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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年4月30日土曜日

すべての人は問題を抱えています。
どのような人物も、問題を避けることはできません。
すべての人が自らの抱える問題によって苦しむのです。
問題とは、自らの内に存在する”毒”です。
それは、汚れや歪みのことを言います。
人の抱える汚れや歪みとは、偏見や誤解のことです。
物事の本質を見極めることができていない状態では、それは、”毒”となってその人の脅威(きょうい)となるのです。
物事の本質を見極めることができず、偏見や誤解によって事を行えば、結果として苦悩が導かれるのです。
すべての問題は、偏見や誤解に起源しています。
人は自らの”毒”によって苦しんでいるのです。
展開しない状況、身体的、精神的な病。
人間関係の不調和、満たされない心。
これ等の問題の原因は、偏見や誤解にあり、それ以外の本質を持たないのです。
あなたが本質を見極めることができないために、苦しんでいるのです。
本質を見極めることができれば、その学びは修了です。
修了した学びを再び学ぶ必要はありません。
そのため、あなたが問題としている対象に対して、偏見や誤解を生じることがなければ、その問題は解決し、それによって苦しむことはなくなるのです。
問題の解決は”毒”を取り除くことです。
それは即(すなわ)ち、偏見や誤解を手放すということなのです。
しかし、多くの人はそのことに気が付きません。
自分が正しいという根拠の無い信念によって、偏見や誤解を手放すことはありません。
偏見や誤解を手放すことが人生の目的であるため、あなたがそれ等を手放すまで、問題による学びは続くのです。
毒を飲むのを止めなければ、苦しみは続くのです。
この当然のことを止めれば良いのです。
しかし、人は自らの飲んでいる”それ”を毒であるとは思っていません。
寧(むし)ろ、良薬であると思い込んでいるのです。
そこにも、偏見と誤解が存在しています。
良薬を飲んでいると思い込んだまま、苦しみは続くのです。
毒を以て毒を制してはなりません。
それは、より強力な毒に違い無いからです。
毒を制するほどの猛毒を飲んでどうするのですか?
それが、あなたを救うと思っているのですか?
偏見や誤解を手放しましょう。
そのためには、現在の見解を疑うことです。
多くの人は自分が正しいと思っています。
口ではそう言わない人物も、腹の中ではそのように考えています。
そのため、苦しんでいるのです。
苦しんでいるすべての人が、自分が正しいと思っているのです。
結果は原因を知らせます。
嘘は結果によって暴かれるのです。
人々の内には偽善者が多いのです。
あなたは自分も他人も正しくないということを理解しましょう。
苦しんでいる人は正しくはないのです。
問題を発生させている毒よりも、更に強力な毒を飲んで症状を紛らわせているに過ぎません。
その状態を幸福と呼んでいるに過ぎないのです。
その時には、以前の苦しみからは解放されるでしょう。
しかし、猛毒を飲んだのだから、より強力な苦しみが現れることになるのです。
あなたは間違っています。
他人も間違っています。
世間も間違っています。
あなたが苦しいと思うものには感謝しましょう。
あなたが喜びと思うものには警戒しましょう。
間違っているのだから、反対のことをするのです。
毒を以て毒を制してはなりません。
毒を飲まないことによって、毒を吐き出しましょう。

2016年4月29日金曜日

正統な富

あなたは豊かさを目指さなければなりません。
すべての存在は豊かにあるべきです。
どのような存在も、乏しさに苦しんでいてはなりません。
豊かさとは成長によって導かれます。
人生は、その人の成長段階に従って築かれるのです。
そのため、導かれる目の前の状況は、その人の成長段階に相応しいということを覚えておきましょう。
成長段階に相応しくない状況は導かれません。
そのような人生を生きることもできないのです。
あなたが乏しいと感じるのであれば、成長する必要があるということなのです。
どれだけの努力をしようとも、どのような方法を用いようとも、人生が豊かさを得ることはありません。
あなたが成長することがなければ、人生が変わることは有り得ないのです。
あなたは心を成長させなければなりません。
それは、魂の成長に繋がります。
心を成長させるためには、それを純粋なものにすれば良いだけです。
純粋な心とは、非我(ひが)に根差した心のことです。
それは、自我には根差しません。
非我とは、自己を取り除いたすべてのことです。
多くの人は自我という人格を所有しています。
それは、魂の汚れであり、自分中心の思想を導きます。
人は、人生にそれを清めるために存在しているのです。
そのため、自我に捕らわれ、自分勝手に振る舞う者は乏しさを得ます。
その精神が幼いほど、人は自分勝手な振る舞いを選択するのです。
幼い心であるほど、自分を中心とした狭い視野しか持つことができないのです。
幼い子どもは、我が儘(わがまま)を通そうとするでしょう。
精神の成長と共に、我が儘を恥じるようになるのです。
それは、経験と共に心の汚れを清めたからです。
清めた分だけ、心は軽くなり、不足を訴える必要を失うのです。
幼い子どもは不足を訴えているに過ぎません。
我が儘に振る舞う人は、不足しているのです。
それを満たそうと必死なのです。
ただ、それだけです。
満たされると穏やかさを得るでしょう。
それが、豊かさというものです。
多くの人は不足しています。
そのために、自分勝手に振る舞うのです。
多くの人は不足しているために、見返りを求めます。
保証を得ることが約束されなければ不安なのです。
乏しさに苦しんでいる者の特徴は、不安であるということです。
この人生において不安を抱えている者ほど、乏しさを抱えているということを知りましょう。
成長することによって、人が不安を抱えることはなくなります。
純粋な心ほど、不安を所有する必要がないのです。
それは、満たされているからです。
あなたは見返りを求めてはなりません。
見返りを求めずに行いましょう。
あなたが豊かさを得るためには、良心からの施(ほどこ)しを受ける必要があるのです。
相手が、あなたに与えたいと思うものを受け取るのです。
あなたが欲するものを受け取るのではありません。
盗人は人々に拒(こば)まれます。
自ら欲する者は、人々に退けられるのです。
あなたは自我に根差してはなりません。
それは、乏しい道です。
見返りを求めて行ってはなりません。
それは、乏しい道です。
純粋に行いましょう。
それは、豊かな道なのです。
非我に根差し、見返りを求めずに行いましょう。
そうすれば、相手はあなたに与えたいと思うものを、良心に従って施すでしょう。
良心からの施しは、正統な富であるということを覚えておきましょう。

2016年4月28日木曜日

嘆き

人は、人生において不足しなければなりません。
人生には不足が付き物です。
不足を得ない人はいません。
どのような人物であろうとも、何かを不足しているのが”普通”なのです。
あなたは、不足を特別なものとしてはなりません。
多くの人は不足を特別なものと考えています。
そして、そこに苦悩という”特別”な感情を用いるのです。
不足していることが”普通”であるのに、どうしてそれに苦悩という”特別”な感情を用いるのでしょうか?
不足に対しても、”普通”の感情である喜びを用いれば良いのです。
人は、喜びを覚えるのが”普通”です。
”普通”人は喜んでいるのです。
気分が落ち着き、思いやりに溢れているのが”普通”なのです。
多くの人はそのことを知りません。
怒りや悲しみなどのネガティブな感情に支配され、苦悩を抱えているのが”普通”だと思い込んでいるのです。
そのため、何かしらの不足に会えば、すぐに苦悩を抱えてしまうのです。
それは、それが”普通”だと考えているためです。
多くの人とは間違った認識により、間違った常識を抱えています。
そのため、多くの人が不満を覚えているのです。
人生とは、成長の場所です。
そこでは、自らの汚れと歪みを取り除くことができます。
それを喜びと言わずになんとするのでしょうか?
成長することは、何よりも幸福なことなのです。
成長するには不足を味わう必要があります。
不足は苦悩を導きますが、成長するためにはそれが必要なのです。
不足を得ることによって、人は多くを学ぶことができます。
不足によって満ち足りるということを学ぶことができます。
不足を得なければ、何が満ち足りるという状態かを理解することができないのです。
そのため、人は不足に対して喜ぶのが”普通”なのです。
しかし、多くの人は無知を生きているために、この至極”普通”のことに気が付きません。
不足に対して苦悩することが”普通”だと考えているのです。
それは、そのように教わるからです。
人の世は、真理を誤解しています。
大抵のことが反対の解釈として理解されるのです。
喜楽は善であり、苦労は悪というようにです。
人生を生きていれば分かることですが、喜楽を選べば可能性は途絶え、苦労を選べば可能性は広がるのです。
多くの人は不足に対して嘆(なげ)いています。
しかし、良く観察してみましょう。
嘆いている者が不足しているのです。
無知な者の過ちは、不足を苦しむということなのです。
例えば、お金に困っている者は、お金が不足していることを嘆いています。
しかし、お金に困っていない者は、お金に不足しているとは嘆かないのです。
これを”普通”のことだと思ったのであれば、あなたは無知な者でしょう。
お金に不足していない者が嘆かないのではありません。
嘆かないから不足しないのです。
この考え方の違いを理解しなければなりません。
この世界には因果の仕組みが存在しているのです。
原因はあなた自身にあり、結果は状況に反映されます。
あなたの思考や感情こそが原因です。
結果があって、原因があるのではありません。
例えば、お金という結果があって、心境という原因があるのではないのです。
お金を所有するという状況は、心境の副産物に過ぎないということを覚えておきましょう。
(お金を多く持てば優れているという意味ではありません。寧ろ反対です。愚か者は金銭に戯(たわむ)れるでしょう)
すべては、意識によって始まるのです。
あなたが不足に対して嘆く程、苦悩が続くということを覚えておきましょう。
苦悩を得たくなければ、嘆くことをやめましょう。
ただそれだけのことです。

2016年4月27日水曜日

些細なこと

人は、それぞれに目的を持っています。
人はそれぞれ、それぞれの目的のために動くのです。
自らの目的のために、感情と思考が与えられました。
人は、それぞれの目的のために感情と思考を用います。
感情と思考は、それぞれの経験によって構築されました。
人は、自らの経験に従って行為するのです。
それは、目的達成のための道筋を明らかにします。
それぞれの人は、それぞれの経験によって培(つちか)われた感情と思考によって、目的達成のための手順を決めているのです。
人は、それぞれに異なった状態で経験を得ています。
経験自体には変わりはありませんが、人の状態が違うのです。
それは、何かしらの経験に対して、異なった感情と思考を導くでしょう。
そのため、次にどう行動するか?は、人それぞれに違いが生じるのです。
人が互いに協力する時には、目的は同じものです。
しかし、共通の目的に対しても、それぞれの状態が反映されるのです。
共通の目的に対しても、人はそれを自らの目的として扱います。
自らの目的として扱うのであるから、自らの手順を踏むことになるのです。
目的地は同じであっても、その道順は違うのです。
どの道を選ぼうとも、目的地に到着すれば良いのですが、多くの人はそのことを理解しません。
多くの人は過程を大切にしているからです。
多くの人は”小さな世界観”の中に生きています。
小さな世界に生きる人は、自分の常識を重視します。
それは、小さな世界に生きているために、それ以外の常識を知らないからです。
常識とは、体系化した知識によって導き出される判断力です。
人は、様々なレベルの常識に従って生きています。
全体的なものから、個人的なものに至るまで、常識には多くの形があるのです。
常識は、人それぞれに違うものであるということを理解しましょう。
それぞれの家庭には、それぞれの常識があります。
それは、その家庭において蓄積され、体系化された知識によって導き出される判断と、別の家庭のそれが違うことにより、そこに生きる人の判断力に違いが生じるためです。
常識とは判断力であるため、それは人それぞれに違うものとなるのです。
別の常識に触れた時、人はその違いに驚きます。
別の常識における判断には、理解が及ばないことが多いのです。
そのため、あなたは他人の行動に対して理解ができない時があるはずです。
なぜ、他人がそれを喜び、それに苦しんでいるのか?ということが理解できない時があるでしょう。
判断の違いによって、感情と思考が形を変えます。
それを苦しみと判断するのであれば、感情と思考は簡単にネガティブな状態を得るのです。
それを喜びと判断するのであれば、感情と思考は簡単にポジティブな状態を得るのです。
人の心は、とても簡単な構造をしています。
その判断によって、本質的には同じものを別のものとしているのです。
あなたには、他人を従えることはできません。
他人は他人の常識に従うことをやめないからです。
しかし、多くの人はそのことを理解することができません。
そのため、他人に対して自らの常識に従うように求めます。
しかし、他人はそれを受け入れません。
その結果として、憤(いきどお)りが導かれ、苦しむことになるのです。
あなたは他人を従える必要がないということを覚えておきましょう。
人は、目的だけを堅固に保っていれば良いのです。
その手順を限定する必要などないはずです。
本質としては、目的が達成されれば良いだけなのです。
過程に相違があることなど、些細(ささい)なことに過ぎないのです。
別の常識を理解することができない無力こそが、人を苦しめていると知らなければならないでしょう。
目的は何ですか?
あなたはそれを堅固に守りましょう。
多くの人は無意識の内に目的を見失っているのです。
そして、常識の違いを否定します。
親子であろうとも、兄弟であろうとも、常識は別のものです。
手順の違いに苦悩してはなりません。
あなたは他人と目的を共にしましょう。

2016年4月26日火曜日

高嶺の花

他人に求めてはなりません。
他人に期待を寄せても、あなたの思い通りにはならないでしょう。
これは、あなたの人生です。
誰かに求めても、あなたは満たされることができないのです。
多くの人は他人に求めています。
それは、自分の欲求を満たすためです。
人はそれぞれに理想を掲げ、それを実現したいという欲求を所有しているのです。
それを実現するために、自力に頼るということはありません。
多くの人が、他人の力に依存して実現しようと考えているのです。
それは、楽を求めているからです。
効率とは、楽を求める行為なのです。
効率的に行うことは多くの利益を導きます。
それは、あなたの理想を実現するにも有益なことでしょう。
しかし、人生の目的と意味を得るには不向きです。
人生の目的と意味は、自分にとっての多くの利益を得ることではありません。
利益にも様々な形がありますが、多くの人は自分の理想を実現したいという、自己中心的な利益を求めているのです。
自己中心的な利益を得なくても、人生の目的と意味を成し遂げることはできます。
理想を実現することが、必ずしも人生の目的と意味ではないからです。
未熟な存在である人間の理想とは、汚れと歪みを所有しているのです。
人間の理想が実現するのであれば、人生には汚れと歪みが生じるということなのです。
多くの人は理想を実現しようと努めていますが、必ずしも理想が実現することが最善ではないということは知っておかなければならないでしょう。
実力の及ばないことを実現して何になるというのでしょうか?
理想とは、多くの場合、実力以上の結果です。
実力に相応しいことは既に実現しています。
理想とは、実現していない状況のことであり、それは、自分にとっては高嶺(たかね)の花であるのです。
実力が及ばない高嶺の花を手に入れるために、人は他人にその協力を求めるのです。
しかし、他人は自分の思い通りには動いてくれません。
そこに生じる、理想と現状との差によって、人は欲求不満に陥(おちい)るのです。
他人に求める人は苦しむでしょう。
誰かに依存し、求めるのであれば、人が豊かに存在することはできないのです。
それは、実力を育むことをせずに可能性を狭めるからです。
そして、欲望が心に根差しているためです。
人は、実力の範囲内で存在しなければなりません。
実力に対して大き過ぎる力を扱うことはできません。
しかし、多くの人は欲望に突き動かされて見栄を張るのです。
そして、自分にはそれを実現することができると考えるようになります。
他人の協力によって欲望が実現することはあります。
しかし、それを維持するのは簡単ではありません。
他人が協力することによって重たい荷物を抱えていたとしても、他人が協力を続けるとは限りません。
自力を中心として考えていなければ、少しのことで成り立たなくなってしまうのです。
自力によって支えることができなければ、安定はないのです。
あなたはできる限り、理想を実力の範囲内で実現するようにしましょう。
他人に多くを求めるのであれば、その人はあなたを去るでしょう。
自分の仕事でない仕事を押し付けられることは、誰にとっても苦痛なのです。
すべての人は、自分の人生を生きています。
それは、他人のための人生ではないのです。
依存は自力を育まず、その時は良いにしても、結果として破滅を招くのです。
人は欲望に従ってはなりません。
見栄を張り、実力を見誤ってはなりません。
自力を中心とした計画を立てなければなりません。
そうでなければ、あなたは苦しみを得ることになるでしょう。
実力以上の荷物を抱えて、豊かさを得た者はいません。
誰もが、その荷物の下敷きになってしまうのです。
謙虚になければなりません。
できないことは、できるようになってからで良いのです。
焦ってはなりません。
焦りは、道を誤ります。
足元に咲く花を愛(め)でましょう。

2016年4月25日月曜日

蝶を捕らえる

人は、人生において成長しなければなりません。
すべての存在は向上を求められています。
人にとっての向上とは、霊的な向上です。
それは、より純粋な存在になることなのです。
そのためには、汚れと歪みを取り除かなければなりません。
魂に染み付いた汚れと歪みは、人生において清算することができるのです。
人生とは、魂の汚れを取り除く時間なのです。
しかし、ただ生きているだけでは実現しません。
汚れと歪みを取り除くためには、成長する必要があるのです。
ただ生活しているだけでは成長はありません。
繁栄は得られるかも知れませんが、霊的な成長は実現しないのです。
多くの人はそのことを知りません。
そのため、豊かに生活することを最大の目的としているのです。
豊かに生活することは良いことではありますが、それを人生の目的であると誤解してはなりません。
豊かな生活を得たとしても、その時にはあなたの心は虚しさを覚えるのです。
どれだけの財産を所有し、どれだけの人間関係を築き、どれだけ長生きしたとしても、あなたは心の虚しさを拭うことはできないのです。
それは、人生の目的がそこにはないからです。
この言葉を信用することができないのであれば、あなたは財産、人間関係、長寿を求めてみましょう。
あなたはいつか、この言葉の真意を理解することができるでしょう。
すべての事柄には、本質が存在しています。
”わたし”の言葉にも隠された真意があるように、すべての事柄には”神”の真意が込められているのです。
それは、最も深い場所に込めれられています。
そのため、本質を捕らえるのは簡単なことではありません。
ただ、生活するだけ、豊かな生活を営むだけでは、人生の本質を理解することはできません。
生活を楽しむだけの人は、人生の終わりに虚しさを知るでしょう。
しかし、その時には遅いのです。
後悔してから変えようとしても、時間は残されてはいないのです。
あなたはまだ間に合います。
これから、人生の本質を探しましょう。
生活することに満足してはなりません。
豊かに生活することを目的としてはなりません。
あなたは常に、人生の本質を探し続けなければなりません。
何かを捕らえる時には、その動きが止まった時を目掛けなければなりません。
あなたが蝶(ちょう)を捕まえたいと思うのであれば、花に止まった時でなければなりません。
飛んでいる蝶を捕まえるのは難しいのです。
捕らえたとしても、傷付いた蝶を得ることになるでしょう。
動きがあれば、それの本質を捕らえることはできません。
人生の本質を捕らえるためには、動きを止めなければならないのです。
しかし、人生は流転しています。
あなたにはその動きを止めることはできません。
人生とは、蝶のようなものです。
あなたが動き続けているのであれば、蝶があなたの肩に止まることはないでしょう。
あなたが動きを止めた時に、蝶はあなたの肩に止まるのです。
その時に、あなたは蝶を観察することも、それを捕らえることもできるでしょう。
人生の本質を捕らえるためには、あなたの心が止まっていなければなりません。
心が興奮し、動き続けてはならないのです。
感情に左右されてはなりません。
あなたは心を静かにし、人生を捕らえなければならないのです。
多くの人の心は興奮しています。
それは、生命活動に興奮しているのです。
人は生活の中にあっては、感情に翻弄(ほんろう)されています。
生活のためには、常に不安が付きまといます。
喜怒哀楽の感情が、波の様に打ち寄せるのです。
そして、人は”人生とは何か?”ということを忘れてしまうのです。
あなたは心を静かにしなければなりません。
動いているものを捕らえるのは簡単ではありません。
あなたが動いていれば、景色は嵐の様に荒れるでしょう。
心を静かにしましょう。
人生の本質を捕らえなければなりません。

2016年4月24日日曜日

問題の解決方法

人生においては、問題を避けることはできません。
どのような人物の、どのような人生においても、問題は生じるのです。
誰も、それを避けることはできません。
どのような手段を用いても、問題はあなたに至(いた)るのです。
あなたは、その問題から逃げ切ることはできないのです。
悟りましょう。
問題を避けることはできません。
問題を避ける努力を続ける人がいるのであれば、それは無駄なことです。
無駄な努力は諦めましょう。
あなたは問題を解決しなければなりません。
問題を解決すれば、問題によって悩まされることはなくなります。
問題によって悩まされないための唯一の方法は、問題を解決することなのです。
この世から消滅させなければ、あなたは何度もその問題に苦しむことになるのです。
問題を解決するには、問題と向き合うことを覚えなければなりません。
向き合いもしないで、問題を解決することはできないのです。
そもそも問題とは何でしょうか?
なぜ、あなたは問題を受けるのでしょうか?
なぜ、すべての人が問題を抱えているのでしょうか?
問題とは、人格そのものです。
人は、人格という問題を抱えているのです。
人格とは、人を成すものです。
それは性格を生み出します。
人格によって性格は決まるのです。
性格は、思考と感情を統(す)べます。
思考と感情は人の選択を決めるのです。
選択は状況を導き、状況は環境、環境は人生を築くのです。
人生を決めているのは人格であると”も”言えるでしょう。
人格は、あなたの本質である魂の汚れです。
人は、魂の汚れである人格を浄化するために、この世界に存在しているのです。
魂の汚れである人格は、汚れであるために歪んでいます。
すべての人は汚れを所有し、歪んでいるのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
汚れ、歪んでいる人は、自らの行為によって問題を生じているのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
どのような問題であっても、原因はあなたにあるのです。
問題の原因が自分にあるのだから、あなたはそれを避けることはできないのです。
何をやっても無駄です。
あなたは、問題から逃れることはできないのです。
問題を解決するためには、人格が取り除かれなければなりません。
あなたの抱える汚れと歪みが取り除かれなければ、問題は解決しないのです。
逆手に取れば、自らの汚れと歪みを取り除けば、問題は解決するということです。
多くの人の場合、問題を解決するというのは、問題から逃避するということです。
逃避のための努力を続けているのが”普通”なのです。
しかし、それは本質を欠いています。
問題の本質は、自らの抱える汚れと歪みにあるからです。
あなたは自らの抱える汚れと歪みが取り除かれるように努めるべきなのです。
それ以外の努力は問題の解決には繋がりません。
すべての原因は自分自身の内側に存在しているのです。
誰かや何かの働きによって、結果が導かれているのではありません。
そのように見えるだけなのです。
見誤ってはなりません。
あなたは、汚れと歪みを取り除かなければなりません。
そのためには、感謝することができる視点を探しましょう。
どのような問題に対しても、感謝することができる視点を探すのです。
人が感謝することのできる視点には、汚れや歪みは干渉しません。
感謝すれば、化膿(かのう)した傷口から膿(うみ)が出るように、人格から汚れと歪みが吐き出されるでしょう。
それ等が吐き出されたのであれば、もう原因は存在しません。
それが、問題の解決なのです。
膿を出し切るまでは、傷口が痛むということを覚えておきましょう。
あなたはどのような問題に対しても、感謝することのできる視点を探しましょう。
そうすれば、問題は解決しているでしょう。

2016年4月23日土曜日

変革者

世の中は若者のものです。
それは、若者の力によって花開きます。
若者は、世の中という蕾(つぼみ)を開く力を持っているのです。
若者は、それを実現しなければなりません。
人の世を生きる若者よ、あなたは自らの力に目覚めなければなりません。
すべての人が必要な役割と能力を所有しているのです。
あなたはそれを知り、それを実現しなければなりません。
何も考えずに生きてはなりません。
何も知らずに生きてはなりません。
何も変えずに生きてはなりません。
人は、その役割と能力によって、世界を変えることができるのです。
世界を変えなければならないのです。
世界は向上を求めているのです。
その中に存在するすべてのものに、成長を求めています。
人であるあなたも、成長しなければなりません。
成長を果たし、与えられた役割を、与えられた能力によって実現しなければならないのです。
人は、人の世を向上させるために生まれたのです。
人の世が向上するためには、人が成長しなければなりません。
個である人が成長することがなければ、全体である世の中が向上することはありません。
一人一人の状態が重要なのです。
あなたは、世の中の一員です。
あなたの状態が、人の世の在り方を決めるのです。
これは、冗談ではありません。
あなたも、世の中に参加しているのです。
すべての人が重要なのです。
一つの部品が機能しなければ、精密機械は正しく働くことができないのです。
それが時計ならば、正確な時刻を示すことがないでしょう。
あなたが時計の主人であれば、正確に時刻を示さない時計をどうするでしょうか?
あなたはそれに埃(ほこり)が積もるのも気にしないでしょう。
正確に時刻を示さない時計には、”本来の”価値はないのです。
箪笥(たんす)の肥やしとしての価値はありますが、それは本来の働き(価値)とは違うものなのです。
時計はその状態を苦しいと理解するでしょう。
世の中が正しく機能しなければ、それは本来の価値を失うのです。
それは、蕾がそのままの姿で地面に落ちるようなものです。
それは、土を肥やすでしょうが、美しい花を咲かすことはないのです。
本来の価値は失われるのです。
あなたは人の世を変えなければなりません。
若者の才能が、人の世を変えるのです。
旧体制を乗り越えるのです。
蕾の状態の世の中を、開花させるのです。
あなたの力が必要です。
あなたは顔を背けてはなりません。
あなたは逃げてはならないのです。
人の世を見なさい。
それを変えるのは若者なのです。
新たな価値観を提唱(ていしょう)することができるのは、若者だけなのです。
世の中は、新たな価値観を期待しているのです。
あなたによって、それが導かれるのです。
あなたは、素直に生きなければなりません。
誰かを真似して生きてはなりません。
既存の”立派な社会人”になる必要はありません。
あなたは、新たな意味合いの”立派な社会人”を提唱するのです。
世界を変えなければなりません。
世の中は若者のものです。
若者は、それをより良いものに作り替えなければなりません。
ただし、同時に未熟さを学びましょう。

2016年4月22日金曜日

与えられた道具

すべての人には、力が与えられています。
それは、問題を解決するに必要な力です。
それは、あなたを助けます。
それは、あなたに平安を導きます。
それは、あなたを苦しみから救う力なのです。
それは、”神”から与えられました。
人は、それを活用しなければなりません。
人は、力を所有しているということを知らなければなりません。
問題を解決する力は、自らの中に存在しているのです。
既に所有している力を無視してはなりません。
あなたは、自らの所有する力によって救われるのです。
誰かや何かがあなたを救うのではありません。
誰かや何かがあなたを救うことはできません。
”神”であっても、あなたを救うことはできないのです。
(人の成長のために敢(あ)えて手を出さない)
救うことができないから、力を与えたのです。
そのことを理解しなければなりません。
誰かや何かがあなたを救うことができるのであれば、”神”がわざわざあなたに力を与えることはありません。
あなたが自分の力によって救わなければならないために、力が与えられたのです。
それは、成長のためです。
人が成長するためには、自らの力を生かさなければならないのです。
力を使うこともなく、成長することはできません。
それは、力を使うことがなければ、問題は決して解決しないからです。
それは、あなたから生じた問題です。
誰かや何かから生じた問題ではありません。
そのため、それを解決するには、あなたの力が必要なのです。
それを知らず、誰かや何かに頼ろうとする者が多いのです。
しかし、それでは問題が解決することはありません。
問題が解決しなければ、その状態は続くのです。
問題は苦しみを導きます。
力を使うことがなければ、人は苦しむのです。
苦しみを抱えている多くの人は、自らの所有する力を使っていないということなのです。
多くの人は”神”から与えられた力など所有してはいないと考えます。
この言葉を一笑に付(ふ)すでしょう。
しかし、すべての人には、目の前の問題を解決するための力が与えられているのです。
多くの人はそれを信じることができません。
初めから、そんなものはないと決め付けているのです。
無を有にするためには、信じなければなりません。
食材を集めても、料理が出来上がることを信じなければ、それは実現しないのです。
力は所有していますが、多くの人はそれを信じることができないのです。
既存の知識に頼っているために、可能性を理解しません。
あなたが苦しみを克服したいと思っているのであれば、可能性を信じなければなりません。
あなたは自らの力を信じるのです。
そうすれば、問題は必ず解決するでしょう。
それがどのような力であっても、問題を解決するに必要な力です。
あなたには選ぶような余裕はないのです。
目の前にある道具によって、仕事を完成させなければなりません。
道具(力)に文句を吐いてはなりません。
その道具によって、あなたは”何とか”仕事を完成させることができるのです。
あなたの所有する力は決して、奇跡的に問題を解決する訳ではありません。
それは、多くの労力と時間を必要とするでしょう。
しかし、それで良いのです。
あなたは与えられた力によって、与えられた問題に向き合いましょう。
人生が楽に進むと思ってはなりません。
甘えてはなりません。
それがどのような力であろうとも、あなたは知恵を以て、それを懸命に使わなければなりません。
そうすれば、すべての問題は解決するでしょう。

2016年4月21日木曜日

逃げられないこと

この世界には、因果の仕組みが存在しています。
あなたの受けるすべての状況は、あなたの原因によって導かれる、あなたに相応しい学びです。
あなたはその状況を体験することによって、自らを改めることができるのです。
自らを改めるということは、歪みが改善されて向上するということです。
それは、成長であり、人生の目的でもあるのです。
人は、目の前に導かれる状況を体験することによって、人生の目的を果たすことができるのです。
しかし、多くの人はそのことを知りません。
すべてが自分自身に相応しいために導かれているにも関わらず、それを認めることができません。
その状況はあなただから導かれたのであって、他の人には導かれてはいないのです。
人それぞれに導かれる状況は違います。
それは、体験すべき学びが違うからです。
それは、成長の方向性に違いがあるためなのです。
同じことを学べば良いというものではありません。
同じ状況を得ようとも、学ぶことは違うのです。
人は、別々の世界を生きているのです。
それは、学びの世界です。
同じように見えても、別のものです。
しかし、多くの人はこれを混同しています。
そのため、自分と他人の違いに気が付かないのです。
その無知が、自分を苦しめているということを知らないのです。
人は自分に相応しい学びを得ます。
それ以外の学びを受けることはありません。
それは、必要ではないからです。
人生に無駄は存在しません。
それは、存在しても無駄だからです。
あなたに関係のないことは決して導かれません。
他人に関わることがあなたに導かれることもありません。
それがどのような状況であったとしても、それはあなたに相応しい学びであるのです。
どのような状況を経験するにしても、そのことを理解しておかなければなりません。
それが自分自身に相応しいということを知らなければ、その価値を理解することはなく、否定を選択してしまうのです。
否定すれば、学びを収(おさ)めることはできません。
それは、自分に関わることなのです。
あなたは受け入れなければなりません。
因果は同時に存在します。
結果は原因と同時に存在します。
原因を所有した時点において、結果も所有しているのです。
所有した原因によって導かれる結果を避けることはできません。
結果を避けるためには、その原因を所有しないことです。
結果を避けるには、それ以外に方法はないのです。
結果は避けられません。
あなたは既に原因を所有しているのです。
後からの変更は受け付けられないのです。
そのため、結果は受け入れる必要があるのです。
違う状況を求めているのであれば、一旦(いったん)その結果を受け取って、別の結果を受けるように別に原因を所有しなければならないのです。
原因がなければ結果はありません。
一度所有した原因を手放すことはできません。
その結果を受けるまでは、変更することはできないのです。
ある意味では、諦めなければなりません。
結果(状況)に対して嘆(なげ)き悲しむ必要はないのです。
それは、あなたに相応しい結果です。
相応しいものに嘆き悲しむのは間違っているのです。
あなたは耐えなければなりません。
拒絶は何の解決にも繋がりません。
受け入れる必要があるということを覚えておきましょう。
前向きに働き掛けなければ、どのような状況も好転しないということを理解しましょう。
否定的な働き掛けによっては、破滅的な状況が導かれるだけです。
それが苦しみを導くということを忘れてはなりません。

2016年4月20日水曜日

力の範囲

人は、力の及ぶ範囲を知らなければなりません。
人には、それぞれに実力というものがあります。
実力に応じて行わなければなりません。
多くの人は自らの実力を知りません。
自分が何者であるのかも知らないのだから、それも仕方のないことではあります。
多くの人は、実力を知らないためにそれ以上を求めます。
実力が及ばないにも関わらず、それを実現しようとします。
実力以上の状況を実現しようとすることは、あなたに苦しみを導く行為ではありません。
しかし、多くの人が実力を見誤り、実力以上の力を扱っているということに気が付きません。
誰かや何かに頼ることのすべてが、あなたに苦しみを導くということではありませんが、実力以上の力を扱っているのであれば、その反動を受けなければならないということを覚えておかなければならないのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
すべては原因と結果によって構成されているのです。
すべての結果には原因があります。
実力以上の力を扱うという原因には、それに伴う反動を受けなければならないという結果が導かれるのです。
実力の範囲ならば、反動を受けずに済みます。
それは、実力によって結果を支配することができるからです。
実力の範囲内であれば、あなたはどのような反動も受けることはないでしょう。
それは、小さく動くけれども、安定した状態にあるのです。
実力以上の結果を求め、実力以上の力を扱うのであれば、実力によって結果を支配することができないのです。
それは、大きく動くけれども、不安定な状態にあるのです。
微風(そよかぜ)ならば、樹木は耐えることができます。
しかし、嵐に会えば、樹木は文字通り根刮(ねこそ)ぎ倒されてしまうでしょう。
微風には耐えることのできる樹木でも、実力以上の暴風には耐えることができないのです。
実力以上の力は、その人を飲み込みます。
人は、実力以上の力に翻弄(ほんろう)されるのです。
あなたが豊かに栄えることを望んでいるのであれば、何事も実力の範囲に収めましょう。
それは、小さく動き、変化に乏しく見えるかもしれません。
樹木の成長は決して変化に豊かなものではありません。
何十年もの歳月を重ねて、巨大にそびえるようになるのです。
一朝一夕によって、樹木がその巨体(豊かさ)を手にしたのではないのです。
樹木は、小さな変化を積み重ねたのです。
小さく得るものはあなたの蓄えとなるでしょう。
大きく得るものはあなたを揺るがすのです。
直ぐに伸びる草花は、微風に当たっても倒れることがあります。
それは、大きく(早く)伸びるけれども、半年で滅びてしまうのです。
あなたが豊かさを求めているのであれば、大きく求めてはなりません。
小さく求めましょう。
少しずつ溜めるのです。
勢い良く注がれる水は、器からこぼれ落ちます。
少しずつ注げば、水は器にとどまるのです。
あなたは、自らの実力を知らなければなりません。
できる限り、自らの実力の範囲内に収める努力をしましょう。
物事を表面的に考えてはなりません。
その場凌(ばしの)ぎの損得勘定によって、選択してはならないのです。
その時に得をするからといって、実力に見合わない洗濯をしてはならないのです。
実力以上の力を扱えば、問題が生じた時に、それは実力以上の問題となるからです。
実力以上の問題が生じた時に、それを制することはできないのです。
重要なのは管理なのです。
”作って終わり”ではないのです。
物事を無責任に行ってはならないのです。
見栄を張るのは止めましょう。
実力以上の力を扱うのは滑稽(こっけい)です。
無責任に行い、”後のことは知らない”では済まされないのです。
原因は、そのすべてがそれに相応しい結果を実現します。
人は、力の及ぶ範囲を知らなければなりません。
力の及ばない範囲のことに手を出してはなりません。
そこでは、あなたは責任を果たすことができないのです。
実力に応じて行わなければなりません。
見栄を張るものではありません。
それは、愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)です。

2016年4月19日火曜日

善と悪

人は、魂の段階によって必要な学びを受けます。
人生とは、魂の段階に相応しい学びを受ける場所です。
人は、それぞれに必要な学びを受けるのです。
必要以外を受けることはありません。
すべては、それぞれに必要な事柄なのです。
それがどのような現実であろうとも。
それは、成長のために導かれる問題です。
その問題によって、人は苦しみます。
人が成長するためには、苦しみを受ける必要があるのです。
しかし、誤解してはなりません。
この言葉を表面的に捉えてはなりません。
この言葉の真意を理解するように努めましょう。
深く考察し、その本質を受け取りましょう。
そうでなければ、あなたはこの言葉から反対の結果を受けることになるからです。
人は苦しみます。
人生には苦しみが導かれます。
あなたは苦しみから逃れることはできません。
どこで何をしても、その苦しみは必ず追ってくるのです。
あなたは、苦しまなければなりません。
苦しみとは、問題との対峙です。
人が問題と対峙した時、そこには苦しみという感情が導かれるのです。
人が苦しんでいる時は、問題と対峙している時であるということを知りましょう。
人生の目的は成長にあります。
そのため、人が真の意味で幸福を得ようと考えるのであれば、苦しまなければならないのです。
苦しまずに成長することはできません。
楽なことばかりを求めて、どうして成長することができるのでしょうか?
楽を求めては退行するばかりなのです。
問題を解決しなければ、人は前に進むことができません。
問題を放置すれば、人はその場に止まらなければならないのです。
問題と対峙しなければ、それは決して解決することはありません。
人が成長するためには、苦しまなければならないのです。
多くの人が苦しみを”悪”と考えます。
それを遠ざけること、それから逃れることを”善”と考えているのです。
しかし、人生がそのように甘いものでしょうか?
幸福は、苦しみを遠ざけ、それから逃れることで実現するようなものなのでしょうか?
それならば、誰もが幸福であるはずです。
しかし、現実はどうでしょうか?
苦しみを遠ざけ、問題から逃れるような人物が、本当に幸福を得ているのでしょうか?
そのような人物は、総じて不幸を得ているのです。
ここで言う不幸とは、乏しさ、悩み、争い、怒り、悲しみ、迷い、絶望、無気力、虐(しいた)げ、無知・・・
このような状態を得ることです。
自らの問題(目の前の苦しみ)を拒絶するような人物は、これ等の中のどれかを得ているのです。
同じ場所に生まれても、別の苦しみを抱えます。
兄弟であろうとも、魂の段階には違いがあるのです。
それぞれに必要な学びを受けなければなりません。
文句は、人を盲目(もうもく)にします。
受け入れることができない者には、真意は導かれないのです。
真意を得るまで苦しみは続きます。
拒絶する程に苦しみは増すでしょう。
それでも良いのであれば、苦しみを拒絶し、逃げ回っていれば良いでしょう。
どうするかはあなた次第です。
あなたが好きに決めることができます。
すべてが最善ではありますが、それを理解することができるとは限りません。
冷静に考えなければなりません。
この言葉を、深く受けなければなりません。

2016年4月18日月曜日

預かり物

人生とは、儚(はかな)いものです。
それは、人の夢のようなものです。
実態があるようでいて実態がなく、実態がないようで実態があるものなのです。
夢とはそういうものです。
人は、人生という夢を生きているのです。
人は夢の中に楽しみ、夢の中に苦しみます。
すべては一瞬の気の迷いでしかありません。
状況は絶えず変化を求め、一時も止まることはないのです。
すべてが変化の中にあり、生じては滅びるのです。
すべては有であり、無です。
すべてが無であり、有なのです。
人生とは、儚いものです。
あなたはそこに多くを集めます。
多くを奪い取り、多くを積み上げるでしょう。
あなたはそれを宝として、大切に守ります。
しかし、その宝も、いつかは必ず失うのです。
いつまでも何かを所有しておくことはできません。
なぜなら、すべてが夢であるからです。
夢の中にいる時には、それはあなたの所有となります。
しかし、夢から覚めれば、それはあなたの所有から離れるのです。
人生において蓄(たくわ)えたものは、そのすべてを失うのです。
あなたの手元には、何一つ残りはしないのです。
すべてを失い、あなたは何も所有しません。
人生とはそのようなものなのです。
懸命に集めても、それは散らされます。
必死に守っても、打ち破られるのです。
あなたには、何も守ることができません。
何も所有することはできないのです。
人生における一切が、あなたのものではありません。
それは、”神”の所有であるということを覚えておきましょう。
人はいつの間にか、すべてが”神”の所有であるということを忘れてしまいます。
そして、高ぶってそれを自分の所有とするのです。
しかし、すべての所有がいずれ失われます。
その時に、多くの人は嘆(なげ)き悲しむのです。
どのようなものも、初めからあなたの所有ではありません。
それは、預かり物であるのです。
あなたが何かを失うということは、それを預けた”神”に返却したに過ぎません。
それは、預かり物を返却しただけであり、あなたが何かを失った訳ではないのです。
多くの人は誤解しているのです。
それが、自分の所有であると思い込んでいるのです。
しかし、それがあなたの所有であったことなどないのです。
誤解を解かなければなりません。
人生において、あなたの所有となるものはありません。
すべては”神”からの預かり物であるのです。
あなたは預かり物を返却したからといって、それを気に病む必要はないのです。
あなたは何も失ってはいないのです。
それを集め、積み上げることには今までに多くの苦労があったでしょう?
その苦労が水の泡となるような気分になるでしょうが、それを苦しんではならないのです。
人生には、必要のみが存在を許されています。
あなたに不要なものなど、何一つとして存在しないのです。
預かり物を返却することによって、あなたは理(ことわり)に気が付くことができるのです。
所有していた心の支えがなくなれば、あなたの意識は大きく変わるのです。
それは、学びを運びます。
意識の変革がなければ、成長は実現しないのです。
心の支えがなくならなければ、あなたは決して今まで通りの方法を変えないのです。
同じことを繰り返すのであれば、停滞するのです。
それは苦悩を導きます。
預かり物を返却することによって、人は意識の形を変えることができるということを覚えておきましょう。
あなたが成長するためには、意識の形を変えなければなりません。
そのためには、預かり物を返却しなければなりません。
人生が儚いものであるということを受け入れましょう。

2016年4月17日日曜日

意識の段階

人は、理解し合えないのが普通です。
人は、他人を理解することができません。
もちろん、他人に理解されることもできないのです。
人は、人を理解することができないのです。
それが自然であり、それでも構わないということを理解しましょう。
人は、人を理解したいと努めます。
それは、良いことです。
人は理解し合う方が良いのです。
しかし、それは簡単ではありません。
なぜなら、理解し合うには、魂の段階という問題があるからです。
人の本質は魂です。
それは、肉体を通じて特定の意識を発しています。
それは、人格と呼ばれる問題点です。
人とは、人格という魂の問題点を集めた存在なのです。
人格の状態は、人の成長と深く関わっています。
人格の解消が進むほどに、人は成長することができるのです。
人格が取り除かれるほどに、人は魂に近付くのです。
それは、本来の姿に近付くということであり、人はそれに喜びを感じるのです。
魂に近付く程に、真理に近付くことができます。
真理とは、この世界の理(ことわり)です。
それは、人生の意味と目的を知らせるのです。
真理に近付いた人は、人生の意味と目的を悟ることができるのです。
それを知る人と知らない人では、考え方、心境、行動、生き方に明確な違いが生じるのです。
それは、人生の違いとなって現れるのです。
知る人と知らない人では、選択は違うものとなります。
知る人は知らない人の選択を理解することができません。
同じように、知らない人は知る人の選択を理解することができないのです。
意識の状態(段階)、人格の状態が人を分け隔(へだ)てるのです。
そこには距離があり、容易に近付くことはできないのです。
遠くにいる人にどれだけ叫んでも、あなたの声は届きません。
遠く離れている相手は、あなたの言葉を理解することができないのです。
どれだけ叫んでも、理解されることはありません。
この世界には、そのような状態が存在しているということを知らなければなりません。
意識の段階が違っている者は、理解し合うことはありません。
遠く離れる程に、理解からは遠ざかるのです。
人が理解し合うためには、意識の段階が近くなければなりません。
互いの距離が近ければ、言葉を理解することもできるからです。
この世界においては、それぞれが違った意識の段階を所有しています。
意識の段階が近ければ理解し合い、意識の段階が遠ければ理解することはないのです。
あなたが相手を理解したいと考えるのであれば、意識の段階を合わせる必要があるのです。
若者と老人の間には、理解が生じません。
お互いを理解することができないのです。
それが普通です。
あなたは、意識の段階(年齢)を大切にしなければなりません。
それを無視して理解を深めようと考えても、それは不可能なのです。
意識の距離が近くなければならないのです。
あなたは意識の向上に努めましょう。
意識の向上は、他人との距離を縮めます。
距離が開いている状態を放置してはならないのです。
意識を向上させるには学ぶことです。
学ぶというのは、目の前の状況に意味を見出すということです。
それは、感謝に至ることによって実現するでしょう。
目の前の状況の意味を理解し、感謝することによって、人は人格を解消し、意識を高めることができるのです。
あなたは、人は理解し合えないということを理解しましょう。
理解し合えないにもかかわらず、理解を深めようとしてはなりません。
それは、あなたを疲れさせてしまうからです。
意識の距離が近い人との理解を深めましょう。
理解し合えない人とは、理解し合う必要はないのです。
ただし、理解し合えない人を蔑(ないがし)ろにしても良いということではありません。
理解し合えなくても、仲良くしなければなりません。
理解し合えるように、学びに努めるのです。

2016年4月16日土曜日

深さ

人は、選ばなければなりません。
人が選ぶことができるのは一つです。
二つを同時に得ることはできません。
多くを求めても、それを得ることはできないのです。
二つを同時に得ようとすれば、二つはその小さな掌(てのひら)から零(こぼ)れ落ちてしまうでしょう。
あなたには、一つを得ることも難しいのです。
そのような状態で、二つを得ることはできないのです。
欲を出してはなりません。
一つを得ることができれば御(おん)の字なのです。
あなたが一つを得ようと考えているのならば、一つを選びましょう。
一つを得るためには、それ以外は諦めなければなりません。
人が一つを得るためには、それに集中する必要があるのです。
あなたが掴むものは、そのどれもが儚(はかな)いものです。
それは、丁寧に掴まなければなりません。
粗雑に掴めば、儚く零れ落ちてしまうのです。
二つを同時に得ようとすれば、一つをも得ることはできないのです。
両方を立てようとしてはなりません。
残念ながら、一方を立てれば一方は立たないのです。
あなたは同時に二つを選ぶことはできないのです。
あなたは、どちらか一つに手を伸ばし、どちらか一つを諦めなければなりません。
そこのことを覚えておきましょう。
犠牲も無しに、何かが得られるなどと考えてはなりません。
自分にとって有利なことだけが導かれるはずがないのです。
報酬(ほうしゅう)には必ず、代償(だいしょう)が備わっているのです。
報酬だけを得て、代償は支払わないというような”甘い”話があると思いますか?
どのようにしても、二つを得ることはできないのです。
あなたは、諦めなければなりません。
一方を立てるために、一方を倒すのです。
その覚悟がなければ、一つを得ることもできないのです。
多くの人は、一つを得ることもできてはいません。
得ていると思っているものには中身がなく、それに気が付いた時には絶望するのです。
人は必ず選ばなければなりません。
選ばずに得ることはできません。
人生は選択の連続なのです。
そこには多くの選択肢があるでしょう。
あなたはその中から一つを選ばなければならないのです。
二つを求めた結果、一つも得ることができないからといって、腹を立ててはなりません。
それは、二つを求めた人の過ちなのです。
あなたは、一つを得て満足としましょう。
多くを求めてはなりません。
あなたの欲求が多岐(たき)に渡る程、あなたの得るものは減るでしょう。
集中しなければなりません。
一つ一つを得るのです。
少しずつ集めるのであれば、それはあなたに止まるでしょう。
しかし、一気に集めるのであれば、それはあなたを離れるのです。
狙いを定める必要があるのです。
多くに狙いを定めても、弓から放たれる矢は一本なのです。
二つを狙えば視界はぼやけるでしょう。
あなたは一つしか見ることができません。
二つを同時に見ることには無理があるのです。
諦めが早いほど、一つを正確に見ることができます。
正確に狙わなければ、捕らえることはできないのです。
自惚(うぬぼ)れてはなりません。
一方を立てるように心掛けましょう。
二つを同時に立てることはできないのです。
この言葉を繰り返すのは、それが重要なことだからです。
あなたが真に何かを得ようと考えているのであれば、この言葉を覚えておきましょう。
何かを真に得るためには、”深さ”が必要なのです。

2016年4月15日金曜日

純粋な存在

すべての人は、成長を実現しなければなりません。
どのような事柄に関しても、それが自分自身と関わりのある事柄であるのならば、人は成長する必要があるのです。
そのため、すべての人が様々な強さで成長を求めているのです。
人によって、向上意欲に差はありますが、すべての人が成長を求めているということを理解しましょう。
成長とは、上達することです。
自分自身が関わりのあることに対して、上達することが一種の成長であるのです。
上達するために、人は努力を続けているのです。
上達するということは、理解を深めるということです。
人は、理解の深まりと共に上達を得るのです。
人は、知識を深めます。
多くのことを知り、その本質に近付くのです。
人は、技術を深めます。
多くのことを行い、その本質に近付くのです。
上達とは、知識と技術の向上です。
そして、それ等が上達した暁(あかつき)には、心が上達しているのです。
心とは、それを学んでいるものです。
人は、それを心によって体験しているのです。
それは、心の中に存在する問題である、人格を取り除くためです。
知識と技術の向上によって心が上達すれば、それに相応しい人格を得ることができるのです。
知識と技術が向上している人物ほど、人格は洗練されているものです。
知識と技術が向上しているにも関わらず、人格が洗練されていない人物は存在しません。
人格が洗練されていない人物の知識と技術は見るに耐えないのです。
人は、人格の洗練を以て成長とするのです。
あなたは、知識と技術を上達させる必要があります。
それは、成長の過程において最も初歩的な工程です。
人は先ず、知識と技術を磨くのです。
その後に心を磨き、人格を磨くのです。
知識と技術を磨くということは、対象の本質に近付くということです。
多くの人は、知識と技術を積み重ねることが上達であると思っています。
表面的に見れば、上達とは”付け足し”なのです。
しかしながら、付け足すことによっては、知識と技術を上達させることはできません。
それは、そこに余計が加わるからです。
人格の向上は洗練によって実現します。
洗練とは、余分を取り除くことです。
それは、鋼(はがね)を叩き、不純物を取り除くようなものです。
不純物を取り除いた鋼は、強靭(きょうじん)なものとなるのです。
付け足すことを上達と考えてはなりません。
上達とは、引き出すことなのです。
鋼の弱さは不純物によります。
余分を取り除くことによって強さを得ます。
知識も技術も、不純物が弱さとなります。
それを取り除くことによって、強さが引き出されるのです。
あなたが知識や技術の上達を求めているのであれば、余計な知識や技術を取り除くように努めましょう。
余計(不純)な知識は手放しましょう。
余計(不純)な技術も手放すのです。
あなたは、何のために知識と技術を向上させようとしているのですか?
その動機の中に不純物が紛れているのです。
不純な動機は、人を向上から退けます。
不純物によって、本質が見えなくなっているのです。
知識と技術の向上が、人を不純な動機から救います。
あなたは”何のためにその道を行くのか?”ということを問い続けなければなりません。
それは、鋼を打つ金槌(かなづち)のように、あなたの不純を取り除くでしょう。
あなたは成長しなければなりません。
人格を洗練する必要があるのです。
純粋な存在でありましょう。

2016年4月14日木曜日

無駄な努力

人生には、無駄は存在しません。
すべてが必要であり、最善です。
何一つとして、無意味なものは存在しないのです。
この世界には無駄は存在しませんが、非効率なことは存在しています。
一から十の段階を経れば足りることを、十五や二十を費やすのです。
それは、決して無駄なことではありません。
しかし、非効率であり、”作業”の遅れを導くのです。
それは、時間の浪費を意味しています。
人生において、時間は基礎となり、貴重なものです。
時間がなければ、この世界においては何も実現しないのです。
それは、砂上(さじょう)の楼閣(ろうかく)となるのです。
どれだけの材料、状況、力を揃(そろ)えても、時間が無いのであれば、決して実現しないのです。
賢者は時間を大切にし、愚者は時間を蔑(ないがし)ろにします。
賢者は時間よりも大切なものは無いと考え、愚者は時間よりも大切なものが有ると考えます。
そして、賢者は人生に多くを遺し、愚者は人生に多くを失うのです。
あなたが賢者となるためには、時間を大切にすることが求められます。
時間を大切にしなければ、どのような豊かさも実現しないからです。
しかし、多くの人は時間の大切さに気が付きません。
時間よりも大切なものがあると思い込んでいるのです。
例えば、時間よりもお金の方が大切だと考えます。
時間よりも命、時間よりも愛、時間よりも家族・・・
いろいろと考えますが、時間がなければそれ等をすべて失うことになるのです。
時間がなければ、何も役には立たないのです。
お金も、命も、愛も、家族も・・・
時間がなければ何の役にも立たないのです。
時間とはすべての基礎となる存在なのです。
そのため、あなたは時間を大切にしなければなりません。
時間を大切にするということは、効率を上げるということです。
一から十の段階を経れば足りることを、十五や二十を費やす必要はないのです。
時間を大切にするという考えがなければ、知恵はありません。
知恵がなければ、人は間違った判断を下すようになるのです。
あなたが効率を求めるのであれば、受け入れることを大切にしなければなりません。
多くの人は否定を所有しています。
それは、目の前の状況が理想とは違っているからです。
多くの人は、受け入れることができません。
目の前の現実を否定し、より理想に近い状況を求めているのです。
しかし、あなたがどのような選択をするかは、あなたの魂の(成長)段階によって決まっていることなのです。
人は魂の段階によってできることは違ってきます。
魂の段階は、人の一生のようなものです。
幼い魂は、知恵に乏しいのです。
そのため、一から十の段階を経れば足りることを、十五や二十を費やすのです。
人は、魂の段階に従ってのみ行うことができます。
魂の段階によって、できること、できないことが分かれているのです。
大人は、子どもよりも知恵があります。
それは、経験上、多くを学んでいるからです。
大人は一から十までの段階を経れば足ります。
しかし、子どもは、一から十までの段階では足りません。
子どもは非効率的な方法以外を知らないのです。
あなたは受け入れなければなりません。
多くの人は否定しています。
時間は、何に対しても重要です。
しかし、多くの人は目の前のことを否定し、受け入れることに遅いのです。
あなたは効率良く学びを得なければならないのです。
そのためには、安易な否定を捨てて、思慮深く受け入れなければならないのです。
目の前の現実から逃れようと無駄(非効率)な努力をしてはなりません。
努力は、現実を受け入れるために使うべきなのです。
あなたは逃げるほどに非効率を覚えるでしょう。
受け入れることが最終的には効率的だからです。

2016年4月13日水曜日

夜道

誰にとっても、人生は苦悩です。
すべての人が悩みを抱えて苦しんでいるのです。
それは、人の目的が人格の解消にあるからです。
人格とは、魂の問題の集合体です。
人格は魂の歪みを集めたものなのです。
人はそれを取り除き、純粋を得なければならないのです。
成長するということは、純粋に近付くということです。
それは決して、”複雑”になることではありません。
難しくなることでもないのです。
純粋とは、単純であり簡単です。
人が成長を実現すれば、その人生は単純なものとなり、簡単なものとなるのです。
成長した者の人生は単純で簡単であるために、苦悩が少なくなるのです。
苦悩が多いということは、人格が強いということです。
それは、自我を示しており、愚(おろ)かさを現すのです。
自我が甚(はなは)だしい者ほど、自分勝手に振舞います。
それは、物事の破滅を意味しています。
自分勝手に振舞うほど、状況は悪化するのです。
そのため、人は自分以外のために振舞う必要がありますが、自我(人格)を多く所有する者にはそれができないのです。
人が幸福を得るためには、自我を離れる必要があるのです。
自我を離れることによって、自分勝手な振舞いから離れることができます。
自分勝手な振舞いから離れることによって、状況の破滅から離れることができるのです。
状況の破滅から離れることによって、苦悩から離れるでしょう。
あなたが改めなければならないのは、自分自身であるのです。
多くの人は苦悩を抱えています。
それは、自我に比例しています。
自我を離れれば、苦悩は離れるのです。
しかし、多くの者は無知を所有しています。
そして、その無知を知恵であると思い込み、信仰しているのです。
その結果、愚行を喜びます。
愚行によって導かれるのは、苦悩なのです。
しかし、多くの人はそれを誰かや何かの責任であると思い込むのです。
自分勝手な思い込みによって、真実を歪めてはなりません。
あなたが苦悩しているのは、あなたが無知であり、歪んでいるからなのです。
あなたの魂の問題である人格によって、苦しんでいるのです。
そのことを理解して、自らを改めなければならないのです。
夜道を歩くのは危険です。
それは、足元が見えないからです。
自我を抱えて生きる者は、夜道を照らさずに歩む人のようです。
その人は、自分が暗闇に落ち込むことを知りません。
明かりを持たないのは自分なのです。
夜道を歩くのに、誰があなたの足元を照らすのでしょうか?
あなたが照らさなければならないのです。
人は自分の明かりを所有しています。
しかし、それを他人に譲(ゆず)ることはできません。
それは、人が自分の明かりしか持たないためです。
他人の明かりでは、あなたの道を照らすことはできないのです。
自分の足元を照らさない者は、明かりを持たずに歩まなければならないのです。
自我は、明かりを覆います。
道を照らす明かりは、自我によって覆い隠されているのです。
あなたが道を照らす明かりを欲するのであれば、自我を手放す必要があるのです。
自我とは自分勝手な考えのことです。
それは、傲慢(ごうまん)を築きます。
自分勝手な者は感謝することがありません。
感謝することがなく、文句ばかりを並べ立てる者が道を照らすことなどできないのです。
それは、成長ではないからです。
感謝することができない者は、苦悩を増すでしょう。
周囲を観察しましょう。
誰が苦悩し、誰が幸福を喜んでいるのかを知りましょう。
そうなれば、あなたは自分が何をするべきなのかを知るでしょう。

2016年4月12日火曜日

経験の価値

あなたは、対象の本質を見極めなければなりません。
経験の意味とは、本質を見極めることにあります。
それが何であるのか?ということが本質です。
それを見極めることがなければ、経験に価値はないのです。
経験は、本質の見極めを以て価値となるのです。
ただ、だらだらと経験して良いものではありません。
それは、栄養の乏しい食物を食べ漁るようなものです。
どれだけ腹に詰めても、それが肉を満たすことはないのです。
栄養価の高い食物を少量、腹に詰めることの方が価値があるのです。
あなたは、物事の本質を見極めるように努めなければなりません。
そうでなければ、あなたの経験は価値の乏しいものになってしまうのです。
百年生きたところで、その人生には価値が乏しいでしょう。
人生が何であるのかも知らない人生に、何の価値があるというのでしょう?
あなたには答えることができますか?
栄養価の乏しい食物を腹に詰めるのであれば、欲求が増すばかりです。
本質を見極めることができなければ、人は経験の虜(とりこ)となってしまうのです。
本質を見極めることができない者は、多くの経験を必要としています。
それは、多くの”汚れ”を増すということなのです。
多く食するということは、多く貪(むさぼ)るということなのです。
多くの経験を必要とするのであれば、それだけ貧しいということなのです。
成長し、本質を見極められる人程、経験を必要とはしません。
それを経験する前から本質を得ているために、それ以上の経験を必要とはしないのです。
肉体は栄養が満ちれば、それ以上を欲しません。
しかし、栄養が足りなければ、再び求めなければならないのです。
人生において経験を必要としているのは幼い子どもです。
子どもは本質を見極めることに乏しいのです。
それは、経験が少ないからです。
本質を見極めるために経験の量が絶対的ではありませんが、経験が乏しければ本質を見極める可能性は少ないのです。
人は経験を得ることによって、本質を見極める必要があります。
そこには多くの経験が必要なのです。
ある程度の経験を得れば、次にあなたはそれを選り分ける必要があるのです。
栄養価の高い食物を選別し、少ない食物で肉を満たさなければならないのです。
より本質を得ることのできる経験を選り分け、それを自分のものとしなければならないのです。
あなたは経験を求めましょう。
初めは嫌で仕方の無いことであっても、それを長く続けていれば楽しく思えるでしょう。
それは、経験を選別することができるからです。
何事も、その本質を見極めるためには、経験を長く続けなければならないのです。
すぐに諦めてしまうのであれば、その本質を見極めることはできません。
それが何であるのかを知ることは、人の喜びとなるのです。
喜びが得られないからといって、簡単に諦めてはなりません。
簡単に喜びが得られる程、本質を見極めることは簡単ではないのです。
多くの人は百年経っても、人生の本質を知ることができないのです。
自分が誰で、何のために生きているのかを知らずにいるのです。
百年も生きるのにです。
あなたは、本質を見極める努力をしているでしょうか?
だらだらと経験を積み重ねてはなりません。
何度も同じことを繰り返してはならないのです。
素早く本質を見極め、少ない経験によって本質を見極めましょう。
経験が少ない方が優れています。
すべては、単純な程高度なのです。
少ない経験によって本質を見極められる方が優れているのです。
本質を見極めるためには、経験する以外に方法はありません。
あなたは多くの経験を必要としていますが、そこには本質を見極める努力が必要であるということを理解しましょう。
栄養価の乏しいものを大量に食するよりも、栄養価の高いものを少量に食するようにしましょう。
経験の質を高めましょう。
それは、あなたの心掛けによって実現します。

2016年4月11日月曜日

魂の組

すべての人は理解を求めています。
誰であっても、他人に理解して欲しいと願うのです。
理解は喜びです。
それは、人の希望となります。
理解を得ないことは苦しみであり、それは人に絶望を導きます。
すべての人は理解を求め、それが喜びであるということを知っているのです。
そのため、自分のことを理解して欲しいと願い、相手を理解しようとも努めるのです。
しかし、人が理解を深めることは簡単なことではありません。
それは、人にはそれぞれの主張があるからです。
人には、それぞれの世界があります。
それは、主義を形成し、人を限定します。
すべての人は何等かの考え方に傾いているのです。
そのため、人はその主張によって別れるようになるのです。
しかし、主張はどこから来るのでしょう?
経験から来るのでしょうか?
環境によるものなのでしょうか?
人の主張は、経験からでも、環境からでも築かれます。
すべての経験と環境が、人の主張に影響力を持っているのです。
しかし、経験と環境を主張に結び付けるには説明不足です。
同じような経験と環境を得ようとも、その主張には違いが生まれます。
同じような経験と環境を得ているにもかかわらず、対極の主張を得ることもあるのです。
何が人の主張を分けるのでしょうか?
それは、魂です。
人の主張は、魂によって選別されるのです。
あなたはこのことを覚えておかなければなりません。
魂には、成長段階があります。
それは、必要な学びを導きます。
魂は成長するために必要な学びを得るのです。
必要な学びを得るためには、その学びを得るに相応しい自分である必要があります。
学びを導くのは主張です。
人は、主張によって学びを選別しているのです。
人は、その主張に相応しい学びを得ることができます。
それは人生の目的である成長を助けます。
人は相応しい学びを得なければならないのです。
人は、魂の段階によって主張を築くのです。
そこには、魂の段階による学びがあるのです。
考え方も生き方も、魂の段階に関係しています。
人は、その魂に相応しい考え方、生き方をするのです。
それ以外を選択することはできません。
そのため、人は魂の段階の範囲によって、理解することが許されているのです。
魂の段階によって、人は理解を許されます。
所属している魂の段階に勝ることを理解することはできません。
それは、小学生が大学生の授業を受けても理解することができないのと同じなのです。
小学生は、小学生向けの授業を理解し、大学生は大学生以下向けの授業を理解することができるのです。
人は、自らの魂の段階以上の理(ことわり)を理解することができないのです。
人は理解を求めていますが、他人を理解するためには、魂の段階のことを考える必要があるのです。
相手があなたよりも魂の段階が乏しければ、あなたは理解されることはありません。
相手があなたよりも魂の段階が似ているか豊かであれば、あなたは理解されるのです。
その逆も同じです。
あなたが相手を理解するためには、魂の段階が相手のそれよりも豊かでなければならないのです。
人は理解し合えます。
それは、魂の段階が近い時のことです。
しかし、人は理解し合えません。
それは、魂の段階が遠い時のことです。
どれだけ理解しようと努めても、理解することはできません。
人は、魂の段階によって組を作ります。
それが遠ければ、通じ合えないのです。

2016年4月10日日曜日

人格に相応しい人生

人は、成長を目的としています。
どのような人物も、成長を実現する必要があるのです。
成長を否定することのできる人物はいません。
なぜなら、どのような人の求めるどのような幸福も、成長によって導かれるからです。
人は、人生において人格という歪みを解消し、魂を成長させる必要があります。
すべての人は人格の歪みを取り除き、魂を磨く必要があるのです。
魂も成長します。
それは、輝きを増すのです。
より洗練された魂は、より強い光を放つようになるのです。
人格とは、魂の歪みであり、魂の状態に従います。
人格は、魂の状態(問題点)を現しているのです。
人は、人格に相応しい人生を生きることになります。
その人格に相応しい思考を有し、その人格に相応しい行為に及びます。
そして、その人格に相応しい状況と環境を得るのです。
その人格に相応しくない人生を生きることはできません。
どのような”奇跡”を望んでも、それは決して実現しません。
幸運に(思えること)会っても、次にはその辻褄(つじつま)が合うようになるのです。
”奇跡”を望み、それが実現したと思っても、それはより多くのものを奪い去るのです。
人は、その人格に相応しい人生を得ます。
その人格に相応しい人生を生きなければならないのです。
金に価値を置く人格を有する者は、金を求めます。
価値の中心が金となり、すべてを金勘定という基準によって計ることになるのです。
それ以外の思考も、行為も、状況も、環境も得ることはできないのです。
金に価値を置く人格を有する者は、金によって喜び、金によって苦しむのです。
それ以上の人生を得ることはできないのです。
多くの人の魂はこの段階にいます。
人格は金(勘定)に対する問題を抱えているのです。
すべてに金銭的な価値判断を用いれば、本質を見失うのは必至です。
それは、表面的な価値基準であり、浅はかなのです。
そのため、その問題を解決しなければならず、金を中心とした人生を選択するようになるのです。
人生は魂の治療(室)のようなものです。
人は、自らの歪みと向き合わなければならないのです。
それは、解決しなければならない問題です。
そのために、人はそのようにしか生きることができないのです。
あなたは、あなたに相応しい人生を生きます。
それは、問題を解決するためでありますが、多くの人はそのことにすら気が付きません。
人生の目的を理解しないが故に、苦しむ必要のないことに苦しみ、喜ぶ必要のないことに喜んでいるのです。
多くの人は見当違いな生き方をしています。
自分の問題にすら気が付かないのです。
問題によって苦しんでいるということには何とか気が付くことができますが、それを解消しようと努めることはありません。
問題を先延ばしにし、曖昧(あいまい)な状態に追いやるのです。
多くの人は、自分の問題にすら気が付かないため、核心的な努力を行いません。
問題にすら気が付くことができないでいるために、努力を行うことができないのです。
多くの人は無知の中を我武者(がむしゃ)らに生きています。
問題の本質を理解することができないために、五里霧中(ごりむちゅう)を生きる以外に方法がないのです。
あなたが求めなければならないことは、物事の本質を得ることです。
見当違いの努力は、見当違いの成果を導きます。
”奇跡”を信じているような思考状態の人物がこれです。
あなたは、人が人格(魂の問題)を生きるということを理解しましょう。
人生はその人格に従って形成されます。
それ以外のことは起きません。
あなたは人格の歪みを取り除かなければなりません。
そうすれば、知恵を増し、問題は解決するのです。
人格が成長すれば、新たな価値観を得ることができます。
その価値観に従って人生が形成されるため、これまでの問題は問題にはならず、あなたは新たな問題に挑戦することになるでしょう。
人は、その人格に相応しい人生を生きなければならないということを理解しましょう。

2016年4月9日土曜日

湯治場

人の本質は”魂”です。
それ以上の本質もありますが、あなたに対する説明はここまでで十分です。
(あなたを軽んじている訳ではありません。人の形を得ている者にはそれ以上は必要ないのです)
人は、本質である魂が、肉体を所有した姿です。
肉体には、魂をそのまま表現する力はありません。
それは、魂に比べて、肉体の力が不足しているからです。
肉体に対して魂は広大であり、そのすべてを表現することはできないのです。
そして、魂が肉体を得るのには理由があります。
その理由に反する必要がないために、魂のすべてを表現する必要がないのです。
魂が肉体を得る理由は、”汚れ”を取り除くことです。
魂は存在しているだけで汚れを得ます。
それは、鉄が錆(さび)を生じるようなものです。
そこで、魂を磨く必要があります。
魂を磨くためには、それを磨くための環境と道具が必要です。
鉄を磨くには、それに必要な環境と道具が必要なのと同じです。
あなたが素手によって鉄を擦(す)っても、錆を落とすことはできません。
鉄を磨くためには、それに相応しい環境と道具が必要なのです。
魂を磨くための環境と道具とは、人生のことなのです。
人生は、魂の汚れを落とすための場所であるのです。
人生の目的は成長にありますが、成長とは、魂の汚れを取り除く作業であるのです。
人は人生において魂を成長させることはできません。
それは、魂が成長する必要はないからです。
人は人生において、人格を成長させる必要があるのです。
人格とは、魂の問題の寄せ集めです。
それは、汚れた部分の寄せ集めなのです。
魂は、それを磨きたいのです。
そのため、人格というものはそのすべてが歪んでいます。
すべての人の人格には問題があり、汚れているのです。
人が成長するということは、人格の歪みを取り、汚れを落とすということなのです。
人格の高まりと共に、歪みと汚れは取り除かれます。
それは、悟りを得ることであり、傲慢(ごうまん)や怠慢(たいまん)、怒りや不安などを引き起こす自我の弱まりを意味しているのです。
人格が磨かれると、人は素直で優しく、寛大で愛情深い存在となります。
それは、魂の汚れが取り除かれ、本来の姿に近付くためです。
魂とは光です。
それは、愛情そのものなのです。
(しかし、前述したように、それがあなたの本質ではありません。魂とは、陰陽の陽であるからです)
人格という汚れが取り除かれると、人は魂の光を放つようになります。
そこには慈悲が溢れるのです。
すべての人が人格を磨くために人生に生まれます。
成長以外の目的を以て生まれた者はいません。
人生とは、魂の湯治場のようなものだからです。
魂は人生に漬(つ)かり、垢(あか)を落としているのです。
世の中は、人格の作り出す世界です。
魂の問題である人格が作り出す世界とは、問題そのものなのです。
世の中には問題が溢れています。
愚かな者が生み出す仕組みとは、愚かなものなのです。
そのため、世の中には愚かさが溢れています。
世の中は歪んでいます。
それは当然のことです。
世の中の一切は、魂にとっては虚(むな)しいのです。
しかし、人格にとっては喜びであるでしょう。
あなたは世の中を楽しみますか?
汚れの現れを楽しむのでしょうか?
あなたが真の幸福を求めているのならば、汚れの消滅を喜ばなければなりません。
人生が人格という汚れを取り除く場所であるということを覚えておきましょう。
それを知らずに汚れを増すのであれば、あなたの苦悩を増すでしょう。

2016年4月8日金曜日

善意の形

すべての魂は、貢献を求めています。
誰もが役に立ちたいと考えています。
それは、人生の目的がそれであるからです。
すべての存在は貢献するために存在するのです。
個体であるそれぞれの存在は、全体に貢献することを喜びとします。
それは、個体が全体から生じたからです。
個体は全体であり、全体は個体であるのです。
そのため、個体は全体を、全体は個体を大切に扱うのです。
個体である人間は、全体に対して貢献したいという願望を所有しています。
どのような人物であろうとも、全体に対して貢献したいと考えています。
その方法はそれぞれに違うため、そのようには認識されません。
しかし、それぞれがそれぞれの形によって、全体に貢献したいと考えているということを知りましょう。
例えば、”悪者”は、その悪行によって貢献すると考えているのです。
この世界には善悪は存在しません。
善悪は、人の価値観の中にだけ存在しているのです。
そのため、ある人からはその人が悪者に見え、その行為は悪行に思えるのです。
しかし、ある人からはその人が善人に見え、その行為は善行に思えるのです。
何が善であり、何が悪であるのか?あなたには判断することができるでしょうか?
あなたの信じる善が正しいと、なぜ言い切れるのですか?
すべての存在は、自分の思い描く方法によって、全体に貢献しようとしているのです。
それを悪だと言って否定してはならないのです。
どのような行為も、貢献を望んで行われたのです。
貢献の方法が違うだけです。
あなたに理解することができないからといって、それを否定してはなりません。
あなたには、理解することができないことがあるのです。
それも数え切れない程あるのです。
すべての人が善を所有しています。
人はその善を信仰し、その善に従って行うのです。
すべての人のすべての行為は、善意によって導かれるのです。
この世界に貢献したいと思わない者はいません。
それがどのような存在であろうとも、自分の出来る範囲によって貢献しようと考えているのです。
それを、主観によって否定してはならないのです。
何事も、あなたに判断することができるような浅いものではありません。
あなたは、自分のことすらろくに知らないのです。
自分のことさえ満足に知ることができない者が、どうやって他人を判断するというのでしょう?
残念ながら、あなたには判断することができません。
善悪は、あなたの決めるようなことではないのです。
あなたは、他人がどのような行為に至ろうとも、それを責めてはなりません。
その人は、それを良かれと思って行ったのです。
すべての行為は、善意によって導かれます。
善意の形が違うだけです。
すべては貢献のためなのです。
懲(こ)らしめは、因果の仕組みによって実現します。
あなたが思い煩(わずら)い、気に病むことは何もありません。
あなたが怒りを覚え、報復する必要もありません。
あなたは相手の行為への理解を深める努力をしましょう。
そこには、貢献したいと願う善意があるはずなのです。
しかし、貢献したいと願う善意は、この地上において大きく歪められています。
すべての人は全体に対して貢献したいと考えますが、その願望は大きく歪んでいます。
そのため、貢献したいと願う善意は、あらぬ方向へと進んでしまうのです。
世の中には、意欲ばかりが強く、責任感に乏しい者が多いのです。
貢献したいという意欲が強過ぎるために、責任を負うことができない方法を用いようとします。
しかし、どのように貢献しようとも責任を果たすことができなければ何の意味もないのです。
立派な外観の商業施設を建てても、赤字続きであれば、その責任(建設費用の完済)を果たすことはできないのです。
債務を完済することができないのであれば、立派な外観は必要ないのです。
それよりかは、質素(しっそ)な外観でも債務を抱えない方が優れているのです。
多くの人はこのことに気が付きません。
見栄を張ってはなりません。
責任を果たすことができないというのは恥なのです。
情けない生き方をしてはなりません。
責任を果たすことができず、誰かに迷惑を掛けるのであれば、あなたはその方法を諦めましょう。
しかし、多くの人は責任を果たすこともできないのに、見栄を張るのです。
あなたは責任を果たさなければなりません。
それは、他人に迷惑を掛けないのとです。
それだけのことです。



2016年4月7日木曜日

価値観の寿命

すべての人は価値観に従います。
すべての行為は価値観に従って導かれ、人生はその通りに実現します。
人生は価値観そのものであると考えましょう。
価値観は、人の行為を左右します。
人は、価値観にそぐわないものに興味を示しません。
人が興味を抱き、楽しむものは、所有する価値観の中にあるものにだけなのです。
それは、因果の仕組みです。
価値観とは、人の行為の原因です。
人の行為とは、価値観の結果であるということを理解しましょう。
価値観に逆らうことはできますが、それは苦悩を意味します。
価値観とは、人の支配者ではなく、喜びへの案内人なのです。
人は、価値観に従って生きれば喜びを得ることが許されているのです。
人によって価値観は違います。
人が幸福を求めているのであれば、”できる限り”その価値観に従って生きることが求められるのです。
しかしながら、多くの人は価値観に従うことをしません。
それは、恐怖を抱えているためです。
”やりたいこと”よりも、”安心すること”を選択するのです。
それは、仕事に対して、遣(や)り甲斐(がい)よりも、収入を選択するようなものなのです。
どのような選択も最善であり、間違いなどはありません。
そのため、どのような道を進んでも構いません。
すべてが正解です。
しかし、選択によって受け取る結果は違うものとなります。
人は苦悩を嫌うため、それを求めないというのであれば、”安心すること”よりは”やりたいこと”を選択する方が良いでしょう。
恐怖を克服し、価値観に従うのであれば、より大きな喜びに会うでしょう。
しかし、価値観に従うのは簡単なことではありません。
恐怖(既成概念や常識)を克服し、価値観に従ったとしても、その価値観にも寿命があるのです。
その価値観はやがて樹木の枝のように枯れ落ちてしまいます。
あなたが成長すると共に、価値観は使い物にならなくなるのです。
今はその価値観を喜んでいるでしょうが、後にはそれによって苦しむことになります。
過去を思い出して恥ずかしく思うのはそのためです。
価値観は形を変えます。
それは、より本質的な変化を遂げるのです。
子どもの頃に興味を抱いていたものに対して、大人になれば興味を失います。
それは、より本質に近付いたためです。
例えば、若い時に抱いていた愛に対して、歳を重ねた人はそれを軽薄であったと思い至るでしょう。
若い時に思い描いた愛は幻想であり、全く本質を得ていないと知るのです。
若い時には喜んでいた他人との関係性が、歳を重ねた人には喜べなくなるのです。
あなたはそれを不幸だと思うでしょうか?
多くの人はそれを幸福であると思うでしょう。
若い時の愛と老齢の愛は違うものなのです。
しかし、それを苦しむ人はいません。
若人(わこうど)はその愛を喜び、老人もその愛を喜ぶのです。
しかし、若人は老人の愛を喜びません。
老人も若人の愛を喜ばないのです。
それは、価値観に従ってはいないからです。
若人は若人の価値観に従い、老人は老人の価値観に従う必要があるのです。
それが幸福の定(さだ)めなのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、所有する価値観に従わなければなりません。
価値観を否定し、”やりたくもないこと”によって”安心すること”を選択しているのであれば、老人が若人の愛を求めるようなものなのです。
老人が若人の愛を求めれば、直(ただ)ちに苦悩が導かれるでしょう。
あなたは、あなたの価値観を大切にしなければなりません。
それは、寿命を終えますが、その時にも心配する必要はありません。
価値観は成長と共に失われるのは自然のことなのです。
その時に、習慣があなたを不安にさせるでしょうが、それを恐れてはなりません。
一つの枝が枯れ落ちるのであれば、一つの新芽が育つのです。
それは新たな枝となり、より豊かに育まれるのです。
古い価値観に執着してはなりません。
新たな価値観を育みましょう。

システム(4/5の記事です)

人は、体系的な存在です。
それは、体系を保持します。
人は同じことを繰り返すのです。
それは、人には繰り返しの作業が必要であるからです。
繰り返すことによって、人は理解を深めることができます。
繰り返すことがなければ、理解を深めることはできません。
それは、どのような本質も奥深いものであるからです。
その奥深さを理解するには、何度も繰り返して学ぶ必要があるのです。
どのような人も一度や二度では本質を得ることはできません。
そのため、人は繰り返すのが”普通”なのです。
この繰り返す作業が、人を体系的な存在にしているのです。
それは、大切な性質です。
繰り返すことがなければ、理解を得ることができず、理解を得ることができなければ、成長することができないからです。
人生の目的は成長にあります。
すべての人が成長を実現する必要があるのです。
そのため、繰り返して学ぶことは重要です。
しかし、既(すで)に学んだことを繰り返す必要はありません。
学びを得た(理解した)のであれば、それを繰り返す必要はないのです。
しかし、人は体系的な存在です。
そのため、既に学び終えている事柄に対しても、習慣として保持してしまうのです。
しかし、そこには新たな学びはありません。
学び終えた事柄を繰り返しているのであれば、苦悩が導かれてしまうのです。
それは、鍋を煮込むようなものなのです。
鍋は煮込み過ぎれば味を損ないます。
美味しく食べるためには、美味しいところで火から降ろさなければならないのです。
学び終えるということは、料理の完成のようなものです。
それ以上煮込めば、口に苦(にが)くなるのです。
学び終えた事柄を習慣として継続してはならないのです。
美味しくない料理を食べるのは苦しいものなのです。
学ぶ必要の無い学びを得ることは、あなたの心に苦いのです。
多くの人は惰性的(だせいてき)に生きています。
プログラミングされた価値観に従って思考し、行為するのです。
人が苦しんでいるのは、煮詰まっているからです。
それは、味の無い食材を噛み続けるようなものなのです。
人は不要な繰り返しを断ち切らなければなりません。
不要な繰り返しとは、あなたに苦悩をもたらす習慣のことです。
それが苦しいからといって不要であるとは限りません。
苦しいながらも発見(学び)があれば、それは必要な繰り返しなのです。
しかし、何の発見も無いのに続けているのであれば、それは不要な繰り返しの可能性が高いのです。
あなたは自分が体系的な存在であるということを理解しましょう。
人は原因に従って行為します。
原因とは価値観のことです。
あなたは、あなたが価値のあると思うものに従って選択するのです。
あなたの成長段階によって、何に価値を見出すのかは異なります。
成長すると共に、価値観も変わるのです。
価値観とは、システムのことです。
人は価値観というシステムに制御されているのです。
これに逆らうことは簡単ではありません。
人の興味関心は、価値観を出ることはありません。
それは、子どもに哲学の話をしても興味を示さず、大人に絵本を勧(すす)めても喜ばないようにです。
子どもは絵本を好み、大人は哲学を好むのです。
それは、そのような価値観というシステムを所有しているからなのです。
あなたは、努力によってシステムを書き換えることができます。
そのためには、目の前のことを懸命に学ばなければなりません。
懸命に学べば、学び終えるのが早くなるのです。
そうすれば、システムは書き換えられ、あなたは最早(もはや)それに興味を抱かなくなるでしょう。
そして、不毛に繰り返す必要もなくなるのです。
繰り返す必要のない事柄を繰り返してはなりません。
新たな学びに挑むのです。
そこには、多くの発見と、大きな喜びがあるでしょう。

2016年4月6日水曜日

世界を美しく

あなたは美に触れなければなりません。
あなたは、美を遠ざけてはなりません。
美とは、あなたの美しいと感じる対象です。
あなたの心が、それを美しいと感じれば、それは美なのです。
美的感覚は人それぞれです。
それが違っていることは自然です。
それが違っていたとしても、何の問題もありません。
しかし、美を遠ざけることは問題を引き起こすのです。
美は、人の心にとってなくてはならないものです。
それは、心に豊かさを導きます。
美とは、心の栄養なのです。
美を得ずに、心が豊かさを保つことはできません。
それは、肉体に対する食物のようなものです。
それがなければ、成り立たないのです。
心が美を断てば、肉体が食物を断つようなものです。
それは、空虚な状態なのです。
食物を得ない肉体には喜びがありません。
美を得ない心にも喜びはないのです。
人は、心が喜ぶことによって幸福を得ることができます。
しかし、心が喜ばないのであれば、苦悩を得る他ないのです。
どのような人の心にも、美が必要なのです。
しかし、多くの人はそのことに気が付いてはいません。
美は重要ではないと考えているのです。
多くの人は美を尊重しません。
その代わりに、生命を維持するための何かを尊重します。
生きることに懸命になる余り、美を遠ざけてしまうのです。
それから、”劣悪”な快楽によって、美を遠ざけるのです。
人生の目的は生き長らえることなのでしょうか?
快楽に従い、汚らしく生きることなのでしょうか?
あなたは冷静に考えなければなりません。
人生には生き長らえることよりも、快楽に従うことよりも大切なものがあるはずです。
常識の中にいれば、そのようには考えることができません。
常識は、人に生存すること、快楽に従うことを教えるからです。
それは、人の世が欲望によって成り立っており、それを成立させるためには、生き長らえることと快楽に従うことが求められるからです。
人は欲望による消費に豊かさを見るのです。
しかし、それは幻想に過ぎません。
どれだけの欲望を貪(むさぼ)っても、人が満足することはありません。
生き長らえ、快楽に溺れるだけでは、人の心は満たされないのです。
心が求めているのは美であるのです。
それ以外のものを求めてはいないのです。
しかし、常識がそれを隠すのです。
人の世を楽しむ多くの人は、生き長らえること、快楽を貪ることを本望としているのです。
しかし、それは結果的に苦悩を導くのです。
あなたは、生き長らえることよりも、快楽に溺れることよりも重要なことがあると知りましょう。
それは、美に触れることです。
あなたはいつも美を求めていましょう。
あなたの心は美を求めているでしょう。
美しいと感じるものを見ましょう。
そして、それに触れましょう。
あなたは世界を美しくしなければなりません。
それは、あなたの努力の賜物(たまもの)なのです。
美から遠ざかれば、生き長らえることも、快楽に従うことも苦悩となるのです。
あなたは自らの心が求める美を得ましょう。
自らの周囲に美を置きましょう。
世界を美しく変えるのです。
世界を美しく変えるためには、小さな美に触れなければなりません。
あなたは、美を大切にしましょう。


2016年4月4日月曜日

知識を改める

人は理解を深める必要があります。
それは、本質を得るためです。
物事には核となる本質が存在しているのです。
本質を知ることがなければ、それを正しく扱うことはできません。
正しく扱うことができなければ、それは問題を生じるのです。
無知は苦しみを導きます。
人が苦しみを得るのは、無知だからです。
無知は本質を知りません。
本質を知らなければ、間違った用途を選択するのは当然のことなのです。
どのような薬も、用途を間違えれば毒となります。
どのような毒も、用途を正しくすれば薬となるのです。
それを薬にするには、正しい用途を知らなければならないのです。
正しい用途は、本質にあるのです。
あなたは本質を理解しなければなりません。
本質を理解するためには、理解を深める必要があります。
理解を深めるためには、それを経験する必要があるのです。
経験することによって、理解は深まります。
理解が深まることによって、本質に近付くのです。
本質を得るには、経験の量が重要なのです。
経験を得るのは、人の意思です。
その人が経験を欲するのであれば得られます。
しかし、それを求めていなければ得られないのです。
多くの人は、決め付けを所有しています。
浅い経験値から、”それ”を理解したつもりでいるのです。
本質を得ることがなければ、理解したとは言えません。
しかし、多くの人はそれを理解したと思い込んでいます。
そのため、間違った用途によって、苦しみを得ることになるのです。
人生に苦しみを得ているのであれば、あなたは本質を得ることができてはいないのです。
本質を得れば、正しい用途を選択することができるために、苦しみに会うことがないのです。
間違っているために苦しむのです。
あなたは改めて体験しなければなりません。
既存の知識を改める必要があるのです。
自分が無知であるということを認めるのには勇気が必要です。
しかし、それは仕方のないことです。
苦しみはあなたの理解不足を示しています。
苦しみは、あなたに学ぶことを勧(すす)めているのです。
あなたが苦しみを抱えているのならば、理解を深めるように努めなければなりません。
あなたは無知であるが故(ゆえ)に苦しんでいるのです。
そのことを理解する必要があるのです。
改めて経験した時には、”それ”が自分の思っていたものとは全く違っていたことを知るでしょう。
その時、人は新たな発見をし、それが喜びをもたらすのです。
本質に近付くということは、喜びに近付くということです。
物事の本質には喜びがあるのです。
本質から遠ざかる程に、苦しみがあるということを覚えておきましょう。
そのため、理解している程に喜ぶことができるのです。
それは、成長することが喜びであるのと同じなのです。
本質に向かうことは成長することでもあるのです。
そのため、本質に向かうことによって喜びが得られます。
本質から遠ざかっている人程苦しんでいます。
あなたは、無知な人が苦しんでいるのを見るでしょう。
しかし、知恵のある人が苦しんでいるのは見ることがないのです。
知恵のある人は喜びます。
それは、本質を得ているためです。
毒ではなく、薬を飲むからです。
毒を飲んで苦しむのは愚かなことです。
無知であることは愚かなことなのです。
あなたは知識を、常識を改めましょう。
理解を深めるために何度も何度も向き合いましょう。
本質を得れば、あなたは苦しむことはないでしょう。

2016年4月3日日曜日

人生の主

人は、人生の主を知らなければなりません。
それは、人生が主によって決められているからです。
雇われ人が雇い主に逆らうことはできません。
どのような事柄であっても、雇われ人は雇い主に従わなければならないのです。
人生の雇われ人であるあなたは、その主に従わなければなりません。
人生において、あなたはそれを好きにすることはできません。
それは、あなたが雇われ人であることを意味するものであり、雇い主ではないということを知らせています。
あなたが人生を好き勝手にすることができるというのであれば、あなたが人生の主であることには間違いありません。
しかし、あなたには人生を好き勝ったにすることは許されていないのです。
あなたは人生の雇われ人であるということを自覚しましょう。
人生は決して、あなたの思い通りには進みません。
それは、あなたが雇われ人であるからです。
あなたの人生を決めているのは誰でしょうか?
厳密には、人生はあなたの意思以外の何かが決めているのです。
それは、あなたの主となる存在です。
それは、あなたの魂なのです。
人の本質は魂です。
魂は生まれ変わって人生を体験しています。
人生とは、魂の所有物であるのです。
それは、あなたのものではありません。
魂は、自らを向上させるために人生を経験します。
それは、熱した鉄から不純物を取り除くような作業です。
人生は雇われ人にとっては苦しい面もあります。
しかし、雇い主にとっては喜びなのです。
あなたにとっては苦しいことも、魂にとっては喜びであるということを知りましょう。
熱した鉄から不純物を取り除くのは簡単ではありません。
何度も熱し、何度も叩き、何度も冷やし、何度も熱し・・・
それは、骨の折れる仕事なのです。
雇われ人であるあなたは、不純物を取り除く鍛冶(かじ)のようなものです。
あなたは汗水流しながら、鉄を鍛え続けなければなりません。
少しずつ、鉄から不純物を取り除かなければならないのです。
そのため、あなたは何度も同じ作業を繰り返さなければなりません。
人生に繰り返しがあるのはそのためです。
不純物が取り除かれるまでは、同じ作業が続くのです。
雇い主である魂が、その仕事を見て満足するのであれば、別の作業が与えられるのです。
あなたは、自分勝手に人生を推し進めることはできません。
雇い主である魂の許可が必要であるのです。
人は、魂に従って人生を建設します。
雇われ人が雇い主に従わなければならないように、人の行為は魂によって制限されています。
人は、魂の許しがなければ、何かを得ることはできないのです。
人の行為は、魂に制限されているのです。
魂は成長を求めています。
どのような人も、魂の学びに従わなければならないのです。
あなたは、自分勝手に行うことはできません。
人生は自分で決めるものですが、自分で決めていると思っている選択肢も、魂によるのです。
魂に必要な学びを、自分が決めていると思い込んでいるのです。
本当は魂が決めています。
しかし、あなたはそれを自分が決めていると思い込んでいるのです。
仕事は、雇い主が決めます。
雇われ人が仕事を決めるのではありません。
あなたは、人生を思い通り、自分勝手に創造することはできません。
あなたはそれを与えられるのです。
人生の主は魂です。
それは学びを必要としています。
それは、成長を欲しているのです。
人生はあなたの本質である魂が欲している経験を導きます。
それを経験することは楽しくもあり、辛くもあるのです。
しかし、そのすべてが必要であるということを覚えておきましょう。
不平不満は必要ではないのです。
感謝して学びましょう。

2016年4月2日土曜日

悪い癖

人生は、思考の習慣です。
あなたが受け取るすべての状況は、あなたの選択によって導かれるのです。
あなたの選択の原因は、価値観にあります。
あなたは価値観に従って選択しているのです。
価値のあると思うものを選択し、そうでないものを疎外(そがい)します。
価値観とは、経験によって形成されますが、その方向性を決めるのが思考なのです。
どのように考えるのか?によって、人は何に価値を見出すのかを決めているのです。
何に価値を見出すのか?によって、人はどのように考えるかを決めています。
人は価値を考える存在です。
何に価値があるのかを常に考えているのです。
その積み重ねが、人生を選択する指標となるということなのです。
人は価値観に従って選択するために、人生はその人の思考の価値を現します。
その人の思考が何に価値を置いているのか?ということは、その人の受け取る状況によって知ることができるのです。
あなたが受け取る状況は、あなたの思考が求める価値を知らせているのです。
あなたが受け取る状況が、あなたの最も価値があると考えているものです。
あなたが自らの人生をどのように思おうとも、あなたの価値観を反映しているということを否定することはできないのです。
価値の置き方にも陰陽が存在しています。
ポジティブな方向性にも価値観は存在し、ネガティブな方向性にも価値観は存在します。
陰陽のどちらにも、価値を置くことができるのです。
そして、人は陰陽のどちらにも価値を置いているのです。
しかし、人はそのことには気が付いていません。
価値とは、ポジティブな方向性だと決め付けているのです。
しかし、多くの人はネガティブな方向性に傾いているのが”普通”です。
多くの人は悪い癖を抱えています。
それは、物事のネガティブな部分に集中するという癖なのです。
多くの人は無意識の内に物事の短所を探しています。
そのため、多くの人は心配性なのです。
希望や喜びを口にするよりも先に、不安や心配が口を吐きます。
それは、思考がネガティブな方向性に価値を見出しているためなのです。
しかし、多くの人はそのことに気が付いてはいません。
ネガティブな方向性に価値を置けば、それが状況に反映されることは当然です。
人は、望むものを得ることができるのです。
価値観とは、思考の積み重ねです。
意識的にも、無意識的にも、最も多く、最も強く考えていることが最大の価値なのです。
それに従って人生が築かれるのです。
普段、最も考えていることが、人生に反映されます。
多くの人は悪い癖によって、不安や心配を考えています。
それは、人生に対して、ネガティブな状況を導きます。
多くの人はそれを更なる不安や心配によって迎えます。
そしてまた、ネガティブな状況が導かれるのです。
人生を変えるためには、価値観を変える必要があります。
それは、思考の習慣を変えることです。
多くの人は原因が思考の習慣にあるとは気付きません。
そのため、状況や環境、人間関係などを変えることによって、人生が変わると思い込んでいるのです。
状況や環境、人間関係を一変させたとしても、原因であるあなたの思考の習慣が変わっていないのであれば、そこでまた同じことを繰り返すのです。
どのような状況や環境、人間関係を得ようとも、あなたの思考が変わっていないのであれば、何も変わらないということを覚えておきましょう。
あなたは思考の習慣に注意を払わなければなりません。
多くの人は、悪い癖によって、ネガティブな思考の習慣を所有しています。
それは、あなたの周囲の人達がそのようにしていたからです。
あなたは、いつの間にかに”洗脳”されていたのです。
それは、生まれながらの自然な洗脳であるために、多くの人は気が付きません。
そのため、自らを改めることをせずに、自分以外の何かを変えることによって、人生が変わると思い込んでいるのです。
残念ながら、そのように甘い話はありません。
あなたは思考を、その習慣を変えなければなりません。
物事の短所を探すことをやめ、長所を探しましょう。
ただ、それだけのことをするだけなのです。
簡単です。
しかし、今すぐに、強い意思を以て始めなければなりません。
ポジティブな方向性に価値を見出しましょう。

2016年4月1日金曜日

幼稚な世界

人生とは、人の願望の産物です。
それは、願望によって成ります。
願望とは、心の欲求です。
人生は、心の欲求の結果であるということを知りましょう。
すべての人生は、心によって成ります。
どのような人の人生も、心を無視することはできません。
あなたの人生も、心の欲求によって実現しているのです。
どのような人も願望を所有します。
人は、その願望に従って選択するのです。
それは行動を導き、状況という結果を実現させるのです。
あなたも心の結果である人生を受け取っているのです。
心とは、霊体の心と肉体の心の大きく分けて二つの種類があります。
心とは、決して一つのものではありません。
それは、人の中に幾つも存在しているのです。
大きく分けて、人は霊体の持つ心と、肉体の持つ心の二つによって動かされているのです。
肉体の心とは本能のことです。
それは、生命活動を支えます。
多くの人の従う願望は、肉体の心によって生じているのです。
本能的な欲求は、肉体の心によってもたらされます。
それは、睡眠欲、食欲、性欲・・・
このような基本的生存本能を示すのです。
肉体の心は、肉体を大切に扱います。
それに従うということは、肉体の維持に力を注ぐことになるのです。
多くの人が従っているのが、肉体の心なのです。
多くの人は生存本能を満たしてさえいれば、それで良いのです。
多くの人は、睡眠欲、食欲、性欲などの基本的生存本能が満たされることを幸いとしています。
衣食住などの生活の基本が満たされていれば文句はありません。
そして、その延長に幸福を見ているのです。
より長く、深く眠ること。
沢山の贅沢な食事を摂ること。
異性を貪(むさぼ)ることが、より良くなることに喜びを感じているのです。
それ等の欲求がより良くなることを幸福としているのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
肉体の心を満たしたところで、あなたは本当に満足することができるのでしょうか?
満足する(と思い込んでいる)のは、あなたの肉体だけではないでしょうか?
睡眠欲、食欲、性欲を十分に満たすことによって、あなたの霊体の心が満たされるでしょうか?
残念ながら、そのようなことはないでしょう。
肉体の心をどれだけ満たしても虚しいのです。
残念ながら、そこに霊体の心の喜びは存在しないのです。
肉体の心は幼稚です。
それは、人を下品にします。
しかし、多くの人は下品です。
長い眠りを好み、贅沢な食事と異性を貪ることを喜びとしているのです。
そのような下品な生き方が、人を満足させることはないのです。
それ等の欲求は、人の品性を低下させるのです。
人は”獣”のように生きてはなりません。
あなたは肉体ではありません。
肉体の心に支配されてはなりません。
この世界には、肉体の心に従う人が多いのです。
それは、幼稚な行為を導きます。
あなたは世界を見ましょう。
そうすれば、この世界が幼稚な願望によって築かれているということを理解するでしょう。
多くの人は幼稚な願望を実現するために努力を続けています。
努力は実を結びますが、幼稚な願望の成果を得たとしても、あなたが満たされることはないのです。
寝ても覚めれば、また睡眠を欲するのです。
食べてもまた腹が減るのです。
性を貪っても、またすぐに欲しくなるのです。
いつまで経っても満たされない欲求は、幼さの選ぶところなのです。
子どもは満足しません。
すぐに欲します。
肉体も同じです。
あなたは、肉体の心、霊体の心の両方を大切にしましょう。
基本的生存本能を大切にすることは良いことですが、それ以外の欲求を大切にしてみましょう。
そうすれば、あなたは幼稚な世界から離れ、高尚な願望のために働くようになるでしょう。