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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年6月30日木曜日

研究者

すべての人が本質へと向かいます。
すべての人が本質を得るのです。
本質とは、正体です。
それは、それが何であるのかを知らせます。
すべての人が、その正体を知るでしょう。
それがどのような対象であろうとも、正体を得ることができるのです。
しかしながら、それには時間が必要です。
短時間では正体を得ることができません。
それは、理解が及ばないからです。
理解が及ばないものを見極めることはできません。
その正体を得るためには、理解が及ぶ時間が必要なのです。
理解とは、研究によって実現します。
深く掘り下げることによって理解が得られるのです。
理解を得るための時間は、人によって異なります。
物事の本質を見極めるには、細心の注意が必要です。
物事を粗雑(そざつ)に研究しているのであれば、理解が深まることはありません。
本質とは小さなものなのです。
粗雑であれば見失うのです。
それは、果実の中の種子を探すようなものです。
果実の本質は種子です。
それは、果肉に比べて小さいのです。
物事の本質とは、果実の種子のように小さなものです。
果実を口に放り込んみ、舌先で種子を探し出すようなものなのです。
物事の本質を得るというのは、そのようなことなのです。
注意深く探さなければ見付かりません。
あなたが豊かさを求めているのであれば、細心の注意を以て探しましょう。
本質を得るということは、装飾(そうしょく)を引き剥がすということです。
果肉の奥に種子があります。
果皮を剥ぎ、果肉を削ぎ、ようやく種子が見付かるのです。
本質が得られるまでは、その装飾を剥がし続けなければならないのです。
長く向き合っていると、それの正体が分かります。
初めは幻想に包まれている姿も、時間を掛けて研究することによって、細部が見えてきます。
時間を掛けて研究すれば、印象は大きく変わるのです。
どのようなものも、時間を掛けて研究することによって、その本質が見えてくるのです。
その時に、それがどのような方向性や目的を持っているのかを理解することができるでしょう。
それが何であるのか?ということを知る必要があるのです。
それが何であるのか?を知らずに、どうして豊かさを得ることができるのでしょうか?
時間を掛けて研究することによって、それの真偽が証明されるのです。
それが偽物であるのならば”化けの皮”が剥がれます。
時間を掛けて研究するほど、本質に近付くのです。
あなたは、時間を掛けて研究しましょう。
どのようなものも、短時間で見極められるほど簡単ではありません。
綻(ほころ)びは小さく、気が付くのは簡単ではありません。
しかし、それが必ず出てくるのです。
”しっぽ”は必ず出てくるのです。
化けの皮は必ず剥がれるのです。
あなたは研究者でいましょう。
物事の本質を得なければなりません。
どのようなものとも出来る限り長い時間向き合うようにしましょう。
何事においても、時間を掛けて研究しなければなりません。
そうでなければ、ものの本意、本質が明らかにならないからです。
この世界においては、原因は確実に結果に結び付きます。
偽りを信じているのであれば、苦しむのは確実なのです。
それは、果肉を喜び、種子を蔑ろにするようなものです。
果肉の喜びは限定的で一瞬です。
しかし、種子の喜びは多岐に渡り、長期的です。
多くの人は偽りを信じています。
そのため、苦悩が絶えないのです。
刹那的(せつなてき)な生き方を選択してはならないでしょう。
時間を掛けて研究しなければなりません。
種子を育て、再び果実を収穫することによって本質を得なければなりません。
何事に対しても、それが何であるのか?を知りましょう。

2016年6月29日水曜日

生活

多くの人は眠りに落ちています。
多くの人は夢の中に生きているのです。
生きるということは、地に足を着けて生活するということです。
生活とは、命を長らえるための活動のことではありません。
精神的、肉体的、状況的、環境的、時間的・・・
様々な事に関して豊かに活動するということです。
生活とは、人生の目的であるのです。
それは、成長的な活動のことなのです。
ただ、同じことを繰り返すのが生活ではありません。
徐々に苦しくなることが生活ではありません。
次々に変化を導き、楽しくなることが生活を営むということなのです。
生きているだけでは生活をしているとは言えないのです。
多くの人は”生活をすることで精一杯”と言います。
それは、生活をしているのではないのです。
生きることに精一杯であれば、その時点において生活はすでに破綻しているのです。
しかしながら、多くの人はその状態を尊(とうと)いと”刷り込まれ”ています。
”生活できているだけ有難い”
”生きているだけで良い”
という考えが存在しています。
生活が精一杯の状態の人、生きていくことが簡単ではない人には、確かにそうかもしれません。
しかしながら、多くの人は豊かに生活を営む実力がありながらも、定義を間違えているために言葉の”奴隷”となっているのです。
多くの人は眠っているようなものです。
夢を現実だと思い、現実を夢だと思っています。
そのため、多くの人がただ生きることに目的を置くのです。
生きることは目的ではありません。
どう生きるのか?ということが重要なのです。
ただ生きてはなりません。
”質”が重要なのです。
食べられるものなら何でも良いと思いますか?
眠る場所はどこでも良いと思いますか?
一緒に生きる人なら誰でも良いと思いますか?
あなたはそのようには思わないはずです。
それは、”質”を求めているからです。
もちろん、人それぞに人生(生活)の”質”は異なります。
しかし、それぞれが豊かさを求めているために、”こだわり”が生まれるのです。
あなたはこだわらなければなりません。
何でも良いと考えてはなりません。
与えられるものを何の理由もなく受けてはならないのです。
あなたの判断で構いません。
”質”にこだわりましょう。
あなたが豊かに生活するために欠かすことのできないことがあります。
それは、根本的な質問です。
あなたは、自分自身に対して根本的な質問を投げ掛けなければなりません。
あなたは常に自分に問うのです。
”何のためにそれをしているのか?”
何度も何度も問い掛けなければなりません。
この簡単な質問は、物事の歪み、偽装を引き剥(は)がします。
あなたがこの質問を様々なものに投げ掛けた時、それは夢から覚めるでしょう。
あなたは、簡単な質問によって目覚めることができるのです。
あなたは何のためにその仕事をしているのですか?
多くの人は生活のため、お金のため、このように答えるでしょう。
何のために生活するのですか?
何のためにお金が必要なのですか?
このように何度も問えば、本当の理由が見えてくるはずです。
あなたは自分自身に問い続けましょう。
何のために生きているのですか?
何のための人生なのですか?
あなたは誰なのですか?
答えを探しましょう。

2016年6月28日火曜日

崖崩れ

人生の目的は成長することです。
すべての存在は成長し続けなければなりません。
どのような問題に足を取られ、どのような壁に行く手を阻まれようとも、あなたは前進し続けなければならないのです。
人は、何があろうとも前進し、成長しなければならないのです。
人生には様々な困難が待ち構えています。
あなたは問題や壁に苦悩し、力を失うでしょう。
精魂尽きて諦めようと考えるかもしれません。
しかし、あなたは諦めてはなりません。
道が続くまで前進し続けるのです。
多くの人は困難に会うと簡単に諦めてしまいます。
諦めて良いと思っているのです。
しかし、諦めてはならないのです。
困難に道を阻まれて諦めているのであれば、苦悩を脱することはできません。
それは、諦めにより困難という状態にとどまることによって、それが続くということなのです。
困難とは苦悩です。
困難を抱えたままで喜ぶ人はいません。
すべての人は、困難を乗り越えた先に、苦悩が宝となることを喜ぶのです。
多くの人は、困難を前に簡単に諦めてしまいます。
しかし、心の中では強く幸福を求めているのです。
そこに矛盾があると気が付かなければならないのです。
困難に対して簡単に諦めてしまう者が、幸福を得ることなど出来るはずがないのです。
幸福とは、喜びの積み重ねです。
喜びは困難を乗り越えた先にある宝です。
諦めてしまう者が、その宝を手にすることなど出来るはずがないのです。
幸福は、諦めない者が手にするものなのです。
幸福を手にするためには、諦めてはならないのです。
苦悩を苦悩のままで放置してはなりません。
困難に諦めてはなりません。
どうすることもできないことがあります。
崖崩れが道を塞いでいるのならば、道が途絶えたように見えます。
それは、既存の道に対する認識や価値観が、道の形を限定しているのです。
崖崩れによって整備された道が途絶えただけです。
しかし、道は続いているのです。
どこをどう通っても良いのです。
それが道となるのです。
諦めを許す者は、成長することを諦めてしまいます。
現在歩いている道が途絶えたとしても、別の道は続いているのです。
多くの人は、現在歩いている道がすべてだと思い込んでいます。
例えば、肉体の自由を失ったとしても、成長の道は続いています。
現在の道を失ったとしても、それで終わりではないのです。
人生は思い通りにいかないことが最善です。
人は柔軟に考えなければなりません。
一つのこと、一つの方法、一つの道に執着してはならないのです。
その道ではなくても、目的地へと繋がる道はあるのです。
それを自由に探せば良いのです。
崖崩れを前にして立ち竦(すく)んでいる場合ではないのです。
あなたは成長の道を諦めてはなりません。
既存の道は途絶えても、成長の道は続いています。
何かに失敗しても、成長の道は続いています。
諦めずに勉強しましょう。
勉強の放棄とは、諦めなのです。
人生を諦めている人は勉強しません。
諦めている人にとって、勉強は価値のないものなのです。
それは、道を進む気持ちが失われているからです。
諦めを受け入れて立ち竦む人にとって、道に対する努力は何の価値もないのです。
諦める者は苦しめば良いのです。
そこに喜びがないことに気が付けば、諦めることを諦めるでしょう。
再び、困難に立ち向かっていくのです。
諦めてはなりません。
諦めずに勉強しましょう。
諦めずに努力しましょう。
諦めずに続けていれば、見える景色も違ってくるのです。
違う景色に気が付いたのであれば、違う道を進むことができるでしょう。
そこには、苦悩が形を変えた喜びがあるのです。
何事も、簡単に諦めてはなりません。
柔軟に道を探しましょう。
表面的な道は途絶えても、本質的な道が途絶えることはありません。

2016年6月27日月曜日

あなたを愛する者と憎む者

すべての存在は、成長を実現する必要があります。
すべての存在の存在理由は、成長することにあるのです。
本質的な理由は成長の先にあります。
あなたは先ず、成長することを実現しなければならないのです。
人生の本質的な理由を知ることを焦る必要はありません。
必ずしも、それを知る必要はないのです。
理解できないことを理解しようとするよりも、理解することができることを理解する方が有益だからです。
できないことはしなくても良いですが、できることはしなければならないのです。
人生の理由を理解することができなくても、成長することはしなければならないのです。
多くの人はできることを蔑(ないがし)ろにしています。
例えば、自分でできることを考えて、実行することをしません。
何かを考え、何かを行う時には、他人の協力があることを前提として考えているのです。
どうして、他人が協力してくれると考えるのでしょうか?
他人が協力してくれる保証はあるのでしょうか?
その根拠はどこにあるのでしょうか?
残念ながら、そのような保証はありません。
そのため、多くの人は計画を頓挫(とんざ)させてしまうのです。
初めから、他力を望んでいるために、達成することが叶わないのです。
大切なのは独りであっても、計画を達成することです。
達成することができなければ、計画を立てる意味もないのです。
計画は、達成するためにあるということを覚えておきましょう。
基本的には、自力によって実現することができる計画を立てなければなりません。
そして、その計画を達成しなければなりません。
小さな計画でも良いのです。
それを達成するという成功体験が必要であるということを理解しましょう。
小さな計画を達成した人は、大きな計画を頓挫させた人に勝ります。
できることを実現する人が賢者であり、できることを蔑ろにする人が愚者であるのです。
あなたは、自分にできることを選択していますか?
独りでも達成しなければならないのです。
初めから独りでは達成することができないことを計画して、どうするのですか?
それが初めから達成されないことは明白なのです。
計画を立てた段階で分かっていることなのです。
子どもを逞(たくま)しく育てるためには、必要以上に手を貸してはなりません。
過保護に育てられた子どもは、他力を頼る余り、自力を失うのです。
他力に頼る子どもは非力なのです。
独りでは何もできません。
人生とは自分のものです。
それは、自分が独りで歩む道です。
他人という存在は幻想です。
それは、あなたに関係のないものなのです。
これはあなたの人生なのです。
あなたの自力が試されているのです。
”わたし”はあなたに必要以上の手助けをしません。
あなたがどれだけ望んでも、あなたの必要を満たします。
不要を満たすほど愚かではないのです。
愚かな者は、必要のない多くの助けを必要としています。
それは、借りる必要のない金銭を借り入れるようなものです。
多くの助けを求めるのに比例して、多くの力が損なわれるのです。
畑で育てられた野菜はひ弱です。
叢(くさむら)に育つ野菜は力強いのです。
最低限の手助けが必要であるのです。
多くの人は自分に対しても、他人に対しても過保護を導きます。
過保護を受けた存在は非力によって苦悩するのです。
最低限の手助けが、最高の成果を導きます。
小さな計画であっても、達成することが成果なのです。
どれだけ大きな計画を立てても、それが頓挫するのであれば、何の成果にもならないのです。
そのことを理解しておきましょう。
多くの助力を求めてはなりません。
それは、苦悩を求めているに等しいからです。
あなたを本当に愛している者は、あなたに手を貸さないでしょう。
あなたに手を貸す者は、あなたを憎んでいるということを覚えておかなければなりません。
あなたに手を貸さない者があなたを幸せにし、あなたに手を貸す者があなたを不幸にします。
間違えてはなりません。
覚えておきましょう。

2016年6月26日日曜日

共生の道

あなたは、共存の方法を探さなければなりません。
それは、共生の道です。
それぞれが互いに支え合い、影響し合い、高め合う関係を築く必要があるのです。
協力関係を結ばなければ、衰退が導かれます。
対立関係を結んでいるのであれば、分裂は必至なのです。
分裂するのに、どうして豊かさを実現することができるのでしょうか?
互いに協力しなければ、豊かさを実現することなどできないのです。
それは、一つの市場を多数の業者が奪い合うようなものです。
一つの市場を奪い合えば、対立関係が生じます。
それは、互いに切磋琢磨(せっさたくま)しているように映るかもしれません。
しかし、その本質は対立による争いであり、互いに消耗する以外に道はないのです。
強いものが勝ち、弱いものが負けます。
一つの市場は強いものが独占し、弱いものは退かなければならないのです。
それは豊かさを導くのでしょうか?
優勝劣敗(ゆうしょうれっぱい)が豊かさの形なのでしょうか?
それでは、豊かさとは勝者だけの限定的なものとなってしまうのです。
優劣によって上下関係を強いる方法によっては、豊かさは導かれません。
それは、優れている状態を担おうとする者はいても、劣っている状態を担おうとする者がいなくなるからです。
給料が高い職業が優れていて、低い職業が劣っているのでしょうか?
一つの市場においては、様々な役割が必要なのではないのですか?
それぞれが、それぞれの役割を担う必要があるのです。
多様性が実現しなければ、豊かさは実現しないのです。
生産業が劣っているとして放棄するのであれば、暮らしは成り立たないのです。
何を以て優劣とするのか?ということを考えなければならないのです。
仕事は争いではありません。
市場を奪い合う必要はないのです。
それぞれがそれぞれの役割を担い、共存共栄すれば良いのです。
奪い合うために不足するのです。
不足するために乏しさは来るのです。
何事においても、共生の道を進まなければなりません。
誰かや何かを犠牲にして得られる豊かさなど、偽りであるのです。
偽りの豊かさを喜んでいれば、後に苦しむことになります。
自分勝手な欲を捨てることによって、相手に対する配慮が生まれます。
それぞれが相手を配慮すれば、共生の道が開けるのです。
奪い合うことによって豊かさが得られるということはありません。
あなたは騙(だま)されてはなりません。
奪い合うこと、対立することに益があると教えるのは、自分勝手な欲に根差した人だけであるのです。
そのような人は、不調和をもたらします。
それは、不自然なのです。
自然とは調和です。
すべてが調和している状態こそが、豊かさを導くのです。
不調和を所有しているのであれば、乏しさが導かれるのです。
一つの市場を奪い合う経済体系がもたらすものは発展ですか?
それとも、衰退でしょうか?
よく考えてみましょう。
家族が憎しみ合うのであれば、家庭は崩壊します。
家族が慈(いつく)しみ合うのであれば、家庭は栄えるのです。
家庭も社会も同じことです。
競争社会ではないのです。
優勝劣敗によっては、傾(かたむ)くということを覚えておきましょう。
樹木、動物、昆虫、微生物は、それぞれの仕事を果たします。
これ等が同じ仕事を求めればどうなるでしょうか?
そこには不調和が生じることになるのです。
樹木は樹木の仕事、動物は動物の仕事、昆虫は昆虫の仕事、微生物は微生物の仕事。
それぞれが役割を分担することによって調和を実現し、豊かな自然環境が導かれるのです。
あなたは自分の役割を見失ってはなりません。
自分の役割を果たすことによって、共生の道を進みましょう。
それぞれが収まりの良い状態があるはずです。
それが、分(ぶん)を弁(わきま)えるということなのです。
”自分”を知り、自分の役割を知りましょう。
相手を知り、相手の役割を知りましょう。
そうすれば、共生の道が開けるのです。

2016年6月25日土曜日

居た堪れない場所

人は、人生において成長することを目的として掲げています。
誰もが成長する必要があるのです。
成長するということと、幸福を得るということは同じです。
すべての人はそれぞれの形の幸福を求めています。
それは、それぞれの成長を求めているということなのです。
成長と幸福が同じものであるということを知らなければならないでしょう。
しかしながら、世の中には、成長することを否定しながらも、幸福を求めている者が存在します。
要は、楽がしたいのです。
成長とは楽なことではありません。
人が成長するためには、問題に向き合わなければなりません。
辛抱強く継続しなければなりません。
懸命に勉強し、努力を重ねなければなりません。
苦悩を乗り越えた先に成長が実現するのです。
楽に成長することができる方法など存在しないのです。
もしも、そのように言う者がいれば、それは詐欺師であるか、愚者(ぐしゃ)であるということを理解しましょう。
問題(苦悩)に向き合わずに幸福を手にすることなどできません。
そのような方法は存在しないのです。
しかしながら、多くの人はそのようなありもしない話に食い付きます。
それは、甘い花に引き寄せられる蝶のようなものです。
お花畑を飛び回り、花の蜜を吸うために舞い降ります。
その時に捕食者に捕らわれてしまうのです。
楽をして幸福が手に入ると考えているような、”お花畑”の考えを信じている者は、苦悩という捕食者に簡単に捕らわれてしまうでしょう。
花の蜜を吸うために警戒し、懸命に舞い降るのであれば、捕食者に捕らわれる可能性は少ないでしょう。
苦悩を乗り越える者だけが成長し、幸福を手にすることができるのです。
蜜を吸うために花に舞い降りることには危険があります。
それは、苦悩に捕らわれる可能性があるのです。
次に、多くの人は花に舞い降りることができなくなります。
そして、安全な空中を腹を空かせて飛び続けることになるのです。
それも、やがては苦悩を呼びます。
何の考えも無しに舞い降りれば、捕食者に捕らわれます。
捕食者を恐れることによって、蜜を吸うことができなくなります。
多くの人はこのどちらかの状態にあるのです。
蝶は、捕食者に捕らわれる訳にもいかず、花の蜜を吸わない訳にもいきません。
捕食者に捕らわれることなく、花の蜜を吸わなければならないのです。
人であれば、苦悩を恐れることなく、喜びを手にしなければなりません。
喜びとは、成長の材料です。
それは、変化の中にこそ存在しています。
多くの人は居心地の好い場所を好みます。
居心地の好い価値観、生き方、思考、行為、人間関係・・・
自分とは異なる価値観や生き方を持つ者を嫌い、遠ざけます。
多くの人は仲間内を喜んでいるのです。
しかし、これには気を付けなければなりません。
仲間内で固まるということは、変化を放棄するということになるからです。
人が変化するためには、違う”レベル”の人と付き合わなければなりません。
(”レベル”とは、その道における意識の状態やノウハウなどのこと総合的な実力のこと。人を差別する意味ではない)
それが”上”であろうと、”下”であろうとも構いません。
ただ、同じ”レベル”で戯(たわむ)れていてはならないのです。
”レベル”が違えば、価値観や生き方は異なります。
それは、あなたに居心地の悪さを導くでしょう。
あなたは居(い)た堪(たま)れない気持ちになるでしょう。
そこには、何かしらの苦悩が導かれるはずです。
しかし、それで良いのです。
その程度の苦悩に捕らわれるような状態であれば、成長することはできません。
苦悩を学べば良いのです。
決して幸福を実現することなどできないのです。
あなたは仲間内を喜んではなりません。
常に”レベル”の異なる相手と向き合い、多くのことに気が付きましょう。
”レベル”の異なる相手との向き合いは、あなたに苦悩を導くでしょう。
それを乗り越えて行きましょう。
戯れに人生を浪費してはなりません。

2016年6月24日金曜日

偽善の道

あなたは、相手が本当に救われる道を探さなければなりません。
相手が本当に救われることをしなければなりません。
多くの人は自分を中心とした視点によって物事を判断します。
主観から離れられないのです。
相手を助けようと試みても、主観による助言も助力も、相手のためにはなりません。
それは、独り善(よ)がりを押し付けるだけに過ぎません。
自分勝手に相手を助けることはできません
なぜなら、相手が助かったと思うことが成果であるからです。
あなたが助けたと思い込むことには何の意味もありません。
相手があなたに助けられたと思わなければならないのです。
成果は相手が教えてくれるのです。
自分で決めることなどではないのです。
そのため、主観による助言も助力も何の役にも立ちません。
しかし、多くの人がそれで良いと考えているのです。
自己満足は身を滅ぼします。
それは、実質ではないからです。
壊れた箇所を修理したと自己満足に浸っているのであれば、事故に遭(あ)うのです。
壊れた箇所が修理できたのか?ということは、試してみて、同じ状態が導かれないことを確認する必要があるのです。
結果によって理解するのです。
結果が出る前に、どうして満足することができるのでしょうか?
相手を助けていないのに、どうして助けたと考えるのでしょうか?
親は子どもに良い教育を施したと自負します。
なぜでしょうか?
子どもにそう言われたのでしょうか?
子どもが自発的に主張するのであれば、良い教育をしたのです。
子どもがそのように主張しないにもかかわらず、勝手に思い込んではならないのです。
多くの人は偽善を喜んでいます。
自分が誰かを救うことができると考えているのです。
残念ながら、それは難しいでしょう。
誰かを救うことができると考えているような者には、他人を救うことはできません。
それは、独り善がりに過ぎないからです。
あなたには、誰一人として救うことはできません。
あなたにできることと言えば、客観視によって、他人の先を知らせることだけです。
あなたに救うことができるのは自分だけです。
それは、すべての人に言えることなのです。
人は、自分以外を救うことができないのです。
あなたが誰かを救いたければ、客観によって助言し、助力しましょう。
人は主観が強い傾向にあります。
そのため、自分の問題となると視野を失うのです。
その時に、客観を持ち込むことができるのが他人なのです。
客観は先を見ることができる力です。
主観によって視野を狭め、問題を抱えている人には、客観によって先の可能性を示すことが有効的です。
あなたはその人よりも、一つも二つも先を読みましょう。
問題を抱えている人は推測を忘れています。
そのため、可能性を見失っているのです。
ただ、それだけです。
客観によって推測し、可能性を見出すことができれば、問題は解決するのです。
難しいことではありません。
自分の力によって、自分を救うことができるのです。
本当に相手のためになることは何でしょうか?
相手が本当に救われる道を探しましょう。
相手のために探しましょう。
自分のために探してはなりません。
それは、偽善の道であり、苦悩を導く道です。
相手のために助言し、助力しましょう。
相手のためにそうするのです。
独り善がりを喜んではなりません。

2016年6月23日木曜日

段階

人にはそれぞれに学ばなければならないことがあります。
その学びを終えずに、他の学びを得ることはできません。
一つのことが出来ないのに、どうして二つのことが出来るのでしょうか?
一つのことさえ出来ないのに、どうして二つのことを任せられるのでしょうか?
一つのことさえ出来ない者には、一つのことが出来るまで同じことを続けさせます。
一つのことが出来れば、二つのことを任せるのです。
あなたも同じことを他人にするでしょう。
あなたは、一つのことが出来なければなりません。
認められなければ、二つのことを任せられないのです。
覚えておかなければなりません。
多くの人は、自分には一つのことが出来ると思い込んでいます。
一つのことが出来るのだから、二つのことを寄越(よこ)せという主張です。
しかし、一つのことが出来ているのであれば、あなたが頼まなくても二つのことが任されます。
直訴(じきそ)など必要ないのです。
その人の実力は、常に知られているのです。
人生は、その人の実力に相応しい状況を導きます。
人は、自分に相応しい状況において、自分に相応しい仕事をするのです。
それ以外はありません。
あなたの所有しているものは、それがどのようなものであれ、あなたに相応しいのです。
しかし、多くの人はそれに不満を抱えて否定します。
自分には、もっと相応しい場所がある。
もっと良い仕事があると思い込んでいるのです。
しかし、そんなものはありません。
現状を満足に生きられない者が、どうやって他の状況に満足して生きるのでしょうか?
現状という一つのことすら満足にこなせないのに、どうして他の状況を満足にこなすことが出来るのでしょうか?
そこでは、また一つのことが待っているのです。
状況を変えても、それだけではあなたの”段階”は変わらないのです。
一つのことが出来ない段階の者が、他へ移っても、そこで同じ結果に陥るのです。
あなたは誤解してはなりません。
人生は状況や環境によって決まるものではないのです。
あなたによって決まっているものなのです。
一つのことが出来なければ、一つのことを満足させなければならないのです。
それ以外の方法はないのです。
安易に考えていれば、後悔することになります。
後悔したところで、一つのことが出来ない段階が変わることはありません。
後悔した分だけ時間の損をしているということを理解する必要があるでしょう。
文句を言わず、弱音を吐かず、一つのことを満足させられるように努めなければなりません。
あなたが文句と弱音に飲まれることがなければ、その段階から抜け出しているでしょう。
そうすれば、それに相応しい状況が導かれるのです。
あなたが望まなくても、変化は訪れます。
あなたの成長段階に合わせた人生となるからです。
学びを放棄すれば、階段を登ることはできません。
階段は、一段一段登らなければならないのです。
登りたくない者は、次の段階へ進むことができません。
それは、同じことの繰り返しを意味しています。
場所を変え、人を変えても同じことを繰り返すのです。
それは、自分が変わってはいないからです。
どこで誰といても、それは自分です。
自分が場所や人の質を決めているのです。
そのことを理解しなければならないのです。
あなたはその段階で学ばなければならないのです。
段階を変えるのが利口です。
場所や人を変えるのは利口ではありません。
あなたは利口に学びましょう。
段階を変えなければ、人生が変わることがないということを理解しましょう。
文句を言わず、弱音を吐かずに学びましょう。
そして、一つのことが出来るようになりましょう。

2016年6月22日水曜日

命の実感

あなたの命の実感はどこにありますか?
あなたは、何のために生きているのでしょう?
あなたの命は何のためにあるのでしょうか?
人は命を所有しています。
所有している命は、与えられたのです。
それは、全体意識によって与えられた個体意識です。
それは、全体の一部に過ぎません。
一部が全体を凌駕(りょうが)することはありません。
一部は、あくまでも全体の一部に過ぎません。
一部が全体を構成しているのです。
あなたは、全体の一部でしかないのです。
あなたは、全体の中の一つの命でしかありません。
あなたは、全体の中の一人の人間でしかなのです。
あくまで、全体の一部であるということを忘れてはなりません。
多くの人は全体との繋がりを見失っています。
全体と離れることはできません。
一部は全体と繋がることによって一部であるからです。
全体との繋がりが薄い者は、使命を忘れてしまいます。
一部は全体のために存在し、全体は一部のために存在する相互関係にあるにも関わらず、そのことを忘れて”荒廃(こうはい)”するのです。
枝から離れた果実は、地に落ちて腐敗します。
枝に繋がっている時には、腐敗することはないのです。
離れることによって腐敗するのです。
全体を離れた一部は、地に落ちた果実のように腐敗を始めます。
使命を忘れ、全体を離れた一部の人間の荒廃は避けられません。
全体のために貢献することのない人間は、苦悩するのです。
自分勝手に生きたところで、幸福を実現することはできません。
しかし、これは全体主義でもなければ、社会主義としての思想でもありません。
誰もが自由に、それぞれの役割に専念し、それぞれの形によって全体に貢献することを求めているのです。
全体的でもあり、個人的でもあることが求められているのです。
一部の充実によって、全体の充実を図ります。
全体のために一部を犠牲にするということではありません。
勘違いしてはなりません。
これは理想論ではありません。
すべての人が自分の人生を生きれば良いのです。
常識に制限されることなく、命を実感して生きるのです。
あなたは、命を実感したことがありますか?
命を実感していますか?
あなたは生きていると言えるでしょうか?
命を実感していないという人は、物足りなさを感じているでしょう。
それは、自分を犠牲にした人生と言えるのです。
すべての人が命を実感して生きることができます。
すべての人が命を実感して生きなければならないのです。
不足や不満の中に生きてはならないのです。
仕方ないと諦めてはなりません。
あなたは自分の人生に、自分の命に挑戦しましょう。
本当にこのままで良いのか?ということを考えましょう。
あなたは何のために生まれたのですか?
あなたはそのような人生を生きるために生まれたのですか?
満足している人はそのままを続ければ良いのです。
しかし、不足や不満を覚えている人には、改善の余地があるということを覚えておかなければならないでしょう。
あなたが変わらなければ、命の実感を得ることはできません。
あなたは変わることができるのです。
気持ちを切り替えるだけです。
考え方を変えるのです。
状況や環境や人付き合いを変える必要はありません。
その場で、自分を変えるのです。
命の実感が得られるまで、自分を変え続けましょう。

2016年6月21日火曜日

罠に掛かる動物

誰にとっても、人生とは苦しいものです。
すべての人は苦しみます。
それは、仕方のないことです。
苦しみを退ける方法はありません。
誰もが苦しみと共に生きなければならないのです。
多くの人は苦しみを否定します。
それは、苦しみによって嫌な気分になるからです。
多くの人が苦しみを避け、良い気分を得ようと考えているのです。
そのため、良い気分になれる喜びを探します。
多くの人が喜びを探すために、快楽に溺れます。
快楽とは、苦悩の相対です。
この世界は、陰陽の仕組みによって常に均衡(きんこう)が保たれています。
快楽と苦悩は、陰と陽なのです。
快楽が陰であり、苦悩が陽なのです。
多くの人はこれを反対に考えます。
快楽が陽であり、苦悩が陰であると考えるのです。
表面的に見ればその通りになります。
言葉の響きだけ取れば、快楽が陽であり、苦悩が陰です。
しかし、実際にはそのようにはなりません。
あなたが快楽を選択した時には、陰の結果が導かれます。
あなたが苦悩を選択した時には、陽の結果が導かれるのです。
多くの人は自らの意思によって選択することができません。
しかし、自分では自らの意思によって選択していると思い込んでいます。
大抵の選択は、過去の経験から導き出される合理的な主観である経験則によって選択されているのです。
経験が浅ければ、判断を誤ります。
そのため、若人は陰の結果を導く快楽を求めるのです。
それは、経験の浅さによって、快楽こそが人生の豊かさであると思い込んでいるからです。
快楽を選択すれば、陰の結果である苦悩が導かれます。
若人が苦悩するのは当然の結果なのです。
老人は経験則からそのことを学習しています。
そのため、簡単に快楽に身を任せることはありません。
賢い老人は、選択を迫られた時には、苦悩を選択するのです。
それは、苦悩によって陽の結果である幸福が導かれるからです。
自ら苦悩を選択する人は少数です。
少数の立場にある人は、多数を助けることができます。
この世界においては、貢献することによって豊かさを得ることができるのです。
多数を相手に貢献すれば、多くの豊かさが導かれることになるのです。
多くの人と同じことを選択しては、豊かさを得ることはできないのです。
快楽に溺れる者が、どうやって他人を手助けするというのでしょうか?
自分自身が溺れているのであれば、他人よりも先に自分自身を救う必要があるのです。
口に甘いものは、腹には苦いのです。
腹に甘いものは、口に苦いでしょう。
良薬は口に苦いものなのです。
甘い快楽を貪(むさぼ)るのであれば、後に大きな苦悩を得るでしょう。
苦い苦悩を選択するのであれば、後に大きな幸福が導かれるのです。
何を選択するにしても、それはあなたの自由です。
快楽を選択すれば苦悩し、苦悩を選択すれば幸福を得るだけです。
あなたは好きな方を選択し、好きな結果を得れば良いのです。
どちらが良くて、どちらが悪いということではありません。
どちらにしても、良い学びとなるのです。
誰にとっても、人生とは苦しいものです。
それは、人が未熟であるからです。
しかし、今が苦しくても、選択によって変えることができるのです。
待っていても変わりません。
誰かや何かが変えることもありません。
時間は無情に過ぎていくのです。
開き直りによって、選択を変えましょう。
人生が元々苦しいものであることを理解すれば、快楽に溺れることも少なくなるでしょう。
人生が苦しいものだと知らないために、反射的に快楽に飛び込むのです。
罠に掛かる動物には益がないのです。
覚えておきましょう。

2016年6月20日月曜日

知の種

あなたは知の種を蒔(ま)かなければなりません。
知の種は、地を潤します。
それは、乾いた地面に潤いをもたらすのです。
知が失われた地面は潤いを失い、乾いて固くなります。
それは、乏しい土地となるのです。
知とは、草木のことです。
草木は地面に落ち、地中に根を伸ばします。
根は地中を進み、深く耕(たがや)すのです。
乏しい土地には雨が浸み込みません。
それは、土が固まっているために雨の侵入することができないのです。
耕された大地には雨が侵入することができます。
根が水を地中へと運ぶのです。
そして、根によって水が地中に止まります。
土が水を保てば、そこには微生物が住み着きます。
微生物は草木を食べて栄えます。
微生物は昆虫を呼び、昆虫は動物を呼び、生態系が実現するのです。
それが、豊かさであるのです。
荒地となった土地に豊かさを探すことはできません。
そこには苦悩があるのです。
あなたの所有する土地には豊かさがあるでしょうか?
多くの人は間違った方法によって、土地を荒らしています。
草木の生えていない土地を作るのです。
それは、知識に乏しい人や人生のことです。
知識とは、一つ一つの草木であるのです。
様々な種類の草木によって、豊かな生態系が営まれます。
草木の種類が多い方が、多くの微生物、昆虫、動物を養うことができるのです。
知識は広く、深い方が豊かな人や人生となります。
それは、根が広く、深い方が土地が耕されるからです。
草だけでは、土の表面を耕すに過ぎません。
木は土の深くまで根を伸ばし、より多くの水を送り、保つのです。
森の土が乾くことはありません。
草木の覆われている土地が荒れることはないのです。
木を倒し、草を刈るために、土地が荒れるということを理解しましょう。
知識を蔑(ないがし)ろにする人がいます。
自然界は懸命に草木を植えています。
しかし、人は自分の心や人生に、自力で知の種を蒔かなければならないのです。
何かが勝手に豊かとなることはありません。
この世界には、必ず原因と結果が存在しているのです。
種が蒔かれなければ、森は生じないのです。
あなたは知を求めなければなりません。
知の種を蒔き、豊かな土地を手に入れましょう。
一粒の種は、数十、数百の種をもたらします。
あなたが何かを知れば、その数十、数百倍の知識を得ることができるのです。
森はあなたを生かしますが、荒地はあなたを殺します。
知識に乏しい者がどうして幸福を得られるのでしょうか?
森に生きる者が豊かに暮らすのです。
あなたは今すぐに森に出向き、知の種を習得しましょう。
どのような種でも構いません。
すべての種が豊かさに貢献します。
多い方が良いのです。
大地を耕し、潤いを保ち、多くの命を養うのです。
時間を無駄に過ごしてはなりません。
知識を得るために時間を使うのです。
虚しく生きてはなりません。
荒地を喜んではなりません。
多くの人は荒地を喜びます。
無理矢理に荒地に幸福を探しているのです。
皆が荒地ならば、自分の土地が荒地であっても安心しているのです。
愚かに生きてはなりません。
知の種を蒔き続けましょう。
そして、豊かに生きましょう。

2016年6月19日日曜日

損得勘定

あなたは何のために生きているのでしょうか?
人生において何を得て、何を遺すのでしょうか?
人生とは、何でしょうか?
深く考えなければなりません。
誰もが人生を生きていますが、それが何のためにあるのか?ということを考える人は少ないのです。
人生とは何か?という問いを思い付く者は多くいますが、それを深く考える者は多くはいません。
大抵の者が、問いの答えを諦めるのです。
そして、別のことを考えるようになります。
人は”人生とは何か?”という問いに対して、答えを求め続けなければなりません。
なぜなら、それが本質であるからです。
しかし、本質を求めることは簡単ではありません。
誰もが本質的な問いを捨てて、目の前の事象に魅(み)せられるからです。
そして、視野は狭まり、見解は浅はかなものとなります。
深層から表層、内面から外面、意識から肉体・・・
このように、本質から遠ざかるのです。
多くの人はそれで良いと考えています。
その時が楽しければ良いのです。
苦悩を遠ざけ、快楽を貪(むさぼ)ることで満足を得ます。
しかしながら、そのようなことを続けても、”人生とは何か?”という問いの答えを導き出すことはできません。
人生が何なのか分からなければ、何が幸福であるのか?ということすら理解することはできないはずなのです。
しかしながら、多くの人は何かしらの満足と幸福を所有しているのです。
それは、浅はかな見解に他なりません。
それは、思春期の頃の淡い恋心のようなものなのです。
そこに本質はありません。
そこには、憧れと快楽とがあるだけなのです。
そのような表面的な見解では、他人を愛することなどできないのです。
人生とは何でしょうか?
”わたし”は問い続けなければなりません。
あなたは、この問いに答えを求め続けなければならないのです。
多くの人は人生を考察しません。
そのため、浅はかな選択を喜ぶのです。
多くの人は損得勘定によって選択します。
自分にとって得となることには尽力し、損となることには手を抜きます。
多くの人は得を欲し、損を嫌っているのです。
あなたは自分自身に問い掛けてみましょう。
あなたは損得勘定によって選択してはいませんか?
損得勘定によって選択すれば、すぐに多くの得を抱えることもできるでしょう。
しかし、それは続きません。
それは小さなひび割れのように、あなたの気が付かない内に全体を侵食(しんしょく)するのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
それは、均衡(きんこう)を保つために働きます。
多くの得を取れば、均衡は崩れてしまいます。
均衡を保つためには、多くの損が必要となるのです。
損得勘定によって動く者は、次第に人からの信用を失います。
人からの信用を失って、どうやって幸福を得るというのでしょう?
他人を犠牲にしていれば、心は離れていきます。
心が離れた人は敵となるのです。
敵を生み出せば、争いが生じます。
それを得だと思うでしょうか?
浅はかな見解によって敵を生み出してはなりません。
損得勘定などで動いてはなりません。
得をしたと思い込んで損をしていることがあります。
損をしたと思い込んで得をしていることがあるのです。
あなたといて得をする人は、あなたの友となるでしょう。
それは、畑に蒔(ま)いた種のように、何倍もの実をもたらすでしょう。

2016年6月18日土曜日

犠牲の上の喜び

独り善(よ)がりではなりません。
人は、独りで生きているのではないのです。
人はそれぞれが協力関係の中に生存しています。
あなたの隣の誰かの存在が無ければ、あなたの存在も無いのです。
人と人とは協力し、共存し、共栄しているということを忘れてはなりません。
そのことを忘れてしまえば、人は自分勝手な判断に身を委(ゆだ)ねることになってしまうのです。
自分勝手な判断は視野を狭め、やがては独り善がりを実現します。
独りで喜んだとしても益が無いということを知らなければなりません。
なぜなら、そこには循環が実現しないからです。
何事においても、持続しなければ価値はありません。
持続しない方法を用いても益が無いのです。
持続可能な方法を用いることによって、そこには益が生じ、豊かさが導かれるのです。
循環とは、持続のことです。
持続の連続が循環です。
この世界において豊かさを求めているのであれば、持続による循環を実現する必要があるのです。
自然界は循環しています。
それを断続しているのが人間です。
人間が”不器用に”関わることによって、自然界の循環は断ち切られているのです。
自然環境の破壊は、益を導かないのです。
人は自然界の一員です。
あなたは自然環境の一部なのです。
独り善がりでは困るのです。
循環の和に参加しなければならないのです。
人は、人間社会を以て、自然環境に貢献しなければなりません。
人は、自分にできることをすれば良いのです。
しかし、自分ができることはしなければならないのです。
人間が自然環境に貢献することができるとすれば、それは人間社会の循環を生み出すことです。
人間社会が循環するようになれば、自然環境から貪(むさぼ)る必要もないのです。
あなたは、人間社会が循環していると思いますか?
人は自然を犠牲にして、独り善がりを楽しんでいるのです。
人間社会の歪んだ喜びは、自然環境の犠牲の上に成り立っているのです。
自然環境を破壊すれば、歪んだ喜びは持続しません。
それは、循環の和を断ち切ることになるのです。
人間の歪んだ喜びが、自然環境の邪魔をしているということを自覚しなければなりません。
人間は自然を犠牲にしているのです。
そのような方法が循環を導くことはありません。
あなたは独り善がりで生きてはいないでしょうか?
あなたの生き方が誰かの役に立っているでしょうか?
多くの人に貢献する必要はありません。
自然界であっても、直接的に関わる部分にだけ貢献しているのです。
それぞれが目の前のことを懸命にこなし、それに貢献するだけで良いのです。
それだけで、循環の和が生まれるのです。
あなたは、目の前の誰かを満足させなければなりません。
他人から求められる自分に成るのです。
あなたが他人を求めてはなりません。
それは、歪んだ喜びであり、何かを犠牲にするからです。
人間社会は自分勝手に自然界を求めてきました。
その結果が循環の和の切断です。
自然界も、人間社会も、今のままの方法で持続していくでしょうか?
そろそろ、独り善がりに生きることをやめなければなりません。
それぞれがそれぞれのことを考えて生きる時代が来たのです。
互いが協力することによって、持続可能な世界を築いていかなければなりません。
既にこの世は、何かを犠牲にして喜ぶ時代ではありません。
自然界では当たり前の持続を喜ぶ時代なのです。
自然界に独り善がりな存在はいません。
自分のために働いているように見えるかも知れませんが、すべてが利他のために働いているのです。
そうでなければ、持続しないのです。
循環の和を無視してはなりません。
他人を求めるのではなく、他人に求められる人になりましょう。

2016年6月17日金曜日

本意

本質は常に隠されています。
果実の本質は果肉ではありません。
果実の本質は果肉の中に隠されている種子なのです。
樹木は、果肉を食べさせるために果実を与える訳ではありません。
果肉を求める動物に種子を運んでもらうために果実を与えるのです。
果実の本質は種子にあります。
厳密には、子孫を残すための目的です。
更には、自然界の循環という目的のためであるのです。
樹木は、自然界を豊かなものにするために存在しています。
そのために、果実を与えるのです。
あなたはどこまで見えているでしょうか?
多くの人は、果肉の味に魅(み)せられているに過ぎません。
それは、表面的な見方に過ぎないのです。
果肉を楽しむというのは、本質から最も遠い理解であると言っても過言ではないでしょう。
表面的な見方によっては、本質を理解することはできません。
本質を理解することができなければ、貢献することはできないのです。
貢献することができなければ、豊かさを得ることもできないのです。
多くの人は果肉を味わい、種子を蔑(ないがし)ろにします。
果肉よりも、種子の方が価値があるということを知らないのです。
その時が良ければ良いと考えて、何十、何百、何千と果実を与える種子を蔑ろにするのです。
本質的な見方とは、可能性を見極める見方のことです。
可能性を見極めることが出来ない者には、本質的な見方がありません。
物事の表面的な部分ばかりを気にして、見当違いなことばかりを繰り返しているのです。
そのような状態では、成果を上げることはできません。
そのような者は、例え何をやっても上手くいかないでしょう。
その仕事が悪い訳ではありません。
もしも、成果を上げることが出来ないのであれば、あなたに原因があるのです。
表面的な見方による見当違いを繰り返しているために、成果を得ることができないのです。
同じ仕事をしても、成果を上げる人はいるのです。
どう言い訳するつもりですか?
あなたに原因があるだけであって、仕事に原因がある訳ではないのです。
変えるべきは自分自身であるということを理解しなければならないのです。
人生は自分自身の選択です。
誰かや何かがあなたの人生を決定しているということはありません。
努力をしても報われません。
見当違いの努力は実を結ばないのです。
当然のことです。
本質を理解することができない者の努力は成果には繋がりません。
本質を理解する者の気楽は成果を導くのです。
本質を理解することに尽力しなければなりません。
仕事の本質とは何でしょうか?
多くの人は、金儲けと答えるでしょう。
生活のため、安心のため、贅沢のため、将来の蓄えのため・・・
このように考えているのです。
それは、果肉を得るのに似ています。
そのような考えでは、可能性を得ることが出来ないということを理解しましょう。
あなたは何のために仕事をするのでしょうか?
果ては、何のために生きているのでしょうか?
突き詰めて考えなければなりません。
仕事に対してのノウハウは、あって当然なのです。
どれだけのノウハウを抱えても、それは誰もが同じことなのです。
それなのに、なぜ、幸福を得ている人は少ないのでしょうか?
それは、本質を見失っているからです。
種子を蔑ろにし、樹木の真意に気が付かないのです。
自分勝手な者は乏しさを得ます。
表面的な見方に捕らわれてはなりません。
常に本質を探りましょう。
仕事の本意、人生の本意とは、あなたの考えていることとは異なるのです。
見極めましょう。

2016年6月16日木曜日

人生を変える

あなたは虚しくはないのですか?
悲しくはないのですか?
乏しさを感じてはいませんか?
苦悩の中に生きてはいないでしょうか?
争いを好み、傷付け合うことに慣れてはいませんか?
装飾(そうしょく)に益を求め、中身に対する重きを失ってはいませんか?
あなたは人生に満足しているでしょうか?
多くの人は人生に満足してはいません。
他人に対しては、自分が幸福であることを吹聴(ふいちょう)する人がいます。
しかしながら、多くの場合、それは自分自身がそのように思い込みたいだけなのです。
自己暗示です。
自分の人生を生きている人がどれだけいるのでしょうか?
虚しさを抱えず、苦悩に落ち込まず、満足を以て生きている人がどれだけいるでしょうか?
自分の人生を生きることがなければ、人生に満足することはできません。
満足のいく人生とは、自分の好きな人生を生きることなのです。
あなたは好きに生きているでしょうか?
多くの人は好きに生きてはいません。
自分の人生を我慢し、苦悩に耐(た)えて生きているのです。
自分の人生を歩んでも、我慢や苦悩は従います。
我慢や苦悩を退けることのできる生き方というものはありません。
しかし、好きなことのために我慢することや苦悩することと、好きでもないことのためにそうするのでは、意味合いが大きく違ってくるのです。
我慢や苦悩は、好きなことに対して行わなければなりません。
そのようにしなければ、喜びが導かれないのです。
好きでもないことのための我慢や苦悩は、辛さを導くだけなのです。
辛いことには益がありません。
好きなことのための我慢や苦悩は、喜びを導くのです。
喜びには益があります。
好きなことを道とすれば、何をしても喜びを得ることができます。
好きでもないことを道とすれば、何をしても辛さを得ることになるのです。
どちらが良いかは、自分で判断すれば良いでしょう。
多くの人は自分の人生を生きることを知りません。
与えられた生き方こそが自分の人生だと勘違いしているのです。
人は、誰かや何かによって母の胎内にいる時から教育を受け続けています。
教育を鵜呑(うの)みにすれば、自分の人生は破壊されてしまいます。
それは、巧妙(こうみょう)に仕掛けられた罠なのです。
多くの他人は悪気もなく、他人を誘導しています。
もちろん、意図的に他人を誘導する者もいます。
その結果、人は自分の人生を見失うのです。
そして、他人にとっての益を生み出す人生を生きるようになるのです。
多くの人は自分の人生を生きてはいません。
虚しさや悲しさ、乏しさや苦悩、そして、争いを所有しているのであれば、自分の人生を生きてはいません。
あなたは自分の人生を評価してみましょう。
当てはまるのであれば、人生を変える必要があるでしょう。
人生を変えるには、考え方を変えるだけです。
難しいことではありません。
特別な方法など必要ありません。
特別な場所で特別な人に会い、特別な道具と特別な方法に頼る必要はないのです。
考え方を変えるだけです。
ただ、それだけです。
簡単なことで人生は変わります。
あなたのこれまでの人生は、簡単なことで変わったのです。
他人の人生から自分の人生へ、簡単に戻しましょう。
自分の考えで生きれば良いのです。
あなたは、今の人生に満足していますか?
自分自身の本心に聞いてみましょう。
他人に聞く必要はありません。
自分で判断するのです。
虚しさを感じたのであれば、人生を変えましょう。

2016年6月15日水曜日

循環

あなたは、どこに存在しているのですか?
あなたが生活を営んでいるのはどこですか?
あなたは自分が生きている場所を知っていますか?
あなたは自然の中に生きているのです。
どれだけ、人間の小さな社会に閉じこもろうとも、自然界を拒絶することはできません。
どのような人間も、自然の中に生きてるのです。
誰一人として、自然から離れて存在することのできる者はいません。
すべての人間は、自然界の一部であるからです。
多くの人は小さな人間社会に閉じこもっています。
自然と隔離(かくり)した生活を営めると信じているのです。
多くの人は自然を手中(しゅちゅう)にしようと努めています。
そして、それが実現すると考えています。
そして、それが実現したと考えている者もいるのです。
その結果、人間は環境を破壊しています。
人間だけが自然環境を破壊しているのです。
人間を除くすべての存在は、自然を癒そうと努めています。
人間を除くすべての存在は、自然を豊かに保とうとしているのです。
それは、人間以外の存在は、循環こそが豊かさであるということを知っているからです。
しかし、人間はそのことを知りません。
そのため、わざわざ自然界の循環を断ち切っているのです。
自然と隔離した生活を豊かさだと考えるのは浅はかです。
自然と離れて、どうして豊かさを実現するというのでしょうか?
自然と離れることによって、循環から遠ざかります。
循環に参加しなければ、豊かさには参加することができないのです。
循環とは、互いに益を分け与える状態です。
益が続くことを循環というのです。
自然環境には、益の循環が働いているのです。
人間は、それを愚かさによって断ち切っているのです。
自然に協力しなければなりません。
どうして、人間が自然を手中に収め、”王”となることができるのでしょうか?
人間は何も生み出しはしないのです。
人間は生産者ではありません。
人間は、消費者なのです。
何も生み出すことができないのです。
どうして、生産者でもない人間に自然環境の修復ができるのでしょうか?
人間には出来ないのです。
修復することができないのに、なぜ壊すことができるのでしょうか?
それが自殺行為であることなど、周知の事実なのです。
しかしながら、多くの人は気が付きません。
自分が自然界の一部であるということ、自然循環の一過程であるということを知らないのです。
消費者は、生産者によって益を得ます。
生産者がいなければ、消費者には益が無いのです。
自分で生産することができないのに、どうやって消費するというのでしょうか?
あなたは良く考えなければなりません。
循環こそが豊かさです。
循環を断ち切ってはなりません。
何事に対しても”流れ”があるのです。
それは、道理のことです。
どの道を行くにしても、理(ことわり)を重んじなければならないのです。
全体性を見失ってはなりません。
小さな世界に閉じこもってはならないのです。
広角を得ましょう。
小さな視野に止まってはなりません。
傲慢(ごうまん)に生きてはなりません。
自分以外の協力がなければ、あなたはないのです。
あなたの協力がなければ、自分以外はないのです。

2016年6月14日火曜日

希望の光

人は、誰もが気付かなければなりません。
その方法に可能性が無ければ、改めなければならないのです。
人生における人の目的は成長です。
成長とは豊かさであり、可能性の継続なのです。
人は、人生において可能性を見出し続けなければならないのです。
しかし、可能性を見出し続けることは簡単ではありません。
なぜなら、人は弱いからです。
弱さによって様々な誘惑(ゆうわく)に道を迷い、可能性を見出し続けることが困難となってしまうのです。
そのため、人には”補助”が与えられます。
補助によって、道に迷ったとしても可能性を見出し続けることができるのです。
人に与えられる補助とは”苦しみ”です。
人は苦しみによって道を見出します。
それは、可能性という希望の光なのです。
多くの人は暗闇に落ち込み、道(可能性)を見失います。
それは、弱さによって真っ直ぐに歩むことができないからです。
暗闇の中では足元も覚束(おぼつか)ず、可能性を見出すことは困難であるのです。
しかしながら、不思議なことではありますが、人は自らが暗闇の中に歩んでいることに気が付きません。
そのため、暗闇の中を歩き続けることになるのです。
暗闇の中を歩き続けることは、道に迷い続けるということであり、目的地に辿り着くことはできません。
どれだけ暗闇の中を歩き続けても、そこには堂々巡りが待っているだけなのです。
進んでいるつもりでも、進んではいません。
そこには、錯覚が生じるのです。
多くの人は錯覚しています。
そのため、自分の歩んだ道を根拠もなく誇りに思っています。
しかしながら、多くの人はいつかは錯覚に惑わされていることに気が付くのです。
人が錯覚に気が付く時には、その傍(かたわ)らに苦しみが寄り添っているでしょう。
苦しみはあなたを暗闇から救い出すために寄り添うのです。
苦しみの助けによって、人は錯覚から目覚めることができるのです。
あなたの人生は本当に良いものなのでしょうか?
あなたが苦しみを否定し、拒絶しているのであれば、残念ながら良い人生ではありません。
苦しみを嫌っているのであれば、暗闇の中を歩き続けている状態であるのです。
錯覚の幸福に酔い痴(し)れることが、良い人生なのでしょうか?
あなたは、その幸福が錯覚ではないと証明することができますか?
多くの人は一時(いっとき)の幸福に執着しています。
そして、その幸福を損なうことを恐れています。
壊れてしまう幸福ならば錯覚です。
錯覚の幸福を損なう時、傍(かたわ)らには苦しみが寄り添うでしょう。
その時に、あなたは錯覚に気が付き、暗闇の中に差し込む希望の光に気が付くのです。
苦しみの助けが無ければ、決して気が付くことはありません。
暗闇の中で零(こぼ)れ落ちた錯覚の幸福を、そこにありもしないのに探し続けることになるのです。
それが虚しいことは簡単に理解することができるでしょう。
しかし、暗闇の中では簡単ではないと理解しなければなりません。
人は弱さを抱えています。
誰一人として、強い者はいません。
誰もが暗闇の中を歩み、錯覚の幸福に満足を覚えています。
しかし、必ず錯覚に気が付く時がやってくるのです。
それは、苦しみがあなたを助けるためにやってくるからです。
苦しみを敵としてはなりません。
苦しみがなければ、あなたが道を進むことはできないのです。
苦しみが多いほど、良い人生となるでしょう。
それは、道に戻ることができるからです。
苦しみの助けを拒否してはなりません。
苦しみがあなたを助けるのです。
錯覚してはなりません。
暗闇の中では、正しく理解することなどできないのです。
どうして、自分を信じることができるのですか?
暗闇の中において信じることができるのは光のみです。
苦しみは希望の光です。
そのことを忘れてはなりません。



2016年6月13日月曜日

偽善者の集い

多くの人は、集うことによって力を発揮することができると考えています。
多くの仲間がいれば、力強いと感じるのです。
そして、互いに求め合い、接近します。
人が集まれば大きな事を実現することができます。
一人で出来ないことは、二人であれば可能です。
二人よりも三人、三人よりも四人の方が大きな事は実現することが可能なのです。
しかしながら、大きな事と力には、必ずしも関連性がある訳ではありません。
集まることによって力を失うこともあるのです。
それぞれの力は弱くても、正しい者が集まれば大きな力となるのです。
しかし、歪んだ者が集まれば力は小さなものとなります。
それぞれが正しく機能する組織であれば、大きな成果を実現することができます。
しかし、それぞれが正しく機能することがなければ、成果は小さなものとなるのです。
多く集まれば良いというものではありません。
どのように集うのか?ということが重要なのです。
余計な荷物を抱えることは最善とは言えません。
成果を上げるためには、成果という結果から原因を考える必要があります。
山に登るのであれば、下山した時から考えなければなりません。
多くの人は登山することを考えています。
そして、登山するための準備をするのです。
それは当然のことのように聞こえます。
しかしながら、それは原因から過程までの思考でしかないのです。
ドライブを楽しみたいのであれば、帰りの燃料のことを考えていなければならないのです。
多くの人は登頂を成果と考えます。
それは、その状態が最も目立つからです。
しかしながら、登頂すれば下山しなければならないのです。
登山の成果とは、帰宅した時に実現するのです。
余計な荷物を抱えて登山することに益があるでしょうか?
登山に必要な荷物だけを選択し、それ以外のものは抱えてはならないのです。
薄情に聞こえるかも知れませんが、成果に対して貢献しない者と集うことには益がありません。
多くの人は仲良くいたいのです。
しかし、それは偽善でしかないのです。
余計な荷物を抱えて登山することを喜ぶ人はいません。
あなたも喜びはしません。
登山の益にならない荷物は、登山の益とならないだけであり、他の用途があるのです。
多くの人は安易に集います。
その結果として、不調和が導かれているのです。
偽善をやめましょう。
偽善が力を奪います。
偽善者が集う程に、輝きは失われるのです。
多くの人は楽するのを隠すために集います。
そして、弱さを隠すために依存します。
その結果、利益を貪(むさぼ)る者が組織に入り込むのです。
それは、岩に打ち込まれた楔(くさび)のように、少しずつひびを生じさせます。
やがて、小さな楔によって大きな岩が砕けるのです。
楔を打ち込まなければ、岩が砕けることはなかったのです。
集まることによって力を発揮することができると考えているのであれば、注意が必要です。
誰が集まるのか?ということが重要なのです。
正しく機能する人が集わなければなりません。
それぞれの能力を見極めなければならないのです。
情に流されて、楔を打ち込んではなりません。
登山するのに、余計な荷物を抱えることは命取りとなることを知りましょう。
何のために集うのか?を考えましょう。
家族だから、近くに住んでいるから、昔からの付き合いがあるから・・・
様々な理由があるでしょう。
人生というものを考えた時には、そのような曖昧(あいまい)な理由、何の根拠もない理由が破滅を導くことが分かるはずです。
心に苦しみを感じる集いをやめましょう。
そのような集いに価値はありません。
少数でも良いのです。
大きなことではなく、正しいことを実現するのです。

2016年6月12日日曜日

独りの道

人には、それぞれの目的があります。
目的とは、役割のことです。
人は、それぞれに役割を担っているのです。
それぞれの役割に応じて成果を上げなければなりません。
成果を上げることは、役割を果たすことに繋がります。
役割を果たすということは、目的の達成に繋がります。
目的の達成とは、幸福であるのです。
人は、それぞれの目的を果たすことによって幸福を得るのです。
目的を果たさなければ、幸福を得ることができないのです。
自らの目的を果たす者だけが幸福を得ることができます。
目的を果たすことなく、幸福を得ることのできる者はいないのです。
どのように努力し、どのように苦しみ悩んでも、目的を果たすことがなければ、幸福を得ることはできないのです。
多くの人は自らの目的を果たすことを知りません。
そのため、苦労の先に幸福を得ることができないのです。
多くの人は不幸を所有しています。
それは、自らの目的を果たさないからです。
その結果、何かを苦しいと思い、怒りや争いに”興(きょう)じている”のです。
苦しみの先に幸福が得られないのは、その道が人生の目的とは違っているからです。
その道が人生の目的に相応しければ、どのような苦しみも幸福の原因となるのです。
そのため、人生の目的に向かって進む人は、苦しみを覚えません。
苦しいことも楽しいこととして受け取ることができるのです。
人それぞれに、人生における目的は異なります。
あなたの目的と他人の目的は異なるのが”普通”です。
それは、それぞれが別々の役割を担わなければ、全体が豊かさを得ることができないからです。
様々な役割が存在することによって、豊かさが実現します。
一様に行っては、乏しさを実現することになるのです。
一種類の業種しかなければ、その街はどうやって機能するというのでしょうか?
様々な業種が存在するからこそ、共存共栄という状態が実現しているのです。
この世界においては、多様こそが豊かさを実現するための条件なのです。
人には役割が与えられていますが、それが一様であることはありません。
それぞれが違う役割を担うことによって、多様が実現するのです。
人は、それぞれに幸福の形が違います。
あなたが幸福と思うことも、他人はそのようには思いません。
他人が幸福と思うことを、あなたがそのようには思わないようにです。
必ず、それぞれに異なるということを理解しましょう。
異なるのが”普通”であるものを、混同してはなりません。
それは、力を奪う行為なのです。
それぞれが別々に共存し、共栄することが重要なのです。
そのため、幸福の形が異なることを否定してはなりません。
あなたの幸福の形が他人と違うからといって、恥じることはありません。
他人の幸福があなたのものとは違うからといって、排斥(はいせき)する必要もありません。
それぞれが、それぞれの役割を果たさなければならないのです。
そのため、人と人は完全には理解し合うことができません。
しかし、それぞれを尊重し、共存共栄することはできるのです。
あなたは、それぞれが異なった役割を担っているということを理解しましょう。
違いは正しい形なのです。
寧(むし)ろ、違いが無いことを恐れましょう。
他人のように振る舞う必要はありません。
他人を自分のように振る舞わせる必要もありません。
他人が自分に賛同してくれないからといって、自分の目的を放棄してはなりません。
誰一人、あなたに賛同しなくても、あなたは役割を果たさなければならないのです。
独りでもやらなければなりません。
仲間がいなければできないというのは嘘です。
どのような道を進むにしても、人は独りで歩まなければならないのです。
それは、それぞれに幸福の形が違うからです。
独りで歩めない道など、あなたの人生の目的ではないのです。
そのことを理解しなければなりません。
自分にしかできないことは何か?ということを考えましょう。
自分にしか遺せないものを遺しましょう。
その時に、独りでも歩みたいと思える真の道が現れるでしょう。

2016年6月11日土曜日

明日

人生はどうなるか分かりません。
一年後、十年後、三十年後・・・
人生がどうなっているかを知ることができるでしょうか?
あなたには、明日の自分すらも分からないのです。
明日のことも分からないのに、どうして結論を所有するのでしょう?
人生に結論は必要ありません。
どうなるのか?など分からないからです。
分からないことに結論を見出すことは、矛盾を抱えることになるのです。
多くの人は結論を所有しています。
何かに対して、決め付けているのです。
それは、人の小さな価値観の中から生じた結論です。
どうして、何も知らない人が何かを決め付けることができるのでしょうか?
何のために生きているのか?ということすら知らないのです。
どうして、決め付けることができるのでしょうか?
明日のことは分かりません。
分からなくて良いのです。
明日を知る必要もありません。
それは、どのような明日が来ても良いからです。
理想の明日が来る必要などありません。
あなたは、与えられたものをより良くすれば良いだけなのです。
どのような明日が来ようとも、やることは変わりません。
やることが変わらないのに、どうして明日を知る必要があるのでしょうか?
状況に応じて行為を変えることができるのでしょうか?
あなたには、そのような力があるのでしょうか?
あなたにできることは、ほんの小さなことだけなのです。
理想とは違う明日が来ようとも、あなたにできることは変わらないのです。
ならば、抵抗する必要もないのです。
あなたは、自分にできることをやるだけなのです。
それ以外に方法はありません。
方法が無いのに、どうして抗(あらが)うのでしょうか?
多くの人は、現状を好みます。
それが、どのような現状であってもです。
苦悩していながら、それを好んでいるのです。
結論を所有するということは、その状態に止まるということだからです。
決め付けは、根を下ろす樹木のようです。
決め付けを所有する人は頑固さを得ます。
状況が変わったにもかかわらず、その場を動かないのです。
樹木が移動することができれば、枯れることはありません。
雨が降らないのであれば、移動すれば良いのですが、樹木にはできません。
あなたは樹木ではありません。
いつでも、喉(のど)が渇けば水場へと移動すれば良いのです。
結論は、あなたを飢(植)えさせるでしょう。
結論によって決め付けを所有している者は、例外なく飢えています。
人の本質は意識です。
それは、思考を所有します。
考え方が重要なのです。
あなたは決め付けによって、考え方を固定してはなりません。
考え方が自由に動くことができなければ、飢えによって滅びるでしょう。
人生はどうなるか分かりません。
今が苦しくても、後が苦しいとは限りません。
今が楽しくても、後が楽しいとは限らないのです。
安易な決め付けが、苦悩を招くということを知りましょう。
明日がどうなるかは分かりませんが、今できることは分かるはずです。
懸命に生きていましょう。
今日できることを、明日に回してはなりません。
明日、どうなっているか分からないからです。

2016年6月10日金曜日

物作り

人生とは”物作り”です。
すべての存在は功績を遺します。
すべての行為が何かを生み出します。
それが、世界を豊かなものにしていくのです。
世界を豊かなものにするためには、良いものを作らなければなりません。
どのような存在も、良いものを作れば豊かさを得られるのです。
良いものを作ることは、貢献に繋がります。
貢献するということは、役に立つということです。
役に立つ者を蔑(ないがし)ろにする者はいません。
役に立つ者は、どのような存在からも賞賛(しょうさん)され、歓迎されるのです。
役に立っていれば、豊かさが導かれます。
豊かさを実現するためには、すべての存在が互いに貢献し合う必要があるのです。
貢献することを忘れた者は、破滅を導きます。
それは、不調和を導き、”繋がり”を分断します。
”繋がり”の分断は非生産的です。
そこには良いものは生まれないのです。
良いものが生まれなければ、豊かさは実現しないのです。
あなたは常に良いものを生み出そうと努めなければなりません。
良い物作りをしなければならないのです。
良いものを作るためには、情熱と知識と技術が必要です。
この内のどれが欠けても、良いものを作ることはできないのです。
多くの人は妥協(だきょう)を許します。
妥協しても、ある程度のものを作ることはできます。
しかしながら、それは可能性の無い粗悪(そあく)なものなのです。
懸命に努力して、ある程度のものを作ることとは違うのです。
懸命に努力して生み出されたものには、可能性があるのです。
しかし、妥協した瞬間から破滅に向かうのです。
それは、ひび割れのように少しずつ広がっていきます。
ひびは気付かぬ内に全体に広がり、気が付いた時には崩壊が始まっているのです。
その時には遅いのです。
あなたは妥協することなく、情熱を以て知識と技術を磨き続けなければならないのです。
すべては、良いものを作るためです。
良いものによって、世界は豊かさを得るのです。
そして、その後にあなたは豊かさを得るでしょう。
良いものとは、独り善(よ)がりのものではありません。
貢献することが条件です。
貢献することがなければ、良いものではないのです。
しかし、すべてに貢献することはできません。
それは、”繋がり”によって全体が構成されているからです。
個は、別の個と繋がっています。
別の個は、それとは別の個と繋がっています。
そのため、あなたが貢献することができるのは、隣り合う個に対してなのです。
その時に、直接的な”繋がり”の無い個に対して、多くの人は理解を示しません。
全体としては繋がっているものの、直接的には繋がりを持たないために、理解することが難しいのです。
そのため、否定を用いることがあります。
「すべては一つ」ではあれど、そのことを理解することができないのです。
そのため、理解することができる範囲を大切に扱い、理解することができない範囲を蔑ろに扱うようになります。
その結果として、多様性が失われるのです。
一種類の樹木しか生えていない山は乏しいのです。
それは、その樹木に直接的な繋がりを持つ動植物や微生物しか生活することができないからです。
多様性を失った環境は、必ず滅びるということを覚えておきましょう。
人間社会も自然界も同じことです。
多様性を失った社会に可能性はありません。
それは、乏しくなる一方です。
やがては滅びてしまうでしょう。
あなたは、理解することができないからといって、安易に否定してはなりません。
虫が嫌いだからといって、毒を撒いてはなりません。
土(土壌微生物の社会)が死ねば、植物も死ぬのです。
植物が死ねば、あなたも死ぬのです。
良く考えなければなりません。
良いものを作らなければならないのです。
情熱と知識と技術の向上に邁進(まいしん)しましょう。
人生が”物作り”であるということを忘れてはなりません。

2016年6月9日木曜日

お粗末な思考回路

変化していくことは、成長の必須条件です。
変化することがなければ、成長は決して実現しません。
停滞するということは、成長の否定です。
変わることがなければ、成長することがないということを理解しなければなりません。
多くの人は変化を否定します。
変わることを嫌い、恐れるのです。
それは、現状に安心感を覚え、親密な関係性を築いているからです。
それは、執着であり、依存です。
それ以外の何物でもありません。
執着と依存は、人に変化を否定させます。
執着と依存を所有する人が成長することはないのです。
成長とは、変化の中だけに存在しているのです。
執着と依存は、それとは真逆の働きなのです。
多くの人は変化を否定します。
”このままで良い”と考えているのです。
現状が安定しているのであれば、それが続くと、続けられると思い込んでいるのです。
しかしながら、そのような保証はどこを探してもありません。
このままで良いという思考回路を頼りにしている人には、決して安定は得られないのです。
それは、その思考回路が余りにも御粗末(おそまつ)であるからです。
理想と現実は掛け離れています。
それは、人が余りにも知らないからです。
無知な人間の理想は、悉(ことごと)く否定されます。
無知な人間の言うようには、決してならないのです。
このままで良いという思考が既に矛盾しているということを理解しましょう。
このままではいけないのです。
人は、常に変化の中にいるべきなのです。
そうしなければ、その人が苦しむことになるからです。
人生を豊かなものとしたければ、停滞してはなりません。
常に変化を求めて、行動して”いる”必要があるのです。
その場に止まるだけでも変化し続けなければなりません。
川の流れの中にあって、泳ぐことをしなければ、簡単に流されてしまうのです。
その場に止まるためには、泳ぐ必要があります。
流れに逆らって上流に向かうのであれば、一層泳がなければならないのです。
変化に変化を重ねた者だけが豊かさを得るということを理解しなければなりません。
平泳ぎによって流されるのであれば、違う泳ぎ方をしなければなりません。
平泳ぎで止まるのであれば、違う泳ぎ方で進みましょう。
続けても変わらないこと、続けても良くならないことを続けてはならないのです。
より良い方法があるのです。
それを探し続けなければなりません。
いつまでも執着し、依存してはなりません。
新しい方法を用いるのです。
今までに成果が現れない方法を続ける意味とは何ですか?
川の流れは変わるのです。
どうして、いつまでも同じ方法で泳いでいるのですか?
あなたは変化を求めなければなりません。
どうするのかは、自分次第です。
あなたが流れに飲まれるのも、流れを制するのも自由です。
それは、あなたが決めることです。
人生に豊かさを求めているのであれば、変化を受け入れましょう。
いつまでも、執着と依存を続けてはなりません。
変化しなければなりません。
変えましょう。
変え続けましょう。
成果の現れない方法は、諦めるのです。

2016年6月8日水曜日

自分勝手

すべての人は人生に目的を所有しています。
それを明確に認識している者もいれば、それを認識することができてはいない者もいます。
しかしながら、すべての人が人生の目的を所有しているのです。
すべての人は、目的のために人生を生きています。
意識的にも、無意識的にも、目的を実現するために生きているのです。
そのことを知らなければなりません。
すべての人は、人生において自らの所有する目的を実現することが求められています。
目的を放棄することが許される人はいないのです。
どのような立場の、どのような人物であろうとも、人生の目的を果たさなければならないのです。
すべての人が目的を実現するために生きているため、意識的にも、無意識的にも、目的を実現するために尽力しています。
それぞれの目的の形が異なるために、力の使い方には違いがあります。
そのため、他人に対する評価というものは異なりますが、それぞれがそれぞれの力の範囲で尽力しているのです。
自分勝手な人がいます。
自分勝手な人とは、視野が狭く、主観によって判断する人のことです。
多くの人は、視野が狭く、主観によって判断しています。
多くの人は、自分勝手に生きているのが現状です。
自分勝手に生きているのために、不調和が生じているのです。
人生を俯瞰(ふかん)してみましょう。
そこには問題が存在し、苦悩を覚えているでしょう。
心には蟠(わだかま)りがあり、人間関係には軋轢(あつれき)が燻(くすぶ)っています。
人間の生きる環境には、破壊が導かれます。
自然環境を俯瞰すれば、そこに乏しさが導かれていることが分かるでしょう。
すべてが、自分勝手な生き方によって導かれた当然の結果です。
視野が狭く、主観によって判断しているために、大切なことを見失うのです。
あなたは、大切なことを見失ってはなりません。
矛盾を生きてはなりません。
豊かさと自称(じしょう)しながら、乏しさを受け取ってはなりません。
自分勝手な生き方は、あなたを幸せにはしないのです。
多くの人は、意識的にも、無意識的にも、自らの目的を果たすために必死です。
目的を実現するのに懸命になる余り、盲目的(もうもくてき)に生きているのが現状なのです。
一生懸命に生きることは大切です。
しかし、そのために”光”を失ってはなりません。
暗闇の中でどれだけ努めても、あなたは何を掴んだのかも分からず、何も得ることができないのです。
自分勝手に生きる人は”光”を見失います。
視野が狭まるというのは、瞼(まぶた)を閉じるということなのです。
自分のことだけをこなしていくのは簡単です。
しかし、それは足元だけを見る行為となるのです。
足元を見るだけならば、瞼を開いてものを見る必要がありません。
そうやって”光”を失うのです。
他人のために働くためには、遠くを見る必要があります。
相手のことを見なければならないのです。
視点が足元(自己)を離れれば、必然的に視野が広がります。
他人のことを見ている人は、多くの”光”を得るのです。
余裕を持たなければなりません。
一生懸命に生きることは良いことです。
しかし、余裕がないことによっては豊かさが導かれることはないのです。
自分の感情にただ従うことは、あなたに豊かさをもたらしません。
主観だけでは乏しさを得るのです。
この世界には陰陽の仕組みが存在しています。
それは、すべてにおいて通じている理(ことわり)なのです。
あなたの主観と客観は、陰陽の関係にあるのです。
主観を主とすれば陰が増し、客観を主とすれば陽が増すのです。
バランスが大切です。
人は、自分のことと他人のことをバランス良く行わなければなりません。
自分勝手に生きてはならないのです。
瞼を閉じてはなりません。
”光”を失ってはなりません。

2016年6月7日火曜日

自問自答

人は、考え続けなければなりません。
考え続けなければ、物事の問題点に気が付きません。
問題点に気が付かずにいれば、問題は悪化します。
大切なのは、物事を悪化させることではありません。
物事を良くしていくことが求められているのです。
この世界においては、豊かさが求められているのです。
豊かさに向かわないものは破滅を得るのです。
必要とされているのは、豊かさなのです。
すべての存在は、より良いものを求めています。
それを求める存在の価値観に従って、物事は淘汰されていきます。
あなたが何かに対して、より良い方法を思い付いたのであれば、今までの方法はやめるでしょう。
それと同じです。
どのような存在も、より良いものが手に入れば、それまでのものは捨てるのです。
この世界では、必ず豊かさが求められます。
あなたが目指さなければならないのは、より良い方法、豊かさであるのです。
そのためには、より良い方法を探し続けなければなりません。
探さないのに見付けることはできません。
あなたが発見することができるものは、この世界に既存(きぞん)するものに限られます。
どのように良い方法であっても、この世界に既存しているものであるのです。
ただ、それを発見しているに過ぎません。
そのため、考え続け、探し続けるのであれば、必ず見付かります。
それを見付けることができないというのであれば、考えていないだけなのです。
あなたがより良い方法を見付けることができず、苦悩を抱えているのであれば、それは考えていないということなのです。
ただ、それだけです。
多くの人は、自分では必死になって探し、必死になって考えたと思うでしょう。
しかしながら、そうではありません。
探していないから見付からず、考えていないから発見することができないのです。
必死で探し、必死で考えてなどいないのです。
言い訳によって、自らの弱さを擁護(ようご)するのはやめましょう。
苦しみを和らげるために布石(ふせき)を投じる必要はないのです。
被害者意識によって、自らを辱(はずかし)めてはならないのです。
あなたは自力によって問題を解決し、苦悩を制することができるのです。
そのためには、考えるだけなのです。
多くの人は自己中心的な考えの中に生きています。
自分の主張を押し付けることはしても、相手の話を理解しようとはしません。
主張が強過ぎれば、会話は成り立たないのです。
考えるということは、噛(か)み砕(くだ)くということです。
大きなものを細分化する作業こそが考えるということなのです。
理解することができないことは考えなければなりません。
考え続けることによって細分化し、一つ一つの小さなものを理解することによって、大きなものを理解するのです。
初めから大きなものを理解することなどできないのです。
そのため、あなたはそれを理解するまで、例え長い時間を掛けても考え続けなければならないのです。
自問自答することによって、物事を細分化することができます。
一つのことに対して、自分の中で何度も何度も考え続けるのです。
大きなままで投げ出す人が多いのです。
必死に考えたとは言えないのです。
必死に考えたと主張しながら、遊んでいるのです。
必死に考えたと主張しながら、他のことに気を逸(そ)らしているのです。
寝る間も惜しんで考えれば良いのです。
足りなければ、寝ている時にも考えましょう。
そのくらいのことはしましょう。
あなたが必死に考えたのであれば、そのくらいのことはやっているはずなのです。
人は自問自答によって物事を細分化すれば、客観を得ることができます。
それは、どのようなことであっても、その本質は”愛”だからです。
自分のためにあることなど何もありません。
すべては、自分以外のために存在しているのです。
自分以外のために考えることができない者が、どうやって豊かさを得るのでしょうか?
多くの人は考えることが嫌いです。
それが、その人の人生に現れています。
自分勝手な者は滅びます。
人は考え続けなければなりません。
自問自答を繰り返しましょう。

2016年6月6日月曜日

あなたはどうして、短い時間で理解することができるのでしょうか?
あなたはその時間で、何を理解したというのでしょう?
あなたが理解するには、時間が短過ぎるのです。
多くの人は、簡単に理解を得られると考えています。
残念ながら、そう簡単に理解することができるほど、何事も浅はかなものではありません。
それは、すべての道が真理を本質に持つからです。
どのような道も、その本質は同じです。
どのような道を進もうとも、同じ場所に辿り着くのです。
どのような道を進んだ者であっても、理解を深めた者達ならば分かり合えるのです。
道を進み、理解を深める程、分かり合えるのです。
枝先を見た時、それぞれは別のものに見えます。
しかし、それを辿る程に集約されていくことに気付きます。
やがては数本の枝となり、一本の幹となるのです。
数え切れない無数の枝先も、一本の幹から派生しています。
人間が進むどのような道も、その本質、根源には真理があるのです。
どのような道を進むのも同じです。
無数に別れた枝にも、同じ花が咲き、同じ実が成るのです。
しかしながら、枝にはそれが分かりません。
それは、それぞれが離れているように見えるからです。
幹にはそのことが分かっています。
離れている枝も、すべては同じ幹から派生したことを知っているのです。
物事の理解を深めるということは、枝先から幹を辿るようなものです。
始めはまとまりのないもののように思えます。
しかし、下に、下に辿るほどにまとまるのです。
理解を深めた者達は、同じ考え方を所有します。
そして、同じ生き方をするのです。
枝には枝の生き方があります。
幹には幹の生き方があるのです。
同じ樹木であっても、枝と幹では別の働きをしているのです。
そのため、互いが分かり合うのは不可能です。
枝は幹を理解することができません。
それは、本質から離れているからです。
根に近い程、樹木(本質)なのです。
枝がそれを理解するためには、月日を重ね、”古い枝”にならなければなりません。
それを繰り返すことによって、太い枝となり、やがては幹にもなるでしょう。
そのためには、多くの時間が必要なのです。
多くの人は簡単に理解したつもりでいます。
あなたは本当に何かを理解したのですか?
真理とは、そのように浅はかなものなのですか?
何十年か勉強しただけで理解することができるようなものなのでしょうか?
理解することができないために、生まれ変わっているのです。
どのような道にも終わりはありません。
人は、どのような道も理解することはできません。
あなたが何十年とその道を追求しても、理解することはできないのです。
そのため、辛抱することが必要です。
理解したと勘違いをして、分かった気になっている者がいます。
しかしながら、そのような者ほど何も分かってはいないのです。
あなたは道を追求しなければなりません。
少しでも理解を深めるように努めましょう。
あなたは常に挑戦し続けることが許されています。
そのことを喜ばなければなりません。
あなたは一生涯、学び続けることができるのです。
どのような道であっても、短い時間では決して理解することはできません。
あなたには長いように思えても、数年では枝は枝のままなのです。

2016年6月5日日曜日

器の恵み

人は生きています。
生きるということは、人生に存在しているということです。
人は人生に存在しているのです。
あなたは、人生に存在することが許されています。
しかし、あなたの意志によって許されている訳ではありません。
すべての存在は、許しを受けて存在しているのです。
あなたがどれだけ望んでも、存在は許されません。
あなたがどれだけ望んでも、存在が許されます。
明日(あす)も分からないのです。
あなたが決めているのではありません。
あなたは、人生を与えられているということを理解しましょう。
人生という貴重な時間は、あなたが獲得しているのではないのです。
勘違いしないようにしなければなりません。
人は謙虚にあるべきなのです。
あなたは生きていますが、生かされているのです。
自分勝手に陥(おちい)ってはなりません。
あなたは恵みを与えられているのです。
あなたは、何一つとして自力によって生み出すことはできません。
種を蒔(ま)けば食物が得られます。
人はそれを自分の手柄であると考えます。
しかし、その種は誰が作ったのですか?
誰が種に命を与え、食物としたのですか?
あなたがやったことは、種を蒔いただけです。
それ以外には何もしていないのです。
何もしていないにもかかわらず、自分の手柄だと勘違いしているのです。
この意味が分かりますか?
あなたは、何もしていないのです。
何もしていない者が得るものは、与えられたものなのです。
あなたは何一つとして自分の力によって得たのではありません。
あなたは与えられたのです。
恵みの一部を与えられたに過ぎません。
あなたが作り出し、獲得したのではないのです。
誤解を抱えてはなりません。
それは、あなたを不利にします。
与えられたことを知らない者は奪うでしょう。
略奪(りゃくだつ)が導くのは破滅です。
自然界から好きなだけ略奪すればどうなるでしょうか?
環境は破壊され、結果として自らの首を絞めることになるのです。
それが豊かさなのでしょうか?
人は恵みを与えられているに過ぎません。
どうして、与えられていることに満足せず、それ以上を奪うのでしょうか?
傲慢(ごうまん)は人を殺します。
自分のものなど何もないのです。
なぜ、奪い合うのですか?
なぜ、争うのでしょう?
与えられた恵みに満足すれば良いのです。
多くの人は足りないと言います。
何が足りないのですか?
あなたには、相応しい恵みなのです。
あなたには、それ以上の恵みを受ける器がないのです。
器から溢れて無駄になる食物を与えることが、何になるというのでしょうか?
あなたが差し出した器には、ぎっしりと恵みが与えられています。
食べきれない食物は、腐敗するということを理解しましょう。
余計なものを所有する愚かさを知るのです。
必要以上に何が必要なのですか?
あなたには、それをどうすることもできないのに・・・
与えられたものを満足しましょう。
恵みに感謝しましょう。
それが、どのようなものであってもです。

2016年6月4日土曜日

荒地と森

あなたは人生を豊かなものにしなければなりません。
人生を豊かなものにするためには、人生を好きにならなければなりません。
好感を持たないものを豊かであると感じることはできません。
豊かさの根源とは、好感にあるのです。
どのようなものを得ても、好感を持てなければ豊かさを感じることはできません。
どれだけ多くのものを所有していたとしても、それを嫌悪しているのであれば、豊かさとは呼べないのです。
それを少なく所有していたとしても、好感を得れば豊かさは実現するのです。
人生において、豊かさの定義はありません。
人によって人生の在り方は違うのです。
それは、人によって価値が違うことを証(しょう)しています。
人によって違うのであるから、豊かさの形も違うのです。
人によって違うのが自然です。
違うのが自然であるにもかかわらず、同じことに価値を見出すのであれば、不自然な状態を得ることになり、結果として豊かさを得ることはできないのです。
自然界には多様性が存在しています。
多様性によって、豊かにあるのです。
一様な状態を豊かさだとは言えません。
数種類の生命による営みを見て、それを豊かであると思えるでしょうか?
荒地を豊かであるというようなものです。
多様な生命によって形成される森こそが、豊かさの象徴なのです。
人間は、それぞれに違う個性を与えられています。
一つとして同じ個性はありません。
それは、多様性を実現するためです。
しかしながら、人は自分が他人と違うことを恐れ、同じ状態に近付こうとします。
それは、砂漠を作ることになり、乏しさを導く結果に繋がるのです。
人は、それぞれに違う状態を得なければなりません。
それぞれに違うことが強さなのです。
誰かの真似をする必要はないのです。
自分にとって価値のある人生を生きれば良いのです。
人にはそれぞれに”分(ぶん)”というものがあります。
それは、本分であるのです。
本分とは、使命です。
人にはそれぞれに与えられた役割があるのです。
人生においては、誰もがその役割を果たさなければなりません。
しかし、それは義務ではありません。
どうするかは自分で決めることができます。
人生において豊かさを得ようとすれば、自らの仕事をしなければなりません。
それは、自分だけの仕事です。
ミミズが鳥の仕事を求めてはなりません。
ミミズはミミズの仕事を完璧に果たさなければなりません。
鳥は鳥の仕事を果たすのです。
分を弁(わきま)える必要があります。
あなたが楽しいと思えることは何ですか?
それを仕事としましょう。
あなたが楽しいと思えることが、あなたの分なのです。
好きでもないことを、何かしらの報酬を得るために行ってはなりません。
そのような仕事から得た報酬に、あなたは嫌悪し、後悔するでしょう。
あなたは自分でなければなりません。
しかし、これは自我を通せと言っているのではありません。
自分の分を弁えて、自分の仕事を果たせと言っているのです。
自分の仕事は、あなたに必要な仕事です。
そして、それは世界に必要な仕事なのです。
あなたにとって、それは楽しいのです。
もちろん、苦労は絶えません。
しかし、根本は楽しいのです。
すべての人の本分が、その人にとって楽しいのです。
すべての人が楽しいことを仕事にすれば良いのです。
それでも全体のバランスは保てます。
好きでもないことを、何かしらの報酬を得るために行っている方が、全体のバランスを崩すということを知りましょう。
人の世を荒廃させてはなりません。
豊かさを得るためには、(根本的に)楽しいこと、(根本的に)好きなことをしましょう。

2016年6月3日金曜日

良いもの

人は選択しなければなりません。
何を得て、何を失うかは、あなたの選択によって決められるのです。
人生は因果の仕組みによって左右されています。
あなたの選択が、あなたが何を得て、何を失うのかを決めるのです。
あなたが自ら選ばなければ、何かを得ることも、何かを失うこともありません。
すべては、あなたの選択の結果なのです。
あなたが選んでいないと主張しても、それを選んだのです。
他の選択をしなかったので、それを得ているのです。
他の選択をしなかったので、それを失ったのです。
どちらにしても、あなたが選んだのです。
あなたには、選択の自由が与えられています。
あなたは自分で選ぶことができるのです。
あなたが受け取るすべての状況が、あなた自らの選択した結果です。
誰かや何かがあなたに強制した結果ではないのです。
そのことを知らなければなりません。
あなたが自分で選んだのです。
すべての人は自分で選ぶ権利を与えられています。
当然、より良いものを選ぶ権利を与えられているのです。
あなたは、良いものを選ぶことが許されています。
あなたは自分が良いと思えるものを選べば良いのです。
当然、あなたは自分が良いと思えるものを選んできたのです。
その結果を受け取っているということを理解しなければなりません。
あなたが受けている状況とは、あなたが良いと思うものを選んだ結果なのです。
あなたが自分で、それが良いとして選んだのです。
勘違いしてはなりません。
あなたに相応しい状況だけが導かれているのです。
あなたにとって無駄なものはありません。
不要なものもなければ、不足もないのです。
すべてはあなたが選んだ、自分にとって良いものであるのです。
人は自分を人格だと思い込んでいます。
人格とは魂の汚れです。
自分を人格であると考える人は、自分が汚れているということを知りません。
そのため、自分の考えや選択が既に汚れているということを知らないのです。
汚れは歪みを引き起こします。
そのため、人格によって選択している時点において、歪んだ結果を導くことが決められているのです。
あなたが選んでいるものは、本当に良いものなのでしょうか?
結果を客観しなければなりません。
受け取る結果が、あなたの選択を物語っています。
結果が嘘を吐くことはありません。
あなたが問題を抱え、苦悩を覚えるのであれば、その選択は(ある意味では)良いものではなかったのです。
(人格を取り除くためには苦悩に向き合わなければならず、その観点からすれば良いことである)
あなたは良い結果を受けなければなりません。
そのためには、良い選択をしなければならないのです。
多くの人は表面的に物事を判断します。
見た目が美しければ良いものだと考えるのです。
しかしながら、すべての価値が美しいとは限りません。
例えば、美しい姿の野菜には、価値があるのでしょうか?
虫も食わず、動物も掘り起こさないものを食べる勇気がありますか?
美しい見た目には見向きもしない虫や動物は、それに毒があることを知っているのです。
見た目によって判断しないのは、毒によって死なないためなのです。
必ずしも、美しいものに価値があるとは限りません。
気に入ったものだけを集めても益がないのです。
良いものとは、見た目に美しく、気に入るものとは限らないのです。
あなたは知恵によって本質を見極めなければなりません。
何を選択するかによって、人生は変わります。
何を得て、何を失うかは、あなたの選択によって決められるのです。
良いものを見極めましょう。

2016年6月2日木曜日

目的実現の副産物

人は成長し続けなければなりません。
成長することがなければ、どのような目的も果たすことができないからです。
人は目的を持っています。
すべての人が目的を実現するために存在しているのです。
目的の実現のために存在しない者はいません。
それぞれが、それぞれの目的のために存在しているのです。
人は、自らの掲げる目的を実現するために生きているのです。
目的を実現することなく、満足を得る者はいません。
満足とは、目的の実現によって導かれる副産物であるからです。
幸福とは、満足の継続であり、目的を達成し続けることによって得られる結果であるのです。
目的の達成を無視して、幸福を得ることのできる者はいません。
どのような者も、自分を裏切って幸福を覚えることはできないのです。
すべての人が目的を所有しています。
目的を所有していない人はいません。
目的のために働いている時には、人は満足を得ることができます。
しかし、目的も無く働いている時には、虚しさを得るのです。
虚しさの蓄積は苦悩となります。
虚しさや苦悩を抱えて生きている人は、目的を見失っているのです。
目的を見失っている者が成長することはありません。
それは、努力や継続を放棄するからです。
この世界において、努力と継続無しにどうやって幸福を実現するというのでしょう?
何の目的も持たず、努力も継続もせず、何の知恵や工夫も出さず、自分の限界に挑戦することもなく、戯(たわむ)れに時を過ごし、虚しい会話を楽しみ、老いて朽(く)ちていく人生に満足することができるのでしょうか?
それを楽しいと思い、自己満足によって納得したとしても、実質はどうなのでしょう?
自分勝手な判断で幸福を主張したからといって、それが真の幸福なのでしょうか?
何も得ず、何の功績も立てず、何も遺さない。
このような人生に満足なのでしょうか?
人それぞれに目的は違います。
そのため、満足の形も違います。
しかし、自分を裏切るのであれば、決して満足を得ることはできないのです。
自分を裏切る者が成長することはありません。
成長することの無い者は、自分が弱いことを知っています。
そのため、葦(あし)のように群生します。
しかし、一本一本は細く脆(もろ)いことには変わりありません。
葦が何本束(たば)になろうとも、それは簡単に折られるのです。
長い時間を掛け、努力と継続によって確実に成長し続ける樹木は、一本でも折れることはありません。
成長した人は一人でも力強く、成長しない人は大勢でも非力なのです。
編んだ紐(ひも)であっても、一本が細ければ荷を吊るすことはできません。
太く編んだ紐であれば、重たい荷を吊るすことができるのです。
成長することがなければ、決して満足を得ることはできません。
人生に幸福を求めるのは簡単です。
誰もがそのようにします。
しかし、幸福を実現するのは簡単ではないのです。
それは、努力と継続が必要条件であるからです。
楽をして幸福を得ることなどできません。
この世界において、楽をして幸福を得る人などいないのです。
幸福を得る人は必ず、努力と継続をしています。
自分の目的を実現することは、心には楽しいことです。
心にとって、これ以上の喜びはありません。
心にとって楽しいことに労力を注がないことは、自分への裏切です。
あなたの心には、果たしたい目的があるはずです。
知らないのであれば探しましょう。
必ず存在しています。
自分の目的を果たし、成長を実現しましょう。
何のために生きているのか?
あなたは忘れてはなりません。

2016年6月1日水曜日

”人間”の価値

人は、人生を価値のあるものにしなければなりません。
すべての人が、人生を豊かなものとしなければならないのです。
人生をどのようなものにするかは、人の仕事です。
それは、自分自身の仕事であり、他人や”神”の仕事ではないのです。
あなたは自分の人生の価値を決めることができます。
どのように生き、どのような人生にするかを決めるのは、あなた自身であるのです。
あなたが人生の価値を決めるためには、何に価値を見出すのか?ということを決めなければなりません。
人は、定められた価値判断に従って集めるのです。
人は、価値があると判断したものを求めます。
それによって、人生が決まるのです。
あなたの求めている価値は何ですか?
あなたが最も大切に思うものを想像してみましょう。
あなたはそれを得るために生きているはずです。
人は、自らの価値判断に従って生きるのです。
価値判断を決めているのは”自分”です。
”自分”とは、あなたが考えている自分の姿です。
あなたは、自分が考えている自分に相応しい価値を定めています。
多くの人は、自分を”人間”であると考えています。
そのため、多くの人の価値判断は、”人間”に定められます。
多くの人は、”人間”にとって価値のあるものを欲するのです。
”人間”にとっての価値とは、生存と繁栄です。
そのため、世の中は生存と繁栄のために形成されるのです。
世の中の至る所に、生存と繁栄のための可能性が整備されています。
”人間”であれば誰であっても、世の中を豊かに生きる可能性が与えられているのです。
多くの人は”人間”のための豊かな人生を実現するために奮闘(ふんとう)しています。
より豊かに生存するため。
より豊かに繁栄するため。
そのための制度であり、夢であるのです。
あなたは、生存を続けることによって幸福を得るのでしょうか?
繁栄を続けることが満足なのでしょうか?
あなたはそれ等によって、本当に満たされるのでしょうか?
生存を求めても、肉体は必ず衰(おとろ)えます。
死を避けることもできません。
明日(あす)も分からないのです。
あなたの肉体が衰え、死を目前に迎えても、それでも生存に価値を見出すのでしょうか?
それは、繁栄にも言えることです。
”人間”の求める生存と繁栄は、肉体が若い頃の価値であり、老人には価値とはならないのです。
老人が生存を求めるでしょうか?
繁栄を願うでしょうか?
すべての老人は死を迎え、この世を去るのです。
それは若人(わこうど)にも同じことが言えるでしょう。
あなたが”人間”であるのならば、生存と繁栄を求めるでしょう。
しかし、それは地に降り注ぐ雨粒のようなものです。
それは、地に染み込んで消えるか、蒸発してなくなるのです。
”人間”の追い求める価値は、脆(もろ)くて長続きしないものなのです。
”人間”は、生存と繁栄のために資産を貯(たくわ)えるでしょう。
資産を貯えるためには偽りの助けが必要です。
偽りの助けなしに、資産を貯えることはできないのです。
それは、金儲けとは騙(だま)し合いだからです。
正直者が資産を貯えることはできません。
”人間”としての価値である生存と繁栄を豊かなものにするためには、偽りを扱わなければならないのです。
偽りを用いずに、”人間”の価値を集めることはできません。
あなたが”人間”であるのならば、偽りを用いて価値を集めましょう。
偽るほどに、”人間”の生存と繁栄は堅固(けんご)なものとなるでしょう。
偽ることを嫌うのであれば、自分の姿を改めなければなりません。
自分が何者なのか?を考えましょう。