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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年10月31日月曜日

体験

人は成長を実現する必要があります。
すべての存在は成長することを求められているのです。
この世界において、変わらないものは存在しません。
すべてが流転し、変化を止めることはありません。
繰り返しているように思えるものであっても、変化を実現させながら繰り返しているのです。
あなたは成長のための変化を求められています。
人生におけるすべての時間、状況、労力は、成長のための変化に費やされています。
変化を否定することのできる者は存在しません。
変化を否定しようとも、変化しなければならないのです。
あなたは成長しなければなりませんが、成長するためには変化を受け入れなければなりません。
変化を受け入れることがなければ、成長は実現しないからです。
それは、季節が変わるように訪れます。
あなたの意思よりも大きな力が存在し、あなたを変化へと誘(さそ)うのです。
人生は初め、あなたを説得しようと試みます。
人生はあなたに話し掛け、話し合うことによって成長を実現しようと考えているのです。
しかしながら、人生の”声”は容易にはあなたの認識には触れることがありません。
それは、あなたが人生の”声”を理解するための度量を育んではいないからです。
人生は懸命に話し掛けていますが、あなたにはそれを聞き取ることができないのです。
それは、言語の異なる相手との意思疎通のように困難です。
話し掛けて理解することができなければ、違う手段に訴える以外に方法はありません。
それは体験という手段なのです。
人が犬と意思疎通を図る場合、話し合いでは解決しません。
それは、互いの言語が異なり、話し合いによる意思疎通が用意ではないからです。
人と犬では、言葉による意思疎通は実現しません。
そうなれば、言葉以外の方法である体験によって意思疎通を図る以外にはないのです。
実際に触れて意思疎通を図るのです。
言葉では意思疎通が実現しなくても、実際に触れて教えることによって意思疎通の実現の可能性は高まります。
これは、人生と人との関係も同じです。
一度聞かせて理解せず、自己を改めない者は二度聞かせても理解せず、自己を改めません。
それは、その方法では意思疎通が上手くいかないからです。
しかし、一度苦しんで理解せず、自己を改めない者も、二度苦しめば理解を深め、自己を改める可能性はあるのです。
苦しみとは、実践的な学びの結果として引き起こされる感情なのです。
苦しみという感情は、実践的な学びである体験によって導き出される成長のための貴重な材料なのです。
苦しみという材料がなければ、あなたが成長することはできないでしょう。
苦しみを避けて進もうとする人がいますが、苦しみを避けて進むのであれば、変化と成長の乏しい人生を生きることになるのです。
苦しみとは足場のようなものであり、それを乗り越えるのであれば、いち早く高く登ることができるのです。
苦しみを避けても成長することはできますが、それは緩やかな道を進むようなものです。
成長という高みを目指す時には、苦しみの道は垂直方向に進み、苦しみを避けて通る道は斜(なな)め方向に進むようなものなのです。
あなたに時間と労力の余裕があるのならば、苦しみを避けて進めば良いでしょう。
しかしながら、それは、退屈と不満の道となることを覚えておかなければなりません。
あなたが時間と労力に余裕を感じなければ、苦しみを乗り越えて進めば良いでしょう。
しかしながら、それは苦悩の道となることを覚えておかなければなりません。
どちらの道でも楽しみと苦しみを得られます。
違うのは”質”だけです。
高く登る程に、本質に近付くことができるため、何に対してもより強い実感を得ることができるでしょう。
淡い経験が、濃い経験へと変わります。
何事に対しても生きる実感が湧き、すべてが生命力に満ちるでしょう。
それは、輝きの増した世界です。
ただし、輝きが増せば影も増します。
あなたが成長する程に、すべての”質”が高まるのです。
そして、あなたはそれを幸福と呼ぶでしょう。
成長することがなければ、薄い人生を生きるようになります。
薄い人生とは、乏しい人生のことなのです。
輝きの乏しい世界では、影も乏しいのです。
あなたは実践的な学びに触れなければなりません。
実践的な学びには苦しみが付き物です。
あなたは苦しむ程に成長するでしょう。
苦しみを否定してはなりません。
苦しみを導く体験を大切にしましょう。

2016年10月30日日曜日

信仰

すべての人は信仰を所有しています。
どのような人にも、信じることがあるのです。
誰もが自らの信仰に寄り添うように生きているのです。
それがどのようなものであれ、信仰を所有しない人はいません。
無神論者は、神がいないことを信じているのです。
それも立派な信仰です。
すべての人が信仰を所有していますが、信仰とは願望でしかありません。
人が何かを信じる時、それはその対象を信じたいと願っているのです。
信じるとは願望でありますが、それは確定されたものではありません。
確定されていないために信じているのです。
信じるという願望は、不安によって導かれます。
不安が信仰に繋がるということを知らなければならないでしょう。
確固たる念を所有している人には、信じることは無くなります。
それは信仰からの行為ではなく、行為そのものとなるのです。
信じているから行為しているのではありません。
それが必要であるために行為しているのです。
信仰から導かれる行為は、疑心の中にあります。
疑心を抱えているために、その相対としての信仰によって自己の行為を正当化しようと試みているのです。
疑っているために信じる必要があるのです。
矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、人の心は常に陰陽の相対的な感情によって成り立っているのです。
それは、信じることによって疑心を打ち消そうとする心の働きです。
それは正しく願望であるのです。
心は信じるために信じるのではありません。
心は疑心を否定するために信じているのです。
あなたは、信仰とは不安の現れであるということを知りましょう。
あなたは何かを信仰しなければなりませんが、後に信仰から離れなければなりません。
信仰から生じる行為は、否定的な感情を含んでいます。
何かを信じること自体が疑心を否定している心の働きであるために、そこから導き出される行為には、必ず否定的な作用が組み込まれるのです。
信仰は必ず”敵”を作ります。
それがどのような信仰であろうとも、信仰を継続するためには”敵”が必要なのです。
そのため、あなたは信仰を経験し、やがてはそれを手放す必要があるのです。
信仰を離れ、必要のために行為するのであれば、否定的な作用が組み込まれることはなくなります。
必要は、すべてに内在しているのです。
善悪によって分けることはできません。
善も悪も必要です。
この世界に存在するすべてが必要であるのです。
人生の目的である成長を実現するためには、すべてのことから学ぶ必要があります。
学びを選り好みするのであれば、成長は実現しません。
学びを選り好みするのであれば、歪みが実現するだけなのです。
信仰によっては、人生の目的を実現することはできません。
信仰によって救われると考えている多くの人は、決して幸福を実現することはできないのです。
幸福を思い込むことはできるでしょうが、それは長くは続きません。
思い込みによる装飾の幸福は必ず剥がれ落ちます。
それは、それが偽りであるからです。
あなたが何かを信じているのであれば、満足のいく人生を得ることはできません。
あなたがすべてを必要だと理解することができれば、人生は豊かさを導くでしょう。
何かを信じるということは、何かを信じないということです。
多くの人が当たり前に何かを信じていますが、それはあなたの”光”を奪うということを覚えておきましょう。
”光”を奪われたあなたは、何も捕らえることはできません。
人の心は信仰によって盲目(もうもく)になるのです。
当たり前を疑う時です。
あなたの信じるものは、本当にあなたを満足させるでしょうか?
あなたが何かを信じる時、そこには必ず”敵”がいます。
”敵”がいる人生が幸福なのでしょうか?
信仰について考えなければなりません。


2016年10月29日土曜日

友と家畜

人生とは何でしょうか?
あなたは人生について考察しなければなりません。
人生について考察し、その本質に近付く必要があるのです。
人生の本質に近付くことがなければ、人生に生じる様々な状況を見極めることができません。
状況の意味を知ることができなければ、状況に対して自らを乱してしまうのです。
状況に弄(もてあそ)ばれることによって、あなたは喜びや苦しみを感じるでしょうが、それがあなたを満足させることはありません。
なぜなら、それは受動的な生き方でしかないからです。
受動的な生き方に対して、満足することのできる人はいません。
なぜなら、それは人生を生きてはいないからです。
与えらえるものを鵜呑みにすることが満足に繋がるでしょうか?
家畜のように自由を奪われ、ただ従うだけの存在になることが満足であるというのであれば、その状況に偽りの満足を覚えていれば良いでしょう。
しかしながら、あなたが受動的な生き方に気が付いたのであれば、今までに感じていた満足が本性を現します。
それは、主人の家畜に対する支配的な愛情であって、そこに豊かさは存在しないのです。
家畜は家畜であってはなりません。
主人に支配されるには弱さを必要とするからです。
弱さを抱える家畜は、世話をする主人に依存するようになります。
それが心地好いからです。
主人は家畜を利用しますが、友だとは思っていません。
主人は家畜から搾取(さくしゅ)し、時期が来れば処分するでしょう。
受動的な生き方とは、家畜にとどまるということなのです。
能動的な生き方をする”動物”は、主人の友として受け入れられるでしょう。
そこには共存関係が成立し、互いに与え合い、補(おぎな)い合うのです。
あなたは能動的に生きなければなりません。
人生を掴み取るのです。
人生を切り開くのです。
与えられるままに受け取ってはなりません。
与えられるものを精査(せいさ)し、活用するように努めなければならないのです。
与えられるものをそのまま受け取るだけでは足りません。
主人、もしくは友は、あなたの最善を知りません。
あなたにとって”毒”となるものを善意によって与えることもあるのです。
そのため、与えられたものをどうするのか?を決めなければならないのです。
人生におけるすべての状況は、あなたの頭や胸の中で作り出されています。
”外”を探しても、状況の本質は見付かりません。
本質は常に”内”に存在しているのです。
どのような問題も、あなたの思考や感情の中で作り出されています。
あなたが受動的であるために問題が引き起こされているのです。
人生は決して理想通りには展開しません。
しかしながら、それを最善に展開させることはできます。
人生に最善を導くためには、導き出された状況に対して、それを最善だと納得する自己を準備するのです。
それが能動的な生き方なのです。
人生は初めに、あなたにとっての最悪を導きます。
あなたは目の前の状況に対して動揺し、怒りや悲しみによって苦しむでしょう。
多くの人はそこが結論です。
それが受動的な生き方なのです。
導き出される状況を変えることはできません。
あなたは人生を受け入れなければなりませんが、人生に対する態度は自由に選ぶことができるのです。
例えば、過去や未来に思い煩(わずら)う人がいます。
過去も未来も思考の中に存在しています。
あなたは今という瞬間にしか存在することができません。
そのため、あなたは今という瞬間しか選択することができないのです。
しかしながら、過去や未来に思い煩う人がいるのです。
それは、今に生きるという選択をしていないからです。
過去や未来という価値観を受動的に捉えているために、それに捕らわれているのです。
過去や未来に思い煩うことが普通です。
それは受動的であるために、普通であるのです。
能動的に生きれば、過去や未来に思い煩うことが普通ではないということに気が付くのです。
さて、人生とは何でしょうか?
あなたは自分で選ぶことができます。
どのような態度で生きようとも、それはあなたの自由です。
人生の家畜として生きても良いですし、人生の友として生きても良いでしょう。

2016年10月28日金曜日

自我の解放

あなたは自分自身を学んでいます。
すべての状況は自分自身を理解するために導かれる学びです。
あなたはすべての状況に映し出される自分自身と対峙しなければならないのです。
ここでいう自分自身とは、あなたが自分自身だと思い込んでいる自我のことです。
あなたが”わたし”と呼び、思考や感情を司る存在です。
あなたはそれと向き合わなければならないのです。
自我とは、魂の汚れの集積です。
それをあなたは自分自身だと思い込んでいます。
あなたが”わたし”と呼んでいるのはあなたの弱さです。
思考し、思い煩(わずら)っている(幸、不幸を感じている状態)のは、あなたの歪みなのです。
人生を行っているのはあなたではありません。
あなたが自分自身だと思い込んでいる”わたし”が、人生を行っているのです。
あなたが選択しているのではありません。
あなたは自我の不足を満たすための選択を傍観(ぼうかん)しているに過ぎません。
あなたは自分で人生を選択していると考えているかも知れませんが、それを選択しているのは自我であるのです。
それは、あなたが怒りや不安を抱えることから知ることができます。
どのような状況に対しても、それに怒りや不安を覚えるということは、その意味を歪めて解釈していることの証明です。
状況に対して、その意味を正しく理解するのであれば、人が怒りや不安に訴(うった)えるということはないのです。
状況を正しく理解するのであれば、そこには必ず満足が導かれます。
汚れであり、歪みである自我によって解釈しているために、怒りや不安などのネガティブな感情が導かれるのです。
怒りや不安が悪いというのではありません。
適切に用いられないことによって苦しむのは誤解であるということです。
怒りや不安によってあなたが喜ぶのであれば正しい理解が導かれているでしょう。
例えば、自分の不甲斐なさに怒りを覚えて改善することや、不安を感じて一層の努力を重ねるなど、喜びのための選択であるのならば良いでしょう。
しかしながら、多くの場合、人は解釈を誤解しているために苦しむのです。
あなたは苦しむ必要があるために苦しんでいますが、いつまでも苦しんでいる訳にもいきません。
あなたは苦しみを喜びに変える努力を始めなければならないのです。
あなたはすべての状況から、自分自身(自我)を学んでいるということを理解しましょう。
それは、汚れを学ぶことなのです。
汚れを学んでいるのだから、苦しむのが当然です。
苦しむことは悪いことではないのです。
苦しむことによって自我を理解することは、それを許すことや癒すことに繋がります。
理解が深まらなければ受け入れることができないのです。
あなた(自我)は理解することができないものを受け入れることはできません。
そして、許すことも癒すこともできないのです。
そこに導かれるのは拒絶と争いです。
その結果として苦しんでいるのです。
しかしながら、そのことには気が付けないでしょう。
あなたは苦しみの中にあって、自我を理解するように努めなければならないのです。
そうすることによって、汚れを解放することができるでしょう。
自我はすべての状況に反映されます。
あなたの置かれている状況のすべてに、あなたの自我が反映されるのです。
あなたが対峙しているすべてが、あなたの抱える自我であるということを理解する必要があるでしょう。
しかしながら、あなたにはそのことが理解できません。
それは、自我が真実を覆い隠すからです。
自我は恐れています。
あなたに発見され、解放されることを恐れているのです。
それは、あなたが”所属”を離れることを恐れているのと同じです。
あなたが孤独を恐れ、”所属”を離れることを恐れるのは、自我の反映そのものであるからです。
自我が恐れているために、あなた(自我)が恐れているのです。
あなたの考えている自分自身とは自我であるために、これを説得し、乗り越えることは簡単ではありません。
それは、余りにも長く一緒に生活したからです。
そこには情が芽生えているのです。
あなたは自らの抱える弱さ(自我)に同情することでしょう。
それは弱さを助長する行為です。
あなたが苦しんでいるのは自我が原因です。
満足したければ、自我を解放しましょう。

2016年10月27日木曜日

それぞれの道

人生とは、それぞれの道のりです。
すべての人が、独自の道を行くのです。
誰一人として、他者と共に歩むことはできません。
あなたは独りで歩まなければなりません。
親だろうと、子どもであろうと、親友であろうとも、あなたたと共に歩むことはできないのです。
人の間には乗り越えられない”壁”が存在しています。
あなたが他人の人生を歩むことはできず、他人があなたの人生を歩むことはできません。
それぞれが自分の人生を生きる以外に方法はないということを知る必要があるのです。
しかしながら、多くの人は自分と他者を同一視します。
そして、自分の人生に他人を引き込めると信じ込み、自分が他人の人生に介入(かいにゅう)できると思い込んでいるのです。
しかしながら、あなたがどれだけ望んでも、それは実現しないのです。
あなたが歩んでいるのはあなたの人生であり、他者が歩んでいるのは他者の人生なのです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
そこには乗り越えられない”壁”が存在しているということを忘れてはなりません。
あなたは自分と他者を同一視することをやめましょう。
あなたである他者は存在しません。
あなたは自分と他者を別の存在として認識しなければならないのです。
そうでなければ、依存の関係が導かれ、それぞれの道が破綻(はたん)するでしょう。
あなたは他者を連れて自分の人生を歩もうと考えてはなりません。
他者の人生に同行しようとも考えてはならないのです。
できないことはできないのです。
それは、あなたが鳥のように大空を舞い、魚のように水中に潜(ひそ)み、蛇のように地を這(は)い、風雨に晒(さら)される生き方ができないのと同じです。
できないことはできなのです。
あなたは独りで歩まなければなりません。
これを酷(こく)と考えてはなりません。
それは、あなたが人生を始めた瞬間から決まっていたことなのです。
あなたは振り返らずに歩まなければなりません。
また、先の道を思い煩(わずら)ってはなりません。
目の前の道を踏み締めて歩むのです。
自分と他者を別の存在として俯瞰(ふかん)しましょう。
あなたが自分の道を歩もうとする時、そこには自分と同一視した他者の存在があります。
あなたは如何なる他者とも共に歩むことはできませんが、孤独に耐えることができずに他者を引き込もうとするでしょう。
そして、自らの掲げる思想を宣伝するのです。
それは、できるだけ多くの人の共感と理解を欲しているからです。
それは、仲間を求めているからです。
孤独に耐えることができない者は、仲間という名の依存関係を求めて自他の人生を乱します。
あなたは独りで歩めば良いのです。
それぞれが独自の道を歩むのです。
無理に仲間を作る必要はないのです。
他人に理解されようが、理解されまいが、あなたの人生には関係のないことなのです。
そのことを理解しておかなければなりません。
理解しようとしない者を説得する必要はないのです。
理解しようとしない者を説得する行為は時間と労力の浪費です。
それは、成果を結びません。
理解しようとする者に説明することは必要ですが、理解しようとしない者を説得する必要はないのです。
それぞれが独自の人生を生きれば良いのです。
とどまりたい者は置いて進めば良いのです。
とどまりたい者を引き摺(ず)って歩もうとするのは愚行(ぐこう)なのです。
人は自分の気に入った世界に生きています。
気に入った世界に生きている間は、別の世界を気に掛けることはないのです。
自らの所有しているものが至高だと思い込んでいるのです。
それを手放すことはないのです。
そこから無理に引き離してはならないでしょう。
あなたには目的があるのです。
それは、自分の人生の完成です。
そのためには、他者を誘い入れる”暇”はないのです。
あなたの思想に共感した他者は、他者の人生をそのように生きれば良いのです。
あなたの思想に共感したからといって、あなたの人生を共に歩むことはできないのです。
あなたが他者の思想に共感したからといって、他者の人生に介入しようとしてはなりません。
それぞれが独自の道を進むのです。
そのために、素晴らしい思想を受け入れることは許されます。
しかしながら、他者の人生を生きることは許されません。
あなたはあなたの人生を生きるのです。
他者に自分を投影することをやめましょう。
それぞれの道を歩みましょう。

2016年10月26日水曜日

上質な人生

上質な人生は上質な精神から始まります。
上質な人生とは、満足することのできる生き方のことです。
あなたは満足のいく生き方によって、豊かな人生を歩まなければならないのです。
大切なのは質を高めることです。
何事においても、粗悪なものよりも上質なものの方が必要とされます。
あなたが必要としているのは粗悪よりも上質であるはずです。
人生の目的は成長することにありますが、成長するということは、質を高めるということなのです。
あなたは、満足のいく人生のためには、何事においても質を高める必要があると理解しなければならないでしょう。
しかしながら、多くの人は質を高めることを嫌います。
質を高めるためには努力が必要だからです。
質を高めるためには考えなければなりません。
質を高めるためには行動しなければなりません。
質を高めるためには創造しなければならないからです。
多くの人が矛盾を抱えています。
上質を求めているのに、それを恐れているのです。
その矛盾が人を停滞に誘(さそ)うのです。
それが、数に頼る選択に繋がるのです。
数に頼めば、質は低下します。
多く所有すれば、多くの時間と労力を必要とします。
数と質は比例しないのです。
数は堕落を導くということを理解しなければなりません。
人は弱さから多くの人を求めます。
それは、自分自身の弱さを他人によって補おうとする心の働きがあるからです。
人は自分自身に対して要求しなければなりませんが、弱さから他人に要求するようになるのです。
人間は他人に依存したがります。
それは、”人間”の本質が自我にあるからです。
すべての人間は自我を抱えています。
自我とは、魂の汚れの集積です。
あなたが自分だと思っている存在とは、汚れの集積に過ぎないのです。
そのため、”人間”は弱いのが自然です。
すべての人間が弱く、堕落します。
人間が自我を所有する以上、そこには自然と争いが導かれ、争いによって結託(けったく)が必要になるのです。
多くの人が他人を求めているのは、結託する道連れが必要であるからです。
それは、弱さが責任を曖昧(あいまい)にするための手段です。
多くの道連れを抱えていれば、自分に伸し掛かる責任を軽くすることができるからです。
そのために、人間は数に頼むのです。
数に頼むと堕落するのは、人間の弱さが結託するためであるのです。
そのため、あなたは数に頼んではなりません。
大切なのは質を高めることです。
そのためには、自立の精神が必要であるのです。
克己(こっき)によって自立するのです。
そうすれば、数に頼むことがなくなり、数に頼まなければ質が高まるのです。
少ない人数で成果を必要としているのであれば、手を抜く人物は減るでしょう。
多くの人数で成果を必要としているのであれば、手を抜く人物は蔓延(はびこ)るのです。
人間の弱さ(自我)とはそのようなものなのです。
弱さは常に利己的に利益を求めています。
自分さえ良ければ良いという思想が、他人に要求するのです。
自分さえ良ければ良いという思想が、粗悪な結果を招くのです。
人数が少なければ、相手もしくは互いのための利益を求めるでしょう。
それは、人数が少ないことによって数に頼むことがなく、上質な精神が育まれるからです。
あなたが満足のいく人生を求めているのであれば、上質な精神を求めましょう。
何事においても安易に数に頼んではなりません。
個々の質を高めることを目的とするのです。
あなたは他人に要求することよりも先に、自分自身に要求する必要があるということを覚えておきましょう。
努力を惜しまず、上質な精神を育みましょう。

2016年10月25日火曜日

幸福という誤解

自我とは、あなたが考える自分自身のことです。
あなたが自分だと思っている存在は、自我であるということを知らなければなりません。
多くの人は、自我を自分自身だと考えています。
それは、自分自身について熟考することがないからです。
多くの人は、自分自身について深く考えることをしません。
自分自身について熟考することがないために、人生が何であるのか?幸福とは何か?ということを知ることもないのです。
多くの人が人生に迷います。
多くの人が幸福に悩んでいるのです。
多くの人が苦悩を抱えているのは、自分自身という存在に対する認識に誤りを所有しているからです。
自我を自分自身だと思い込んでいるのであれば、自我の求める人生や幸福を目的とするのです。
自我とは、魂の汚れの集積です。
それは歪み、不足しています。
自我はその本質に従い、汚れと歪みと不足を欲します。
自我を自分自身だと思い込んでいるあなたは、汚れと歪みと不足に喜んでいることでしょう。
しかしながら、それが最善であると思い込んでいるために、自己を正当化することによって矛盾を覆い隠しています。
あなたが所有している幸福は、本当に幸福なのでしょうか?
あなたが新たな知識を得ることによって視野を広げた時には、所有している幸福が如何に陳腐(ちんぷ)なものであったのか?ということに気が付くでしょう。
あなたの大切に守っている幸福とは、少しの知識によって簡単に崩れ去るようなものなのです。
そのようなものが幸福であるはずがないのです。
残念ながら、あなたの抱えている幸福は、汚れと歪みと不足によって構築された自我の欲求に他なりません。
自我を自分自身だと思い込んでいるために、それを大切に保管しているのです。
大切なのは客観を得るということです。
自我から離れて見なければ、あなたには新たな発見はありません。
あなたは盲目的に生きてはならないのです。
抱えている所有が何であるのか?ということを見極めなければならないのです。
自我とは汚れと歪みと不足です。
自我の求めるものは汚れと歪みと不足です。
自我はそれ等を求めることによって自己正当化を図っているのです。
それは安心のためです。
あなたに賛成する他人が一人でもいれば、あなたは安心感を得るはずです。
自我が成し遂げようとしているのはこれと同じことなのです。
汚れと歪みと不足を引き寄せることによって、安心感を得ようとしているのです。
しかしながら、あなたの本質は自我ではありません。
そのため、あなたの内にはいつも矛盾が生じているのです。
自我は”楽”を求めます。
あなたはきっと、”楽”を喜ぶでしょう。
しかしながら、”楽”を所有し続けていれば不安を覚えます。
そして、”苦”を求める心が生じるのです。
そこで、”楽”を手放して”苦”を所有することでしょう。
そして、”苦”を喜びます。
しかしながら、”苦”を所有し続けることに不安を覚えます。
そして、”楽”を求める心が生じるのです。
これが、あなたの抱える内的矛盾です。
それは、”楽”を求める自我と、”苦”を求めるあなたの本質(魂)が同時に存在していることを意味しているのです。
(厳密に言えば、自我と魂を含む”全体”があなたであるだろう。自我もあなたの本質であるだろう。現時点においては、それ以上を求める必要はないということである。ここでは、自我を解消することによって相対的な魂や”全体”に気が付くという目的がある)
矛盾を抱えていることに気が付けば、あなたの所有している幸福が矛盾を抱えているということにも気が付くはずです。
その幸福を所有していれば、いつかは別の形の幸福を求めるようになるのです。
互いに満足して結婚したにもかかわらず、その関係に不満を持つのと同じことです。
あなたの信じている幸福などは誤解に過ぎないということなのです。
しかしながら、あなたは反発するでしょう。
それは、所有している幸福が誤解であるなどということを理解することができないからです。
そこには、根深い信仰があるのです。
その信仰を打ち砕くためには、客観に頼る以外に方法はないのです。
あなたは自我に付き合ってはなりません。
自我と向き合う必要があるのです。
自我に向き合うためには、疑問を持つことです。
ただそれだけです。
あなたは自らを疑わなければなりません。
人生を、幸福を疑うのです。
それはあなたが本当に求めているものでしょうか?
それは、汚れや歪みや不足から生じる欲求(劣等感や優越感などを満たすことを目的とした欲求)ではありませんか?
精査しなければならないのです。
当然のことを当然として受け入れてはなりません。
それは自我にとっての当然であって、魂を満たすものではないということを覚えておきましょう。

2016年10月24日月曜日

役割に付属する幸福

幸福とは何でしょうか?
あなたは幸福について深く考えたことがあるでしょうか?
あなたが幸福だと思っているものは、あなたにとっての真の幸福なのでしょうか?
あなたは深く考えなければなりません。
多くの人は深く考えることをしません。
そのように感じるという理由によって、それを幸福と決め付けているのです。
しかしながら、感じ方は日々変化しています。
昨日と今日のあなたでは、感じ方は違います。
今日と明日のあなたでも感じ方は違うのです。
一年後、十年後、三十年後、五十年後・・・
時間の経過によって価値観は大きく変わります。
そうなれば、現在の幸福を感じる対象は幸福ではなくなってしまうのです。
そのため、あなたが現在幸福だと思っているものは、真の幸福であるとは言えないのです。
あなたが現在、幸福だと思っているそれは、役割に付属した幸福です。
あなたは役割を通じて、幸福を感じていることでしょう。
例えば、男や女としての役割を通じての幸福。
父親や母親としての役割を通じての幸福。
親や子としての役割を通じての幸福。
仕事という役割を通じての幸福。
多くの人が役割に付属した幸福を幸福だと思っているのです。
そのため、役割を失ったのであれば、幸福も失うことになるのです。
多くの人が絶望に出会います。
幸福を見失うのは、役割を見失っているからです。
やりたいことがあれば、一時は幸福感を味わうことができます。
夢や目的などが一時の幸福を導くのです。
しかしながら、その夢や目的を達成したのであれば、幸福も達成することになり、目の前から消え去ってしまうのです。
夢や目的を達成したのであれば、再び夢や目的を掲げて目指すか、目標を失って絶望するか?ということになるのです。
人生に夢や目的を持たず、絶望を抱えて生きるよりは、何かしらの夢や目的に対して幸福感を味わう方が優れているでしょうが、それでも絶望の遅延に過ぎないのです。
役割を通じての幸福に依存しているのであれば、絶望は避けられないのです。
あなたが人の親であるとして、親という役割に付属した幸福に依存しているのであれば、子が親離れをした途端に幸福は崩れ去ります。
子が親の命令に従わず、思い通りにいかなくなれば、絶望か恨みを抱えることになるでしょう。
それは、仕事でも性別でも同じことです。
その仕事が続けられなくなる時がやってきます。
性の喜びもやがては枯れるのです。
その時には絶望し、恨みを抱くでしょう。
そのようなものが幸福なのでしょうか?
大切なのは、あなたが生まれた意味です。
あなたは役割を果たすために生まれたのでしょうか?
役割とは、経験を得るための”場所”に過ぎないのです。
その役割を失っても、あなたには生まれた意味が残るのです。
あなたにとっての真の幸福とは、生まれた意味に付属しているのです。
あなたが生まれた意味は、成長することです。
成長することに生まれた意味があるのです。
そのため、あなたは成長することに幸福を見出す必要があるのです。
そうすれば、あなたが絶望や恨みを抱くことはありません。
役割を失ったとしても、幸福を失うことはないのです。
それは、役割を失ったとしても成長することができるからです。
あなたが人の親であり、子を失ったとしても、成長には何の関係も無いのです。
仕事を失い、性差を失ったとしても、成長には何の関係も無いのです。
幼子から老人に至るまで、真の幸福の形はすべての人に通用するものなのです。
年齢や性別や立場によって違いがあるようなものではないのです。
あなたが感じている幸福は、五十年後にも変わらずに存在するでしょうか?
それが役割に付属する幸福であるのならば、五十年後には失っていることでしょう。
幸福とは何でしょうか?
あなたは深く考えなければなりません。

2016年10月23日日曜日

他人への期待

あなたは、他人に期待してはなりません。
あなたが他人に何かを期待しても、あなたの求めるものは得られません。
他人はあなたの期待を叶えてはくれないのです。
なぜなら、他人はあなたの投影であるからです。
他人の行為とは、あなたの抱える矛盾を現します。
あなたの目的は矛盾を解消することにあります。
あなたは、自らの抱える矛盾を解消しなければならないのです。
そのためには、矛盾である歪みと向き合わなければなりません。
あなたの抱える歪みとは、あなたにとっての苦しみとして現れます。
理想通りに進まない状況や心境こそが、あなたの抱えている歪みであり、矛盾であるのです。
他人は、あなたにあなたの抱えている歪みや矛盾を現します。
他人があなたに与えるものは、理想とは程遠い現実です。
誰一人として、あなたの理想通りには行動しません。
寧(むし)ろ、あなたの理想を否定するように行動するのです。
それが自然です。
他人はあなたを否定します。
あなたを肯定する他人の存在を待ち望んではならないのです。
あなたは未熟です。
あなたは歪み、多くの矛盾を抱えています。
そのため、あなたを肯定する他人というものは、あなたにとっての障壁となるのです。
あなたを否定する他人こそが、あなたの歪みと矛盾を見抜いているのです。
あなたは他人によって歪みと矛盾を指摘されます。
それは恥を覚え、苦悩を抱えることに繋がります。
そのため、多くの人は自分を肯定する他人を求め、それを期待しているのです。
人生を考察すれば、恥や苦悩が反省の手助けをしていることに気が付くことができます。
恥や苦悩がなければ反省も無く、反省がなければ成長も無いのです。
それでは、豊かに生きることはできないのです。
あなたが学んでいるのは、自分自身であるのです。
多くの人はそのことを理解しないために、表面的なことばかりに気を取られます。
それが、他人に期待するという幻想を導くのです。
他人があなたの理想通りに行動することはありません。
それを求めても豊かさは得られません。
他人に期待するということは、自らの抱える歪みや矛盾に期待するようなものです。
それは更なる歪みや矛盾を助長するのです。
それでは、更なる苦しみを抱えるだけだと気が付かなければなりません。
他人があなたを幸福にすることはありません。
他人があなたに与えるある種の満足感は、一時的なものに過ぎません。
それを知らない者は、その満足感が薄れる度に他人に求めるようになるのです。
他人に依存する満足感は、他人がそれを煩(わずら)わしく思い、否定することで簡単に崩壊します。
あなたが他人に期待するのは、弱さが原因です。
弱いために依存するのです。
互いが期待するような関係から、価値のあるものが生まれるでしょうか?
依存関係に価値を求めることは困難です。
それは奪い合う行為だからです。
他人に期待するということは、他人から奪う行為であるということを知らなければなりません。
互いに奪い合う行為は、互いを消耗させます。
それでは価値は消失するのです。
大切なのは互いに支え合うことです。
互いに与え合うことによってのみ、価値が導かれるのです。
あなたは他人に期待してはなりません。
他人に期待したところで、価値を受け取ることはできません。
自力を信じるのです。
他人との関係というものは、他人を助けるという意識にとどめることです。
他人に期待するということは、他人に助けを求める意識なのです。
他人に期待することがなければ、他人に裏切られたと憤(いきどお)ることもないでしょう。
他人に期待することが、人間関係の問題を生み出すのです。
他人に期待することがなければ、人間関係の問題は解決します。
問題は他人ではありません。
常に自分自身の弱さにあるということを覚えておきましょう。
他人に期待することなく、他人を助けましょう。

2016年10月22日土曜日

あなたが見ているもの

人生とは、自分自身と向き合う時間です。
すべての人の目的が、自分自身と向き合うことによって実現する成長にあるのです。
どのようなことを通じても、あなたは自分自身と向き合うことになります。
すべての時間が自分自身を知る時間なのです。
あなたは、自分自身から逃げることはできません。
逃げるのであれば、逃げた先で自分自身と向き合うことになるのです。
自分自身との対峙は避けられないことなのです。
それは、それが人生の目的であるからです。
あなたは自分自身と向き合っているだけです。
それ以外のことは、この人生において行っていないということを知る必要があるでしょう。
多くの人はそのことを知りません。
そのため、他人に振り回されているのです。
他人は、あなたに”他人”を見せているのではありません。
他人は、あなたに”あなた”を見せているのです。
あなたは他人に自分自身を見ているということを知らなければなりません。
見た目は他人ですが、中身は自分自身と理解することによって、あなたが他人に振り回されることがなくなります。
他人によって問題が生じるのではありません。
あなたの自我がそれを問題と決めているのです。
人生におけるすべての現象は、自分自身の自我による活動です。
あなたの自我は、状況や他人、そして、環境までも巻き込んで現れます。
人生そのものがあなたの自我であるということを知れば良いのです。
自我とは、魂の汚れの集積です。
あなたは自らの抱える汚れと向き合っているのです。
自我そのものが問題なのです。
そのため、人生には問題が付き物です。
あなたには問題を食い止めることはできません。
問題が生じることが自然であり、それを食い止める必要などないのです。
問題は苦しみの感情を引き起こしますが、それが重要なのです。
なぜなら、あなたは苦しみによってのみ自分自身を知ることができるからです。
苦しい時、あなたは自分自身と向き合うことができます。
気楽な時には浮かれます。
それは、あなたの本来の居場所を失わせます。
浮かれた気持ちであっては、自我を離れてしまうのです。
自我と共に生きることは苦しいものです。
しかしながら、あなたが自分自身を知るためには、自我を取り除いていく以外に方法はないのです。
”あなた”という存在は、自我によって覆い隠されています。
それを取り除くことがなければ、あなたは自分自身を知ることができないのです。
苦しみを否定し、問題を食い止めようと努めているのであれば、あなたが自我と向き合う作業が遅れます。
それは苦しみの延長を意味し、あなたは余計に苦しむことになるのです。
自我を取り除けば、それに付随(ふずい)する苦しみも取り除かれます。
苦しみは問題や他人に付随するのではありません。
すべてはあなたの自我に付随しているのです。
それを忘れてはなりません。
あなたが常に見つめなければならないのは自分自身です。
他人や状況や環境を見つめたとしても、問題は解決しません。
そして、苦しみは取り除かれないのです。
人生は、自我を癒しているに過ぎないのです。
それ以外のことをしてはいません。
そのため、あなたは自分自身と向き合うだけで良いのです。
余計なことを考える必要はありません。
他人を恨んではなりません。
不足を欲する必要もありません。
自我を癒すことによって、不足は満たされます。
人生というものの本質が、自分自身と向き合うためだけの時間であるということを理解しましょう。
何を通じても、そこにあるのは自分自身です。
人生の目的を忘れてはなりません。

2016年10月21日金曜日

客観する主観

すべての人は、自分自身と向き合わなければなりません。
それはあなたの内に存在し、あなたと共存しています。
あなたの認識している自分自身とは自我意識です。
自我とは、魂の汚れの集積です。
多くの人は自我を自分自身だと考えていますが、残念ながらそれは自分自身ではありません。
自我は経験と共に剥(は)がれ落ちる存在であり、あなたではないのです。
人生における目的は成長です。
それは、経験を重ねることによって自我を取り除く作業です。
自我の解放こそが成長であり、人生の目的でもあるのです。
そのため、自我と自分自身を同一視してはならないのです。
自我はあなたを離れます。
それは自分自身ではないからです。
自我は魂の汚れの集積であるために、歪んだ感情を所有しています。
それは、汚い言葉や行為を導きます。
汚い言葉や行為とは、自他の良心を傷付けるものです。
遅かれ早かれ嫌な気分になるものがそれです。
多くの人は自我と自分自身を同一視しているために、汚い言葉や行為を自分自身のものであると思い込んでいます。
しかしながら、それは自我の所有であって、自分自身の所有ではありません。
あなたは歪んだ感情を抱えていることに気が付くはずです。
それに気が付くということは、それを客観したということです。
それを客観したということは、それを客観した主観があるのです。
主観したのは誰でしょうか?
何が歪んだ感情を見つめているのでしょう?
それは、自我意識よりも、”少しだけ”自分自身に近付いた自我意識です。
あなたは、無数の自我意識を所有しているのです。
あなたは一人ではありません。
それは、幾重にも連なっているのです。
甲殻類などの生物が脱皮することによって古い殻(から)を捨てるように、あなたは古い自我意識を捨てるのです。
古い自我意識を脱ぎ捨てた自我意識は、以前よりも成長しています。
それは、”少しだけ”薄まった自我意識なのです。
人生とは、自我意識との対峙です。
あなたは歪んだ感情と向き合い、それを放棄し続けなければならないのです。
あなたは常に客観を必要とします。
あなたは常に自らの内に存在する歪んだ感情を見張り続けなければならないのです。
多くの人は自我意識と自分自身を同一視しているために、もう一つの視点に気が付きません。
それでは、古い価値観に縛られて生き続けることになるのです。
古い価値観を手放さなければ、あなたは苦しみを受け取らなければなりません。
古い価値観に執着して生きる必要などないのです。
あなたに求められているのは、次々に価値観を改めることです。
あなたの内には数え切れない程の自我意識が存在しています。
あなたはそれを捨てましょう。
そのためには、気付けば良いだけです。
常に客観を意識していれば良いのです。
自我意識をもう一人の自我意識が見つめていれば良いのです。
その繰り返しです。
感情の歪みに気が付き、それを手放しましょう。
あなたは決して一人ではありません。
そのように思い込んではなりません。
現在の自我意識は、後に使い物にならなくなります。
それは、未熟な意識であり、後には役に立たないからです。
現在のあなたの理想は、現在のあなたの自我意識の抱える理想です。
そのため、その理想は歪んでいます。
そのようなものが実現する必要はありません。
多くの人は自我意識に従って理想を実現しようと躍起(やっき)になります。
しかしながら、それが実現しなくても良いのです。
あなたの目的は自分自身と向き合うことです。
それは、自我意識と向き合うことなのです。
自我意識と向き合うということは、それを放棄するということです。
そのため、理想はいつか必ず放棄しなければならないのです。
理想にいつまでも執着してはなりません。
それは、現在の自我意識に付属している副産物に過ぎません。
理想には価値が無いということを悟りましょう。
自分自身と向き合いましょう。
それはどのような状況であっても可能なのです。

2016年10月20日木曜日

言い訳

”できない”多くの人は、これを大切にします。
時間が無い。
お金が無い。
知識が無い。
技術が無い。
やる気が無い。
できる訳が無い。
簡単では無い。
力が無い。
機会が無い。
必要無い。
もったい無い。
やらない。
もらえない。
与えない。
受け取らない。
知らない。
努力したくない。
関係無い。
興味が無い。
やりたくない。
下らない。
所有していない。
相応しくない。
似合わない。
欲しくない。
楽しくない。
嬉しくない。
行きたくない。
会いたくない。
変えたくない。
手放したくない。
伝えたくない。
聞きたくない。
動きたくない。
使わない。
想像できない。
理解できない。
覚えられない。
認めない。
許さない。
分からない・・・
多くの人はこのように考えています。
”できない”とは、”無い”の一形態です。
あなたには思い当たりませんか?
あなたが行っているのは、あなたの人生です。
あなたが自分の意思によって、受け取るものをどうするかを決めることができます。
受け取るものを変えることはできませんが、受け取った後にそれが自分にとってどのように影響するのかを決めることはできるのです。
あなたが否定的に捉えるのであれば、あなたは何も得られないでしょう。
その考えは可能性を導かないのです。
文字通り、あなたには何も無くなります。
多くの人は思考の通り、何も所有しません。
所有していると思い込んでいるものは、簡単に崩壊するのです。
それは、所有しているとは言えません。
あなたが所有しているものは、何があっても崩壊しないものです。
前述したように思考する人物は、破滅的な思考を所有しています。
それは、どのようなことがあっても崩壊しないでしょう。
他人にとっては、喜ばしいことであったとしても、その人には苦悩であるのです。
それは、破滅的な思考を所有し、建設的な思考を所有してはいないからです。
”無い”を繰り返す人は”無い”を所有しているのです。
それはすべてを無にします。
前述の思考は言い訳に過ぎません。
このような思考を繰り返す人は卑屈(ひくつ)な人生を生きることになります。
それでは人生の目的に反しているのです。
人生の目的は成長です。
人格(魂の汚れ)のままに生きてはならないのです。
言い訳を捨てて、何かが無くても問題にはならないということを理解しましょう。
理想の条件が整わなくても、あなたにはできることがあるのです。
あなたにはやるべきことがあるのです。
”有る”を繰り返すことによって、建設的に思考し、人生を前進させましょう。
あなたは、前述した言葉に”有る”の形である”できる”を繋げてみましょう。
時間が無くてもできる。
お金が無くてもできる。
知識が無くてもできる・・・
そうすることによって可能性が見えてくるはずです。
あなたにできることを繰り返すのです。
人生とは地道な挑戦です。
あなたは思考を調整し続けなければなりません。
思考の調整を放棄しては、満足する人生を生きることはできないでしょう。
強く有りましょう。

2016年10月19日水曜日

嵐は過ぎ去る

あなたは、すべてが過ぎ去ると知りましょう。
あなたがどのような問題と向き合い、どのような苦悩を抱えていたとしても、それは必ず過ぎ去ります。
過ぎ去ったものは取るに足りません。
過ぎ去ったものがあなたに苦悩を導くことも、あなたの問題となることもないのです。
それは、あなたが”今”に生きているからです。
あなたは”今”この瞬間に生きているのです。
しかしながら、多くの人は”今”に生きてはいません。
過去の問題に苦悩し、未来の未知に恐怖しているのです。
大切なのは”今”に生きることです。
あなたは過去への執着と、未来への恐怖、過去の栄光と未来への希望を捨てましょう。
”今”に集中するのであれば、あなたが心を乱すことはないのです。
人が苦しむのは、過去や未来を生きることによって、”今”をなおざりにしているからです。
”今”に生きるということは、現実と向き合うということです。
過去や未来は幻想に過ぎません。
それをどれだけ熱望したとしても、得られないのです。
”今”に生きないことは、現実逃避です。
幻想に逃げ込むために問題が生じ、それに苦しむのです。
問題と向き合い、それを解決することがなければ、苦しみは消えないのです。
多くの人が問題と向き合うことをしません。
問題が苦しみであるために、それを拒絶しているのです。
すべての問題は感情問題に過ぎません。
あなたが問題に向き合うということは、自分自身の心に向き合うということなのです。
人はそれを恐れるのです。
人は自分自身と向き合うことを恐れます。
それは、自尊心が傷付くからです。
人は誰もが理想を掲げ、自分自身を美化しています。
しかしながら、現実は理想とは懸(か)け離れています。
どのような人の現実も、理想とは程遠いということを覚えておきましょう。
それは、どのような人も感情問題を抱えているからです。
感情問題は内的矛盾です。
すべての人にとって、これは最大の問題なのです。
内に矛盾を抱えているために、どこへ逃げても問題が生じます。
何かしらの快楽によって一時は忘れることもできますが、傷が疼(うず)くように苦しみが襲います。
それが恐ろしいために、決して逃げられないにも関わらずに、過去や未来に逃げ込むのです。
それは問題の解決には繋がりません。
自分に向き合うということは、”今”に向き合うということです。
それは、現状を受け入れるという生き方であるということを覚えておきましょう。
あなたは受け入れる必要があるのです。
それがどのような現状であろうとも、それを受け入れなければ先へは進めないのです。
多くの人は逃避することによって先へ進んだと思い込んでいます。
しかしながら、すべては内的矛盾であり、感情問題でしかないのです。
逃避は失敗に終わります。
逃げるのであれば、向き合わなければならない時間が増えるだけなのです。
乗り越えなければ、決して消えることはありません。
大切なのは、嵐は過ぎ去るということです。
これは、時間が解決してくれるという慰(なぐさ)めではありません。
嵐に対峙する必要があるのです。
あなたには、嵐に対してできることがあるはずです。
嵐を拒絶していれば、何の対策もできずに大きな被害を受けるでしょう。
嵐が来ることを拒絶することはできません。
嵐が来ることを受け入れるのです。
そして、最大限の努力をして、嵐を乗り切るのです。
嵐が去れば、多くの被害を受けているでしょうが、多くの被害と共に多くの利益を受けています。
見方を変えれば理解することができます。
嵐は決して、災害ではないのです。
あなたの抱える問題は、被害者(主観)の立場から見れば災害です。
しかしながら、客観の立場で見れば恩恵(おんけい)であることに気付くこともできるかも知れません。
嵐は必ず過ぎ去ります。
問題も苦しみも、必ず過ぎ去るのです。
あなたが”今”に生きるのであれば、過ぎ去るものに恐れることはないのです。
すべてである”今”を受け入れましょう。

2016年10月18日火曜日

持ち腐れの道具

あなたが人生を実現するためには、力が必要です。
力の無い者には人生を実現することはできません。
無力な者の人生には常に不満が付きまといます。
困難は力の有無には関わらずに訪れますが、不満は力の無い者にだけ導かれるのです。
それは、不満が不自由から生じる感情だからです。
人生に不自由を感じている者は不満を抱えることになるのです。
人生における不自由は、自分自身で作り出している状態です。
力が足りないために自由を得られないのです。
困難を乗り越えることができない者が不自由を得ます。
困難を乗り越えた者だけが自由を得るのです。
困難を乗り越えるためには、所有している力を総動員しなければなりません。
あなたの壁となる困難は、簡単には乗り越えることができないのです。
力を総動員するということは、力を引き出す必要があるということです。
持てる力を引き出さなければ、困難を乗り越えることはできません。
あなたは普段扱っている以上の力を必要としているのです。
困難が生じたのは、力が不足していたからです。
困難が生じたのと同じ力であっては、困難を乗り越えることなどできるはずがないのです。
それ以上の力が必要なのです。
あなたが力を引き出すためには、無知であってはなりません。
無知は力を押し止めてしまいます。
無知によっては、力の使い方が分からないのです。
知恵を得ることによって、力の使い方を知ることができます。
あなたは情報、知識、経験によって力を引き出さなければならないのです。
便利な道具を所有していたとしても、その使い方を知らなければ非力に変わりないのです。
その道具の使い方を知れば、何倍もの力を得ることができるのです。
無知であっては力を無駄にします。
すべての事柄に関して、無知が力を無駄にします。
あなたはとにかく学ばなければなりません。
知恵は持ち腐れの道具を輝かせます。
その道具があれば、問題は解決し、困難を乗り越えることができるのです。
特別な方法や、所有していない何かが必要なのではありません。
あなたの所有している力を最大限に活用すれば良いのです。
あなたの人生はあなたのものです。
誰もあなたの代わりに困難の壁を解決してはくれません。
あなたは自力によって乗り越えなければならないのです。
あなたは学びましょう。
多くのことに関心を持ち、どのような情報も大切にしましょう。
どのようなことでも良いのです。
何かを知っていることと、何も知らないことでは雲泥(うんでい)の差があるのです。
一つ知っていることと、二つ知っていることでは雲泥の差があります。
とにかく知ることです。
あなたは情報を集めなければなりません。
知らなければ、何かを始めることもできないのです。
無知はあなたに不自由を導きます。
誰かや何かがあなたの自由を奪っているのではないのです。
あなたが動かないのです。
あなたが無知という檻(おり)の中に閉じこもっているだけなのです。
無知な者の世界は狭いのです。
無知な者の視野は狭いということを覚えておきましょう。
あなたが自由を求め、人生を実現するためには、無知を克服しなければならないということを覚えておきましょう。
あなたに関わるすべての力を引き出すのです。
それが物であろうとも、人であろうとも、”運”であろうとも、その力を引き出すのです。
力を引き出せば問題は問題とはなりません。
力を引き出す方法は、知識に鏤(ちりば)められています。
どの知識に力を引き出す方法が隠されているかは分かりません。
選り好みなく学ぶのです。
善も悪もなく学びましょう。
陰陽の両方の力が必要です。
陽の力ばかりを引き出しても意味がありません。
陰と陽の両方の力を引き出し、光に輪郭を持たせるのです。
それは、最高の道具となるでしょう。
力を引き出しましょう。
そして、持ち腐れている道具を輝かせましょう。

2016年10月17日月曜日

雨を待つ人

あなたは、自分の人生を勝ち取らなければなりません。
人生は、自分の力によって確立する必要があるのです。
誰かや何かがあなたの代わりに、あなたの人生を導くことはありません。
家族であろうとも、あなたの代わりに人生を導くことはできないということを理解する必要があるのです。
求めても、祈っても、人生が確立されることはありません。
寧(むし)ろ、求めていたり、祈っているのであれば、あなたが自分の人生を確立することはできないのです。
求めたり、祈っているだけであれば、あなたは自分以外の人生を生きることになるでしょう。
例えば、他人に求めるのであれば、それは他人の人生の踏襲(とうしゅう)となるのです。
”神”に祈るのであれば、それは”神”の示す人生となるでしょう。
大切なのは、あなたの人生を生きることなのです。
あなたがそれを勝ち取らなければならないのです。
多くの人は、人生が”何となく”実現するものだと思っています。
何となく道が開かれ、何となく必要なものを手にし、何となく幸福になると思い込んでいるのです。
残念ながら、そのようなことはありません。
この世界においては、因果の仕組みに従わなければならないからです。
あなたの行いに相応しい状況が導かれます。
あなたの原因に相応しい結果が導かれるのです。
それ以外はありません。
そのため、”何となく”人生が得られるということはないのです。
あなたが自分の人生を勝ち取ろうと努めなければ、自分の人生が確立することはないのです。
それは、自分以外の人生を生きることになります。
それは、違和感を抱えながら生きなければならないということなのです。
違和感とは、内的矛盾です。
あなたが自分の人生を勝ち取ることがなければ、常に矛盾を抱いて生きなければならないのです。
それは、あなたに苦悩を導くでしょう。
内的矛盾から逃れることのできる者は存在しません。
自分の人生を確立させる以外の方法では、それが解消されることはないのです。
求めるだけの人、祈るだけの人には、内的矛盾が与えられるでしょう。
あなたは求めること、祈ることをやめましょう。
あなたは自力によって自分の人生を確立させるのです。
多くの人は雨を待っています。
雨が天から降り注ぎ、大地を潤すことを待ち望んでいるのです。
それは、求めることや祈ることに似ています。
残念ながら、あなたが雨を求め、祈っても、それは大地を潤しません。
あなたが雨を求め、祈っている間に大地は干涸(ひから)びてしまうのです。
あなたが大地を救いたければ、泣き言や非現実的な願望は捨てて、水場へ水を汲みに行けば良いのです。
水場から水路を引いても良いでしょう。
雨を待つのは現実的ではないのです。
あなたの行動が結果として返ります。
あなたが行っていなければ、結果もないのです。
他人に求めることや”神”に祈ることは、行いではありません。
そのようなことにどれだけ時間と労力を費やしても、あなたは自分の人生を確立するために何もしてはいないのです。
あなたが心の底から欲するものがあるのならば、それを実現するために行動しましょう。
失敗(だと思えること)でも構いません。
それはあなたを、心の底から欲するものに近付けます。
求めても、祈っても決して実現しません。
なぜなら、それを実現するのはあなた自身であるからです。
他人や”神”があなたの人生を確立することはありません。
干涸びる前に行動しましょう。
いつまでも待ち望んではなりません。
行動こそがあなたを救います。
他人や”神”があなたを救うことはないのです。
人生は自力の道のりです。
悔いの無いように生きましょう。
天から降る雨粒で喉(のど)を潤すのではなく、水場まで歩き、心行くまでその水で乾きを潤しましょう。

2016年10月16日日曜日

魂の声

あなたは人が、生存するために生まれたと思いますか?
生まれ落ちて生活し、死を迎えることが人生の目的だと思いますか?
子孫を育むだけの存在であるのならば、あなたでなくても良いのです。
どの遺伝子が残っても構いません。
ではなぜ、あなたが生まれたのでしょうか?
それは、あなたでなければならないからです。
それは、あなただけの目的のためです。
あなたには特別な役割が与えられているのです。
あなたでなければ果たすことのできない使命です。
それを他の誰かが果たすことはできないのです。
人生の目的が生活にあるのならば、あなたの存在意義はなくなるのです。
人類が子孫を育むためであるのならば、あなたがいなくても良いのです。
あなたがいなくても、人類は子孫を育むことができるのです。
重要なのはあなたが生まれた意味なのです。
それを考えなければならないのです。
あなたは生活をするために生まれたのではありません。
生き長らえることには何の意味も無いのです。
大切なのは、魂の欲求です。
それは、あなたの使命なのです。
魂の欲求とは、あなたの心がどうしても手に入れたいと望むことです。
それは、命よりも重たいものなのです。
命が最も重たい人は、魂の欲求を知りません。
命が最も重たい人は、生活のために生存し、命に執着するでしょう。
生活を続けて何になるというのでしょうか?
生き長らえることに何の意義を見出すのでしょう?
あなたは、ただ生きることに満足することができますか?
有り触れた生活を続けることに心を満たすことができるのでしょうか?
それは、人生の意味を知らせるでしょうか?
あなたは何のために生きているのですか?
生き長らえるために生きているのですか?
それでは、寝た切りでも構わないはずです。
退屈な日々を生きても満足なのでしょうか?
そうでは無いはずです。
あなたは変化を求めているでしょう。
”危険”を欲しているはずです。
未知に触れ、自分の可能性を知りたいはずです。
生きているという実感は、困難の中にこそ存在しているのです。
あなたは困難に立ち向かわなければならないのです。
あなたが困難に立ち向かうためには、志(こころざし)を持つ必要があります。
志を持たずに、困難に出会うことはありません。
志を持たない者が出会うのは退屈です。
志を持たない者は、寝て生きるのと等しいのです。
あなたにはどうしても実現したいことがあるはずです。
それを諦めによって覆い隠しているだけなのです。
”自分にはできない”と言って、自分に嘘を吐いているのです。
あなたは自分に嘘を吐くことをやめましょう。
魂はあなたに求めているはずです。
自分を偽ってはなりません。
あなたは志を以て生きるべきなのです。
失敗を恐れてはなりません。
理想通りには進みません。
あなたの思う成功は実現しないかも知れません。
しかしながら、それで良いのです。
あなたの志を受け継ぐ者が必ず現れます。
そうすれば、あなたのやってきたことは報われます。
魂の欲求に挑戦することなく生きてはなりません。
魂の欲求に挑戦することなく死んではならないのです。
生活するために生まれたのではありません。
子孫を育むために生まれたのではありません。
あなたでなければならない理由があって生まれたのです。
自分の理由を果たしましょう。
心に向き合い、その深くに存在する魂の声を聞きましょう。

2016年10月15日土曜日

孤独の完成

人生とは、あなたが歩むべき道のりです。
あなたは自らの人生を完結するために、その道を歩んでいるのです。
あなたの道は、あなたが歩まなければなりません。
人生は孤独な道です。
それは、あなた独りで歩んでいるのです。
どのような他人も、あなたの人生を歩んではいません。
あなたの人生に登場することはできますが、あなたの代わりや、共に歩むことはできないのです。
他人も自分の人生を歩まなければならず、あなたの人生を歩む暇は持ち合わせてはいないのです。
あなたは人生が孤独な旅路であるということを理解しましょう。
あなたは常に自分自身と向き合うことになります。
どのような状況も、それは自らの心を反映しているのです。
自らの心に関わりのない状況は存在しません。
すべては自分自身に起源するということを覚えておきましょう。
あなたの人生が、他人に起源することはありません。
これはあなたの人生なのです。
他人は関係ないのです。
人生を深く考察しなければなりません。
そうすれば、あなたは自分が孤独の内に歩んでいることを知るでしょう。
誰にも頼ることはできません。
誰もあなたを担いで運ぶことはできません。
あなたに触れることができるのは、自分自身だけなのです。
それ故(ゆえ)に、他人があなたを変えることはありません。
他人があなたを幸せにしたり、不幸にすることはないのです。
あなたが幸せや不幸を感じているのであれば、それは自分の心の中で勝手に思っていることなのです。
あなたの幸せや不幸は他人には関係ありません。
あなたが幸せを感じているからといって、他人が同じように幸せを感じることはありません。
あなたが不幸を感じているからといって、他人が同じように不幸を感じているということもないのです。
あなたと他人との間には、目には映らず、触れることもできず、認識することもできない隔(へだ)たりが存在しています。
あなたはその隔たりを超えて他人に干渉することはできません。
他人もあなたに干渉することはできないのです。
すべてはあなたが自分で感じ、自分で考え、自分で行動しているに過ぎないのです。
そのことを理解しなければなりません。
そのため、他人と理解し合うことはできません。
他人を引き連れて歩むこともできません。
他人を助けることもできません。
他人を傷付けることもできません。
あなたは他人に触れることができないのです。
そして、他人があなたを連れて歩むことはできません。
他人があなたを助けることもできません。
他人があなたを傷付けることもできません。
他人があなたに触れることはできないのです。
そのことを知りましょう。
深く考察すれば、あなたにも理解することができるようになるでしょう。
あなたは独りで歩んでいるのです。
あなたは孤独を完成させなければなりません。
自らの内に孤独を確立させるのです。
それは、自分自身のためでもあり、他人のためでもあります。
人が孤独に至れば、互いに協力することができます。
しかしながら、孤独を完成させない人は依存し合うのです。
孤独を完成させた者は、他人に求めません。
それは孤独を恐れないからです。
孤独を完成させていない者は、他人に求めるでしょう。
それは孤独を恐れているからです。
他人に求めることは協力ではありません。
他人に与えることこそが協力であるということを理解しなければならないのです。
与え合えば高まり、求め合えば低まるということを覚えておきましょう。
あなたの目的は成長にあります。
それは高まることです。
あなたが成長するためには、与え合う必要があるのです。
他人を頼りにしてはなりません。
力強く生きましょう。
孤独に励みましょう。
そして、与え合う仲間を得ましょう。

2016年10月14日金曜日

現状への否定

あなたは成長しなければなりません。
成長とは、向上的な変化です。
立ち止まっているのであれば、成長は実現しません。
成長を実現するためには、変化しなければならないのです。
変化とは、動くことです。
あなたが成長するためには動かなければならないのです。
しかしながら、多くの人は動くことを嫌います。
それは、現状を大切に思っているからです。
多くの人が現状を気に入っています。
そこに不満や不安を抱えていたとしても、そこから動きません。
それは、現状を気に入っているということなのです。
本当に現状に不満を抱えているのであれば、そこから動くことができるのです。
現状に変化を与えないすべての人は、現状を気に入っているということなのです。
気に入っている現状から無理に引き離すことはできませんが、あなたが現状を変え、成長したいと願っているのであれば、現状を放棄しなければならないのです。
ただし、これは状況や環境を放棄して逃げ出せと言っているのではありません。
あなたの心構えを変えろと言っているのです。
現在のあなたの心構えを変化させるのです。
今すぐに仕事を辞めろとか、人間関係を解消しろと言っているのではありません。
あなたの古い心構えを手放すのです。
あなたの心が現状を現しています。
あなたの心が変化すれば、現状も変化するのです。
環境や他人を変える必要はありません。
あなたの捉え方が変わるだけで、環境も他人も変わるのです。
あなたが苦しんでいるのであれば、その心構えが既に使い物にならなくなっているのです。
使い物にならないために、無理が祟(たた)っているのです。
しかしながら、多くの人はそのことを受け入れません。
自分自身の心構えが使い物にならなくなっているという事実を受け入れたくはないのです。
それは、人が自らを美化しているからです。
あなたがしなければならないのは、自分自身の心構えの否定です。
それは、現状を否定することでもあります。
現状を否定しなければ、あなたは現状にとどまることになるのです。
現状を最高のものだと考えているのであれば、あなたがそれを変えることなどないのです。
あなたは最高のものを維持しようと努めるでしょう。
それは、現状への執着であって、変化を導くことはできないのです。
変化を導くことができなければ、あなたが成長することはありません。
それは、人生の目的に反しているのです。
成長することがなければ、あなたは苦しむのです。
しかしながら、苦しみはあなたの成長を促(うなが)します。
それは、否定のためには苦しみが必要であるからです。
子が親から独立するためには、子にとっての苦しみが必要です。
親が子を甘やかすのであれば、子はいつまでも独立することができないのです。
親が子を否定することによって、子は独立という変化を受け入れることができるのです。
苦しみがなければ、現状を否定することもありません。
それでは、あなたが成長することはないのです。
苦しみを嫌う人がいますが、そのような人は現状維持を喜ぶでしょう。
現状維持とは、自らの首を絞める行為です。
それは、空転によってエネルギーを使い果たすようなものなのです。
大切なのは前に進むためにエネルギーを使うことなのです。
前進するということは、現状への否定です。
現状を否定しなければ前進することはできないのです。
あなたが苦しんでいるのであれば、それを好機と捉えましょう。
苦しみはあなたが進むことを助けます。
現状が幸福だと考えているのであれば、それを危機と捉えましょう。
現状に満足している者は必ず可能性を失います。
あなたは満足しなければなりませんが、それに溺れないように注意しなければなりません。
次の一歩を踏み出さなければ、あなたは現状に沈んでしまうでしょう。
現状に沈む前に、それを否定しましょう。

2016年10月13日木曜日

満足する人生

大切なのは強くあることです。
人は強くなければなりません。
それは、人生には多くの困難が生じるからです。
あなたは常に問題を抱え、壁を目の当たりにするでしょう。
それは簡単に解決することができるようなものではありません。
それは、誰にとっても大きな障害となってしまうのです。
すべての人が弱さを抱えています。
それは歪みとなって”手足”に不具合を生じさせます。
それは汚れとなって手枷(てかせ)や足枷などの荷物となるのです。
弱さは人の自由を奪います。
あなたは弱さを抱えて障害を超えることはできません。
弱さによっては問題を解決することができず、人生の困難を乗り越えることはできないのです。
人生の困難を克服するためには、強くなければならないのです。
あなたが強さを得るためには、弱さと向き合わなければなりません。
あなたが自らの弱さと向き合うためには、その弱さを他人に投影する必要があります。
あなたは他人によって、自らの弱さに対峙するのです。
他人はあなたの困難となります。
他人はあなたの問題となります。
あなたが弱さを抱えている時、他人はあなたの壁となり、障害となるのです。
弱いあなたは他人によって苦しみ、悩むでしょう。
他人の目的は、あなたに自分の抱える弱さを見せ付けることにあるのです。
他人が他人の抱える弱さを見せているのではありません。
なぜなら、人生とは、あなたの心の反映に過ぎないからです。
あなたが弱さを克服し、強さを得たのであれば、他人が障壁となることはなくなります。
あなたが強くある時、他人はあなたの足掛かりとなるのです。
人生は自分次第であるということを理解する必要があるのです。
あなたが夢を描き、目標を掲げたとします。
それは強さが導く目的です。
しかしながら、あなたの夢や目標を否定する他人が必ず現れます。
他人はあなたの歩みの妨げとなるのです。
それは、あなたの弱さを鍛え上げることを目的とした抵抗であるのですが、多くの人はそのことを理解しません。
多くの人は他人の否定によって苦悩し、自らの目的を放棄してしまいます。
あなたを否定する他人の目的は、あなたを強くすることなのです。
しかしながら、ありのままを捉えるのであれば、”何も持たない者があなたの夢を奪う”ように映ります。
確かに、夢を持たない者が他人の夢を否定します。
自分が持たないのだから、他人のものを奪おうとするのです。
しかしながら、それは表面的な情報に過ぎないのです。
あなたは、あなたを否定する他人を乗り越えて進まなければならないのです。
あなたの夢や目標は、必ず誰かに否定されます。
それはあなたが弱いからです。
あなたが弱ければ、あなたの掲げた夢や目標に説得力がないのです。
それを見た他人はあなたには難しいと判断して、多くの場合、それを”優しさ”によって否定するのです。
あなたにはその夢や目標の実現が難しいために、あなたに苦労をさせたくないという感情がそうさせるのです。
しかしながら、それはあなたの弱さが抱える願望なのです。
あなたの弱さは、他人を通じて、あなたに諦めて欲しいのです。
他人を通じて、あなたを説得しようとしているのです。
それは、弱さが自らの立場を失うことを恐れているからです。
あなたが困難を乗り越えるということは、弱さの消滅を意味しているからなのです。
そのため、弱さは必死です。
あなたの身近な人を使い、あなたの夢や目標を悉(ことごと)く否定するでしょう。
これはあなたの人生なのです。
あなたが良いと思うことであるのならば、それを満足するまでやり遂げましょう。
あなたが良いと思ったことは、それを満足する形にしなければなりません。
それが、あなたの価値であるのです。
自分の価値に従って生きることが求められます。
人の生きる道とは、自分の価値に従った道なのです。
夢や目標を放棄してはなりません。
弱さに屈してはなりません。
強くありましょう。
どのような生き方であろうとも、あなたは満足する人生を築かなければなりません。

2016年10月12日水曜日

感情の海

あなたは人生の実像を捕えなければなりません。
すべての人は、虚像を捕えています。
捕えた虚像を実像だと錯覚しているのです。
あなたは、自分が何者であるのか?すら知らないのです。
ならば、あなたが自分だと思っている存在が実像であるとは限らないのです。
人生における目的や幸福というあなたが求めているそれは、実像なのでしょうか?
あなたの抱える問題や苦しみは、あなたの認識通りの存在なのでしょうか?
あなたは深く考える必要があるのです。
この世界の虚像に惑わされてはならないのです。
しかしながら、大抵の人が虚像に惑わされているということにすら気が付くことはできません。
あなたの求めている幸福や、あなたの抱えている苦悩は、実態なのでしょうか?
あなたは疑わなければなりません。
あなたの求めている幸福も、抱えている苦悩も、一時のものに過ぎません。
それは、あなたの妄想(もうそう)に過ぎないのです。
すべてはあなたの心に映し出された思い込みです。
そのことを理解しなければ、虚像に惑わされてしまうでしょう。
あなたの求めている幸福も、抱えている苦悩も、必ず形を変えます。
求めている幸福は後に幸福ではなくなります。
抱えている苦悩は後に苦悩ではなくなるのです。
幸福が苦悩に、苦悩が幸福に変わることさえあるのです。
それは、あなたの抱えているものが虚像であるということを示しているのです。
あなたは人生というものを見極めなければなりません。
当たり前を当たり前としてはなりません。
その当たり前がなぜ当たり前なのか?
それが何であるのか?ということを見極めなければならないのです。
あなたが享受(きょうじゅ)している幸福は、あなたの感情に過ぎません。
あなたが享受している苦悩も、あなたの感情に過ぎないのです。
あなたは自分の感情に溺れているに過ぎません。
幸も不幸もあなたの心が生み出しているのです。
あなたの認識によって、世界は大きく姿を変えるでしょう。
すべては感情問題に他なりません。
感情に溺れることによって幸福を感じ、苦悩を覚えるのです。
大切なのは冷静に見極めることです。
多くの人は幸福に浮かれます。
多くの人は苦悩に沈むのです。
どちらにしても、常軌(じょうき)を逸する状態なのです。
あなたは浮かれても、沈んでもなりません。
浮かれても沈んでも使い物にならないのです。
幸福と苦悩の間を進まなければならないのです。
天に登れば呼吸を失い、地下に至れば腐るのです。
あなたは天と地下の間に存在しなければなりません。
地に足を付けて歩むのです。
冷静な感情で生きることが求められるのです。
幸福にも苦悩にも溺れないように努めましょう。
すべては心による妄想に過ぎません。
虚像を喜び、虚像を苦しむ必要はないのです。
あなたはどのような状況であろうとも、それを受け入れましょう。
あなたにとって、無意味な状況は存在しません。
あなたにとって、無駄なことはないのです。
すべてが重要なプロセスなのです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
人生の実像とは、あなたの認識の内には存在しません。
認識を超えた知覚が必要なのです。
幸福と苦悩の形を定めてはなりません。
あなたは認識に”奥行”を設けるのです。
あなたは自分の感情に溺れないように注意しましょう。

2016年10月11日火曜日

重たい荷物

あなたは手放さなければなりません。
あなたが得るのは、失うためです。
人は、失うために得るのです。
命は、それを失う時のためにあります。
命を失うことによって、人は命の価値を知るからです。
あなたは、死ぬために生きているのです。
すべての価値は失うことによって理解することができます。
そのため、あなたは失わなければならないのです。
どのようなものも所有することはできません。
所有していると思い込んでいるだけに過ぎないのです。
何一つとして、あなたの所有ではありません。
命でさえ、あなたの所有とはならないのです。
あなたは自分で命をどうすることもできません。
死を待ち望んでもそれを得ることが叶わず、生を望んでもそれを継続することが叶わないのです。
それは、あなたの所有ではないからです。
あなたの所有ではないために、あなたの思い通りにはならないのです。
失うことは与えることです。
失うことを嫌悪してはなりません。
この世界においては、何一つとして無駄になることはなく、何等かの意味を持つのです。
あなたが失うということは、誰かや何かにそれが導かれたということなのです。
決して無駄にはなりません。
そのため、失うということには価値があるのです。
そこに価値を見出すことができなければ、失うことを恐れるようになるのです。
大切なのは、この世界には無駄が存在しないということです。
それを覚えておく必要があるでしょう。
あなたは必ず手放さなければなりませんが、それを肯定(こうてい)するように努めましょう。
失うものは、失うべきものであったのです。
その理由に納得がいかなくても、失うべきものは失うべきなのです。
”本当の”理由は後に分かります。
失うことを恐れるという感情による判断は、失うことの本質を隠します。
時が経ち、失ったことに対する恐れの感情が落ち着いた時には、”本当の”理由を理解することもできるでしょう。
失った時に納得することは簡単ではありませんが、努めなければならないのです。
人は恐れを抱くことによって所有を選択します。
恐れは、人に蓄積を促(うなが)すのです。
人は常に多くの荷物を抱えます。
それは、知識であったり、時間であったり、資産であったりします。
あなたは、(自分にとって)良くも悪くも荷物を抱えているのです。
多くの人は恐れているために、その荷物を手放そうとはしません。
そのため、より多くの荷物を抱えることになります。
多くの荷物を抱えて歩むことのできる者はいません。
荷物の重みに耐え兼ねて、その場に座り込んでしまうのです。
再び歩み出すためには、荷物を手放さなければなりません。
それは、抱えている荷物を誰かや何かに与えるということなのです。
それがどのようなものであれ、多くを抱えてはなりません。
喜びであろうとも、苦しみであろうとも、それを抱えてはならないのです。
あなたは必要な荷物だけを小脇に抱え、それ以外は与えるのが良いでしょう。
大切なのは進むことです。
多くの荷物を抱えていたとしても、先へ進むことができないのであれば価値がないのです。
例えば、何かの知識を得たとして、それを誰にも教えずに抱えていてはなりません。
それは必ず重たい荷物となるのです。
何かを得たのであれば、それを誰かや何かに役立つ形によって分け与える必要があるのです。
苦しみであろうとも、それを教訓という形に変換して誰かや何かに分け与えれば良いのです。
所有しようとすれば、その重さに耐え切れずに進むことができなくなります。
あなたは誰かや何かの役に立たなければなりません。
与えるということは、役に立つということなのです。
あなたは必ず手放さなければなりません。
あなたは必ず手放さなければならない時がくるのです。
その荷物が誰かや何かの役に立つことを考えて手放しましょう。

2016年10月10日月曜日

心の壁

あなたは、壁を越えて進まなければなりません。
あなたは、立ち止まっていることはできないのです。
それは、人生が許さないからです。
あなたは目の前の壁を越えて進みましょう。
あなたの目の前には、いつも壁が立ちはだかります。
あなたはその壁を見詰めなければなりません。
なぜなら、その壁はあなたにとって余りにも高いからです。
簡単に超えることのできる壁など存在しないのです。
誰もが、壁に行く手を阻まれます。
壁に進路を塞がれることのない者はいないのです。
どのような人物であろうとも、必ず困難な壁に出会うのです。
それは、壁が自らの心の内に存在しているからです。
あなたがどこで何をしようとも、その壁は確実に行く手を阻むのです。
人生における壁とは、あなたの歪んだ感情です。
人生におけるすべての問題の本質は、あなたの心であるのです。
しかしながら、多くの人はそのことを知りません。
そのため、誰かや何かが問題を引き起こし、壁となっているのだと考えるのです。
残念ながら、それは歪んだ心が引き起こす利己的な願望に他なりません。
歪んだ心は、問題の原因が誰かや何かであって欲しいと願うのです。
それは、自らを直視することを恐れているからです。
歪んだ心は、自己を見詰めることを嫌います。
歪んだ心は、責任を回避したいのです。
あなたは心に多くの歪みを抱えています。
そのため、自己を見詰めることなく、責任を回避しようと努めます。
それが、誰かや何かに問題の原因を擦り付けるという悪趣味を生むのです。
誰かや何かが原因となって発生する問題はありません。
誰かや何かが壁となることはないのです。
あなたが越えなければならないのは、自分自身の歪んだ心なのです。
あなたが解決しなければならないのは、自分自身の歪んだ心なのです。
それ以外に必要なことはありません。
あなたは常に自分自身を見詰めなければならないのです。
ただし、自分の頭だけで考えること、自分のやり方に拘(こだわ)ることには限界があります。
それは、あなた一人分の能力しか扱えないからです。
あなたの実力によって問題が生じ、壁に行く手を阻まれているのです。
それは、あなた一人分の能力では壁を超えることができないということなのです。
あなたが壁に拒(こば)まれているのは、実力が足りないからです。
実力が足りないために問題を引き起こし、実力が足りないために壁を超えることができないのです。
単純な話なのです。
あなたが問題を解決し、壁を超えるためには、実力を伸ばせば良いだけなのです。
しかしながら、自分の頭だけで考えて、自分のやり方に拘っているのであれば、実力を伸ばすことはできません。
あなたは自分以外の存在に力を借りなければならないのです。
すべての人は、一人分の能力によって、一人分の実力を育みます。
二人分の能力や実力を育む人はいません。
それでも壁を越えなければならないのです。
そのためには、力を借りる以外に方法はありません。
ただし、他人に押し上げてもらうことや、運んでもらうようなことをするのではありません。
壁を超える知恵を借りるのです。
壁を超えるのはあなたの力でやることなのです。
あなたは他人の話を聞かなければなりません。
他人の方法を学びましょう。
それによって、自力で壁を超えるのです。
人に教えてもらっても、書籍などで学習しても構いません。
とにかく、自分以外の価値観や方法を手に入れる必要があるのです。
そのような形で力を借りるのです。
人は最終的に孤独です。
すべての人が自力によって、最終決定をしなければならないのです。
誰もあなたと一緒に壁を超えることはできません。
”彼”の前には壁が無いのです。
これは、あなたの目の前にだけ存在している壁であるのです。

2016年10月9日日曜日

感情の誤用

すべての人は、人生に対して目的を抱えています。
すべての人が、必要な役割を担い、役割を果たすことを使命としているのです。
誰もが目的を抱えていますが、多くの場合、それを忘れています。
目的を忘れて生きることによって、人は苦悩するのです。
苦悩する人は目的を見失っています。
あなたが苦悩しているのであれば、人生の目的を見失っているということを知りましょう。
それだけで、苦悩は幾らか軽くなるでしょう。
しかしながら、人生の目的を見出すまでは苦悩は続くのです。
そのため、あなたは常に人生の目的を見出す努力を続けなければなりません。
人生の目的は一つではありません。
それは複数あって、それは段階的です。
一つの目的を果たせば、次の目的が生じます。
その目的を果たせば、新たな目的が生じるのです。
人生の目的が尽きることはありません。
あなたは常に新しい目的に対して挑戦し続けなければならないということを覚えておきましょう。
人生の目的を見失っている者であっても、人生に目的が存在しているということは潜在的に知っています。
それが明確な形では分からないにしても、何かしらの感情によって知ることができるのです。
苦悩という感情の形状も、人生に目的が存在しているということを知るための一つの形です。
人生は常に、あなたに対して人生の目的を思い出させるように働き掛けているのです。
あなたが求めているのは、自らの人生の目的です。
あなたは人生の目的を果たしたいと思っているのです。
しかしながら、それを明確な形では知りません。
そのため、その感情は歪んだ形として心に生じます。
それが、何かに対する欲求に向かうのです。
すべての人は何かを求めています。
それが本当に必要であるか?と問えば、必要ではないものであっても、それを求めているのです。
それは、本当に求めているものに対する歪んだ感情です。
本当に求めているものが他にあるにも関わらず、それを得ることができないために、他で代用しているのです。
あなたが求めているそれは、本当に求めているものなのでしょうか?
あなたが本当に求めているのは、人生の目的であるはずです。
例えば、多くの人が金持ちになりたいと思っています。
あなたもその一人かも知れません。
しかしながら、本当に金持ちになりたいのでしょうか?
これは、他のことでも構いません。
漁師になりたい、医者になりたい、演者になりたい、農夫になりたい・・・
結婚したい、子どもが欲しい、大きな家が欲しい、定年まで同じ仕事を続けたい、多くの友人が欲しい、有名になりたい・・・
どのような欲求でも構いません。
多くの人は自分自身の人生の目的を見失っています。
人生の目的を見失っている人が求めているものは、本当にその人を満たすのでしょうか?
あなたにとっての豊かな人生とはどのようなものなのでしょうか?
多くの人は感情を誤用しています。
極論を言えば、どのような人生でも良いのです。
どのような職に就き、どのような人と暮らし、どのような時間を過ごし、どのような死を迎えようとも構わないのです。
そのようなディテールが重要なのではないのです。
どのような人生であろうとも、自らの目的を果たすことができれば良いはずです。
就きたい職に就くことが、必ずしも幸福なのではありません。
意中の人と暮らすことが必ずしも幸福なのではありません。
思い通りの時間を過ごし、思い通りの死を迎えることが必ずしも幸福なのではありません。
これは、あなたに人生を諦めろと言っているのではありません。
これは、あなたを弱くするための言葉ではないのです。
人生の”装飾”に魅了されて、目的を見失ってはならないということなのです。
大切なのは人生を飾ることではないのです。
人生の目的を果たすことが重要なのです。
あなたが求めているものは、あなたが本当に求めているものではないかも知れません。
あなたは自らの心であっても疑わなければなりません。
人は後悔するものを求めます。
後悔は先には立ちませんが、後悔するようなものが目的ではないのです。
ただし、後悔が悪いということを言っているのではありません。
すべての人が後悔します。
後悔とは感情の誤用の結果であり、進むべき道ではなかったという証明です。
次からは他の方法を用いれば良いだけなのです。
他を欲すれば良いのです。
本当に欲しているものを見極めましょう。

2016年10月8日土曜日

内部矛盾

人は誰もが争いに興じます。
すべての人が争わずにはいられません。
誰もが、争いを楽しんでいるのです。
楽しんでいるためにやめられないのです。
争いとは、人が通過しなければならない過程です。
すべての人が争わなければならないのです。
あなたが争いを避けることはできません。
どのように努めようとも、あなたは誰かや何かと争わなければならないのです。
争いを食い止めることはできません。
自分自身の争いも、他人の争いも食い止めることはできないのです。
人は争って良いのです。
人にとって、争いは楽しいからです。
それは、人の心に与えられた娯楽です。
ただし、争いを推奨(すいしょう)しているのではありません。
争わずに済むのであれば、争わない方が良いのです。
しかしながら、それは不可能なのです。
なぜなら、心がそれを求めているからです。
争いが楽しいのではなく、争うことによって得られる結果を楽しんでいるのです。
しかしながら、多くの人はそのことを理解することなく争います。
争いを嫌っていますが争っています。
争っているということは、それを楽しんでいるということなのです。
あなたには、争いを絶つ力はありません。
そのため、争わなければならないのです。
あなたが何を始めても、争いが生じるでしょう。
争いの生じない道はありません。
争いを覚悟しなければなりません。
争いのためには敵が必要です。
そのため、あなたは必ず敵と会います。
敵はどの道にも必ず存在し、あなたの妨げとなるでしょう。
敵とは、あなたにとっての敵です。
他者にとって、それは敵ではありません。
あなただけの敵であるということを理解する必要があるでしょう。
それは、あなたが敵を作り出しているということの証明です。
敵がいたのではありません。
あなたが”彼”を敵としたのです。
人が争わなければならないのは、心に内在する矛盾を解消するためです。
すべての心には矛盾が内在しているのです。
心に矛盾を抱えない人は存在しません。
なぜなら、その矛盾を解消するための人生であるからです。
あなたは、敵が内部矛盾によって生じるということを覚えておきましょう。
心に矛盾が存在しなければ、外に敵は存在しません。
例えば、あなたが何かに苦しんでいる時には、外には多くの敵が現れます。
あなたの感情が波打っている時、あなたは何に対しても気に食わない態度を示すのです。
あなたの感情が安らいでいる時には、何に対しても寛容(かんよう)であることができます。
そのような人には敵がいないのです。
苦しみを感じるということは、世界に矛盾しています。
なぜなら、すべての過去が最善であるということに気が付くからです。
この世界は、喜びを以て感謝することはできても、苦しみを以て憎むことはできないのです。
そのような場所です。
あなたは常に最善を与えられているのです。
最善を与えられているにもかかわらず、それを否定するのであれば、矛盾しているということなのです。
あなたの内部矛盾が世界を歪めます。
あなたは争いによって相手を打ち負かすことを喜んではなりません。
それも一つの矛盾の形だからです。
争いによって内部矛盾を認識し、それを改めることに喜びを覚えましょう。
自己の成長を以て喜びとしなければなりません。
それ以外の喜びには、矛盾が付き従うということを覚えておきましょう。

2016年10月7日金曜日

柔らかな雨粒と硬い地層

この人生において、あなたは自らの抱える不安と闘わなければなりません。
これは、不安との争いではありません。
これは、自らの内に潜む不安を癒す闘いなのです。
不安は恐れています。
それは、巧妙に姿を隠します。
それは、あなたの呼び掛けに応じることなく、逃げ続けるのです。
不安は、自らが明るみになるのを嫌います。
不安は、暗闇の中で自らを守りたいと考えているのです。
不安とは、部屋で独り不貞腐れている子どものようなものです。
それは簡単には呼び掛けに応じません。
あなたも、不貞腐れた経験があるでしょう。
その状態が続いているのです。
そのような”面倒”な感情を抱えているのです。
子どもが不貞腐れているのは、愛を感じることができないからです。
子どもが不貞腐れるのは、否定されたからではありません。
それが親のための否定であったからです。
子どもは、自分のための行為を求めているのです。
不安のための行為は、不安を癒すのです。
しかしながら、多くの人は不安を癒すことをしません。
多くの人は不安を迷惑に感じ、自分のために否定しようとするのです。
そのため、不安は恐怖を増幅させ、より深くへと隠れるのです。
恐れを抱く子どもを部屋の外へ導くことはできません。
不安の抱える恐怖を理解し、それを認めなければならないのです。
あなたは、不安を抱えています。
それが、恐怖から導かれる感情であるということを理解しましょう。
そして、それを癒さなければならないということを知るのです。
あなたは本気で向き合わなければなりません。
不安は簡単には癒すことができません。
それは、大樹のように深く大地に根を張っているからです。
大樹は深く根を伸ばし、硬い地層に根差しています。
そのため、簡単には引き抜くことはできません。
しかしながら、それがどのような大樹であろうとも、土が柔らかければ簡単に引き抜くことができるのです。
雨が続き、地盤が緩めば、大樹も山肌を滑り落ちるのです。
あなたは、自らの抱える不安に向き合い続ける必要があります。
あなたが不安を理解する程に、その地盤が緩みます。
そして、いつの日か不安を引き抜くことができるのです。
しかしながら、不安に向き合うことを恐れているのであれば、地盤が緩むことはありません。
多くの人は、不安に向き合うことを恐れるが余り、斧(おの)や鋸(のこぎり)を持ち出して大樹を切り倒すのです。
その方法は簡単に大樹を倒し、視界から取り除くことができます。
しかしながら、根はそのままに残っているために、すぐに成長し、再び視界に入るようになるのです。
形が変わっただけで、本質は変わりないのです。
根を引き抜かなければ、あなたは再び同じ不安に苛(さいな)まれることになるのです。
大切なのは、本質を解決するということです。
多くの人は不安を恐れるが余り、他人や状況や環境に依存することによって不安を遠ざけます。
家族、友人、恋人、子ども、他人、集団、仕事、財産、趣味、場所・・・
何かに依存することによって不安を忘れることができます。
しかしながら、それは一時の快楽によって不安から目を逸らすだけに過ぎません。
依存対象が自らを離れれば、再び不安があなたを抱くのです。
小さな火の粉が山を焼きます。
一粒の種子が山を緑で覆います。
小さな力を侮ってはなりません。
あなたは不安に向き合える程に向き合わなければなりません。
それが小さなアプローチでも良いのです。
あなたは自らの心に耳を傾けて、少しでも不安の声を聞きましょう。
それも、自分のためにではありません。
不安のために耳を傾けるのです。
柔らかな雨粒が硬い地層を砕くということを覚えておきましょう。

2016年10月6日木曜日

光の輪郭

人生においては、すべての感情があなたの成長の助けとなります。
感情に偏りや不足があれば、あなたの成長にも偏りや不足が導かれるのです。
あなたは様々な感情を体験し、それを理解する必要があるのです。
多くの人は、感情の偏りや不足を許します。
大抵の人間は、苦悩を受け入れることはありません。
大抵の人間は、苦悩を悪と捉えて否定するのです。
そのため、苦悩に対して、多くの人は偏りと不足を所有することになるのです。
感情に偏りと不足が生じれば、それを解決することができなくなります。
それはパズルのピースのようなものであり、すべてのピースが揃っていなければならないのです。
一つでも欠けるのであれば、それを探し出さなければなりません。
すべてのピースが揃わなければ、パズルは完成しないのです。
あなたの抱える問題とは、完成していないパズルのようなものなのです。
それが未完成であるために問題として認識しているのです。
パズルを完成させれば、問題としての認識はなくなるでしょう。
パズルとは、価値観のことです。
ピースとは、感情のことなのです。
あなたは豊かな価値観のために、豊かな感情を体験する必要があるのです。
しかしながら、多くの人は喜びや楽しみなどの、自分にとって快楽となる感情のみを欲します。
誰もが心地好さのみを求め、不快を否定します。
そのために、感情に偏りと不足が生じるのです。
楽しいことばかりを選択する者には、不完全な価値観が導かれます。
それは、人生を歪める選択を導くのです。
歪んだ人生に幸福を感じる人はいません。
苦悩を否定して、人生が豊かに導かれることはないのです。
あなたが豊かな人生を求めているのであれば、豊かな価値観を求める必要があります。
そのためには、偏りや不足の無い価値観を実現する必要があります。
それは、苦悩を否定しない生き方です。
人生には苦悩が付き物です。
すべての人が苦悩を抱えます。
人生においては、快楽よりも不快なことの方が多いのです。
不快を否定するのであれば、人生の大半を否定することになるのです。
人生の大半を否定して、どうやって豊かさを得るというのでしょうか?
人生のすべて、パズルのピースがすべて揃うことによって、豊かさは実現するのです。
苦悩が導く破滅的(ネガティブ)な感情は、大切なピースなのです。
それを否定しては、人生が完成することはありません。
多くの人は快楽を以て人生に幸福を導こうと考えています。
パズルの大半が未完成である現状を前にして、どうしてそれを喜ぶことができるのでしょうか?
あなたは穴だらけのパズルを壁に掛けて喜ぶことができるでしょうか?
パズルが一つの絵になることによって、喜ぶことができるのです。
あなたには、不要な感情は存在しません。
それがどのような感情であろうとも、あなたにとっては大切なものなのです。
苦悩を否定してはなりません。
あなたは寧(むし)ろ、苦悩を求めなければならないのです。
快楽から人生の本質を理解することはできません。
人生の本質とは、快楽と不快の両方を体験しなければ分からないものなのです。
パズルのピースには、様々な色があります。
それは、明るい色であったり、暗い色であったりします。
明るい色だけでは完成せず、それが何を現しているのかを理解することができません。
明るい色に寄り添うように暗い色が存在することによって輪郭が生まれ、それが何を現しているかを理解することができるのです。
光しかなければ、あなたは何も認識することができません。
闇だけでも同じです。
あなたは、光と闇の明暗によって、何かを認識することができるのです。
人生には苦悩が必要です。
闇を見ない人には、光の輪郭は見えないのです。
苦悩を得ない人には、幸福の輪郭を得ることもできないのです。
幸福は苦悩によって実現します。
あなたは反対のものを見るでしょう。
幸福を求めれば苦悩を見て、苦悩を求めれば幸福を見るでしょう。

2016年10月5日水曜日

最高の道

あなたには、一つの現実しかありません。
あなたは目の前の現実を生きる他ないのです。
あなたが現実を放棄する必要はありません。
目の前の現実の中にこそ、あなたの求める幸福が存在しているからです。
多くの人はそのことに気が付きません。
現状に拘(こだわ)ることによって、未知の可能性を見失っているのです。
あなたが大切にしなければならないのは、未知の可能性です。
あなたは未知の可能性のために、現状を生きる必要があるのです。
多くの人は、現状を放棄することによって、新たな現実を手に入れようとします。
目の前の現実から逃れることができれば、一から新たな現実を構築することができると考えているのです。
しかしながら、あなたが逃避した先に待っているのは、新たな現実などではありません。
あなたが逃避した先に待っているのは、あなたが放棄した現実の続きなのです。
残念ながら、現実は一つしかないのです。
あなたはそれ以外の道を進むことはできないのです。
あなたは自らの抱える現実から逃れることはできません。
受け入れる他ないのです。
あなたは現実を放棄してはなりません。
それがどのような現実であれ、それを受け入れる必要があるのです。
道は一つしかありません。
過去は現在に繋がり、未来へと向かうのです。
それは一つの道なのです。
そのため、現在を否定したとしても、同じ未来へと向かうのです。
それは、現在を変えていないからです。
否定することや、逃避することは、現状維持を導くのです。
あなたが未来を変えようと思うのであれば、否定や逃避に希望を見出してはなりません。
あなたは現実に向き合い、それを変えなければならないのです。
現在を少しでも変えるのであれば、未来も少しだけ変わります。
それ以外の方法によって、あなたが現実を打破することはできないのです。
否定や逃避はその場を保存して離れることに過ぎません。
あなたが部屋を汚して外出したとしても、帰宅した時には汚い部屋が待っているのです。
部屋が勝手に掃除されているということはありません。
綺麗な部屋を求めているのであれば、自らが掃除しなければならないのです。
それが実践的な生き方です。
現実は、あなたの実践によって初めて変わることができるのです。
あなたは自力によって、現実を変えなければなりません。
あなたは自力によって、現実を変えることができるのです。
多くの人は現実を変えることができないと考えています。
そのために、否定や逃避という手段に至るのです。
これは誰の人生ですか?
これは、あなたの人生なのです。
誰かや何かのための人生ではないのです。
あなたは自分の意思と行為によって人生を変えることができます。
現実は簡単に変わります。
ただし、時間が必要なのです。
すぐに答えを求めるのであれば、この世界の変化に気が付かないでしょう。
花芽が冬を耐え、春に芽吹くように、この世界は期が熟すのを待っているのです。
花は冬の時点において、既にそこにあったのです。
春になって突然現れたのではありません。
あなたの実践は、すぐには実現しません。
それは長い時間を蓄えて、期をみて生じるのです。
そのため、あなたの実践が現実に変化を導かないにしても、それを疑ってはなりません。
あなたの行為が無駄になることはありません。
あなたの行為に相応しい成果を導くでしょう。
樹木は栄養に相応しい花を咲かすのです。
枝が折られたとしても、別の場所から新芽を伸ばせは良いのです。
新しい可能性が新たな枝となり、やがて花を咲かせるでしょう。
しかしながら、根を動かすことはできません。
それは、あなたが一つの現実の中に生きていること、一つの道を進んでいることと同じです。
樹木は根差した場所を離れません。
しかし、見事に育つのです。
あなたは自分の現実を離れてはなりません。
困難はいくらでも襲います。
それは問題ではないのです。
問題はその場を動こうとして根を地から抜き出すことです。
根を地から離せば、樹木は枯れてしまうのです。
現実を大切にしましょう。
それ以外の道を生きる必要などありません。
それ以外に最高の道はありません。

2016年10月4日火曜日

人を動かす

この世界において、あなたの活動が受け入れられることは容易ではありません。
多くの人が、自分の活動を受け入れられようと日々努めています。
あなたの活動が受け入れられるためには、そのような競争を勝ち抜く必要があるのです。
この世界において、独占という状態は存在しません。
どのような活動であろうとも、必ずそれに匹敵する人物や状況が現れます。
そして、あなたはそれ等と競争しなければならないのです。
この世界においては、競争することによって向上が実現します。
独占であっては、その活動には限界が生じるのです。
互いに高め合う好敵手(こうてきしゅ)がいてこそ、切磋琢磨(せっさたくま)しながら向上することができるのです。
一人では甘えが許されます。
しかしながら、好敵手の存在は甘えを許しません。
それは互いの向上を助ける関係であるのです。
あなたは好敵手に負けないように切磋しなければならないのです。
これは、互いに向上するための競争です。
競争相手があなたの活動を妨害しているのではありません。
あなたは誤解によって、活動を歪めてはなりません。
相手に勝る良い活動をすれば良いのです。
そうすれば、相手もあなたに負けるまいとより良い活動を始めます。
そして、あなたを凌駕(りょうが)する良い活動を提供します。
その時、あなたはより良い活動を求められるのです。
より良い活動でなければ、受け入れられることがないからです。
受け入れられることが大切です。
それは、この世界の目的が貢献にあるからです。
あなたの活動が誰かや何かの役に立つ必要があるのです。
それによって、あなたは満足と豊かさを得ることができるのです。
自分勝手に満足と豊かさを得ることはできません。
あなたの満足と豊かさは、他者に与えられる他ないのです。
誰とも会わず、誰にも貢献することがなければ、活動していないのと同じです。
それは、生きていることにはならないのです。
誰か一人でも良いのです。
その一人の役に立ち、手助けすることが大切なのです。
あなたが誰か一人にでも感謝されるのであれば、それだけで満足と豊かさを実感することができるのです。
しかしながら、誰か一人を満足させるために活動するのであれば、そこには必ず好敵手の存在があります。
その相手には、あなたと同じように自分のために活動する誰かがいるからです。
あなたが誰かに対して活動する時点において、競争は避けられないのです。
あなたは必ず競争の中に身を置くことになります。
それは避けられないことなのです。
しかしながら、あなたはそれを恐れることはありません。
先述したように、これは高め合う行為であるからです。
互いを傷付け合うための争いではないのです。
競争は協力と等しいのです。
それは、間接的な協力と解釈しましょう。
あなたの活動が認められ、人を動かすには多くの時間と労力が必要です。
あなたの活動が他者に影響を与えるには、その距離を埋める必要があるからです。
太陽の光が地上に影響を与えるには時間が掛かります。
それは距離があるからです。
あなたは他者と距離を持ちます。
そのため、あなたの活動は簡単には受け入れられないのです。
あなたの活動が他者に貢献すると考えるのであれば、諦めることなく活動し続けましょう。
その活動が良いものであれば、時間差があっても必ず受け入れられます。
太陽の光は春には花をもたらすのです。
冬の時期には距離があり、その活動は静寂です。
しかし、距離が近付く時には、その活動が文字通り実を結ぶのです。
太陽は冬の時期にも活動し続けています。
あなたに夜が訪れたとしても、活動し続けているのです。
あなたは諦めてはなりません。
自分が良いと信じたのであれば、諦めずに活動し続けましょう。
そうすれば、いつか人を動かすでしょう。

2016年10月3日月曜日

不安

誰もが、自分自身と向き合わなければなりません。
誰もが、自分自身の心と向き合う必要に迫られます。
人生とは、自分自身との対話です。
あなたは常に自分自身を見せられます。
それは、すべての状況において現れます。
すべての状況があなたの心の現れです。
あなたは常に自分自身の心を体験しているのです。
それ以外はありません。
あなたが自分以外の誰かの心を体験することはありません。
あなたに関係の無いことは存在しないのです。
あなたはすべての状況を、自分自身のこととして考えなければなりません。
すべての人は自分自身の心を体験します。
それは、この人生の目的が魂の成長にあるからです。
魂の成長のためには、心の歪みを解消する必要があります。
心とは、魂の汚れであるのです。
そのため、心とは歪んでいるのです。
心が歪んでいない人は存在しません。
どのような人物であろうとも、心を所有している時点において、それは歪んでいるのです。
心と向き合うということは、自分自身の歪みと向き合うということです。
それは、あなたに苦悩を導きます。
人生に苦悩しない人はいません。
どのような人物であろうとも、必ず苦悩と共に生きなければならないのです。
すべての人は必ず不安を抱えます。
人生において、その心から不安が消え去ることはありません。
不安は常に生じ、あなたは不安と共に生きることを強制されます。
不安の存在しない人生など無いのです。
生きるということは、不安との対峙です。
不安に向き合うことが生きるということなのです。
そのため、あなたは不安を観察しなければなりません。
不安を観察し、不安の姿を理解し、それを癒す必要があるのです。
不安の解消こそが、心の歪みの解消です。
それが人生の第一目的であるということを忘れてはなりません。
不安を抱えることは良いことです。
もしも、不安がないというのであれば、それは自己正当化によって不安というものを隠しているか、それを認識することができていないだけなのです。
不安の存在しない心は存在しません。
心は魂の歪みであるからです。
心から不安が存在しなければ、矛盾を抱えることになるのです。
心が不安になることが自然です。
あなたは、不安に対して恐る必要はないのです。
不安であって良いのです。
不安を大切にしなければなりません。
すべての人が不安を抱えています。
しかしながら、そのようには見えないものです。
そのため、多くの人は無意識の内に自分自身の不安を実体よりも大きなものとして作り上げてしまうのです。
あなたの抱えている不安は、あなたの考えているようなものではないのです。
素直に向き合えば、簡単なものなのです。
心は複雑に歪んでいるように見えますが、実は単純に歪んでいます。
それは、人が考えることなど、簡単なことでしかないからです。
歪んだ心が思い付くことなど、簡単なことでしかないのです。
もしも、心が高度なことを思い付くのであれば、歪んではいない状態でなければ不可能です。
あなたは不安の実体を捉えなければなりません。
それは、単純な理由であり、簡単な問題であるのです。
それは誰にでも解決することができます。
ただ、向き合えば良いだけです。
向き合えば、誰にでも解決方法が見付かるのです。
あなたの不安は自分自身の力によって解消することができます。
あなたを救うのは、外部の誰かや何かではありません。
必要な道具は、あなたの内に備わっているのです。
不安に飲み込まれてはなりません。
不安であっても問題ではないことを知り、不安を楽しみましょう。
不安であることが自然であると知るだけで、糸口が見付かるでしょう。

2016年10月2日日曜日

貢献の形

すべての存在は、この世界に貢献することを求められています。
どのような存在であろうとも、何等かの形でこの世界に貢献することが求められているのです。
すべての存在は、自らの状態に合わせて貢献すれば良いのです。
水は水として貢献すれば良いのです。
風は風として、石は石として、樹木は樹木として、人は人として、あなたはあなたとして貢献すれば良いのです。
すべての存在が、貢献することができます。
そして、すべての存在が貢献しているのです。
しかしながら、人には特権が与えられています。
それは、意思によって貢献度を高めることができるということです。
人は自らの意思によってより貢献することも、貢献を拒否することもできるのです。
あなたは自分の意思によって、どれほどの貢献を世界に与えるのかを決めることができるのです。
人に特権が与えられている理由は力があるからです。
ただ、それだけの理由です。
力を持つ者には、その動向が試されるのです。
あなたは力を与えられているのです。
その力をどのように使おうとも、それはあなたの自由です。
あなたは自らの力を小さなものと考えてはなりません。
あなたの力は、あなたが考えるよりも大きなものであり、世界に対しては、多大なる影響力を持っているのです。
あなたの一言によって、誰かが勇気を持つかも知れません。
あなたの何気ない行いによって、誰かの命が救われるかも知れないのです。
あなたの人生が、人類を成長させ、自然界を手助けするかも知れないのです。
あなたはこの世界に参加しているのです。
誰かが変えるのではありません。
誰かがやるのではないのです。
あなたが変えるのです。
そして、あなたがやるのです。
あなたは自分の力を信じなければなりません。
あなたがどのような立場にあろうとも、あなたには大きな力があるのです。
そのことを忘れてしまう者は不義を働くようになるのです。
不義を働く親であれば、子どもは不義を権利であると考えてしまうのです。
子どもはその子どもにそれを伝えるでしょう。
それは、後に世界を変えるのです。
義を行う親に育てられた子どもは、義を働くようになります。
義を働く子どもは、その子どもに義を教えるのです。
それは、後に世界を変えるのです。
あなたの行為が世界を変えます。
これは妄想などではないのです。
あなたという存在は、実際に誰かを変える影響力となるのです。
最終的な決定権は相手にあるにしても、可能性を示すことになるのです。
どのように生きることが世界に貢献するのかを考えましょう。
あなたは世界に貢献することができます。
今、自分ができることをすれば良いのです。
ただ、それだけで世界に貢献することになります。
飛ぶことができれば飛べば良いのです。
飛べなくなれば、走れば良いのです。
走れなくなれば、歩けば良いのです。
歩けなくなれば、這(は)えば良いのです。
這うことができなくなれば、言葉を吐けば良いのです。
言葉を吐けなくなれば、姿を見せれば良いのです。
どのような状態であろうとも、できることはあるのです。
貢献の形は変わるのです。
できることを放棄して、貢献から逃げてはなりません。
この世界においては、言い訳はなんの価値も持ちません。
言い訳は、幸福の要因とはならないのです。
できることをしない者には、幸福は導かれないのです。
どのような形であろうとも、あなたは世界のために貢献しましょう。
実践の中に生きるのです。
言い訳は必要ありません。