この世界においての美しさとは、陰陽の一つの姿です。
陰陽が一つに重なることによって、そこに輪郭が生まれるのです。
晦冥(かいめい)だけでは輪郭は生じません。
そこには、ただの暗闇が広がるのです。
光明だけでも輪郭は生じません。
そこには、ただの光が広がるだけなのです。
陰陽の協力によってのみ、美しさが生じるということを覚えておかなければならないでしょう。
しかしながら、多くの人は陰を嫌います。
多くの人は陰を嫌い、陽を求めるのです。
それは、土を嫌い、花を愛でるようなものです。
多くの人は花を好みます。
しかしながら、土は嫌うのです。
花を美しいと思ってはいますが、土を汚らわしく思っているのです。
植物が花を咲かせるためには、土が必要です。
それも、腐敗した土が必要なのです。
植物が花を咲かせるには、多くの栄養が必要です。
植物に必要な栄養は昆虫や微生物の糞尿にこそ存在しているのです。
植物にとっての美しい土とは、腐敗している土なのです。
植物は腐葉土から栄養を得ることによって、花を咲かせるのです。
昆虫や微生物の糞尿が花を咲かせるのです。
多くの人は花を好みますが、昆虫や微生物を好みません。
昆虫や微生物の糞尿は更に好まないのです。
そして、腐葉土を嫌うのです。
多くの人の好む土とは、昆虫や微生物の糞尿にまみれていない土だとでも言うのでしょうか?
砂漠の砂や、鉱山の石礫(せきれき)によって、植物に花を咲かせようと考えるのでしょうか?
すべての人は歪んでいます。
それは、未熟であるからです。
すべての人は、自分にとっての陰陽を所有し、その内の陰を嫌い、陽を好みます。
腐葉土を嫌う反面、花を愛でるようにです。
しかしながら、自然界においては、腐葉土と花は協力しています。
互いの存在が、美しさを実現しているのです。
腐葉土は陰ながら花を支え、花は陽を受けて腐葉土を支えているのです。
自然界は、すべてが協力関係にあるのです。
歪んでいる人の心には、そのことを理解することができません。
それは、人の心が不自然であるからです。
不自然な心には、自然の美しさを理解することはできないのです。
そのため、自分にとっての美しさを追い求めて、醜(みにく)さを咎(とが)めるのです。
美しいものだけを残し、醜いものを排斥(はいせき)します。
その結果、花は失われるのです。
不自然な心が見せるものは、不自然な美しさです。
それは決して、美しさではありません。
あなたの考えている美しさなど、決して美しさではないのです。
すべてを美しく見ることによって、美しさに気が付くことができるでしょう。
美しさと醜さを分け隔てている状態では、本当の美しさには出会えないのです。
化学肥料によって花が咲くと、自己を正当化するかも知れません。
しかしながら、そのような方法は持続不可能です。
作為には限界があるからです。
無為(むい)によって導かれる美しさだけが、無限なのです。
あなたの作為がなくても、自然界は花で彩られます。
しかし、あなたの庭は、作為が滞れば枯れてしまうでしょう。
あなたの庭が枯れた後に、自然の美しさが芽生えるのです。
この世界には、美しさが存在しています。
腐敗も美しさです。
歪んだ正義感を振りかざすような醜態(しゅうたい)を晒(さら)してはなりません。
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