すべての魂は、貢献を求めています。
誰もが役に立ちたいと考えています。
それは、人生の目的がそれであるからです。
すべての存在は貢献するために存在するのです。
個体であるそれぞれの存在は、全体に貢献することを喜びとします。
それは、個体が全体から生じたからです。
個体は全体であり、全体は個体であるのです。
そのため、個体は全体を、全体は個体を大切に扱うのです。
個体である人間は、全体に対して貢献したいという願望を所有しています。
どのような人物であろうとも、全体に対して貢献したいと考えています。
その方法はそれぞれに違うため、そのようには認識されません。
しかし、それぞれがそれぞれの形によって、全体に貢献したいと考えているということを知りましょう。
例えば、”悪者”は、その悪行によって貢献すると考えているのです。
この世界には善悪は存在しません。
善悪は、人の価値観の中にだけ存在しているのです。
そのため、ある人からはその人が悪者に見え、その行為は悪行に思えるのです。
しかし、ある人からはその人が善人に見え、その行為は善行に思えるのです。
何が善であり、何が悪であるのか?あなたには判断することができるでしょうか?
あなたの信じる善が正しいと、なぜ言い切れるのですか?
すべての存在は、自分の思い描く方法によって、全体に貢献しようとしているのです。
それを悪だと言って否定してはならないのです。
どのような行為も、貢献を望んで行われたのです。
貢献の方法が違うだけです。
あなたに理解することができないからといって、それを否定してはなりません。
あなたには、理解することができないことがあるのです。
それも数え切れない程あるのです。
すべての人が善を所有しています。
人はその善を信仰し、その善に従って行うのです。
すべての人のすべての行為は、善意によって導かれるのです。
この世界に貢献したいと思わない者はいません。
それがどのような存在であろうとも、自分の出来る範囲によって貢献しようと考えているのです。
それを、主観によって否定してはならないのです。
何事も、あなたに判断することができるような浅いものではありません。
あなたは、自分のことすらろくに知らないのです。
自分のことさえ満足に知ることができない者が、どうやって他人を判断するというのでしょう?
残念ながら、あなたには判断することができません。
善悪は、あなたの決めるようなことではないのです。
あなたは、他人がどのような行為に至ろうとも、それを責めてはなりません。
その人は、それを良かれと思って行ったのです。
すべての行為は、善意によって導かれます。
善意の形が違うだけです。
すべては貢献のためなのです。
懲(こ)らしめは、因果の仕組みによって実現します。
あなたが思い煩(わずら)い、気に病むことは何もありません。
あなたが怒りを覚え、報復する必要もありません。
あなたは相手の行為への理解を深める努力をしましょう。
そこには、貢献したいと願う善意があるはずなのです。
しかし、貢献したいと願う善意は、この地上において大きく歪められています。
すべての人は全体に対して貢献したいと考えますが、その願望は大きく歪んでいます。
そのため、貢献したいと願う善意は、あらぬ方向へと進んでしまうのです。
世の中には、意欲ばかりが強く、責任感に乏しい者が多いのです。
貢献したいという意欲が強過ぎるために、責任を負うことができない方法を用いようとします。
しかし、どのように貢献しようとも責任を果たすことができなければ何の意味もないのです。
立派な外観の商業施設を建てても、赤字続きであれば、その責任(建設費用の完済)を果たすことはできないのです。
債務を完済することができないのであれば、立派な外観は必要ないのです。
それよりかは、質素(しっそ)な外観でも債務を抱えない方が優れているのです。
多くの人はこのことに気が付きません。
見栄を張ってはなりません。
責任を果たすことができないというのは恥なのです。
情けない生き方をしてはなりません。
責任を果たすことができず、誰かに迷惑を掛けるのであれば、あなたはその方法を諦めましょう。
しかし、多くの人は責任を果たすこともできないのに、見栄を張るのです。
あなたは責任を果たさなければなりません。
それは、他人に迷惑を掛けないのとです。
それだけのことです。
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