人生に豊かさを求めているのであれば、本質と共に生きる必要があります。
	本質を見失い、それを離れてしまえば、人生に豊かさを実現することはできません。
	本質を見失うことによって、人は物事の表面的な情報に翻弄(ほんろう)されることになります。
	それは、歪んだ見解を生きることになり、歪んだ選択を導くでしょう。
	歪んだ選択は歪んだ行為を導き、歪んだ行為は歪んだ状況を導くのです。
	本質を見失えば、人は歪んだ状況から苦悩を引き出すことになるのです。
	多くの人が人生に苦悩しているのは、本質を見失うことによって、表面的な情報に翻弄されているからなのです。
	表面的な情報とは、容易な認識です。
	あなたにとって、手っ取り早い解釈こそが表面的な情報なのです。
	表面的な情報は、物事の末端に過ぎず、末端の情報を理解したところで、その本質を理解することにはなりません。
	例えば、他人の言動に翻弄されると、相手と自分の抱える問題を理解することはできません。
	言動は心によって生じ、心は経験によって形成されます。
	言動という末端の情報に執着しているのであれば、相手を理解することはできません。
	そして、相手を通じて導かれている自分の問題にも気が付かないのです。
	相手の言動に翻弄される人は、相手を敵とします。
	相手の言動に敵対しているだけなのですが、相手が敵だと思い込むのです。
	そして、敵意によって自らの心を汚してしまうのです。
	それが更なる問題を引き起こすことを知りません。
	それは、表面的な情報に執着しているからです。
	本質的に向き合うのであれば、相手の言動に翻弄されることはありません。
	相手の言動が敵意に満ちていたとしても、それに動揺することはないのです。
	本質を見極める人は、相手の言動が敵意に満ちている程に慈(いつく)しむでしょう。
	それは、大人が怒りに身を任せる子どもを諭(さと)すように、表面的な情報に表面的な情報では返さないのです。
	敵意には、慈しみで返すことが豊かさを導く方法です。
	敵意に敵意を返すのであれば、そこには争いが導かれ、後に残るのは乏しさなのです。
	売り言葉に買い言葉では、乏しさは増すばかりなのです。
	あなたは表面的な対処に努めてはなりません。
	不快な匂いを消すためには、匂いではなく、匂いの原因を絶たなければならないのです。
	不快な匂いの原因は、不快な匂いにはないのです。
	不快な匂いの本質は、不快な匂いを放つ物にあるということを理解する必要があるのです。
	多くの人が表面的な対処に努めています。
	安易に認識することのできる情報に対処しているに過ぎません。
	それは、末端の問題を対処しているに過ぎず、末端の問題をいくら解決しても、また同じ状態が導かれるのです。
	あなたの信じているものは、あなたの認識の中に存在する情報に過ぎません。
	それは、安易な情報であり、決して本質的な情報ではありません。
	本質は、あなたの認識の届かない場所に存在しています。
	そのため、あなたは深く掘り下げなければならないのです。
	あなたが深く掘り下げるためには、常に疑う必要があります。
	現状に満足しているのであれば、表面的な情報から離れることはできません。
	表面的な情報を信じているのであれば、それ以上の本質的な情報を得ることはできないのです。
	人は常に未熟です。
	どのような人物も未熟であるのです。
	あなたは自分が成熟していると思い込んではなりません。
	あなたの認識している情報は表面的なものに過ぎないのです。
	疑いましょう。
	当たり前を信じてはなりません。
	受け入れられる事態だけを受け入れていてはなりません。
	人生には、受け入れられない事態が生じます。
	受け入れられない事態とは、あなたの知らない情報なのです。
	それは、あなたの認識よりも本質的な情報であるのです。
	本質はあなたの認識が及ばない場所に存在しています。
	そこには、無知が辿り着くことはできません。
	表面的な情報は、本質的な情報に対しては無知という状態なのです。
	そのため、表面的な情報を抱えている状態は、無知を抱えているのと同じなのです。
	あなたは勉強しなければなりません。
	理解することが難しいことを理解するように努めるのです。
	簡単なことばかりを楽しんでいてはなりません。
	そこには何の進歩も成長もないからです。
	難しいこと、知らないこと、受け入れられないことに向き合いましょう。
	簡単という罠に陥ってはなりません。
	
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