。
学びとは、歪みのために与えられた修正の機会なのです。
歪みとは、知識が多過ぎたり、少な過ぎることによって生じる誤解のことです。
人は、誤解を修正する方法を役割を通じて学んでいるのです。
目的は誤解を修正することです。
そのための学びなのです。
学びの本質は、誤解を修正することだと理解しておきましょう。
もしも、その事実を見失ってしまうのであれば、学びによって得られる結果の形も変わってしまうでしょう。
すべての人は誤解を所有しています。
所有する誤解によって、学びの意味を誤解しています。
学びはあなたの誤解を修正しているにもかかわらず、他の結果を捻出してしまうのです。
学びは様々な形で訪れます。
学びは、所有する誤解を発見するのに最も適した形で訪れます。
時にそれは幸運として訪れます。
多くの人はその幸運に興奮し、大いに喜ぶでしょう。
気分は高揚し、すべてが美しく輝くのです。
そして、浮かれるのです。
浮かれるとは、地に足の着いていない状態です。
それは、本質を欠いた状態であるのです。
幸運に浮かれる人は、既に苦悩しているということを覚えておきましょう。
時にそれは、不運として訪れます。
多くの人はその不運に絶望し、大いに苦しむでしょう。
気分は落ち込み、すべての色が失われるのです。
そして、失意に至るのです。
失意に至る状態は、水中を漂うような状態です。
それは、本質を欠いた状態であるのです。
不運に失意する人は、既に苦悩しているということを覚えておかなければならないのです。
幸運も不運も、その”見た目”に惑わされてはなりません。
それは、学びの形に過ぎないからです。
あなたが覚えておかなければならないのは、学びとは、自らの誤解を修正することだということです。
学び自体には何の価値もありません。
幸運も不運も、何の意味もないのです。
多くの人は、幸運を求め、不運を否定します。
しかしながら、そのような短絡的思考が学びを完結することはありません。
幸運を求める人には幸運が続くかも知れませんが、幸運も続けば時間の無駄なのです。
なぜなら、そこには変化の原動力が希薄(きはく)だからです。
人は愚かな存在です。
不運であれば、内向し、自らを革新する可能性もあるでしょう。
しかしながら、幸運を前にした時には、その状態を保守するように努めるのです。
多くの人は、学びやその役割に左右されているに過ぎません。
しかしながら、あなたは幸運を前にしても、不運を前にしても、同じように学びましょう。
幸運を喜ぶのは誤解です。
不運に苦しむのも誤解なのです。
そこには、誤解を修正する手段が存在するだけなのです。
幸運だから、不運だからどうということではありません。
どちらが訪れたとしても、あなたのやるべきことは同じです。
あなたは誤解を修正するだけです。
人生とは、それ以上の特別なものなどではありません。
すべては見せ掛けに過ぎないのです。
本質を見失わないようにしましょう。

2017年2月22日水曜日

自然の道

あなたは、道を突き進めば良いでしょう。
道を進める所まで進むのです。
しかしながら、道には様々な困難が存在します。
あなたは必ず、その困難と出会うでしょう。
困難は大きな問題として現れます。
問題は大きな障壁(しょうへき)となり、あなたから道を隠すでしょう。
問題という障壁に囲まれたあなたは、行く当てを見失い、孤独を感じ、苦悩に落ち込むでしょう。
孤独の中では、誰にも声は届きません。
そして、誰からの声も届かないのです。
そこにあるのは、己と真だけです。
己とは、自らの内に存在する破滅的な心(人格)です。
それは、道を諦めることによって、あなた(己)を守ろうとします。
己に従えば、道は途絶えるでしょう。
真とは、自らの内に存在する建設的な心(人格)です。
それは、道を突き進むことによって、あなた(真)を守ろうとするのです。
己も真も、あなたを守ろうと努めています。
どちらが敵で、どちらが味方であるということではありません。
どちらもあなたを守ろうと必死なのです。
己も真も、あなたに最良の選択を進めているのです。
どちらを選ぼうとも、決して悪い方法はありません。
どちらの方法を用いようとも、道は開けるからです。
己の提案を選択すれば、障壁を諦めることによって道が開けます。
真の提案を選択すれば、障壁を突き進むことによって道が開けるのです。
どのような選択をしようとも、道が途絶えることはありません。
道はどのような状況からでも派生するのです。
どのような選択をしようとも、後悔する必要はありません。
あなたは選択によって生じた道を進めば良いのです。
ただし、決断するのはあなたです。
問題という障壁の中では、己と真以外には誰もいないのです。
忘れてはならないのは、己と真は自分では無いということです。
己とは、弱い自分であり、真とは強い自分なのです。
己と真の比率から言えば、真の方が自分に近いのですが、己を忘れることはできません。
陰と陽の合わさる形を客観する存在こそが本当の自分なのです。
あなたは、己と真を超えた存在です。
陰と陽を見詰(みつ)めている存在があなたなのです。
己に従っても、真に従っても、そこには不自然が導かれます。
障壁は諦めるでも壊すのでもありません。
それを取り込むのです。
問題から逃れることも、問題と争うことも不自然な対応なのです。
多くの人は逃げるか?争うか?という不自然な選択をしているのです。
それでは、どちらの方法を選択しても、豊かさが導かれることはないのです。
自然の選択をしなければ、豊かさは導かれないのです。
自然の選択とは、逃げることでも、争うことでもありません。
受け入れて取り込むことなのです。
障壁を受け入れ、道に取り込めば、一つの景色が生まれるのです。
自然界では、そこに生じる草花が美しいのです。
そこにある岩が美しく、そこにある川が美しいのです。
しかしながら、己と真に頼っている人にとっては、不自然な美しさを求めて草木を植え、岩を並べ、川を引くのです。
それは、美しく見えますが、不自然な美しさに他なりません。
なぜなら、そこには循環が導かれないからです。
不自然の中では、それぞれが別々の目的のために働きます。
不自然な環境は、年を追う毎に乏しさを増していくのです。
自然というものは、己と真に従っている者には理解することができません。
障壁の孤独の中では謀(はかりごと)に頼らず、それを受け入れて取り入れるようにしましょう。
そうすれば、障壁も美しい道となるでしょう。

2017年2月21日火曜日

長い付き合い

どのような道の理解も、一朝一夕には得られません。
どのような道の理解も、時間を掛けて学ばなければ得られるものではないのです。
多くの人は、知識を手にすることによって、理解を得たと思い込んでいます。
多くの知識を手にすることが、理解だと考えているのです。
残念ながら、どれだけ多くの知識を集めたからといって、それが理解ではありません。
知識だけでは、机上の空論に他ならないのです。
理解とは、知恵のことです。
知恵とは、知識と経験によって導き出される理解のことなのです。
がむしゃらに経験だけを集めても、理解を得ることはできません。
知識と経験が合わさらなければ、知恵が導かれることはないのです。
多くの人は、簡単に成果を導く方法を欲しています。
成果とは、自らの求める利益です。
多くの人は出来るだけ簡単に、出来るだけ素早く成果を求めているのです。
それは、理想を追い求めて焦るという状態を生じさせるのです。
多くの人は、成果を求めます。
多くの人が、成果だけを求めているのです。
理想の報酬(ほうしゅう)を要求しているのです。
残念ながら、あなたが理想の報酬を手にすることはありません。
なぜなら、理想は実現しないからです。
あなたに実現するのは最善だけです。
しかしながら、最善は理想とは異なるのです。
最善の成果を得ているにもかかわらず、そのことには気が付きません。
それは、理想の報酬を追い求めているからです。
理想に反している状況を受け入れることができないのです。
人生において重要なことは、理想が実現することではありません。
あなたは忘れてはなりませんが、すべての人は未熟なのです。
未熟な者の理想は未熟です。
未熟な理想が実現するということは、決して最善ではないのです。
そのため、理想は実現しない方が良いのです。
しかしながら、そのことには気が付かないのです。
理想と異なる最善の状況に焦りが生じます。
焦りは見落としを得させるでしょう。
見落としは苦悩を導くのです。
最善を受け取っていながら、苦悩に至るという矛盾を抱えるのです。
理想の実現は大切なことではありません。
あなたにとって大切なのは、理解を深めることなのです。
理解を深めるという成果よりも、重要な成果など存在しないのです。
あなたはすべての状況に学んでいます。
すべての状況が知識と経験を提供しているのです。
理想の成果を求めるのは、道を知らないためです。
人生が一朝一夕だと思い込んでいるのです。
実際には、人生はとても長いものなのです。
人生の目的は理解を深めることです。
理解を深めるためには、知識と経験が必要です。
知識と経験を集めるには、多くの時間が必要なのです。
そのため、道に対しては、自ずと長い付き合いが必要になるのです。
長い付き合いをするためには、焦りは禁物です。
成果を焦るのであれば、決して理解は深まらないのです。
人が焦りを覚える時には、必ず理想を掲げているからです。
先述したように、理想の実現は重要ではないのです。
理想を手放してみましょう。
そうすれば、理想を実現しようと焦ることもなければ、苦悩することもなくなるのです。
人生は、理解を深めれば良いだけです。
ただし、理想を追い求めるなということではありません。
目的や目標を掲げることによって原動力を得られます。
しかし、それは叶いません。
理想が実現しなくても、目の前に最善が導かれているということを知れば良いのです。
それが一つの理解であるということを覚えておきましょう。
長く付き合う程に、理解が深まるということを忘れてはなりません。

2017年2月20日月曜日

出し惜しみ

すべての存在は、貢献するために生まれました。
すべての存在が、この世界に貢献する力を所有しています。
すべての存在が、この世界に貢献することができるのです。
あなたも、貢献するために生まれたのです。
あなたは貢献するための能力を所有しています。
それがどのような能力であろうとも、それによって、あなたは世界に貢献することができるのです。
この世界には、役に立たないものは存在しません。
種子は力の無い形ですが、鳥の餌となることができます。
芽は微力ながら、虫の腹を満たすのです。
枝葉は小力(こじから)ながら、動物の屋根となるでしょう。
花は大力(だいりき)であり、人の心を洗います。
果実は怪力であり、命を支えます。
大樹は神力(じんりき)であり、すべての命を生かすのです。
どのような存在であろうとも、何かしらの形で貢献することができます。
この世界には貢献の場所が常に与えられているのです。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
多くの人は、自らが貢献するために生まれたことを知らないでいるのです。
多くの人が、我欲を満たすことにとどまります。
誤解してはなりませんが、あなたは自らの能力を育まなければなりません。
それは、自分のことに懸命でなければならないのです。
種子は種子のままではなりません。
芽は芽のままでも、枝葉は枝葉のままでもならないのです。
種子は大樹となる必要があるということを覚えておきましょう。
多くの人は、我欲を満たすことを目的としています。
自己犠牲の精神を美徳と解釈している者もいますが、その自己満足はあなたの足枷(あしかせ)となるのです。
自己の成長を忘れるということは、種子が大樹と成ることを忘れることに等しいからです。
自力を得ない者には、貢献することなどできないのです。
ただし、この世界においては、すべての理想が実現する訳ではありません。
種子は必ずしも大樹と成る必要はありません。
どの段階であっても、貢献して死んでいけば良いのです。
しかしながら、大樹となる努力を欠かしてはならないのです。
大樹にも様々な形があります。
大樹とは、貢献の度合いが大きいということです。
それは、多くの人に支持されるということだけではありません。
多くの人に支持される偽善者であれば、少数に支持される善者(ぜんしゃ)の方が貢献の度合いは大きいのです。
それぞれの貢献の形は異なりますが、あなたは自らの考える善行によって、貢献するように努めましょう。
あなたの考える善行が、世間の認識と異なっていても構いません。
この世界には、陰と陽のどちらも大切なものだからです。
あなたの考える善行が陰であろうと、陽であろうとも、その能力を磨き、大樹と成れば、大きく貢献することができるのです。
苦い果実を生む大樹も、甘い果実を生む大樹も大切なのです。
あなたが全力を尽くした結果、誰かから批判を受けようとも構いません。
その行為が後に悪行だと気付いても、それで構わないのです。
悪行には悪行の貢献の仕方があり、善行には善行の貢献の仕方があります。
それに、善悪は時代によって異なるのです。
あなたは自らの持って生まれた能力を育てましょう。
自分を偽るということは、能力を偽るということです。
これは、自分勝手に理想を追い求めろというのではありません。
理想は必ずしも最善ではないからです。
あなたはただ、持てる力を発揮するように努めるだけで良いのです。
持てる力を出し惜しめば、却(かえ)って力を失うことになるでしょう。
それは、持てる力によって最善を尽くすことこそが、貢献する方法だからです。
あなたは常に未熟です。
あなたの貢献の度合は、いつまでも満足のいくものではないのです。
あなたの貢献の度合は常に不足しているということを覚えておきましょう。
それは、あなたには可能性があるということなのです。
種子は大樹となった方が貢献の度合を増します。
大樹からは、無数の種子が取れるからです。
持てる力を出し惜しんではなりません。
少しでも成長し、少しでも貢献することができるように、自らの能力を磨きましょう。
能力を使わなければ、磨くことはできません。
能力は使う程に、力を増すのです。

2017年2月19日日曜日

大樹

あなたは深く根を下さなければなりません。
豊かさの大地は広くて深いのです。
あなたは豊かさの大地に根差す樹木のようなものです。
すべての樹木が大樹と成れる訳ではありません。
多くの樹木は、大樹と成る前に枯れてしまいます。
それは、根が狭く浅いからです。
根を伸ばす程に、豊かさを確固たるものにすることができます。
どのような樹木も、根が浅ければ倒れてしまうのです。
風雨に晒(さら)されただけで倒木と成り果てるのです。
根が浅ければ、病を乗り越えることができません。
根が浅ければ、日照りによって干涸(ひから)びるのです。
豊かさの大地に広く深く根差すことが大切なのです。
しかしながら、多くの人は根を大切にはしません。
多くの人は、枝葉の充実や、花や果実の収穫を求めているのです。
残念ながら、広く深く根差すことがなければ、枝葉の充実も、花や果実の収穫も望めません。
樹木にとっての豊かさとは、根張(ねば)りの充実なのです。
枝葉や花や果実とは、根張りの結果に他なりません。
樹木は根によって栄養を得るのです。
根が充実しなければ、枝葉や花や果実に栄養を届けることができないのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
樹木の原因は根なのです。
結果を求めることに焦り、原因を蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
人にとっての根とは何でしょうか?
それは、知識と経験です。
人は知識と経験という根を人生という豊かさの大地に伸ばしているのです。
知識と経験が広く深い程に、人は豊かな人生を得られるのです。
しかしながら、知識と経験に乏しければ、乏しい人生を得ることになるでしょう。
根の充実も無く、樹木の繁栄はありません。
知識と経験の充実も無く、人生に繁栄は有り得ないのです。
知識と経験は、あなたに知恵をもたらすでしょう。
知恵とは知性なのです。
誰も、知性を与えることはできません。
あなたはどのような人物からも知性を受けることはできません。
あなたは自力によってのみ、知性を育むことができるのです。
誰も、知性を奪うことはできません。
あなたはどのような人物からも知性を剥奪されることはないのです。
あなたの知性は、あなただけのものです。
人の知性とは、枝葉や花や果実のことです。
それは、他者を豊かにし、世界に貢献します。
大樹ほど、多くの枝葉を茂らせ、多くの花を咲かせ、多くの果実をもたらすのです。
あなたは知識と経験を求めましょう。
あなたは、自分の学べる範囲で知識と経験を求めるのです。
世界には、様々な樹木が存在しているように、人は別々の個性を持ちます。
あなたはあなただけの枝葉を、花を、果実を生むのです。
他者の真似をする必要はありません。
他者を目標にする必要もありません。
他者の反対意見を受け入れる必要もありません。
あなたは、あなたという大樹に育ち、あなたにできる形で他者を豊かにし、世界に貢献すれば良いのです。
手本など、存在するはずがないのです。
あなたは誰かと同じことをするために生まれたのではありません。
あなたはあなたであるために生まれたのです。
生まれを嫌ってはなりません。
結果として、それが誰かと似ていることであっても良いのです。
梅は梅の花を咲かせ、馬酔木(あせび)は馬酔木の花を咲かせ、桜は桜の花を咲かせるのです。
そのために、根を伸ばすのです。
知識と経験を広く深く求めましょう。
浅い知識と経験は、すぐに忘れてしまうからです。

2017年2月18日土曜日

許す

あなたは、あなたの人生を生きています。
他者は自分の人生を生きているのです。
あなたはあなたの人生を懸命に生きなければならず、他者は他者の人生を懸命に生きる必要があるのです。
他者がどのような選択をしようとも、あなたには関係の無いことです。
あなたは、他の誰の人生の責任も抱えてはいないのです。
あなたはあなたの人生に責任を抱え、他者は自分の人生に責任を抱えるのです。
あなたが他者の人生に介入したところで、何も変えることはできません。
あなたが他者を救おうと考えたとしても、それは実現しないのです。
あなたが他者のためにしてやれることなど何もないのです。
あなたにできることといえば、自分の人生を懸命に生きることだけなのです。
あなたにできることは、自らを磨くことです。
他者を磨くことはできません。
多くの人は他者を磨くことができると考えていますが、それは不可能です。
あなたの”手”は、他者には届かないからです。
親族であろうとも、その”手”は他者に届きません。
すべての人が、自分の”手”で自分を磨いているのです。
あなたは誰も変えることができません。
あなたは誰も救うことなどできないのです。
そのため、あなたは他者を磨こうとしてはなりません。
あなたが磨くことができるのは、自分だけだからです。
あなたは自分を磨きましょう。
他者の言動に抗う必要はありません。
他者は自らの言動によって、自分の人生を築いているのです。
因果の仕組みが存在します。
あなたが他者を裁くことはできません。
他者もあなたを裁くことはできないのです。
許すのです。
あなたが他者の言動に未熟さや嫌悪を感じたとしても、それは他者の選択なのです。
そして、それをどのように感じるのかは、あなたの選択なのです。
他者は、それが最善だとして選択したのです。
あなたには、他者の人生の最善の選択を知ることはできません。
それは、他者があなたの最善の選択を知ることができないようにです。
何が正しいのかを判断することはできません。
あなたには正しく思えても、相手には正しくはないのです。
あなたの”手”は、他者の人生には届きません。
他者を磨こうとする努力を手放しましょう。
抗えば、争うことになるのです。
それは、本来の意図に反する結果を導くことになるのです。
他者を磨こうと考えるのであれば、余計な手出しをしないことです。
他者は、他者の最善を受け取っているのです。
あなたからどのように見えても構わないのです。
他者の人生は、他者に任せるのです。
この世界においては、選択したすべての行為が許されています。
許されているために、選択することができるのです。
あなたの小さく歪んだ視界では、最善を見極めることができないのです。
自分のことも分からないのに、どうして他者のことが分かるのでしょうか?
あなたには何も見極められません。
目の前に導かれる状況こそが、最善であるのです。
しかしながら、それは理想とは懸け離れたものでしょう。
多くの人は理想を最善だと誤解しているのです。
他者を裁いてはなりません。
そして、他者があなたを裁くことはできないのです。
安心して許しましょう。
そうすれば、理(ことわり)こそが最善の裁きを下すでしょう。
理は、あなたの想像を超えた方法によって最善を導きます。
抗ってはなりません。
許しましょう。

2017年2月17日金曜日

歯車

あなたは、自分を貫(つらぬ)かなければなりません。
自分が決めた道を、行けるところまで突き進みましょう。
あなたには、自分を、自分の道を貫く必要があります。
それは、あなたはこの世界に一人しかいないからです。
あなたには、あなただけの役割が与えられているのです。
あなたはそれを果たさなければなりません。
ただし、役割を果たすということは、大層なことではありません。
あなたが自分の役割を果たすということは、何よりも簡単なことなのです。
それは、あなたが自然であれば良いだけだからです。
あなたが自然であることと、不自然であることは、どちらが容易いでしょうか?
多くの人は、不自然であることが容易いと考えています。
そのため、多くの人は不自然な自分を演じているのです。
多くの人が他人や環境によって用意された不自然な自分を演じています。
それをいつの間にかに自分の役割だと思い込んでいるのです。
多くの人が用意された役割を選びます。
それは、選択する必要がないからです。
与えられた道を進んでいけば、選択の苦労が無いからです。
多くの人は、与えられたものを飲み込んでいるに過ぎません。
自分で選んだものを食している訳ではないのです。
自分で選ぶことには、選択の苦労が付きまといます。
自分で選ぶということは、多数の意見に追随(ついずい)することはできません。
それは、新雪を歩むようなものです。
それは、勇気を必要とするのです。
しかしながら、自分で道を作るのであれば、それがあなたの自然なのです。
誰かの決めた道では、あなたは不自然を得るのです。
誰かの役割を代わりに担うことはできません。
あなたには、誰かの代わりは務まらないのです。
それは大きさが違うからです。
大きさが違う歯車には、その役割を果たすことができないのです。
あなたはあなたです。
あなたはあなたで然(しか)るべきなのです。
誰かには成れないのです。
あなたが誰かを目指すのであれば、その道は不自然です。
あなたはあなたには成れないでしょう。
他のところに組み込まれた歯車は、決して満足な仕事ができないのです。
あなたが自然を手放す時、それは、自分の役割を手放す時なのです。
あなたが役割を手放す時、それは、自分の人生を手放す時だと心得ましょう。
あなたは自分の道を行かなければなりません。
自然の中にこそ、生命力は存在するのです。
不自然な環境には、生命力は存在しません。
そこにあるのは傀儡(くぐつ)と化した屍(しかばね)なのです。
あなたは、自分を貫かなければなりません。
自分を貫くということは、頑固に我を通すということではありません。
自分の決めた道を進むために、変化し続けるということなのです。
形は変わっても、役割は変わりません。
歯車の形は変わっても、役割を果たすことはできるのです。
自分の人生を生きなければなりません。
これは、他の誰のものでもないのです。
これは、あなただけに託(たく)された役割です。
あなた以外には担うことができないのです。
自分を偽るのはやめましょう。
矛盾を抱えてはなりません。
矛盾を矛盾で穴埋めしようとしてはなりません。
道のために生き、道のために死ぬのです。
自分を貫かなければ道はありません。
道を貫かなければ人生はないのです。
不自然であることは多くの苦悩を導くでしょう。
しかし、自然であることでは、多くの感謝を導くでしょう。
好きな方を選びましょう。

2017年2月16日木曜日

経験の理由

すべての人は繰り返します。
人は、何度も同じことを繰り返さなければなりません。
それは、何度も同じ経験をするためです。
人は、経験を重ねるために繰り返すのです。
経験を重ねる理由は、理解するためです。
人は、その経験が何であるのか?ということを理解する必要があるのです。
すべての経験には理由があります。
その理由は様々です。
しかしながら、その理由を理解した暁(あかつき)には、あなたはそこに感謝しているのです。
理由を理解すれば、あなたはその経験を良いものとして迎えるでしょう。
人は、それを感謝するために経験しているといっても過言ではありません。
どのような経験であろうとも、それはあなたにとっての良いものなのです。
しかしながら、そのことを理解することは容易ではありません。
多くの人が、すべての経験が良いものであることを知りません。
そのため、経験に善悪を持ち込みます。
多くの人は、経験を善と悪に分けるのです。
それは、その時に信じる価値観や、置かれた立場によって変わります。
自分がその経験をどのように感じるかによって、善悪に分けるのです。
物事を善悪に二分している間は、その本質を見失います。
すべての経験は一つであり、それを二分するということは、両方に善悪の性質を分けるということなのです。
そのため、善だと思い込んでいるものの半分は悪であり、悪だと思い込んでいるものの半分は善であるのです。
善悪は、両方が揃(そろ)って自然なのです。
この世界には、善だけのものも、悪だけのものも存在しません。
見え方に違いはあるでしょうが、善悪は同じ量が備わっているのです。
多くの人は、自分の価値観や立場を通して見るために、自分の価値観や立場に近いどちらか一方を優先しているに過ぎません。
それは、誤解であるのです。
誤解を所有することによって、一つのものを善悪に二分します。
一つのものを善悪に二分することによって、誤解は深まるのです。
人が繰り返すのは、この誤解を解くためなのです。
人は繰り返し経験しなければなりません。
一つのものを善悪に二分する誤解を解くまで、それは何度も繰り返されるのです。
人が自らの誤解に気が付き、それを手放すまでは、あなたは何度も繰り返さなければならないのです。
人は仕方なく繰り返すのです。
あなたが繰り返しを嫌い、そこから逃れようとしても無駄です。
あなたは自分自身の誤解によって繰り返しているだけだからです。
どこへ逃れようとも、そこに待っているのは繰り返しなのです。
誤解を解くまでは、どのような方法を用いようとも繰り返しを受けます。
誤解を解くまでは、決して新しく何かを始めることはできないのです。
多くの人は新しく何かを始めたと考えているでしょう。
しかしながら、結果は同じことです。
どのように違う経過を辿ろうとも、結果は同じです。
あなたは再び、同じ経験をするのです。
自分が変わるまでは繰り返しです。
自分を変えずに繰り返しを逃れることはできません。
意地を張っても意味がありません。
それは、あなたに相応しい経験が導かれるからです。
人生は、あなたが誤解を解くことを求めています。
誰かや何かが悪いのではありません。
一つの自然を善悪に二分するあなたの業(わざ)を指摘しているのです。
目の前の経験に感謝することができますか?
言葉を唱えるということではありません。
その経験を良いものとして受け入れることができるでしょうか?
善悪ではないのです。
すべてが必要であるだけなのです。
すべての経験には理由があるのです。
善悪を捨てて、理由を理解しましょう。

2017年2月15日水曜日

特別な人生を探す

豊かな人生とは、無数に存在する人生の選択肢の中から、最善の選択によって導かれる人生のことです。
最善の選択とは、あなた独自の自然な人生のことです。
自然な人生こそが、豊かな人生なのです。
自然な人生とは、あなたの有るが儘(まま)の人生のことです。
多くの人は、不自然な人生を導きます。
それは、あなた独自の人生ではありません。
誰かや何かによって導かれた、不自然な人生なのです。
多くの人は、他人や環境、そして、時代によって選択された人生を生きています。
本人は自分で選択していると思っています。
それは、確かに自分で選択することによって導かれた人生ではあります。
しかしながら、人生を選択した自分ですら、他人や環境や時代によって選択され築かれた不自然な自分なのです。
自然な自分とは、他人や環境、そして、時代によって支配されることはありません。
多くの人が、無意識の内に自然を手放しています。
しかしながら、そのことには気が付きません。
知らず知らず、多くの人は他人や環境や時代に支配され、不自然な自分に支配されているのです。
不自然な自分が導く人生とは、乏しいものなのです。
それは、自らの目的を果たすことができないからです。
不自然な人生においては、あなたは本当の意味で役に立ちません。
あなたには、独自に与えられた役割がありますが、それは、不自然な自分では果たすことができないのです。
不自然な自分では、人生の意義を見付けられないのです。
それは、河原から一つの石を探すようなものです。
あなたは”特別”な人生を探し出さなければならないのです。
人の数だけ役割があります。
人の数だけ人生があるのです。
あなたは、自分の役割を見出すことによって、自分の人生を生きる必要があるのです。
それが”特別”な人生なのです。
特別とは、他人の人生と比べて優れているとか、劣っているということではありません。
あなたは世界に一人です。
あなたは独自の存在なのです。
それが自然の理(ことわり)です。
そのため、あなたは世界に一つだけの特別な人生を生きることができるのです。
河原に転がる無数の石も、一つとして同じものはありません。
一つ一つが世界に一つだけの特別な石なのです。
それぞれの石には似ているところもあるでしょう。
見分けが付かないようなものもあるのです。
しかしながら、一つとして同じものはありません。
あなたに求められているのは、独自の人生を生きるということです。
あなたは特別な人生を生きる必要があるのです。
無数の人生の中から、特別な一つを選択しなければなりません。
そのためには、知恵が必要です。
知恵が無ければ、特別な一つを選択することはできないのです。
知恵とは、知識と経験の産物ですが、特別な一つを選択するためには、特別な知恵が必要です。
それは、特別を見極める知恵なのです。
知恵の有る人は多くいます。
しかしながら、特別な知恵の有る人は多くはありません。
多くの人は、知恵を以て他人よりも多く所有するに過ぎません。
他人よりも先に行くに過ぎないのです。
それは、特別な人生ではありません。
特別とは、異質のことをいうのです。
知恵を磨かなければなりません。
知恵を磨くためには、内向する必要があるのです。
多くの場合、知識と経験は外向に役立てられます。
それは、普通(同質)のことです。
それでは、特別を見極めることはできないのです。
知恵によって内向することは、深い井戸の中の砂を選別するようなものなのです。
河原の石から見付からなければ、井戸の砂の中から探しましょう。
特別な人生は必ず存在するのです。
あなただけの特別な人生を諦めてはなりません。

2017年2月14日火曜日

自然な自分

あなたは、人生の意味を考えなければなりません。
あなたは何のために生まれたのでしょう?
あなたは何のために生きているのでしょう?
あなたは何を壊し、何を築くためにここにいるのでしょう?
あなたの人生は、何のためにあるのでしょう?
それぞれの人生には、意味が存在します。
意味が存在しているために、ここにいるのです。
意味が無ければ、あなたはここにいないのです。
しかしながら、その意味は隠されています。
あなたは自力によって、人生の意味を見出さなければならないのです。
多くの人が人生の意味を見出さずにいます。
人生の意味は認識のレベルによって変わりますが、未熟な解釈であっても、意味を見出している者の人生は有意義です。
多くの人は、人生の意味すら考えたことがないのです。
人生についてすら考えたこともないのです。
すべての人が人生を経験しています。
しかしながら、その意味を考える人は少ないのです。
人生が何であるかを考え、自分なりの解釈によって意味を見出すことがなければ、人生における一切の経験は空(むな)しいのです。
意味を見出さない限りは、すべての経験に意味はありません。
それは、人生が認識によって築かれているからです。
人生はあなたによって決まっているのです。
しかしながら、あなたは自分を知りません。
多くの人は、不自然な存在を自分だと思い込んでいます。
あなたが自分だと思い込んでいる存在は、残念ながらあなたではありません。
あなたは自分が何者であるかを知っているでしょうか?
多くの人が知っていると思い込んでいる自分とは、自らの抱える歪みなのです。
それは、自我意識であり、己なのです。
己は多くの誤解を抱えています。
誤解は矛盾を生み出し、矛盾は苦悩を導くのです。
多くの人の人生に苦悩が存在しているのは、己に従って生きているからです。
人が己に従って生きていくのであれば、誤解によって多くの苦悩を導くことになるからです。
己によって豊かな人生を生きることはできません。
己とは不自然な自分であり、不自然とは乏しさなのです。
多くの人が不自然な自分によって、不自然な人生を生きているのです。
多くの人が理想を掲げ、それを実現するように尽力することでしょう。
不自然な自分の理想など、不自然な人生に他ならないのです。
あなたの理想など実現しない方が良いのです。
つまり、あなたは苦しめば良いのです。
苦しむことによって初めて、人は内向することができるのです。
人が内向するのは、不自然な自分を知るためです。
外向に励(はげ)んでいる多くの人達には、自分が信じている自分が不自然な存在であることに気が付かないのです。
それは、内に存在している不自然な自分に向き合うことがないからです。
向き合うことがなければ知ることはできないのです。
あなたはどうやって、向き合わずに知るのですか?
あなたは会ったことのない人の何を知っているのですか?
実際に会うまでは、その人がどのような人物であるかを知ることはできないのです。
他者から聞かされようが、あなたが知ることにはなりません。
それは、他者の意見であるからです。
あなたは自分なりの解釈によって意味を見出さなければならないのです。
不自然な自分と向き合うことができるのは、あなただけなのです。
苦しみは、内向への鍵です。
あなたは苦しみによって、自然な自分(真)への扉を開きましょう。
心配することはありません。
あなたが苦しみだと思い込んでいるそれは、不自然な自分の考えている苦しみなのです。
自然な自分にとっては、それが喜びであるということを理解しなければならないでしょう。
不自然な自分に騙されてはなりません。
苦しみは決して、あなたに不利には働きません。
不自然な自分しか知らない他者に騙されてはなりません。
苦しみこそが、あなたを自然な自分へと案内してくれるのです。

2017年2月13日月曜日

意に沿わない最良

人の世に存在しているものは、飢えと渇きです。
それ以外には存在しません。
人は飢えと渇きを満たすために行為しているのです。
すべての行為は飢えと渇きのためです。
それ等を満たすための意思であり、夢や目標なのです。
人の世は飢えと渇き以外には何も与えはしません。
人の世では、あなたは生涯を飢えと渇きを満たすために生きることになるのです。
あなたは不安に導かれます。
あなたは不安を解決するために行為するでしょう。
あなたは不満に決められます。
あなたは不満が決めた道を進むでしょう。
あなたは不足に従います。
あなたは不足に逆らうことができないのです。
あなたがどのような方法を用いても、飢えと渇きを満たすことはできません。
飢えを満たすために食べ、渇きを満たすために飲んでも、飢えと渇きはすぐに襲うのです。
人の世には安寧(あんねい)は訪れません。
そのような理想は実現しないのです。
先述したように、人の世には飢えと渇き以外には何も存在してはいないのです。
あなたが人の世に生きる内は、飢えと渇きを満たすことはできないのです。
どれだけ貪(むさぼ)ろうが、それは花の命のようにすぐに散り行くものなのです。
あなたは様々な花の種を蒔(ま)くでしょう。
それは、あなたにいつまでも花の命を与えるかもしれません。
しかしながら、あなたが種を蒔くことを怠れば、すぐに途絶えてしまう命なのです。
人の世で飢えと渇きに苦しまないためには、多くを犠牲にしなければならないのです。
あなたは常に欲求が囁(ささや)き掛けるでしょう。
気を抜けば、不安や不満や不足が語り掛けるのです。
飢えと渇きを避けるために、人は満足しなければならないのです。
あなたは満足することを求めているでしょう。
自分にとって良いものを求めるのです。
自分にとって良いものは、最良であるとは限りません。
飢えと渇きに動かされてるあなたには、自分というものが分からないのです。
自分というものが分からない者には、何が最良であるのかも分からないのです。
あなたは楽しみを求めるでしょう。
しかし、楽しいから幸福なのではありません。
あなたは喜びを求めるでしょう。
喜びであろうとも、あなたを幸福にはしないのです。
その楽しみも喜びも、飢えと渇きのための良いものであり、あなたの最良ではないからです。
楽しくて、喜びに溢れた毎日が、本当に幸福なのでしょうか?
好きなものにだけ囲まれた世界で、あなたは何を学ぶというのでしょう?
残念ながら、自分勝手に成長することのできる人はいません。
人は皆、思い通りに行かない状況から学び、成長するのです。
あなたには誤解があるでしょう。
悲しいから不幸なのではありません。
苦しいから不幸なのでもないのです。
飢えと渇きに突き動かされている者は、楽しみと喜びを追い求めます。
それは、永遠の道です。
楽しみと喜びを追い求めるのであれば、あなたは飢えと満足をただ繰り返すだけの回路を進むことになるのです。
楽しみと喜びを追い求める道は幻想です。
この世界には、悲しみも苦しみも存在しているのです。
飢えと渇きを満たすのは、悲しみと苦しみです。
人の世から世界を見てはなりません。
楽しみと喜びは肉体を満たすでしょう。
しかしながら、それ等が精神を満たすことはないのです。
悲しみと苦しみは肉体を飢えさせるでしょう。
しかしながら、それ等は精神を満たすのです。
楽しみと喜びは肉体のために、悲しみと苦しみは精神のために大切にしましょう。
この世界には無駄なものは存在しません。
すべてを大切にしましょう。
必ずしも、満足することが最良ではありません。
悲しみや苦しみが目の前に存在しているのであれば、それがあなたの意に沿わなくても最良なのです。
覚えておきましょう。

2017年2月12日日曜日

転と骨

この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
方法は常に二つ用意されています。
一つは陰の道です。
それは、減法(げんぽう)です。
それは、積み減らす手段です。
もう一つは陽の道です。
それは、加法(かほう)です。
それは、積み重ねる手段です。
人は常に、陰陽のどちらかの道を選ばなければなりません。
進める道は一つです。
両方を進むことはできないのです。
大きく見れば、減法も加法も同じ道の上に存在します。
陰と陽を合わせて一つであるからです。
しかしながら、それは結果です。
小さく見れば、減法か加法のどちらか一方を選ばなければなりません。
あなたは原因を選択することはできますが、結果を選択することはできないのです。
選択の分かれ道においては、減法か加法のどちらかを選ばなければならないのです。
どちらが正しいとは言えません。
そして、どちらが間違っているとも言えないのです。
どちらを選択しても、それが最善です。
積み減らしても、積み重ねても、それは相応しい結果を導きます。
あなたには何が最善であるのかを知ることができません。
そのため、結果を思い煩(わずら)うことはないのです。
世界には陰陽の二つの道が存在しています。
それは、あなたにも言えることです。
あなたは、精神と肉体という二つの道から成るのです。
精神と肉体は、どちらもあなたを示します。
精神とは陰の道です。
それは、積み減らすことによって豊かさを得ます。
精神の最後は転(うたた)です。
それは柔(やわら)を主とするのです。
精神を積み重ね、膨らませる(複雑にする)のであれば、精神はその重さによって乏しさを得るでしょう。
肉体とは陽の道です。
それは、積み重ねることによって豊かさを得ます。
肉体の最後は骨です。
それは剛を主とするのです。
肉体を積み減らし、縮ませる(単純にする)のであれば、肉体はその軽さによって乏しさを得るでしょう。
多くの思考を有すれば、精神には迷いが生じます。
それは苦悩へと繋がるのです。
多くの思考を抱えれば、精神が柔軟さを得ることはできません。
あれこれと選択肢を抱えれば、却(かえ)って変化することができないのです。
変化することのない精神は豊かさを離れるでしょう。
肉体に柔を与えるということは、楽を得させるということです。
肉体の主は剛です。
それは、険しい道なのです。
肉体に楽を得させるのであれば、筋力が衰えます。
それは、免疫力の衰えを意味するのです。
肉体の豊かさとは、鍛錬(たんれん)によってもたらされるのです。
陰陽のどちらを選択するかによって、結果は異なります。
どちらを選んでも最善に変わりはありません。
すべてはあなたに相応しく導かれるからです。
どうするかは、自分で決めれば良いのです。
減法を選んでも、加法を選んでも良いのです。
ただ、道は二つ存在するということを覚えておきましょう。

2017年2月11日土曜日

本当のこと

一度決めたら、真っ直ぐに進まなければなりません。
あなたは道を逸れることなく進むのです。
どのような結果を得ようとも、例えそれが理想とは違っていても、それで良いのです。
人生において重要なことは、どうするか?ではなく、どうなったか?ということです。
それは、あなたが無知であるからです。
あなたは自分が何者であるのかを知りません。
それは、何が最善であり、何が幸福であり、何が豊かさであるかを知らないということなのです。
知らないということは、知る必要があります。
知らなければ、何が豊かさであり、何が幸福であり、何が最善であり、自分が何者であるのかを知ることができないからです。
あなたは理想の結果を得る必要はありません。
それは、歪んだ願望の求める歪んだ結果に過ぎないからです。
理想の結果を得るということは、不自然な結果を得るということです。
不自然な結果が、あなたに自分が何者であるのかを教えることはないのです。
それは、不自然であるからです。
あなたの本質は自然です。
それは、在るが儘(まま)の自分なのです。
在るが儘とは、目の前の現実のことです。
どのような結果を得ようとも、それが在るが儘の自分なのです。
人は、在るが儘の自分であれば良いのです。
そして、在るが儘の人生を生きれば良いのです。
しかしながら、未熟さは我が儘を求めているのです。
我が儘な自分が、我が儘な人生を生きることを美徳と考えてるのです。
多くの人は、自分の決めた道を真っ直ぐに進むことはできません。
それは、どのような道を進んでも、決して理想通りにはいかないからです。
我が儘な理想が実現する道はありません。
実現するのは在るが儘の現実なのです。
現実に抗(あらが)い、理想を追い求めるのであれば、あなたは自分を失っていくでしょう。
理想を追い求めるということは、現実逃避であるからです。
多くの人は理想を追い求め、どうするか?を考えます。
どうするか?という思考は、我が儘を離れることができません。
それは、自分独りで考えているようなものなのです。
狭い見解によって、あなたは知ることができるでしょうか?
あなたが知るためには、広い見解による見識が必要なのです。
あなたが知るためには、学ばなければなりません。
学ぶということは、受け入れるということです。
自分独りの考えでは学べません。
自分独りで考えるだけであれば、何も変わりはしないのです。
理想とは異なる結果を受け入れることによって初めて、あなたは何かを学ぶことができるのです。
人生が、あなたに見識を教えているのです。
あなたが見識を身に付けるためには、真っ直ぐに進まなければなりません。
真っ直ぐに進んだ者だけが、理想とは異なる結果を受け取ることができるのです。
真っ直ぐに進んだ者が辿り着くのは理想ではありません。
真っ直ぐに進んだ者が辿り着くのは現実なのです。
理想は幻想であり、現実は本質です。
あなたが知らないことでも、人生は知っているのです。
誰も知らないことでも、人生は知っているのです。
あなたは人生から学ぶことができるのです。
人生こそが、最高の指導者であるということを知らなければならないでしょう。
多くの人は最高の指導者を前にして、その教えを拒絶します。
多くの人が人生に不安を抱き、不満を吐くのです。
そして、道を逸れるのです。
道を真っ直ぐに進める者は少ないのです。
それは、人生を信じることができないからです。
在るが儘を信じることができず、我が儘を信じているのです。
すべてを知ってる人生よりも、何も知らない己(歪んだ自分)を信じようというのです。
あなたが”本当のこと”を知りたければ、真っ直ぐに進んでみましょう。
絶対に理想通りには進みません。
それでも”本当のこと”を知りたければ、真っ直ぐに進みましょう。

2017年2月10日金曜日

理想の現実

すべての人は理想を追い求めています。
すべての人が理想を実現したいと考えているのです。
理想とは、結果です。
多くの人の考える理想には、多くの不純物が混じっているのです。
しかしながら、そのことには気が付きません。
自分の追い求めている理想は、純粋なものだと思い込んでいるのです。
多くの人は利己的な結果を求めているのです。
しかしながら、大抵の場合、その動機がどこから出たのかを考えることはありません。
すべての結果は、それに相応しい原因によって導き出されています。
原因が存在しなければ、どのような結果も導き出されることがないのです。
多くの人は結果を求めますが、原因は求めません。
そのため、追い求める理想が実現することはないのです。
多くの人は自分が何をしているのかを知りません。
自分が何者であるのかも知らないのだから、自分が何をしているのかも知らないのです。
そのため、求めている結果に相応しい原因がどのようなものであるのかも知らないのです。
人が結果の原因を理解することはできないでしょう。
それは、人が自分を理解することがないからです。
それは、自分というものが役割によって変わり続けているためです。
多くの人は自分というものが役割を決めていると考えていることでしょう。
しかしながら、実際には役割によって自分が決まるのです。
多くの人が周囲の他者や環境に影響され、誘導(ゆうどう)されているように、役割によって自分というものの形を決めているのです。
あなたは、本当に自分の意思によって何かを選択しているでしょうか?
考察しなければなりません。
大抵の人の選択(行為)は、自分以外の要因によって決められているものなのです。
他者の選択を参考にしていることに気が付いているでしょうか?
尊敬する他者の選択であれば、あなたは喜んで真似をすることでしょう。
軽蔑する他者の選択であれば、それを拒絶するでしょう。
多数派の意見を重視し、少数派の意見を軽視するでしょう。
多数派の意見であれば安心することができます。
しかしながら、少数派の意見では安心することができないのです。
人は、他者の影響を受けているのです。
環境によっても、あなたは自分を変えるでしょう。
農村では農村に馴染み、都市では都市に馴染むでしょう。
役割の中で自分を貫くことは困難です。
子であれば、子であることを自分とし、親であれば、親であることを自分とするのです。
多くの人の考える自分とは、その程度のものなのです。
多くの人が自分で選択していると考えていますが、実際には自分以外の要因によって選ばされているのです。
多くの人が理想を追い求めても、それを実現することができないのはそのためです。
人は、自分以外の何かに影響を受けています。
しかしながら、その影響を許しているのは自分なのです。
誰かや何か、そしてあなたが悪いという訳ではありません。
陽が照らし、風が吹き、雨が降り、雷が鳴り、雪が積もる。
人の行く道には、必ず抵抗が存在しているのです。
あなたは独りで道を進みますが、自分以外の要因があなたに自分を教えます。
他者はあなたに自分を教えているのです。
あなたの追い求める理想は、あなたの本当の理想ではありません。
目の前に導き出される現実(結果)こそが、本当のあなたの追い求めた本当の理想なのです。
様々なものに影響されている自分は自分ではないのです。
あなたの理想は様々なものに影響されています。
あなたが自分を誤解しているように、理想をも誤解しているのです。
追い求める理想が実現しないことが自然です。
寧(むし)ろ、追い求める理想が実現することは問題なのです。
それは、不純物の混じった理想であるからです。
純粋な理想とは、目の前の現実です。
目の前に導かれる現実にこそ価値があるのです。
現実を否定し、偽りの理想を追い求めてはなりません。
自分の追い求める利己的な理想ではなく、本当のあなたの導く理想の現実を受け入れましょう。

2017年2月9日木曜日

小さな鉢の雄大な樹木

すべての人は未熟を生きています。
それは、小さな視点です。
すべての人は小さな視点の中に、誤解を生み出しているのです。
誤解は不自然な人生を導きます。
すべての人は、不自然な人生を生きているのです。
あなたは不自然な姿をしています。
そして、あなたの人生は不自然な状態にあるのです。
自然とは、本質のことです。
本質でない状態は、そのすべてが不自然な状態にあるのです。
誤解を抱えている状態は、不自然な状態なのです。
すべての人が誤解を所有しているために、すべての人が不自然を生きているのです。
人は不自然な世界を生きます。
すべての人が未熟さによって誤解を抱えているために、不自然な世界を生きる必要があるのです。
それは、小さな世界です。
あなたは、小さな鉢に植えられた樹木のようなものです。
鉢の中に根を張る樹木は、不自然な状態を生きています。
すべての人の人生は、それと同じなのです。
誰もが自らの小さな世界を生きているのです。
小さな鉢の中では、すぐに根が詰まります。
すべての人の価値観や人生は、すぐに限界に行き着くのです。
幸福はすぐに苦悩に変わります。
豊かさは乏しさに転じるのです。
小さな鉢の中で根が詰まれば、根の成長は抑制され、水と空気と栄養を取り込むことができなくなるのです。
根が詰まれば、樹勢(じゅせい)は衰えていくのです。
小さな世界(価値観)を生きることには限界があります。
それは、思っているよりも早く訪れるのです。
小さな鉢の中で根を詰まらせた樹木は、別の鉢に植え替えてやらなければならないのです。
しかしながら、世界(価値観)が急激に変化することはありません。
次に用意することができるのは、一回りだけ大きな鉢なのです。
一回り大きな鉢に”美しく”根を張るためには、今までの根を(ある程度)切り落とさなければなりません。
今までの根を切り落とさなければ、次の鉢に”美しく”収まることはなく、根の勢いも抑制されるのです。
新しい鉢に植え替える時には、新しい根を伸ばすことが最善なのです。
古い価値観を持ち越すのであれば、新しい鉢に根を伸ばした後で、再び根を切り落とさなければならないのです。
それは、新しい鉢に”美しく”根を張るまで続けられるのです。
小さな鉢に”美しく”根を張ることによって、次の一回り大きな鉢を与えられるのです。
鉢植えの樹木が完全な自然を生きることはできませんが、大きな鉢を得る頃には、その姿は雄大な自然に近付くことができるのです。
価値観を改めていくことによって、人は自然に近付きます。
しかしながら、自らの小さな世界を満足に生きられない者には、大きな世界は与えられません。
鉢植えの樹木は、その鉢で根が詰まることによって植え替えられるのです。
その鉢で根が詰まることがなければ、植え替える必要を満たさないのです。
樹木は自分で鉢を抜け出すことはできません。
人が新たな世界を得るためには、新たな世界を与えられなければならないのです。
条件を満たすことによって、新たな世界が与えられるのです。
その条件とは、満足することです。
今、植えられている鉢に満足し、懸命に根を張る者だけが、新しい鉢を得るのです。
小さな世界の誤解を解かずに、大きな世界は与えられません。
あなたは不満や不安を吐いている場合ではないのです。
懸命に知恵の根を伸ばすのです。
そうすれば、樹勢は豊かさを得ます。
人は知恵によって力を得るのです。
知恵が乏しければ、花も実も無いのです。
あなたは、価値観に従った豊かさを得るでしょう。
小さな鉢では樹木も小さく、花も実も少ないでしょう。
大きな鉢では樹木も大きく、花も実も多いのです。
人は不自然ながらも、自然に近付かなければなりません。
小さな世界を雄大に生きなければなりません。

2017年2月8日水曜日

理解

すべての人は誤解を所有しています。
すべての人が、物事の本質を見誤っているのです。
すべての人の解釈は歪んでいます。
それは、偽りを生み出すのです。
偽りは真実との間に矛盾を生み出します。
矛盾は苦悩として認識されるのです。
誤解とは無知です。
無知によって、人は苦悩を得るのです。
すべての人が苦悩と共に存在します。
すべての人に苦悩は尽きません。
どのような生き方をしようとも、無知は内に存在しているのです。
あなたはすべての道において、自らの所有する無知と向き合うことになるのです。
人生の目的は誤解を手放すことにあります。
それは、より本質的な見解を得るためです。
あなたには、理解が求められているのです。
本質を見極めることがなければ、苦悩を離れることはできません。
すべての人が苦悩を離れよとしますが、本質を見極めようとはしません。
苦悩を離れるためには、苦悩に向かって進まなければならないのに、そのことには気が付かないのです。
それは、苦悩と向き合うことを恐れているからです。
あなたは反対を選ばなければなりません。
離れようと考えるのであれば、近付くのです。
誤解を手放し、理解を得なければ、何事とも離れることはできないでしょう。
あなたは、見たことがあるものでも見なければなりません。
そこでは見たことのないものを見るでしょう。
あなたは以前に見たと高を括(くく)るでしょうが、そのようなことはありません。
何故なら、あなたは少なからず成長しているからです。
成長することによって、新たな視点を得ているのです。
そのため、以前に見たものと今に見るものでは、異なるものであるということなのです。
聞いたことがあることでも聞きましょう。
そこでは聞いたことがないことを聞けるからです。
触れたことがあるものにも触れなければなりません。
そこでは触れたことのないものに触れられるでしょう。
知っていることでも学びましょう。
そこでは、知らなかったことを学ぶことができるのです。
自分が成長しているのだから、世界も成長しているのです。
知ったつもりでいてはなりません。
あなたは、何も知りはしないのです。
あなたが知っているのであれば、苦悩を所有することはありません。
あなたが知らないために、苦悩を所有しているのです。
あなたが知らないことは、欲求にも現れます。
あなたが何かを求めるのであれば、それを知ろうとしているということです。
知る必要があるために求めるのです。
知っているのであれば、求める必要はないのです。
あなたは多くを求めているのです。
幸福を求めるのであれば、幸福を知りません。
豊かさを求めるのであれば、豊かさを知らないのです。
本質を知れば離れます。
誤解のためにそれを所有しているのです。
あなたが人生において行っているのは、理解に他なりません。
あなたは学んでいるのです。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
表層の虚像に捕らわれ、本質の実像には気が付かないのです。
あなたは自分の無知を知るために、人生におけるすべての状況を経験しています。
泳げない者が水に落ちたのであれば、口と鼻を塞げば良いだけです。
抵抗してもがくのであれば、水を飲んで溺れてしまうでしょう。
目の前の苦悩にもがいてはなりません。
もう一度、冷静に向き合うのです。
泳ぎを練習すれば、泳ぐことができるのです。
何度も向き合えば、本質を理解することができるでしょう。

2017年2月7日火曜日

学びの段階

人には、学びの段階があります。
人は、学びの段階を経る必要があるのです。
人が人生に成長を実現するということは、学びの段階を経るということだからです。
成長することによって、人は学びを変えていきます。
成長することによって、その学びは一層本質的なものとなるのです。
学びの段階が初歩である程に、多くの誤解を抱えるでしょう。
学びの段階を進む程に、人は誤解を手放していきます。
成長とは、誤解を手放すことです。
成長することによって、あなたは誤解を手放しましょう。
人は誤解することによって苦悩しています。
誤解は問題を引き起こすのです。
誤解を抱えている間は、問題が生じ、苦悩は絶えません。
誤解を手放す必要があるのです。
自らの抱える誤解に向き合うことによって、人は学びの段階を進み始めるのです。
自らの抱える誤解に向き合うことがなければ、学びの段階を進むことができないということを理解しましょう。
自分に対して疑問を持たない人は、時間を浪費するだけであり、何も変わってはいないのです。
あなたは自らを疑いましょう。
そうすることによって、誤解を知ることができるでしょう。
始めの人は楽を選びます。
誤解に向き合い始めた人は、楽が誤解であることを知りません。
楽が利益であると考えているのです。
楽を求める行為は、後に乏しさを導きます。
楽を選んでいるのであれば、その分の苦労を誰かや何かが担うことになるからです。
楽を選ぶ人は、却(かえ)って苦労を受け取るということを理解する必要があるでしょう。
次の人は怒りを選びます。
楽を選ぶことを退けた人は、次に怒りを選ぶのです。
例えば正義感によって怒るのです。
怒りを選ぶのであれば、反感を得ることになるでしょう。
放たれた怒りは、誰かや何かを傷付けます。
傷付けられた誰かや何かは、その分を返すでしょう。
怒りを選ぶ人は、争いを受け取るということを理解する必要があるでしょう。
次の人は悲しみを選びます。
争いに疲れ果て、悲しむのです。
悲しみは怒りの衰退によって導かれる変化です。
それは、怒りよりも優れた方法です。
しかし、悲しみには力がありません。
悲しみに没する人は、力を失うでしょう。
それは乏しさを導く行為です。
最後の人は苦しみを選びます。
悲しみの段階を経た人は、苦しみに価値があるということを理解するでしょう。
苦しみとは、人の生きる道です。
人は未熟です。
未熟さに向き合い、それを受け入れる時には苦しみに会うのです。
人が苦しみを受け入れる時には、謙虚(けんきょ)な姿勢なのです。
謙虚な姿勢こそが、人の自然です。
苦しみを受け入れる姿勢こそが、自らの然(しか)るべき姿なのです。
苦しみを否定し、それを受け入れられない人には気付きがありません。
苦しみの中にこそ、多くの学びが潜在しているのです。
未熟な人が成長するのが人生です。
未熟な人が成長するということは、苦しみを学ぶ必要があるのです。
苦しみを学ぶことなく、成長することはできません。
そのため、苦しみが目の前に有るのが自然なのです。
苦しみを否定するのが始めです。
次に苦しみと争います。
次に苦しみに悲しみます。
最後に苦しみと共に歩むのです。
それが幸せであるということを知らなければならないでしょう。
苦しみがなければ学ぶことはできません。
学びの無い人生など、決して幸せなものではないのです。

2017年2月6日月曜日

人生の言葉

人生において価値のあるものは何でしょうか?
あなたは人生にどのような価値を見出しますか?
どの水準によって価値を見出すでしょうか?
どのような言葉も、受け手の力量によって意味を画(かく)します。
同じ言葉であっても、受け手によって異なる解釈を導くのです。
人生におけるすべての経験は、人生からの言葉です。
それはあなたに向けられた言葉なのです。
あなたは常に人生からの言葉を聞いています。
そして、その言葉に自分なりの解釈を導きます。
受け手であるあなたによって人生の言葉の意味は決定するのです。
どう読むのか?によって、相手の言葉の意味は決まります。
相手が言葉を発する時点においては、その意味は決まってはいないのです。
人生は常に、あなたの解釈によって決まっているのです。
そのため、どう受けるか?ということが重要なのです。
あなたは人生の言葉をどう読み解くでしょうか?
人生は様々な経験を導くでしょう。
その時、あなたは様々な感情を抱えます。
あなたは、自らの生み出す感情をどう読み解くでしょうか?
解釈の質が求められているのです。
多くの人は否定に価値を見出しています。
多くの人は、恐怖に駆られ、否定を選択します。
自分にとって受け入れがたい状況は、受け入れることを否定するのです。
それは、そのように読み解いているからです。
例えば、人生の言葉が自分を苦しめるためのものだと解釈しているのです。
自分を苦しめるための言葉だと解釈しているために、それを否定するのです。
多くの人は、嫌悪、退屈、苦悩、空虚、不足、不利、孤独、喪失(そうしつ)・・・
このようなものは必要ないと思っています。
多くの人が求めているのは楽しみであり、自分にとっての利益なのです。
多くの人は自分にとっての利益を幸福と呼びます。
自分の利益のために争うこと、憤慨(ふんがい)すること、他者を攻撃することを容認します。
嫌悪や苦悩といった、必要のないと思う状況から逃れるのです。
自分の思い通りに生きることは、価値のある生き方なのでしょうか?
思い通りにいかないことを否定する生き方に価値はあるのでしょうか。
人生はあなたの成長のために言葉を投げ掛けています。
すべての言葉はあなたの成長のためなのです。
そのため、人生には不要な状況は存在しません。
あなたは後にそのことを知るでしょう。
人生は、あなたの不足を知っています。
人生は、あなたの必要を知っているのです。
しかしながら、あなたは自らの不足を知りません。
そして、自らに何が必要であるかも知らないのです。
人生があなたを最善へと導きます。
人生の言葉を受け入れるのです。
人生が楽しくなくても良いのです。
楽しくないのであれば、楽しくないことから学んでいます。
人生が辛くても良いのです。
人生が苦しくても、人生に悩みを抱えても、人生に悲しんでも、それで良いのです。
どのような結果(状況)を得ようとも、それが最善です。
それ以上に良い結果など、どこを探しても見付かりはしません。
人生において価値のあるものは、あなたの我が儘(まま)ではありません。
目の前の経験こそが、価値のあるものなのです。
苦しみが悪いと誰が決めたのですか?
それは、あなたが決めたのです。
あなたがそのように読み解いたのです。
あなたは人生をどのように解釈するでしょうか?
あなたは人生の言葉に納得して、次の言葉を聞きましょう。

2017年2月5日日曜日

損益

この世界においては、陰と陽の相対的な力が働いています。
夜が明ければ昼となり、昼が暮れれば夜となるのです。
夜と昼は交互に訪れます。
夜と昼は、相互作用によって世界に豊かさを導いているのです。
夜だけでは豊かさを得られません。
昼だけでも豊かさは得られないのです。
陰陽の力が相対的に働くことが求められているのです。
多くの人は理想の実現を求めています。
それは、自分にとっての利益を求めているのです。
利益を求める時には、損失を否定します。
理想の実現を求める人は、理想が実現されないことを否定するのです。
理想の実現を求める人は、理想が実現する状況に向かって突き進むのです。
理想の実現を求める人は、理想が実現することだけを期待します。
多くの場合、理想が実現しないことを考えることはないでしょう。
理想の実現を求める人は、理想が実現した未来を考えているのです。
しかしながら、多くの場合、理想が実現することはありません。
残念ながら、理想が理想の形で実現することはないのです。
実現するのは、理想とは違った状況なのです。
利益だけを手にすることはできません。
利益の裏では、必ず損失が導かれているのです。
利益と損失の相互作用によって導かれる結果こそが、あなたの受け取る状況なのです。
それが最善であっても、多くの人には理解することができません。
自分の思い描く理想の形を求めるのです。
そうすることによって、最善を否定することになるのです。
最善を否定するのであれば、豊かさを導くことはできません。
自分の思い描く理想を追い求める人が、理想を実現することはありません。
それは、追い求めるということは、常に不足するという状態を得ているからなのです。
不足しているために追い求めなければならないのです。
どのような状況を得ようとも、それが最善だと受け入れることによって、豊かさは導かれるのです。
利益だけを追い求める人生に豊かさはありません。
多くの人は積み重ねることだけが最良だと思っています。
そして、積み減らすことは最悪だと思い込んでいるのです。
減ることは損失だというのです。
この世界には、陰陽の理(ことわり)が存在します。
どちらが善で、どちらが悪ということではありません。
陰と陽はどちらも豊かさを導きます。
夜が乏しさを導く訳ではありません。
昼が豊かさを導く訳でもないのです。
夜と昼が共に豊かさを導いているのです。
積み重ねることも豊かさを導き、積み減らすことも豊かさを導きます。
しかしながら、陰と陽が相互作用をしなければ、積み重ねることで乏しさを導き、積み減らすことでも乏しさを導くのです。
夜だけが続けば乏しいでしょう。
昼だけが続いても乏しいのです。
夜と昼の相互作用が重要なのです。
多くの人は積み重ねることを欲します。
積み重ねるだけでは乏しさが導かれるのです。
積み減らす必要があるのです。
利益ばかりを求めては、却(かえ)って乏しくなるということを知りましょう。
損失を得るということは、誰かに利益を与えていることなのです。
利益を与えられた者は利益を運ぶでしょう。
それは、巡り巡ってあなたに導かれるのです。
抉(えぐ)れた土地に水が走ります。
地面に空いた穴には、水が溜まるのです。
盛り土は水を否定するのです。
損失を得たと思っても、利益を得ているのです。
利益を得たと思っても、損失を得ているのです。
土を盛れば土が得られ、水を失います。
土を掘れば水が得られ、土を失います。
そこには、陰と陽の相対的な力が働きます。
価値の変換が行われているだけです。
表面的な情報に惑わされて、心を汚さないようにしましょう。
積み重ねることだけに努めてはなりません。

2017年2月4日土曜日

潜在する可能性

すべての存在には、可能性が潜在しています。
すべての存在が大いなる可能性を秘めているのです。
この世界において、可能性を潜在しない存在はありません。
それがどのような存在であれ、可能性に満ちているのです。
多くの人は、可能性を軽んじています。
例えば、ある人にとって枯れ葉は利用価値の無いものなのです。
しかしながら、あなたは枯れ葉の利用価値を知っています。
それは、炎の媒体(ばいたい)となり、肥料の媒体ともなります。
目の前の状況においては、利用価値の無いものであっても、別の状況においては大きな価値を持つのです。
また、あなたには利用価値の無いものであっても、他者には価値のあるものである場合もあるのです。
どのようなものであっても、必ず価値を潜在しています。
あなたが豊かな人生を望んでいるのであれば、すべての存在に潜在する価値に気が付くことが必要です。
潜在する価値に気が付くことがなければ、あなたがその恩恵を受けることは出来ません。
目の前に存在する価値を軽んじるのであれば、人生に価値を散りばめることは出来ないのです。
小さな価値の継続こそが、人生を豊かなものとするのです。
例え、大きな価値を手に入れようとも、価値が継続しなければ、乏しさはすぐに訪れるのです。
大きな財産を手に入れようとも、それをただ浪費するだけならば豊かな人生と認めることは出来ないでしょう。
多くの人は、大きな価値を求めます。
大きな価値を求めることが悪いという訳ではありません。
大きな価値を求めることがなければ、人生が展開することはないからです。
寧(むし)ろあなたは、大きな価値を求めなければなりません。
しかしながら、その要求が力量を超えた時には、乏しさが訪れることになるのです。
多くの人が人生に豊かさを感じてはいません。
多くの人が問題に苦悩し、人生に乏しさを感じているのです。
それは、要求が力量を超えているからに他なりません。
問題の原因はいつも単純です。
そして、いつも簡単なことなのです。
問題の原因はあなた自身であり、それ以外ではありません。
あなたが要求を力量に合ったものに改めることによって、問題は解決するのです。
要は欲張り過ぎているのです。
それは、大きな価値に目が眩(くら)み、小さな価値を軽んじているということなのです。
小さな芽も、何十、何百倍もの大きな葉となります。
それは、芽がそれだけの価値を潜在していたことに他なりません。
小さな花芽は、絢爛豪華(けんらんごうか)な花となります。
芽は葉となり、やがて枝となります。
花芽は花となり、やがて果実となるのです。
小さな種子が大樹となることを知らない人がいるでしょうか?
どのような大樹も、始めは小さな種子であり、種子の前は可能性であったのです。
可能性から種子が生まれ、やがて大樹となるのです。
そのため、この世界に存在するすべてには、始めから可能性が潜在しているということなのです。
すべての存在が豊かさを導く価値を有しています。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
それは、自分の尺度(しゃくど)によって価値を計っているからです。
残念ながら、あなたの視野は限定的であり、すべてを見通すことは出来ません。
そのため、あなたは必ず可能性を見失います。
そこで、覚えておかなければならないのが、すべての存在が価値を潜在しているということなのです。
利用価値の無いものは存在しません。
意味が有るために存在しているのです。
この世界において、意味の無いことなどないのです。
振り返ることで何と無く理解することも出来るでしょう。
あなたは、すべての価値が変換されるということを覚えておきましょう。
そして、その価値はあなたが考えているよりも大きなものであることを知るのです。
それは、あなたにも言えることです。
あなたは可能性によって生まれたのです。
あなたの本質は可能性です。
そのため、あなたの人生には可能性が満ちているのです。
諦めるのであれば、花芽が花となることはありません。
一つの道に拘(こだわ)れと言うのではありません。
あなたは道を変更しても良いのです。
しかしながら、どのような道を得ようとも、自らの可能性を諦めてはなりません。
心配することなく、自らに潜在してる可能性と向き合いましょう。

2017年2月3日金曜日

種火

人生とは、それぞれの人の学びです。
人生とは、それを生きる人のものなのです。
あなたの人生はあなただけのものです。
他者の人生は他者だけのものです。
あなたは他者の人生を生きることはできず、他者があなたの人生を生きることはできません。
あなたが他者の人生に介入することはできず、他者があなたの人生に介入することはできません。
誰も、他者の人生を創造することはできないのです。
しかしながら、人は他者の人生を生きようと考えます。
他者の人生に介入しようと試みるのです。
多くの人は、自分と他者の人生を混同して考えています。
多くの人は、他者の人生に介入しては余計な世話をやくのです。
多くの人は善意によって、ある人は悪意によって、またある人は無意識の内に、他者の人生に介入します。
そして、他者の人生を掻き乱すのです。
しかしながら、本人にはそのような自覚はありません。
多くの場合、人は貢献したと思い込んでいるのです。
どのような善意も、他者の学びを歪める行為として結果を結びます。
他者は学ばなければならないのです。
それがどのような問題であれ、それを苦しむ必要があるのです。
多くの人は善意によって、他者を自分のように考えます。
そして、善意によって、自分を助けるように他者を助けるのです。
苦しんでいる人を助けることは大切です。
しかしながら、本質を見失うのは問題です。
あなたは、その人がなぜ苦しんでいるのか?を考えなければならないのです。
それを考えないために、無作法に他者の人生に介入するのです。
その人が苦しんでいるのであれば、苦しむ必要があるのです。
それは、苦しみを生み出す原因を抱えているということだからです。
その人は、自らの抱えている苦しみの原因を認識する必要があるのです。
そうでなければ、それを取り除いてやったところで、同じ結果に行き着くだけだからです。
稼ぎ方を知らない者に資産を分け与えても、資産を食い潰すだけなのです。
そのような者には、稼ぎ方を教えることが最善です。
同情によって資産を分け与える方法で介入するのであれば、問題と苦しみを増長するだけなのです。
その人が苦しまなければ学ぶことができないにも関わらず、同情によってその学びを乱してはならないということなのです。
種火を乱せば、火は燃えません。
燃焼しなければ、力は使えないのです。
力の無い人の人生は、乏しさに苦悩するだけのものとなるのです。
あなたは豊かさを享受(きょうじゅ)するために生まれたのです。
豊かな人生を生きることが求められているのです。
種火を丁寧に扱い、大きな炎に育てなければなりません。
他者の人生に介入しようと試みることは、他者の種火を乱すことに繋がります。
実際には、他者の人生に介入することはできません。
そのため、他者の人生に介入しようと試みる間に、自らの人生の種火が消えてしまうということなのです。
あなたが努めなければならないのは、自分のことです。
自分の人生も豊かなものにする力が無いのに、どうして他者の人生を豊かなものにすることができるのでしょうか?
あなたの種火が大きく燃えているのであれば、他者はそれに見習うこともできるでしょう。
他者の人生に割り込むことをやめましょう。
親子だろうと、兄弟だろうと、夫婦だろうと、友人だろうと、関係の無いことです。
他者の学びを邪魔してはならないのです。
歪んだ善意を振り翳(かざ)すのをやめましょう。
自分と他者を混同する者は、豊かな人生を築いていません。
自分に誇(ほこ)れるものが無いために、他者に介入するのです。
乏しく生きる者は不足します。
そのため、他者から奪う必要があるのです。
豊かに生きる者は満ち足りています。
そのため、他者から奪う必要がないのです。
他者の人生に介入するということは、他者の学びを奪う行為なのです。
例え、相手が助けを求めても、相手のことを考えて行動しなければなりません。
相手が安全に学べる(苦しめる)ように導くのです。
それ以上のことをしてはなりません。
余計な手出しをしてはなりません。

2017年2月2日木曜日

価値観の形

人は、多くを求めます。
どのような人も、多くを求めているのです。
どのように少なく求める者であっても、多くを求めているのです。
人が欲求から離れることはできません。
人生の目的である成長を実現するためには、欲求は不可欠だからです。
欲求を手放すということは、成長や人生の目的を手放すということです。
そのため、人が欲求を離れることはできません。
どのような人物も、必ず欲求を持っているのです。
すべての人は、多くを求めています。
それは、実力よりも欲求が勝っているということです。
例えば、多くの人が理想の実現を望んでいます。
理想の実現を望むということは、現状が理想的ではないということです。
理想に対して不足している事態が現状には存在しているのです。
しかしながら、現状は実力の現れです。
現状は実力なのです。
すべての人が理想を求めていますが、それは、実力よりも多くを求めているということなのです。
”わたし”は多くを求めることを推奨(すいしょう)します。
あなたは、多くを求めなければなりません。
実力にとどまってしまえば、停滞してしまうからです。
それでは、人生の目的を果たすことはできないのです。
あなたは常に実力を上回る必要があるのです。
しかしながら、多くの人が求めれば理想が実現すると考えています。
情熱を以て努力することによって、理想は実現するのでしょうか?
理想を実現するためには、情熱を以て努力することは必須です。
怠惰(たいだ)で物憂(ものう)い者が理想を実現することはできません。
情熱と努力というものは基本であり、それだけで理想が実現するということはないのです。
理想を実現したいと考えている誰もが、情熱を以て努力をしています。
しかしながら、理想が実現することは稀(まれ)です。
理想を実現させるための条件とは、情熱と努力の量ではないのです。
それは、価値観です。
価値観とは、自動車の運転手のようなものなのです。
情熱は暖機運転であり、努力は運動エネルギーなのです。
どれだけエンジンを回転させ、熱量を高めても、それを駆動力に変換することができなければ空転するだけなのです。
エンジンの熱量を駆動力に変換するためには、運転操作を必要としています。
運転手がいなければ、車は前進しないのです。
人が理想を実現するためには、価値観の形が重要なのです。
しかしながら、多くの人は価値観の形を軽んじています。
何の計画も勝算も無く、情熱と努力によって理想を実現しようとするのです。
残念ながら、人は価値観以上の存在にはなれません。
人生は、価値観を超えないのです。
あなたをどのような人物にするか?人生をどのようなものにするか?は、所有する価値観が決めるのです。
情熱や努力の量ではないのです。
どれだけエンジンを回転させても、その場を離れることができなければ景色は変わりません。
多くの人は意欲ばかりが多く、物事の表面的な部分に捕らわれます。
情熱と努力だけでは、物事の本質を見極めることはできないのです。
エンジンが高速で回転している時には、自動車を発進させることはできません。
それは可能ですが、発進させたと同時に道を外れ、事故を起こすでしょう。
運転手の力量が、自動車の後の状態を決めるのです。
成熟した価値観は、人生を豊かな状態に導くでしょう。
未熟な価値観は、人生を乏しい状態に導くのです。
情熱と努力は必要不可欠な要素です。
しかしながら、価値観の形はそれよりも大切なのです。
排気量の小さい自動車であっても、前進することで目的地に辿り着くのです。
排気量の大きい自動車であっても、前進することがなければ目的地に辿り着くことはできません。
あなたは、情熱と努力を上手に操作する価値観を育まなければなりません。
価値観とは、知識と経験によって育まれます。
それは、知恵とも言えるのです。
知恵が乏しければ、情熱と努力は成果を結びません。
知恵の豊かさによって、情熱と努力は成果を結ぶでしょう。
価値観の形を重要視しましょう。

2017年2月1日水曜日

正直者は得をする

すべての人は、人生に豊かさを求めています。
すべての人がそれぞれの考える豊かさを求めているのです。
しかしながら、自らの考える豊かな人生を得られる人はいません。
それは、この世界においては、決して理想は実現しないからです。
多くの人は理想の実現こそが豊かさだと考えています。
理想に反する状況を嫌うのです。
多くの人が苦悩しているのは、現実が理想に反しているからです。
思い通りに進まない展開に憤(いきどお)っているに過ぎないのです。
苦悩の本質とは、その程度のものなのです。
苦悩とは思い込みです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
あなたが苦悩を抱えているのであれば、それは自分自身で作り上げているだけなのです。
人生を豊かなものにするためには、苦悩しないこと(厳密に言えば、苦悩を引き摺(ず)らないこと)が第一条件です。
現実と理想の狭間で苦悩するような者が、豊かな人生を実現することはできないのです。
理想は幻想に過ぎず、それは豊かさではないということを理解する必要があるでしょう。
多くの人は、理想を実現することに必死です。
理想の実現こそが豊かさであると考えているために、理想の実現のために尽力します。
しかしながら、多くの人は理想を実現するためならば、偽りを受け入れているのです。
多くの人は理想を実現するために偽りを用います。
理想の実現のために嘘を吐くのです。
自分自身にも、他者にも偽るのです。
偽りとは、その時点で矛盾です。
矛盾を抱えるものは必ず歪みます。
どのようなものであっても、歪みから崩壊に繋がるのです。
矛盾を抱えるものは、どのようなものであっても必ず崩壊します。
どのようにしなやかな枝も、捻り曲げれば折れるのです。
どのように堅固な鉄板も、捻り曲げれば同じです。
矛盾を抱えて豊かさを得られるものはありません。
あなたが人生の豊かさを求めているのであれば、偽りを用いてはならないのです。
何事においても矛盾が生じてはなりません。
少しの嘘も、積み重なることによっては、少しずつ捻りを加えることになるのです。
一気に捻り曲げても、徐々に捻り曲げても崩壊は避けられないのです。
あなたが豊かな人生を得るためには、正直に生きることです。
正直に生きなければ、乏しさは夜の帳(とばり)のように音も無くやって来るでしょう。
あなたの目が、偽りによって閉じている時、夜が忍び寄ることに気が付くことはできません。
あなたは偽りによって光を失うことになるのです。
暗闇の中では何も見えません。
暗闇の中では触れていても知ることはできず、口に含んでも味は得られないのです。
あなたが苦悩の中にいる時には、何も得られないのです。
そこには当然、豊かさは存在しないのです。
正直に生きる者には矛盾がありません。
正直に生きる者は触れるものを知ることができます。
口に含んだものを味わうこともできるのです。
あなたが正直に生きる時には、多くを得られるのです。
盗人が豊かに生きることができるでしょうか?
盗人は常に弾劾(だんがい)と隣り合わせなのです。
誠実な商人が乏しく生きることがあるでしょうか?
誠実な商人は常に賞賛(しょうさん)と隣り合わせなのです。
他人から騙(だま)し取ることは難しく、他人と信頼を結ぶことは易しいのです。
それが理想の実現に対して不利に働くと(思ったと)しても、あなたが豊かさを求めているのであれば、正直を選ばなければなりません。
誠実に生きる者が苦悩を得ることはありません。
世の中を考察しなければなりません。
正直者が損をすることなど有り得ないのです。
その正直者が損を訴えているのであれば、偽善者であっただけです。
この世界の理(ことわり)を人間が超えることはできません。
豊かさを得る者は正直に生き、苦悩を得る者は偽りを選んだのです。
小さな価値観の善悪によって計ってはなりません。
善悪など、簡単に入れ替わるのです。
正直か、不正直かを問うているのです。