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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年12月31日土曜日

己と真

あなたの存在する世界は、意識の産物です。
あなたの意識を原因として、状況という結果が導かれます。
それは、あなたが何に意識を一致させるか?ということなのです。
あなたの意識が集中した時、そこに世界が生じます。
あなたは意識の認識する世界を経験するのです。
あなたの抱える意識には、自我意識と真(まこと)が存在しています。
自我意識とは己(おのれ)のことであり、それは弱い心です。
真とは強い心なのです。
人は弱い心である己と、強い心である真の間を彷徨(さまよ)っているのです。
あなたの意識の状態は不安定です。
それは常に変化を抱えており、僅(わず)かな切っ掛けによって傾くのです。
そのため、人は常に己と真のどちらかに意識を集中しているのです。
意識を集中するということは、従っているということです。
人は無意識の内に、己か真のどちらかに従っているということを理解する必要があるでしょう。
それは、殆(ほとん)ど認識することなく切り替わります。
あなたはいつの間にかに意識の状態が変化していることに気が付くでしょう。
先程までは穏やかだった心も、いつの間にかに荒れ狂っています。
あなたには、大気の状態がいつ切り替わったのかを知ることはできないでしょう。
先程までの晴天は、いつの間にかに雨天となっているのです。
雨天が晴天に切り替わることもあるのです。
大気の状態が不安定であるように、あなたの心(意識)の状態も不安定であるということを知る必要があるでしょう。
あなたが大気の状態を操作する必要はありませんが、自らの心は操作する必要があるのです。
あなたにできる唯一のことは、意識の状態を選択することです。
目の前には様々な状況が導かれます。
あなたはそれに意識によって反応しなければなりません。
大抵の場合、それは無意識の反応です。
多くの人は反射的に意識の状態を決めているのです。
それは、過去の経験に基づく選択なのです。
あなたが意識の状態を選択するためには、過去を手放す必要があります。
多くの人は過去に執着しています。
それは、過去に強い劣等感を抱えているからです。
あなたは自らの抱える劣等感に反発しているのです。
しかしながら、反発することが選択しているということを知りません。
そのため、そこには矛盾という苦悩が導かれます。
あなたは過去の劣等感への反発によって、目の前の状況に対して意識の状態を無意識の内に選択しているのです。
それはいつもネガティブな状態を導くのです。
あなたの無意識の選択は、大抵が己に従った選択なのです。
そのため、あなたはいつも弱さと向き合うことになるのです。
人生における問題や苦悩は、自らの弱さの証明です。
人は弱いために問題を抱え、それを苦悩としているのです。
あなたが問題と向き合っている時、そこには卑屈(ひくつ)や憤怒(ふんど)が存在しています。
あなたは大抵の場合、悲しみか怒りに向き合っているでしょう。
あなたはいつも、不安や不満を発しているはずです。
それは、意識が己に傾いているということなのです。
あなたは、自らの内で行われている意識の選択を認識しなければなりません。
そして、それを自らの意思によって操作するのです。
何もしなければ、あなたは己に従います。
あなたが真に従うためには、意識的に選択しなければならないのです。
どのような状況を前にしても、あなたは弱さ(己)に向き合ってはなりません。
あなたは己の卑屈や憤怒に集中してはならないのです。
あなたは己を相手にしてはなりません。
己に付き合って、心を汚してはならないのです。
内的矛盾が豊かさを導くことはありません。
己に意識を一致させれば、あなたは矛盾と苦悩を導くことになるのです。
真に意識を一致させれば、あなたは理(ことわり)と満足を導くことができるでしょう。
あなたが求めているのは、理と満足であるはずです。
あなたは矛盾と苦悩を受け取りたいと思いますか?
あなたは満足したいはずなのです。
そのためには、己の抱える狭量(きょうりょう)には付き合わないことです。
あなたは真の抱える広量(こうりょう)と付き合うのです。
あなたは心を汚さずにありましょう。
そうすれば、理と満足を得ることができるでしょう。
あなたは内に存在する己が疼(うず)く選択を避けましょう。
あなたは内に存在する真が踊る選択を探すのです。
それは、不安や不満などの歪んだ感情の結果ではありません。
それは力強く、慈愛に満ちた感情の結果であるのです。
あなたはどのような状況に対しても、慈愛を忘れてはなりません。

2016年12月30日金曜日

詰まらない拘り

あなたは人生に苦しみを受け取ります。
それは、常にかも知れませんし、時々かも知れません。
どのような頻度にしても、人は苦しみを受け取るのです。
苦しみを避けることのできる人は存在しません。
どのような人物であろうとも、必ず苦しみを受け取ります。
それは、すべての人が未熟であるからです。
苦しみは、未熟から生じます。
未熟と苦しみは同じであるのです。
未熟を抱えていれば苦しみ、苦しみを抱えていれば未熟なのです。
あなたが苦しみを受け取ったのであれば、未熟さを抱えているのだと理解する必要があるのです。
多くの人は、未熟と苦しみを別のものだと考えています。
多くの人が自分を美化し、正当化しているために、未熟であることを否定しています。
また、苦しみは外部的要因によって引き起こされる偶然であると考え、その原因を隠してしまうのです。
あなたが未熟でなければ、それは苦しみにはならなかったのです。
未経験の者が抱える深刻な問題は、経験者にとっては問題とはなりません。
素人には難しいことも、玄人(くろうと)には容易いのです。
その違いは、その問題に対しての成熟度にしかありません。
例えば、過去のあなたにとっての苦しみは、現在のあなたには苦しみではないのです。
それは、苦しみと対峙することによって成長することができたからです。
苦しみと対峙する機会が増すほどに、成熟度も増します。
どのような事柄に関しても、それに携わる時間が多い程に上達していくのです。
否定的であろうとも関係ありません。
経験を重ねれば必ず上達します。
あなたは苦しみを受け取ることによって、自らの未熟さを受け取っているのです。
それは、自らの未熟さを実感する好機となるのです。
どのような人物も、苦しみによって自らの状態を知るのです。
しかしながら、多くの人はそれでも今までの方法に執着するでしょう。
既に、今までの方法が苦しみという結果を導いているにも関わらず、それを受け入れられないでいるのです。
それは信念という頑固さを所有しているためです。
すべての人が信念を所有しています。
誰もが自分のやり方を信じているのです。
しかしながら、どのような信念も未熟の中に存在しています。
それは、人が既に未熟であるからです。
未熟な人の信念が未熟であることは当たり前のことなのです。
しかしながら、多くの人は美化と正当化によって自分が正しいと思い込んでいます。
そのために、自分の信念がどれだけ未熟であり、歪んでいたとしても、それを手放すことができないのです。
あなたの信念が未熟であることは、苦しみを受け取った時点において明らかです。
あなたが苦しみを受け取ったのであれば、その信念を手放す時期が来たということを悟る必要があるのです。
未熟な信念に執着する必要はありません。
そのような行為に価値はないのです。
役に立たないものをいつまでも所有している必要はないのです。
あなたの詰(つ)まらない拘(こだわ)りになど価値はないのです。
新たな方法を手に入れるためには、古い方法を手放さなければならないのです。
どのような方法にも価値はありません。
それは常に変化することに価値があるのです。
苦しみを受け取った時点において、その方法は価値を無くしたのです。
その事実を受け入れなければなりません。
詰まらない自分を美化し、正当化してはなりません。
過去になど価値はないのです。
もちろん、未来にも価値はありません。
大切なのは”今”なのです。
苦しみを目の当たりにして、それをどうすれば喜ぶことができるか?を考えましょう。
その先のことは、その時が来た時に”分かる”でしょう。
最善の方法は、苦しみを受け取った時にしか分からないのです。
それは、信念を所有しているためです。
苦しみによって信念が否定された時に初めて、あなたは新たな価値を創出することができるのです。

2016年12月29日木曜日

朧げ

あなたは、どのような状況を得ようとも、それが最善であるということを受け入れましょう。
最善は、目の前に導かれる状況です。
多くの人は他の最善が存在すると思い、他の状況を探します。
しかしながら、目の前に導かれた状況こそが最善であり、他に最善は存在しないのです。
この世界には因果の仕組みが存在しています。
すべての状況が、それに相応しい原因によって導かれたのです。
あなたが人生を深く観察し、深く考察するのであれば、目の前に導かれるすべての状況が矛盾を抱えていないことを理解するでしょう。
観察や考察が浅はかなものであるのならば、目の前に導かれる状況には矛盾が目立つのです。
多くの人の認識は、浅はかなものにとどまります。
そのため、多くの矛盾に苦悩し、それを否定するようになるのです。
目の前の状況に多くの矛盾を感じ、それに苦悩しているために、より良い他の状況を探しているのです。
あなたが他の状況を探したところで、そこに最善を見出すことはできません。
なぜなら、他の状況を探すということは、既に現実逃避という矛盾を選択しているからです。
受け入れることは難しいでしょうが、あなたはすべてが最善であるということを受け入れなければなりません。
目の前の状況を受け入れることなく、人生が好転することなど有り得ないのです。
すべての状況があなたの原因に起源しています。
自らの結果である状況を受け入れるということは、現状の自分を受け入れるということだからです。
すべての状況は、あなたの心の反映です。
あなたの状況は、あなたの心を朧(おぼろ)げに映すのです。
しかしながら、それはあなたの認識が”像”を歪めているに過ぎません。
あなたの”視力”が乏しいために、虚像を捕らえるのです。
それが、より良い状況を探す矛盾を導くのです。
甚(はなは)だしく言えば、状況は心を有りの儘(まま)に現しています。
しかしながら、多くの人の心には歪みが存在しているために、それを理解することができないのです。
多くの人は理解することができなければ、受け入れることができません。
しかし、あなたは覚えておかなければなりません。
理解したことを受け入れるのではありません。
受け入れたことによって理解することができるのです。
順序を踏まなければ、理解は捗(はかど)りません。
あなたの目の前に導かれる状況がどのようなものであったとしても、それ以上の状況は存在しません。
それがどのような状況であろうとも、あなたにとっては最善なのです。
それは、あなたの心を有りの儘に現しているからです。
あなたは、内に秘めているもの以外を受け取ることはありません。
あなたが受け取るすべての状況は、あなたに関係しています。
しかしながら、他者には関係してはいないのです。
多くの人が自らの受け取る状況と、自分の心の状態に因果関係が存在しないと考えています。
そのため、他者に多くを求めます。
他者に何かを求めても、自分に相応しい対応以外を受け取ることはできません。
あなたが他者に慈しみ深く対応されるのであれば、あなたの内には慈しみが秘められています。
あなたが他者にぞんざいに扱われるのであれば、あなたの内にはそれに相応しいものが秘められているのです。
すべての他者は、あなたが動かしていると知りましょう。
すべての状況も、あなたの心が動かしているのです。
あなたは常にあなたにとっての最善を導かれます。
受け入れる勇気を持たなければなりません。
多くの人が最善を受け入れる勇気を持てないために、必要のないものを求めているのです。
他の状況、他の最善を探す行為は、恐怖に起源した強欲の成せる業(わざ)なのです。
あなたは内に秘めているもの以上に求める必要はありません。
抱え切れない荷物を欲する必要はないのです。
あなたの受け取る状況は、常に分相応なものであることを忘れてはなりません。
彼此(あれこれ)と探し回り、自らの分(ぶん)を見失ってはなりません。
目の前の状況があなたの分を示しているのです。
受け入れないということは、分不相応を求めているということなのです。
余計な荷物は身を崩します。
余計な”最善”を追い求める必要はありません。
あなたの目の前には、常に最善が存在しているのです。
目の前の”今”を生きれば良いのです。
それがどのうような状況であろうとも、それが最善であることを受け入れましょう。
人生はそこから始まります。

2016年12月28日水曜日

世界を変える

あなたの経験している世界は、あなたの心の現れに過ぎません。
あなたは、世界という名の自分の心を経験しているのです。
外に現れるものは、内に存在しているものです。
内に存在しているもので、外に現れないものはありません。
それがどのような状況であろうとも、それはあなたの心が現れたものなのです。
多くの人は、世界と心の関係性を理解してはいません。
多くの人は、世界と心に関係性を見出してはいないのです。
多くの人は、世界と心を無関係なものだと考えています。
そのため、世界に導かれる状況に対して、それを否定するのです。
人が世界に導かれる状況を自らの心であることを理解するのであれば、それを否定することはなくなります。
寧(むし)ろ、それを積極的に受け入れるようになるのです。
世界に導かれる状況を受け入れることによって、人は自らの心の抱える問題点を知るのです。
あなたが目の前の状況を受け入れるのであれば、世界から心を知ることができるでしょう。
あなたは心を知る必要があります。
それは、心の歪みが世界を歪めているからです。
世界に起きる様々な問題(あなたが苦悩として解釈する状況)は、心の問題です。
心の問題を解消すれば、世界の問題も解消されるのです。
そのため、人は世界を変える必要はありません。
人が変えるものがあるとすれば、それは自らの心なのです。
心が原因であり、世界が結果です。
結果を変えようとして、結果に働き掛けることは、結果の歪みを導きます。
それは、間違った文字を消すことなく、新たな文字を重ねて書くようなものなのです。
重なった文字は解読することが難しいのです。
それが問題であり、苦悩の原因となるのです。
結果を変えるためには、結果に働き掛けるのではなく、原因に働き掛ける必要があるのです。
間違った文字という原因を消すことによって、問題は生じません。
間違った文字が消えていれば、苦悩を覚えることもないのです。
世界を変えようとしているのに、その原因である心を無視しているのであれば、そこには問題と苦悩が生じることは避けられません。
世界を歪め、問題と苦悩を引き起こしているのは心なのです。
心は現実を歪めて解釈しています。
それは、心が弱いからです。
心は弱いために、世界に導かれる”自分”と向き合うことができないのです。
弱い心は、受け入れることができません。
弱いために、度量が育まれてはいないのです。
そのため、書かれた文字(現実)を否定し、その上から文字を書き加えるのです。
その行為によって、書かれた文字(現実)は読むことができなくなるのです。
そうやって、人は現実を見失っていくのです。
解読することができなければ、現実は重荷となります。
解読することができない書物はあなたの苦悩となるのです。
あなたは心を大切にしなければなりません。
心を否定してはなりません。
それは、世界を大切にすることであり、世界を受け入れるということです。
どのような現実だろうとも、それで良いのです。
あなたは無意識の内に現実を歪め、自分の気に入った物語に書き換えようとするでしょう。
しかしながら、それは文字の重ね書きに過ぎず、解読することはできないのです。
多くの人が人生が何かを知らず、自分が何者かも知りません。
それは、現実を歪めているからなのです。
現実を歪めているために、解読することができないのです。
歪んだ解釈は、歪んだ原因となります。
歪んだ解釈を原因として新たに歪んだ結果が導き出されます。
それは、嘘を重ねる行為に似ています。
嘘を重ねていれば、整合性を保つことはできません。
そこには必ず矛盾が生じてしまうのです。
矛盾とは幻想です。
そのため、世界は幻想に過ぎないのです。
あなたの世界には多くの矛盾が存在しているはずです。
それは、あなたの心に偽りが存在していることを意味しているのです。
心から偽りを取り除けば、世界からは問題が取り除かれるでしょう。
世界を変えようと息巻く前に、心を変えましょう。

2016年12月27日火曜日

大きな世界

人は、それぞれの世界に存在しています。
人は、それぞれの人生を生きているのです。
誰一人として、同じ世界、同じ人生に存在してはいません。
あなたの世界はあなたの世界であり、あなたの人生はあなたの人生なのです。
それは、他の誰のものでもありません。
あなたは独りで存在しているということを理解する必要があるでしょう。
多くの人は、自分の世界や人生が他人のそれと同じものだと考えています。
同じ世界や人生に、自分と他人が存在していると考えているのです。
残念ながら、あなたは誰とも同じ世界や人生には存在していないのです。
それは、あなたの人生を見れば明らかです。
あなたは事実を歪めています。
あなたの存在する世界や人生は、あなたが歪めた姿なのです。
あなたは自分で理解してはいないでしょうが、世界や人生は実像ではありません。
それは、あなたのエゴが反映された虚像であるのです。
あなたは、自らの自我意識によって世界や人生を歪めています。
しかしながら、そのことには気が付きません。
なぜなら、自らを正当化することによって、世界や人生を再構築しているからです。
あなたには受け入れることのできない現実が存在しています。
それは、自我意識が否定するからです。
自我意識とは弱い心のことであり、それは傷付き怯(おび)えているのです。
自我意識は恐怖に根差します。
そのため、狭量(きょうりょう)に陥っているのです。
自我意識は狭量であるために、事実を受け入れることができません。
少しでも自分(自我意識)にとって不利になると判断した状況や記憶を改竄(かいざん)するように努めます。
それは、暗黙の内に処理されるために、認識や記憶からは遠ざけられ隠されるのです。
多くの人が自我意識に従って存在していますが、それは、自我意識の作り上げた歪んだ世界に存在しているということなのです。
あなたは自分が虚像の世界に存在しているということを知る必要があるのです。
”夢”から目覚めるのです。
世界や人生を理想で埋め尽くそうとしてはなりません。
理想を追い求める気持ちは、必ず世界を歪めてしまうからです。
世界や人生は理不尽なことばかりです。
あなた(自我意識)の思い通りに進むことなど無いに等しいのです。
本来ならば、人生は理不尽なものであり、思い通りに進まなくても良いのです。
人生の目的は成長にありますが、あなたが成長するためには、自我意識を解放する必要があります。
自我意識を解放するためには、自我意識が嫌がることを経験しなければならないのです。
成長とは、出来なかったことが出来るようになることです。
成長とは、克服(こくふく)することなのです。
受け入れられなかった事実を受け入れることが成長なのです。
多くの人が無意識の内に否定を選択しています。
否定的な感情は事実を歪めます。
あなたは自分を観察してみましょう。
そうすれば、如何に自分の内側に否定的な感情が存在しているかを知ることができるでしょう。
そして、如何に自分が事実を歪めているのかを知ることができるでしょう。
あなたは、自分が思っているような人物ではありません。
あなたは、自分が思っているように生きてはいません。
あなたは、自分が思っているような事実を経験してはいないのです。
残念ながら、あなたの生きる世界や人生は、あなたの思い込みなのです。
妄想(もうそう)を生きているということを理解することができますか?
あなたは、”あなた”ではありません。
あなたの知っている”あなた”は、否定的な感情が作り上げた虚像なのです。
あなたの動機は、否定的な感情によって導かれています。
何かに反発することによって行為しているのです。
例えば、”遅刻して怒られたり、迷惑を掛けるのが怖いから、時間に余裕を以て行動する”という具合です。
多くの人はこれを正統な動機だと思い込んでいます。
しかしながら、その動機によって少しずつ世界は歪んでいくのです。
破滅的な感情である恐れのために行為すれば、結果は必ず破滅を導くのです。
例えば、”遅刻して怒られたり、迷惑を掛けるのが怖いから、時間に余裕を以て行動する”という行為は、遅刻という結果を導くでしょう。
あなたは遅刻することによって誰かの怒りを買い、誰かに迷惑を掛けるでしょう。
それは、あなたが遅刻と誰かと怒りと迷惑を動機としているからです。
この世界には因果の仕組みが存在し、すべての原因は相応しい結果を導くのです。
あなたの内に否定的な感情という原因が存在するのであれば、否定的な結果が導かれるのです。
例えば、”時間に余裕を以て行動することは、自分と誰かに多くの豊かさを導く”という動機は、建設的な感情である喜びが動機となるのです。
あなたは自分と誰かに多くの豊かさを導くことができるでしょう。
多くの人が世界や人生を”自分の力”によって歪めています。
誰かや何かが、あなたの世界や人生を歪めているのではありません。
なぜなら、あなたの存在する世界や人生は思い込みだからです。
歪んだ世界を正しましょう。
事実を受け入れる広量(こうりょう)を育てるのです。
理不尽であっても、思い通りに進まなくても良いのです。
目の前に存在する状況こそが最善なのです。
世界は認識の中に存在しています。
それは小さな世界なのです。
あなたはより大きな世界を発見しましょう。
事実を認めることによって見付けることができるでしょう。
彼方此方(あちこち)を探し回る必要はありません。
それは、事実の中に存在しているからです。

2016年12月26日月曜日

過干渉

この人生はあなたのものです。
あなたが、この人生を経験しているのです。
これは、あなただけの人生です。
他者は関係ありません。
他者の出来事はあなたには関係ないのです。
他者の学びはあなたには関係ないのです。
多くの人は自分自身の人生と他者の人生を同一視しています。
それは、自分と他者を同一視しているということなのです。
多くの人は自分と他者を同一視しているために、誤解を所有することになります。
あなたが経験しているのは、あなただけの人生であり、他者が経験しているのは他者だけの人生なのです。
それは同じ場所に存在しているように見えますが、決して同じ場所に存在してはいません。
あなたと他者の人生は決して同化しないのです。
あなたが他者ではありません。
他者はあなたではないのです。
あなたがどれだけ他者を模倣(もほう)しても、他者に成ることはできません。
他者がどれだけあなたを模倣しようとも同じことです。
あなたと他者の間には、認識することが難しい隔(へだ)たりが存在しているのです。
どのような方法を用いようとも、あなたと他者が同化することはありません。
そのため、あなたは他者を模倣する必要はありません。
多くの人は自分を諦めています。
多くの人が他者を模倣することによって、自己を保とうとしています。
憧れの他者を模倣することによって、自尊心を保とうとしているのです。
自らの憧れる状態を実現している他者に成れば、人生が意義のあるものになると思い込んでいるのです。
あなたが他者と同じ状態を実現したとしても、あなたの人生が意義のあるものになることはありません。
それは、他者の人生の状態は、あなたの人生には関係ないからです。
他者は、その状態を実現することによって導かれる学びを経験する必要があるだけです。
しかしながら、あなたには必要のないことなのです。
あなたは、あなたの目の前に存在している状況を経験する必要があるのです。
理想は決して答えではないのです。
多くの人は自我意識(弱い心)の抱える理想を人生の目的や成功だと思い込んでいます。
しかしながら、そのような未熟な理想が人生の目的であるはずがないのです。
他者に憧れを抱き、それを自分と同一視する人は自我意識によって支配されている状態です。
弱いために自信が無いのです。
自分と自分の人生に自信が無いために、他者と他者の人生を模倣するのです。
あなたは他者に干渉(かんしょう)する必要はありません。
他人の干渉に翻弄(ほんろう)される必要もないのです。
あなたの人生がどのような状態であろうとも、あなたはそれを受け入れる必要があるのです。
自分の人生を否定し、他者の人生に干渉してはなりません。
あなたが自分と自らの人生を見失った時には、必ず苦悩が導かれます。
それは、様々な形の問題として導かれるでしょう。
あなたが何かしらの問題を抱えているのであれば、自分が他者に干渉しているということを理解しなければなりません。
あなたは自分と自らの人生に背を向けてはなりません。
これはあなたの人生なのです。
他の誰のものでもないのです。
どのような事柄に関しても、他者は関係ありません。
他者がどのような人生を経験していようとも、あなたには関係のないことなのです。
あなたが他者に対して心を乱す必要はありません。
他者の人生を自分の人生と混同し、過干渉(かかんしょう)に陥ってはなりません。
自分と他者を比較する必要はありません。
比べることは何の意味もないのです。
それは、別のものだからです。
例えば、過去の自分と現在の自分を比較することになら多少の意味もありますが、自分と他者を比較することには何の意味もないのです。
それは、比べようがないのです。
”単位”の違うものを比較することはできないのです。
(比較する意味がない)
あなたは自分の人生と向き合いましょう。
自分の課題を大切にするのです。
自分の課題を疎(おろそ)かにして、他者に干渉することほど愚かなこともないでしょう。

2016年12月25日日曜日

安心して苦しむ

人生の目的は苦しむことにあります。
しかしながら、多くの人は苦しみを否定し、苦しみから逃避します。
目的が苦しむことにあるのに、どうして否定し、逃避するのでしょう?
あなたは苦しむべきなのです。
苦しみを否定し、苦しみから逃避して何に成るというのでしょうか?
そこには何の変化も生じないのです。
重要なのは、苦しみによって変化を実現することです。
それが、成長であるのです。
苦しみによって自らを変化させることが、成長の要因となります。
苦しみを否定し、苦しみから逃避することは、成長の否定であり、成長の逃避であるのです。
苦しみとは成長であるということを理解する必要があるでしょう。
苦しみとは、成長の材料です。
苦しみがなければ、成長は実現しません。
そのため、あなたは人生にいつも苦しんでいるのです。
それは、人生が常に成長を求めているからなのです。
すべての人は苦しみます。
人は何によって苦しんでいるのでしょうか?
それは、”間違った”選択をしたことによって苦しんでいるのです。
それは、苦しみに対して、否定や逃避などの変化を妨げる選択をした時に導かれます。
苦しみに対して変化しないということは、苦しみに対する価値観が変わらないということです。
それは、心を乱す価値観を変えないということなのです。
何かに対して苦しんでいるということは、その対象に対して心を乱しているということです。
心を乱しているために苦しんでいるのです。
苦しみは外には存在せず、心の乱れとして内に存在しているのです。
同じ対象であっても、心を乱さなければ苦しむことはありません。
あなたは苦しみの本質を理解する必要があるのです。
心を整えることが苦しみを成長に変えます。
そのため、あなたは苦しみを前にして苦しみと向き合わないことです。
苦しみを前にして、自らの心の乱れと向き合うべきなのです。
心の乱れと向き合うということは、苦しみと向き合うということです。
心の乱れを否定し、そこから逃避するのであれば、苦しみに対しても同じことをするのです。
あなたは自らの心と向き合っているだけなのです。
誰かや何かと向き合っていると思い込んでいるかも知れませんが、自らの心とだけ向き合っているのです。
そのため、苦しみの原因を誰かや何かに探しても見付かりません。
誰かや何かを裁(さば)いたとしても、苦しみはなくならないのです。
あなたは苦しみましょう。
あなたの選択が間違っているから不安に陥(おちい)るのです。
漠然とした不安が、あなたに間違いを知らせています。
”間違った”選択は必ず心を乱します。
その理(ことわり)を理解しておきましょう。
人生において重要なのは、安心して苦しむことです。
苦しみは避けられません。
苦しみを避ける必要はないのです。
それは、人生の目的が苦しむことだからです。
知識を以(もっ)て苦しみに向き合えば、安心して苦しむことができるのです。
しかしながら、何の知識も無しに苦しみに向き合うことは、不安の中で苦しむことになるのです。
不安は否定と逃避を勧(すす)めるのです。
苦しみに対する価値観に変化を導くためには、安心の中にいる必要があるのです。
理を理解していれば、不安に陥らずに済みます。
あなたは苦しみの意味を理解しましょう。
それは決して、あなたの妨げとなるものではないのです。
寧(むし)ろ、あなたを助けているのです。
苦しみがあなたを不幸にすることはありません。
それを苦しみとしているあなたの心が、不幸そのものなのです。
間違えてはなりません。
安心して苦しみましょう。

2016年12月24日土曜日

演者

あなたは、どう有るか?ということを意識しなければなりません。
大切なのは、どう有るか?ということなのです。
あなたの立場が、あなたの受け取る結果を決定します。
多くの人はどう有るか?という自分の立場を意識してはいません。
そのため、状況や環境や他者に翻弄(ほんろう)されてしまうのです。
自らの立場を見失えば、満足する結果を導くことはできません。
そこには歪んだ結果が導かれ、苦悩を得ることになるのです。
どう有るか?という自分の立場を見失う者は、必ず苦悩を得ることになるのです。
多くの人が人生に苦悩しているのは、自らの立場を見失っているからに他なりません。
多くの人が状況や環境や他者に翻弄されることによって、自らの立場を見失います。
それは、自らの受け取る結果を自分以外の何かに任せるということです。
あなたには役割が与えられています。
すべての人が役割を演じなければなりません。
役割を演じることによって、必要な学びが導かれ、それぞれに成長することができるのです。
役割を客観視すれば、それは滑稽(こっけい)に映るかも知れませんが、人はそれぞれに与えられた役割を演じることによって学びを得る必要があるのです。
人は、役割を通じてのみ学びを得ることができるのです。
そのため、すべての人が役割を与えられ、それを演じているのです。
しかしながら、役割に対する質が求められます。
多くの人は役割に対して、それを演じることに徹することができません。
それは、どう有るか?という自分の立場を意識してはいないからです。
状況や環境や他者などの外部的要因に翻弄されることによって、役割を演じることが難しくなります。
舞台に立つ役者が、観客に気を取られるのであれば、その役を演じることが難しいのです。
多くの人は自らの役割を否定します。
例えば、目の前の苦悩を否定するのです。
問題が生じた時、多くの人はそれを受け入れることができません。
それは、自らの役割に徹することができないからです。
あなたは自分という役割を演じていますが、その役割にとって必要な脚本は、目の前に導かれる状況なのです。
それを受け入れることが、役割を演じるためには必要なことなのです。
演者が脚本を否定すれば、演劇は矛盾します。
それでは、最良の結果を導くことはできないのです。
多くの人が苦悩を否定しますが、否定から生じる価値など存在しないということを理解する必要があるでしょう。
目の前の状況は、あなたにとって必要であり、大切な学びです。
それを否定することによる価値創造はできないのです。
必要を否定して価値を生み出すことなどできないのです。
多くの人が目の前に導かれる苦悩に絶望します。
そして、それを受け入れることができないのです。
しかしながら、あなたは役割を演じているだけです。
あなたは人生という舞台の演者であり、目の前の状況は脚本なのです。
それがどのような状況であろうとも、あなたはそれを演じれば良いのです。
役に入り込めば、それが演劇であるということを忘れてしまいます。
”今”を過ぎれば、すべてが過去になります。
多くの人は過去を現実だと考えていますが、過去に生きることはできません。
そのため、過去は幻想に過ぎません。
過去が幻想であるのならば、同じように生きることができない未来も幻想なのです。
”今”という舞台上では演劇が繰り広げられていますが、演じる度にそれは幻想として消滅します。
演劇は常に一つの場面を展開しているのです。
あなたは一度演じた場面を再び演じることはできません。
物語は常に展開しているからです。
あなたが自らの役に徹すれば、どう有るか?ということに集中することができるでしょう。
どう有るか?ということに集中すれば、どうするか?を理解することができます。
どのように演じるか?ということが大切であり、何を演じるか?ではないのです。
あなたは自分という役割を与えられているのです。
後は、その役をどのように演じるか?だけなのです。
あなたは何を行うか?と考える必要はありません。
どのように行うか?だけを考えれば良いでしょう。
目の前の状況を受け入れることによって、どのように行うか?という選択だけが残ります。
目の前の状況を受け入れることができなければ、未だに何を行うか?という段階を彷徨(さまよ)うことになるでしょう。
それでは、役割を演じることができないのです。
役は既に与えられているのです。
舞台に上がった後で、役を否定してはならないのです。
あなたは自分の人生を受け入れましょう。
それがどのように展開しようとも、それが最善です。
簡単に受け入れることはできないでしょうが、受け入れることをしなければ苦悩が続くだけです。
賢く有りましょう。

2016年12月23日金曜日

簡単という罠

人生に豊かさを求めているのであれば、本質と共に生きる必要があります。
本質を見失い、それを離れてしまえば、人生に豊かさを実現することはできません。
本質を見失うことによって、人は物事の表面的な情報に翻弄(ほんろう)されることになります。
それは、歪んだ見解を生きることになり、歪んだ選択を導くでしょう。
歪んだ選択は歪んだ行為を導き、歪んだ行為は歪んだ状況を導くのです。
本質を見失えば、人は歪んだ状況から苦悩を引き出すことになるのです。
多くの人が人生に苦悩しているのは、本質を見失うことによって、表面的な情報に翻弄されているからなのです。
表面的な情報とは、容易な認識です。
あなたにとって、手っ取り早い解釈こそが表面的な情報なのです。
表面的な情報は、物事の末端に過ぎず、末端の情報を理解したところで、その本質を理解することにはなりません。
例えば、他人の言動に翻弄されると、相手と自分の抱える問題を理解することはできません。
言動は心によって生じ、心は経験によって形成されます。
言動という末端の情報に執着しているのであれば、相手を理解することはできません。
そして、相手を通じて導かれている自分の問題にも気が付かないのです。
相手の言動に翻弄される人は、相手を敵とします。
相手の言動に敵対しているだけなのですが、相手が敵だと思い込むのです。
そして、敵意によって自らの心を汚してしまうのです。
それが更なる問題を引き起こすことを知りません。
それは、表面的な情報に執着しているからです。
本質的に向き合うのであれば、相手の言動に翻弄されることはありません。
相手の言動が敵意に満ちていたとしても、それに動揺することはないのです。
本質を見極める人は、相手の言動が敵意に満ちている程に慈(いつく)しむでしょう。
それは、大人が怒りに身を任せる子どもを諭(さと)すように、表面的な情報に表面的な情報では返さないのです。
敵意には、慈しみで返すことが豊かさを導く方法です。
敵意に敵意を返すのであれば、そこには争いが導かれ、後に残るのは乏しさなのです。
売り言葉に買い言葉では、乏しさは増すばかりなのです。
あなたは表面的な対処に努めてはなりません。
不快な匂いを消すためには、匂いではなく、匂いの原因を絶たなければならないのです。
不快な匂いの原因は、不快な匂いにはないのです。
不快な匂いの本質は、不快な匂いを放つ物にあるということを理解する必要があるのです。
多くの人が表面的な対処に努めています。
安易に認識することのできる情報に対処しているに過ぎません。
それは、末端の問題を対処しているに過ぎず、末端の問題をいくら解決しても、また同じ状態が導かれるのです。
あなたの信じているものは、あなたの認識の中に存在する情報に過ぎません。
それは、安易な情報であり、決して本質的な情報ではありません。
本質は、あなたの認識の届かない場所に存在しています。
そのため、あなたは深く掘り下げなければならないのです。
あなたが深く掘り下げるためには、常に疑う必要があります。
現状に満足しているのであれば、表面的な情報から離れることはできません。
表面的な情報を信じているのであれば、それ以上の本質的な情報を得ることはできないのです。
人は常に未熟です。
どのような人物も未熟であるのです。
あなたは自分が成熟していると思い込んではなりません。
あなたの認識している情報は表面的なものに過ぎないのです。
疑いましょう。
当たり前を信じてはなりません。
受け入れられる事態だけを受け入れていてはなりません。
人生には、受け入れられない事態が生じます。
受け入れられない事態とは、あなたの知らない情報なのです。
それは、あなたの認識よりも本質的な情報であるのです。
本質はあなたの認識が及ばない場所に存在しています。
そこには、無知が辿り着くことはできません。
表面的な情報は、本質的な情報に対しては無知という状態なのです。
そのため、表面的な情報を抱えている状態は、無知を抱えているのと同じなのです。
あなたは勉強しなければなりません。
理解することが難しいことを理解するように努めるのです。
簡単なことばかりを楽しんでいてはなりません。
そこには何の進歩も成長もないからです。
難しいこと、知らないこと、受け入れられないことに向き合いましょう。
簡単という罠に陥ってはなりません。

2016年12月22日木曜日

腐る食材

あなたは、自我意識を無視することはできません。
自我意識とは、弱い心です。
あなたは多くの弱い心を抱えているのです。
それば、歪んだ解釈や感情として導かれます。
あなたは多くの誤解を所有し、多くの苦悩を導くのです。
すべての人が自我意識と向き合う必要があります。
しかしながら、多くの人が向き合うことを拒絶しています。
多くの人が苦しむことを恐れているからです。
自我意識と向き合うということは、苦しみと向き合うということです。
自我意識を否定し、それから目を背けることは、一時の安楽を得ることができます。
それは、現実から逃避して幻想に戯(たわむ)れるようなものなのです。
現実とは苦悩です。
あなたは人生が苦悩であるということを受け入れなければならないのです。
人生とは、自我意識と対峙する時間であるのです。
自我意識は多くの問題を抱えています。
そのため、自我意識の築いた人生には、多くの問題が存在しているのです。
人生とは、自我意識そのものです。
そのため、すべての人の人生が歪んでおり、すべての人の人生には問題が山積みであるのです。
自我意識を抱えない人は存在しません。
すべての人が自我意識と向き合う必要があるのです。
そのため、すべての人が人生に問題を抱え、苦悩する必要があるのです。
自我意識に向き合うということは、苦悩に直接的に向き合うということです。
自我意識から目を背けているのであれば、”臭い物に蓋(ふた)をする”こともできます。
それは、一時凌(いちじしの)ぎを導くことはできますが、蓋をされた臭い物はより強烈な匂いを放つ物へと変化しているのです。
自我意識の抱える苦悩を恐れ、そこから目を背けているのであれば、より強力になった自我意識の導くより強力な苦悩と向き合わなければならなくなるのです。
多くの人は問題を先延ばしにしますが、それでは却(かえ)って苦悩を増すのです。
どちらにしても、自我意識との対峙は避けられません。
あなたは自我意識を無視することはできないのです。
自我意識である苦悩と向き合わなければなりません。
問題を先延ばしにしても、あなたにとって良いことなどありません。
その場凌ぎの選択は、問題を悪化させる方法に過ぎないのです。
苦悩に背を向けて喜ぶ人はいません。
これからもいないでしょう。
苦悩に向き合う人だけが、喜ぶことができるのです。
あなたが人生に喜びを求めているのであれば、苦悩を否定してはなりません。
隠してあるものは必ず明るみに出されます。
隠すほどに状態は悪化するのです。
苦悩と向き合うことをせずに、それを放置してはなりません。
放置したところで、苦悩が消滅することはないのです。
何もしないで、何かが好転することなどありません。
この世界には、因果の仕組みが存在しているのです。
あなたの行為が原因となります。
あなたが蓋をすれば、腐敗は進むのです。
あなたが向き合えば、良い形で処理することができるでしょう。
例えば、冷蔵庫の中の食材が自我意識です。
あなたはそれを調理して消費しなければなりません。
腐る前に消費しなければなりません。
もしも、腐ってしまったとしても、それを放置してはなりません。
冷蔵庫の中の他の食材までもが腐り始めてしまうからです。
苦悩からの逃避は、他の自我意識に飛び火してしまいます。
一つの問題を放置すれば、次々に新たな問題が生じるのです。
自我意識を軽んじてはなりません。
自我意識を無視して喜べると考えてはなりません。
自我意識は、確実にあなたに不幸を導きます。
自我意識によって、あなたは苦悩を離れられないのです。
腐る前に苦悩と向き合いましょう。
そして、自我意識を解放しましょう。
次々に補充される食材(自我意識)を調理し、冷蔵庫(心)の中をいつも新鮮(純粋)に保つのです。

2016年12月21日水曜日

情報は力

情報とは力です。
情報とは知識です。
知識とは力なのです。
あなたは知識の重要性を理解しているでしょうか?
問題を解決するにも、満足を導くにも力が必要なのです。
力の不足している者には問題が導かれます。
そして、力が不足しているために問題を解決することができません。
力が不足しているために満足を得ることもできないのです。
あなたが苦悩を抱え、不幸を感じているのであれば、それは力が不足していることが要因であるということを知る必要があるでしょう。
情報によって、問題は問題とはなりません。
それが問題となったとしても、情報によって解決することができます。
情報によって何が満足であるのか?ということを知ることができます。
情報、知識、力がなければ、あなたがこの世界において自由を実現することはできないのです。
自由は情報量(知識量)に比例しています。
情報が多いほど、あなたは自由を実現する可能性を高めることができるでしょう。
なぜなら、情報とは推進力(すいしんりょく)でもあるからです。
情報は燃料のようなものです。
人は、情報を推進力に変換することによって人生を押し進めているのです。
知識に対する情熱は行動力を導きます。
知識が不足していれば、どれだけの情熱を抱いていようとも行動力は導かれません。
それは、知識という燃料が不足しているからです。
知識の伴わない行動は成果を導きません。
それは、行動していないことに等しいのです。
足踏みをすることを成果であるとは言いません。
前進することを成果と言うのです。
知識を持たなければ、人生を押し進めることはできません。
懸命に行動しているようであっても、人生が進んではいないのです。
無知な者は、自分がどこを歩いているのかも知りません。
情報が不足しているために、道に迷っているのです。
車で言えば、アイドリング(空転)はしても、駆動はしないということなのです。
最低限の燃料であれば、前進することはできません。
多くの人は情報や知識を軽んじています。
ただ”楽しく”生きていく上では情報や知識など必要ないと思い込んでいるのです。
そのため、勉強はしません。
ただ”楽しく”生きるための最低限の情報や知識だけで満足しているのです。
ただ”楽しく”生きることを目指している人達には、知識は重荷となります。
それは、知識は燃料であるために、質量が増すからです。
知識である燃料を抱えるだけではその重さに耐えられなくなります。
そこで、知識を推進力に変換しなければならないのです。
そうすれば、燃料が減り、軽くなります。
荷物が減ることによって、苦悩も減るのです。
それでは、知識など抱えない方が良いのではないか?と考えるかも知れません。
ただ”楽しく”生きれば良いのではないか?と考えるでしょう。
しかしながら、人生を進んでいる者と立ち止まっている者との喜びや苦悩の質の違いは明らかであるのです。
知識を情熱によって行動力に変換し、人生を押し進めた者にとっての満足と、無知によって立ち竦(すく)む者の満足は、全くの別物なのです。
大人と子どもの満足の間には、大きな隔(へだ)たりが存在しているのです。
あなたの知っている満足は、本当に満足することができるものなのでしょうか?
あなたには知らないことがたくさんあるのです。
あなたが知識を得る度に、その満足では満足することができなくなるでしょう。
あなたは知識を深めなければなりません。
戯(たわむ)れに時を過ごしてはなりません。
一つでも多くの情報や知識に出会い、人生を押し進めましょう。
しかしながら、知識に潰されてはなりません。
知識はあなたの重荷となります。
そのため、知識を情熱によって行動力に変換し、実践することによって人生に反映させるのです。
勉強するだけではなりません。
知識を実際に活用してこそ、推進力が導かれるのです。
多くの知識は、実力を覆い隠してしまいます。
そのため、知識を活用することによって実力を見失わないように注意しましょう。
実践力を高めるのです。

2016年12月20日火曜日

欠点と美点

すべての人は良いものを求めています。
誰もが良いものを欲しているのです。
多くの人は自分にとって良いものを求めています。
誰もが自分にとって良いものを求めれば良いでしょう。
しかしながら、多くの人が自分を知りません。
自分を知らない人にとって、何が自分にとって良いのか?を知ることはありません。
そのため、多くの人の求める良いものとは、歪んでいる可能性が高いのです。
すべての人が未熟です。
すべての人が成長するために存在しているのです。
すべての人の価値観は途上の段階にあり、発展の可能性を秘めています。
すべての人が成長する必要性を抱え、成長を実現することが可能です。
あなたは確実に成長することができます。
それは、価値観の洗練であり、価値観の向上的な変化を指しているのです。
多くの人の価値観は歪んでいます。
あなたの価値観も例外ではありません。
自分が何者であり、何をしているのか?ということを知らないのです。
そのため、自らの抱える価値観が歪んでいるということにも気が付きません。
多くの人は現状の価値観に執着します。
自分が正しいという思い込みを所有しているのです。
人は自分にとっての良いものを求めれば良いですが、その形は変化する必要があります。
例えば、”普通”を良いものとしている人がいます。
”普通”とは平均のことです。
それは、何の特色もなく、長短を欠いた状態のことです。
多くの人にとって、無難は良いものであるのです。
しかしながら、人は長短を所有している存在です。
欠点も美点も現れない状態であっては、立ち止まっているようなものなのです。
あなたが歩みを進めるためには、膝(ひざ)を曲げて足を縮め、それを前方に伸ばして新たな地点を捕らえる必要があるのです。
長所と短所の共存こそが、あなたを前進させるのです。
長所ばかりを求めるのであれば、その場に立ち続けることになります。
短所ばかりを求めるのであれば、その場に座り込むことになるのです。
無難とは、何もしないということだからです。
”普通”とは、役に立たない状態をいうのです。
多くの人は”普通”を離れることを恐れています。
欠点を恐れるように、美点をも恐れているのです。
あなたは”普通”であることに安心してはいないでしょうか?
あなたは長短を所有していても良いのです。
誰にどう思われようが構わないのです。
あなたは成長という目的を所有しています。
そのためには、歩まなければなりません。
長短の特徴を大切にすれば、あなたは歩むことができるでしょう。
あなたが”普通”という価値観を手放す時、あなたは成長に近付くのです。
あなたは”普通”という状態に憧れる価値観が歪んでいるということを知りましょう。
あなたは周囲を気にして、自分を”普通”に納める必要はないのです。
あなたは自分にとって、本当に良いものを求めれば良いのです。
多くの人の所有する自分とは、他者に相対して築かれた幻想です。
そのため、多くの人の求める良いものとは、幻想に過ぎないのです。
あなたが成長すれば、良いものは良いものではなくなります。
あなたが何かに執着する必要はありません。
あなたが歩めば、すべてが幻想に過ぎないということを知るでしょう。
あなたは”今”という場所を踏み締めます。
既に足跡にはいないのです。
そして、これから踏む場所にもいません。
あなたは歩みのように、価値観が変わるということを知りましょう。
価値観の変化によって、あなたは歩むことができるのです。
”普通”にとどまってはなりません。
無難に騙されてはなりません。
周囲と異なることも、理解されないことも、価値のあることだと理解しましょう。
全体を率いる(導く)のは平均ではないのです。

2016年12月19日月曜日

信仰の崩壊

すべての人は自らの信じるものを所有しています。
すべての人は信仰を所有しているのです。
すべての人は信仰に従って行動します。
すべての人は信仰によって人生を築いているのです。
信仰とは思考を超えた意識です。
思考は信仰によって導き出されます。
多くの人が、自分で思考していると思っていますが、それは信仰によって導かれた選択肢でしかないのです。
あなたの人生を築いているのは思考ではありません。
あなたの心でもありません。
あなたの信じるものが、あなたの人生を築いているのです。
信仰は強力な力です。
信仰に逆らうことのできる人は少ないのです。
どのような対象を信仰していようとも、信仰の対象が主(あるじ)となるのです。
あなたは主に仕える者としての役割を演じることになります。
信仰によって人は人生を築きます。
あなたはそのことに気が付かなければなりません。
あなたは信仰に逆らうことはできません。
信仰を裏切ることもできないでしょう。
信仰とは、抽象的な概念に過ぎません。
それは不安定なものなのです。
あなたは不安定であり、抽象的なイメージに支配されているのです。
信仰とは思い込みに過ぎません。
人は思い込みに従って生きているのです。
思い込みは無知によって引き起こされる状態です。
あなたが無知である程に、信仰に対する抽象度は高まるのです。
無知である程に、自分が何者であるのか?という答えは曖昧(あいまい)なものとして止まるのです。
無知である程に、人生の目的は抽象度を高めるのです。
自分が何者であり、人生の目的は何であるのか?という答えが曖昧である程に、人は迷うことになるでしょう。
その答えが未熟なものであっても、具体的である程に迷いを抱えることはありません。
信仰に対して具体的である程に、信仰の本質を見極めることができるでしょう。
あなたが自らの抱える信仰を追求し、その具体度を高めるのであれば、その信仰体系の綻(ほころ)びを発見するでしょう。
例えば、隣の家庭が幸福そうに見えたとしても、その家庭にも同じように多くの問題が存在しているのです。
無知は抽象度を高め、信仰に対する曖昧さを導きます。
それは、焦点が合わずに見ているようなものです。
輪郭が曖昧さを増すのであれば、それが何であるか?を理解することはできないのです。
多くの人は信仰に対して幻想を抱いています。
それは、自らの信じるものが自分を救ってくれるという思い込みです。
残念ながら、あなたの信仰の対象があなたを救うことはありません。
それがどのような信仰であろうとも、あなたを救う力はないのです。
なぜなら、あなたは未熟であるからです。
未熟な者の信仰の対象も未熟です。
あなたが現在信仰している対象は、現在のあなたにとって役立っているだけであって、残念ながら後のあなたには役立ちません。
それは、あなたが成長するためです。
成長したあなたには、それに相応しい信仰が必要となります。
それは新しい概念や価値観であり、新しい信仰があなたを手助けするのです。
新しい信仰を受け入れるためには、古い信仰を手放す必要があります。
古い信仰が悪いと言っている訳ではありません。
あなたにとっての古い信仰は、あなたには必要がないと言っているのです。
多くの人は古い信仰に執着します。
そのため、新しい信仰を受け入れることは円滑(えんかつ)には行われません。
あなたは強い葛藤(かっとう)を覚え、苦しむでしょう。
あなたが新しい信仰を受け入れるためには、古い信仰からの抵抗は避けられません。
古い信仰は必ず抵抗します。
しかしながら、それで良いのです。
古い信仰からの抵抗は、新しい信仰を受け入れる後押しとなるからです。
あなたが信仰に対して具体度を高めれば、必ず綻びを発見します。
その綻びの発見によって、信仰の崩壊が始まるのです。
信仰の崩壊は、あなたに強い不安を与えるでしょうが、屈してはなりません。
信仰が崩壊するということは、あなたが成長するということなのです。
そのため、信仰が崩壊することは喜ばしいことなのです。
あなたは多くの信仰(主)に仕えることになるでしょう。
信仰は一つではありません。
それは次々に変化して良いのです。
寧(むし)ろ、変化しなければなりません。
信仰が変わらないということは、成長していないということだからです。
古い理論を信仰しているのであれば、先へ進むことはできません。
あなたは新たな理論を打ち出し、”謎”に挑戦しなければなりません。
無知を放置してはなりません。
良く観察し、良く発見しましょう。
自分が何をしているのか?ということを知らなければなりません。

2016年12月18日日曜日

喜びのための変化

すべての人は変化を求めています。
それは、常に不安が付きまとうからです。
すべての人が不安を抱えています。
その不安が積み重なることによって、不幸な状態が導かれます。
不幸な状態は苦悩を導き、苦悩によって人は苦しむのです。
苦しい現状から逃れることは、安易な発想です。
しかしながら、苦しみを味わう多くの人はそこから逃れようと努めるのです。
多くの人にとっての変化とは、苦しみから逃れるための手段なのです。
苦しい現状から逃れるために変化を必要としています。
また、多くの人は退屈に捕らわれています。
変化の乏しい日常を生きているために、退屈を導きます。
退屈は苦悩となり、それによって苦しむのです。
やはり、多くの人は苦しい現状から逃れるために変化を必要としているのです。
幸福の本質は変化にあります。
変化こそが幸福であることを知りましょう。
それは、人生の目的が成長にあるからです。
成長するということは、変化するということです。
現状から成長という状態に変化することが、成長であるからです。
そのため、変化によってのみ、人は人生の目的を果たすことを実現し、同時に幸福を実現することができるのです。
多くの人は苦しみから逃れるために変化を欲していますが、それの深いレベルの理由は喜ぶために変化を必要としているのです。
すべての人が本当は喜ぶために変化を求めています。
しかしながら、認識は苦しみに向けられているのです。
苦しみを認識する意識のレベルによって認識しているために、変化をネガティブな方法とする思い込みが生じるのです。
苦しみに焦点を合わせている意識レベルの人にとっては、変化はネガティブなものです。
そのため、変化を恐れることになるのです。
変化しないことが良いことだと思い込むのです。
そのため、多くの人が安定を求めています。
多くの人が不変を理想としているのです。
人生の目的は変化することにあり、多くの人の目的は不変にあります。
その矛盾によって苦しんでいるのです。
あなたは喜ぶために変化を求めなければなりません。
そして、変化こそが喜びであり、幸福を導くということを理解するのです。
苦しみから逃れることに努める多くの人の中には、その矛盾に気が付き始めている人もいるでしょう。
多くの人の場合、苦しみから逃れるために変化を必要としていますが、それでも構いません。
とにかく変化することが必要です。
あなたは変化を求めましょう。
しかしながら、あなたが変化を実現するのは簡単なことではありません。
多くの人は理想を並べ立てはしますが、それを実現するために実行することはありません。
変化を求めてはいますが、行動は伴(ともな)わないのです。
今までと同じことを考え、同じことをしているのに、どうして違う結果を導き出せるのでしょうか?
変化するということは、違う結果を導き出すことなのです。
結果の原因はあなたなのです。
あなたの選択が結果を変えます。
ただ理想を追い求めるだけではありません。
実際に違うことを考え、違うことを始めなければならないのです。
どのように小さな変化でも構いません。
あなたは、少しだろうと今までとは違うことを考え、違うことをしましょう。
原因が変わらなければ結果は変わりません。
実践無くして、人生が変わることはありません。
多くの人は過去に執着しているために自らを変えることができません。
あなたが変化を求めているのであれば、過去を手放しましょう。
過去は思い込みであるために固定されています。
過去に執着するということは、その意識レベルに固定されるということなのです。
意識レベルを固定するのであれば、苦しみは続くことになるでしょう。
あなたは自らの意思によって、原因を変えなければなりません。
それは、思考と行動を変えるということです。
あなたは意識的にそれを行いましょう。
いつまでも同じことを考え、同じことをしていてはなりません。
自分を変えましょう。
いつまでも苦しい現状から逃れようとしてはなりません。
どのような現状とも向き合うのです。
あなたは喜びのために変化を求めるのです。

2016年12月17日土曜日

最大の目的

あなたは自らの抱える自我意識と向き合わなければなりません。
それは強制的(本当は真(本当の自分)の望み)に行われます。
あなたがどこにいても、何をしていても、そこには自我意識の介入があり、その側面に触れることになるのです。
あなたが否定しようとも、目の前には常に自我意識が存在しているのです。
あなたが自我意識から目を逸らすことは出来ません。
なぜなら、それが人生の最大の目的であるからです。
自我意識と向き合い、それを認識し、理解することによって解放することが目的なのです。
その目的のために仕事があり、生活があり、人間関係があり、社会的な問題があり、個人的な問題があり、肉体があるのです。
自我意識の解放よりも崇高な目的は存在しません。
どのような目的も、それが自我意識を解放する目的の糧(かて)となっているということを知らなければならないのです。
多くの人は、人生における最大の目的を知りません。
そのため、例えば、お金のために仕事を始め、生活を行い、人間関係を保ち、社会的な問題を共有し、個人的な問題と向き合い、肉体について試行錯誤するのです。
多くの人の目的は物質的な段階にとどまるのです。
多くの人は物質的な段階の人生を喜び、それに満足しています。
しかしながら、物質的な段階における目的の遂行から得られる満足には持続力がありません。
それは雷鳴のように強烈ではあれ、一瞬で消えてしまうものなのです。
どれ程の強烈な喜びも、一瞬で消滅するのであれば、次の問題を引き起こします。
それは、渇きです。
物質的な喜びは、すぐに消滅してしまいます。
あなたがお気に入りの物を手に入れたとしても、その潤いは喉(のど)を過ぎれば薄れ、またすぐに渇きを覚えるのです。
自我意識は、物質的な段階の価値観を提供します。
自我意識に従っているのであれば、その価値観は物質的な段階にとどまるのです。
物質的な段階の価値観は、すべてを唯物史観に結び付けます。
例えば、病気を患(わずら)った原因が生活習慣や遺伝にあると考えるのです。
生活習慣や遺伝によって病気は引き起こされているように見えます。
しかしながら、生活習慣や遺伝的な要因でさえ、意識によって生じているのです。
意識の状態が生活習慣を決定します。
思考や感情によって、あなたは自らの選択を行っているということに気が付くでしょうか?
兄弟であろうとも、遺伝的な特徴は異なります。
形質は意識の状態によって既に選択されているのです。
あなたの抱える自我意識の形が、遺伝にまで影響しているのです。
(これは、一般的に形質が好まれる状態が優れている訳ではありません。例えば、美男美女であれば、健康体であれば、自我意識が小さいということではありません)
意識を考慮することなく、物質的な価値観によって判断するのであれば、その本質に気が付くことはできないのです。
多くの人は物質的な価値観によって判断しています。
そのため、その本質に気が付くことはできません。
例えば、病気を治療すればそれで終わりだと考えているのです。
自我意識に従っている人は、人生の最大の目的に気が付きません。
そのため、再び同じ学びを得ることになるのです。
自我意識と向き合い、それを解消しなければ学びは終わりません。
多くの人が人生の問題と向き合い続けているのは、自我意識に従うことによって、物質的な価値観の判断を続けているからなのです。
問題を解放するためには、物資的な価値観を離れる必要があります。
あなたには自我意識を解放するという目的があります。
自我意識を解放するために人生を行っているのです。
物質的な豊かさのために人生を行っているのではありません。
物質的な豊かさを得たところで、すぐに乾きに襲われます。
物質的な価値観に従う者は、常に飢(う)えているのです。
飢えた者は常に欲しています。
それは強欲を生み出し、自我意識の強化に繋がるのです。
自我意識が強化されれば、物質的な価値観はより強固なものになるのです。
自我意識の強化は、更なる問題を引き起こします。
目的を見失ってはなりません。
自我意識の強化が目的なのではありません。
自我意識の解放こそが目的なのです。
常識を盲信(もうしん)してはなりません。
あなたは自分で判断しなければならないのです。
人生を見極めましょう。
自我意識が乾きを訴(うった)えても、簡単に従ってはなりません。
自我意識を制するのです。



2016年12月16日金曜日

夢遊

人は無意識の思考を所有しています。
無意識の思考は認識することが出来ない状態で所有している思考のことです。
人は多くの時間を無意識の内に過ごします。
意識的に時間を過ごす人は少ないのです。
多くの時間、人は過去の感情を反復しているのです。
過去の体験に対して選択した感情を未だに引き摺(ず)っているのです。
それは、過去に選択した感情が歪んでいるためです。
その歪みを解消することが成長へのきっかけとなるために、過去の感情と向き合っているのです。
しかしながら、人には最善が分かりません。
最善とは、感情の歪みを解消して成長する作業のことですが、そのことには気が付かないのです。
そのため、自分が未だに過去を生きている(過去と向き合っている)ということにも気が付きません。
自分の思考が過去の感情から生じているとは思えないのです。
あなたは、自分が認識することが出来ない過去の感情を生きているということを知らなければなりません。
無意識の内に時間を過ごしているということを理解しなければ、人生は無意識の内に過ぎてしまいます。
人生を夢遊するのであれば、歩むこともままならないのです。
無意識の内に道を歩むのであれば、簡単に崖に落ち込んでしまうでしょう。
人生に問題を抱え、苦悩を味わう多くの人は、無意識の内に時間を過ごしているということを理解しなければなりません。
自分が何者であり、何をしているか分からないのです。
どこをどのように歩いているのかも分かりません。
それでは、苦悩に落ち込むことは当然の結果であるということなのです。
あなたは瞼(まぶた)を開き、意識的に道を歩む必要があります。
そうすれば、あなたが人生の苦悩に落ち込むことはないのです。
過去の感情を生きるということは、幻想の自分を生きるということです。
あなたの現実は”今”に存在し、過去は幻想に過ぎないのです。
そのため、多くの人は過去という幻想を生きています。
人生を夢遊するのであれば、”今”を生きることは出来ません。
あなたは無意識の内に何かを批判していることでしょう。
この世界には陰と陽の二つの性質が存在していますが、それ等が対立している訳ではありません。
陰と陽の二つの性質が共存しているのです。
過去の未熟で歪んだ感情は、陰と陽の二つの性質が共存していることに気が付きません。
意識的に観察すれば、陰と陽の二つの性質が共存しているということに気が付くことが出来るのです。
そして、すべてが自分に対しての最善であり、成長のための大切な作業であるということを理解することが出来るのです。
そうなれば、過去の感情が引き起こす苦悩という幻想に翻弄(ほんろう)されずに済みます。
すべての苦悩が、あなたの思考の内で展開している妄想なのです。
無意識の内に時間を過ごすのであれば、どのような人物も苦悩に落ち込みます。
意識的に時間を過ごすのであれば、どのような人物であろうとも、苦悩に落ち込むことはないのです。
あなたに必要なことは、無意識の内に時間を過ごしているということに気が付くことです。
あなたは自分が何かを思考していると思っていることでしょう。
しかしながら、あなたの思考は過去の感情を反復しているに過ぎません。
過去の感情を反復しているのであれば、実際には思考してはいないのです。
それは、呪文のように決められた文句を繰り返し唱えているに過ぎないのです。
夢遊状態であっても道を歩んでいるように見えますが、崖に落ち込むのであれば実際には進んではおらず、却(かえ)って遠回りになるのです。
そのため、多くの人が人生に対して後悔することになるのです。
崖に落ち込めば、人は夢遊状態から目覚めることが出来ます。
人は苦悩によって無意識の状態から解放されるのです。
過去の感情は苦悩を否定します。
そのため、夢遊状態に陥(おちい)るのです。
苦悩こそがあなたを目覚めさせます。
無意識の内に苦悩を否定してはなりません。
意識的に苦悩を楽しむのです。
そうすれば、あなたは目覚めることが出来るでしょう。
無意識の内に苦悩を否定してはなりません。
人生における苦悩こそが、あなたにとって重要な存在であると理解する必要があるでしょう。
無意識に何かを決め付けてはなりません。
”当たり前”を疑う必要があるのです。
あなたは自分が夢遊状態で道を歩んではいないか?と疑ってみましょう。
夢遊状態においては、そのことに気が付きはしませんが、一瞬でも目覚めた時には相対的に自分の置かれた状態に気が付くことができるでしょう。
眠りながら生きてはなりません。
過去に眠るのをやめて、”今”に目覚めていましょう。

2016年12月15日木曜日

恐れの回路


人生は常に最善を導きます。
どのような状況も、それが最善であるのです。
自我意識を抱える多くの人にはそれを理解することが出来ません。
自我意識は歪んだ状態の意識であるために、目の前の最善を歪んだ状態で捕らえます。
そのため、自我意識には、目の前の最善を理解することが出来ないのです。
極端に言えば、自我意識は目の前の最善を最悪と認識します。
多くの人が否定的な感情を抱き、何かと争って苦悩を引き出しています。
すべての人には無限とも思える程の選択肢が与えられているにもかかわらず、わざわざ苦悩を引き出しているのです。
同じような状況にあっても、それを苦悩ではなく、喜びとして引き出すことが出来る人がいます。
もしくは、例えば、成長したあなたであれば、違う結果を引き出すことが出来るはずなのです。
他人であっても、同一人物であっても、選択によって結果を選ぶことが出来るのです。
しかしながら、あなたは自由に選択することは出来ません。
それは、自我意識の導きがあるからです。
自我意識の本質は恐れです。
そのため、恐れを糧(かて)とします。
自我意識は自らが生存するために恐れを必要としているのです。
あなたが恐れを選択するためには、最善を最悪と認識する必要があります。
最悪という認識は恐れの感情を引き出します。
恐れの感情が争いを引き出し、争いが苦悩を引き出すという回路が出来上がるのです。
恐れの回路はすべてに適応され、どのようなことからも苦悩という結果を引き出すことになるのです。
人生において、”悪い(と思っている)こと”が続くのは、恐れの回路を所有しているからなのです。
恐れの回路を所有していれば、恐れに従った選択をすることになると覚えておきましょう。
恐れの回路は、いつの間にかに形成されています。
あなたは無意識の内に恐れに従った選択をしているのです。
それは、恐れの回路の原因である自我意識に気が付かないからです。
あなたは自我意識を認識する必要があります。
自我意識を認識することによって、あなたはその解釈が歪んでいることに気が付くでしょう。
解釈が歪んでいることを理解すれば、世界を歪めていることにも気が付くことが出来るのです。
世界を歪めていることに気が付けば、あなたが苦悩だと思っていたものが、実は幸福であったことに気が付くことが出来るでしょう。
もしくは、幸福だと思っていたものが、実は苦悩であったことに気が付くかも知れません。
自我意識を認識するということは、世界が真逆となる行為だと言っても過ぎることはないでしょう。
あなたが自我意識を認識すれば、価値観は裏返ります。
今までは価値があると思っていたものは価値を失います。
今までは信じていたものを信じることが出来なくなります。
今までは楽しめていたものを楽しむことが出来なくなります。
そして、今までは価値が無いと思っていたものは価値を得ます。
今までは信じられなかったものを信じることが出来るようになります。
今までは楽しめなかったものを楽しむことが出来るようになるのです。
すべてが転換される訳ではありません。
歪みが取れるのです。
そのため、自我意識が主張するように恐れる必要はありません。
恐れによって抵抗する必要はないのです。
多くの人は恐れることによって人生の最善に抵抗しているのです。
抵抗を捨てて、最善を最善のままで受け取りましょう。
そうすれば、人生はあなたの恐れに反して、円滑に進んでいくでしょう。
あなたの抵抗が人生を食い止めているということに気が付く必要があります。
問題とはあなたの抵抗であり、苦悩とはあなたの抵抗なのです。
すべてがあなたの問題であるということに気が付かなければならないのです。
恐れの回路を手放しましょう。

2016年12月14日水曜日

理想論

あなたは理想に対する執着を手放さなければなりません。
多くの人は理想に翻弄(ほんろう)されています。
理想に振り回されることによって、人生の本質を見失うのです。
あなたの目的は理想を実現することではありません。
理想が実現しようと、それが実現することがなくても、人生においてはどちらでも良いことなのです。
大切なのは、結果を受け入れることです。
どのような結果を得ようとも、それで良いのです。
あなたは自分を知りません。
あなたが自分だと思い込んでいる存在は自我意識です。
自我意識とは弱い心です。
人は弱い心であり、自我意識を克服するために人生を体験しています。
自我意識を克服するためには、自我意識と向き合う必要があるのです。
自我意識と向き合うことによって、自我意識の本質を知ることがなければ、自我意識を克服することはできません。
理解することによってその対象を克服することができます。
理解が及ばなければ、その対象を克服することはできません。
例えば、暴力の理由を理解すれば、暴力に対する歪んだ認識を克服することができるでしょう。
理解が及ばなければ、暴力は悪として認識され、その本質を見失ってしまうのです。
もちろん、暴力を推奨(すいしょう)している訳ではありません。
すべての状況には理由があると言っているのです。
それが暴力であろうとも、そこには理由が存在しているのです。
その理由を理解すれば、暴力はもはや悪としての形を成さないのです。
多くの人が自我意識の求める理想を自分の目的だと思い込んでいます。
自我意識は克服するべき対象であり、あなたの主体ではありません。
自我意識の求める理想が実現しようと、それが実現することがなくても、どちらでも良いのです。
あなたの追い求めている理想に対する執着に注意しなければなりません。
必ずしも、理想を追い求める必要はないのです。
強過ぎる理想はあなたを縛り付けて自由を奪います。
自由を奪われたあなたは、苦悩に閉じ込められることになるのです。
多くの人が苦悩しているのは、理想への執着によって自由を奪われたためです。
理想に対する欲求が強過ぎるために、自由を手放してしまうのです。
あなたが手放さなければならないのは自我意識です。
自由を手放してはなりません。
その欲求が理想の実現にだけ向かわないように注意しましょう。
理想の実現にだけ向かう心は弱さを抱えます。
弱さとは不自由さのことです。
理想の実現にだけ向かう心は、理想の実現に対する柵(しがらみ)を抱えます。
強さとは、弱さを手放した状態です。
弱い心は、理想を手放すことを恐れるのです。
すべての人生は理想通りには進みません。
それは、理想が自我意識の欲求に過ぎないからです。
あなたの掲げる理想は、自我意識に付属しているのです。
そのため、自我意識の克服は、理想の崩壊を意味するのです。
理想が実現することが目的ではないと理解することによって、あなたは不自由さに捕らわれずに済みます。
自我意識は理想の実現を断行します。
自我意識にとっては、理想の実現だけが受け入れられる現実なのです。
しかしながら、あなたは真(本当の自分)も所有しています。
自我意識の理想の実現は、真にとってはどちらでも良いことなのです。
理想が実現しようが、実現すまいが、人生は続いていくのです。
何かを成し遂げようという思いに執着する必要はありません。
何かを成し遂げようと、何かを成し遂げることが出来なくても良いのです。
人生の目的は成長にあります。
理想が実現しようがするまいが、あなたは成長することができるのです。
自我意識の解放こそが成長です。
理想の実現に執着する必要はありません。
人生がどのように展開しようとも、それを大切にしましょう。

2016年12月13日火曜日

意識レベル

あなたは、意識です。
あなたは形を持ち、形を持ちません。
あなたは有り、あなたは無いのです。
あなたには、二つの方向性が与えられています。
それは、陰陽、高低、前後、プラスマイナス…
名称は何でも良いのです。
どちらにしても、あなたの意識は対極の方向性を所有しています。
あなたの意識は、対極する方向のどこかの位置に存在しています。
あなたの意識の位置が、あなたの意識レベルを決めるのです。
あなたは自らの意識のレベルによって世界を認識し、判断します。
あなたの認識と判断が、意識レベルを離れることはありません。
あなたがどのように努めようとも、意識のレベルを変えることがなければ、認識と判断が変わることはありません。
例えば、心の歪んだ者が高価な装飾品によって肉体を彩り、美しい表情で飾ったとしても、豊かな人となることはありません。
意識レベルを変えることがなければ、どのような努力も儚(はかな)く散るのです。
心の歪んだ者は、歪んだ認識と判断を下します。
すべての認識と判断は、意識レベルに相応しく導かれるのです。
心の歪んだ者の善行は、心の清らかな者の愚行に過ぎないのです。
心の清らかな者には愚行として認識され判断される行為も、心の歪んだ者には善行として認識され判断されるのです。
人は意識レベルの範囲のみの認識と判断しか下せません。
意識レベルの範囲を超えて認識し、判断することは出来ないのです。
そのため、人は理解し合えないのです。
あなたの他人に対する期待は簡単に裏切られることになります。
意識レベルの異なる相手に期待するのは、異なる文化、言語圏の相手に期待するようなものです。
互いがどのように好意的に認識し判断しようとしても、それは叶わないのです。
多くの人は、自分と他人を同一視します。
他人を自分として仕立て上げたいのです。
それは、仲間を作ることによって自己正当化を図るためです。
自分の認識と判断に賛同する仲間がいれば、自分が正しいと思えます。
自分が正しければ、自分の愚かしさや見窄(みすぼ)らしさを知らずに済むからです。
すべての人が未熟であり、愚かで見窄らしいのです。
しかしながら、歪んだ心がそれを受け入れる意識のレベルにありません。
事実を受け入れることが出来ない心は、偽りを生み出すのです。
低次の意識レベルに有る者の世界は偽りで溢れているのです。
しかしながら、その偽りは偽りとはならないのです。
それは、その意識レベルに有る者にとっては、それが事実だからです。
あなたは、常に自分を客観視しなければなりません。
あなたは自らの意識レベルの範囲によって認識し、判断しています。
それは、無意識の内に行われ、客観性を失えば、何が何だか分からないという状態に至ります。
それが、偽りを偽りと見極められない状態を導き、自己正当化に没頭する苦悩の世界を作り上げるのです。
それが自我意識によって形成された人間社会であるのです。
自己正当化によって生きるのであれば、あなたは苦悩の日々を送ることになります。
歪んだ心は、歪んだ世界を作り上げるからです。
あなたは自らの意識の状態に注意を払わなければなりません。
意識を注視しなければ、意識を変えることは出来ません。
姿形や状況や環境や人間関係を変えることは、何の解決策にもなりません。
あなたの抱える問題の本質は、意識レベルにあるからです。
自己正当化をやめるだけで、問題は解決しますが、問題を抱えている者にはそのことを理解することが出来ません。
低次の意識レベルに有る者には、問題の本質が姿形や状況や環境や人間関係などにあるとしか判断することが出来ないからです。
意識レベルを変える以外に解決策は無いのです。
世界はあなたの意識レベルそのものです。
外は内を現し、内は外を現すのです。
外にあると思える問題は、内にあると思いましょう。
克己心(こっきしん)によって意識のレベルを変えるのです。

2016年12月12日月曜日

意識の檻

人は、意識の檻(おり)の中に存在しています。
すべての人の意識は、その人を囲んでいるのです。
どのような人物であろうとも、意識の檻から逃れることはできません。
すべての人にとって、意識の檻は余りにも強固なものなのです。
無理矢理に抉(こ)じ開けることはできません。
どのような力も意識の檻には通用しません。
すべての人が、破壊することのできない意識の檻の中に存在しているのです。
しかしながら、多くの人は意識の檻の存在に気が付いていません。
目の前に檻が存在しているにもかかわらず、それが目に入らないのです。
どのようなものであっても、知らなければ目には入らないのです。
意識の檻は、自らの心を観察することによって初めて、目に入るようになるのです。
状況や環境や他人などの、外的要因ばかりに捕らわれているのであれば、意識の檻を認識することはできません。
すべての人が閉じ込められている状態であるにもかかわらず、それを理解しないのです。
意識の檻はとても狭く、その中では決して豊かさを得ることはできません。
意識の檻の中では、自由に”身体”を伸ばすこともできないのです。
意識の檻の中では、すべての精神が緊張しています。
そして、いつも不安を抱えて怯(おび)えているのです。
あなたは何も無い狭い檻を快適だと思うでしょうか?
狭い檻の中の生活を豊かだと思うでしょうか?
檻の中に閉じ込められているのに、それを幸福と感じるのでしょうか?
檻の中に閉じ込められた動物を見てみましょう。
檻の中の動物が快適で豊かな生活を送り、それを幸福だと思っているでしょうか?
あなたが檻の中に閉じ込められている動物を見て、それを不幸だと思うのであれば、動物を檻から解放し、より広い場所での生活を与えなければならないでしょう。
檻の中の動物は、人間の自我意識によって閉じ込められています。
これと同じことが、あなたの心の中でも行われているのです。
人の心が人間社会を構築します。
人間社会はその社会を生きる人の心を現しているのです。
あなたは自らの自我意識によって、意識の檻に閉じ込められています。
あなたはその檻の中でしか行動することができません。
檻よりも広く行動することはできません。
あなたは檻の中のものを手に入れます。
そして、檻の中のものを与えるのです。
檻の中の生活の何かに特別な思い入れを抱き、それを幸福だと思い込みます。
檻の中では、小さな石ころでも宝物となります。
檻の中では、幻想が展開するのです。
幻想に生きてはなりません。
あなたは意識の檻を抜け出し、現実を生きるのです。
すべての人が異なる意識の段階にあります。
意識の段階が低ければ、狭い意識の檻の中に存在することになります。
意識の段階が高ければ、(比べると)広い意識の檻の中に存在することになるのです。
狭い意識の檻の中に生きている者には、広い意識の檻の中の生活を信じることはできません。
受け入れる準備ができていない者には、何も教えることができないのです。
意識の段階が低く、狭い意識の檻に閉じ込められている者には、それ以上のことを受け入れることができないのです。
目の前の状況がどのようなものであれ、それを受け入れることができなければ、意識の檻を抜け出すことはできません。
受け入れることができないことは、檻の外で起こっていることです。
檻の外で起こっていることを受け入れることができるのであれば、檻の外に向かうことができるのです。
意識の檻を破壊することはできませんが、扉を開けて外へ出ることはできます。
受け入れることができないことを受け入れることができれば、それは成長したということです。
意識の檻とは、度量と同じなのです。
度量が狭い者には、どのようなことも受け入れることができないでしょう。
度量が広い者には、どのようなことも受け入れることができるのです。
あなたは意識の檻から抜け出さなければなりません。
小さな意識にとどまっていてはなりません。
どのような状況が導かれようとも、あなたはそれを受け入れるように努力しましょう。
受け入れることができなければ、人生が展開することはありません。
受け入れられないことを受け入れなければ、苦悩は続くということを覚えておきましょう。
人は、意識の段階に従った人生を生きるのです。
意識の段階に反する人生を生きることはできません。
その思考も行動も、意識の檻の中に閉じ込められているということを知りましょう。


2016年12月11日日曜日

支え

あなたは、この世界に存在するすべてが不確定であるということを理解しなければなりません。
何一つとして確定している存在はありません。
すべてが不安定であり、すべてが変化の直中(ただなか)に存在しているのです。
この世界の目的は変化にあります。
あなたはこの世界において、変化を実現しなければなりません。
変化を実現することが人生の目的でもあるのです。
変化をやめてしまえば、すぐに苦悩が導かれることになります。
それは、この世界の目的に反しているからです。
多くの人が苦悩を抱えながら生きているのは、変化を否定するためです。
変化こそが豊かさであるということを知らず、変化を否定するのです。
当然の結果として、乏しさである苦悩を受け取ることになるのです。
この世界においては、変化し続けることによって豊かさを得られます。
すべての人が欲する幸福という状態は、変化の中にこそ存在しているのです。
例えば、過去に執着する人の過去は確定しています。
それは、その過去がその人の幻想であるからです。
過去に執着する人は、幻想の中において、その過去を確定することができるのです。
過去を確定し、それに執着するということは、変化を否定するということなのです。
多くの人の求める安定という状態とは、変化への否定であり、過去への執着に他なりません。
”今”という状況は、変化そのものです。
過去と未来は変化を否定した形です。
そのため、”今”に有ることがなければ、豊かさが導かれることもないのです。
多くの人は安定を求めますが、それは自我意識という弱さを抱えているからです。
自我意識は変化を恐れています。
弱さは、予定調和の中に存在したいと願うのです。
そのため、自我意識は思い通りに進まない状況に焦り、憤慨(ふんがい)します。
思い通りに進む状況というのは、自我意識にとっての安定なのです。
予定が狂うことは、安定が狂うということなのです。
自我意識はそれを非常に嫌います。
それは、支えを失うからです。
自我意識は支えを必要とします。
それは、弱いからです。
自我意識が自立することはできません。
自我意識は何かに頼ることによって生存することができるのです。
支えを失えば、自我意識は死滅します。
あなたの目的は変化することです。
それは、自我意識の解放という状態を実現することです。
それは、支えを手放す行為なのです。
あなたは支えを手放さなければなりません。
あなたが頼っているものを手放すのです。
そうすれば、あなたの弱さは死滅します。
甘えは、自我意識を助長するのです。
多くの人は無意識の内に何かに依存しています。
多くの人が何かに頼っており、それを支えとしているのです。
しかしながら、この世界には確定は存在しません。
すべてが不確定であり、本来は何かに頼ることは矛盾しているのです。
あなたは、この世界には何一つとして頼ることが出来るものなど存在しないということを理解する必要があるでしょう。
すべてが崩壊し、すべてが失われるのです。
あなたが支えを手放せば、自力が育ちます。
あなたの内には真(まこと)という地力が存在しているのです。
真とは強さです。
あなたが真によって生きれば、何かに依存して生きる必要はなくなります。
過去や未来に逃避する必要もなくなるのです。
自力で立っているのであれば、何が起ころうとも問題とはなりません。
しかしながら、自力で立つことができないのであれば、支えを失った瞬間に問題が生じるでしょう。
あなたが支えとしているものを手放しましょう。
現在のあなた(自我意識)には大切に思える支えも、残念ながら大切ではありません。
あなたの大切に思っている対象は、思い込みに過ぎないのです。
現在のあなたには理解することができないでしょう。
しかし、あなたが自力を育んだ時には、この言葉の意味を理解することができるでしょう。
あなたが支えを手放し、自力で立つことを応援します。

2016年12月10日土曜日

いつの間にかに飛ぶ思考

あなたが”今”に生きることは、目の前の問題を解決するということです。
すべての人が問題を抱えます。
そして、多くの人が問題によって苦しみます。
すべての人が問題を抱えるのは、”今”に生きることができないためです。
”今”に生きるということは簡単なことではありません。
なぜなら、あなたはいつの間にかに”今”に反発し、”今”から離れるからです。
あなたが自分だと思っている存在は自我意識です。
自我意識とは、あなたの弱い心です。
あなたの弱い心はあなたに寄り添い、あなたはそれを自分だと思い込みます。
長年連れ添った他人を自分のように思う思考と同じです。
あなたは自我意識を自分だと思い込みます。
当然、あなたの思考や感情などの、内部的な働きも自分自身の活動であると思っているのです。
残念ながら、あなたの思考や感情は、その大半があなたのものではありません。
あなたの内部的な活動の大半が、自我意識の働きであるのです。
あなたは内に抱える思考や感情を観察することができることに気が付けるでしょうか?
あなたは思考や感情を俯瞰(ふかん)することができるのです。
俯瞰することができるということは、俯瞰している存在があなたの内に存在するということなのです。
これは、あなたが自我意識(の思考や感情)を観察しているという構図なのです。
多くの人が自我意識を自分だと思い込んでいます。
そのため、冷静になれば観察することができる思考や感情に没頭するのです。
自我意識の思考や感情というものは歪んでいます。
それは、自我意識の動機は常に恐怖から導かれるからです。
自我意識の思考や感情は、恐怖に対する反発なのです。
そのため、その思考も感情も、結果としては恐怖を助長するものとなるのです。
自我意識の思考や感情に従うのであれば、目の前の状況には多くの問題が引き起こされることになります。
あなたが問題を抱えているというのであれば、それは自我意識に従っているということなのです。
自我意識は恐怖に根差しています。
そのため、現実逃避を選択します。
自我意識に任せているのであれば、あなたはいつの間にかに”今”を手放しているでしょう。
あなたはいつの間にかに過去を回想し、未来に期待しているのです。
あなたの思考や感情はいつも、いつの間にかに過去か未来に存在しているはずなのです。
あなたは思考や感情を観察してみましょう。
そうすれば、いつの間にかに”今”を離れているということに気が付くはずです。
自我意識は現実逃避によって自らを守ろうと考えます。
自我意識にとって”今”に向き合うということは、傷口を抉(えぐ)る行為のようなものなのです。
自我意識は恐怖を抱えています。
”今”に向き合うということは、自我意識にとっては恐怖に向き合うようなものだからです。
あなたの本質は自我意識ではありません。
あなたの本質は真(まこと)なのです。
真とは、強い心です。
厳密に言えば、真と自我意識が合わさったものがあなたの本質ですが、自我意識が強過ぎるためにこのように言うのです。
意識は幾重にも積み重なっています。
あなたは自我意識を一つ一つ取り除かなければなりません。
そして、真も一つ一つ取り除かなければならないのです。
自我意識は弱さを克服するために、真はより強くなるために取り除くのです。
どちらにしても、安定を望んではなりません。
すべては不安定なのです。
すべてが流転するのが自然なのです。
あなたは余計な自我意識と真を手放し、より”今”に近付きましょう。
それがネガティヴであろうが、ポジティブであろうが、余計な荷物を抱えているのであれば、”今”に生きることができません。
余計な荷物は、あなたを過去と未来という天秤に掛けるのです。
余計な荷物を抱えているあなたは、荷物の重さに引かれて不安定な歩みを続けるでしょう。
余計な荷物を抱えなければ、あなたは真っ直ぐに歩むことができるのです。
あなたはいつの間にかにどこかへ”飛ぶ”思考や感情と自分を同一視してはなりません。
あなたは思考や感情を観察し、それに付き合わないように心掛けましょう。
”今”に生きることが大切なのです。

2016年12月9日金曜日

人生の成功者

あなたには、”今”しかありません。
あなたは”今”にしか生きられないのです。
”今”を蔑(ないがし)ろにする者が多過ぎます。
大抵の人は”今”に生きてはいないのです。
大抵の人がどうすることも出来ないことを求めています。
どうすることも出来ないことというのは、過去か未来への願望です。
多くの人は、”今”どうすることも出来ないことを求めているのです。
大切なのは、”今”出来ることを求めることです。
あなたに出来ることは、”今”出来ることを精一杯に行うことだけです。
”今”出来ないことは出来ないのです。
出来ないことに執着しても価値はありません。
出来ないことは出来ないのです。
”今”出来ないことをやる必要はないのです。
しかしながら、多くの人は”今”出来ないことをやろうとしています。
それは、強過ぎる願望のためです。
大抵の人は理想を掲げています。
その理想を実現することが最善だと考えています。
そして、いつの間にかに、理想を追い求めて”今”を見失うのです。
理想とは、未来に存在する願望です。
理想を掲げる時点において、”今”を否定しているのです。
”今”に不満を感じているために理想を必要とするのです。
理想を掲げることは大義のように思えます。
しかしながら、あなたが目を向けるべきは”今”というこの瞬間なのです。
理想を掲げるということは、目線を遠くに向けるということです。
遠くに向けられた目線は未来を示しているのです。
未来に目線を向けるのであれば、”今”を見失うということです。
未来とは、積み重なった”今”でしかありません。
未来とは、時間軸の異なる”今”なのです。
未来も”今”であるのです。
ならば、目線は”今”に向けることが有益です。
”今”を見失うのであれば、理想を実現することは出来ないのです。
足もとが覚束無(おぼつかな)い者が、どうして理想に辿り着くことができるでしょうか?
足を踏み外したのであれば、理想へと辿り着くことは出来ないのです。
”今”出来ることは、足を踏み外さずに歩むことです。
確実な一歩を踏み出すことなのです。
人生という道のりには多くの障害が存在しています。
舗装(ほそう)され、整えられた道など存在しません。
人生における道は、すべてが険しいということを理解しなければなりません。
平坦な道に見えても、そこには小石が転がっています。
小石だと思い侮(あなど)るのであれば、その小石に足を挫(くじ)かれることになるのです。
理想ばかりを追い求めて、目線を理想へと向けるのであれば、思わぬ事で躓(つまず)くことになるでしょう。
大抵の人は恐怖に根差しています。
自我意識(弱い心)を克服している人は少ないのです。
大抵の人が自我意識が導く不安や心配に従って行動しているのです。
世の中の大抵の人は、理想を追い求めているのです。
精力的に働く多くの人は、不安や心配への反発のために働いているのです。
精力的に働く多くの人の働く理由は、不足を補い、不安や心配に飲み込まれないようにするためなのです。
そのため、世の中の大抵の人は未来を生きようとしているのです。
世の中の成功者と呼ばれる人達は、何を成功したのでしょう?
仕事を編み出すことに成功したのでしょうか?
財産を貯えることに成功したのでしょうか?
名声を手に入れることに成功したのでしょうか?
あなたは何を以て成功というでしょう?
”今”を大切にすることなく、”今”出来ることをやろうとしない者が何を成功するというのでしょうか?
不安や心配があなたを未来(理想)へと駆り立てます。
未来を生きることで、足もとが覚束無くなり、不安や心配が生じます。
大切なのは”今”を生きることです。
”今”出来ることを行い、不安や心配を克服するのです。
”今”出来ることを行うことが、あなたを”今”に生かします。
出来ないことは出来ないのです。
高望みは必要ないのです。
あなたは自分の人生の成功者でなければなりません。
あなたが”今”に生きるのであれば、何が”今”の成功かを理解することができるでしょう。
”今”の成功を積み重ね、あなたの人生の成功者となりましょう。



2016年12月8日木曜日

人生を始める

多くの人は人生に嘆(なげ)きます。
多くの人が人生を悔いるのです。
多くの人が人生を悲観し、多くの人が人生に苦悩しています。
多くの人が人生に嘆くのは、人生が変えられないと思い込んでいるからです。
変更することができないという思い込みが、人生に苦悩を導いているのです。
あなたは心配する必要はありません。
あなたは人生を変えることができます。
どのような過去も変更することができるのです。
あなたの人生には後悔がなくなり、それは輝かしい誉(ほま)れとなるでしょう。
あなたは自らの人生に満足することができるのです。
人生を嘆いている多くの人は、過去に捕らわれています。
過去に執着しているのです。
過去に執着しているために、過去が変わらないのです。
過去に執着している人の人生は、過去そのものです。
人生を嘆いている多くの人は、過去を生きているのです。
過去に生きることは、過去に縛られるということです。
過去に縛られることがなければ、苦悩は消え去ります。
しかしながら、過去に縛られている多くの人は、自分が過去に縛られているということに気が付きません。
過去を生きていながら、それが”今”だと思い込んでいるのです。
”今”を生きている人には苦悩がありません。
それは”荷物”が少ないからです。
過去(や未来)に生きている人は、余計な思考に没頭します。
それは思考を重たくし、重たい思考に潰されてしまうのです。
過去に生きている人は、過去の出来事を回想しています。
それは、重たい思考に潰されてしまい、その場を動けないということなのです。
あなたが人生を嘆いているのであれば、それは過去を嘆いているのだと理解する必要があるでしょう。
過去に縛られるということは、”今”を蔑(ないがし)ろにするということです。
あなたが大切にしなければならないのは”今”というこの瞬間だけです。
過去は目の前には存在しません。
過去は幻想なのです。
そのため、どのような過去も重要ではないのです。
過去に縛られる必要などないのです。
あなたが”今”に生きれば、過去など容易く変えることができます。
樹木の枝を切り落としてみれば、そこから別の芽吹きがあるでしょう。
やがて、新たな枝が生じ、違う姿を形成するのです。
過去に縛られるということは、切り落とす前の姿に執着するということです。
どれだけ執着したとしても、枝はそこに存在しないのです。
以前の姿を望むことはできません。
あなたにできることは、切り落とされた”今”を大切にすることなのです。
そうすれば、次の枝が伸びてより良い姿が実現するでしょう。
いつまでも、人生を嘆いていてはなりません。
過去に生きたところで、過去を変えることはできません。
あなたが”今”に生きることだけが、唯一過去を変えることができる方法なのです。
どのような後悔も受け入れる必要があるのです。
受け入れて、新たに始めるのです。
目の前の状況から、いくらでも展開することができます。
どのような”今”を得たとしても、それは何の問題ではありません。
”今”を受け入れることができず、過去に執着することが問題なのです。
姿形は変わるものです。
あなたの理想通りには進みません。
それで良いのです。
あなたが”今”に生きる時、すべてが最善であるということを理解することができるでしょう。
しかしながら、嘆きの中(過去)に生きるのであれば、すべてが最悪に映るでしょう。
過去を嘆くような、情けない生き方をしてはなりません。
何を失い、何を得たとしても、あなたはそこから人生を始めましょう。
”今”というこの瞬間に生きるのです。
過去の延長に生きてはなりません。
”今”この瞬間から人生が始まるのです。

2016年12月7日水曜日

苦しみの炎

あなたは、多くの自我意識を抱えています。
自我意識とは弱い心のことです。
弱い心とは、歪んだ感情です。
何かに対して怒りや悲しみや虚しさを向ける心こそが、自我意識なのです。
あなたは多くの歪んだ感情を抱えているのです。
そのことに気が付く必要がありますが、大抵の人が気付きません。
それは、自我意識を自分だと思い込んでいるからです。
弱い心は、”あなた”と同化しています。
弱い心を自分だと思い込んでいるあなたは、その感情が歪んでいることに気が付かないのです。
歪んだ感情を当たり前に思っているため、歪んだ感情を正当化するのです。
それは、自我意識の正当化です。
多くの人は、それが弱い心であるにもかかわらず、それを正当化することによって本質を見失うのです。
歪んだ感情に従う人は、歪んだ結果を受け取ることになります。
この世界には因果の仕組みが存在するのです。
あなたの選択の通りに、状況が導かれるのです。
多くの人が苦悩を抱えていますが、それが自らの自我意識によって導かれているということは知りません。
自我意識を正当化することによって、原因を誰かや何かに押し付けるのです。
人生におけるすべての原因はあなたにあります。
これはあなたの人生なのです。
誰かや何かによって築かれている訳ではありません。
そのように見える時には、そのようにしか見(え)ていないのです。
自我意識の、弱い心の、歪んだ感情を通して見ているために、人生の原因が誰かや何かの責任に思えるのです。
その程度の見解であっては、人生に苦悩は続くのです。
あなたは、自分が自我意識ではないということを知らなければなりません。
あなたの思考も感情も、それは自我意識というあなたの弱い人格によって導き出される選択なのです。
自我意識はあなたの一部ではありますが、あなたではありません。
あなたの一部と、あなたを混同してはなりません。
あなたの一部を主体としてはならないのです。
例えば、病気を抱えたとしても、それはあなたの一部でしかありません。
病気を抱えたからといって気を病む必要はないのです。
多くの人は病気を自分だと考えます。
肉体や心の不調を自分と同一視するのです。
例えば、病気は自我意識の一形態です。
自我意識によって、肉体や心に不調が起きるのです。
病気を治療するということは、自我意識を手放すということなのです。
肉体や心(思考や感情)を整えたところで、自我意識を抱えているのであれば、同じ状態が導かれるのです。
自我意識を手放すためには、それを燃やさなければなりません。
自我意識を燃やす炎とは苦しみです。
あなたは苦しむことによって、自我意識を燃やすことができます。
自我意識が燃やされるために、それを苦しいと感じるのです。
あなたが苦しいと感じているのではありません。
自我意識が苦しんでいるのです。
人生を俯瞰(ふかん)すれば、苦しみこそが最善であることを理解することができます。
自我意識によって直視すれば、苦しみは最悪となるのです。
自我意識が燃え尽きるまで苦しみは続きます。
しかしながら、自我意識が燃え尽きたのであれば、苦しみは嘘のように消え去るのです。
燃料がなければ、炎は存在することができないのです。
例えば、大病を患(わずら)った人の自我意識は激しく燃えます。
そして、大病を克服すれば人生観は大きく変わっているのです。
大きな苦しみを味わった人は、歪みが取れて(燃えて)素直な心を手にするのです。
苦しんだ人ほど、本質へと近付くことができます。
苦しんだ人ほど、自分が何者であるのかを知るのです。
自我意識と同化している人には、苦しみの重要性を理解することができません。
あなたが少しでも俯瞰して人生を眺めることができるのであれば、苦しみとは何か?という問い掛けをしてみましょう。
そうすれば、苦しみを受け入れることができるでしょう。
あなたは苦しまなければなりません。
あなたが苦しんでいるとすれば、その苦しみに感謝しましょう。

2016年12月6日火曜日

書籍と灰

多くの人は過去を大切に考えています。
それは、書籍のように多くの言葉が並べられた記録に過ぎません。
人は過去という書籍を抱えています。
今までに多くの言葉を書き記しているために、それを大切に思うのです。
あなたが過去を書き記しているのは、それを”今”に実感するためです。
あなたは状況を書き記す(意識的に生きる)ことによって、それを”今”に体験することができるのです。
そして、書き記した”今”が過去になるのです。
あなたは人生という日記を書いているようなものなのです。
多くの人にとって、書き記した”今”の蓄積である過去は大切なものです。
そのため、多くの人が過去に生きるようになります。
多くの人が過去に価値基準を置くようになるのです。
書き記した過去が多くなるほどに、過去の価値は高まるのです。
多くの人が”今”に生きることができません。
多くの人が積み上げられた過去に価値基準を置いているために、過去に生きているのです。
それは、無意識の内に行われます。
あなたは知らず知らずの内に過去に生きることによって、”今”というこの瞬間を見失うのです。
”今”を見失っているために、過去から未来を想像します。
多くの人の想像する未来は、過去の延長に過ぎません。
過去に対してネガティブな感情を抱いている人の未来はネガティブなものとなり、過去に対してポジティブな感情を抱いている人の未来はポジティブなものとなるのです。
ネガティブであろうが、ポジティブであろうが、過去の延長である未来は訪れません。
なぜなら、過去も未来も幻想であるからです。
あなたが存在を許されているのは”今”というこの瞬間だけなのです。
過去も未来もあなたの思考の産物に過ぎません。
あなたの頭の中だけで、過去と未来は展開しているのです。
そのため、過去も未来も妄想に過ぎないのです。
妄想を生きることはできません。
それは、夢の世界のものを現実には持ち込めないのと同じです。
あなたの妄想である過去と未来は、”今”という現実とは相違するのです。
そのため、過去の延長によって未来を創造しようとすれば、そこには矛盾が生じることになります。
理想と現実との矛盾こそが、あなたの抱える苦悩の正体なのです。
過去を手放さなければ、矛盾は続きます。
過去を手放すことによって、あなたは矛盾を手放すことができるでしょう。
あなたは無意識の内に所有する過去を手放し、”今”に生きるようにしなければならないのです。
しかしながら、過去を手放すことは簡単ではありません。
それは、火の中に焼(く)べられた書籍のように簡単には燃えません。
書籍をそのまま火の中に焼べたとしても、表紙が焼けるだけであって、文字を焼くことはできません。
多くの人が過去を簡単に灰にすることができると考えるでしょうが、それは決して簡単な作業ではないのです。
過去という書籍を灰にするためには、書籍を解体する必要があるのです。
破(やぶ)って焼べるのであれば、簡単に灰となるでしょう。
そのためには、過去に向き合わなければなりません。
過去を灰にするために一面を破り取った時、あなたはそこに書かれた過去と向き合わなければならないのです。
過去と向き合い、それでも手放す者だけが、過去を灰にすることができるのです。
過去を手放すことによって初めて、人は”今”に生きることができるのです。
残念ながら、過去にも未来にも価値はありません。
あなたが妄想的に価値があると信じているだけなのです。
あなたは、日記よりも灰の方が価値あることに気が付くことができるでしょうか?
過去に生きる人にとっては、灰には価値を見出すことができません。
しかしながら、”今”に生きる人にとっては、灰こそが価値であることに気が付くのです。
あなたが苦悩を抱えているのであれば、過去を火の中に焼べましょう。
そうすれば、過去が燃えて暖を取ることができるでしょう。
過去が燃えることによって、エネルギーを確保することができるのです。
あなたはそのエネルギーを活用することによって、多くの豊かさを実現することができるでしょう。
苦しみは、過去と未来に生きることへの矛盾から生じるのです。
それは、過去が燃焼していないために、エネルギー不足に陥っている状態なのです。
そのため、過去は手放しましょう。
いつまでも苦しむ必要はありません。
あなたが過去を破り、それを燃やせば済む話です。
”今”に生きることによって、あなたは情熱を得られるでしょう。
過去を燃やしましょう。
そして、そのエネルギーによって豊かさを生み出すのです。

2016年12月5日月曜日

余計な荷物

あなたには、必要を理解することができません。
あなたには、何が最善であるかを知ることはできないのです。
あなたにとっての必要であり、最善を知っているのは状況です。
あなたの目の前には、常に必要と最善が導かれています。
しかしながら、あなたにはそれを理解することはできません。
そのため、目の前の必要であり最善を否定するのです。
目の前にどのような状況が導かれようとも、それが”今”のあなたにとっての必要であり、最善なのです。
”今”のあなたにとっては、目の前の状況以外には必要も最善もありません。
しかしながら、あなたにはそれを受け入れることができないでしょう。
あなたは目の前の状況以外の必要と最善を探します。
あなたは過去か未来に必要と最善が存在すると考えるのです。
目の前の状況を否定するということは、過去か未来に必要と最善を信じる行為なのです。
残念ながら、必要と最善は”今”にしか存在しません。
あなたは常に必要と最善に向き合っていますが、あなたの自我意識(弱い心)がそれに気が付かないのです。
例え、自我意識が目の前の状況の必要と最善に気が付いていたとしても、それを受け入れることはできないのです。
自我意識の目的は、あなたを”今”から遠ざけることによって苦しみに導くことです。
自我意識はあなたを苦しめるのが仕事なのです。
しかしながら、自我意識は敵ではありません。
あなたの成長のために、あなたを苦しみに導かなければならないのです。
自我意識とは、言わば抵抗です。
自我意識によって、あなたの心には摩擦(まさつ)が生じます。
その摩擦によって道を進むことができるのです。
もしも、自我意識の抵抗が存在しなければ、あなたは先へ進むことはできないのです。
苦しみを抱えている人は道を進むでしょう。
しかしながら、苦しみを抱えない人は道を進むことができません。
摩擦がなければ滑ってしまい、前進することはできないのです。
あなたの目の前には常に苦しみが導かれることでしょう。
それは、あなたが前進するための抵抗です。
心に葛藤(かっとう)を抱かない者が成長することはないのです。
目の前に苦しみが存在するのであれば、それがあなたにとっての必要であり最善なのです。
それ以外の必要も最善も存在しないのです。
あなたは目の前の状況を否定することによって、過去か未来に逃避します。
そして、余計な荷物を抱えることになるのです。
あなたは、本当は必要の無い多くのものを蓄えています。
その感情(価値観)は必要ですか?
その思考(考え方)は必要ですか?
その行為(習慣)は必要ですか?
あなたは冷静に観察してみましょう。
それは、本当は”今”に必要のないものであるはずです。
それは、過去に必要であったものであって、”今”には必要のないものであるはずなのです。
あなたは、”今”に必要とはしていない多くの荷物を抱えているはずです。
”今”に必要がなければ、後の”今”にも必要ではありません。
過去か未来に生きていれば、余計な荷物を必要とするでしょう。
”今”に生きているのであれば、”今”に必要なもの以外は抱え込まないはずなのです。
”今”に生きる人には執着がないのです。
人は目の前の状況が導く必要と最善を理解しません。
そのため、多くのものに執着しています。
無意識の内であっても、多くの荷物を抱え込むのです。
あなたの”懐(ふところ)”には、多くの余計な荷物が抱え込まれているでしょう。
あなたの部屋に多くの荷物が蓄えられているように、あなたの心にも多くの感情が蓄えられています。
過ぎ去ったことを後悔する必要はありません。
未来を思い悩む必要はありません。
過去は過ぎ去り、未来は訪れないのです。
あなたが存在することが許された唯一の時間は、”今”だけなのです。
そのため、あなたは過去にも未来にも存在することはできません。
”今”が必要であり、最善であるということを理解しましょう。
目の前の状況を否定したい気持ちは分かりますが、安易な選択は避けるべきです。
冷静に目の前の状況を観察しましょう。
そうすれば、それが必要であり、最善であるということに気が付くでしょう。

2016年12月4日日曜日

新たな知識

あなたは多くの思い込みを所有しています。
人は、与えられた知識を利用し、自らの課題と向き合います。
与えられた知識は、抱えている課題を克服するための手段であり、課題の克服と共に利用価値を失います。
すべての人が未熟です。
すべての知識は限定的であり、それは肉体のようにやがて朽(く)ち果てます。
知識とは課題に対する必要であり、普遍的(ふへんてき)なものではないのです。
そのため、あなたは知識を受け取り、やがてはその知識を手放さなければなりません。
どのような知識も、それを永遠に抱え込むことはできません。
知識を抱え込むということは、課題を抱え込むということだからです。
あなたの目的は課題を克服することであり、課題と共に生きることではないのです。
そのため、あなたは知識を手放さなければならないということを受け入れる必要があるのです。
すべての人が知識を手放すことを恐れます。
それは、今までをその知識によって切り抜けて来たからです。
今まで助けてくれた知識であれば、これからも助けてくれると考えるのです。
しかしながら、知識の停滞は課題の停滞であり、それは過去に縛られる状態を得るに過ぎません。
時間は経過し、状況や環境には変化が訪れるように感じます。
しかしながら、知識と課題の停滞が人生を進めることはありません。
そのような状態であれば、時間も状況も環境も、その表面が変化したように映るだけであり、本質的には何も変わってはいないのです。
あなたは人生を進めなければなりません。
それがあなた(真(本当の自分))の望みであるのです。
自我意識は、人生を停滞させるでしょう。
それは、自我意識とは課題そのものであるからです。
人生が進むということは、自我意識の崩壊であるからです。
自我意識は恐れています。
自我意識は、自らの存在を保持したいのです。
そのため、自我意識に従っている人は、利用価値の無い古い知識を手放すことができず、新たな知識を受け入れることができません。
古い概念を盲信(もうしん)し、新しい概念を受け入れることができない”老人”がその典型なのです。
時代の話をしているのではありません。
本質的であるか、そうではないか、という話をしているのです。
古い概念とは、本質的ではない知識のことです。
新たな概念とは、より本質的な知識のことなのです。
あなたが成長することによって、今までに所有していた概念は古くなります。
それは、課題の崩壊を意味しているのです。
古い知識や概念に執着するということは、今にも朽ち果てそうな建物に住むようなものなのです。
廃墟(はいきょ)に住むことによって、あなたは幸福を得られるでしょうか?
そこには苦悩が導かれるのです。
あなたは廃墟を離れ、新たに建物を建造しなければなりません。
それがあなたの住む、新しい概念であり、新たな知識なのです。
そこには、多くの不足が存在しています。
新居には何も無いからです。
あなたはそこで、多くの知識を得ることができるでしょう。
それは、今までには知らなかった知識です。
あなたは新たな知識によって、多くの喜びを得るでしょう。
あなたは多くの思い込みを所有しています。
あなたの盲信している古い知識や概念は重要ではありません。
それを失うことを何よりも恐れているのは、あなたの真(まこと)ではないのです。
あなたの自我意識こそが、過去を失うのを恐れているのです。
残念ながら、過去には価値がありません。
過去に価値があると思うのは、自我意識による教育の結果なのです。
あなたは自我意識を自分だと思い込んでいます。
そのため、古い知識や概念を重要視しているのです。
より本質的な知識や概念を求めなければなりません。
未知を恐れてはなりません。
未知こそ、あなたにとっての可能性なのです。
どのような知識や概念であったとしても、未知を大切にしましょう。
知らないことを知ることによって、あなたは本質に近付くことができるでしょう。

2016年12月3日土曜日

結果の放棄

この世界においては、常に因果の仕組みが働いています。
すべての結果は、それに相応しい原因によって導かれる当然の結果なのです。
原因がそれに相応しい結果を導かないことはありません。
すべての原因は、それに相応しい結果を導くのです。
そのため、原因を選択した時点において、結果は決まります。
結果が原因を否定することはありません。
それがどのような結果であったとしても、その原因をあなたが選択したのです。
どのような結果を受けようとも、それはあなたの選択です。
あなたの選択が、それに相応しい結果を導きます。
そのため、すべての結果はあなたにとっては相応しく、学ぶためには最善なのです。
あなたは結果を学ぶことによって、原因の選択方法を学ぶのです。
そして、より良い選択をすることができるのです。
より良い選択とは、より本質的であり、より満足することができる選択のことです。
あなたの人生の目的は、本質的に生きるということです。
本質的に生きることによって、あなたの満足はより豊かなものになっていくのです。
あなたは因果の仕組みによって学んでいるということを知りましょう。
しかしながら、あなたには因果の仕組みを理解することはできません。
それは、因果の仕組みが複雑過ぎるからです。
原因と結果の結び付きは、あなたの許容を超えるのです。
人生というものは、多くの原因によって導かれる結果です。
あなたが結果を受け取った時点においては、その結果がどのような原因によって導かれたものなのかを知ることはできません。
後に原因の一部を知ることはできるかも知れませんが、全体を知ることはできないのです。
因果の仕組みは複雑です。
そのため、因果の仕組みについては、大雑把に考えることが良いでしょう。
そして、あなたが考えなければならないのは原因です。
多くの人が結果を考えています。
原因には興味が無く、結果ばかりに興味を抱くのです。
それは、原因という与えるという行為よりも、結果という受け取るという行為の方が有利だと考えるからです。
人(自我意識)は欲深いのです。
それは、人が恐れているからです。
恐れているために、有利な状況を求めるのです。
安易に考えれば、受け取る方が有利に思えます。
しかしながら、深く考えるのであれば、受け取ることよりも与えることの方が有利であることに気が付くでしょう。
それは、因果の仕組みが存在しているからです。
すべての結果は原因によって導かれるのです。
結果に注視しているのであれば、原因が疎(おろそ)かになります。
疎かな原因は、それに相応しい結果を導くのです。
そのため、結果に注視し、原因を疎かにする者は不利な状況を得ることになるのです。
受け取ることを前提に行為するものではありません。
利益を考えて仕事をするのは、却(かえ)って利益を損なうということを理解することができるでしょうか?
自分のための仕事は、相手を蔑(ないがし)ろにします。
そのような仕事が相手に貢献するでしょうか?
仕事の本質は学びにありますが、仕事を続けるためには相手に貢献する必要があるのです。
あなたは、自分の利益を追求する相手の仕事を許しておくでしょうか?
あなたが自分の利益を追求するために仕事をするのであれば、相手はあなたの仕事を許さないでしょう。
利益を優先した仕事をする者は、いつか足をすくわれるということを知らなければならないのです。
多くの人が結果を考え過ぎています。
どうなるか?何て知る必要はないのです。
未来に生きる必要はありません。
大切なのは、”今”にあることです。
”今”とは原因であり、やがて結果となるのです。
未来には結果はありません。
未来にあるのは、打算だけなのです。
”今”(原因)に生きる人の仕事は、相手に貢献するでしょう。
未来(結果)に生きる人の仕事は、利益を求めるでしょう。
結果は明白です。
どちらが本質的な人生を得るか?を考えてみましょう。
与えることと受け取ること、どちらを考えている人が多く満足するでしょうか?
”今”に生きる人と、未来に生きる人とでは、どちらが多く満足するでしょうか?
結果など気にする必要はありません。
あなたは”今”に生きて、原因を大切にしましょう。
そうすれば、最善の結果が導かれるでしょう。