誰にとっても、人生は自力によって切り開いていくものです。
人生を受動的に考えてはなりません。
与えられるだけの人生であれば、可能性が減少する一方だからです。
すべての人が、自分なりの幸福を求めています。
幸福の形は違うにしても、誰もが幸せに成りたいと考えているのです。
(例えば、”死にたい”という願望は、それを望む人にとっては幸福である)
しかし、自らの求める幸福に対して努力をする人は多くはありません。
また、それを継続する人はより少ないのです。
多くの人は、与えられるものによって幸福を実現しようと考えています。
また、与えらえるものによって、自らの求める幸福が実現すると考えているのです。
しかしながら、そのような行為が幸福を実現することはありません。
なぜなら、この世界には、因果の仕組みが存在しているからです。
因果の仕組みとは、原因と結果は等しいということです。
すべての結果は、それに相応しい原因によって導かれます。
原因を無視した結果は存在しません。
幸福に対して(自分なりに)努力をしない者が、どうやってそれを実現するというのでしょうか?
与えられるものに期待し、それを原因として幸福という結果を導こうとしても不可能なのです。
必要な材料がなければ、必要な物を生み出すことはできません。
寄せ集めの材料では、思うような物を生み出すことはできないのです。
材料が足りなかったり、余計なものを得るのです。
与えられるのを期待するというのはそういうことです。
求めるものが与えられることなどありません。
寄せ集めの材料によって生み出されるものが、理想に叶うことはないのです。
しかし、中にはそれを満足する者がいます。
それを美化する者があるのです。
しかしながら、人には与えられた役割というものがあります。
役割とは仕事のことです。
他人からの施(ほどこ)しによって得た不揃(ふぞろ)いの道具によって、良い仕事(必要最低限)ができるでしょうか?
道具に頼らなくても進めることができる作業は問題なく行うこともできるでしょう。
しかし、道具に頼らなければどうすることもできない作業を行うことはできないのです。
若い時には健康な肉体を所有し、家族は若く、若いというだけで親切にされる者がいるとします。
老化によって健康な肉体は損なわれ、家族は年老い、やがては死別します。
若いというだけで親切にされていた時期を失い、ただ歳を取っただけの役立たずと罵(ののし)られます。
そのような状態に陥る可能性は十分にあるのです。
そこに可能性が存在しているでしょうか?
与えられるものを期待し、自力によって努力しない者がこれまでの支えを失った時には悲惨です。
自力が養われていないために、与えられるものが途絶えた時には、人生の可能性が途絶えるのです。
あなたは立場を理解しなければなりません。
常に生き方を考えなければなりません。
身の振り方について考え続けていなければならないのです。
現状はいつまでもは続きません。
また、誰かに習って、前時代的な生き方を参考にしても無駄です。
なぜなら、時代は常に変化し続けているからです。
既存の生き方がこれからも有益であるはずがないのです。
多くの人は考えません。
ただ、与えられたものを何の考えもなく喜んでいるのです。
思考は活動を失い、狭い視野によって狭い世界にしがみ付いています。
既成概念(きせいがいねん)にしがみ付くのに必死であり、新たな可能性を考えません。
失えば終わりという恐怖心によって可能性を狭めているのです。
必死にしがみ付いても、時代の変化によって価値の無いものは淘汰(とうた)されます。
残念ながら、古いもの(道理に叶わないもの)には価値が無いのです。
あなたは前時代的なテクノロジーに頼りますか?
電子メールをやめて、手紙によって通信しますか?
あなたは耐えることができるでしょうか?
時代が変われば、方法を変える必要があります。
道理に叶わない古いものは手放さなければなりません。
幼い頃の楽しみは、成熟した人には苦痛です。
時代の変化を無視することはできません。
いつまでも既存の可能性が続くと考えてはなりません。
誰であっても、人生は自力によって切り開かなければなりません。
生き方を考え続けなければなりません。
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