他人に理解を求める必要はありません。
他人に理解を求めるのは無駄です。
他人が理解することは稀(まれ)でしょう。
人は自分自身の認識の中に生きているのです。
他人には、他人を完全に理解することはできません。
他人は他人であり、自分は自分です。
しかし、すべては繋がっています。
この世界には、独立した一つの存在が、一つの和を形成して存在しているのです。
二つのものが一つに成ったり、一つのものが二つに成るということではありません。
一つ一つのものが全体として和を生み出すのです。
そのため、他人はあなたを理解することができません。
他人に理解を求めるのは、筋が違っているのです。
必ずしも、他人が理解する必要はありません。
理解していなくても良いのです。
理解することがなくても、和を形成することはできるのです。
あなたはそのことを知らなければならないのです。
本当の意味で理解の上で動いているものはありません。
すべてには誤解があるのです。
それぞれに違うものを持ち合わせているからこそ、すべては和を形成して動いているのです。
すべてが同じであるのならば、一つの和を形成することはないのです。
あなたはこのことを理解しなくても構いません。
必ずしも、理解することが重要なのではないのです。
大多数の人が理解することができるものが優れているのでしょうか?
人類の英知が辿り着く場所は、常に大多数の人が理解の及ばないものです。
理解が及ばないものによって、発展するのです。
物体が広がりを見せる時には、未知に対して進み出さなければなりません。
未知に理解は及びません。
そのために、理解とはそれほど重要なものではないのです。
人は、弱さに従って自分を理解する人を求めています。
そして、理解してくれそうな人を見付けると依存します。
果たして、それが正しい方法なのでしょうか?
依存によって、同化するということは、違いが失われるということです。
違いが失われるのであれば、広がりを得ることができないでしょう。
未知に対して追求する者がいなければ、成長発展は有り得ないのです。
理解されることを求める余り、不理解を恐れます。
その結果、理解されることばかりを選択するようになり、成長発展が失われるのです。
光源に対して、立ち位置が違えば、その影は違う方向に違う形を成すのです。
立ち位置が違うにも関わらず、影を同じ方向の同じ形を望むのはおかしなことなのです。
人はそれぞれに独立した存在です。
それぞれの魂のレベルや学びに相応しい立ち位置を得ます。
人が真理(状況)を見る時には、立ち位置が違うのです。
光源に対する影の形が違うように、真理に対する理解(認識)も違うものになるのです。
それが、自然であるのです。
それを同じにしようというのは不自然であるということを覚えておかなければならないのです。
他人の人生ではないのです。
これはあなたの人生なのです。
他人に理解されることがなくても、そんな小さなことを気にしてはなりません。
他人に嫌われることよりも、自分の心が汚れることを気にしなければなりません。
この世界には、あなたが出会うこともない人間が無数に生きています。
あなたが理解を求めているのは、全人類の何人のことを言っているのですか?
あなたが求めている理解とは、小さなものではありませんか?
判断は、全体のことを見てからでなければなりません。
この世界のことを知らないのに、勝手な判断で落ち込んでいてはなりません。
他人に理解を求める必要などないのです。
このことを知らずに生きている人が多いのです。
このような人は、他人の目を気にして、結局は自分の人生を生きることができないのです。
そうならないためにも、理解を気にしてはならないのです。
正しいと思うことであるのならば、独りでも行いましょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿