人は、それぞれの学びを所有しています。
	人は、それぞれの所有している学びに従わなければなりません。
	自由意思が許されているとすれば、それぞれの所有している学びの範囲においてです。
	人は、学びを離れることはできません。
	人は、学びに逆らうことはできないのです。
	どのような人物であろうとも、所有する学びを経験する必要があり、それに従った役割を演じる必要があるのです。
	人は、役割を通じて所有する学びの本質を得るのです。
	学びとは、歪みのために与えられた修正の機会なのです。
	歪みとは、知識が多過ぎたり、少な過ぎることによって生じる誤解のことです。
	人は、誤解を修正する方法を役割を通じて学んでいるのです。
	目的は誤解を修正することです。
	そのための学びなのです。
	学びの本質は、誤解を修正することだと理解しておきましょう。
	もしも、その事実を見失ってしまうのであれば、学びによって得られる結果の形も変わってしまうでしょう。
	すべての人は誤解を所有しています。
	所有する誤解によって、学びの意味を誤解しています。
	学びはあなたの誤解を修正しているにもかかわらず、他の結果を捻出してしまうのです。
	学びは様々な形で訪れます。
	学びは、所有する誤解を発見するのに最も適した形で訪れます。
	時にそれは幸運として訪れます。
	多くの人はその幸運に興奮し、大いに喜ぶでしょう。
	気分は高揚し、すべてが美しく輝くのです。
	そして、浮かれるのです。
	浮かれるとは、地に足の着いていない状態です。
	それは、本質を欠いた状態であるのです。
	幸運に浮かれる人は、既に苦悩しているということを覚えておきましょう。
	時にそれは、不運として訪れます。
	多くの人はその不運に絶望し、大いに苦しむでしょう。
	気分は落ち込み、すべての色が失われるのです。
	そして、失意に至るのです。
	失意に至る状態は、水中を漂うような状態です。
	それは、本質を欠いた状態であるのです。
	不運に失意する人は、既に苦悩しているということを覚えておかなければならないのです。
	幸運も不運も、その”見た目”に惑わされてはなりません。
	それは、学びの形に過ぎないからです。
	あなたが覚えておかなければならないのは、学びとは、自らの誤解を修正することだということです。
	学び自体には何の価値もありません。
	幸運も不運も、何の意味もないのです。
	多くの人は、幸運を求め、不運を否定します。
	しかしながら、そのような短絡的思考が学びを完結することはありません。
	幸運を求める人には幸運が続くかも知れませんが、幸運も続けば時間の無駄なのです。
	なぜなら、そこには変化の原動力が希薄(きはく)だからです。
	人は愚かな存在です。
	不運であれば、内向し、自らを革新する可能性もあるでしょう。
	しかしながら、幸運を前にした時には、その状態を保守するように努めるのです。
	多くの人は、学びやその役割に左右されているに過ぎません。
	しかしながら、あなたは幸運を前にしても、不運を前にしても、同じように学びましょう。
	幸運を喜ぶのは誤解です。
	不運に苦しむのも誤解なのです。
	そこには、誤解を修正する手段が存在するだけなのです。
	幸運だから、不運だからどうということではありません。
	どちらが訪れたとしても、あなたのやるべきことは同じです。
	あなたは誤解を修正するだけです。
	人生とは、それ以上の特別なものなどではありません。
	すべては見せ掛けに過ぎないのです。
	本質を見失わないようにしましょう。
	
0 件のコメント:
コメントを投稿