すべての人は理解を求めています。
	誰であっても、他人に理解して欲しいと願うのです。
	理解は喜びです。
	それは、人の希望となります。
	理解を得ないことは苦しみであり、それは人に絶望を導きます。
	すべての人は理解を求め、それが喜びであるということを知っているのです。
	そのため、自分のことを理解して欲しいと願い、相手を理解しようとも努めるのです。
	しかし、人が理解を深めることは簡単なことではありません。
	それは、人にはそれぞれの主張があるからです。
	人には、それぞれの世界があります。
	それは、主義を形成し、人を限定します。
	すべての人は何等かの考え方に傾いているのです。
	そのため、人はその主張によって別れるようになるのです。
	しかし、主張はどこから来るのでしょう?
	経験から来るのでしょうか?
	環境によるものなのでしょうか?
	人の主張は、経験からでも、環境からでも築かれます。
	すべての経験と環境が、人の主張に影響力を持っているのです。
	しかし、経験と環境を主張に結び付けるには説明不足です。
	同じような経験と環境を得ようとも、その主張には違いが生まれます。
	同じような経験と環境を得ているにもかかわらず、対極の主張を得ることもあるのです。
	何が人の主張を分けるのでしょうか?
	それは、魂です。
	人の主張は、魂によって選別されるのです。
	あなたはこのことを覚えておかなければなりません。
	魂には、成長段階があります。
	それは、必要な学びを導きます。
	魂は成長するために必要な学びを得るのです。
	必要な学びを得るためには、その学びを得るに相応しい自分である必要があります。
	学びを導くのは主張です。
	人は、主張によって学びを選別しているのです。
	人は、その主張に相応しい学びを得ることができます。
	それは人生の目的である成長を助けます。
	人は相応しい学びを得なければならないのです。
	人は、魂の段階によって主張を築くのです。
	そこには、魂の段階による学びがあるのです。
	考え方も生き方も、魂の段階に関係しています。
	人は、その魂に相応しい考え方、生き方をするのです。
	それ以外を選択することはできません。
	そのため、人は魂の段階の範囲によって、理解することが許されているのです。
	魂の段階によって、人は理解を許されます。
	所属している魂の段階に勝ることを理解することはできません。
	それは、小学生が大学生の授業を受けても理解することができないのと同じなのです。
	小学生は、小学生向けの授業を理解し、大学生は大学生以下向けの授業を理解することができるのです。
	人は、自らの魂の段階以上の理(ことわり)を理解することができないのです。
	人は理解を求めていますが、他人を理解するためには、魂の段階のことを考える必要があるのです。
	相手があなたよりも魂の段階が乏しければ、あなたは理解されることはありません。
	相手があなたよりも魂の段階が似ているか豊かであれば、あなたは理解されるのです。
	その逆も同じです。
	あなたが相手を理解するためには、魂の段階が相手のそれよりも豊かでなければならないのです。
	人は理解し合えます。
	それは、魂の段階が近い時のことです。
	しかし、人は理解し合えません。
	それは、魂の段階が遠い時のことです。
	どれだけ理解しようと努めても、理解することはできません。
	人は、魂の段階によって組を作ります。
	それが遠ければ、通じ合えないのです。
	
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