すべての人は信仰を所有しています。
	どのような人にも、信じることがあるのです。
	誰もが自らの信仰に寄り添うように生きているのです。
	それがどのようなものであれ、信仰を所有しない人はいません。
	無神論者は、神がいないことを信じているのです。
	それも立派な信仰です。
	すべての人が信仰を所有していますが、信仰とは願望でしかありません。
	人が何かを信じる時、それはその対象を信じたいと願っているのです。
	信じるとは願望でありますが、それは確定されたものではありません。
	確定されていないために信じているのです。
	信じるという願望は、不安によって導かれます。
	不安が信仰に繋がるということを知らなければならないでしょう。
	確固たる念を所有している人には、信じることは無くなります。
	それは信仰からの行為ではなく、行為そのものとなるのです。
	信じているから行為しているのではありません。
	それが必要であるために行為しているのです。
	信仰から導かれる行為は、疑心の中にあります。
	疑心を抱えているために、その相対としての信仰によって自己の行為を正当化しようと試みているのです。
	疑っているために信じる必要があるのです。
	矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、人の心は常に陰陽の相対的な感情によって成り立っているのです。
	それは、信じることによって疑心を打ち消そうとする心の働きです。
	それは正しく願望であるのです。
	心は信じるために信じるのではありません。
	心は疑心を否定するために信じているのです。
	あなたは、信仰とは不安の現れであるということを知りましょう。
	あなたは何かを信仰しなければなりませんが、後に信仰から離れなければなりません。
	信仰から生じる行為は、否定的な感情を含んでいます。
	何かを信じること自体が疑心を否定している心の働きであるために、そこから導き出される行為には、必ず否定的な作用が組み込まれるのです。
	信仰は必ず”敵”を作ります。
	それがどのような信仰であろうとも、信仰を継続するためには”敵”が必要なのです。
	そのため、あなたは信仰を経験し、やがてはそれを手放す必要があるのです。
	信仰を離れ、必要のために行為するのであれば、否定的な作用が組み込まれることはなくなります。
	必要は、すべてに内在しているのです。
	善悪によって分けることはできません。
	善も悪も必要です。
	この世界に存在するすべてが必要であるのです。
	人生の目的である成長を実現するためには、すべてのことから学ぶ必要があります。
	学びを選り好みするのであれば、成長は実現しません。
	学びを選り好みするのであれば、歪みが実現するだけなのです。
	信仰によっては、人生の目的を実現することはできません。
	信仰によって救われると考えている多くの人は、決して幸福を実現することはできないのです。
	幸福を思い込むことはできるでしょうが、それは長くは続きません。
	思い込みによる装飾の幸福は必ず剥がれ落ちます。
	それは、それが偽りであるからです。
	あなたが何かを信じているのであれば、満足のいく人生を得ることはできません。
	あなたがすべてを必要だと理解することができれば、人生は豊かさを導くでしょう。
	何かを信じるということは、何かを信じないということです。
	多くの人が当たり前に何かを信じていますが、それはあなたの”光”を奪うということを覚えておきましょう。
	”光”を奪われたあなたは、何も捕らえることはできません。
	人の心は信仰によって盲目(もうもく)になるのです。
	当たり前を疑う時です。
	あなたの信じるものは、本当にあなたを満足させるでしょうか?
	あなたが何かを信じる時、そこには必ず”敵”がいます。
	”敵”がいる人生が幸福なのでしょうか?
	信仰について考えなければなりません。
	
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