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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年12月31日木曜日

時間の価値

時間とは、すべての人に与えられる共通の価値です。
すべての人に時間が与えられます。
すべての人が時間を扱うことができるのです。
時間を持たない人はいません。
時間を扱うことのできない人はいないのです。
それは、誰にとっても最高の価値であり、最高の宝なのです。
しかし、人によって時間の価値は異なります。
同じ長さの時間であっても、人によってその価値は変わるのです。
一秒を貴重だと考える人がいます。
一日を疎(おろそ)かに過ごす人がいます。
それぞれに、与えられる時間は同じものです。
しかし、その価値を決めるのはその人次第なのです。
同じものが与えられますが、その価値を決める(引き出す)のはそれぞれです。
一秒を大きなものにする人があれば、一日を小さなものにする人があります。
時間は本来は同じものですが、人の手に渡った瞬間に違う価値を生み出すのです。
あなたは時間をどのように扱っているでしょうか?
あなたは一秒にどのような価値を定めますか?
あなたにとって時間とは、どれ程の価値を持つものでしょうか?
時間が有り余っていると思いますか?
時間が足りないと思いますか?
時間は無駄だと思いますか?
時間は貴重だと思いますか?
目的、目標を持つ者にとって、時間とは価値の高いものになるでしょう。
しかし、目的、目標を持たない者にとってそれは、価値の低いものになるのです。
立場によって、価値は変わります。
それは、時間に限ったことではありません。
すべての事柄に関して、その立場が重要になるのです。
同じものを所有していても、その価値を決めるのはあなたです。
あなたは価値を見出すことができるでしょうか?
時間を無駄にする人がいます。
何の目的も、目標もなく、時間を浪費する人がいるのです。
本当にそれで良いと思いますか?
戯(たわむ)れに時を過ごすことによって、あなたは満足を得らえるのですか?
怠慢(たいまん)や傲慢(ごうまん)によって時間を過ごしてはなりません。
あなたは時間という価値を与えられているのです。
その価値を有効利用する必要があるのです。
後悔は先には立ちません。
そのため、あなたは常に現状を俯瞰(ふかん)する必要があるのです。
あなたには人生の目的があるのです。
それは、人それぞれに違いますが、それぞれが明確に所有しています。
あなたはそれを知っていますか?
何のために生きているのですか?
何のために時間が与えられているのでしょうか?
その答えを知らないにしても、時間を有効活用するように努めなければなりません。
間違っていたとしても、努めることによって後悔を避けることはできます。
良いも悪いも、存在しないのです。
ただ、時間を無駄に過ごすことを避けなければなりません。
何かに対して懸命に努めているのであれば、あなたが”損”をすることはありません。
しかし、時間を無駄にしているのであれば、”損”は避けられないのです。
時間を大切に扱いましょう。
あなたと同じように、他人も時間を所有しています。
他人の時間を尊重しましょう。
自分勝手に相手の時間を奪ってはなりません。
それぞれが人生の目的に目覚め、時間を有効活用するように努めるのです。
努力する必要があります。
先ずは、一人の時間を充実させるように努めましょう。
一人の時間を充実させることすらできない者には、他人との時間を充実させることなどできないからです。
他人に依存するということは、他人の時間を奪う行為であるということを覚えておきましょう。
互いに奪い合ってはなりません。
互いが与え合わなければならないのです。
与えられた時間を大切にしましょう。

2015年12月30日水曜日

精神の腹

人は、その腹に満たすものによって影響を受けます。
人を決めるのは、腹に入るものです。
人は、腹に入るものによって簡単に変化します。
それに抗(あらが)う術はないでしょう。
腹に入ったものによって、左右されるということを覚えておかなければなりません。
水を飲めば潤います。
野菜を食べれば力が湧きます。
果実を食べれば喜びを得るでしょう。
しかし、毒を飲めば苦しみます。
毒を飲めば、誰もが必ず苦しむのです。
それは、毒によって破壊がもたらされるからです。
そのため、人が苦しみを求めないのであれば、毒を飲み込まないように努めなければならないのです。
それが食物であるのならば、人体の報告によってそれを判断することができます。
それが食べることのできない毒であるのならば、味や痛みなどの明確な違和感によって知らせるのです。
しかし、あなたは人体ではありません。
人体はあなたの一つの側面に過ぎません。
あなたは人体でもあり、精神でもあるのです。
人体が食物を得るように、精神は知識を得るのです。
様々な情報は、精神にとっての食物です。
様々な情報を、あなたは精神の腹に満たすのです。
厄介(やっかい)なのは、知識というものは区別が付き難(にく)いということです。
情報にも、食物と同じように”合う合わない”があります。
今のあなたの精神にとって”合う”情報は力となります。
しかし、今のあなたの精神にとって”合わない”情報は毒となるのです。
人体に比べ、精神は反応を明確には示しません。
毒を腹に満たそうが、それに気が付かないという状態もあるのです。
多くの人が苦悩を抱えています。
しかし、その原因を知ることは稀(まれ)です。
苦悩の原因が毒の情報にあるにもかかわらず、そのことに気が付きません。
自分が苦しんでいるのは、誰かや何かが悪いと考え、不安や争いを繰り返すのです。
無知であっては、苦悩は決して解決しません。
それは、今のあなたの精神にとって力となる情報によって腹を満たさなければ、毒の情報によって満ちた精神の改善は見込めないからです。
繰り返しからの脱却がなければ、苦悩は決して解決しません。
同じことを繰り返すということは、無知な状態を繰り返すということです。
力となる情報を得ることによって、人は無知を克服することができます。
何が今のあなたの精神にとって力となる情報であるのか?を知るためには、とにかく情報を集める以外に方法はありません。
情報を集めることによって、思考回路や生活習慣は変わります。
生き方が変わった後に、同じ苦しみによって悩まされるということがあるでしょうか?
生き方が変わったのであれば、そのような苦悩に出会うことはないのです。
毒を食べなければ、腹痛に襲われることもないのです。
あなたは情報(知識)を精査しなければなりません。
溢れている情報を、何もかも飲み込んでいてはなりません。
その中には多くの毒が含まれているのです。
与えられるもので腹を満たしてはなりません。
いつまでも同じことを、何の根拠もなく繰り返してはなりません。
どのような理由で、あなたがそれを行うのですか?
伝統というだけで、価値があるのですか?
時代が変わったのに、続ける意味があるのですか?
それは、偽りであり、過ちであるということはありませんか?
あなたは、それを本当に繰り返す意味があるのか?ということを考えましょう。
無知な者には考える力がありません。
そのような者はしばらくの間苦しんでいましょう。
残念ですが、仕方のないことです。
誰も、あなたの腹に食物を運びません。
あなたが自分自身の判断によってそれを食らうのです。
その情報がどのような意味を持つのか?ということを考え続けなければなりません。

2015年12月29日火曜日

収穫の時

あなたは変化に気が付かなければなりません。
世界は変化し続けているのです。
その変化に気が付かないようではなりません。
時代は常に移り行きます。
それは、決して止まることをしません。
あなたがどのように抵抗しようとも、何も行動しなくても、時代は変化し続けます。
それは、時代というものは(一つの側面としては)集合意識であるからです。
集合意識が時代を築きます。
あなたが変わるまいが、時代は変わるのです。
時代が変われば、あなたは相対的に変化を強いられるでしょう。
そこに気が付く必要があります。
そして、それに相応しく行動する必要があるのです。
しかし、すべての人は無知を所有しています。
無知は苦しみを導きます。
無知が幸福を導くことはありません。
”奇跡”など存在しないのです。
無知によって幸福を望むことは不可能です。
あなたは努め励み、知識を蓄え、知恵を得なければならないのです。
知恵があなたを守ります。
時代の波に翻弄(ほんろう)される小舟は、知恵を以て嵐を渡るのです。
知恵がなければ簡単に沈んでしまうでしょう。
”収穫”の時は近いのです。
これから、陰と陽が分離します。
主人によって”収穫”を受け、無知と有智に分けられるのです。
熟した果実は取り入れられるのです。
”収穫”された果実は、それぞれが相応しい場所に送られます。
実っている時には、すべての果実に同じ場所が許されました。
しかし、”収穫”された後ではそうはいきません。
樹木との繋がりを失った果実は、それぞれの価値に従うのです。
さて、あなたという果実は、どのような価値を備えているでしょうか?
すべての人が”収穫”され、選別されるのです。
あなたは相応しい場所に辿り着き、相応しい仲間に会うのです。
良い果実は褒(ほ)められて”神々”の食卓に並ぶでしょう。
悪い果実は憐(あわ)れみを受け、地に投げ捨てられるでしょう。
なぜ、変化するのでしょう?
それは、その状態が完全ではないからです。
足りないために変化する必要があるのです。
この世に足りている者がいるでしょうか?
すべての人に変化が訪れます。
それは、足りないからです。
それが喜びであろうと、苦しみであろうとも、人生は変化を求めているのです。
決して、自分を満足してはなりません。
それは怠慢(たいまん)を導きます。
状況や自分自身に変化を感じられなければ、あなたは時代の波に翻弄されています。
状況も自分自身も、常に変化の中にあるのです。
変化を感じないということは、自分が完全であるという傲慢(ごうまん)を所有しているのです。
思い上がってはなりません。
無知な者は自惚れるでしょう。
しかし、”収穫”の時に同じような態度でいられるでしょうか?
すべての果実は、それぞれの形で樹木から離れます。
その時の自分の行き場所がどこであるのかを知っていますか?
余計な時間があると思いますか?
あなたは今のままの生き方で良いのか?ということを改めて考えてみましょう。
時代は確実に変化を遂げ、あなたは試されます。
”収穫”の時に、どこへ辿り着こうとも、決して文句を吐かないように。
それは、あなたが自分自身によって決めたのです。

2015年12月28日月曜日

1+1

これは、あなたの人生です。
あなたは、あなたの人生を生きるのです。
決して他人の人生を生きることはありません。
それは、他人の生きるべき人生だからです。
それぞれの人生には、それぞれのドラマが存在しています。
それは、それぞれに対する必要に違いがあるからです。
人生における必要とは、それを生きる者への学びです。
人生の主人公であるあなたは、あなたの学びを得ることになるのです。
他人の学びを、あなたが受けることはありません。
あなたの人生の学びは、あなたにとって必要であり、あなたの成長のために導かれる最善であるのです。
しかし、多くの人には誤解があります。
人生における様々な状況は、自分には相応しくないと考えるのです。
それは、目の前の状況が自分自身に結び付かないという状態があるからです。
あなたは人生について考えているでしょうか?
あなたは何のために生きているのでしょうか?
あなたが人生について考えることがなければ、目の前の状況が自分自身に結び付くということは難しいのです。
人生を観察すれば、それは、自分自身に深く関連しているということを理解することができるでしょう。
何一つとして無駄なものはありません。
理解すること、結び付けることができないだけで、それ等の状況はあなたに深く関連している事柄であるのです。
あなたはあなたの人生を生きています。
あなたに生じる問題は、他人には生じません。
あなたの抱える苦しみを他人が抱えることはありません。
あなたの知っている喜びを他人は知りません。
それは、人生がそれぞれに与えられた独自のものであるということを証明しているのです。
しかし、多くの人は自分の受ける学びと、他人の受ける学びを混同します。
自分に起きていることは、他人にも起き(てい)るはずだと考えているのです。
しかし、そのようなことはありません。
似ている状況は存在しますが、同じものはありません。
この区別を明確に理解する必要があるのです。
これはあなたの人生であり、あれは他人の人生なのです。
それは似ているように見えても、全くの別物なのです。
そのため、他人の事柄を自分のことのように、起きる前から心配する必要はないのです。
あなたはあなたのために、その学びを受けます。
人生という結果は、あなたの心(厳密には霊魂)という原因によって導かれるのです。
そのため、あなたは自分の心を生きることになります。
振り返ってみましょう。
そうすれば、そこに明確な因果の仕組みの働きを理解することができるはずです。
分かり易く導かれている状況もあれば、そうではない状況もあります。
しかし、それが自分にとって相応しい状況であるということを、いつかは理解することができるはずです。
あなたは、人生において自分の心を生きるということを覚えておかなければなりません。
あなたの心に存在しない学びを受けることはありません。
あなたは、自分の心以外を生きることはできないのです。
人が人生において改善すべきことがあるとするなら、それは心を見つめ改めることです。
それ以外の方法は本質を得ません。
多くの人は心の重要性を忘れています。
人生は”物”ではないのです。
それを数値化することはできません。
”正しい生き方”というものを、あなたは知っていますか?
人類の英知はそれを答えてくれるでしょうか?
大抵の人が1+1が2であるということは答えられます。
それは、それが正しいと教えられたからです。
実際に1+1を使い、人は自然界においていくらかの自由を得ました。
しかし、それは本当に正しい答えなのでしょうか?
1+1がなぜ2という答えを有するのか?を考えましょう。
それと同じように人生というものを考えてみましょう。
正しい生き方とは何でしょうか?
そのようなものは存在するのでしょうか?
他人と比較することができるのでしょうか?
さて、人生とは何でしょうか?

2015年12月27日日曜日

時代

時代とは、考え方の結果です。
考え方こそが、時代を築くのです。
新たな考え方は、新たな時代の先駆けとなり、新時代を切り開きます。
新たな考え方が定着した時、それは時代となるのです。
そして、更なる考え方が出現し、それが新時代の先駆けとなるのです。
新時代を築くとは、新たな考え方を築くということです。
時代に遅れるとは、考え方に遅れるということなのです。
あなたが重要視しなければならないのは、自分がどのような考え方を用いているのか?ということです。
その考え方が先進的であり、先見的であるのならば、時代に喜ぶでしょう。
その考え方が後進的であり、前時代的であるのならば、時代に苦しむでしょう。
古い考え方が、新たな時代に通用することなど有り得ません。
人類の功績とは、新たな考え方の発見に他ならないのです。
人類の英知こそが、時代を切り開くのです。
あなたが喜ぶためには、新時代に参加する必要があります。
古い時代に取り残されるのであれば、苦しむ以外に方法はないのです。
なぜなら、それは不要とされるからです。
年齢は関係ありません。
老齢であるから時代に取り残されて苦しむ、などということはないのです。
若齢であろうとも、考え方に発展が認められなければ時代に取り残されて苦しむことになるのです。
問題は、考え方という人の中身にあるのです。
若齢も老齢も、須(すべから)く考え方の発展に努めなければなりません。
怠慢(たいまん)であってはなりません。
考え方が古い、未発展であるということは不幸です。
それは、その人を殺します。
誰かや時代が人を苦しめるのではないのです。
自分自身の古く、未発展の考え方こそが、人を苦しめるということを理解する必要があるのです。
多くの人は自分自身の考え方に原因を探しません。
多くの人は、多くの場合、誰かや時代に原因があると考えるのです。
誰かや時代がどのような状態であっても構わないのです。
それは、決して問題にはなりません。
それ等を克服することができない軟弱な考え方こそが、最大の問題であるということに気が付きましょう。
多くの人は自らの考え方を変えようとはしません。
いつまでも、自分自身の考え方が通用すると思い込んでいるのです。
しかし、時代(世間)は毎年、毎月、毎日、毎時、毎分、毎秒・・・変わり続けているのです。
一瞬たりとも、時代が変化を放棄することはありません。
どれだけの人が考えていると思いますか?
人類の考えが止まることはないのです。
一瞬も休むことなく、誰かは考えているのです。
その誰かの考え方は、常に変わり続けています。
時代は必ず変わります。
その変化を食い止めることはできません。
取り残されるなら、置いていかれます。
あなたが自分自身の考え方に閉じこもったとしても、人類が一つの小さな考え方に閉じこもることはありません。
考え方を変えない者は、時代の変化に付いていけないのです。
古い者を待つほど、時代はお人好しではありません。
時代は古い者を何の躊躇(ちゅうちょ)もなく滅ぼします。
あなたの考え方が発展することがなければ、あなたは簡単に滅びるのです。
どのように生きるかはあなた次第です。
誰もあなたに強制することはできません。
新時代を切り開くも、時代に順応するも、時代に取り残されるも、あなたが好きに決めれば良いのです。
生き方はそれぞれです。
先端には先端の満足があり、中間には中間の満足があり、後端には後端の満足があります。
しかし、あなたが真の意味で幸福を手に入れたいと考えるのであれば、新時代を切り開く人になりましょう。
なぜなら、それは最高の挑戦だからです。
常に考え方を改め、自分自身を変化し続けるのです。
新旧問わず、多くの考え方に触れ、それを吸収しましょう。
あなたの中に無い考え方に触れることで、それは、今よりも新たな考え方になります。
考え方の幅を広げるイメージを持てば良いでしょう。
考え方の発展に努めましょう。

2015年12月26日土曜日

全幅の信頼

あなたは、与えられたもので喉(のど)を潤してはなりません。
与えられたもので腹を満たしてはならないのです。
あなたは熟考しなければなりません。
安易な考えてによって、何もかもを腹に収めてはならないのです。
この世界には真偽が存在しています。
それは、真実であるかも知れませんが、偽りであるかも知れません。
自然界には”騙(だま)し合い”が存在しています。
それを否定することはできません。
すべての存在が姿を偽り、行為を偽り、利を得ているのです。
自然界では、偽りによって難を逃れ、偽りによって腹を満たすことができるのです。
上手く偽ることができたものが生き残るのです。
生きるためには、偽りと共になければならないのです。
人は自然界の存在です。
しかし、それは、人体の話です。
人体は自然界の一部です。
しかし、人は人体ではありません。
人は魂という意識であるのです。
あなたは魂です。
あなたの親は、あなたの人体を生みましたが、あなたの魂を生むことはできないのです。
魂を生むことができるのは”神”であるということを覚えておきましょう。
誤解してはなりませんが、あなたの親は人間ではありません。
あなたの人体の親は、親の人体です。
しかし、あなたの魂の親は”神”なのです。
”神”をどう呼ぼうとも構いません。
創造主、高次の存在、真理・・・
好きに呼べば良いでしょう。
厳密に言えば、自然界はあなたの世界ではありません。
それは、あなたの人体の世界なのです。
そのため、人体のために、自然界を大切にしなければなりません。
しかし、人の本質は魂です。
そのため、いつまでも偽りを楽しんでいてはならないのです。
人は、偽りを発します。
それは、自分自身の本質を人体であると考えているからです。
そこには無知が存在するのです。
無知によって、人は偽りを発し、偽りを受けるようになるのです。
自然界では騙したものが勝利者ですが、人の世にあっては敗北者です。
なぜなら、人生というものは生存競争ではないからです。
人生が生存競争であるなら、人が自ら命を絶つことはありません。
本能に従って生存を続けるのです。
眠気を満たし、性を満たし、腹を満たしていれば幸福であるなどということはないのです。
そのような本能的な欲求をどれだけ満たしたとしても、魂である人が満たされるはずがないのです。
勘違いしてはなりません。
人生は生存競争ではないのです。
誰かを騙す必要も、誰かに騙される必要もないのです。
与えられたものを精査することがなければ、あなたは必ず騙されてしまいます。
与えるものを精査することがなければ、あなたは必ず騙してしまうのです。
自らを人体であると思い、人生が生存競争だと考える愚かな者には、偽りが付き従います。
そのような者が真実によって満たされることはないのです。
与えられたもので喉を潤してはなりません。
与えられたもので腹を満たしてはなりません。
それは、”毒”であるかも知れません。
信頼の置ける人からの恵みであっても、疑う必要があります。
ただし、人を疑うのではありません。
その人の知識や行為を疑うのです。
どのような人にも無知が存在します。
そのため、全幅の信頼というものは実現しないのです。
何も考えずに盲信(もうしん)するのであれば、それは宗教的な歪んだ関係性へと発展します。
良く考えましょう。
冷静に精査するのです。
熱狂的になってはなりません。
目の前の”それ”が、本当に喉を潤し、腹を満たすのか?ということを考えましょう。

2015年12月25日金曜日

視点の執着

あなたは一つの視点に執着してはなりません。
多くの場合、人は自分自身が”気に入った”一つの視点に執着しています。
”気に入った”とはいえ、怒りや悲しみや苦しみなどの視点も、それに含まれます。
あなたの選択こそが、あなたの”気に入った”視点なのです。
人は好んでそれを行います。
あなたは、怒りや悲しみや苦しみなど好んでいない、そのようなものは求めていないと反論するでしょう。
しかし、あなたが好んでおり、求めているのです。
本当に好んでおらず、求めてもいないのであれば、そのようには行わないのです。
そのような結果を得ることもないのです。
そのように考え、そのように思い、そのように行わなければ良いのです。
しかし、あなたはいつまでも怒り、いつまでも悲しみ、いつまでも苦しみます。
なぜでしょう?
それは、あなたが自ら好き好んで行っているからに他ならないのです。
人生はあなたが自ら決めることができます。
誰も、あなたに強制などしてはいません。
多くの人は自らの非を認めず、正当化します。
正当化するということは、自らの非を転嫁(てんか)するということです。
その結果、他人や状況や環境が”悪者”となるのです。
そして、”悪者”に対する怒りや悲しみや苦しみが続くのです。
”悪者”とは何でしょうか?
本当にそのようなものが存在するのでしょうか?
あなたにとっての”悪者”と、他人にとっての”悪者”は違います。
それは、立場によって別のものとなるのです。
両者の間に争いが存在するのは、それぞれの”悪者”が異なっているためです。
”悪者”が同じ対象であれば、両者の間に争いはないのです。
寧(むし)ろ、両者は手を取り合う仲間となるでしょう。
”わたし”はあなたに争って欲しくないのです。
怒りや悲しみや苦しみ(厳密に言えば、喜びや楽しみなどのすべての感情)に執着して欲しくはないのです。
このわがままを許してください。
厳密に言えば”悪者”というものは存在しませんが、あなたは他人と同じ”悪者”を所有する必要があります。
それは、外には存在しません。
それは、自分自身の内側に存在しているのです。
人は自分自身の歪み(未熟さ、弱さ)を”悪者”に仕立てなければならないのです。
それぞれが自分自身の中に”悪者”を持てば、互いに争うことはありません。
それぞれが自分自身の中の”悪者”を克服(許す)するために切磋(せっさ)するようになるのです。
多くの人は、誰かに教えられた一つの視点に執着します。
しかし、教えられた視点を精査することはありません。
教えられたものは無条件で正しいと思い込むのです。
純粋なのは良いことですが、無能であってはなりません。
すべての人は無知を所有しています。
それぞれが正しいと思い込んでいる正義が、それぞれに正しいとは限らないのです。
その時のその人には正しいことであっても、別の時の別の人には正しいとは言えないのです。
物事はそれほど曖昧(あいまい)なものであり、正解も間違いもないということを覚えておきましょう。
立場によって正しく、立場によって間違っているだけなのです。
そのため、あなたは視点を必要とするのです。
一つの視点では足りないのです。
出来る限りの視点を手に入れなければなりません。
”気に入っている”からといって、それに執着してはなりません。
いつまでも喜んでいてはなりません。
いつまでも楽しんでいてはなりません。
いつまでも怒っていてはなりません。
いつまでも悲しんでいてはなりません。
いつまでも苦しんでいてはならないのです。
新たな視点を手に入れ、停滞しないように努めましょう。
いつまでも同じことを繰り返している暇はないのです。
様々に努めましょう。
問題は、視点の執着から生じるということを覚えておかなければならないでしょう。

2015年12月24日木曜日

樹木と人

人は樹木に似ています。
それは、根を張り、幹を太らせ、枝を伸ばし、葉を茂らせ、花を咲かせ、果実を付けます。
人の根は魂です。
幹は肉体です。
枝は志です。
葉は知識です。
花は知恵です。
果実は成果です。
魂と肉体と志と知識と知恵と成果を以て、それは人を成すのです。
あなたはこれ等を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
あなたの根幹を成す魂と肉体を忘れてはなりません。
魂と肉体を大切にすることなく、人生を豊かなものにすることはできないのです。
魂は真理という大地に根差しています。
人は真理と離れてはなりません。
人が真理と離れることがなければ、魂は肉体に対して多くの栄養(力)を与えることができるのです。
根が張るほど、幹は太ります。
魂が真理と共にある時、肉体は健全を得ます。
それは、精神(心)と肉体(臓器)を良く働かせるのです。
肉体が働くことによって、志の枝が伸びます。
健全なる肉体を有しなければ、志の枝が伸びることはありません。
太い幹ほど、太い枝を有することができるのです。
健全なる肉体は、強い(大きな)志を育むのです。
それは、多くの知識の葉を茂らせます。
志を実現するためには、多くの知識が必要なのです。
知識が足りなければ、志を果たすことはできないからです。
多くの葉は、多くの花を導くでしょう。
知識の量によって、知恵の数は決まります。
知識の量に比例して、知恵の数は決まるのです。
しかし、すべての知識が知恵に結び付くとは限りません。
知識量を超える知恵は存在しません。
知恵とは、知識の範囲内にとどまるということを覚えておきましょう。
知恵の花は、成果の果実へと結び付きます。
ただし、すべての花が果実を付ける訳ではありません。
その知恵が人や社会や世界に貢献した時にこそ、成果として現れるのです。
即(すなわ)ち、花は昆虫や鳥などに貢献しなければ、果実を得ることが難しいのです。
真理の大地に落ちた果実は、やがて新たな芽吹きをもたらします。
それは、人が生み出した成果が、新たな時代を作ることと同じなのです。
そうやって、豊かさが増すのです。
すべての状態(能力)が機能しなければ、豊かな人生を築くことはできません。
根が弱くても、幹が弱くても、枝が弱くても、葉が弱くても、花が弱くても、果実が弱くてもなりません。
あなたは真理を意識し、魂を充実させましょう。
肉体を理解し、健全さを実現しましょう。
志を忘れず、挑戦し続けましょう。
知識を得ることを目的としなければなりません。
知恵を持つことは最高の喜びです。
成果は人を幸福にするでしょう。
現状のあなたは、どのような状態にありますか?
自分自身の状態を確認する必要があるでしょう。
人生が成果を結ばないのであれば、どこかにその原因があるのです。
それを逆算しなければなりません。
どこかに弱ってる部分があるはずなのです。
人生の幸福(意義)は人それぞれですが、それぞれが成果を実現しなければなりません。
林檎は林檎の果実を付け、蜜柑(みかん)は蜜柑の果実を付けなければなりません。
根も、幹も、枝も、葉も、花も、果実も違う姿ではありますが、違いを恐れてはなりません。
林檎は林檎、蜜柑は蜜柑で良いのです。
それぞれの幸福を実現させましょう。

2015年12月23日水曜日

受け取る力

人生は、因果の仕組みによって実現します。
人生が因果の仕組みを離れることはありません。
あなたは常に、原因に相応しい結果を受け取るのです。
原因に相応しくない結果を受け取ることはありません。
無知な者はそれを”奇跡”と呼びますが、知恵を以て見れば、この世界には”奇跡”などという幻想は存在しないことが分かります。
すべては原因によって導かれる当然の結果なのです。
結果に対する原因を理解することができないために、それを”奇跡”だと安易に呼ぶのです。
成り立ちを持たない結果など存在するでしょうか?
人が無知であるために、神秘は存在します。
しかし、神秘が”奇跡”ではありません。
すべてには、神秘的な成り立ちがあるのです。
”神秘的な成り立ち”という言葉は矛盾していますが、人の状態を現すためにはこのような矛盾の言葉を用いなければならないのです。
それは、人が無知によって矛盾を抱えているからです。
多くの人は矛盾を生きています。
しかし、当然の結果を”奇跡(偶然、奇遇、幸運、不運、災難など)”だと思う者は、自らの矛盾にさえ気が付かないのです。
そうして、無知が蔓延(まんえん)するのです。
無知は矛盾を生み出します。
矛盾は苦悩を導くのです。
人が無知を克服しない限りは、苦悩は続くのです。
無知を所有しているにも関わらず、自らを幸福だと思い込んでいるのは”奇跡”以外の何物でもないのです。
あなたは無知に注意しなければなりません。
矛盾に陥らないように努めましょう。
大切なのは”受け取る力”です。
理解力と言っても良いでしょう。
受け取る力が乏しければ、無知が克服されることはありません。
重要な価値観、考え方、生き方に出会っていたとしても、受け取る力が乏しければ、それを自分のものにすることはできないのです。
無知を克服するためには、知恵を実現する必要があります。
知恵を実現するためには、新たな価値観、考え方、生き方を吸収する必要があるのです。
自分自身に(内面的な)変化がなければ、知恵が実現することはないのです。
知恵とは、自分自身の(内面的な)事柄だからです。
すべての人は苦しみに会います。
多くの人はそれを苦しみとして受け取ります。
しかし、僅(わず)かな人はそれを喜びとします。
同じものを得ても、結果は違うものになるのです。
それは、受け取る力の差です。
人生は平等です。
”奇跡”を信じる無知な者にはそのようには映りません。
人生は違う形で平等であるにも関わらず、無知な者にはそのことが理解できません。
そのため、不平不満を吐くのです。
不平不満を吐いている者が、幸福を実現することができるでしょうか?
あなたはそのような者を支援したいと思いますか?
同じ商品を売っているとして、あなたは感謝する者と、不平不満を吐く者のどちらから買いますか?
知恵のある者と無知な者と、どちらを重要視しますか?
受け取る力に豊かな者と、受け取る力に乏し者と、どちらに話すでしょうか?
どちらと共に過ごすでしょうか?
受け取る力の強化なくして、人生の幸福は実現しません。
苦しみと共に生きて、どうやって幸福を実現するのですか?
苦しみと幸福が共存するでしょうか?
苦しみは、苦しいのです。
受け取る力が豊かであれば、それを苦しみとは思いません。
受け取る力が乏しいがために、それを苦しんでいるのです。
思い通りに進まないことが苦しみなのでしょうか?
考察しなければなりません。
受け取る力があなたの原因となります。
無知による誤解は問題を引き起こし、知恵による理解は幸福を導くのです。
人生がどうなるかは自分自身の事柄です。
人生を決定するのは、(多くの場合)受け取る力のレベルであるということを知りましょう。

2015年12月22日火曜日

吊り橋

あなたは学びに勤(いそ)しまなければなりません。
あなたは学びを離れてはなりません。
何かを学ぶということは、人生において重要なことです。
学ぶこと以上に重要なことは無いといっても過言ではないでしょう。
人は学びを得なければなりません。
それは、多様な考え方をもたらします。
多様な考え方は、あなたに多くの可能性を導きます。
多くの可能性は、あなたに豊かさと幸福をもたらすのです。
考え方が偏って一様であるのならば、可能性は制限されるのです。
考え方を持たない者は、可能性の乏しい人生を生きるでしょう。
それは、変化が少ない人生なのです。
人はそれに退屈します。
退屈は不安を生み出し、やがては苦悩をもたらすのです。
一様な考え方が苦悩を導くのです。
頑固な者が幸福を得るでしょうか?
柔軟に生きることができない者は、時代と共に滅びるでしょう。
人生は選択の連続です。
あなたは常に選ばなければなりません。
その選択によって、受ける結果が変わるのです。
一様な考え方は、一様な結果のみを導きます。
多様な考え方は、多様な結果を導きます。
多様な考え方を扱う者が、退屈を得ることはありません。
不安も苦悩も得ることはないのです。
多くの人が苦悩を得ているのは、考え方が偏っているためです。
人生とは時空間です。
それは、人の意識の状態を原因としています。
人は同じ世界に生きているように思えるでしょうが、本当にそうでしょうか?
同じ選択をしても、違う結果を受け取ります。
同じように行っても、上手くいく者と、上手くいかない者に分かれるのです。
なぜでしょうか?
それは、別の時空間に存在しているからなのです。
上手くいく者は、上手くいく時空間を所有しています。
上手くいかない者は、上手くいかない時空間を所有しているのです。
同じことをしても、人によって結果が異なるのは、所有している時空間が異なるためです。
時空間が異なれば、法則も異なるのです。
そのため、同じことをしても、同じ結果を導くことができるとは限らないのです。
人がどのような時空間を生きるかは、考え方に比例します。
その考え方が多様であるほどに、時空間は”密度”を高めます。
”密度”が高いほど、時空間内部の”繋がり”が増すのです。
それは、成果として導かれるに容易いのです。
時空間の”密度”が低く、その”繋がり”が少なければ、成果として導かれるのに難(かた)いのです。
これは、川を渡す(古典的な)吊り橋の板の数と同じです。
板の数が多ければ歩くのに容易く、少なければ歩くのに難いのです。
多様な考え方は、人生という吊り橋に多くの板を張るようなものです。
それは、吊り橋を安定させ、人の心にも安心をもたらすのです。
多様な考え方を所有している人の渡る吊り橋は、風雨に晒(さら)されても、それを問題とはしないでしょう。
一様な考え方を所有している人の渡る吊り橋は、多少の風雨によっても大きな問題となるのです。
人は、それぞれに別々の時空間を生きています。
それは、同じ川をそれぞれの吊り橋によって渡っているようなものです。
そのため、同じ世界に生きているように見えても、それぞれの人生は独立しているのです。
あなたが対岸(人生の目的、幸福)に渡るためには、多くの考え方が必要となります。
板(考え方)が足りなければ、どのように努めても対岸に辿り着くことはできないのです。
あなたは学びに勤しまなければなりません。
学ぶのは、考え方を得るためです。
学びの目的は、考え方を得ることにあると理解しておきましょう。
新たな考え方を得ることが目的であって、それ以上新たな考え方を得る要素がなければ離れましょう。
学びもないのに戯(たわむ)れている場合ではありません。
あなたには戯よりも重要な目的があるはずです。
忘れてはなりません。

2015年12月21日月曜日

実験

人生とは、無限の可能性を秘めているものです。
あなたは、無限の可能性と共に生きているのです。
あなたの可能性が有限であるということはありません。
あなたの価値観の中に収まるような小さな世界ではないのです。
あなたの信じられないようなことが起こります。
あなたが起こすのです。
あなたには、無限の可能性が与えられているのです。
決して、限定的に考えてはなりません。
価値観を周囲の人々に合わせる必要はありません。
人はそれぞれの価値観を抱けば良いのです。
それぞれが無限の可能性と共に生きるべきなのです。
有限の可能性の中から選ぶ必要はありません。
あなたは無限の可能性の中から選べるということを覚えておきましょう。
しかし、現状のあなたは有限的です。
現状のあなたにできることは限られています。
幼い子どもには難しい文章や数式を理解することはできません。
しかし、やがてはそれ等を簡単に理解することができるようにもなるのです。
現状においては限られた状態のあなたでも、可能性を信じて努めるのであれば、やがては制限を解除することもできるのです。
努めて得られない可能性があるでしょうか?
多くの人は有限の世界に生きています。
そのため、様々な事柄に関して、可能性を損ないます。
自分には出来ない、不可能であると決め付けるのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
才能に恵まれた者だけが誉(ほま)れを得るのでしょうか?
努力は報われないのでしょうか?
その答えは、あなた自身で確かめる必要があります。
あなたは、この言葉が真実であるかどうか?ということを、自力によって証明しましょう。
何事においても、その真偽を検証しなければならないのです。
初めから決め付けているのであれば、真偽を知ることはできません。
あなたは無限の可能性と共に生きなければなりません。
誰かにとっての結果と、あなたにとっての結果は違います。
誰かがそうなるからといって、あなたがそうなるとは限りません。
多くの場合、同じような結果に至るでしょうが、必ずしもそうではないのです。
あなたは人生を実験場と考えましょう。
すべては実験なのです。
同じ答えを導く実験ではありません。
あなたの答えを導く実験なのです。
多くの人が”知った気”でいます。
しかし、それは他人の得た実験結果を知っているだけです。
それは、決してあなたの実験結果ではないのです。
そのため、あなたは他人の実験結果を知っていますが、自分の実験結果は知らないのです。
細かいと思うかも知れませんが、大切なことなのです。
何を以て成功というのでしょう?
何を以て失敗というのですか?
あなたには成功であっても、他人には失敗であることがあります。
あなたには失敗であっても、他人には成功であることがあるのです。
それでもあなたは決め付けますか?
有限的に生きるつもりですか?
常識は、あなたの可能性から無限を奪います。
常識を大切にするのは良いことですが、常識に従うのであれば、あなたは可能性を失うのです。
あなたは人生において実験をしていると理解しましょう。
成功も失敗も曖昧(あいまい)です。
厳密にはこの世界に成功も失敗も存在しませんが、少なくともそれは、常識や他人としての成功ではなく、あなたにとっての成功でなければなりません。
人生とは、無限の可能性を秘めているものです。
あなたにはそれを引き出せるのです。
肩の力を抜いて生きれば良いのです。
人生を実験と考えましょう。
そうすれば、あなたは無限の可能性と共に生きることができるでしょう。

2015年12月20日日曜日

それぞれの真実

すべての人は真実を探し求めます。
それは、真実ことそがあなたを納得させ、満足させるからです。
すべての人は納得したいのです。
すべての人が満足を求めています。
そのため、真実を欲するのです。
しかし、真実を探しながらも、真実が何であるのか?ということには無頓着(むとんちゃく)です。
多くの場合、真実とは、自分に都合の良いものであるのです。
人は、真実を作り上げます。
事実と異なる状態であろうとも、それを真実に作り上げてしまうのです。
それは、都合の良い解釈によって、都合の良い立場を求めているからです。
そのため、多くの場合、自分にとって都合の良いものが真実となるのです。
多くの人は多くの場合、都合の良いものを真実として認め、都合の悪い真実を受け入れようとはしません。
それは、事実を歪める結果となり、真実からは遠ざかるのです。
真実とは相互的であり、多面的です。
それが一方的であるはずがありません。
人は真実を自分の立場によって定めます。
立場が変われば、正義が変わるように、真実も変わってしまうのです。
多くの場合、真実というものは一方的な解釈にとどまるのです。
そのため、この世界には多くの真実が存在しているのです。
人の数だけ真実が存在しているといっても過言ではないでしょう。
自分の都合の良い解釈によって、一方的な真実を振りかざすのであれば、人は偏った結果を受けることになります。
偏った結果とは、どちらか一方の手に重い荷物を持って歩くようなものです。
人は真っ直ぐに歩んでいるつもりでも、荷物を持つ方に引き寄せられ、結果として目的地には辿り着けないのです。
一方的な真実に陥ってはなりません。
あなたは、常に相互的、多面的に真実を探らなければならないのです。
自分の信じる真実は、自分の立場によって生じる幻です。
それは、有るようで無く、無いようで有るのです。
立場によって簡単に変化するものが、どうして真実なのでしょう?
どのような立場を以てしても通用するのが真実であるはずです。
しかし、人が立場を手放すことはできません。
この世界においては、すべての人が何等かの立場を持たなければならないのです。
そのため、中正(ちゅうせい)に位置し、中立であるということはできないのです。
あなたにできることは、何等かの立場を持ちながらも、その立場に偏らないように努めることです。
相手がどのような立場を持ち、そこから派生するのはどのような価値観であり、考えであり、行為であるのか?ということを意識し続ける必要があるのです。
真実は一つであると思い込んでしまえば、人は分裂を経験することになるのです。
あなたは立場を察しましょう。
それぞれに真実が異なるのです。
しかし、それぞれが真実を所有しています。
自分の真実が正しく、相手の真実が間違っているということはないのです。
それぞれの真実が、それぞれの立場によって正しいのです。
自分の立場であれば自分の答えが正しく、相手の立場であれば相手の答えが正しいのです。
そのことを理解する必要があるでしょう。
あなたが真実を求めるのであれば、愛を重視する必要があります。
真実を得るためには、愛の力が欠かせないのです。
愛とは、すべての存在を繋ぐ力です。
それは、何ものをも否定せず、すべてに共通します。
善人も悪人も、同じ愛を所有しているのです。
(善人と悪人は立場による幻)
あなたは愛によって、相互的、多面的な解釈を手に入れましょう。
一方的な解釈にとどまってはなりません。
真実が偏るはずがありません。
反論を受けるのであれば、それは”どこかに”一方的な解釈が有るということを理解しましょう。
真実であれば、反論を受けることはないのです。
それが真実であれば認められ、相互関係の中で熟成されることでしょう。
愛を以て、真実を探しましょう。

2015年12月19日土曜日

命の有る内に

あなたは命の有る内に行わなければなりません。
命を失ってから行っても、すべてが手遅れであるのです。
この世界に存在するすべてに命が与えられています。
それは、生物の所有する生命でもあり、無機 (化合)物の所有する命でもあります。
命とは、時間のことです。
それは、与えられた時間です。
時間を与えられることによって、命は活動を実現することができます。
時間を与えられなければ、命というものは成り立たないのです。
命は時間です。
時間を失えば、命を失います。
人は時間を大切にしなければなりません。
時間を大切にすることによって、命を大切にすることができるのです。
直接的に(掴み所の無い)命を大切にすることは難しいでしょう。
しかし、時間を大切にすることは容易です。
自らの選択(行為)によって有意義なものにすれば良いだけです。
有意義なものにするためには、満足する必要があります。
あなたは満足を得られるような時間の使い方をすれば良いのです。
それによって、命は活力を得るのです。
しかし、多くの人は命が有ることを知りません。
時間が与えられているということを当たり前だと思い込んでいるのです。
しかし、時間は限られています。
時間は瞬く間に過ぎ去ります。
そのために、すべての存在は気が付かない内に命を失うのです。
生命は活動を失います。
岩石であろうと、金属であろうと、知識であろうと、時代であろうと、すべてが命を失って滅びるのです。
命を持たないものなど存在しないのです。
多くの人が命の有る内に始めません。
気が付いた時には命を失っているのです。
命を失ってからそれを取り戻そうとしても無駄です。
失ったものを取り戻すことはできないのです。
屍(しかばね)に食物を与えて、何を得ようとするのですか?
屍は滅びるのみです。
それが再び生きることはありません。
なぜなら、命を失ってしまったからです。
すべては流転します。
命は既に死に向かって進んでいるのです。
それを食い止めることはできません。
しかし、それを有意義なものにすることはできるのです。
そのために、命の有る内に行わなければならないのです。
時を失う前に始めましょう。
何を始めるにしても、早いに越したことはありません。
それを実行するのに時を計ったとしても、それを計画、思案することにはできるだけ素早く取り掛からなければならないのです。
どのようなことに関しても、あなたは命を意識しておかなければなりません。
”旬”を見誤ってはならないのです。
何かを物にするためには、多くの時間と経験を必要とするのです。
原理を理解することにも多くの時間と経験が必要です。
それを思い通りに実現するためには、更なる時間と経験が必要となるのです。
一刻も無駄にする訳にはいかないのです。
時間を無駄にするということは、命を無駄にするということです。
ただし、誤解してはなりません。
これは、がむしゃらに忙しく動き回れと言っているのではありません。
休むことも、優雅に過ごすこと、何もしないことも重要です。
すべての時間に対して、満足を実現するように努めることが求められるのです。
あなたは命を損なってはなりません。
時間を失う前に始めなければなりません。
命を大切にしましょう。
有意義に過ごしましょう。

2015年12月18日金曜日

同時存在

この世界は有無を所有しています。
この世界に存在するすべてのものは、有って無く、無くて有るのです。
あなたはそのことを理解する必要があります。
しかし、この感覚を捉えることは容易ではありません。
なぜなら、多くの人は、有無を分けて考えるからです。
それが有ると思い込んでいる時には、それは有るのです。
そして、それが無いと思い込んでいる時には無いのです。
それは、時間が現在(今)にしか存在せず、過去と未来は存在しないというようなものです。
あなたは現在と同時に、過去と未来を所有しているのです。
あなたは現在において、過去のことを考え、未来のことを考えることができます。
過去の苦しみや喜びを味わい、未来についても同じです。
過去の経験と未来への志(こころざし)が、現在に知恵を導くのです。
過去と現在と未来は、同時に存在しているということが分かるでしょう。
すべては、有無を所有しています。
有無が離れることはありません。
離れるとすれば、それは、あなたの認識なのです。
あなたの認識の中だけで、有無が離れます。
それは、偏見という歪みを生じさせるのです。
有ると思い込んでいる人は、有るという可能性のみを追求します。
無いと思い込んでいる人は、無いという可能性のみを追求するのです。
しかし、すべてが有無を所有しているために、両方の可能性を所有しているのです。
そのため、人は常に有無という(大きく分けて)二つの可能性を追求する必要があるのです。
可能性は無限に存在しています。
一つの対象に対する印象は、人によって様々です。
正解を限定するのであれば、その対象は(認識によって)歪んでいることになります。
答えは十人十色であり、決して同じものにはなりません。
正しい人がいるでしょうか?
間違っている人がいるでしょうか?
立場によって見解が異なるのは当然です。
男と女は違う視点を持ちます。
大人と子ども、賢者と愚者、主人と僕(しもべ)、敵と味方・・・
それぞれの立場によって発生する見解のどれが正しいのでしょうか?
また、どれが間違っているというのでしょうか?
すべての見解が正しく、すべての見解が間違っているはずです。
正しい見解と、間違った見解を分けることなどできないのです。
そのため、すべての存在は有無を所有しているのです。
限定的に捉えてはなりません。
可能性は無限に存在しているのです。
決め付けてはなりません。
答えは一つではありません。
柔軟な発想が必要です。
この世界に正義などは存在しません。
この世界には悪など存在しないのです。
すべては幻想です。
この世界には、立場によって正義と悪が存在するだけなのです。
そのため、この世界に存在するとすれば立場だけなのです。
(ただし、立場も有無を所有する幻想である)
人は立場によって答えを変えます。
あなたの立場が変わった時、以前と同じように答えることができるでしょうか?
立場が変わったのであれば、答えを変える必要があるのです。
同じことを続けているのであれば、進歩はないのです。
有無を分けるような態度を続けてはなりません。
古い立場(価値観、思考、生き方など)に執着してはなりません。
有無を認めましょう。
すべての存在は、有って無く、無くて有るのです。
何度も繰り返して言わなければなりません。
すべてが”同時存在”であるということを覚えておきましょう。

2015年12月17日木曜日

知性の誉れ

人は知性を求めなければなりません。
知性とは、生きた知識のことです。
知性を得るためには、知識が必要です。
それは、肉体を形成する細胞や臓器のように重要な役割を果たします。
知識の基礎がなければ、知性が生じることはないのです。
知識が足りなければ、細胞や臓器の足りない肉体を得るようなものです。
それは、とても不自由です。
(何等かの障害や怪我を負っている人を卑下(ひげ)した意味ではありません。また、不自由が悪いという意味でもありません)
あなたがこの世界で自由に活動するためには、より多くの知識が必要となるのです。
あなたは知識を求めましょう。
それは、人の話(体験談、人生観、方法論など)を聞くことで得られます。
それは、書籍(筆者の英知)を求めることでも得られます。
それは、自分自身の考察によっても得られます。
知識は、それを求めるのであれば、どのような状況からも得ることができます。
とにかく求めることが重要なのです。
しかし、知識を求めるだけでは知性を得ることはできません。
多く蓄えた知識を知性に育むためには、志(こころざし)という力が必要なのです。
知識とは肉体のようなものです。
志とは生命なのです。
肉体と生命が協力することによって、人は世界に存在することができるのです。
どちらが欠けても自由を得ることはできません。
知識と志とが協力することによって、あなたは知性を得ることができるのです。
その知識は、何のために使われるのでしょう?
知識を使う予定の無い者は、知識を求めません。
知識を求めない者には志が無いのです。
そのような者が知性を得ることは不可能なのです。
人は主観の世界を生きています。
自らの認識を通した世界を生きることを強制されるのです。
誰もが、主観によって生きているのです。
世界は心を映します。
知性を得た者と、無知な者が生きる世界は違います。
無知な者は同じ世界を生きているように思うでしょうが、別の世界を生きているのです。
知性を得た者が、無知な者と同じように喜べるでしょうか?
幼い頃の喜びが、成熟した時にも続いているでしょうか?
いつまでも同じ遊びを喜べるでしょうか?
知性ある者は無知を嫌い、無知な者は知性を嫌うのです。
両者はコンプレックス(劣等感)によって反目します。
知性を得た者は無知に対して、無知な者は知性に対してコンプレックスを抱えているのです。
多くの場合、知性を得た者はより多くの知識を求め、無知な者は知識を憎みます。
そうして、互いの住む世界が離れるのです。
あなたは知識を求めなければなりません。
知性を離れた喜びというものが存在するでしょうか?
下劣(げれつ)な喜びがありますか?
喜びとは知性の誉(ほま)れです。
本来は、無知が所有する喜びというものは存在しません。
なぜなら、無知の誉れとは苦悩であるからです。
しかし、無知な者はそれを(無知によって)喜びとして享受(きょうじゅ)しているのです。
そのため、無知な者は必ず苦悩に会うのです。
この世界に苦悩に会わない人がいるでしょうか?
すべての人が苦悩に会うのです。
それは、すべての人が無知であるからです。
知恵を得たとしても、それはより大きな知性の前では無知に等しいのです。
そのため、あなたは常に知識を求め、知性を高めるように努めなければなりません。
学びを中心とした人生を築きましょう。
知識を得なければなりません。
手にした知識を殺してはなりません。
志によって、知識に命を与えましょう。
知性の誉れを喜びましょう。

2015年12月16日水曜日

楔と金槌

小さな力を侮ってはなりません。
小さな力は、やがて大きな力となります。
忘れてはならないのは、継続の効果です。
小さな力も、継続することによって大きな力としての効力を発揮するのです。
巨大な岩も、小さな楔(くさび)を打ち込むことによって砕けます。
小さな一打も、繰り返すことによって岩にダメージを蓄積させるのです。
楔の数が多いほど、打撃の回数が多いほど、岩が砕ける可能性は高まるのです。
砕くことのできない岩があるでしょうか?
岩が砕けるまで楔を打ち込み続ければ、必ず砕けるのです。
あなたが大きな対象を打ち砕きたいと考えているのであれば、小さな力を諦めずに継続することです。
今出来る一つ一つの努力を続けるのです。
それはいつか、大きな対象を必ず打ち砕きます。
大きな対象との”差”は大きいものと思うでしょう。
あなたにはどうすることもできないと感じるかも知れません。
しかし、それは努力の継続によって縮まるものなのです。
あなたは信じなければなりません。
天から降る雨粒が川となって山を削るように、海底から湧き出るマグマが島を作るようにです。
それは、途方もない努力の継続かも知れません。
しかし、続けることによって雨粒は谷を作り、マグマは島を作るのです。
これは”奇跡”などではありません。
すべては継続の力なのです。
あなたには大きな力がありません。
人間には大きな力など与えられてはいないのです。
あなたにできることは小さな力を振り絞ることだけです。
それは、何の影響力もありません。
小さな力であっては、世界を変えることはできません。
しかし、それを懸命に継続するのであれば、それは大きな影響力となり、やがては世界を変えるのです。
世界とは、あなたの人生です。
あなたは自力によって人生を変えることができます。
小さな自力の積み重ねです。
問題は大きな壁のように思えるかも知れません。
多くの人は問題を前にして途方に暮れます。
その壁が大き過ぎて、越えられないと思っているのです。
しかし、拳であってもそれを打ち続けるのであれば、貫(つらぬ)くこともできるでしょう。
少しずつ登っていけば、やがては乗り越えることができるのです。
無理だと思っていることも(理想通りとはいかないが)実現するのです。
焦りは禁物です。
一度や二度の挑戦によって、できないと考えてはなりません。
成功するまで続ければ、必ず成功するのです。
多くの人は小さな力の価値を知りません。
そのために、すぐに諦めてしまうのです。
継続しなければなりません。
夢は実現します。
それは、あなたが小さな力を持っているからです。
あなたには、力がない訳ではないのです。
小さくても、力があれば幸いです。
あなたには、それ以上の力は必要ではないのです。
それは小さな力かも知れませんが、今のあなたにはそれが精一杯なのです。
小さな力が相応しいのです。
それを使えば良いのです。
この世界において、必要以外を与えらえることはありません。
あなたの小さな力は、あなたの”今”を実現させるために十分な力です。
一度で届かなければ二度、二度で届かなければ三度・・・
何千、何万・・・
このように何度でも挑めば良いのです。
継続の力を侮ってはなりません。
すべては継続によってもたらされるのです。
巨岩を打ち砕くためには、小さな楔と金槌(かなづち)さえあれば良いということを覚えておきましょう。
言い訳を並べ立ててはなりません。
条件が整うのを待っているのであれば、いつまで経っても何も実現しないでしょう。
今すぐに、巨岩に楔を打ち始めましょう。
出来ることをしましょう。

2015年12月15日火曜日

成長させる力

あなたは、苦しみを無駄にしてはなりません。
苦しみを嫌ってはならないのです。
なぜなら、苦しみはあなたにとっての学びとなり、あなたを成長させる力だからです。
苦しみを受け入れない者には成長はありません。
なぜなら、人は苦しみに合わなければ気が付かないからです。
気が付くことがなければ、成長することはできません。
成長とは、気付きを得るということだからです。
多くのことに気が付く人こそが、成長した人と呼ばれます。
あなたはより多くのことに気が付かなければなりません。
それは、真理に対して気付くのです。
成長するということは、真理に近付くということを覚えておきましょう。
苦しみは真理です。
なぜなら、それはこの世界のどこにでも存在しているからです。
この世界において、最も多く存在しているものは何でしょうか?
あなたはそれが苦しみだとは思いませんか?
世界に蔓延(まんえん)しているものは苦しみではないですか?
あなたの心の中に多く存在するものは苦しみではないでしょうか?
世界には多くの苦しみが存在しています。
あなたの心の中にも、多くの苦しみが存在しています。
あなたはそれを否定することができますか?
この世界から、人の心の中から苦しみが消えるでしょうか?
それが真理であるために、世界からも、心の中からも苦しみが消えることはないのです。
一つの苦しみが滅すれば、新たな苦しみが生じます。
人は苦しみと生涯を通じて付き合わなければなりません。
それは、人が生涯を通じて成長する必要があるからです。
苦しみを逃れる人はいません。
どのような立場の人物であろうとも、その人なりの苦しみがあるのです。
それを比べることはできません。
あなたよりも大きな苦しみを抱えている人はいません。
そして、あなたよりも小さな苦しみを抱えている人はいないのです。
誰もが苦しみを抱えています。
しかし、多くの人はそれを否定します。
それは、苦しみが真理であること、それが成長させる力であるということを知らないからです。
無知は世界を歪めます。
苦しみを否定する人は、無知を抱えているのです。
無知が苦しみであるということを知らずに、それを大切に抱えているのです。
この矛盾は、無知によって生じるのです。
あなたは気が付かなければなりません。
苦しみこそが、あなたに気付きを与え、成長を実現してくれる宝なのです。
苦しんだ人ほど力を得ます。
苦しんだ人ほど豊かさを得るのです。
しかし、苦しみに耐えるだけでは力を得ることも、豊かさを得ることもできません。
なぜなら、苦しみを力に変換することが求められるからです。
与えられたものを何の考えも無しに飲み込んではなりません。
それは、調理もせずに毒を持つ果実を食らうようなものだからです。
調理することによって毒を取り去れば、あなたは成長の糧(かて)を得ることができるのです。
多くの人が苦しみを誤解しています。
あなたは偏(かたよ)らずに見ましょう。
苦しみを苦しいという視点から眺めてはなりません。
苦しいという視点と同時に、その意味を見出す視点を持たなければなりません。
この世界に無意味なものは存在しません。
それが、あなたにとっての苦しみであろうとも、それは重要な役割を持つ大切なものであるのです。
苦しみを力に変えることができる者だけが幸福と豊かさを得るでしょう。
”当たり前”を受け入れてはなりません。
多くの人がそのように考えるからといって、それに従ってはなりません。
あなたは真理に従うべきです。
人に従ってはなりません。
なぜなら、人は無知であるが故に間違っているからです。
見極めましょう。

2015年12月14日月曜日

生まれ持った宝

生まれを嘆(なげ)く必要はありません。
それは、あなたに相応しいからです。
それは、あなたの宝となり、あなたに幸福をもたらすでしょう。
しかし、多くの人は生まれを嘆きます。
自分のことが気に入らないのです。
そこで、多くの人は自分を否定します。
自分ではない誰かに憧れ、その誰かに成ろうと考えるのです。
しかし、それは、人を幸福にするでしょうか?
自分を否定し、自分でない何者かに成るということで、人が幸福を得られるのでしょうか?
あなたは深く考えなければなりません。
すべての人は、役割を以て生まれたのです。
この世界に無駄は存在しません。
不要なものが存在しない世界において、そのような人は存在しないのです。
すべての人が、この世界に必要な役割を担っています。
この世界に必要な役割とは、目立つようなものとは限りません。
著名(ちょうめい)な者が優れているのではないのです。
多くの富を生み出す者が優れているのでもありません。
自らに与えられた役割を果たす者が優れているのです。
人は、その生まれに従って行わなければなりません。
持って生まれたものを否定してはならないのです。
必要であるために、それを与えられたのです。
それは、あなたの役割を果たすのに役立ちます。
しかし、多くの人は自らの役割を知りません。
そのため、安易に否定するのです。
気に入らないという理由で否定しても良いのでしょうか?
それは、有益な選択であるのでしょうか?
気に入らないという理由で否定しているのであれば、この世界には何も残りはしないのです。
自分を気に入らない者は、他の何も気に入ることができません。
なぜなら、すべては自分から生じるからです。
原因は常に自分自身にあるのです。
自分のことさえ気に入らない者には、何も気に入るものなどないのです。
そのため、気に入らないという理由で否定することは、愚行であるということを理解する必要があるのです。
多くの人は生まれを嘆きます。
生まれを否定することによって、幸福が得られると考えているのです。
それによって、地上の富を得ることはできるでしょう。
生まれを否定することによって、金銭や地位や名誉を手にすることはできるかも知れません。
しかし、それは生まれた意味を否定することに繋がるのです。
生まれた意味を否定するということは、生まれた意味を果たさないということです。
生まれた意味を知らずに生きることで、あなたは幸福を得ることができるのでしょうか?
生まれ持った役割を果たすことなく、あなたは幸福なのでしょうか?
深く考える必要があります。
地上の富をどれだけ手に入れても、あなたの心が満たされるでしょうか?
金銭や地位や名誉を集めるだけ集めて、その後にどうするのですか?
そのようなことで幸福なのですか?
あなたの幸福とは、その程度のことなのでしょうか?
生まれを嘆いてはなりません。
それは、あなたに相応しく、あなたに必要です。
あなたの問題を改め、あなたに悟りを得させます。
生まれ持ったすべては、あなたの糧(かて)となるのです。
誤解してはなりません。
”わたし”は我慢しろと言っているのではありません。
それに止まれと言うのではないのです。
自分を否定してはなりません。
どのようなコンプレックス(劣等感)も役に立つと言っているのです。
受け入れましょう。
生まれは、あなたの宝となります。

2015年12月13日日曜日

境地

人生は道です。
あなたはそれを進み続けなければなりません。
進むことによって、幸福という目的地へと近付くことができるのです。
道を進むためには、一歩を踏む出す必要があります。
一歩一歩がの歩みが積み重なることによって、人は道を進むことができるのです。
人生を”足”で歩むことはできません。
どれだけの距離を歩いたところで、道を進んだことにはならないのです。
どれだけの期間生き長らえたとしても、それだけでは進んだことにはならないのです。
人生とは、生存競争ではありません。
長く生きたところで、道を進んでいなければ無益なのです。
短い生涯であったとしても、その歩数が多い方が優れているということを理解しましょう。
大切なのは、どれだけ道を進んだか?ということです。
人生における歩みとは、考え方のことです。
新たな考え方が、一歩となるのです。
新たな考え方を習得することによって、あなたは人生という道を進むことができるのです。
考え方に変化がなければ、道を進むことはできません。
歩まないのだから、景色は変わらないのです。
時の経過に従って肉体は衰えます。
そして、環境や状況は変わっていきます。
多くの人は、それを変化だと思い込むのです。
しかし、それは周囲が変わっているに過ぎません。
自分自身には何の変化もないのです。
しかし、錯覚によって変化していると思い込みます。
その誤解が、人を過去のものにするのです。
老いさらばえるだけでは、道を進んだことにはなりません。
道を進んでいなければ、尊敬を得ることはありません。
若くして道を進んだ者がいます。
年老いて道を進んでいない者がいます。
若くして、知恵に満ちて豊かに生きる者がいます。
年老いてまで、無知にまつわられ、乏しく死ぬ者があります。
虚しく生き長らえることを人生だと考えてはなりません。
知恵もなく、希望もなく、志もなく存在してはならないのです。
あなたは道を進み、多くの人の指標となる必要があるのです。
迷いの生存を続ける愚かな者たちが、知恵と希望と志を以て道を進むことができるようにしなければならないのです。
新たな考え方に触れましょう。
それは、あなたの歩みとなります。
勤勉でありましょう。
あなたの学びが尽きることはありません。
生きるということは、知恵を増すということです。
すべての人が異なる考え方を所有しています。
あなたはその違いに触れなければなりません。
異なる考え方を吸収し、自らの考え方をより豊かなものにしていかなければならないのです。
考え方の豊かな者は、豊かな選択によって、豊かな状況と豊かな環境を手にすることができるのです。
歩みを得ず、その場で足踏みしている者には、それ以上の豊かさは与えられないのです。
足踏みを続けているのであれば、その景色に退屈し、やがては苦悩を覚えることになるでしょう。
新たな考え方によって、あなたは一歩を踏み出しましょう。
同じ景色を楽しむことはできません。
あなたが苦悩を覚えているのであれば、それは考え方が停滞しているということです。
難しいことは何もないのです。
他人の考え方を吸収し、自らの考え方をより良いものにすれば良いだけです。
目の前の人の考え方を尊重しましょう。
自分よりも優れていると思う考え方を参考にしましょう。
考え方には、人生を先に進める力があります。
先のことを知る必要はありません。
未来のことを考えても、そのようにはなりません。
知り得ないことにエネルギーを費やしてはなりません。
新たな考え方を吸収することは確実です。
確実なことを行えば良いのです。
多くの考え方に触れ、それを吸収するように努めましょう。

2015年12月12日土曜日

違和感を友として

真実を見極めることができなければ、あなたは道を踏み外してしまうでしょう。
あなたの求めている幸福は、道の先にあります。
道の先にある目的地こそが、幸福を得させるのです。
道を進まなければなりません。
あなたはそれを真っ直ぐに進まなければならないのです。
道を踏み外せば、幸福という目的地には辿り着くことができません。
幸福に辿り着くことができなければ、幸福を得ることはできません。
それは、幸福以外の場所に辿り着くことになるからです。
幸福以外の場所とは、空虚(くうきょ)や苦悩、そして、争いなどです。
あなたがそれ等に会わず、幸福を求めるのであれば、道を踏み外してはなりません。
道を真っ直ぐに進まなければなりません。
真っ直ぐに進むためには、純粋さ、誠実さ、堅実さ、謙虚さ、賢明さが求められます。
それ等を失った者が、道を真っ直ぐに進むことはありません。
それ等を失った者は、必ず道を踏み外すのです。
しかし、道を住み外した者は、多くの場合そのことに気が付きません。
いつまでも、自分が正しいと思い込み、踏み外してからしばらく経って、漸(ようや)くそのことに気が付くのです。
気が付いた時には思わぬ遠くに行き着き、更に険しい帰り道を行かなければならないのです。
すべての人が未熟であるために、人が道を真っ直ぐに進むことは至難です。
すべての人が道を踏み外し、幸福ではない目的地へと向かって進むのです。
”わたし”が求めるのは、できるだけ早く気が付いて欲しいということです。
あなたに間違えるなとは言いません。
道を踏み外さずに歩けというのは不可能なのです。
不可能なことを要求することはありません。
ただ、気が付いて欲しいのです。
あなたが道を踏み外した時には、それを違和感によって知ることができるでしょう。
あなたは違和感を軽んじてはなりません。
あなたは必ず合図を受けます。
その合図によって、自らが道を踏み外しているということに気が付くことができるのです。
それは、違和感によって知らされます。
それは、微かであって、違和感とも思えない感覚かもしれません。
しかし、あなたが道を踏み外している時には、必ず何かしらの違和感を覚えるのです。
普段から、自らに意識を傾けない者には認識することは難しいでしょう。
あなたは、普段から自らに意識を傾けておきましょう。
あなたの真は何ですか?
それは、心の底から求めるものです。
真に大切なことは何ですか?
真に実現したいことは何ですか?
真にやらなければならないことは何ですか?
真の宝とは何でしょうか?
真を行けば、幸福に辿り着くことができるでしょう。
真を離れ、真っ直ぐ進むことさえ怪しければ、あなたが幸福に辿り着くことはできないのです。
単純なことですが、それは簡単なことではないのです。
多くの人が道を踏み外します。
それは、違和感に従わないからです。
多くの人は状況に流されるように生きています。
例え違和感を感じていようとも、それを蔑(ないがし)ろにするのです。
それは、違和感に従って生きることは大変だからです。
流されるように生きることは簡単です。
多くの人は楽な道を選びます。
それが、幸福に辿り着くための道であると本気で思い込んでいるのです。
真っ直ぐに進むということは、受け入れるということです。
困難にあっても、それを乗り越えて進むのです。
真っ直ぐに進むためには、否定することはできないのです。
崖があればよじ登り、川があれば泳ぎ、谷があれば橋を架けるのです。
真っ直ぐに進むことは簡単ではありません。
しかし、それが大きな成長と豊かさを導くでしょう。
否定することの違和感を理解しましょう。
楽を選ぶ違和感を理解しましょう。
”当たり前”の違和感に気が付きましょう。
あなたの道に真っ直ぐでなければ、それは違和感として現れます。
他人と同じことはないのです。
そのため、比較はできません。
違和感を友として、真っ直ぐに道を進みましょう。

2015年12月11日金曜日

新鮮な経験

人にはそれぞれの役割が与えられています。
それは、独自の考え方を生みます。
独自の考え方は、独自の価値観を形成します。
独自の価値観は、それぞれの立場を隔(へだ)てるのです。
人は、それぞれの役割に因(ちな)んだ立場を所有します。
人は、それを離れることはできません。
そのため、人はそれぞれの立場を離れることをせず、その価値観を捨てることができないのです。
それは、強情を導きます。
人は、それぞれの役割を果たそうとしているのです。
そのために、強情になり、頑固さは増すのです。
人は、他人の意見を受け入れることができません。
それがどのように合理的な意見であっても、簡単には受け入れません。
なぜなら、人は自らの立場と、そこでの役割を守ろうとするからです。
それは、無意識の内に行われます。
それが、自我と呼ばれる歪みを導くのです。
人にはそれぞれに役割が与えられ、それを果たす必要があります。
しかし、自分自身がそのままの状態では、それを果たすことはできません。
すべての人が未熟な状態から始めなければなりません。
未熟な状態のままでは、自らの役割を果たすことはできないのです。
そのため、人は努めて経験し、自らを高めなければなりません。
知識と技術を磨き、知性を高め、人格を育まなければならないのです。
そのためには、自らの役割に執着し過ぎるのは好ましくないのです。
自らの役割を果たそうとすることは良いことです。
しかし、それに特化するあまり、未熟さを克服することができずにいることは問題です。
専門性を高めるためには、専門的であってはならないのです。
道を進むためには、他の道を知る必要があるのです。
例えば、花屋を営むためには、花の知識だけがあれば良いという訳にはいきません。
営みとは、”連動”だからです。
一つの知識を用いても、決して上手くは進まないのです。
花屋が花屋としての役割を果たすためには、花の知識に直接的な関係を持たない知識(経営(理念、手段)、法律、時代(社会学)、環境(競合、立地)、状況(資金、運用)、心理(接客、人間関係)、美術(レイアウト、ムード)などの知識)を必要としているのです。
人にはそれぞれの役割が与えられています。
それは、人生という場所においての役割です。
あなたは自らの役割を果たさなければなりません。
それは、金銭を集める役割やサバイバルに限ったことではありません。
それは、あなたの生まれた意味です。
それを果たさなければならないのです。
意地を張り、自我を貫いたところで、専門性は高まりません。
あなたが生まれた意味を果たすためには、受け入れなければならないのです。
あなたの興味に関係のないことも、学ぶ必要があるのです。
あなたの直接的な利益に関係しないことにも努めなければならないのです。
別の道を知ることによって、道を生きることができます。
他人の意見を受け入れることによって、あなたは知恵を増すことができるのです。
他人の意見を受け入れない者が、知恵を増すことはありません。
学習意欲に乏しい者は、自らの役割を果たすことはできないのです。
誰の意見なのか?ということは重要ではありません。
その意見が真理に沿った本質的なものであれば良いのです。
人は立場を基準として考えるために、その判断が歪んでいるのです。
そして、意見が誰から出たのか?という無価値な価値に執着するのです。
何が重要なのか?ということを考えなければなりません。
小さな世界に引き籠(こも)っているのならば、人は専門性を失い、人生の意味をも失ってしまうのです。
あなたは多くを学ばなければなりません。
同じ範囲であっては、学びは限られるのです。
別の範囲には、多くの刺激(違い、気付き)が存在しているのです。
隣の家で夜を明かせば、あなたは多くのことを学ぶでしょう。
それは、あなたをより”あなた”に近付けます。
新鮮な経験によって未熟を克服するのです。
役割に因んだ立場に執着してはなりません。
広く学びましょう。

2015年12月10日木曜日

無能

この世界に無駄があるでしょうか?
あなたは無益なものを知っていますか?
これまでに、何の役にも立たないものがあったでしょうか?
深く考えなければなりません。
あなたが深く考えた時には、この世界に無駄がないということに気が付くはずです。
なぜなら、この世界には無駄は存在しないからです。
しかし、多くの人は無駄を知っています。
なぜでしょうか?
それは、立場を所有しているからです。
人は、立場を所有することによって視点(価値観)を固定し、偏見を所有します。
偏見は、物事の側面を見ることには優れていますが、本質を見極める力はありません。
偏見によって、人は物事の一面を見るために、無駄が存在するという錯覚を得ることになるのです。
偏見を所有しなければ、側面に拘(こだわ)る必要はなくなります。
あなたが立場を所有していないのであれば、本質を見極めることもできるでしょう。
立場を重視する人には、本質を見極めることはできません。
偏見をどれだけ探求しても、それは側面でしかないからです。
一面をどれだけ研究しても、全体という本質を理解することはできないのです。
主観から離れ、客観的に眺めなければ知ることができないことは多いのです。
多くの人は主観によって狭い範囲を見つめています。
狭い範囲をどれだけ見つめても理解には及びません。
大切なのは、無駄などないとする考え方です。
無駄を考えている人は、自らの所有する主観や方法が正しいと思い込んでいます。
その結果、”無駄”を生み出してしまうのです。
この世界に無駄は存在しませんが、保留は存在します。
無駄だと思い込んで諦めたものは、そのままの状態で保留されます。
それは、種を所有しているものの、それを蒔(ま)かずに保存しているようなものです。
種は水を得れば実りをもたらしますが、保留しているためにそうはなりません。
これが”無駄”であるのです。
あなたには努めたいと感じることがあるでしょう。
理由が分からなかったり、豊かさに繋がらずに悩んだり、苦しいけれど続けてしまう・・・
それ等は利益に直結しないために、無駄であるように思えます。
周囲の人達は、あなたの努力を嘲(あざけ)るかも知れません。
しかし、あなたは努めたいと感じることを続けなければなりません。
現状に役に立たないことであっても、将来には役立つものです。
船は山では役に立ちませんが、海では重宝するのです。
時代や環境、状況の変化によって、努力が報われるのです。
あなたが努めたいと感じることは、いつかどこかで必ず役に立つのです。
船を作っているのならば、海に行く時が来れば必ず役立つのです。
この世界には無駄は存在しないのです。
偏見を離れなければなりません。
あなたは努めたいと思うことを諦めてはなりません。
目先の利益を追い求めてはなりません。
なぜなら、本当に大切なものを見失うからです。
現代に通用することも、次代に通用するとは限りません。
現代には通用することがなくても、次代に通用すれば良いのです。
長い目で見る時、この世界には何の無駄も存在しません。
塵(ちり)の一つでさえ、”神”の子どもなのです。
人間には役に立たない塵も、微生物には重宝するものなのです。
偏見は本質を失わせます。
この世界に無駄が存在すると考えてはなりません。
それは、あなたから光を奪い、暗闇で道に迷わせます。
暗闇を行くために足を踏み外し、転落するのです。
無駄を認めなければ、あなたは光に照らされるでしょう。
その道に暗闇は存在せず、有意義なものとなるでしょう。
この世界に無駄があるでしょうか?
それは、”神(真理)”が無能であると主張することです。
本当にそうでしょうか?
”神”とは、この世界そのものです。
この世界は無能なのでしょうか?
深く考えなければならないでしょう。

2015年12月9日水曜日

独自性

誰もが、自分の人生を手にする必要があります。
それぞれの幸福に従った人生を実現する必要があるのです。
それぞれに幸福の形は違います。
それは、それぞれの目的と、それに必要な能力や立場が違うためです。
あなたには、あなたの幸福の形があるのです。
それを他人と共有することはできません。
同じようなものであっても、それは違うものなのです。
鍵は同じような形状ではありますが、少しの違いによって扉を開けることはできないのです。
それと同じように、少しの違いによって、幸福の実現というものができないのです。
多くの人は自分の人生を手にすることを考えていません。
幸福にはなりたいとは思っていますが、何によって幸福を実現するのか?ということは考えていないのです。
そこにはただ、漠然とした幸福への希望があるだけなのです。
それでは、幸福を実現することはできません。
希望を語るだけで具体性がなければ、それは、何も語っていないことに等しいからです。
大切なのは独自性なのです。
他者と同じことが優れているのではありません。
それでは、変化に乏しい世界が実現してしまいます。
変化に乏しい世界において、あなたは幸福が実現すると思いますか?
変化に乏しいということは、刺激が乏しいのです。
毎日、毎日、同じことの繰り返しによって、あなたは本当に幸福を得られるのでしょうか?
同じような考え方、生き方の人たちと共に過ごすことに、幸福を見出すことができるのでしょうか?
あなたは考えてみなければなりません。
独自性という違いが重要なのです。
しかしながら、多くの人は他者と違うことを恐れています。
周囲の目が気になり、独自性を発揮できないでいるのです。
そして、独自性を発揮するということは、自力によって道を切り開くということでもあります。
それは決して簡単なことではありません。
多くの人と同じような幸福を求めるのであれば、何も考える必要はありません。
周囲の人達と同じように振舞っていれば良いだけだからです。
誰かが始めれば同じように始め、誰かがやめれば同じようにやめれば良いのです。
それが本当に幸福なのでしょうか?
違う鍵では扉は開きません。
違う鍵によって扉を開けようとどれだけ努めても、それが実現することはないのです。
他者の真似事であっては、決して幸福は実現しないのです。
なぜなら、それは、自分の人生ではないからです。
他者を真似ることによって、あなたは自分自身を裏切ることになります。
他者を学ぶことは良いことですが、他者であってはならないのです。
これは、あなたの人生なのです。
それを実現するためには、自分とは何なのか?自分の幸福の形とはどのようなものなのか?ということを知る必要があるのです。
自分の幸福の形を知ることもなく、それを実現することはできません。
それは、設計図も無いのに機械を組み立てるようなものです。
部品は膨大です。
それをどのように組み合わせれば力を発揮するか、あなたは知っていますか?
膨大な部品も、力を発揮することがなければ鉄屑(てつくず)に変わりないのです。
多くの知識も、自分の人生に役立てられなければ苦悩の原因となるでしょう。
自分の人生ではないもののために、力が使われてはならないのです。
あなたは自分の人生、自分の幸福の形を知る必要があります。
それは、あなたしか知りません。
あなたは自身の心に聞かなければなりません。
何の苦もなく打ち込めること、何があっても続けられることこそが、あなたの独自性です。
それが、他者とは大きく違っていても、同じようなものであっても構いません。
鍵の形状はそれぞれに違うのです。
シリンダー錠型、南京錠型、デジタルキー型・・・
細かく分ければ更に多くなるのです。
しかし、すべてが鍵であり、それぞれの役割にはそれほどの違いはないのです。
人の幸福にはそれほどの違いはありません。
しかし、細かく見れば大きく違うのです。
それぞれが独自性を発揮し、自分の人生を生きましょう。
そして、それによって、あなたの幸福の扉を開けましょう。
自らの幸福の扉を開けない限りは、本当の幸福は実現しないということを覚えておきましょう。

2015年12月8日火曜日

季節

”わたし”は初め、あなたに多くを与えます。
それは、あなたには抱えきれないほどの豊かさです。
あなたはそれに満足し、多くの喜びを覚えるでしょう。
あなたは栄(さか)え、それは永遠のように感じます。
なぜなら、繁栄は長らく続くからです。
しかし、次に”わたし”はあなたから奪います。
あなたの繁栄はそこで終わるのです。
あなたは豊かさを奪われます。
後に残るものは荒廃(こうはい)です。
あなたはその理由を知らず、多くの苦悩を覚えるでしょう。
あなたは貧(ひん)し、それは永遠のように感じます。
なぜなら、貧困は長らく続くからです。
しかし、それは永遠ではありません。
次に”わたし”はあなたに少しだけ与えます。
失った状態から得る恵みは、以前に比べて少量であったとしても満足のいくものです。
あなたは少しの恵みを大きく喜ぶでしょう。
あなたはその恵みの大切さ、有り難さを学ぶのです。
潤っている時の飲料は腹に苦しく、乾いている時の飲料は腹に喜びなのです。
少しの恵みに喜ぶことによって、本質を知ることができます。
”わたし”の願いはいつの時も同じです。
それは、本質を理解することです。
それ以外を望んだことはありません。
あなたには、本質を理解して欲しいのです。
少しの恵みに喜ぶことができた者には、初めのように多くを与えます。
それは、初めに受けた時よりも、多くの喜びをもたらすのです。
あなたはそれに満足し、繁栄は長らく続きます。
しかし、”わたし”は再びあなたから奪います。
それは、心に傲慢(ごうまん)が生じるためです。
不足からの満足によって、人は謙虚さを失います。
それが自力によるものであると誤解するためです。
そのため、奪う必要があるのです。
あなたは再び貧し、それに苦悩するのです。
しかし、”わたし”は再び少しだけ与えます。
あなたは以前にも増して感謝することでしょう。
時代を見なさい。
それは繰り返します。
今あることは昔にもありました。
過去は未来であり、未来は過去であるのです。
それ等は同じものであるのです。
人生は螺旋(らせん)を描きます。
繰り返しは、向上の証です。
同じように見えても、それは一段上の繰り返しなのです。
季節が繰り返すことと、人生が繰り返すことは同じです。
畑に種を蒔き、それを育て、収穫し、土を肥やし、種を蒔く・・・
これが人生なのです。
繰り返すのは足りないからです。
あなたは常に不足しています。
”わたし”はあなたに満足しません。
それは、あなたの口が満足しないようにです。
あなたは繰り返さなければなりません。
その中で向上するのです。
本質を得ましょう。
すべての状態を好意的に捉えなければなりません。
否定的に捉えるのであれば、あなたは”季節”を歪めてしまうでしょう。

2015年12月7日月曜日

実質的な貢献

すべての人は、世界に対して貢献しなければなりません。
これは強制ではありません。
しかし、誰もがそれを望んでいるはずです。
大切なものを守るためには、世界に貢献する必要があるからです。
すべての人が世界に貢献した時、そこに脅威が存在するでしょうか?
貢献することがないために、脅威が発生するのです。
誰もが世界の幸福を考え、行動するのであれば、脅威など存在するはずがないのです。
苦しいこと、辛いこと、嫌なことはあるでしょうが、それが脅威となることはないのです。
苦しみも、辛さも、嫌なことも、大切なものを守るための動力となるからです。
陰陽すべてが必要です。
人が世界に貢献する時には、陰陽すべての力が動力として働くのです。
貢献とは、建設的な作業であり、それは建設的なエネルギーです。
建設的に創造するのであれば、苦悩が脅威となることなどないのです。
人生をどのようなものにするかは自分次第です。
あなたの意思によって、どうするかを決めることができるのです。
世界に貢献しようとすれば、人生は輝きを放ち、希望に満ちたものとなるのです。
しかし、世界に対して貢献することをせず、自分勝手に利を貪(むさぼ)っているのであれば、その行為の故(ゆえ)に苦しみに会うのです。
あなたが大切なものを守りたいと考えているのであれば、世界に対して貢献することを考えていましょう。
大きなことをする必要はありません。
あなたにできること、それも、今すぐにできることから始めれば良いのです。
できることを実行することが貢献なのです。
できることをしない者がいます。
そのような者が世界に貢献することなどできないのです。
実質こそが事実なのです。
見せ掛けは通用しません。
人生は実質を反映するのです。
どのように立派な言葉を並べ立てても、そこに行為という実質が伴っていなければ、貢献したことにはなりません。
人は生み出す(行動する)ことによってのみ、実質を実現するのです。
あなたは実質的に貢献しなければなりません。
どのようなことでも構いません。
しかし、懸命に行わなければなりません。
人助けは、最高の貢献です。
しかし、その人を助けるためのあなたの力添えの判断は、相手に任されています。
相手がそれを許可しなければ行えません。
あなたが苦しんでいる人を助けたいと思っても、相手がそれを求めなかったり、許さなければ行うことはできないのです。
多くの人は、貢献する気持ちが焦り、相手の許可を得ようとはしません。
そして、強要という形に至るのです。
それは、決して貢献などではないのです。
人助けであれば、相手に感謝されてこそ貢献であるのです。
どれだけの強い気持ちで人を助けたいと思っても、それを求め、許す相手がいないのに、その方法に執着してはなりません。
今できることをするのです。
助けを求め、それを許す人が目の前にいないのであれば、あなたはその気持ちを自分自身に向けるようにしましょう。
助ける相手がいない場合は、自分自身を助けるのです。
それは、貢献するために自身を成長させるということです。
助ける相手がいないのに、助ける相手を探してはなりません。
あなたが成長すれば、あなたの助けを求め、それを許す人が必ず現れるからです。
あなたにその状況を導くのは”神”です。
あなたは焦る気持ちを抑え、自身の成長のために与えられた時間と労力を使いましょう。
その時に成長することができなければ、貢献する機会を失うことになります。
成長しなければ求められず、許されないのです。
これは、どの世界においても同じことです。
あなたが頼りにする相手がどのような人物であるか?ということを考えれば明白です。
力のある者を頼りにするでしょう。
力は、自力によります。
時間と労力を余らせたり、成長に対して関係のないことに使ってはなりません。
(厳密には、成長に関係の無いものはないが、関係性の弱いもの。例えば、悪口や暴力、怠慢や乱心などである)
誰も求めず、誰も許さない時には、自身を深く掘り下げましょう。
あなたが成長することが(後の)世界の貢献に繋がります。
無駄な時間も労力も存在しないのです。
あなたはそれを大切なことのために使いましょう。
実質的な貢献を忘れてはなりません。

2015年12月6日日曜日

聡い人

すべては因果の仕組みによります。
因果を生み出すのは魂です。
魂は意思を発します。
意思は行為に結び付きます。
行為は原因となるのです。
すべての人は、因果の仕組みと共にあるのです。
これを逃れる人はいません。
どのような人物であろうとも、必ず従います。
人は自らの所有しているものによるのです。
所有しているもの以外を選ぶことも、受けることもできません。
原因に関わりのない結果を導くことは不可能なのです。
あなたは、自らの所有していない原因による結果を導き出すことはできません。
どれだけ求めても、それを得ることなどできないのです。
”奇跡”などは起きません。
すべては因果の仕組みの中に存在しているのです。
そのため、”奇跡”とは説明の付く事象であり、当然の結果なのです。
しかし、その経緯を理解することができないために、説明することができません。
説明することができないという無知が”奇跡”であるはずがないのです。
無知を救うことはできません。
それは”奇跡”でも起きない限りは不可能です。
しかし、”奇跡”などは起きません。
無知である以上は救いようがないのです。
どのような賢者も、無知な者を救うことはできません。
なぜなら、無知な者が苦しむのは、因果の仕組みによるからです。
すべての人は、自らの原因によって結果を受けるのです。
苦しみという結果を受ける者は、苦しみの原因を所有しているに過ぎないのです。
それは、自分自身の問題であり、他者には関係のないことなのです。
そのため、どのような賢者も、無知な者を救うことはできないのです。
しかし、多くの無知な者は、無知であるが故(ゆえ)にそのことを知りません。
そのため、救われないのです。
あなたには無知な者を救うことはできません。
真理を述べても、相手は無知によって愚行を繰り返すのです。
無知な者が救われるためには、自分自身の意思(意識)を変える必要があるのです。
それは、原因を変えることになります。
それは、本質的な変化なのです。
何かに対して苦しんでいる者は、自分が無知であるということを理解する必要があります。
そして、自分自身を救うことができるのは自分だけであると悟るのです。
賢者から学び、自力によって結果を導くのです。
それ以外の方法によって救われることなどないのです。
無知な者を諭(さと)しても、それを聞き入れることはありません。
無知な者はそれに激情し、賢者(知恵)を拒絶します。
そのため、無知な者を諭す必要はありません。
無知な者は苦しむ必要があるのです。
そうでなければ、人の意見を受け入れることができないからです。
無知な者も、いつかは悟ります。
苦しみの果てに悟るのです。
無知な者を救うためには、辛抱強く待つことです。
無知な者が自ら求めるまでは、何も受け入れることはありません。
そのため、自らが求めるまで待つのです。
自らが求めるのであれば、その原因によって初めて救われるのです。
他者が救うなどと誤解してはなりません。
”奇跡”を信じて待ってはなりません。
それ等は無知の成せる業(わざ)なのです。
あなたは気が付かなければなりません。
受け入れることによって悟りを得ましょう。
すべては因果の仕組みによります。
聡(さと)い人でありましょう。

2015年12月5日土曜日

あなたに、”獣”について話します。
”獣”とは、地を這(は)うものです。
”獣”とは、快楽に正直です。
”獣”とは、暗闇に潜みます。
”獣”とは、光を恐れます。
”獣”とは、恐怖を食らいます。
”獣”とは、偽ります。
”獣”とは、騙します。
”獣”とは、裏切ります。
”獣”とは、短絡的です。
”獣”とは、共食いします。
”獣”とは、力を信仰します。
”獣”とは、争いを好みます。
”獣”とは、狡猾(こうかつ)に行います。
”獣”とは、仲間を集めます。
”獣”とは、騒がしいものです。
”獣”とは、義を愛しません。
”獣”とは、不潔を好みます。
”獣”とは、怠慢(たいまん)です。
”獣”とは、利己的です。
”獣”とは、歪んでいます。
”獣”とは、受け入れません。
”獣”とは、本質を求めません。
”獣”とは、弁(わきま)えることを知りません。
”獣”とは、主張します。
”獣”とは、自分を正当化します。
”獣”とは、大胆に振舞います。
”獣”とは、非情です。
”獣”とは、虐(しいた)げます。
”獣”とは、無知です。
”獣”とは、知性を持ちません。
”獣”とは、幼稚を好みます。
この世界には多くの”獣”が存在しています。
しかし、その存在は許されているということを理解しましょう。
許されていなければ、何者も存在することができないからです。
あなたは”獣”と争ってはなりません。
”獣”は茂みに潜み、獲物が近付くのを待っています。
そして、隠してある爪や牙によって、襲い掛かるのです。
強(したた)かであり、凶暴な”獣”は獲物を得るでしょう。
獲物を得る”獣”は、どれも強かであり凶暴なのです。
世の中を見ましょう。
誰が獲物を得ていますか?
それは、強かで凶暴な”獣”です。
美しい毛並みに翻弄(ほんろう)されてはなりません。
それは、偽るための武器であるのです。
鼻息が聞こえたら身構え、鼻先が見えたら走り出さなければなりません。
争って勝る相手ではありません。
あなたは簡単に”獣”の腹に収まるでしょう。
深く考えなければなりません。
身を守る手段を心得なければなりません。
暗闇に潜む”獣”を見極めましょう。
気が付かなければ、あなたはすべてを失います。
暗闇に潜む”獣”を見付けたら、あなたは静かに立ち去りましょう。
争ってはなりません。
逃げなければなりません。
”獣”に捕らえられなければ、”光”を得るでしょう。

2015年12月4日金曜日

毎日、毎日、続けられること

時代は常に流転します。
時代の変化とは、状況の変化です。
すべての状況は滞ることをせず、常に変化の中にあるのです。
状況は常に変化し続けているのです。
あなたがどのような状況を得ようとも、忘れてはならないことがあります。
それは、自らの使命を果たすということです。
どのような状況を得ようとも、あなたは自らに与えられた役割を果たさなければなりません。
役割を果たすことをしなければ、虚しく生きる以外に方法はないのです。
使命とは、心を満たすことです。
真に心を潤すものこそが、あなたの抱える使命なのです。
食物を得ることは、満足を導くように思えます。
しかし、餓(う)えはすぐにやってきます。
あなたは食物を得続けなければならないのです。
毎日、毎日、食物を口に運び、腹を満たし続けなければならないのです。
これが使命でしょうか?
仕事に足りるでしょうか?
異性を離れるでしょうか?
物(収集)に飽きるでしょうか?
知に満ちるでしょうか?
多くの人は、どれだけを得ても満ち足りないものを自らの使命だと考えています。
それで良いのです。
人の使命とは、毎日得ても飽きないものだからです。
毎日、毎日、続けられることが、あなたの使命であると心得ましょう。
食物に足りないことは、多くの喜びを得るでしょう。
仕事に足りないことは、より優れた方法を生み出すでしょう。
異性を離れないことは、異なりを学ぶでしょう。
物(収集)に飽きないことは、見極めを悟るでしょう。
知に満ちないことは、本質(真理)に辿り着くのです。
続けられないことは使命ではありません。
人は、それぞれに違う使命を与えられています。
それぞれの使命に沿って、人生を行う必要があります。
あなたが毎日、毎日、続けられることは何ですか?
それは、あなたの使命です。
人に褒められるものでなくても良いのです。
どのような状況を得ようとも、あなたはそれを続ける必要があるのです。
それは、その状況においては役に立たないように思えるでしょうが、状況が変化した暁(あかつき)には重要な働きになるからです。
多くの人は目の前の状況に通用することだけを追い求めます。
それは、自らの使命ではないために、苦痛を伴った継続を無理に行うという状態を得ることになります。
目の前の状況に通用するからといって、楽しくもなく、やりたくもないことを続けることによっては、本来の使命が蔑(ないがし)ろになるのです。
それは、稼ぎが良いという理由によって仕事を決める人に似ています。
金銭のために無理をして働く者が、幸福なのでしょうか?
それが、生まれて来た理由なのでしょうか?
使命は、多くの金銭や優れた地位、多くの人からの賞賛(しょうさん)などの”装飾(そうしょく)”を求めません。
使命の前には、そのような偽りの価値など、どうでも良いのです。
それよりも大きな理由のために動く(動かされる)ことこそが、あなたの使命であると心得ていましょう。
自らの使命と共にいる時には、あなたに苦痛はありません。
使命を果たしている時には、どのような無理も存在しないのです。
苦痛も無理も無いものこそが、あなたの使命であるのです。
それは、人それぞれに違います。
目の前の状況に通用するからといって、安易に苦痛や無理を受け入れてはなりません。
すべての状況、すべての時代に合わせる必要はないのです。
使命とは、元から内に備わっているものなのです。
それは、才能です。
自らの才能にそぐわない状況に通用する必要などないのです。
その時には不足を楽しみましょう。
”餅は餅屋”という言葉を忘れてはなりません。
毎日、毎日、楽しく続けられることを大切にしましょう。

2015年12月3日木曜日

本気の人

人生は無意味なものではありません。
それは誰にとっても有意義なものであるのです。
今はその意味を理解することができなくても、あなたが成長した暁(あかつき)には必ず理解することができるのです。
幼い頃に理解することができなかったことを、今になっては理解することができるでしょう。
それと同じように、理由は後に理解することができるのです。
そのため、あなたは人生が意義のあるものだとした上で生きなければならないのです。
しかし、多くの人はそのことを知りません。
そのため、希望を持てず、無意味なことを続けていると考える人もいるのです。
また、人生の意義を履き違えたままに喜んでいる人もいるでしょう。
それ等はすべてが誤解であり、誤解は人を苦悩に導くのです。
大切なのは理解することです。
理解を深めることによって、本質である意義を知る必要があるのです。
理解を深めるためには、真摯(しんし)に向き合う必要があります。
真摯に向き合うことによって、より多くの貴重な情報を得ることができるのです。
軽率に、怠惰(たいだ)に向き合っているのであれば、その本意を知ることはできないのです。
真剣に向き合わない対象の、何を知ることができるのでしょうか?
相手の意思を理解するためには、全身全霊を込めて向き合う必要があります。
すべての感覚と心によって、相手の意思を読み取る必要があるのです。
片手間によって、相手の意思を理解しようとしても、それを実現することはできないのです。
あなたは相手に心を向けずに、相手の本意を理解することができますか?
相手に目を向けず、相手に耳を傾けず、相手に触れず、相手を吟味(ぎんみ)せず、相手を嗅(か)ぎ分けずに、相手の本意を理解することができるでしょうか?
相手の本意を知ることは、決して簡単なことではありません。
相手の本意を知ることもなく、どうやってそこに意義を見出すのでしょう?
目の前の相手の本意を理解することさえできない者に、どうやって人生の意義を理解することができるのでしょうか?
人生の意義を理解するためには、人生の本意を理解する必要があるのです。
人間相手であろうと、人生相手であろうとも、行うことは同じです。
何であろうとも、意義を見出す作業には違いがないのです。
それは、真摯に向き合って、その本意を知ることです。
理解を深めることによってのみ、意義を見出すことができるのです。
真剣に向き合わない者には、相手の意義を理解する可能性はありません。
真剣に生きない者には、人生の意義を理解する可能性はないのです。
そのため、あなたは真剣に生きなければなりません。
目の前の一つ一つの行為に対して、真剣に生きなければならないのです。
軽んじられる行為などありません。
人生とは、すべてが真剣勝負であるのです。
しかし、堅苦(かたくる)しく考える必要はありません。
なぜなら、遊びや休養、喜びや笑いなども真剣勝負であるからです。
真剣勝負とは、本気で向き合うということです。
本気で遊び、本気で休み、本気で喜び、本気で笑う必要があるのです。
本気で苦しんでも良いでしょうし、本気で悩んでも構いません。
人生を軽んじてはならないのです。
本気で向き合わない者の得るものは浅はかです。
この世界には因果の仕組みが存在しているのです。
そのため、強く打てば強く返り、弱く打てば弱く返るのです。
深く掘れば多くの土砂を得ます。
浅く掘れば少なく得るのです。
本気であれば本気で返され、真剣であれば真剣に返されます。
あなたはできることを懸命に行いましょう。
今できることを、一つでも多く行うのです。
怠けて暮らしてはなりません。
働き者は多くの富を得るのです。
多く学ぶ者は、多くの知恵を得るでしょう。
すべてが必然なのです。
人生を無意味であると思う者は、真剣さが足りません。
ただ、それだけなのです。
他に理由を探してはなりません。
人生に希望を持てない者が劣っている訳ではありません。
真摯に向き合うだけで変わるのです。
”自分なり”で良いのです。
誰かのように行う必要はありません。
しかし、あなたの本気を見せなければなりません。

2015年12月2日水曜日

新芽

人が豊かな人生を実現するためには、多くの可能性を必要とします。
可能性の数こそが、豊かさの確率です。
可能性が乏しければ、豊かな人生を実現する確率は少ないのです。
可能性の数ほど、豊かな人生を実現する確率が上がるということを理解する必要があるでしょう。
可能性とは興味です。
興味の数によって、可能性の数が決まります。
人が興味を示すものに対しては、それを自主的に学びます。
それは、知識となり、知恵となり、知性となり、人格となり、働きとなり、状況となり、人生となるのです。
それ等は、興味を示さないものからは得られない宝なのです。
興味という原因があってこそ、導かれる最高の結果であることを覚えておく必要があるでしょう。
興味とは、とても小さな働きです。
それは、樹木で言う所の新芽です。
それは、とても小さな芽吹きであり、注目しなければ気付きもしない生命活動なのです。
新芽は小さな葉を付けます。
それはやがて細い枝を伸ばします。
それはやがて葉を増やします。
それはやがて枝を太くします。
それはやがて花芽を設けます。
それはやがて花を咲かせます。
それはやがて実を付けます。
それはやがて豊かさをもたらすのです。
新芽とは、果実への可能性です。
新芽がなければ、果実は実現しません。
どのような果実も、注目しなければ気付きもしないほど小さな新芽から始まるのです。
芽吹きが多いほど、果実への可能性は高まります。
なぜなら、様々な要因によって、枝は失われるからです。
陽が当たらずに枯れ落ちる枝があります。
動物や昆虫などによって損なわれる枝があります。
風雨や降雪によって折られる枝もあるのです。
様々な要因によって枝は失われますが、枝数が多ければ、枝が失われる可能性よりも、果実を付ける可能性は高いものになるのです。
樹木の目的は果実を付けることにあります。
樹木にとっては、果実を付けることが豊かさなのです。
それは、人にとっても同じです。
実り(幸福)ある豊かな人生こそが、人の求めるものだからです。
すべての枝が生き残り、果実を付けるのではありません。
すべての興味が幸福に繋がるのではないのです。
しかし、少ない枝では最大でも少ない実りにとどまり、そこから実際に得られる果実は最大数よりも少ないものとなるのです。
興味の少ない人には、知識が少ないのです。
知恵も、知性も、人格も、働きも、状況も、人生も乏しいものになるのです。
年齢や時代と共に、多くの興味は失われます。
それは、専門性が高まるということです。
それは、視野の狭まりに繋がるのです。
そのため、老人には新たな興味を得ることは難しいのです。
それは、老木が新芽を多く得るのが難しいようにです。
豊かな人生を実現するためには、多くのものを諦めなければなりません。
専門性を得なければ、幸福という結果を導くことは難しいのです。
何の特徴も、特殊性もなければ、貢献することは難しいのです。
一つの街に同じ業種の仕事しかなければ、どうやって互いに貢献するというのでしょうか?
互いが小さな市場を奪い合い、争うことによって破滅する以外に方法はないのです。
すべてが別々の業種の仕事であれば、争いなどはなく、それぞれが貢献していくことができるのです。
あなたは自らの心に従いましょう。
そこには何等かの興味が存在しているはずです。
世間体を気にする余り、自らの興味、可能性を摘(つ)み取ってはなりません。
誰が何と言おうとも、自らの興味を大切に育まなければなりません。
樹木の種類が違えば、違う花を咲かせ、違う実を付けます。
リンゴにはミカンのことは分かりません。
ミカンにもリンゴのことは分からないのです。
あなたの興味は、やがてあなたの花を咲かせ、あなたの実を付けます。
それは、誰も実現することのできない果実です。
それによって、あなたは世界に貢献し、やがては世界を変えることができるのです。
興味を育みましょう。
可能性を育むのです。

2015年12月1日火曜日

生き方

誰にとっても、人生は自力によって切り開いていくものです。
人生を受動的に考えてはなりません。
与えられるだけの人生であれば、可能性が減少する一方だからです。
すべての人が、自分なりの幸福を求めています。
幸福の形は違うにしても、誰もが幸せに成りたいと考えているのです。
(例えば、”死にたい”という願望は、それを望む人にとっては幸福である)
しかし、自らの求める幸福に対して努力をする人は多くはありません。
また、それを継続する人はより少ないのです。
多くの人は、与えられるものによって幸福を実現しようと考えています。
また、与えらえるものによって、自らの求める幸福が実現すると考えているのです。
しかしながら、そのような行為が幸福を実現することはありません。
なぜなら、この世界には、因果の仕組みが存在しているからです。
因果の仕組みとは、原因と結果は等しいということです。
すべての結果は、それに相応しい原因によって導かれます。
原因を無視した結果は存在しません。
幸福に対して(自分なりに)努力をしない者が、どうやってそれを実現するというのでしょうか?
与えられるものに期待し、それを原因として幸福という結果を導こうとしても不可能なのです。
必要な材料がなければ、必要な物を生み出すことはできません。
寄せ集めの材料では、思うような物を生み出すことはできないのです。
材料が足りなかったり、余計なものを得るのです。
与えられるのを期待するというのはそういうことです。
求めるものが与えられることなどありません。
寄せ集めの材料によって生み出されるものが、理想に叶うことはないのです。
しかし、中にはそれを満足する者がいます。
それを美化する者があるのです。
しかしながら、人には与えられた役割というものがあります。
役割とは仕事のことです。
他人からの施(ほどこ)しによって得た不揃(ふぞろ)いの道具によって、良い仕事(必要最低限)ができるでしょうか?
道具に頼らなくても進めることができる作業は問題なく行うこともできるでしょう。
しかし、道具に頼らなければどうすることもできない作業を行うことはできないのです。
若い時には健康な肉体を所有し、家族は若く、若いというだけで親切にされる者がいるとします。
老化によって健康な肉体は損なわれ、家族は年老い、やがては死別します。
若いというだけで親切にされていた時期を失い、ただ歳を取っただけの役立たずと罵(ののし)られます。
そのような状態に陥る可能性は十分にあるのです。
そこに可能性が存在しているでしょうか?
与えられるものを期待し、自力によって努力しない者がこれまでの支えを失った時には悲惨です。
自力が養われていないために、与えられるものが途絶えた時には、人生の可能性が途絶えるのです。
あなたは立場を理解しなければなりません。
常に生き方を考えなければなりません。
身の振り方について考え続けていなければならないのです。
現状はいつまでもは続きません。
また、誰かに習って、前時代的な生き方を参考にしても無駄です。
なぜなら、時代は常に変化し続けているからです。
既存の生き方がこれからも有益であるはずがないのです。
多くの人は考えません。
ただ、与えられたものを何の考えもなく喜んでいるのです。
思考は活動を失い、狭い視野によって狭い世界にしがみ付いています。
既成概念(きせいがいねん)にしがみ付くのに必死であり、新たな可能性を考えません。
失えば終わりという恐怖心によって可能性を狭めているのです。
必死にしがみ付いても、時代の変化によって価値の無いものは淘汰(とうた)されます。
残念ながら、古いもの(道理に叶わないもの)には価値が無いのです。
あなたは前時代的なテクノロジーに頼りますか?
電子メールをやめて、手紙によって通信しますか?
あなたは耐えることができるでしょうか?
時代が変われば、方法を変える必要があります。
道理に叶わない古いものは手放さなければなりません。
幼い頃の楽しみは、成熟した人には苦痛です。
時代の変化を無視することはできません。
いつまでも既存の可能性が続くと考えてはなりません。
誰であっても、人生は自力によって切り開かなければなりません。
生き方を考え続けなければなりません。

2015年11月30日月曜日

新機軸

すべての存在には、必要に応じた役割が与えられています。
すべての存在がこの世界において活動しているために、その役割を否定することはできません。
与えられた役割に関しては、それを認識しているか?認識していないか?ということは問題ではありません。
それが全体的な意識状態であろうとも、個人的な意識状態であろうとも、すべての行為には必要な意味が現れるのです。
善悪は立場による価値観でしかなく、それによって必要不要を断言することはできません。
あなたの選択が、最終的にどのような効果を実現するかは、その時になってみなければ分からないのです。
善悪によって判断するのであれば、限定的に判断することになります。
それは、人が理性によって選択しているのではなく、不安定な感情によって選択しているに過ぎないからです。
善悪とは、感情論に過ぎないのです。
善悪とは、主観を通して現れる偏見に過ぎません。
主観を通して見るために、善と悪という二つの状態が別々に現れるのです。
主観を通して見なければ、善悪が別々に現れることはなく、その二つを兼ね備えた本質が現れるのです。
立場によって善悪が分かれるのであれば、その対象には善と悪の双方の性質があるのです。
主観の数によって現れる状態のすべてが、それの本質を現しているのです。
あなたが”赤”という色を判断する場合、他者と同じ色を判断しているとは限らないのです。
他者は、その”赤”をあなたよりも濃い色や薄い色合いとして認識している可能性があるのです。
あなたにはその判断はできませんが、一つの対象を完全に同じものとして認識していることはないのです。
それは、判断基準がそれぞれの背景を参考にしているからです。
背景とは、経験や知識や知性や思想などです。
その人を構成するすべての要素が、判断基準となるのです。
背景は人によって違うので、その判断は違うものとなるのです。
あなたの判断とは、本質に対して不安定なものであり、偏見そのものであるということが言えるのです。
どれだけ自分を正当化しても、すべての”角度”を手に入れることはできません。
そのため、与えられた役割を認識しているか?認識していないか?ということは問題ではないのです。
問題なのは、与えられた役割を果たさずにいることにあります。
与えられた役割を正確に認識することはできません。
しかし、現状において自らがやらなければならないことや、できることを認識することは可能です。
多くの人は、やらなければならないこと、できることを蔑(ないがし)ろにしている傾向があるのです。
それは、恐怖や諦め、そして、甘えによってです。
多くの人は恐怖や諦めや甘えを所有しています。
それ等の価値観によって、視点は限定的になります。
何か一つの状態に捉われてしまえば、視野は狭くなり、固まってしまうのです。
そうなれば、例えば善悪による判断が生じるようになるのです。
広い視野は、捉われないことによって生まれるのです。
全体的に見なければ、本質を理解することはできません。
購入した花瓶の側面は、美しい造形や色艶(いろつや)や値段だけではないのです。
それを販売する店舗、業者、製造に携わる人たち、そして、原材料とそれを育んだ自然・・・
ただの花瓶であっても多くの側面を持っており、それは価値観によっては善悪に分かれるのです。
花瓶一つであっても、様々な役割によって実現しているということを理解しましょう。
花瓶という結果を生み出すためには、多くの役割が必要となるのです。
この世界には常に多くの結果が導かれています。
その結果を導くために、すべての存在には必要な役割が与えられているのです。
この世界が花瓶という結果を求めるならば、その結果を生み出すために役割が与えられるのです。
土に、水に、火に、風に、人に・・・
花瓶という結果のために必要な存在に対して、必要な役割が与えらえるのです。
しかし、土や水や火や風には、自らの役割を認識することができないかも知れません。
しかし、それ等の役割無くして、花瓶という結果は決して導かれないのです。
あなたは、自らに与えられた役割の意味を理解することはできないかも知れません。
しかし、それは必要であるために与えられているのです。
今、自分がやらなければならないことや、できることは、何かしらの結果を導くために必要な働きとなるのです。
あなたには、結果がいつ、どのような形で実現するかは分からないでしょう。
しかし、それは確実に実現するのです。
土と水、火と風、そして人が手を抜いていれば、良い花瓶は生み出されないのです。
花瓶という結果は生じますが、褒(ほ)められない駄作(ださく)が生じるのです。
この世界にも同じことが言えます。
未来がどうなるか分からないからといって、懸命に生きない者がいます。
そのような者が携わった結果は、決して褒められたものにはならないのです。
何のためになるかは分からずとも、今やらなければならないことや、できることに手を抜いてはなりません。
懸命に努力していましょう。
新機軸(しんきじく)は、一つ一つの質の高まりによって実現するのです。