すべての人は自らの信じるものを所有しています。
	すべての人は信仰を所有しているのです。
	すべての人は信仰に従って行動します。
	すべての人は信仰によって人生を築いているのです。
	信仰とは思考を超えた意識です。
	思考は信仰によって導き出されます。
	多くの人が、自分で思考していると思っていますが、それは信仰によって導かれた選択肢でしかないのです。
	あなたの人生を築いているのは思考ではありません。
	あなたの心でもありません。
	あなたの信じるものが、あなたの人生を築いているのです。
	信仰は強力な力です。
	信仰に逆らうことのできる人は少ないのです。
	どのような対象を信仰していようとも、信仰の対象が主(あるじ)となるのです。
	あなたは主に仕える者としての役割を演じることになります。
	信仰によって人は人生を築きます。
	あなたはそのことに気が付かなければなりません。
	あなたは信仰に逆らうことはできません。
	信仰を裏切ることもできないでしょう。
	信仰とは、抽象的な概念に過ぎません。
	それは不安定なものなのです。
	あなたは不安定であり、抽象的なイメージに支配されているのです。
	信仰とは思い込みに過ぎません。
	人は思い込みに従って生きているのです。
	思い込みは無知によって引き起こされる状態です。
	あなたが無知である程に、信仰に対する抽象度は高まるのです。
	無知である程に、自分が何者であるのか?という答えは曖昧(あいまい)なものとして止まるのです。
	無知である程に、人生の目的は抽象度を高めるのです。
	自分が何者であり、人生の目的は何であるのか?という答えが曖昧である程に、人は迷うことになるでしょう。
	その答えが未熟なものであっても、具体的である程に迷いを抱えることはありません。
	信仰に対して具体的である程に、信仰の本質を見極めることができるでしょう。
	あなたが自らの抱える信仰を追求し、その具体度を高めるのであれば、その信仰体系の綻(ほころ)びを発見するでしょう。
	例えば、隣の家庭が幸福そうに見えたとしても、その家庭にも同じように多くの問題が存在しているのです。
	無知は抽象度を高め、信仰に対する曖昧さを導きます。
	それは、焦点が合わずに見ているようなものです。
	輪郭が曖昧さを増すのであれば、それが何であるか?を理解することはできないのです。
	多くの人は信仰に対して幻想を抱いています。
	それは、自らの信じるものが自分を救ってくれるという思い込みです。
	残念ながら、あなたの信仰の対象があなたを救うことはありません。
	それがどのような信仰であろうとも、あなたを救う力はないのです。
	なぜなら、あなたは未熟であるからです。
	未熟な者の信仰の対象も未熟です。
	あなたが現在信仰している対象は、現在のあなたにとって役立っているだけであって、残念ながら後のあなたには役立ちません。
	それは、あなたが成長するためです。
	成長したあなたには、それに相応しい信仰が必要となります。
	それは新しい概念や価値観であり、新しい信仰があなたを手助けするのです。
	新しい信仰を受け入れるためには、古い信仰を手放す必要があります。
	古い信仰が悪いと言っている訳ではありません。
	あなたにとっての古い信仰は、あなたには必要がないと言っているのです。
	多くの人は古い信仰に執着します。
	そのため、新しい信仰を受け入れることは円滑(えんかつ)には行われません。
	あなたは強い葛藤(かっとう)を覚え、苦しむでしょう。
	あなたが新しい信仰を受け入れるためには、古い信仰からの抵抗は避けられません。
	古い信仰は必ず抵抗します。
	しかしながら、それで良いのです。
	古い信仰からの抵抗は、新しい信仰を受け入れる後押しとなるからです。
	あなたが信仰に対して具体度を高めれば、必ず綻びを発見します。
	その綻びの発見によって、信仰の崩壊が始まるのです。
	信仰の崩壊は、あなたに強い不安を与えるでしょうが、屈してはなりません。
	信仰が崩壊するということは、あなたが成長するということなのです。
	そのため、信仰が崩壊することは喜ばしいことなのです。
	あなたは多くの信仰(主)に仕えることになるでしょう。
	信仰は一つではありません。
	それは次々に変化して良いのです。
	寧(むし)ろ、変化しなければなりません。
	信仰が変わらないということは、成長していないということだからです。
	古い理論を信仰しているのであれば、先へ進むことはできません。
	あなたは新たな理論を打ち出し、”謎”に挑戦しなければなりません。
	無知を放置してはなりません。
	良く観察し、良く発見しましょう。
	自分が何をしているのか?ということを知らなければなりません。
	
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