すべての人は、成長を実現しなければなりません。
	どのような事柄に関しても、それが自分自身と関わりのある事柄であるのならば、人は成長する必要があるのです。
	そのため、すべての人が様々な強さで成長を求めているのです。
	人によって、向上意欲に差はありますが、すべての人が成長を求めているということを理解しましょう。
	成長とは、上達することです。
	自分自身が関わりのあることに対して、上達することが一種の成長であるのです。
	上達するために、人は努力を続けているのです。
	上達するということは、理解を深めるということです。
	人は、理解の深まりと共に上達を得るのです。
	人は、知識を深めます。
	多くのことを知り、その本質に近付くのです。
	人は、技術を深めます。
	多くのことを行い、その本質に近付くのです。
	上達とは、知識と技術の向上です。
	そして、それ等が上達した暁(あかつき)には、心が上達しているのです。
	心とは、それを学んでいるものです。
	人は、それを心によって体験しているのです。
	それは、心の中に存在する問題である、人格を取り除くためです。
	知識と技術の向上によって心が上達すれば、それに相応しい人格を得ることができるのです。
	知識と技術が向上している人物ほど、人格は洗練されているものです。
	知識と技術が向上しているにも関わらず、人格が洗練されていない人物は存在しません。
	人格が洗練されていない人物の知識と技術は見るに耐えないのです。
	人は、人格の洗練を以て成長とするのです。
	あなたは、知識と技術を上達させる必要があります。
	それは、成長の過程において最も初歩的な工程です。
	人は先ず、知識と技術を磨くのです。
	その後に心を磨き、人格を磨くのです。
	知識と技術を磨くということは、対象の本質に近付くということです。
	多くの人は、知識と技術を積み重ねることが上達であると思っています。
	表面的に見れば、上達とは”付け足し”なのです。
	しかしながら、付け足すことによっては、知識と技術を上達させることはできません。
	それは、そこに余計が加わるからです。
	人格の向上は洗練によって実現します。
	洗練とは、余分を取り除くことです。
	それは、鋼(はがね)を叩き、不純物を取り除くようなものです。
	不純物を取り除いた鋼は、強靭(きょうじん)なものとなるのです。
	付け足すことを上達と考えてはなりません。
	上達とは、引き出すことなのです。
	鋼の弱さは不純物によります。
	余分を取り除くことによって強さを得ます。
	知識も技術も、不純物が弱さとなります。
	それを取り除くことによって、強さが引き出されるのです。
	あなたが知識や技術の上達を求めているのであれば、余計な知識や技術を取り除くように努めましょう。
	余計(不純)な知識は手放しましょう。
	余計(不純)な技術も手放すのです。
	あなたは、何のために知識と技術を向上させようとしているのですか?
	その動機の中に不純物が紛れているのです。
	不純な動機は、人を向上から退けます。
	不純物によって、本質が見えなくなっているのです。
	知識と技術の向上が、人を不純な動機から救います。
	あなたは”何のためにその道を行くのか?”ということを問い続けなければなりません。
	それは、鋼を打つ金槌(かなづち)のように、あなたの不純を取り除くでしょう。
	あなたは成長しなければなりません。
	人格を洗練する必要があるのです。
	純粋な存在でありましょう。
	
0 件のコメント:
コメントを投稿