楽しむ者にとって、それは喜びとなります。
	楽しまない者にとっては、それは苦しみとなるのです。
	状況をどのようなものにするのか?ということは、あなたの態度によって決まるのです。
	あなたは自らの態度がどのようなものであるのか?ということに注意を払わなければなりません。
	それを喜びとするためには、楽しむ必要があります。
	心が楽しまないものを喜びにすることはできないのです。
	その対象がどんなに楽し気な雰囲気を持っていたとしても、あなたの心がそれを楽しまなければ喜びは得られないのです。
	それが、退屈な雰囲気を持っているものだとしても、あなたの心がそれを楽しむのであれば、そこには喜びが導かれるのです。
	対象がどのようなものであるのか?ということは関係ないのです。
	常に自分自身の態度が関係しているということを覚えておきましょう。
	人は常に自分自身を見つめなければなりません。
	自分自身を見つめることがなければ、態度を改めることはないでしょう。
	態度が改まらなければ、得られる状況には変化がありません。
	苦しみを得ることは望ましくありません。
	人生は苦行ではないのです。
	楽しくなければ、成長はないのです。
	あなたは、自らの意思によって苦しんではなりません。
	あなたはどのようなものに対しても苦しむ必要などないのです。
	それがどのようなものであろうとも、できる限り楽しむように努めましょう。
	それを楽しむためには、それの良いところを探さなければなりません。
	建設的に向き合わなければ、良いところを見つけることはできないのです。
	人は偏見を抱いているのが”普通”です。
	すべての人が偏見を抱えています。
	偏見によって眺めれば、それは歪んで映るのです。
	歪んだ像は不快を伝えます。
	正しく見ることによって、人は快楽を得ることができるのです。
	無意識に所有している偏見を、意識的に手放さなければなりません。
	あなたは自分自身が偏見を所有し、それによって世界を眺めているということを理解する必要があるのです。
	偏見を抱えない人はいません。
	どのように正しく見ているつもりでも、そこには自我に伴う偏りが考慮されているのです。
	人は偏見を完全に捨て去ることはできません。
	しかし、それをある程度捨て去り、対象を歪みが気にならない程度に見ることはできるのです。
	そのようにして見なければならないのです。
	偏見が取り除かれれば、それの良いところが見付かります。
	良いところが見付かれば、それを楽しむこともできるのです。
	楽しむことによって継続することができるようになります。
	この継続が重要であるのです。
	何事においても、継続して向き合うことがなければ、その本質を理解することはできません。
	簡単に諦めることは、表面的な理解にとどまるのです。
	概要(がいよう)を知ったからといって、それが持つ奥深さを理解することはできません。
	その奥深さを理解することがなければ、食物を摂っても無味無臭であることに等しいのです。
	そこに何の喜びがあるでしょうか?
	味と匂いに違いがあるために、食物を摂ることは楽しいのです。
	そうでなければ、食物を摂ることには喜びがないのです。
	あなたは楽しむように努めなければなりません。
	すべてには意味があります。
	あなたにとって、それは大切なものです。
	そのため、それを蔑(ないがし)ろにすることはできません。
	食物に味がないからといってそれを拒絶していれば、肉体は痩せ衰えてしまうのです。
	それでは、人生の幸福も豊かさもないのです。
	食物に味を付けるのはあなたの仕事です。
	調理によって味付けをすることと、状況を決めるのは同じことです。
	味付けを間違わないように注意しましょう。
	味付けを間違えた料理は食べれたものではないからです。
	
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