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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年5月31日日曜日

減算

人生の旅路において、あなたが持ち運ぶことのできる荷物には限界があります。
自らの力よりも大きなものを持ち運ぶことはできません。
自らの力よりも大きなものは、置いて行かなければならないのです。
人生は旅路のようなものです。
必要な荷物は持ち運ぶことが求められますが、不要な荷物を持ち運ぶことは憚(はばか)られます。
多くの荷物を持ち運ぼうとするのであれば、その重みによって旅路は大変なものになるでしょう。
必要最低限の荷物を持ち運ぶことが、旅路を進む上では最善なのです。
多くの人は心配します。
必要最低限で事足りるという概念よりも、”備えあれば憂いなし”という概念を大切にするのです。
多くの人は不足を恐れます。
不足することによって発生する問題や困難を先立って考えているのです。
危機管理能力に長けているのは素晴らしいことですが、それが行き過ぎてはネガティブな心の状態を引き起こすのです。
そして、直接的には必要の無いものまで荷物とするのです。
多くの人は人生に対して不安を抱いています。
そのため、必要以上の荷物を持ち運ぼうとしています。
その概念が加算(かさん)という選択を導くのです。
これは、何かを継ぎ足すことによって問題を解決しようとする考え方です。
それは、コップに水を注ぎ足すような行為なのです。
コップの中の水が少ない方が持ち運ぶ時には簡単です。
水の量が増すほどに、それを持ち運ぶことは困難となるのです。
しかし、水が少な過ぎると有益ではありません。
要は、バランスが大切であるということなのです。
できる限り多くの水を、無理なく運ぶことが重要なのです。
あなたは病を得た時に、どのようにその問題を解決しようとするでしょうか?
あなたは病を治療しようとするでしょう。
それは自然なことです。
しかし、治療にも”加算と減算(げんさん)”という二つの選択肢があるのです。
多くの人は病を治そうとして、加算の選択をします。
それは、投薬という選択です。
その病に効くと言われている薬を、あなたは躊躇(ちゅうちょ)なく体内に収めるでしょう。
ここでは、薬が悪いと言うのではありません。
しかし、加算だけが治療(可能性)ではないということを言いたいのです。
多くの人は偏見によって生きているということを知りません。
既に偏見によって生きているために、自らが偏見を抱えているということを偏見によって知ることができないのです。
人の世では、継ぎ足すことで問題を解決するという方法が用いられます。
それは、人の世の根底には経済活動が存在しているからです。
消費することを求められ、それが正しいことであると教え込まれているからです。
そのため、多くのものを加算によって所有するという考え方に至るのです。
実際、あなたは病を得た時には、薬を探すでしょう。
何かを加算することによって、問題を解決しようとするのです。
必要以上に抱えれば、その重みによって歩けません。
それが度を超えれば、重みによって潰されてしまうでしょう。
必要以上に荷物を抱えてはなりません。
手放す勇気を身に付けなければならないのです。
多くの人は荷物を抱え過ぎています。
それが苦悩として伸(の)し掛かっているのです。
根を詰めて生きることはありません。
力量に勝る荷物を運ぶ必要はないのです。
あなたが持ち運ぶことができる荷物を確実に運ぶ方が有益であるのです。
欲を出してはなりません。
時には諦めることも大切なのです。
生真面目に生きる必要もありません。
可能性は様々にあるのです。
押し潰されるのであれば捨てましょう。
人生において大切なのは、目的地へと辿り着くことであるのです。
生きていなさい。

2015年5月30日土曜日

正しい理解

人生で大切なことは、それを正しく理解することです。
正しく理解することがなければ、あなたは成長することができません。
成長こそが人生の根本的目的です。
何を経験しようとも、それは成長のためであるということです。
正しい見解によって、正しく理解することがなければ、人は成長を実現することができないのです。
正しく理解するためには、正しく見る必要があります。
正しく見ることができなければ、正しい理解は決して実現しないのです。
そのため、あなたは正しく見るように促(うなが)されます。
あなたは常に正しく見せられるのです。
それは状況に現れてきます。
あなたが経験することは、それを正しく見るための練習です。
人生は、あなたに正しく見せようと努めているのです。
あなたが正しく見るのに最適な角度を示しているということを理解しなければなりません。
あなたは常に最善の角度によって見せられます。
それは、あなたにとっては自らの弱さとの対峙になることもあります。
正しく見るということは、自らの現状を直視することであるのです。
人は弱さを克服するために生きているのです。
それは、弱さとの対峙です。
しかし、弱さと向き合うことは簡単ではありません。
それは、苦しみを伴うからです。
汚れた部屋を見ることは、誰にとっても苦痛です。
苦痛が麻痺している者がいますが、その者も初めは苦痛を受けたのです。
そこで、人は人生に立ち止まることを求められます。
正しく見ておらず、正しく理解していないという判断が下れば、あなたはその場で足踏みをしなければなりません。
立ち止まってよく見る必要があるのです。
立ち止まれば、歩いている時と比べて鮮明に見えるようになります。
自らが止まっているために、対象も止まるからです。
落ち着いて念入りに見るのであれば、今までは気が付かなかったことにも気が付くことができるのです。
それが、正しく理解することに繋がるのです。
理想通りに進まないことを気に病む者がいます。
しかし、あなたの理想など、人生の豊かさを導くための最善の方法などではありません。
それは、あなたが未熟であるからです。
言っておきますが、すべての人が未熟です。
すべての人が成長を求められているのです。
すべての人が正しく見て、正しく理解することが求められているということを覚えておかなければならないのです。
理想通りに進む必要などないのです。
人生が足踏みを始めたのであれば、足踏みをしておきましょう。
その中で、景色に注目するのです。
何一つとして無駄なことはありません。
それがどのような状況であろうとも、そこには大切な意味があるのです。
立ち止まっているのであれば、よく見てよく学ぶのです。
それが大切です。
できることは多くあります。
あなたはその状態で、成長のためにできることは何か?ということを探しましょう。
八方塞がりであると思える状況に陥ったとしても、できることはあるのです。
どのように追い詰められても、やらなければならないことがあるのです。
あなたは正しく理解することを求められています。
すべてが大切な経験です。
人生が前を向いて進まないくらいで慌ててはなりません。
立ち止まることなどよくあることなのです。
立ち止まることのない人など存在しません。
誰もが足踏みを強制させられます。
できることを放棄してはなりません。
どのような時にも、正しく理解するように努めましょう。

2015年5月29日金曜日

実験

人生は実験場です。
あなたは人生において、様々な実験をしています。
それは、真理を正しく理解するためです。
人は真理について詳しく知る必要があるのです。
それは、成長のためです。
成長とは、魂(人生)の目的です。
あなたは成長という目的を手放すことはできません。
すべての存在は、成長することを義務付けられているのです。
成長を否定することは、苦悩の結果を導きます。
それは、目的に反する行為です。
目的に従う行為であるのならば、充足を得ることができるのです。
そのため、苦悩を得るのであれば、それが目的に対しては正しくないということを理解することができるのです。
真理は様々な方法によって、あなたを成長に導きます。
あなたは真理によって教えられ、真理によって育まれているのです。
あなたが真理を離れることはありませんが、真理を忘れることはよくあることなのです。
実際、多くの人が真理を忘れ、多くの苦悩を受けているのが現状であるのです。
真理を理解することによって、人が苦悩を受けることはなくなるのです。
それは、真理を理解する者が成長から遠ざかることなど有り得ないからなのです。
真理を理解する者は、どのような瞬間にも成長を実現することができるのです。
しかし、真理を忘れた者は、その状況が自ら成長と名乗っているのに、それにさえ気が付くことはないのです。
大切なのは、生きることが成長のためであるということを知ることです。
しかし、ただの成長ではありません。
それは、魂の成長であるのです。
あなたは魂の成長のために、様々な実験を行っています。
因果の仕組みを通して、自らの言動がどのような状況を導くのか?ということを試しているのです。
あなたは必ず正しい結果を受け取ります。
その時に、真理を忘れた者は、それを他人や何かのせいにするでしょう。
真理を知る者は、そこで自己を褒(ほ)めたり、反省したりするでしょう。
多くの者が真理を忘れているために、自己責任という言葉を忘れています。
誰かや何かに対して、責任を転嫁するのです。
そして、成長を捨てるのです。
それが自己責任であるということを受け入れるだけで、人は大きく成長することができるでしょう。
しかし、それは建設的な姿勢でなければなりません。
自己責任を破滅的に捉える人は、自己批判や自己憐憫(じこれんびん)に陥ってしまうからです。
それでは、実験の意味がないのです。
すべては真理を理解するための実験なのです。
実験には失敗が付き物です。
あなたは人生において必ず苦悩を得ることになります。
それが悪いことではありません。
苦悩を慢性化(まんせいか)することに注意する必要があると言っているのです。
本当は失敗という状態は存在しませんが、失敗と思う状況を得ることを恐れる必要はありません。
それは損失に見えるけれども、失敗によって学ぶことはそれよりも大きいからです。
そのため、それは厳密には失敗ではないということなのです。
人生が実験であると考えれば、気が楽になるはずです。
あなたは失敗しても良いのです。
間違えても、笑われても良いのです。
大切なのは学ぶことです。
経験することによって真理を知ることができるのです。
あなたは学ばなければなりません。
人生はそのための実験場です。
既知(きち)をいつまでも楽しむものではありません。
未知の可能性を楽しむのです。
人生が理想通りに進む必要はないのです。
とにかく、楽しく実験してみましょう。
様々な可能性を試しましょう。

2015年5月28日木曜日

覚醒

「わたし」は、あなたの覚醒を待っています。
あなたは目覚めなければなりません。
あなたは未だに眠りの中にあるのです。
その眠りから目覚め、正しくこの世を生きる必要があるのです。
不鮮明な意識によって生きてはなりません。
それは、寝惚け眼で道を歩むことに等しいのです。
それでは、景色を知ることはできません。
何度も目を閉じてしまい、自分がどこを歩いているのかも分かりません。
頭は働かず、心も働きはしません。
身体も思うようには動かずに、不安定な歩行によって、道を踏み外してしまうでしょう。
あなたが豊かな人生を生きるためには、意識を覚醒する必要があるということを覚えておきましょう。
あなたは真実に目覚めなければなりません。
それは、自らの本質に気付くということです。
あなたは誰ですか?
人生は何のためにあり、あなたがそこでしなければならない仕事、与えられた役割は何ですか?
真実に目覚めるということは、それ等を理解するということです。
自分が何者であり、人生の目的を知っているのであれば、あなたは真の豊かさを手にすることができるのです。
そのためには、”夢”から覚める必要があるのです。
多くの人は覚醒を実現してはいません。
”夢”の中に生きている者が大半です。
多くの人は自分が何者であり、人生の目的が何であるのか?ということを知らずにいるのです。
そして、苦悩の生存を続けるのです。
そこには、矛盾と混乱、退屈と偽り、争いと苦しみが存在するのです。
それでは、自分を納得させることはできないのです。
心地好い人生を生きることが重要なのです。
自分を偽り、人生の目的を知らずに生きる者が、心地好い人生を生きることはできません。
あなたは偽りのない”自分”でなければなりませんし、人生の目的のために生きなければならないのです。
間違った生き方は、生きずらさを導くということを覚えておきましょう。
あなたが生きずらいと感じているのであれば、それは未だに”夢”の中を生きているということを理解しましょう。
あなたは覚醒してはいないのです。
寝惚けて生きる者は、苦悩を得ることになっているのです。
そのため、「わたし」はあなたの覚醒を待っているのです。
それは、あなたが幸福を得るための唯一の方法です。
”夢”の中でどのような幸福な状態を得たとしても、夢から覚めた時に、それには何の価値もないのです。
あなたは誰ですか?
あなたは何のために人生を生きているのですか?
この問いが気になり始めれば、意識は覚醒の準備を始めます。
この問いを追求することによって、意識の覚醒が近付きます。
この問いに答えを出すことによって、意識の覚醒は実現するのです。
あなたは本来の自分を取り戻さなければなりません。
あなたは物質的な存在ではないのです。
あなたは動物ではありません。
思考(脳)や感情(心)ですらないということを知りましょう。
あなたは未だに眠りの中です。
いつまでも眠っている訳にはいきません。
それは、この世界に存在する理由があるからです。
あなたは眠るために生まれたのではないのです。
日常(常識)に溺れてはなりません。
生きることなど、人生の目的ではないのです。
お金儲けや権力を得ることなど論外です。
詰まらない人生に命を捨ててはなりません。
自らの内面に気付きましょう。
そこには、あなたの真が眠っているのです。
”本当の意味”での現実を生きなければなりません。
「わたし」は、あなたの真実に対する覚醒を待ち望んでいます。

2015年5月27日水曜日

仲間

人は信仰に従って行います。
すべての人が信仰を所有しています。
無神論者であっても、無神論という信仰を所有しているのです。
すべての人が何等かの信仰体系を所有しており、それに従って行為しているということを理解しなければなりません。
あなたも、自らの信仰体系に従って生きています。
そのように意識したことはないかも知れませんが、そのように行っているということを受け入れる必要があるでしょう。
誰もが正義を掲げています。
立場によって正義の形は違うものの、すべての人がそれを固く守っているのです。
あなたの正義は、あなたの信仰です。
形が違うだけであり、人は信じるところに従っているのです。
信仰は人の行為を左右する力を持っています。
それは、順路の示された地図のようなものです。
人は地図に示された順路を信用し、それを辿るのです。
地図を確認しながら進む人は、道端の人がそれとは違う順路を示しても、それを聞き入れることはありません。
その順路よりも近道があるとしても、地図に示された順路が間違っていたとしても、所有する地図に示してある順路を信じるのです。
あなたは自らが信用している地図と、道端の人の情報のどちらを信じますか?
多くの人は自らが既に信用している地図を信じるのです。
その順路が間違ってるにしてもです。
道端の人の親切にも気が付きません。
そのため、道に迷うことがあるのです。
道は常に新たに生まれます。
目的地へと辿り着くための順路は、日々変わっているということを理解しましょう。
古い地図によって辿り着くことはできないのです。
最新の順路に従う必要があるということを理解しなければなりません。
信仰体系には、主従関係を結ぶものがあります。
師匠と弟子、教祖と信者などのように、主従関係を結ぶものがあるのです。
主従関係とは縦の繋がりです。
それは立場を上下に二分します。
上の立場の者は傲慢さを得る可能性を抱き、下の立場の者は自虐性を得る可能性を抱くのです。
ほとんどの宗教がこの体系を所有しています。
これは、本当に人々を幸福に導くのでしょうか?
その地図に示されている順路は、あなたを正しい目的地へと辿り着かせるのでしょうか?
あなたは古い価値観に捕らわれてはなりません。
初めから準備された制度が、本当に正しいとは限りません。
あなたは地図を渡された時に、それが常識だと教えられます。
純粋なあなたはそのことを疑うこともないでしょう。
昔からそうだから、皆がそうしているから、などの理由によって、それを信用するのです。
主従関係は、あなたに有益に働くシステムであるのか?ということを考えなければなりません。
主従関係がどのような結果をもたらしたのか?ということを冷静に見つめなければなりません。
あなたの信仰は、幸福を導くのでしょうか?
それによって、人生の目的である成長を実現することができるのでしょうか?
あなたが何かしらの宗教を信仰しているのであれば、それは本当に正しい形であるのでしょうか?
主従関係が豊かさを導くことはありません。
互いに同じ目線に立ち、互いに尊敬し合えば良いのです。
あなたは誰よりも優れてはいません。
あなたは誰よりも劣ってはいません。
すべての人が共に歩んでいるのです。
地球に存在する人類には、違いはありません。
同じ段階の仲間であるために、同じ場所に生きているのです。
上下があるのならば、違う場所に生きているということを理解する必要があるのです。
歪んだ信仰は捨て去らなければなりません。
あなたは誰をも師としてはなりません。
あなたは誰の師にもなってはなりません。
偽りの信仰に騙されないように注意しましょう。

2015年5月26日火曜日

既知

あなたは所有している知識だけに頼ってはなりません。
所有している知識だけに頼ることは、既存の世界にとどまるということを意味しているからです。
それは、小さな世界にとどまることに等しいのです。
それでは、それよりも多くの可能性を得ることができずに、世界が広がりを見せることはありません。
世界が広がりを見せなければ、自身の向上もないということを理解する必要があるのです。
既に知っていることは、現状維持に対しては有効です。
既存の知識というものは、土台であるということを理解しなければならないのです。
土台を固めることは重要ですが、土台を固めるだけでは、いつまで経ってもそこには何も建設されないのです。
土台を固めることに成功したのであれば、柱を立て、屋根を築かなければならないのです。
建築物を支えるために土台を拵(こしら)えるのです。
建物を築かなければ、豊かな生活を得ることはできないのです。
どれだけ頑丈な土台であっても、日差しや風雨を防ぐことはできないのです。
そこには苦しみが導かれるでしょう。
人は豊かな人生を生きるために、頑丈な土台の上に家屋を建て、それを拠点としなければならないのです。
既存の知識に縛られる者がいます。
そのような者は、自分が既に偏見に捕らわれているということに気が付きません。
本当は建物が無いことに気が付かずにいるのです。
それは滑稽(こっけい)です。
自分が家屋を持つ知識人だと思い込んではいますが、その実、日差しや風雨を避けることができません。
そのため、人生が豊かなものであると思い込んではいますが、本当の豊かさを知ることもなく死んでいくのです。
唯物的な考えの者に多く見られる特徴です。
強過ぎる物質主義や自己陶酔が、その者を盲目にし、小さな世界に限定するのです。
知っていることは多いのでしょうか?
残念ながら、あなたは自分自身が無知であるということを理解しなければなりません。
あなたが知っていることは、全体の数パーセントにも満たないのです。
自分自身が何者であるのか?
人生が何のために存在し、何のために生きているのか?
ということすら知らないのに、どうして自分が”知っている”と言えるのでしょうか?
あなたは知らないのです。
知らない者が、小さな知識を用いて全体を見れば、それが歪んで見えることは当然です。
知らない者が理解することのできることなどないのです。
あなたはルールの分からないスポーツを観戦して、それの何が分かるのですか?
勝者と敗者くらいは分かるかも知れません。
しかし、それがあなたに喜び(豊かさ)を導くでしょうか?
ルールを知り、そのスポーツの奥深さを理解していれば、そこには喜びが導かれるのです。
既存の知識に頼るということは、初めて観戦した時と同じ知識のままで、何度も観戦するようなものです。
それが、如何に愚かなことであるのかを理解したでしょう?
あなたは自らが信じていないことも受け入れなければなりません。
信じているものばかりで固めてはならないのです。
それこそが、偏見であるということに気が付かなければならないのです。
知らないことを知るということは良いことです。
それは、あなたの可能性を広げます。
それは、大きな家屋が建つのと同じです。
新たに知ることによって、あなたは人生を豊かなものとすることができるでしょう。
新たに知ることによって、これまでの知識は土台として利用されます。
あなたの築く家屋は、より大きなものとなるのです。
それは人生の広がりです。
未知に対して恐れてはなりません。
それは良いものです。
既知(きち)にとどまることは安心ですが、あなたはそこにとどまってはなりません。
常に未知に対して興味を抱き、それを取り入れるように努めましょう。
あなたは所有している知識だけに頼ってはなりません。
小さな世界があなたを救うことはありません。
より大きな世界を生きるのです。
あなたはそこで自由を得るでしょう。

2015年5月25日月曜日

実績

それは本当に信用して良いものですか?
それは本当に真実なのでしょうか?
あなたは常に真実を探し求めなければなりません。
あなたの信じているものが信用に価するものであるのか?ということを常に精査しなければならないのです。
この世界には偽善が溢れています。
それは、善を装っていますが、その実、善ではないという可能性があるのです。
それが信用に価するのかは、その本質を見極め必要があるのです。
本質を偽ることはできません。
本質を覆い隠すことはできますが、本質を変えることはできないのです。
本質とは目的です。
詐欺師が相手を騙すために用いる言動は、相手を騙す目的のためにあるのです。
その目的が損なわれることはありません。
それがどのように美しい言葉であったとしても、相手を騙すために用いられたのであれば、信用には価しないのです。
表面的な部分を見るだけで、その本質を見極めることができなければ、あなたは苦悩を得ることになるということを覚えておきましょう。
人は人生の目的を果たす必要があるのです。
その目的のために生きているのが真実なのです。
しかし、あなたの信じている人生というものは、本当の人生とは限りません。
あなたの信じている人生の幸福が、本当の幸福であるとは限らないのです。
多くの人は疑うことをしません。
”当たり前”とされていることを、そのままの形で信用しているのです。
そこには注意が必要です。
お金を稼いで老いぼれることが、人生の目的であり、幸福であるのでしょうか?
本当にそれが真実なのでしょうか?
あなたはお金を稼ぎ、老いぼれるために生まれてきたのでしょうか?
そんな目的のために生きているのでしょうか?
人生はお金を稼ぐための場所であるという価値観を、あなたは信用することができますか?
そこに疑問は生まれませんか?
世俗的(一般的)な価値観をそのまま信用しても良いと思いますか?
あなたは本当に幸福を得ることができるのでしょうか?
何十年も同じ目的のために生きるのですか?
人生がお金を稼いで老いぼれるためのものだと考えている人は、目を覚まさなければなりません。
いつまでも偽りの価値に従っていてはならないのです。
あなたは本当の幸福というものを考えなければなりません。
あなたの心、魂を満たすものが何であるのか?ということを考え続けなければならないのです。
満たされることが求められます。
すべてを失っても満たされているという状態こそが真実なのです。
何かを失って簡単に崩れ去るものが、本当の幸福であると思いますか?
すべてを失っても満たされている以上に、幸福な状態が存在するでしょうか?
あなたの頼りにしているものは、本当にあなたの幸福を支えることができるのでしょうか?
よく考えなければなりません。
あなたの知っている世界は、真実の世界なのでしょうか?
あなたの所有している知識は、真実を示していますか?
本質こそが真実です。
表面的な部分を真実であると信じてはなりません。
隠し切れないものが真実であるということを覚えておきましょう。
あなたは隠し切れないものを探さなければなりません。
偽善の表層を剥ぎ取りましょう。
偽善が取り除かれた時、それは真実を伝えます。
そのためには、疑う必要があるのです。
精査することがなければ、真実に辿り着くことはできません。
あなたは簡単に信用してはなりません。
その者が善人であるのか?それとも、偽善者であるのか?ということを見極めるのには時間がかかります。
すぐさま判断ができるほど、あなたは優れてはいないのです。
結論を焦ってはなりません。
実績を見ましょう。
それが歩んだ結果を見れば、それの本質が信用に価するのかどうか?ということが分かります。
実績を隠すことはできません。
それを見て、信用するかどうか?を決めましょう。

2015年5月24日日曜日

一歩一歩

人は人生という道を歩みます。
人は人生の果てに存在する目的地へと辿り着かなければなりません。
すべての人が目的地を目指します。
それは、人が人生を生きる理由です。
目的地には、人生の理由が存在しているのです。
それを得るために人は人生を生きているのです。
そこに辿り着くためには、人生という道のりを歩んでいく必要があります。
人生を歩むことがなければ、目的地に辿り着くことはできないのです。
あなたは、一歩一歩前進しなければなりません。
一歩一歩を確実に踏み締めて、道の理由を知るために生きなければならないのです。
すべてには意味があります。
この世界に無意味なものは存在しません。
人生の理由が分からない者には、それが無意味に映ることがあります。
意味のあるものを意味の無いものとして捨て去ることは、価値を捨て去るということです。
人生の価値とは何でしょうか?
お金でしょうか?
名誉でしょうか?
地位でしょうか?
健康でしょうか?
仲間でしょうか?
我欲を満たすことでしょうか?
それ等は残念ながら表面的な価値でしかありません。
世間の考える価値というものは、人生の本質的な価値ではないのです。
人生の価値は、一歩を進めることにあります。
それは、成長です。
何を得るよりも、成長を得ることに価値があるのです。
お金と成長なら、あなたはどちらに価値があると思いますか?
名誉と成長なら、地位と成長なら?
お金や名誉や地位が向上することを成長と考えている人がいるでしょうが、それ等があなたの自己を高めることはありません。
自己の向上は、それ等に左右されることはないのです。
それ等を多く所有していようが、少なく所有していようが、自己の成長には関わりがないのです。
そのため、世間の考える”この世の価値”に集中してはならないということなのです。
それでは、人生の理由に辿り着くことはできません。
そのような方法を何千年繰り返したところで、目的地に辿り着くことはできないのです。
一歩を進めることが重要であるのです。
あなたが人生に一歩を進めるためには、”納得”する必要があります。
納得を得ることこそが、一歩となるのです。
何かに対して納得を得るということは、一旦はそれを受け入れるということなのです。
それは、納得した対象を信じるということです。
あなたは納得したものを信じていれば良いでしょう。
信じることによって器量は増します。
否定的であったり、拒絶的な者が成長することはないのです。
信じることが重要です。
しかし、納得した時点で終わりではありません。
納得した時点からも、常に検証し続ける必要があります。
それは、現時点での納得は、未熟さから生じる納得であるからです。
幼子の納得は、成人の時には有効ではありません。
あなたの成長と共に、納得の形も変化していくのです。
それが、人生を歩むということなのです。
あなたは自分自身が納得する形を求めましょう。
権威(けんい)の者があなたに教えるからといって、納得することができなければ疑いましょう。
詐欺師は立派な肩書きを偽装します。
詐欺師の嘘を見破るためには、自分自身が納得することができるのか?という問いを持つ必要があるのです。
誰が言っているか?ではありません。
何を言っているか?ということが重要です。
納得を重ねるように努め、人生を一歩一歩進んでいきましょう。

2015年5月23日土曜日

味付け

楽しむ者にとって、それは喜びとなります。
楽しまない者にとっては、それは苦しみとなるのです。
状況をどのようなものにするのか?ということは、あなたの態度によって決まるのです。
あなたは自らの態度がどのようなものであるのか?ということに注意を払わなければなりません。
それを喜びとするためには、楽しむ必要があります。
心が楽しまないものを喜びにすることはできないのです。
その対象がどんなに楽し気な雰囲気を持っていたとしても、あなたの心がそれを楽しまなければ喜びは得られないのです。
それが、退屈な雰囲気を持っているものだとしても、あなたの心がそれを楽しむのであれば、そこには喜びが導かれるのです。
対象がどのようなものであるのか?ということは関係ないのです。
常に自分自身の態度が関係しているということを覚えておきましょう。
人は常に自分自身を見つめなければなりません。
自分自身を見つめることがなければ、態度を改めることはないでしょう。
態度が改まらなければ、得られる状況には変化がありません。
苦しみを得ることは望ましくありません。
人生は苦行ではないのです。
楽しくなければ、成長はないのです。
あなたは、自らの意思によって苦しんではなりません。
あなたはどのようなものに対しても苦しむ必要などないのです。
それがどのようなものであろうとも、できる限り楽しむように努めましょう。
それを楽しむためには、それの良いところを探さなければなりません。
建設的に向き合わなければ、良いところを見つけることはできないのです。
人は偏見を抱いているのが”普通”です。
すべての人が偏見を抱えています。
偏見によって眺めれば、それは歪んで映るのです。
歪んだ像は不快を伝えます。
正しく見ることによって、人は快楽を得ることができるのです。
無意識に所有している偏見を、意識的に手放さなければなりません。
あなたは自分自身が偏見を所有し、それによって世界を眺めているということを理解する必要があるのです。
偏見を抱えない人はいません。
どのように正しく見ているつもりでも、そこには自我に伴う偏りが考慮されているのです。
人は偏見を完全に捨て去ることはできません。
しかし、それをある程度捨て去り、対象を歪みが気にならない程度に見ることはできるのです。
そのようにして見なければならないのです。
偏見が取り除かれれば、それの良いところが見付かります。
良いところが見付かれば、それを楽しむこともできるのです。
楽しむことによって継続することができるようになります。
この継続が重要であるのです。
何事においても、継続して向き合うことがなければ、その本質を理解することはできません。
簡単に諦めることは、表面的な理解にとどまるのです。
概要(がいよう)を知ったからといって、それが持つ奥深さを理解することはできません。
その奥深さを理解することがなければ、食物を摂っても無味無臭であることに等しいのです。
そこに何の喜びがあるでしょうか?
味と匂いに違いがあるために、食物を摂ることは楽しいのです。
そうでなければ、食物を摂ることには喜びがないのです。
あなたは楽しむように努めなければなりません。
すべてには意味があります。
あなたにとって、それは大切なものです。
そのため、それを蔑(ないがし)ろにすることはできません。
食物に味がないからといってそれを拒絶していれば、肉体は痩せ衰えてしまうのです。
それでは、人生の幸福も豊かさもないのです。
食物に味を付けるのはあなたの仕事です。
調理によって味付けをすることと、状況を決めるのは同じことです。
味付けを間違わないように注意しましょう。
味付けを間違えた料理は食べれたものではないからです。

2015年5月22日金曜日

豊かな心

あなたは心に注意を払わなければなりません。
心こそが大切です。
心の状態によって、人生が決まるのです。
心を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
それは、目には映らないものではありますが、大切に扱わなければならないものであるのです。
心を蔑ろにする者は、人生を蔑ろにする者です。
人生を大切にしない者は、心を大切にすることができません。
人生とは心の反映であり、それは心そのものであるのです。
心が荒廃すれば、人生も同じように荒廃します。
乏しい心によって生きれば、乏しい人生が約束されるのです。
それは、人生を築くのはあなたの選択であり、その選択は心によって決められているからです。
あなたの意思選択こそが、人生を決めるということを理解しましょう。
誰かや何かの力によって、あなたの人生が決まるのではありません。
あなたは自分自身の意思決定によって、人生を築くのです。
この事実を見失っては、人生を豊かに築くことはできないのです。
どのような人生を得ようとも、それはあなたの責任です。
あなたがそのように選択したために、現状という形によって結果を得たのです。
それが苦悩に満ちたものであるのならば、心を修正することによって状況に建設的な変化を与えることを勧(すす)めます。
人は誰もが幸福を得なければなりません。
なぜなら、幸福を感じる状態こそが成長の過程であり、成長こそが人生の目的であるからなのです。
豊かに生きることこそが、人生の目的であるということを覚えていなければなりません。
人生の目的を見失っている者は、苦行のような人生を選択します。
苦しいことが幸福ではないのです。
豊かであることこそが幸福であるということを理解しなければならないのです。
人生が豊かであるということは、その心が豊かであるということです。
心が豊かでなければ、人生が豊かであるということはないのです。
それは、人生の豊かさというものは、心の認識に他ならないからです。
心が豊かでなければ、人生に対して豊かな認識を得ることはないのです。
何を失っても、何が不足していようとも、豊かな心の前ではすべてが幸福に映ります。
乏しい心によっては、何を得ても、どれだけ満たされていようとも、そのすべてが乏しく映り、それを苦しみと認識するのです。
あなたが幸せであるのは、あなたの心が豊かであるからです。
あなたが不幸であるのは、あなたの心が乏しいからです。
ただ、それだけのことです。
誰かや何かが幸せを運んでくるということはありません。
誰かや何かに頼っても、あなたが幸福を得ることなどできないのです。
そのような間違った方法にしがみついてはなりません。
間違った方法をどれだけ実践しても、間違った結果を得るだけなのです。
毒を飲めば苦しむのは当たり前のことです。
毒を飲んでいるのに、幸福を得ることができる者などいないのです。
間違った方法が幸福を導くことはありません。
心の豊かさを育むことのみに専念しましょう。
それ以外の方法を用いてはなりません。
特別だと言われている場所や方法や道具によって、あなたが幸福を得ることは不可能です。
あなたは自らの心に頼らなければならないのです。
それ以外のものに頼っても、あなたが満たされることはないと理解しましょう。
心の荒廃に注意しなければなりません。
人の世には弱さから生じる虚偽(きょぎ)が溢れています。
慎(つつし)んでいなければ、心は簡単に荒廃してしまうのです。
人生の本質を見失ってはなりません。
目に映るものばかりを追い求めてはなりません。
あなたが大切にしなければならない心は、あなたの目には映らないのです。
何が大切であるのかを考えましょう。
心を豊かに育みましょう。
思いやりに富んだ思いと言葉を用いましょう。
それによって、心は豊かに育まれるでしょう。

2015年5月21日木曜日

収穫の時

収穫までには時間がかかります。
あなたはすぐさま刈り取ることはできません。
どのような植物も種子の状態から始まります。
あなたは種子を蒔(ま)き、それを育てなければなりません。
種子が芽を出し、無事に育つことは完全ではありません。
中には、蒔いてはみても、芽を出さない種子もあるのです。
芽が出たとしても、それを育てることは簡単ではありません。
そこには、時間と労力と創意工夫と忍耐が必要であるからです。
それ等を怠る者には、芽を育てることはできません。
種子には種類があり、それぞれの性質があります。
何の種子かによって、収穫までの期間と、収穫の質は違うものとなるのです。
野菜は比較的早く収穫に辿り着きますが、果実であれば長い歳月を有するのです。
それでも人は収穫に努めなければなりません。
それは、成長を実現するためです。
食物を摂らなければ肉体の成長が見込めないように、真理を得なければ精神の成長はありません。
真理とは、人が精神を成長させるためには得なければならない栄養素です。
真理を得なければ、人は精神を成長させることができないのです。
経験とともに真理を得ることができます。
それは、経験を通じて自らが蒔いた種子が成長し、成果を示すからです。
あなたは状況という経験と、知恵という真理を収穫し、それによって成長することができるのです。
人生はあなたのものです。
それを他人に頼ることはできません。
協力することはできますが、頼ることはできないのです。
あなたの代わりに誰かが種子を蒔き、それを育て、収穫することはできません。
あなたの畑には、あなた自身が種子を蒔き、それを育て、収穫する必要があるということを覚えておきましょう。
自らの意思によって人生を生きることを選択しない者には、収穫の喜びを味わうことはできません。
あなたは自らの意思によって種子を蒔きましょう。
それは、疑問という種子です。
あなたは人生に対して疑問を投げ掛けなければなりません。
そして、それを追求し、その答えを得る必要があるのです。
その答えこそが収穫であり、あなたを成長させ、人生を豊かなものにすることができるのです。
しかし、疑問を投げ掛けない者が多いのが現状です。
多くの人は疑問を持たないのです。
人生は何のために存在しているのか?
ここで自分が何をしたいのか?
何をしなければならないのか?
このままで良いのか?
投げ掛けるべき疑問はいくらでもあります。
様々な種子を蒔けば、畑は賑(にぎ)やかなものとなり、収穫の喜びは大きいものとなるのです。
人生に対する様々な疑問に対する答えは簡単には導き出すことができません。
それを得るためには歳月と経験が必要であるからです。
人生はあなたに様々な問題を導きます。
それは苦悩として現れるのです。
その問題が何のために存在するのか?ということに対する答えこそが収穫なのです。
これを簡単に導き出すことはできません。
そのため、長い目で見ることを覚えましょう。
収穫までには時間がかかるのです。
種子を食べても、腹の足しにはならないのです。
焦って答えを出す必要はありません。
それは、青い果実を頬張(ほおば)るようなものです。
苦い果実によって幸福を得ることはできないのです。
懸命に働き、収穫の時を待たなければなりません。

2015年5月20日水曜日

過去

この世界には因果の仕組みが存在しています。
すべての結果はそれに相応しい原因によって導かれます。
この世界に偶然も奇跡も存在しません。
それがどのような状況であろうとも、相応しい原因によって導かれた当然の結果であるということを覚えていなければなりません。
しかし、その結果の原因の詳細を理解することは簡単なことではありません。
それは、複合的であり、複雑であり、小さくもあり大きくもあり、認識することができることもあれば、認識することができないものもあるからです。
認識することができない原因を以て、偶然や奇跡という結論が生じますが、認識することができないだけであって、原因は存在しているのです。
原因が存在しているものを偶然や奇跡であるとは呼ばないのです。
自然界には、人間によって解明されていない物理現象が存在します。
その原理が解明されていないだけであって、その状態は存在しているのです。
これを奇跡と呼ぶ人はいません。
これと同じように、存在するものは皆、その結果に相応しい原因によって導かれているのです。
因果の仕組みを理解しなければなりません。
すべての結果には原因が存在します。
例外はありません。
すべての結果に原因が存在するのです。
結果を理解するためには、その原因を突き止める必要があります。
すべての原因は過去に存在しています。
過去に行われたことが経緯を経て実現されるのです。
原因を探求することが、結果を理解するためには大切なことであるのです。
原因を探ることをしなければ、結果に対する理解は実現しないということを覚えておく必要があるでしょう。
過去に向かい、それを考察しなければならないのです。
過去を蔑(ないがし)ろにしてはなりません。
人の目的は成長です。
成長を考える時に、前進することを優先するのは自然です。
成長するためには前を向いて進む必要があるのです。
しかし、振り返ることをしなければ、間違っていることにも気が付きません。
間違っていることに気が付かなければ、間違った方向に向かって進み続けなければならないのです。
間違った方向に進み続けるのであれば、人は苦悩を得るということを覚えておきましょう。
成長に対して間違った方向に進まないためには、それが正しい道であるのか?ということを確認する必要があります。
それは、目の前に存在する結果の本質を理解するということなのです。
あなたが受け取る結果が、あなたの進んでいる道です。
あなたは現状を客観的に見つめましょう。
それはどのようなものでしょうか?
あなたの成長を実現するものでしょうか?
それは、あなたに何を訴えているのでしょうか?
結果である現状を理解するためには、過去を振り返る必要があります。
歴史を軽視してはなりません。
あなたがなぜそのような現状を得ているのか?ということの答えは、過去によって証明されるでしょう。
人類が現状を抱いているのは、人類史によるものです。
あなたの国がそのような現状を抱いているのは、国史によるものです。
あなたがそのような現状を抱いているのは、あなたの歩んだ歴史によるものであるのです。
あなたにはその原因が認識することができないかも知れません。
しかし、この世界には偶然や奇跡という曖昧(あいまい)な状態は存在しないのです。
すべてが必要な理由を持っているのです。
現状を理解するために過去を振り返りましょう。
歴史を辿るのです。
そうすれば、現状に対する理由を理解することができるでしょう。
そして、現状を理解することができれば、未来についても確率の高い予測が成り立つのです。
あなたは前に進むために、過去を学ばなければなりません。
前に進むことばかりに捉われてはなりません。
見直すことも大切であるのです。
現状を理解し、豊かな未来を築くために、正しく過去を学びましょう。

2015年5月19日火曜日

人生は我が道です。
それは、自らの進むべき道であり、他人とは違うものであるのです。
あなたはあなただけの道を歩みます。
それが自然であり、正しい道であるのです。
あなたは自分と他人の道を混同してはなりません。
それ等を同じものとして考えてしまうと、自らの目的を果たすことができなくなるのです。
あなたの務めは何ですか?
あなたが自らの人生でしなければならないことです。
自らの目的が分からないのに、どうやってそれを達成するというのでしょうか?
あなたは人生を自らのものであると捉えなければなりません。
他人の人生は他人のものです。
あなたの人生はあなたのものなのです。
これを混同している者が多いのです。
そして、比較という行為が導かれるのです。
あなたは他人と自らを比較する必要はありません。
なぜなら、人生の目的が違うからです。
それは、人生を始めた時には既に違うのです。
人生の原因は人それぞれに違います。
それは、人生の原因が生まれた時点から生じるものではないからです。
人生の原因は、人の魂の中に存在しているのです。
魂は何度も人生を経験します。
そこで抱えた課題を解決するために新たな人生を始めるのです。
そのため、どのような環境に生まれるのかは、人それぞれに違っているのです。
それを混同するためにおかしくなるのです。
人生の目的は各自で違います。
目的が違うのだから、出発地点も違えば目的地も違うのです。
人はそれぞれに違うことが自然であり、それを同じにしようとするために歪みが生じるのです。
あなたは他人と自分とを比較することをやめましょう。
それぞれの生き方を追求すれば良いのです。
山の頂(いただき)を目指すものが、海を目指して歩を進めてはならないのです。
それでは目的地に到達することはできないのです。
あなたは、自らの人生の目的が何であるのか?ということを熟考しなければならないのです。
そして、自らの魂の情熱に確信を持たなければなりません。
あなたがどう生きるべきなのか?ということは、あなたの魂が教えます。
魂の声を聞くためには、自らの心に向き合い、それを静めなければなりません。
乱れて騒がしい心であっては、魂の声を聞くことはできません。
魂の声は小さいのです。
他人の言葉に進路を決められてはなりません。
あなたは自分自身によって進路を決める必要があるのです。
他人と比較することをやめましょう。
それは無益です。
何の意味もないことであるのです。
他人は他人であり、自分は自分なのです。
他人と変わったとしても、あなたは苦悩を得るだけなのです。
それは、他人の道があなたの目指す道ではないからです。
人生を安易に考えてはなりません。
他人のように成ることは、自分を捨てるということです。
それのどこが幸福であると言うのでしょうか?
人は自己という宝を与えられているのです。
それをわざわざ捨てるというのは狂気の沙汰であるということを覚えておきましょう。
人生は我が道です。
あなたは自分の務めを果たさなければなりません。
他人を見ずに、自らを見つめましょう。
自分自身と対話し、自分自身にとって価値あるものが何であるのか?ということを聞き出しましょう。
他人に聞いても分かりません。
他人は自分自身の求める価値を知っているだけです。
あなたの価値が何であるのか?ということは知らないのです。
我が道を行きましょう。

2015年5月18日月曜日

不自然な力

人生の目的に辿り着くためには、自己の管理が大切です。
自己を管理することができない状態の者が、人生の目的を果たすことはできません。
人は誰もが、自己を管理する必要があるということを覚えておきましょう。
あなたは自己を正しく導く必要があります。
自己の状態が正しくなければ、先へと進むことはできません。
そして、正しい自己でなければ、人生を果たすことはできないのです。
自己が正しい状態にあるためには、それが自然な状態でなければならないのです。
自己が不自然な状態であっては、正しいとは言えないのです。
正しさとは自然です。
人は自然界に生まれた自然の一部です。
それが自然を離れてはならないのです。
不自然という状態は歪みを意味します。
あなたは不自然さに注意を払わなければなりません。
不自然とは、強過ぎる力のことです。
自分自身が制御することのできない力というものは不自然です。
それに注意する必要があるということを覚えておきましょう。
できる限り、不自然とは触れ合わないように注意するのです。
限界を超えた状態は、無理を招きます。
無理を重ねていれば、それに耐えられなくなるのです。
耐えられなくなれば破損します。
小さな部分でも破損すれば、その歪(ひず)みから全体の崩壊に繋がる可能性が導き出されるのです。
そのため、どのような破損であっても、注意しなければならないのです。
小さな傷であると高を括(くく)っているのであれば、その傷によって後に苦しむことになるのです。
小さな傷であっても侮(あなど)ってはなりません。
小さな罅(ひび)を受けた硝子は、簡単に全体を失うのです。
油断してはなりません。
打ち所が悪ければ、小さな傷であっても取り返しの付かない事態を招くのです。
あなたは自己を管理しなければなりません。
それが、不自然な力に頼ることに注意を払わなければならないのです。
人は弱いものです。
それは、すべての人が未熟であり、愚かであるからです。
しかし、人は強さを求めています。
そのため、不自然な力によって、理想と現実の間を安易な発想によって埋めようとするのです。
安易な発想は、安易な方法に辿り着きます。
それは、不自然な力に頼ることでもあるのです。
楽をしようとすれば、不正を働くことになります。
人生は成長のための場所です。
それが簡単であることはありません。
成長を実現させることは難しく、一つ一つの段階を経なければ果たせないのです。
その道のりを楽に進もうとして、不自然な力に頼るのです。
あなたは、成長が簡単ではないということを覚えておかなければなりません。
難しいことが前提です。
険しいことが前提です。
遠いことが前提です。
苦しいことが前提なのです。
それ等の条件を踏まえた上で進む道こそが正しいのです。
それ等を否定することはできません。
あなたはできる限り自然の力を用いましょう。
焦りによって、不自然な力に頼ってはなりません。
自力で行うことができないことを、不自然な力に頼ってまで無理に行う必要はないのです。
良い意味で満足しなければなりませんし、諦めなければならないのです。
不正に手を染めてはなりません。
不自然な力に頼ってはなりません。
制御することのできない力には、あなた自身が飲み込まれてしまう可能性があるのです。
注意しましょう。

2015年5月17日日曜日

似た者同士

すべての人は長所と短所を所有しています。
すべての人に優れている部分と、劣っている部分とがあるのです。
優れているだけの人、劣っているだけの人はいません。
長短の両方を持ち合わせているのが人であるのです。
あなたはそのことを覚えておきましょう。
あなたは優れている訳でもなく、劣っている訳でもありません。
あなたは長短の二つを兼ね備えた存在であるのです。
そのため、あなたが自分が優れていると思うのは間違いです。
自分が優れていると過信し、傲慢(ごうまん)に陥る者がいます。
そのような状態の者には正しい自己評価が行えません。
自分自身を見失うのであれば、間違った選択によって苦悩を得ることは必至であるのです。
そのため、あなたは自分が優れていると過信してはなりません。
それとは反対に、自分が劣っていると思うのは間違いです。
自分が劣っていると必要以上に思い込み、自己批判を通じて自己憐憫(じこれんびん)に陥る者がいます。
そのような状態の者には正しい自己評価が行えません。
自分自身を必要以上に蔑(さげす)むことによっては、人生の目的を果たすことができないということを覚えておかなければならないのです。
傲慢であっても、憐憫であってもなりません。
どちらに偏っても、実力を発揮することができないのです。
人は、長短のどちらも所有しているという思いを持ち、自己を正しく判断する必要があるのです。
すべての人に利き手という状態が存在します。
左右では、目にしても腕にしても脚にしても、少なからず優劣が分かれます。
それは、扱い易さの優劣です。
右利きの人は左腕に比べると右腕が作業効率的には優れます。
しかし、どちらかが善又は悪であるということではありません。
どちらも大切な役割を担っているということを理解する必要があるのです。
肉体に利き手が生じるのは、人の本性による影響です。
人は長短を兼ね備えます。
その性質が肉体を通して現れているのです。
傲慢さを抱える者は、利き手とは反対の手によって生活してみましょう。
自らがどれだけ未熟であるのか?ということが分かります。
自己憐憫を抱える者も同じです。
利き手と反対の手によって生活することによって、普段の働きが如何に優れているのか?ということを理解することができるのです。
しかし、これは、利き手とは反対の手を蔑むための方法ではありません。
両方の手が合わさって初めて作業は円滑に進むのです。
そのため、長短のどちらにも感謝しなければならないということなのです。
多くの人は優れている部分だけを求めますが、それではバランスが崩れてしまいます。
大きな石だけを積み上げることは、脆(もろ)さを導くのです。
大きな石の間に小石を挟み込むことによって、脆さは解消されるのです。
長短のどちら共を認め、それ等を大切に扱うのであれば、あなたはバランスを以て人生を進むことができるでしょう。
片足で歩くのは大変です。
利き足では無いからという理由によって、そちらの足を使わないということがあるでしょうか?
両の足があるのならば、それを使う方が有利であるのです。
劣っているからという理由によって、それを否定しているのであれば、あなたは自らを不利な状況に追い遣(や)るだけであるということを理解する必要があるのです。
自らの短所を見せ付けられることは誰にとっても辛いことです。
そこでは、恥を覚えるでしょう。
しかし、それを否定してはなりません。
人は自らの短所と向き合うことによって成長することができるからです。
長所に向き合うことは既に慣れているでしょう。
そのため、長所に対しては、それが傲慢に陥らないように心掛け、より洗練していきましょう。
短所を恥じて、否定してはなりません。
両方とも大切な性質です。
どちら共を大切に扱うのです。
それが、他人のものであっても同じことです。
誰もが長所と短所を持ちます。
人は皆、互いに似た者同士であるということを理解しましょう。


2015年5月16日土曜日

気付き

人は成長するために生きています。
すべての存在と同様に、あなたは成長という目的を以て生きているのです。
人が成長から離れることはできません。
それは、人生における根源的な目的であるからです。
あなたは成長から離れることができないということを覚えておきましょう。
人生を生きる目的は成長です。
成長するためにすべてが導かれ、あなたはそれ等によって成長を実現するのです。
あなたは、すべての状況が”気付き”のために存在しているということを理解しましょう。
”気付き”を得ることが大切です。
人は、真理に気が付くことによって成長を実現することができるのです。
真理はすべての状況に潜在しています。
すべての状況が真理によって構成され、真理によって実現しているのです。
そのため、状況を追求するのであれば、真理に辿り着くことは必至であるのです。
真理を含まない状況というものは存在しません。
それがどのような状況であるにしても、それは真理によって構成され、真理によって導かれたのです。
あなたは常に真理と触れ合っているということを理解しなければならないのです。
どのような瞬間も、あなたは真理と共に生きているのです。
そのことに気が付かなければなりません。
目の前の状況が虚(むな)しいものだとか、意味の無いものだとか、自分にとっては苦しみであるなどと誤解してはなりません。
それがどのように見えようとも、真理によって構成され、真理によって導かれているのです。
そのため、その状況があなたの成長を助けることは当たり前なのです。
そのことを知らずにいてはならないのです。
あなたが苦しみだと決め付ける状況であっても、そこに真理が存在していることに気が付くことができれば、それはあなたの成長の助けとなるのです。
苦しみだと決め付けるために、成長の妨げとなるのです。
それが成長の助けになると決め付けていたのであればどうでしょう?
結果は同じものになると思いますか?
ならば、同じような状況を得ている人と、違う結果を受けているのはどういうことですか?
あなたが受けたような結果を、他人は同じように受け取るでしょうか?
人によって結果は違うものになるのです。
それは、それぞれの対応が違うものであるからです。
状況が自分にとってどのようなものであるのか?ということをどのように決めるのかによって、結果は違うものとなるのです。
あなたはそのことを覚えておきましょう。
どのような状況からでも、あなたは成長を実現することができるのです。
それは、自分自身の考えを変えるだけです。
ただ、それだけの違いなのです。
何かを失うことを恐れている人がいます。
その人にとっては、それは苦しみとなるでしょう。
しかし、失うことを恐れない人にとっては、それは喜びとなるのです。
病気になると、肉体の自由を失うと考える人がいます。
そのような人にとって病気とは敵であり、自由を失うことは苦しみです。
しかし、病気になると、肉体の不自由を得ると考える人がいます。
そのような人にとって病気とは気付きであり、不自由を得ることは喜びとなるのです。
例えば、肉体の不自由を得れば”当たり前”を当たり前だとは思わないでしょう。
今までは当たり前だと思っていたことさえ、満足に行えないことに気が付き、肉体の自由に感謝するでしょう。
そして、他人からの小さな手助けに感動することさえできるのです。
それは、”気付き”です。
病気という不自由によって、多くの気付きを得ることができるのです。
多くの人は不自由を苦しみと考えますが、それで成長することができるでしょうか?
あなたは深く考えなければなりません。
人生の目的が何であるのか?ということを覚えていなければなりません。
あなたは”気付き”を得ることによって成長するために生きているのです。
”気付き”は常にあなたの目の前に存在しているのです。
そのことを覚えておきましょう。
何を失ったとしても、それが不利に働くことはありません。
それは、本当は何も失ってはいないからです。
すべては成長のために存在するのです。
そのため、あなたは常に多くを得ているということを覚えていなければならないのです。

2015年5月15日金曜日

”神”の仕事

個人的な利益のためにこの世界が存在しているのではありません。
この人生は、個人的な利益を追求するためのものではないのです。
世界は全体のために存在し、人生は貢献のためにあるのです。
それを個人的な利益のために追求してはなりません。
それは、本来の目的とは遠く隔たるものであるからです。
個性を大切にすることは重要です。
人はそれぞれに個性を与えられています。
個性を殺すことは許されません。
それは、個性によってのみ、全体への貢献が実現するからです。
しかし、個性を追求するあまり、個人的な利益に根差した行為に至ってはならないのです。
人は、個性によって全体に対して貢献する必要があるのです。
個性を殺して集うことは、全体への貢献とはなりません。
すべての人の仕事が同じものであるのならば、人は豊かな人生を築くことはできないのです。
違う仕事によって支え合っているために、人生は豊かなものとなるのです。
大切なのは個性によって実現される全体への貢献であるということを覚えておきましょう。
しかし、多くの人は人生を誤解しています。
自分自身が幸福であれば良いと思い込んで(思い込まされて)いるのです。
人が求めるものは幸福です。
しかし、それは個人的なもののことではありません。
幸福とは、自分自身をより深く知ることによって形を変えます。
あなたが全体の中の一部であるということを理解すれば、個人的な利益の追求が幸福であるなどとは思えなくなるのです。
そして、個人的な幸福というものが、全体への貢献であるということを理解するようになるのです。
全体に貢献するためには、個性を生かす必要があるということも理解するでしょう。
自分が自分らしくなければ、全体に貢献することは難しいのです。
あなたは個人的な利益のために生きてはなりません。
それは人生の豊かさにとっては、間違った道であるということを理解しなければならないのです。
個人的な利益を追求する者がいます。
そのような者は、因果の仕組みによって苦悩を得るということを覚えておきましょう。
全体に貢献することが正しい道であり、自分自身に貢献することは正しい道であるとは言えません。
そのため、個人的な利益を貪(むさぼ)る利己主義者は、その傲慢(ごうまん)な行いによって後に不利な立場を得るのです。
”神”が個人的な利益を満たすことはありません。
個人的な利益のために”神”が働くことは有り得ません。
しかし、多くの者が個人的な利益のために”神”を利用しようとしています。
ある者は自らを”神”とします。
ある者は”神”の守護を宣伝します。
ある者は”神”を個人的に利用しているのです。
”神”が全体の一部に過ぎない個人のために働くと思いますか?
祈れば救われると、本気で思っているのですか?
あなたの願いが通じると信じているのですか?
そのような自己中心的な愚者の頼みを”神”が聞き入れると思いますか?
あなたは自己を反省しなければなりません。
そして、自らが個人的な利益のために生きてはいないか?ということを考えなければならないのです。
全体のために貢献しない者が、どうして全体によって救われるのでしょうか?
他人を助けない者が、どうして誰かに助けられるでしょう?
あなたは、利己的な者を助けることができますか?
この世界には因果の仕組みが存在します。
原因に相応しい結果を受けるのです。
原因を持たなければ、結果を受けることはできません。
個人的な利益のために働く者には、孤立という結果が導かれるのです。
因果の仕組み(神)が人に同情するということはありません。
気の毒に思って手を差し伸べることはないのです。
原因に相応しい結果のみを導きます。
この世界には、偶然も奇跡も存在しないのです。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、個人的な利益を追求してはなりません。
個性を生かし、全体に貢献するように努めましょう。
小さなことで構わないのです。
自分にできることを実行することが重要です。
どのような理由があろうとも、”神”は個人的な利益のためには働かないということを覚えておきましょう。
”神”の名を語る詐欺師を見極めなければなりません。
そして、”神”の名を語る詐欺師となってはなりません。
個人的な利益の追求に気を付けましょう。

2015年5月14日木曜日

信じることができないこと

あなたの認識は、あなたの目の前にのみ限定されます。
あなたは、ほとんどのことを知りません。
あなたが知っていることはほんの少しのことだけであるのです。
その中で理解していることは、それよりも少ないものであるのです。
多くの人は、自らの価値観の中に認識を置きます。
価値観を離れては認識は成り立ちません。
すべての人が価値観を所有しますが、その内の大抵の人がそれに縛られているのです。
価値観を離れて認識を実現することができる人はほとんどいません。
自分自身が信じることができないことは、信じることができないのです。
当たり前のように聞こえるかも知れませんが、重要なのは、信じることができないことであっても信じるということなのです。
あなたは、信じることができないことを信じることができますか?
矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、これを実現する必要があるのです。
信じることができないこととは、あなたの価値観の外にある可能性です。
あなたの信じるところに従うということは、限定された価値観の中で生きていくということです。
限定された価値観の中に生きるということは、それ以上の可能性は得られないということなのです。
可能性が得られないということは、それ以上の向上は望めないということです。
それ以上の向上が望めないのであれば、それ以上の幸福を得ることはできないのです。
人生の目的は成長にあります。
成長するということは、幸福であり続けるということです。
あなたは幸福でなければなりません。
不幸であるということは、成長が実現していないということなのです。
成長が実現していないということは、可能性を得ることができていないということです。
それは、限定された小さな価値観の中に生き続けているということを現しているのです。
人の人生における目的としては、それは間違いであるということを理解しましょう。
成長することが目的であるということを理解することができない者にも、幸福であることが目的であることは理解することができるでしょう。
すべての人が幸福を求めています。
しかし、そのために価値観への執着を捨てることは稀(まれ)です。
それは、信じることができること以外を信じることができないからです。
あなたはいつまで小さな価値観の中に生きるつもりですか?
それが”自殺行為”であるということを理解しなければなりません。
ただ生活して、ただ子孫を残すことが人生の目的ではないのです。
しかし、多くの人がそれが人生の目的なのだと思い込んでいます。
生殖期間など、人生においては短期間であるのです。
しかし、それに多くの労力を注いでいるのが”普通”です。
そのために、知性と真実と可能性を犠牲にしているのです。
あなたは本質を見つめなければなりません。
欲望を満たすことが目的ではありません。
不安を埋めることが目的ではありません。
優越感に浸ることが目的ではありません。
成長することのみが目的であるのです。
自らの目的すら見失っているのです。
それが、この世界における”普通”であるのです。
目的を見失っているというレベルに生きているのです。
あなたは人生が何のためにあるのかを知っていますか?
あなたは自分自身を何者だと思うのですか?
これ等を知らないのが”普通”です。
これ等を考えたこともないのも”普通”なのです。
そのようなレベルに生きているという事実に気が付きましょう。
あなたは何のために生まれ、何のために生きているのですか?
自らの信じることができる小さな価値観の世界の中に、いつまで固執(こしゅう)するつもりなのですか?
信じられないことの方が多いのです。
あなたはなぜ、自分が優れていると思うのですか?
人生が何のためにあり、自分自身が何者であるのかすら知らない者が、どうして優れているのですか?
信じることができないことを信じなければなりません。
いつまでも、小さな世界に生きてはなりません。
自らの意思によって、世界を広げましょう。
認識を彼方(かなた)にまで届けましょう。

2015年5月13日水曜日

真の強さ

人は弱いものです。
人は心の中に弱さを抱えています。
人はその弱さを隠すのに懸命です。
それは、弱さによって自らの立場が危うくなるのを恐れているからです。
弱さは恐れから生じます。
恐れがなければ、弱さはありません。
しかし、人は恐れます。
恐れを取り除くのは簡単なことではありません。
すべての人が何かに対して恐れ、何等かの恐れを生涯抱えて生きるのです。
恐れを完全に取り除くことはできないでしょう。
そのため、すべての弱さを克服することはできないのです。
これは、向き合わなければならない性質です。
人が恐れと弱さを抱えながら生きるのは、成長を実現するためなのです。
人は成長するという目的を抱えて人生を生きています。
そのためには、恐れと弱さが重要なのです。
これ等を持たずに成長することができる人はいません。
恐れと弱さは、人を成長させるための”鍵”であるということを覚えておきましょう。
成長とは”扉”のようなものです。
それを開けることによって成長は実現します。
しかし、扉を開けるためには、それに相応しい鍵が必要です。
形が合わなければ、扉を開くことはできないのです。
成長の扉を開くための鍵は”強さ”という形をしています。
これを手に入れなければ扉は開かれないのです。
あなたは恐れと弱さを”強さ”という形に変えなければならないのです。
それによって、あなたは成長を実現することができるでしょう。
人には立場というものがあります。
人はそれを守るために必死です。
誰もが立場を守るために嘘を吐きます。
子どもから大人までが、立場を守るために嘘を吐くのです。
多くの人が信仰する宗教家、多くの人が憧れる著名人であっても同じことです。
人は立場を守るために嘘を吐くのです。
それは、すべての人が未熟であり、愚かであるがためです。
すべての人が恐れと弱さを抱くのです。
これを克服する必要があるのです。
そのためには、”強さ”が必要です。
それは、嘘を吐かない勇気です。
勇気とは強さなのです。
あなたは嘘を吐かずに生きることができますか?
立場を守る必要がないと言い切れますか?
あなたにはそれが難しいでしょう。
虚無的(きょむてき)な者には容易いかも知れません。
しかし、そのような諦めは”強さ”とは言いません。
あなたには守りたい立場があるでしょう。
それを守るために吐いている嘘を放置していてはなりません。
身体が大きくなることや、立場が強くなること、そして、富と名声が高まることが成長ではないのです。
そのような”詰まらない”ことを目的としてはならないのです。
あなたの人格が愛に近付くことこそが成長であるのです。
嘘を吐く者が愛に近付くでしょうか?
あなたは愛している相手に嘘を吐くでしょうか?
嘘は愛とは遠い場所にあるのです。
愛は最上の力です。
これを持つ者が弱いはずがないのです。
愛に遠い者が、弱さ故(ゆえ)に嘘を吐くのです。
勇気を以て真実という強さを身に付け、成長の扉を開けて進みましょう。

2015年5月12日火曜日

欲の形

この世界には欲望が渦巻いています。
それは世界を吹き荒れる嵐のようです。
すべての人が欲を持ちます。
それは決して悪いことではありません。
欲にも様々な形があるのです。
ポジティブな欲もあれば、ネガティブな欲もあります。
物事を向上させようという欲もあれば、物事を衰退させようという欲もあるのです。
積極的な欲もあれば、消極的な欲もあります。
欲には様々な形があるということを覚えておきましょう。
あなたは自らの所有する欲を適切に扱わなければなりません。
これを適切に扱うことができなければ、それによって苦しみを得ることになるからです。
欲は風のようなものです。
微風は心地好さを伝えます。
しかし、暴風は恐怖を伝えるのです。
同じ風であっても、その性質の違いによって、受ける結果は大きく変わるのです。
蒸し暑い時には強い風を求めます。
肌寒い時には無風を求めるのです。
時と場合によって、価値は変わるということを理解しなければなりません。
人が持つ欲にも、時と場合によって価値が変わります。
その状況によっては価値があったとしても、違う状況においては価値が無い場合があるのです。
あなたは目的を見失ってはなりません。
現状がどのような状態であるのか?ということを知っていなければならないのです。
何に対して欲を出すべきなのか?ということを見誤ってはならないのです。
欲の扱い方を間違ってしまえば、人生における豊かさを得ることはできません。
肌寒い時に強風を得れば、苦しみは増してしまうのです。
あなたの人生の目的は何ですか?
あなたは何のために生きているのですか?
これを見失って、どうして人生を豊かなものにすることができるのでしょうか?
扱い方を間違った欲は、身を滅ぼすということを覚えておかなければなりません。
人は欲によって生まれ、欲によって滅びるのです。
欲を支配することは重要です。
これに支配されてはならないのです。
多くの人は欲に支配されています。
自らの欲を制御することができずに、苦しみの結果を受けるのです。
この世界には欲望が渦巻いています。
それは、自らの持つ欲望をコントロールすることができない者が多いからです。
欲望の渦は目には映りません。
そのため、あなたはそれに対処することが難しいのです。
突風に対応することのできる人はいません。
誰もが突風によろめくのです。
それは、突風が目には映らないからです。
欲も目には映りません。
それは、具体的な形を持たないために対応することは簡単ではないのです。
そのため、多くの人は欲望を支配することができないでいるのです。
あなたは自己を見つめましょう。
自己を見つめることによって、徐々に欲の形を理解することができるようになります。
欲とは、不足を補おうとする働きなのです。
そのため、欲を理解することによって、自らの不足を理解することになるのです。
不足が解消されるのであれば、欲が暴走することはないでしょう。
欲を支配するのであれば、豊かさを実現することは容易です。
それは、欲望によって過ちを犯さないようになるためです。
欲望に付き従えば、冷静な判断ができなくなります。
それでは、過ちを犯すことになるのです。
今の自分にとってどのような形の欲が必要であるのか?ということを考えましょう。
欲が無くなるということはありません。
プラスにもマイナスにも、大き過ぎる欲があるだけです。
強欲でもなりませんし、無欲でもなりません。
強欲は傲慢(ごうまん)さを導き、無欲は無関心を導くからです。
バランスの良い欲の形を目指しましょう。

2015年5月11日月曜日

群集心理

人は群集に注意しなければなりません。
群集には、特有の心理が働きます。
群集心理とは、群集の中に働く全体意識です。
それは、個人の信条を簡単に曲げてしまいます。
群集の中に入れば、個人は”個”を失うのです。
それは、自らに対する正しさを歪める力を持っているのです。
人は、自らに対する正しさに付き従って生きる必要があります。
それは、人生というものが人それぞれに違う目的を以て存在しているからです。
すべての人が同じ目的を持つのではありません。
成長という根源の目的は同じですが、その方法には違いがあるのが自然です。
そのため、それぞれに違う目的に従って生きる必要があるのです。
それぞれが別々の方法によって、全体を形成することが求められます。
人間の営みは、様々な職業が結び付くことによって実現します。
職業が同じものであり、そこに違いが生じなければ、人間の営みが実現することはないのです。
それぞれが違うものを持ち寄ることによって、豊かさが得られるということを覚えておきましょう。
そのため、人は”個”を大切にしなければならないのです。
個性が失われるのであれば、全体の豊かさが損なわれるということを理解しましょう。
群集心理に従うことは、自らの”個”を歪める可能性を得るということです。
個性を失ってもらっては困るのです。
あなたには、あなただけの目的があるということを理解しましょう。
しかし、人は弱さを抱えています。
人は誰もが未熟です。
未熟であるが故に、人生を生きることによって強さを学んでいるのです。
弱さによって、群集を求めます。
それは、他人と同じようにしていることによって、ある種の安心感を得ることができるからです。
その行為が自らにとって正しくはないとしても、他人と同じであることによって自らを正当化し、罪悪感を紛らわそうとしているのです。
しかし、自らにとって正しくないことを実行するのであれば、それは苦悩という結果を導くことになるのです。
自らの生み出した因果からは逃れることができないのです。
自らに正しくない行為に及べば、後に苦悩を得るということを忘れてはならないでしょう。
群集心理はあなたを大胆にします。
他人と同じであるのならば、それだけの理由であなたは気を大きくするのです。
他人と共にいることによって、自分が大きく、強くなったように思い込みます。
しかし、実際には何も変わってはいません。
他人によっては、あなたは何一つとして変わりようが無いのです。
あなたが他人を変えることができないように、他人にもあなたを変えることはできないのです。
そこには、大いなる勘違いが存在しているだけなのです。
そのため、あなたは自分自身のことは、自分自身で守らなければならないのです。
人は他人との関係を断ち切ることはできません。
人は必ず群集の中にいなければなりません。
あなたは常に群集心理の影響を受け続けています。
そのことを理解しておかなければなりません。
自分の身は自分で守らなければ、自らの人生の目的を果たすことはできません。
群集の中にあって、調子に乗ってはなりません。
自らの実像を見失ってはなりません。
群集心理によって大胆に、厚かましく、傲慢(ごうまん)に生きてはなりません。
大切なことを忘れた者ほど、後に苦しみを得ることになるのです。
群集心理によって、自分自身を見失ってはなりません。
自分自身を見誤ってはならないのです。
赤信号は赤信号です。
何人で渡ろうとも、自動車は薙(な)ぎ倒すのです。
集団で渡っても、一台の自動車にも勝てないのです。
あなたは自分自身を謙虚に見つめなければなりません。
自分自身の実相を見つめる必要があります。
群集心理に押されて、自分自身を見失ってはなりません。
取り返しのつかないこともあるのです。
自分自身を大切にしましょう。

2015年5月10日日曜日

人間の苦悩

あなたは自分自身の崇高な面に比重を置かなければなりません。
あなたは崇高な自己を育むように努めましょう。
崇高な自己を目指すことによって、人は成長することができるのです。
成長することこそが幸福であり、人生の目的でもあるのです。
そのため、人は崇高な自己を育む必要があるのです。
自己が高まらなければ、幸福は実現しません。
誰かや何かによって幸福が得られるということはないのです。
あなたが目指さなければならないのは自己の成長であるのです。
人は、自己によって幸福を得ることができるということを覚えておかなければならないのです。
誰かや何かに頼ることによって得られるものが、あなたの魂の情熱を満たすことはないのです。
人は自己の成長によってのみ、魂の情熱を満たすことができます。
それは、魂の目的が自己の成長であるからなのです。
人は多面的です。
人は様々な面を持っているのです。
ポジティブな面を持っているかと思えば、ネガティブな面を持っているのです。
人はすべての可能性を所有しているために、すべての面を持っているのです。
どのような可能性を伸ばすのかは、自分自身で決めることができます。
どのような自分になるのか?どのような人生を送るのか?ということは自分次第であるということなのです。
あなたが自分自身のどのような面に比重を置くのかによって、どのような自分になるのか?どのような人生を送るのか?ということが決まります。
この世界には因果の仕組みが存在しているために、自らの所有する原因に相応しい結果が導かれることは当然であるのです。
あなたの受け取る結果は、あなたの所有する原因に相応しいものです。
それ以外は有り得ません。
すべてがあなたに関係していることであるのです。
人生をどのようなものにするか?は、自己の状態に左右されるということを覚えておきましょう。
因果の仕組みは、原因の通りに結果を導き出します。
これを歪めることはできません。
善行をすれば喜びの結果が導かれ、悪行をすれば苦しみの結果が導かれるのです。
自分自身の在り方が重要であるのです。
多くの人は自分自身を意識しながら生きてはいません。
多くの人が自己を放置して生きているのです。
自分自身の思考や感情、言動を精査して調整している人は少ないのです。
思考も感情も言動も、それをそのままにしているのが”普通”なのです。
そのため、多くの人は自己を知りません。
そして、自己を調整することをしないのです。
そのままにしているのであれば、自己は悪事を楽しみます。
それは、人が既に歪んでいるからです。
あなたは人が弱いことを理解することができるでしょう。
人は未熟です。
人は卑怯(ひきょう)です。
人は自己中心的です。
人は暴力的です。
人は汚れを楽しむのです。
そのままにしているのであれば、それは錆(さび)を受ける鉄のように腐敗していくのです。
自己が腐敗していくことは、人生が苦しみに向かうということです。
あなたが幸福を求めているのであれば、それは避けなければならないことなのです。
あなたは自分自身の崇高な面に集中しなければなりません。
放っておいても歪みます。
そのために、人は自己が腐敗しないように調整し続けなければならないのです。
崇高な面とは、思いやりや優しさ、感謝や慈しみなどの感情です。
これ等に比重を置くことを忘れなければ、自己は成長を実現するようになるでしょう。
弱さや未熟さ、卑怯であって自己中心的であり、暴力的な自己を大切にしてはならないのです。
人生においては、自己の状態が重要であるということを忘れてはなりません。
自分自身の崇高な面と向き合い、崇高な自己を実現しましょう。
そうすれば、あなたは”人間の”苦悩に捕らわれることがなくなるでしょう。

2015年5月9日土曜日

旅の荷物

人生とは一生期間のことです。
それは、命の尽きるまで続きます。
人は、一生を人生に捧げる必要があります。
人は一生を人生の内に生きるのです。
あなたは人生と向き合わなければなりません。
人生に背を向けることはできません。
逃げ出した先に待っているものも人生であり、そこでは同じ学びが与えられるのです。
あなたは一生涯、人生の内に生きることを忘れてはならないのです。
人生とは学びの場所です。
人はそこで自らの不足を補います。
そして、自らの歪みを整えるのです。
そのため、向き合わなければならないものは、自らの弱さや愚かさです。
これ等の未熟さと向き合う時には、自分自身の”嫌な面”を直視する必要があります。
”嫌な面”を直視するのであるから、嫌な気分に落ち込むことになります。
それは、あなたにとっての問題であり、苦悩であるということを理解しましょう。
生きるということは、成長するということです。
それは、自らの未熟さの克服です。
それは簡単なことではないのです。
すべての人が未熟であるために、すべての人が問題を抱え、苦悩を得るのです。
これを避けることのできる人はいません。
すべての人が苦悩を得るということを覚えておきましょう。
では、どのくらいの期間、苦悩を得るのでしょうか?
それは、一生涯です。
人生とは一生期間のことなのです。
人は、一生期間学び続け、この苦悩を得なければならないのです。
平和であろとも苦悩はやってきます。
幸福であろうとも苦悩を得るのです。
人が”人”である限りは、苦悩を受け続けることを覚えておきましょう。
しかし、多くの人がそのことを知りません。
また、どこかで、誰かから聞いたとしても、それを覚えている人はいません。
人は誰もが苦悩を受ける原因を抱えているのです。
それを取り除くことは容易ではありません。
そのため、人生は一生期間という時間を与えられているのです。
一生期間に受ける苦悩は短くもあり、長くもあります。
それを有効に使う人にとって苦悩は短く、それを無効にする人には長いのです。
苦悩を受け続ける必要はありません。
それは、あなたが決めることができるのです。
学びから逃れることはできません。
すべての人が一生期間をかけて、自らの未熟さと向き合わなければならないのです。
あなたは気長に考えましょう。
焦ることはありません。
一生をかけて、自らの成長を試みれば良いのです。
心が焦るのであれば、苦悩は長く続くものです。
苦悩を長引かせるのは愚かなことです。
一つ一つの未熟さと真摯(しんし)に向き合い、それを一つ一つ解決しましょう。
そうすることによって、抱えている問題の数は減ります。
それは、荷物の数が減ることと同じです。
荷物が無くなることはありませんが、減ることによって旅路は楽しいものとなるでしょう。
多くの人は荷物を増やしながら人生を歩んでいます。
歩みを進めるほどに苦悩が増すのは間違っています。
人生とは何か?ということを問い続けましょう。
そして、自分自身と向き合い続け、その身を軽くしましょう。
苦悩と向き合うことがなければ、成長することはできません。
あなたは一生期間、自らの人生と向き合い続けなければならないということを覚えておきましょう。

2015年5月8日金曜日

光と影

すべての人は光を求めています。
光とは希望です。
希望とは幸福であり、幸福とは喜びであるのです。
すべての人が喜びを求めています。
それは、人生の目的が喜びにあるからです。
人は成長することによって喜びを得ることができます。
喜びとは成長であるのです。
成長することに苦悩する人はいません。
成長するとは、より多くの喜びを得ることができる状態のことです。
成長することは、誰にとっても喜びであるのです。
すべての人が幸福を求めます。
主義主張には違いがありますが、それぞれの信じる幸福の形を求めているのです。
幸福を求めるのは、誰にとっても同じことなのです。
それは、喜びの追求であるということを覚えておきましょう。
喜びを求めない人はいません。
あなたは喜びを求めているのです。
どのような主義主張を展開しようとも、それが行き着く先は喜びであるのです。
そのことを理解しましょう。
すべての人が、それぞれの立場はあるにしても、光を求めています。
しかし、現状においてすべての人物が未熟です。
そのため、自分にとっての光を求める余り、”影”の重要性を忘れてしまうのです。
この世界では、光のある場所には影が存在します。
光だけでも、影だけであっても、存在することができません。
自ら発光する太陽であっても、影(太陽黒点・・・温度の違いによって発光していても影に見える)があるのです。
光と影を切り離すことはできません。
”神”はこの世界に対して、喜びと同時に苦しみを生んだのです。
苦しみが存在するのは、それが”神”によって必要であると判断され、許されているからに他なりません。
そのため、あなたが”神”(宗教のことではない)を信仰する時、苦しみを否定することはできないのです。
すべての人が光を求めています。
苦しみを否定して、できる限りの喜びを求めるのです。
人生が喜びで溢れることは良いことです。
誰にとっても喜びが多い方が良いに決まっています。
しかし、喜びを求める余り、苦しみを否定することは間違っているのです。
太陽が毎日照り輝けば、地上は焼けてしまうのです。
地上が焼ければ、水は干上がるのです。
生命を保つためには水が必要です。
水が無ければ生命は存在することができません。
そのため、水は生命よりも大切であると言えます。
生命が水を失わないためには、曇天(どんてん)が必要です。
影が無ければ、大切なものを失うことになるのです。
人生においての曇天とは苦しみです。
浅はかに考えるのであれば、苦しみを否定するのは仕方のないことです。
子どもは雨空を憎みます。
しかし、大人は雨空に歓喜するのです。
見解の成熟度の違いがそこにはあるのです。
あなたは苦しみを憎みますか?
それで幸福を得られると思いますか?
なぜ、それが苦しいのか?ということを考える必要があります。
”神”よりも、あなたの方が優れているのですか?
”神”はすべての創造主です。
あなたもその中に含まれます。
自らの創造主よりも優れているというのであれば滑稽(こっけい)です。
”神”(因果の仕組み)が苦しみを導いたのです。
苦しみを否定するのは、創造主への反抗なのです。
その苦しみには大切な意味があるために導かれたのです。
曇天が訪れなければ、あなたは生命すら保つことができないということを覚えておきましょう。
光のみを追うことを止め、影も大切にしましょう。
喜びのためには、どちらも大切なのです。
苦しみに対する態度を改めましょう。

2015年5月7日木曜日

美しい庭

人生は心によって大きく影響を受けます。
人生は心によって築かれます。
人生に対する心の影響力を侮ってはなりません。
人は心に従って選択します。
心に従って考え、心に従って行うのです。
心の状態が重要であるということを忘れてはならないのです。
人が豊かな人生を手にいれるためには、豊かな心が必要です。
豊かな心によってのみ、豊かな選択が導かれ、豊かな人生が築かれるのです。
豊かな心がなければ、人は豊かに考えることも、豊かに行うこともできません。
心を蔑ろにしてはなりません。
心を探求し、それを豊かに育みましょう。
心とは、家屋に対する庭のようなものです。
それは、魂という名の家屋を飾ります。
魂こそがあなたの本質です。
心とは、そこから生じる結果なのです。
家屋が生じなければ庭は存在しません。
庭は家屋によってその存在が許されるのです。
魂に付属する心は、あなたの人生を他人に知らせます。
庭が整っていない家屋は、その内情も整ってはいません。
そのため、家主は庭を管理する必要があるのです。
魂の家主であるあなたは、その心を管理しなければなりません。
心が乱れているのであれば、庭が荒れているのと同じです。
雑草(目的外の結果)が生い茂り、枝葉が乱雑に伸び放題であり、一目で荒廃していると見て取れるのであれば家の信用に関わるのです。
心が乱雑である者は、他者からの信頼を失います。
それは、頼りにならないと判断されるからです。
他者は美しい庭の作り方を知りたいのであって、庭の荒らし方を知りたいのではないのです。
心を整えている人の見解を受けたいとは思っても、心の乱れている人の見解を受けたいとは思わないのです。
あなたは心を整えなければなりません。
それを管理することがなく、野晒(のざら)しにしているのであれば、美しい心であるとは言えないのです。
荒廃した心が豊かな人生を築くことはありません。
庭が美しく管理されているのであれば、どのような家屋も美しく見えるのです。
しかし、豪華な家屋を構えても、庭が荒廃しているのであれば、それは廃墟のようであるのです。
どれだけ立派な人物であろうとも、心が乱れているのであれば、豊かな人生を築くことはできません。
例え、魂の状態(段階)が他人より優れていたとしても、心の状態が劣っているのであれば、乏しさを得ることになるのです。
あなたは心を整えなければなりません。
様々な感情が入り乱れた荒れた心で生きてはならないのです。
風雨に晒されても、管理が行き届いているのであれば、庭は美しく存在するのです。
苦しい状況を受けても、正しく整えられた心は豊かな人生を築くのです。
人生では心の状態が重要です。
心を無視して豊かな人生を築くことはできません。
あなたは心について考え、それを管理しましょう。
感情が乱れないように注意しましょう。
いつも美しい心を想像するのです。
これを忘れなければ、感情が乱れることは少なく済むでしょう。
乱れた心は人生を乱します。
人生とは心の反映なのです。
そのことを理解し、これを守りましょう。
多くの人は心について余りにも無関心です。
そのため、人生には苦悩が絶えないのです。
庭を管理しなければ家屋も廃れます。
それは、庭を管理しない者が、それよりも重要な家屋を管理することがないからです。
魂という本質が最も大切ですが、あなたにはそれをどうすることもできません。
しかし、心は管理することができるのです。
心を整えることによって、間接的に魂が整うということを理解しましょう。
美しい心で生きれば、美しい魂が育まれます。
美しい庭によって、家屋は美しく映るのです。
美しい心によって、美しい人生を築きましょう。



2015年5月6日水曜日

自分だけの価値

あなたは人生をもっと柔軟に捉えなければなりません。
既存の価値観によって人生を計ってはなりません。
人生はあなたのものであり、それはあなたにとって最善の形を成します。
あなたの現状はあなたにとっての最善であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
あなたは自らに”与えられた”現状というものを大切にする必要があるのです。
分相応に生きることが重要です。
それを犯してしまえば、自らにとっての最善をわざわざ破壊することになるのです。
最善が破壊されるのであれば、苦悩を得ることになるのです。
現状は最善の形であるのです。
あなたはそれに満足しなければなりません。
しかし、これは向上意欲を手放すということではありません。
自らを客観視することを忘れてはいけないということなのです。
これは戒(いまし)めです。
しかし、あなたを脅す訳ではありません。
あなたが苦しまないように、自らに対する客観性を忘れてはならないということなのです。
そのためには、人生に対する柔軟性を身に付けなければならないのです。
他人とあなたの人生は同じものではありません。
他人が見出す価値と、あなたにとって本当に価値のあるものとは違うのです。
しかし、客観性と柔軟性によって分(ぶん)を弁(わきま)えることのできない者には、価値を見極めることができません。
価値を見極めることができなければ、価値の無いものを追うことになるのです。
価値の無いものを追うのであれば、価値を手にすることができないのです。
自分にとって価値の無いものをどれだけ集めても、豊かさを手にすることはできません。
自分にとって価値の有るものが少しでもあれば、豊かさを手にすることができるのです。
既存の価値観によって惑わされる者には、豊かな人生を手にすることはできません。
豊かだと思い込む人生を手にすることはできますが、それは偽物であるのです。
偽物はいつまで経っても偽物であるのです。
そのことを覚えておかなければなりません。
人生に対する柔軟性を失えば、自分自身とっての価値を見失います。
既存の価値観に捉われている者には、何が自分にとっての価値であるのかを知ることができないのです。
あなたは常に自分にとって価値の有るものは何か?ということを問いましょう。
自分にとって価値が有ることが重要であるのです。
他人にとって価値が有ることなど、あなたには何の意味も無いのです。
それによっては、他人が豊かさを得ることはできますが、あなたが豊かさを得ることはできないのです。
情愛(じょうあい)を大切にしている人が、暴力を大切にしている人の真似をして豊かさを得ることはできません。
その反対も然(しか)りです。
人にはそれぞれの価値というものがあります。
それを一緒くたにして考えることはできません。
人にはそれぞれに学びの段階があり、必要とする改善も違うのです。
必要とする改善が違うために、価値となるものも違うのが自然なのです。
そのため、他人のように生きる必要はありません。
他人の状況や環境や所有物に耽溺(たんでき)する必要はありません。
どれだけ他人を羨望(せんぼう)したとしても、あなたにとっては価値の無いものであるのです。
価値の無いものをどれだけ集めても豊かさを得ることはできません。
それを忘れてはなりません。
多くの人は柔軟性と客観性を失った状態で人生を生きています。
そのため、自分にとっての価値を見失っているのです。
他人に流されてはなりません。
あなたは自らの人生を真っ直ぐに見つめていなければならないのです。
余所見(よそみ)をしながら歩くのであれば、小石にさえも躓(つまず)きます。
これは、あなたの人生であるのです。
あなたは自分自身の人生を歩んでいるのです。
他人と自分を比較する必要はありません。
他人は他人であり、自分は自分であるということを理解しましょう。
人生を柔軟に捉えましょう。

2015年5月5日火曜日

プレゼント

人生には苦しみが付き物です。
人はそれを拒絶することはできません。
すべての人は苦しみに会います。
そして、それを受け入れる必要があります。
人生において、すべての人が苦しまなければならないのです。
それは、人それぞれに違う形によって導かれる問題です。
人は、それぞれに学びの段階が違うために、苦しみの形には違いが現れます。
しかし、すべての人が苦しみを得なければならないのです。
それは、苦しみこそが成長の秘訣であるからです。
苦しみを受けなければ成長を実現することはできません。
苦しみだけではなく、喜びによっても成長は可能ですが、喜びから成長を実現する人は少ないのです。
それは、喜びによっては油断が生じ、成長するという目的を見失いがちであるからです。
人が成長するためには、自己を見つめる必要があります。
自己を見つめ、それを改善することによってのみ、人は成長することができるのです。
しかし、喜びによって自己を見つめる人は少ないのです。
喜びに会った時には、浮かれてしまうのが”普通”の人間なのです。
喜びに会ったとしても浮かれることなく、冷静に自己を見つめる者こそが、成長する人と呼ばれるのです。
現段階において、喜びに対してあなたはどのような反応を示すでしょうか?
喜びに対して自己を見つめることを忘れているのであれば、成長の実現は難しいということを覚えておきましょう。
喜びに対して冷静であることは簡単ではありません。
しかし、苦しみに対して冷静になることは、喜びに対して冷静になることに比べると簡単であるのです。
それは、苦しみによって絶望を得ることができるからです。
絶望とは、希望を失った状態です。
希望が消えるのです。
少しの希望を見出した時には、それにしがみ付こうとして心が乱れます。
しかし、一筋の光さえ届かなければ、諦めるのです。
諦めた時に、その心には冷静さが導かれるのです。
多くの人は苦しみや絶望や諦めを悪いことのように考えています。
しかし、すべては成長するために導かれる”神”からのプレゼントなのです。
すべては成長のためにあるのです。
そのため、苦しみであろうが、絶望であろうが、諦めであろうとも、それを有効に使えば良いのです。
それ等を活用することによって、人は成長を実現することができるのです。
尤(もっと)も、喜びによって冷静さを実現することができるのであれば、苦しむ必要はなくなります。
そのことは覚えておく必要があります。
わざわざ苦しむ必要がありませんが、現段階においてそれは難しいのです。
そのため、あなたは苦しむ必要があるのです。
苦しみに会ったとしても、冷静であることに努めましょう。
そのためには、すべてが成長のために導かれる”神”からのプレゼントであるということを繰り返し自分自身に言い聞かせる必要があるのです。
それが”神”からのプレゼントであるということを信じることができない者には、苦しみの中にあって冷静さを保つことはできないのです。
あなたが成長し、豊かな人生を手に入れるためには、すべてが必要によって満たされているということを信じましょう。
苦しみを苦しみと決め付けてはならないのです。
籠(かご)の中に乱雑に小石を投じます。
それが籠の縁を満たした時に、それで籠を満たしたと言えるでしょうか?
籠を揺さぶったのであれば、小石は籠の中の無駄な空間を埋めるのです。
その結果、籠の中にはそれよりも少しばかりの小石が入るようになるのです。
苦しみはあなたの心を揺さぶります。
あなたの心は乱され、苦しみます。
しかし、それによって苦しみは心の中で整理され、心はより大きな包容力を得ることができるのです。
苦しみに会うことは、心を大きくするのです。
苦しみは”悪”ではありません。
苦しみに会ったとしても、安易に苦しむ必要はありません。
人生には苦しみが付き物です。
しかし、それはあなたを成長させるための”神”からのプレゼントであるということを覚えておきましょう。

2015年5月4日月曜日

繰り返し

あなたは何度もその道を通らなければなりません。
一度で過ぎることのできる道はありません。
何度も何度も通ることがなければ、その道を通過することはできないのです。
人生の目的を思い出しましょう。
それは成長です。
すべての存在は成長のために生きているのです。
あなたは成長しなければなりません。
成長するためにその道を通ります。
そして、必要な成長が実現されたのであれば、その道を過ぎることができるのです。
しかし、必要な成長が実現されなければ、その道を何度も何度も通る必要があるのです。
成長は簡単なものではありません。
そのため、人は何度も繰り返さなければならないのです。
成長が一日で実現するのであれば、人生は一日で事足りるのです。
何年も、何十年も生きる必要などないのです。
あなたは成長のために繰り返さなければならないのです。
繰り返さなければならないことに苦悩してはなりません。
それは、仕方のないことなのです。
”諦めて”繰り返しましょう。
成長が実現するまでは耐えなければなりません。
あなたがどう思おうとも、成長に必要なことを何度も何度も繰り返さなければならないのです。
あなたは必ず見落とします。
一度見ただけでは何も見えません。
二度見た時には、漸(ようや)く見えるようになるでしょう。
三度見た時には、落ち着いて見ることができます。
四度見た時には、理解することができるでしょう。
五度見た時には、それをより理解することができるでしょう。
人は未熟です。
そのため、必ず見落とします。
見る度に様子が違うことに気が付きましょう。
見る度に様子が違うのは、あなたが変化したからに他なりません。
それは、繰り返すことによって認識の練度が高まるからです。
二度目に通る道の景色は、初めて通った時のものとは違っているでしょう。
繰り返すことによって、認識は詳細に至るのです。
そのため、人は何度も何度も繰り返さなければならないのです。
あなたは簡単には理解しません。
すべての人が偏見と傲慢(ごうまん)を所有しています。
それが自我と呼ばれる歪みです。
人は自我を通して見るために、そこには我欲が投影されます。
そのため、見ているようであっても、見てはいないのです。
物事を正しく見ることができるのは、自我を克服した者だけであるのです。
あなたは見ているようで見ていません。
そのことを受け入れましょう。
自分が見えているなどと考えてはなりません。
あなたが”それ”を繰り返しているのがその証拠です。
あなたは何度もその道を通らなければなりません。
それは、成長の余地があるということを意味しているのです。
何度も繰り返すことを悲観してはなりません。
繰り返す度に認識の練度は高まります。
それは、成長しているということなのです。
どのような人であっても、繰り返すことによって成長を実現することができます。
何度繰り返す必要があるのかは、人それぞれです。
しかし、繰り返すことによって必ず成長を実現することができるのです。
あなたは大切なことを必ず見落としています。
道を行く時には、その景色をできる限り鮮明に記憶しましょう。
そして、見落としを無くして成長し、道を通過しましょう。

2015年5月3日日曜日

相応しい形

すべての存在には、それに相応しい性質が与えられています。
性質によって姿形は変化します。
すべての存在が違う姿形を持ちます。
これは、すべての存在が違う性質を与えられたからです。
似ているものは多くありますが、同じものはありません。
すべての存在が、厳密には違う性質を与えられたのです。
それはとても大切なことです。
同じであってはなりません。
違う性質を持っているからこそ、互いに協力することができるのです。
協力とは、補(おぎな)い合うことです。
補い合うためには、互いの不足を補填(ほてん)しなければなりません。
すべての存在には相応しい性質が与えられていますが、それはあることには秀でている性質ではあっても、万能であるということはありません。
そのため、自らの能力だけでは不足するのが自然であるのです。
この自然界では、すべての存在が何等かの形で補填し合うことによって、全体が循環しているのです。
自然界においては無駄は存在しません。
どのような存在であろうとも、必要であるために存在しているのです。
すべてには必ず意味があるということを理解しましょう。
自然界においては、”厄介者”は存在しません。
無意味も無駄もありはしません。
すべてが必要であり、大切な存在であるのです。
あなたには、その理由が複雑過ぎて理解することができないだけなのです。
すべてが必要な役割を担います。
あなたにはどのような性質が与えられているでしょうか?
あなたの容姿は、あなたに相応しい形です。
あなたの思想は、あなたに相応しい形です。
あなたの主義は、あなたに相応しい形です。
あなたの能力は、あなたに相応しい形です。
あなたの性格は、あなたに相応しい形なのです。
あなたに必要な力が与えられているのです。
あなたは、それによってこの世界に貢献する必要があるのです。
そのことを忘れてはならないのです。
人は、自らの性質を理解し、それを役立てる必要があるということを覚えておきましょう。
炎は上昇します。
水は下降します。
風は流れます。
光は直進します。
土は止まるのです。
それぞれには違う性質が与えられています。
それ等が違う性質を与えられたおかげで、自然界は豊かに繁栄することができるのです。
炎も水も、風も光も、土であっても同じ性質であるのならば、そこには可能性が生まれないのです。
違うからこそ変化が生まれ、それが可能性となるのです。
あなたは自分自身の性質を理解していますか?
あなたはどのような形でこの世界に貢献することができますか?
あなたには何ができるのでしょうか?
すべての存在には、それに相応しい性質が与えられています。
無意味も無駄もありはしません。
あなたが生きているのは、無意味でも無駄でもありません。
この世界には、あなたという存在が必要なのです。
大切なのはそれを知ることです。
この事実を知らずに生きている者が多いのです。
多くの人は自らの生きる意味を見失っています。
自分が無力であり、必要とされない価値の無い人間であるなどという愚かな考えに苦しんでいるのです。
小さな昆虫でさえ、この世界には必要な役割を担っています。
あなたには、それ以上の役割があるということを覚えておきましょう。
先ずは、自分を知る必要があります。
自分を良く観察しましょう。
そして、その性質に気が付きましょう。

2015年5月2日土曜日

神の子

あなたは自分が誰であり、どこから生まれたのかを考えましょう。
自分自身の正体を知ることは、人生を築く上で重要なことです。
なぜなら、それが理念となるからです。
人は、自らの信仰に従って人生を築きます。
自分が誰であり、どこから生まれたのか?ということは、信仰に対して大きな影響力を持っているのです。
人が自分が誰であり、どこから生まれたのかを知るのであれば、それに従って人生を築くのは必至です。
それはとても大切なことなのです。
しかし、多くの人が自分が誰であり、どこから生まれたのかを知りません。
そのようなことを考えることもないのです。
大抵の人が考えているのは、世の中の仕組みと世渡りの手段です。
人は世に生まれ、世の人であると考えているのです。
それは、世に生まれ、世に育った人としての認識以外を持たないためです。
多くの人は自らを世人(せじん)であると信じているのです。
あなたは世人であるのでしょうか?
あなたの生みの親は、世の中なのでしょうか?
あなたがこの世に生まれる前からあなたは在ります。
母の胎内に生まれた時には、あなたはこの世界に生まれたのです。
しかし、母の胎内に生まれたとしても、まだ世の中には生まれていません。
あなたを生んだのは世の中ではないのです。
あなたは世の中に生まれる前からこの世界に存在していたのです。
父と母があなたを生んだのでしょうか?
父と母が生み出せるものは死んだ肉体です。
それは肉の塊であって、人ではありません。
人間である父と母は、人格を生み出すことはできないのです。
あなたの人格を生んだのは誰でしょうか?
肉体は人の本質ではありません。
思考も感情も人格も、それは魂に付属するのです。
そのため、”死”という状態は肉体が所有するのであって、それを人が所有することはありません。
思考や感情や人格が肉体に付属するのであれば、その機能は肉体の消滅と共に消え去るはずなのです。
しかし、それ等は死後にも残るのです。
あなたは自分が誰であり、どこから生まれたのかを考えなければなりません。
できる限り、その答えに近付くべきなのです。
そうでなければ、世の中に絡め取られてしまうでしょう。
世の中に変えられてはなりません。
それは、”あなた”を殺します。
あなたは世の中から生まれたのではありません。
それは、育ての父母であるのです。
しかし、生みの父母ではないのです。
鳥は鳥として生きなければなりません。
獣は獣として生きるべきなのです。
では、人は何のように生きるのでしょうか?
人は人として生きるのです。
生みの父母のように生きる必要があるということを覚えておきましょう。
世の中があなたを生んだのではありません。
あなたを生んだのは”神”です。
それは愛と光であるということを覚えておきましょう。
あなたは、自らを生んだ”神”のように生きるのです。
それは、愛と光を大切にして生きるということなのです。
あなたは、人生の理念に愛と光を組み込まなければなりません。
愛と光がなければ、人はその人格と人生を歪ませてしまうでしょう。
それでは幸福は得られません。
世の中には利己が蔓延しています。
世の中の仕組み通りに生きれば、人は自我(我欲)に目覚めるでしょう。
そのようにしてはなりません。
あなたは愛と光であり、”神”から生まれたのです。
そのことを覚えておきましょう。
自らが神の子であるということを自覚し、この世に愛と光を遺しましょう。
世の中に変えられてはなりません。
自分が誰であり、どこから生まれたのかを思い出しましょう。

2015年5月1日金曜日

授かり物

すべての人が自らの役割を持っています。
すべての人がそれぞれに担った役割のために存在しているのです。
あなたにもその役割が与えられています。
また、すべての人に役割が与えられているのです。
人々の中で、役割を与えられていない者はありません。
すべての人が役割を担い、それを果たすために存在しているのです。
あなたは、自分自身が役割を担っているということ知らなければなりません。
そして、その役割とは、世界に対する貢献であるということを理解する必要があるのです。
すべての人の役割は、すべての源である”神”からの授かり物です。
どのような人も”神”からの役割を与えられているのです。
神の子である全人類は、その役割を果たすように努めなければならないのです。
どのような立場の者も、必要な役割を与えられています。
あなたはそのことを忘れてはなりません。
役割を持たない者は存在しないのです。
あなたがどのような立場の者であれ、世界に貢献しなければなりません。
あなたがどれほど自分を哀(あわ)れみ、被害者意識に浸(ひた)っても、あなたに与えられた役割を放棄することはできません。
自らに与えられた役割に対して、言い訳を用いることはできないのです。
役割を果たさなければ”仕事”が増えるだけです。
ここでいう仕事とは、問題のことであると覚えておきましょう。
役割を果たすことのない者には、多くの問題が生じるということを理解する必要があるのです。
あなたがどのような立場にあろうとも、決して自らの役割を放棄してはなりません。
人はそれぞれに特質を持ちます。
人それぞれに違う個性を持っているように、その能力には違いがあるのです。
人は自らの能力に相応しい役割を与えられます。
あなたの役割とは、あなたにとって無難なものであるということを覚えておきましょう。
難しいことをしろと言うのではないのです。
あなたの特質に合った役割が与えられているのです。
役割と聞いて、特別なものをイメージする必要はありません。
あなたにとって難しいことを頼むほど、”神”は無知ではないのです。
あなたにとって相応しく、あなたが確実に果たすことのできる役割だけを与えるのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
難しいことに対しては、否定の感情が生まれてしまいます。
しかし、人生に与えられた役割とは難しいものではありません。
そのため、それを否定する必要はないのです。
多くの人は自我によって人生を築きます。
自分の利益になることに執着し、我欲を退けることができないでいるのです。
そのために、自分を中心とした思想を信じるようになるのです。
そして、自らに与えられた役割を忘れるのです。
多くの人が自らに与えられた役割を忘れています。
この世界に貢献しようと考えている人がどれだけいるでしょうか?
大抵の人は自己利益のために生きているのが現状であるのです。
それは、無知であり愚かである状態を所有しているからなのです。
賢者が自己利益の実現に努めることはありません。
賢者は自らの役割に気が付きます。
それは、自分のためではないということを理解するのです。
知恵の高まりと共に、人は利他性に目覚めます。
それは貢献を意味しているのです。
多くの歯車を所有する機械の中にあって、それぞれが歯を交わすことなく回転しているのであれば、空転することしかできず、機械はその働きを実現することができないのです。
それぞれの歯車は互いに干渉するようでなければならないのです。
自らの役割を忘れ、遠くで独り空回りしているのであれば、必要のない部品であるとして捨てられるのです。
人は独りで生きていくことはできません。
それぞれの歯車と歯を交わし、自力によって他に動力を伝えることによって、自らは他から動力を受けるのです。
互いに支え合うことによって、部品は価値を見出すのです。
あなたはこの世界においての小さな部品に過ぎません。
しかし、大切な部品です。
自分の役割が何であるのか?ということを考え続けましょう。
その役割は、”神”によって与えられたということを理解しましょう。
人が機械を作る時には、無駄な部品を用いることはありません。
”神”が無駄な人間を生かすことなど、有り得ないのです。
”神”からの授かり物だと理解し、自らに与えられた役割を果たすのです。