このブログについて

「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2017年6月30日金曜日

成功者

すべての人は未熟です。
すべての人が歪んでいます。
人が未熟であるということは、不自然であるということです。
自然とは、歪みの無い状態のことです。
自然には矛盾が存在しません。
しかしながら、不自然には矛盾が存在するのです。
すべての人が未熟であるが故(ゆえ)に矛盾を抱えています。
矛盾は問題を引き起こし、問題が苦悩となるのです。
人が不自然である以上、苦悩を避けることはできません。
多くの人が苦悩を抱えています。
それは、未熟であるからです。
世の中というものは、未熟な人間によって築かれている不自然な世界なのです。
そのため、世の中には多くの問題と苦悩が存在し続けています。
人の世が矛盾を離れることはありません。
あなたはそのことを理解する必要があるのです。
多くの人は、自分が未熟であり、不自然な存在であることを知りません。
そのため、自らの判断によって問題を苦悩に変えるのです。
問題とは本来、大切な学びであるのです。
人は問題によって多くのことを学ぶことができます。
人は、問題によって成長することができるのです。
しかしながら、未熟な人間にはそのことを理解することができません。
それは、不自然に歪んでいるからです。
不自然に歪んでいるために、物事の道理を理解することができず、問題を苦悩へと変えてしまうのです。
多くの人は、人の世での成功を求めています。
人の世で成功するということは、不自然を極めるということなのです。
不自然を極めるということは、自然から離れるということです。
それは、矛盾を大きくするということなのです。
世の中の富を求めるのであれば、自然の富を失います。
多くの人が世の中の富を求めているのです。
それは、利己的な思考を導きます。
多くの人は、自分にとって都合の良いことを求めているのです。
世の中の富とは、自分にとって都合の良いものを言うのです。
それは、世の中が人間の都合の良いように築かれているからです。
そのため、この世で富を得るということは、都合の良いことを多く得るということになるのです。
すべての人が未熟です。
自分にとって都合の良いこととは、未熟な自分にとって都合の良いことだと理解する必要があるでしょう。
未熟な者の都合とは、不自然な結果を導くようなものなのです。
あなたの目的は何ですか?
あなたは何のために人生を生きているのでしょうか?
あなたは、何のために生まれたのですか?
何のために死ぬのですか?
深く考える必要があるでしょう。
自然界は、未熟な人間の考える都合に沿っては築かれていません。
自然界というものは、未熟な人間にとっては都合の悪いことに溢れています。
そのため、自然に耳を傾けることをやめ、自然の声を聞くことをやめてしまいました。
自分にとって都合の悪いことを嫌い、都合の良いことばかりを選択するようになったのです。
その結果、人は多くの矛盾を抱え、多くの問題に苦悩するようになったのです。
すべての人は未熟です。
未熟な者の受け取る結果は苦悩です。
あなたは自分が未熟であり、歪んでおり、不自然な存在であるということを受け入れましょう。
そして、自分にとって都合の良いことばかりを求めないように努めるのです。
あなたが自然を得るためには、都合の悪いことも必要なのです。
問題は決して、都合の悪いことではありません。
世の中に、未熟な人間に騙(だま)されてはなりません。
人の世で成功する必要などないのです。
あなたは、自分の人生で成功すれば良いのです。

2017年6月29日木曜日

自分の重荷

あなたは、全体に対して貢献する必要があります。
それは、あなたの人生を豊かなものにするための必須条件です。
全体に対して貢献することの無い者には、豊かな人生は与えられないのです。
多くの人は、自力によって豊かさを獲得できると考えています。
しかしながら、豊かさとは与えられるものであって、獲得するものではないのです。
例えば、あなたが独りで豊かさを得ることができるでしょうか?
他者や他の生命体などの、自分以外の存在によって豊かさが与えられているのです。
自分以外の存在から豊かさを獲得するのであれば、自分以外の存在から拒絶されてしまうでしょう。
自分以外の存在から拒絶されて、どのようにして豊かさを実現するというのでしょうか?
あなたがどれだけ自信を抱いていたとしても、自分以外の存在から豊かさを与えられることがなければ、人生を豊かなものにすることはできないのです。
あなたは豊かさを奪うことはできないのです。
そのことを覚えておかなければなりません。
傲慢(ごうまん)な者が豊かさを得ることはないのです。
謙虚(けんきょ)でなければ、決して豊かさを得ることはできないのです。
謙虚であるということは、自分以外の存在を大切に扱うということなのです。
傲慢に陥(おちい)れば、人は自分以外の存在を蔑(ないがし)ろに扱うようになるのです。
それでは、豊かさを得ることはできないのです。
自分以外の存在に貢献することがなければ、豊かさを与えられることがないということを覚えておきましょう。
誰かや何かに貢献することがなければ、何事も上手くいきません。
貢献を欠いた計画は必ず頓挫(とんざ)します。
豊かさを奪おうとする企(たくら)みは、大きな負債を残すのです。
この世界には、因果の仕組みという理(ことわり)が存在しています。
誰も、自らの因果から逃れることはできません。
人は、自らに相応しい報(むく)いを受けるのです。
それは避けられないことなのです。
与えられば与えられ、奪えば奪われます。
因果は必ず巡るのです。
そのため、あなたが豊かさを欲するのであれば、貢献する必要があるのです。
あなたは全体のために個人(自分)を考えなければなりません。
あなたが自分自身を考える時には、前提として全体性がなければなりません。
あなたは飽(あ)く迄(まで)、全体の一部であるのです。
そのため、あなたは、相手のために自分のことをしなければなりません。
自分のやりたいことが、誰かの役に立つように努める必要があるのです。
誰かや何かに貢献することがなければ、その働きには価値がないのです。
あなたは誰かのために自分のことをしましょう。
しかしながら、相手の重荷を肩代わりしてはなりません。
相手には、相手の学びがあるのです。
相手の学びを邪魔することは許されません。
そのため、相手を助けようとする余り、出過ぎた真似をしないように注意しましょう。
相手の重荷(苦悩であり、学び)を肩代わりすることは、相手の成長の機会を奪う行為となるのです。
多くの人は、思いやりによって、相手の負担を減らそうとして、相手の重荷を肩代わりしようとするのです。
しかしながら、それは相手のためにはなりません。
それは、必要な経験を奪うという行為であるからです。
相手に貢献しようとして、邪魔をしているということがあるのです。
本当に相手に貢献したいと考えているのであれば、相手の重荷は相手に任せるのです。
あなたには、自分の重荷があります。
自分の重荷を運ぶことすら出来ない者が、相手の重荷を肩代わりすることは不可能です。
あなたが相手に貢献したいと考えているのであれば、相手の前で自分の重荷を運んで見せれば良いのです。
それで、相手は甘えを手放すことができるでしょう。
甘えを手放せば、誰でも自らの重荷を自分で運ぶことができるのです。
相手に貢献するということは、相手の成長を手助けするということです。
相手の代わりに自らの力量を自慢することではないのです。
自分の重荷も満足に運ぶことができないのに、偉そうに講釈(こうしゃく)を垂れることでもないのです。
あなたは相手のために自分の重荷を運びましょう。
そうすれば、相手はあなたのために自分の重荷を運ぶはずです。
そうやって、豊かさを与え合うのです。
それ以外に人生を豊かにする方法はありません。

2017年6月28日水曜日

豊かさの条件

豊かな人生には、それを満たす様々な条件が必要となります。
多くの人は、豊かさに必要な条件を満たすことなく、人生の豊かさを求めています。
自分に都合の良いような豊かさが存在していると思い込んでいるのです。
残念ながら、あなたの都合とは、決して豊かさを導く条件ではありません。
それは、あなたが未熟であり、歪んでいるからです。
これは、どのような人物にも当てはまります。
すべての人が未熟であり、歪んでいるのです。
そのため、どのような人物の都合も、決して豊かさを導くための条件ではないのです。
豊かさの条件には、あなたにとって都合の良いことも、都合の悪いことも含まれます。
豊かさの条件というものは、人が決められるような代物ではないのです。
残念ながら、あなたには豊かさの条件を理解することはできません。
そのため、自分にとって都合の良いことばかりを選択しても、人生が豊かさを得ることはできないのです。
多くの人が、自分にとって都合の良いことを求めています。
あなたは人の世を観察しなければなりません。
豊かな人生を生きている人がどれ程いるでしょうか?
あなたは、豊かな人生を生きている人を知っていますか?
大抵の人物が、乏しい人生を生きているのです。
もちろん、豊かさとは経済的な条件のことではありません。
贅沢(ぜいたく)な暮らしを実現していたとしても、それで豊かな人生を生きているという訳ではないのです。
豊かさとは、その人が自らの人生の目的に向き合うことのできる人生のことなのです。
そのため、質素な暮らしであっても、豊かな人生と成り得ます。
先天的な障害を抱えていようとも、病気や怪我を抱えていようとも、誰からも愛されなくても、豊かな人生を生きることはできるのです。
多くの人は、豊かさを自分の都合に当てはめて考えているのです。
そのため、人生は豊かさを得ず、苦悩に飲み込まれるのです。
都合の良いことだけではなりません。
楽しいことだけを求める人がいますが、楽しいだけではなりません。
例えば、車で目的地を目指して進んでいるとします。
多くの人は、素早く目的地に到着することを求めています。
そこで、車にはアクセルとハンドルがあれば良いと考えているのです。
それは、素早く目的地に到着するためには、都合の良い形状なのです。
しかしながら、頭の中で想像する道程と、実際の道程は大きく異なっています。
実際の道程は幾重にも折れ曲がっています。
上り坂もあれば、下り坂もあります。
そして、他の車もそれぞれの目的に向かって走行しているのです。
自分の都合だけを考えるのであれば、車は素早く真っ直ぐに進めば良いのです。
しかしながら、それでは目的地に辿り着くことはできないのです。
実際には、ブレーキが必要不可欠なのです。
多くの人は、豊かさを焦っています。
多くの人は欲に目が眩(くら)んでいるのです。
誰よりも早く、誰よりも大きな豊かさを求めているのです。
しかしながら、現実には問題によって立ち止まるばかりです。
車の運転は、アクセルよりもブレーキの方が重要です。
止まれない車は決して目的地に辿り着くことはありません。
焦る気持ちを抑え、立ち止まることを大切にしましょう。
スピードを出し過ぎている車は曲がることも、止まることもできないのです。
豊かさを焦る者は、必ず深い谷底へと落ち込みます。
多くの人は、自分が死に、人生が終わることを考えてはいません。
多くの人は、自分が生きること、人生が続くことを考えているのです。
そのため、人生を生き急ぐのです。
都合の良いことは、豊かさの条件ではありません。
人生の豊かさを決めるのは、あなたではないのです。
それは、人生の仕事なのです。
あなたは自分の都合で人生を考えてはなりません。
立ち止まることも、豊かさの重要な条件であるということを知りましょう。

2017年6月27日火曜日

楽な方法

あなたは苦悩を避けられません。
あなたは、苦しまなければなりません。
あなたは、悩まなければならないのです。
すべての人が未熟です。
すべての人が無知であり、歪んでいるのです。
そのため、その選択は必ず苦悩に結び付くのです。
誰一人として、苦悩を避けることはできないのです。
しかしながら、多くの人が苦悩を避けようと努めています。
無駄な努力をしているのです。
あなたが苦悩を受けるのは、あなたが未熟である時点において決まっていることなのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
誰も、因果の仕組みを否定することはできません。
あなたの受け取るすべての結果は、あなたの所有するすべての原因によって導かれるのです。
あなたは、自らの因果を離れることはできないのです。
未熟であれば、苦悩することは避けられません。
それが因果であるのです。
あなたは、自らに相応しい報(むく)いを受けます。
(自分にとって都合が)良くも悪くも、あなたは自らに相応しい報いを受けるのです。
しかしながら、多くの人はそのことを受け入れることができません。
未熟であるが故に、その報いが自分に相応しいということを認めることができないのです。
未熟な者は、自分を知りません。
自らの分際(ぶんざい)を弁(わきま)えてはいないのです。
そのため、自分には他に相応しい報いがあると思っているのです。
残念ながら、あなたは自分が思っている程、上等なものではありません。
あなたの現状が、あなたを物語っているのです。
自尊心を手放し、自らの分際を認めましょう。
そうすれば、苦悩が避けられないことを知ることもできるのです。
すべての人が、自らに相応しい報いを受けます。
しかしながら、多くの人は苦悩を受けて泣き叫びます。
それは以前から決まっていることなのに、見苦しく泣き叫ぶのです。
そして、無様に逃避を図るのです。
泣き叫んでも、逃避を図っても無駄です。
報いは、あなたが行為した時点においてその形を成しているからです。
分際を弁えない行為が、相応しい報いとなって導かれます。
泣き叫ぶことも、逃れようとするのも得策ではありません。
なぜなら、その行為に相応しい報いが後に導かれるからです。
大切なのは、向き合うことです。
あなたは覚悟を決めなければなりません。
多くの人が受け入れることを難しいと考えています。
そのため、泣き叫び、逃れようとする者が多いのです。
受け入れて向き合うことによって、すべての苦悩は解決します。
それは、苦悩の本質が、あなたを成長させることだからです。
苦悩と向き合い、自らの分際を弁えることによって、あなたは成長することができるのです。
成長することによって、あなたは豊かさを受けることができるのです。
成長こそが、豊かさを受ける唯一の手段なのです。
泣き叫び、逃れるよりも、向き合って乗り越える方が楽だということを理解しましょう。
苦悩に向き合って乗り越えるというのが正規のルートなのです。
ルールを破れば、それに相応しい報いを受けるでしょう。
そのため、苦悩に対しては、受け入れて向き合う方が良いのです。
あなたが苦悩を受けることは、あなたが未熟である時点において決まっています。
逃れられないことなのです。
それは、陽が昇り、やがて没し、また昇ることをあなたが避けられないのと同じです。
あなたは自らの未熟によって苦悩しなければなりません。
苦悩は避けられません。
覚悟を決めて、苦悩に向き合って乗り越えましょう。
それが、最も楽な方法です。

2017年6月26日月曜日

理解するまで

人は、変化を実現する必要があります。
変化こそが人生の意義であるからです。
変化を実現することがなければ、人生に意義を感じることはできません。
あなたが豊かな人生を生きたいと願うのであれば、変化を実現する必要があるということを覚えておきましょう。
多くの人は変化を実現することができません。
多くの人は、変化を嫌います。
多くの人は、現状にとどまりたいのです。
それは、理解が及ばないからです。
変化こそが人生の豊かさであるということを理解することができないのです。
多くの人は、現状を維持することが豊かさだと考えています。
現状に不満を抱き、不安や心配を抱えているにもかかわらず、変化を実現することをしません。
多くの人が矛盾を抱えているのです。
変化を実現することなく、現状を打破することはできません。
変化しなければ、現状に対する不満や不安や心配が解消されることはないのです。
問題は、自分自身の状態に起源します。
あなたの状態によって、状況は決まるのです。
初めに問題があって、それに出会ったのではないのです。
初めに自分自身の状態があって、それに相応しい問題が導かれたのです。
自分自身の状態が変化することによって、状況が変化するのです。
多くの人は問題が独立して存在していると考えているのです。
そして、問題(誰かや何か)が自分を苦しめていると思い込んでいます。
しかしながら、そのような事実はありません。
あなたは自らの抱える誤解によって生じた矛盾によって、”勝手に”苦しんでいるのです。
自分で自分の首を絞めているのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
”身から出た錆(さび)”という言葉を覚えておきましょう。
あなたが問題を抱えているのは、変化を実現しないからです。
ただそれだけの理由なのです。
他に特別な理由など存在しません。
誰かや何かが問題を引き起こしているのではないのです。
問題の原因はあなたなのです。
あなたが問題を引き起こしているのです。
あなたは自分自身の非を認める必要があるのです。
多くの人は、自分自身の非を認めることができません。
自分が正しいという、何の根拠もない自尊心に縋(すが)り付いているのです。
多くの人は、自尊心以外に頼るものがないのです。
そのため、同じ問題に、いつまでも苦しんでいるのです。
詰(つ)まらない自尊心を手放しましょう。
自分自身の非を認めるのです。
非を認めなければ何も始まりません。
非を認めることが変化への一歩となるのです。
あなたが自分自身の非を認めることによって、立ち位置を知ることができます。
自分が正しいと思い込んでいるような者には、自分の立ち位置を知ることはできないのです。
自分が正しいという判断が間違っているのに、どうして自分の立ち位置を正確に知ることができるのでしょうか?
あなたは自分の立ち位置を理解するまで、その問題に苦しむことになります。
理解が遅ければ、同じことを繰り返す必要があるのです。
あなたが苦しんでいるのは、あなたの理解が遅いためです。
誰かや何かのせいではありません。
理解を深めるためには、学ぶ必要があります。
学ぶためには向き合う必要があるのです。
問題から逃避しても、問題が解決することはありません。
関係性の薄いことに時間と労力を費やしてはなりません。
問題に向き合い、自分自身を変化させましょう。
いつまでも同じことを繰り返す必要はありません。
いつまでも人生に対して文句を吐く必要はないのです。
詰まらない自分を変えましょう。

2017年6月25日日曜日

鎖自慢

人は、誤解を生きています。
すべての人は誤解を所有し、それを正しいと錯覚して生きているのです。
残念ながら、すべてが誤解です。
人の判断に正しさはありません。
あなたは自分が正しいと思うでしょうか?
あなたは、誰かを正しいと思えるでしょうか?
あなたが何かを正しいと考えるのであれば、それが錯覚に過ぎないことを理解する必要があるでしょう。
あなたは未熟であることを定められています。
人生において、あなたが極まることはありません。
どのような人物であっても、常に未熟を所有するのです。
そのため、誰一人、決して正しくはありません。
しかしながら、人は正しさを信じたいと願います。
それは、理想として現れます。
しかしながら、現実には何一つ正しいことはないのです。
そのため、多くの人が錯覚と向き合いながら、誤解を深めているのです。
誤解が深まれば、それを心地好いと思い込むのが人間です。
人は、何事にも慣れてしまうのです。
”住めば都”という言葉がありますが、どのような誤解もそれが正しいと思い込んでしまうのです。
そのため、多くの人は自分が正しいと思い込みます。
そして、自分が信じていることや人物が正しいと思い込むのです。
そこには歪んだ信仰が生じます。
人は、その信仰が歪んでいようとも、それを心地好いと思い込むのです。
あなたがどれだけ気に入っていたとしても、それは誤解によって生じた錯覚です。
そこに豊かさは導かれないのです。
多くの人は、人生に豊かさを導くこともない信仰に陶酔(とうすい)しています。
”奴隷の鎖自慢”という言葉があるのです。
多くの人は、自分が誤解の鎖によって繋がれた奴隷であるということを知らないのです。
自分が正しいと思い込んでいる間は、自分が奴隷であるということに気が付きません。
鎖に繋がれている奴隷が豊かに生きることはできないのです。
豊かさでもないものを、豊かさだと錯覚してはなりません。
あなたは目を覚まさなければならないのです。
現在、あなたが正しいと思い込んでいるのは、誤解の鎖です。
あなたは自らの歪んだ信仰によって自由を失っています。
しかしながら、自分ではそのことに気が付くことができないでしょう。
そのため、気が付くまで苦しむ必要があるのです。
誤解の鎖が肉に食い込み、腐って落ちるまで、誤解の鎖に囚(とら)われていましょう。
肉が腐り落ちれば、誤解の鎖から解き放たれるでしょう。
人は、一度信じたものを簡単には手放しません。
人は融通(ゆうずう)が効かず、頑固です。
そのため、苦しんで失うまでは変わらないのです。
不自由な奴隷でいるよりは、肉が腐り落ちても自由を得る方が良いでしょう。
あなたは何のために生まれたのですか?
あなたは何のために生きているのでしょうか?
そのことを考えなければなりません。
誤解の鎖が気に入っていたとしても、それを手放しましょう。
あなたが執着すべきものは何一つとして存在しないのです。
いつまでも誤解に囚われていてはならないのです。
現状は、あなたのお気に入りの結果なのです。
あなたの選択が現状を導くのです。
あなたの選択は、あなたが気に入っているために行われるのです。
現状は、あなたが自分自身で導いたものなのです。
鎖を自慢している場合ではありません。
あなたには、生まれた理由があるのです。
あなたには、生きている理由があるのです。
忘れてはなりません。
何事にも囚われず、命を全(まっと)うしましょう。


2017年6月24日土曜日

推測の世界

人の判断は、そのすべてが推測(すいそく)です。
すべての人が推測で判断しているに過ぎません。
誰も、何も知らないのです。
あなたは、自分が何者であるのかを知っていますか?
あなたは、人生が何のためにあるのかを知っているのですか?
誰も、自分が何者であり、人生が何のためにあるのかを知りません。
自分のことも、人生のことも知らないのです。
この根本的な問いに答えを持たないのです。
それは、何も知らないのと同じです。
何も知らない者の判断は、そのすべてが推測の域を脱しないのです。
あなたは、自分が正しいなどと思い上がってはなりません。
自分の判断が正しいなどと思い込んではなりません。
あなたは決して正しくなく、あなたの判断も正しくないのです。
もちろん、他者が正しいこともありません。
他者の判断が正しいこともないのです。
すべての人が未熟であり、すべての判断は推測なのです。
多くの人は自分が正しいと思い込んでいます。
もしくは、尊敬する他者を正しいと思い込んでいます。
多くの人は、誰かや何かに対して、それが正しいという偏見を所有しているのです。
その偏見は執着を生み出します。
多くの人は、何かに執着しているのです。
偏見を所有しているのであれば、何かを正しく判断することはできません。
それは、必ず主観に導かれるからです。
主観に基づく判断は未熟です。
それこそが推測そのものなのです。
あなたには、正しいことは判断できません。
何が正しく、何が間違っているのかを判断することはできないのです。
何かを判断するには経験が不足し過ぎています。
経験不足では、価値判断はできないのです。
経験とは、直接的な体験です。
経験値は、自分で実際に体験することによって積むことができます。
自分で実際に体験したことがなければ、経験値を積むことはできないのです。
自分でやったこともないのに何が分かるというのでしょう?
自分でやってみた実際の体験によって、見えてくるものがあるのです。
多くの人は自分が正しいと誤解し、自分の判断は優れていると錯覚しているのです。
そして、偏見に執着するのです。
あなたは自分が正しい判断ができるなどと思い込んではなりません。
すべての判断が推測であることを前提にしておきましょう。
あなたにできることは、無数の推測の中から、最も本質的な推測を選ぶことだけです。
すべての判断が推測です。
しかしながら、多くの人はそれを嫌います。
どうしても、自分や尊敬する誰かが正しいと思い込みたいのです。
それは、哀(あわ)れな姿なのです。
我意(がい)を通すことしかできないのです。
あなたは何も知りません。
あなたの尊敬する他者も何も知らないのです。
すべての人が推測を話しています。
そのため、自分の意見にも、他者の意見にも余裕を以(もっ)て向き合いましょう。
正しい意見など存在しないのです。
あなたは、自分の意見も、他者の意見も真に受ける必要はないのです。
すべての人が何も知りません。
そのことを覚えておきましょう。
何かに執着する必要はありません。
その考えや価値観も、推測に過ぎないのです。
推測は覆(くつがえ)ります。
変化し続けることこそが重要なのです。

2017年6月23日金曜日

分からないこと

あなたには、人生がどのように変化するのかを知ることはできません。
人生は、あなたに過去と未来を隠すのです。
過去と未来がどうなるのか?ということは、あなたの与(あずか)り知ることろではないのです。
過去と未来は幻想に過ぎません。
そして、それは妄想に過ぎないのです。
あなたが知ることができるのは、”今”という現実だけです。
あなたは”今”にだけ存在することができるのです。
しかしながら、多くの人は過去や未来を知っているように振る舞います。
多くの人は、過去や未来を気にしながら生きているのです。
”今”に存在する人は少ないのです。
多くの人が与り知ることのできない過去と未来に存在(しようと)しているのです。
大切なのは、”今”を生きることです。
過去と未来は変化し続けます。
それを決め付けようとしても無駄なのです。
多くの人は過去に執着し、未来に切望します。
多くの人は理想を生きているのです。
残念ながら、理想が実現することはありません。
この世界に実現するのは現実だけなのです。
現実とは、あなたの存在する”今”です。
過去と未来は”今”によって大きく変化するのです。
すべての人が”今”に存在しています。
そこでは、何かしらの価値観を所有しているのです。
多くの人は、理想の過去に執着し、理想の未来を切望しているために、価値観が変化しないものだと思い込んでいます。
そのため、いつまでも同じことを言い続け、行い続けているのです。
しかしながら、価値観が停滞することはありません。
それは、天候のように必要に応じて変化するのです。
あなたは過去に執着することはできません。
そして、未来を切望することはできないのです。
それは、価値観が変化し続けているからです。
変化を否定しても無駄です。
雪がその姿に執着し、切望したとしても、必ず春は訪れるのです。
雪は溶けて水となり、その場を去る必要があるのです。
あなたはどこにも定着することはできません。
あなたの価値観は、変化し続けるのです。
満足の形も、不満の形も変わり続けます。
あなたはそれをいつまでも満足することはできません。
それをいつまでも不満に思うこともできないのです。
どのようなことも決め付けてはなりません。
決め付けは、価値観の変化に対応することができないのです。
あなたはすべてが変化の中に存在しているということを知りましょう。
何一つ、食い止めてはなりません。
あなたが何かに執着し、何かを切望すれば、現在の満足は後に苦悩となり、現在の不満は後に幸福となる矛盾を抱えることになるのです。
決め付けによって何かを食い止めるのであれば、満足が苦悩となってもそれをとどめます。
そして、苦悩が幸福となっていることに気が付かないのです。
あなたには、何が幸福であり、何が苦悩であるのかを知ることはできません。
なぜなら、それは変化し続けているからです。
誰にも、判断することはできないのです。
満足は不満となり、幸福は苦悩となります。
不満は満足となり、苦悩は幸福となるのです。
雪が水となり、水が雪となるようなものです。
そのため、あなたの執着にも切望にも価値はないのです。
大切なのは、変化し続けることです。
あなたには何が正しいのかを知ることはできません。
過去や未来がどのように変化するのかも知らないのです。
知ることができないのであれば、知る必要はないのです。
あなたは、”今”に存在する現実を知ることができます。
現実を生きれば良いのです。
何事も決め付けずに生きましょう。
すべては変化し続けるのです。
あなたには分からないことです。

2017年6月22日木曜日

天からの恵み

多くの人は、目の前の現実に対して為(な)す術(すべ)がありません。
多くの人は、現実を目の当たりにして立ち竦(すく)んでいるのです。
現実とは、問題の形で訪れます。
あなたが現実と向き合う時には、問題と向き合う必要があるのです。
問題とは、人生の障壁です。
それは、あなたの歩みの抵抗となります。
現実に向き合うことによって、人の歩みは妨げられるのです。
そのため、多くの人が現実に向き合うことを恐れます。
多くの人が、問題を否定するのです。
人は問題を避けます。
しかしながら、問題はすべての道の障壁となるのです。
あなたは自らの抱える問題から逃れることはできません。
あなたは常に、自らの抱える問題の抵抗を受けるのです。
問題を解決するためには、それと向き合う以外に方法はありません。
問題を観察し、問題に対する価値観を改め、生き方(自分)を変えるのです。
問題とは、その価値観や生き方に誤解や矛盾があるために導かれます。
人は問題によって、その価値観や生き方の誤解や矛盾を解消するのです。
多くの人が問題を嫌いますが、問題によってその価値観や生き方の誤解や矛盾が解消されることを知れば、問題を安易に嫌うこともないでしょう。
人は、問題によって研磨(けんま)されるのです。
問題に向き合うことをしなければ、その価値観や生き方が磨かれることはないのです。
その価値観や生き方に変化が生じなければ、その問題は続くのです。
人生に何かしらの問題を抱え、そこに苦悩を覚えているのであれば、価値観や生き方の研磨を求められているということなのです。
変化無くして先に進むことはできません。
変化無くして、問題を乗り越えることはできないのです。
多くの人は、自分を変えずに、問題を変えようと考えます。
それは、自分が正しいという誤解を所有しているためです。
残念ながら、あなたは正しくありません。
なぜなら、あなたの価値観や生き方が問題を生み出しているのであり、問題が意思を持っている訳ではないからです。
問題は、あなたの豊かな人生のために導かれる天からの恵みです。
それは、雨のようにあなたを潤すでしょう。
しかしながら、多くの人は雨を煩(わずら)わしく思うのです。
雨が降らなければ、命を保つことができないということを知らないのです。
そのように誤解と矛盾を抱えている訳です。
あなたは問題に対して、謙虚(けんきょ)に学ばなければなりません。
問題は敵ではないのです。
多くの人は問題を直ぐに解決しようとします。
それは、問題に向き合うことが苦しいからです。
問題が導かれる目的は、あなたの価値観や生き方を変えるためなのです。
問題が解決されるとするなら、それは、あなたの価値観や生き方が変わった時だけなのです。
あなたの価値観や生き方が変わることがないのに、問題が解決されることはありません。
多くの人が問題を解決しようとしていますが、解決すべきは自らの価値観や生き方の変化であるのです。
価値観や生き方が変われば、問題は自然と解決します。
雨を煩わしく思う狭量(きょうりょう)を、恵みの雨だと思う広量(こうりょう)へと変えるだけで良いのです。
特別な方法は必要ありません。
あなたは何も持たずに生まれたのです。
問題を解決するには何の道具も必要ではありません。
あなたが”裸”であっても、問題を解決することはできるのです。
焦らずに向き合うことです。
問題を変えることは、一時凌(いちじしの)ぎの方法に過ぎません。
それは、問題を解決する過程が一つ増えるだけに過ぎません。
自らの価値観や生き方が変わるまで向き合い続ける必要があるのです。
疲れたら休みましょう。
しかし、それは、問題と向き合い、先へ進むために休むのです。
価値観や生き方に変化を与えるには、多くの時間が必要です。
それは、価値観や生き方が教育の結果であるからです。
あなたは焦らずに、自らに新たな教育を施(ほどこ)しましょう。
問題が天からの恵みであることを忘れてはなりません。

2017年6月21日水曜日

真の道

すべての人は、人生という旅路の途中です。
すべての人が、目的地へと向かって旅路を行くのです。
あなたも人生という道を歩みます。
しかしながら、道は決められてはおらず、あなたが切り開く必要があります。
道はあなたの後ろに出来るのです。
道が前にあるのであれば、それを疑う必要があるでしょう。
なぜなら、それはあなたの人生ではないからです。
あなたは道が後ろに出来るということを覚えておきましょう。
人は楽を求めます。
それは、既に出来上がっている道を歩むようなものです。
自ら道を切り開くよりも、既に出来上がっている道を進む方が楽なのです。
そのため、多くの人は道を切り開くよりも、既に出来上がっている道を進むことを選ぶのです。
それは気楽な旅路です。
その道は簡単に進むことができます。
その道には大きな困難はなく、少ない労力で進むことができるのです。
多くの人は、如何(いか)にして楽ができるのかを考えているのです。
如何にして効率良く利益を得られるのかを考えているのです。
そのため、苦労を嫌います。
困難を否定し、既成の道を選ぶのです。
しかしながら、既に出来上がっている道は、誰かの切り開いた道です。
それは、誰かの目的地へと続いています。
それは、誰かの人生の旅路です。
それは、あなたの人生の旅路ではないのです。
そのため、あなたが既成の道を素早く進んだところで、自らの人生の目的を果たすことはできません。
道の終着に到達したとしても、あなたが自らの人生の目的を果たすことはできないのです。
あなたはそれが、偽りの道であるということを知りましょう。
多くの人が楽な道を選びます。
あなたは、多くの人がどのような生涯を生きるのかを観察しましょう。
多くの人は、楽な道を選ぶに相応しい人生を生きているのです。
真の道とは、苦しみに向き合うことのできる道です。
そこには、様々な困難が存在し、簡単に進むことはできません。
それは、森の中に道を通すようなものなのです。
真の道においては、必ず苦しみます。
あなたが苦しみに向き合っているのであれば、それは真の道です。
綺麗事に酔い痴(し)れて、都合の良いことばかりを並べ立て、都合の悪いことを無視するのは、真の道ではないのです。
余りに美しいのは不自然です。
自然な美しさとは、必ず影を帯びているものなのです。
苦しみの無い道は偽りの道なのです。
多くの人が苦しみを嫌い、楽を求めて進みます。
あなたは何のために生まれて来たのでしょうか?
あなたは自分がどこへ向かうのかを考えなければなりません。
都合の良いことに真はありません。
都合の悪いことにこそ真はあるのです。
これはあなたの人生です。
誰かを真似て生きる必要はありません。
あなたは、あなたの人生を生きるのです。
道の無いところに道を切り開くのです。
既成の道を進んだところで、あなたは何の役に立つというのでしょう?
ただ、散歩を楽しんだに過ぎないのです。
道の無いところに道を切り開けば、この世界に未知の発見をもたらすことができるでしょう。
すべての人が大切な役割を担って生まれるのです。
それは、未知を発見し、世界に貢献するためです。
特別なことをしろと言うのではありません。
あなたが自分の人生を生きれば良いだけです。
あなたが自分の目の前を切り開き、細い道を通せば良いのです。
好きな人生を生きましょう。
それは、あなただけの道を示すでしょう。

2017年6月20日火曜日

珍しい一面

これは、あなたの人生です。
あなたは自分を知るために生きています。
自分を知り、改めるために人生があるのです。
しかしながら、自分を知ることは簡単ではありません。
鏡が無ければ自分の姿を知ることができないように、あなたは自分以外の存在を通じてのみ自分を知ることができるのです。
人は独りで生きています。
しかしながら、独りでは生きていけません。
人は、誰かや何かを通じてしか、人生の意義を見出すことができないのです。
あなたは誰かや何かを通じて自分を知り、改める必要があるということを覚えておきましょう。
あなたは自分のために生きていますが、自分のために生きるためには、他者のために生きなければなりません。
誰かのために生きることによって、それが後に自分のためになるのです。
それは、誰かを通じて自分を知ることができるからです。
多くの人が自分のために生きています。
自分の利益のために行為しているのです。
しかしながら、自分のための行為には限界があります。
それは、直ぐに飽きてしまうのです。
独りでは食べ切れない食事も、誰かと分け合えば足りません。
自分のために何かを行っても、それによって知ることのできる自分には限界があるのです。
あなたが他者のために行為する時、それは自分のための行為に勝ります。
あなたは、他者を通じてより深く自分を知ることができるのです。
そのため、あなたは自分を知るために生きていますが、そのためには他者のために生きなければならないのです。
しかしながら、優しい人もいます。
そのような人は、自分を知る目的のために、他者のために生きているということを忘れます。
そして、本来の目的を忘れ、他者のためだけに生きようとするのです。
あなたが他者のために生きるのは、自分を知るためです。
それ以上の目的はありません。
そのため、他者に依存することには注意しなければならないのです。
多くの人が目的を見失って、他者に依存するように生きています。
自分を知るという目的を見失い、他者のためだけに生きているのであれば、そこには矛盾が導かれ、苦悩に至(いた)るのです。
本来の目的を見失ってはなりません。
人は、様々な一面を所有しています。
一口に自分と言っても、それは複雑な形をしているのです。
そのため、自分を知るということは、その複雑な形を理解するということなのです。
あなたは相手によって役割を演じる必要があります。
あなたは、相手によって自分を使い分けています。
それは、その相手によって自分を異なる角度から観察しているようなものなのです。
そのため、あなたは相手によって態度を変えます。
相手によって態度を変えることを嫌う人もいますが、それを避けることはできません。
相手によって態度を変えることは、自分を知る好機であるということを知らなければならないのです。
そのため、あなたの”珍しい”態度を引き出してくれる相手を蔑(ないがし)ろにしてはならないのです。
例えば、あなたの怒りを引き起こす相手に対して、それを無下(むげ)に扱ってはなりません。
多くの人は、そのような相手を拒絶します。
しかしながら、その相手だからこそ、あなたの”珍しい”一面を引き出すことができたのです。
他の相手にはできないことなのです。
あなたが自分を知るためには、その相手の手助けが必要不可欠であるということなのです。
あなたが好意を抱く相手は、あなたの既に知っている一面を引き出すのが精一杯です。
それでは、あなたが自分を知ることはできません。
多くの人は、自分にとって都合の良い相手とばかり連れ立ちます。
多くの人が、気の合う相手とばかり伴(ともな)うのです。
そして、自分の知らない一面を引き出してくれる相手を除外するのです。
それが、人生の目的に反しているということには気が付きません。
それが、どれほど愚かな行為であるのかを知る必要があるのです。
どのような相手も、必ずあなたを教えてくれる存在です。
相手は、あなたの一面そのものなのです。
あなたは相手を自分の一面だと理解しましょう。
相手は自分なのです。
そのため、相手のために生きることは、自分のために生きることなのです。
相手によって態度が異なることを恥じてはなりません。
それは必要なことなのです。
嫌いな人と無理に仲良くしろとは言いません。
しかしながら、それを許し、そこから大切なことを学びましょう。

2017年6月19日月曜日

問題の諭し

すべての人が苦しまなければなりません。
どのように努めても、苦しみは避けられません。
誰も、目の前の苦しみから逃れることはできないのです。
あなたは必ず苦しみに会います。
それは避けられません。
そして、苦しみに苦悩する必要があるのです。
あなたは苦しみ抜かなければならないのです。
多くの人は苦しみを否定します。
それは、苦しみが問題の形で訪れるからです。
多くの人にとって、問題は不幸です。
多くの人が問題を拒絶します。
それは、利己的な思考に根差して生きているためです。
自分の利益が脅(おびや)かされることを恐れているのです。
多くの人が欲に溺れています。
問題を拒絶するのも、欲の現れです。
苦しみ以外の状況を欲しているのです。
しかしながら、目の前には問題が導かれます。
目の前の苦しみは現実なのです。
それを避けて通ることはできません。
あなたは、何のために問題が導かれるのかを考えたことがあるでしょうか?
無意味に問題が導かれると思いますか?
自分が苦しんでいるのは不運であり、誰かや何かの気紛(きまぐ)れだと考えますか?
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
その問題は、必要によって導かれたのです。
あなたが苦しんでいるのは、苦しむ必要があるからなのです。
必要な苦しみを拒絶してはなりません。
問題とは、変化のために導かれます。
あなたが変化しないために、問題が生じたのです。
それ以外の原因はないのです。
多くの人は”何もしていないのに問題が生じた”と考えています。
その考えは正しいと理解しましょう。
何もしていないために問題が生じたのです。
人生の目的は変化にあります。
あなたは変化し続けなければならないのです。
どのような変化でも構いません。
決してとどまらないように努めましょう。
問題とは、変化の怠慢(たいまん)によって生じます。
あなたが問題を抱え、苦しんでいるのであれば、その場に停滞しているということなのです。
変化すれば問題は解消します。
変化すれば苦しまずに済むのです。
呼吸を止め続けることはできません。
肺は、酸素を必要としているのです。
あなたの命は、呼吸し続けることによって保たれているのです。
変化を嫌えば、呼吸を止めることに同じです。
呼吸を止めれば苦しみます。
人生は、それと同じなのです。
問題は、あなたに変化を諭(さと)しています。
あなたは変化するために尽力しなければなりません。
問題が生じ、苦しんでいる時に、誰かや何かに縋(すが)ってはなりません。
苦しい時にこそ、自らの脚で立ち上がり、一歩を踏み出すのです。
自力(自発)によってのみ、あなたは変化を実現することができます。
あなたの代わりに呼吸をしてくれる人はいないのです。
あなたの代わりに、あなたの人生を生きることのできる人もいないのです。
問題は変化を促(うなが)しています。
そのことを理解しておきましょう。
詰(つ)まらない拘(こだわ)りを手放しましょう。

2017年6月18日日曜日

裁き

すべての人は未熟です。
すべての人が無知であり、すべての人が歪んでいます。
この世界において、正しい人は存在しません。
すべての人が正しくありません。
すべての人が間違っているのです。
そのため、自分の信じる正義を振り翳(かざ)して、誰かを責めるのは間違っています。
もちろん、それは相手のことを思って叱(しか)ることとは異なります。
未熟な者が、自分の(利益や立場の)ために誰かを責めるのが間違っているということなのです。
すべての人が未熟です。
それは、すべての人が問題を抱えるということなのです。
すべての人が問題を引き起こします。
すべての人が問題を生じさせる原因を所有しているのです。
この世界においては、すべての人が裁かれます。
すべての人が因果の仕組みによって、その報(むく)いを受けることになるのです。
多くの人は、自分を正しいと思い込んでいます。
そして、誰かが間違っていると思い込んでいるのです。
残念ながら、あなたも相手も間違っています。
そのため、両者とも裁かれるのです。
人が因果の仕組みによる裁きを免(まぬが)れることはできません。
あなたは必ず、自らの因果によって裁かれるのです。
裁きを避けることはできません。
それは、すべての行為が間違っているからです。
あなたにできることは、間違った行いの中から、出来る限り相手のことを思った行いを選ぶことです。
未熟な人間が、自分のために選ぶ行為というのは、必ず間違っています。
未熟な人間にできることは、相手のことを思った行為を選択するということだけなのです。
自分のための行為よりも、相手のための行為の方が有意義であるのです。
あなたは相手のために行為するのであれば、それは少なからず、自分のための行為よりも良い裁きを受けるでしょう。
すべての人が裁かれます。
人にとって、裁きは自然です。
そのため、裁きを恐れる必要はありません。
大切なのは、どう裁かれるのか?ということです。
間違っている方法の中から、少しでも正しい方法を選択するのです。
しかしながら、未熟なあなたには判断することができません。
そのため、自分のためではなく、相手のために行為するということなのです。
あなたがどのような行為を選択しても問題はありません。
あなたのすべての行為が裁かれます。
それが相手のためになりそうか?ということだけ気にしておきましょう。
喜んでも、怒っても、悲しんでも、楽しんでも良いのです。
しかしながら、自分のためにそれを行ってはなりません。
相手のためにそれを行うのです。
相手のために行うことは、自分にとっての不利を導くと考える人もいるでしょう。
しかしながら、相手のための行為が不利な結果を導くことはありません。
相手のための行為は、直ぐには結果を導きません。
それは相手を経由して自分に導かれる豊かさなのです。
自然は、多くの過程を経由して豊かさを導きます。
直接は飲むことのできない海水も、山に降れば飲むことができるのです。
自分のために行為するということは、海水を飲むようなものです。
それは、苦悩を導くのです。
あなたは心配することなく、相手のために行為しましょう。
それが、未熟なあなたの最善です。
自分のために行為すれば、乏しさが導かれるでしょう。
直接的に利益を求めてはなりません。
欲に従ってはなりません。
あなたは、この世界の理(ことわり)に従いましょう。

2017年6月17日土曜日

歩幅

人は、自らの歩幅で歩むしか方法がありません。
あなたには、出来ることと出来ないことがあるのです。
出来ることは、自らの歩幅で歩むことです。
出来ないことは、自らの歩幅以上に歩もうとすることです。
とても単純なことなのです。
あなたが出来ることは、あなたに出来ることだけです。
あなたに出来ないことは、あなたには出来ません。
しかしながら、多くの人は出来ないことを出来ると錯覚しているのです。
多くの人は、理想を掲げています。
理想とは、幻想です。
理想とは、出来ないことなのです。
出来ることとは現実です。
出来るからこそ現実であるのです。
多くの人は理想に価値を見出します。
それは幻想であり、出来ないことであるにも関わらず、そこに価値を見出すのです。
存在しないものに価値を見出すことは愚かです。
なぜなら、そのような価値は存在しないからです。
存在しない価値を求めてはならないのです。
多くの人は現実を嫌います。
現実とは事実ですが、そこに価値を見出すことをしません。
存在しているものに価値を見出すことなく、存在しないものに価値を見出しているのです。
そのため、多くの人は偽りを生きることになります。
偽りを生きることによって、そのような因果を背負うことになります。
偽りの結果は苦悩です。
それは、苦悩というものが偽りであるからです。
この世界には苦悩は存在しません。
苦悩とは幻想であり、錯覚であるからです。
人は真(まこと)を生きなければならないのです。
真とは、事実のことです。
それは、出来ることによって築かれる人生です。
出来ないことによって築かれる人生は偽りです。
偽りの人生によって豊かさを実現することなどできないのです。
偽りの人生によって実現されるのは乏しさです。
嘘を吐けばどうなるのか?ということを考えてみれば良いでしょう。
真の人生によっては、必ず豊かさが導かれます。
それは、真実(事実)によって信頼を得ることが出来るからです。
偽りによって貢献することは出来ません。
それは、事実に反するからです。
理想とは、何も起こらない世界です。
現実とは、実際に何かが起こり、変化し続ける世界なのです。
そのため、大きな理想を追い求めず、小さな現実を積み重ねていく方が有益であるのです。
多くの人は夢見がちです。
自分には相応しくない大きな報酬(ほうしゅう)を求めているのです。
あなたに出来ることは小さなことですが、それを積み重ねることによって、自分に相応しい報酬を確実に手にすることが出来るのです。
しかしながら、理想を追い求め、出来ないことを出来ると錯覚している者には、何の報酬も手にすることは出来ないのです。
あなたは理想を手放さなければなりません。
理想を追い求めている以上、地に足は付きません。
事実に基づいて行動することが出来ない者には、矛盾が与えられるのです。
強欲を手放し、分(ぶん)を弁(わきま)えるべきなのです。
小さなことにも感謝しなければなりません。
それが、あなたの歩幅です。
出来ないことを出来ると錯覚してはなりません。
確実に出来ることを積み重ねるのです。
出来ないことは出来ないのです。
諦めましょう。
出来ることに努めましょう。

2017年6月16日金曜日

”天”からの恵み

人生は思い通りにはいきません。
人生は、あなたの理想を退(しりぞ)けます。
あなたは事実に基づいて人生を生きなければなりません。
理想は実現することなく、現実のみが実現します。
あなたは現実を生きるのです。
多くの人は人生を思い通りに進めようと努めます。
それは、理想が最良だと思い込んでいるからです。
理想が最良だとする思い込みがあるために、理想を実現することに注力するのです。
理想が最良だと考えるのは浅はかです。
なぜなら、”地を這(は)う”あなたには、全体像が見えていないからです。
すべての人が部分的に世界を見ています。
それは、部分的な見解に至(いた)ります。
すべての人は、部分的な解釈によって、最良を判断しているのです。
部分的な解釈によっては、最良を判断することはできません。
最良とは、全体を解釈することによて初めて判断することができるのです。
人は無知であり、未熟です。
すべての人は偏見を所有し、歪んでいます。
その見解は部分的な状態にとどまり、まるで地を這うようなものなのです。
世界は広いにも関わらず、人は狭い範囲を見詰めているのです。
下から上は良く見えないが、上から下は良く見えるのです。
あなたの理想とは、下から上を見るようなものです。
下にいる者には、何が最良なのかを理解することはできません。
そのため、人の理想が最良であることはないのです。
多くの人が理想を実現しようと努めますが、その企(たくら)みは仇(あだ)となるのです。
上にいる者には、何が最良なのかを理解することができます。
上にいる者には、全体像が見えているからです。
地を這う蛇には知らないことも、空を舞う鳥には知ることができるのです。
現実とは、全体性によってもたらされた最良です。
すべての状況が現実です。
それは、自分よりも優れた”天”によって導かれます。
多くの人は、自分が優れていると思い込んでいます。
しかしながら、あなたは何も知らず、何もできません。
誤解と矛盾を手放すことができないのです。
すべての状況があなたにとっての最良であることは、後に知ることができます。
あなたが成長した暁(あかつき)には、すべての状況に意味を見出すことができるのです。
無意味な状況など存在しません。
大抵の人は、そのことに後から気が付くのです。
あなたが知らないことも、”天”は知っています。
それは、あなたよりも優れた存在なのです。
状況に対して、人は文句を履きます。
状況に対して反発するのです。
それは、知らないからです。
あなたは自らの愚(おろ)かさを知りましょう。
そして、理想に陶酔(とうすい)する苦しみに気が付くのです。
酒に酔って良いことなどあるでしょうか?
深く考えなければなりません。
現実とは、あなたの知らない最良です。
現実は、常に”天”から導かれるのです。
そのことを知っておきましょう。
現実に対して文句を吐いているのであれば、地を這い続けることになるでしょう。
何も知らず、何もできずに生き続けたいのですか?
人が謙虚(けんきょ)であれば、”天”からの恵みによって潤うでしょう。
思い通りにいくことには、何のメリットもありません。
思い通りにいかないことが最良だと理解しましょう。

2017年6月15日木曜日

自分を生きる

あなたは、歪んでいます。
あなたは、不自然であるのです。
あなたは生まれながらに歪んでおり、生まれながらに不自然なのです。
人生の意義とは、自らの歪みを正し、不自然を自然にすることにあるのです。
しかしながら、多くの人は自分が歪んでいることを知りません。
自分が不自然な存在であるということに気が付かないのです。
それは、それが”普通”であったからです。
人は、生まれる前から教育を受けています。
祖父母や両親など、関わる大人に教育を受けるからです。
関わる大人は、既に何かしらの教育を受け、何かしらの価値観を形成しています。
それは、子どもに受け継がれます。
すべての人は、生まれる以前から教育を受けているのです。
誰もが生まれる以前から受けている教育であるために、その歪みや不自然さに気が付くことができません。
大抵の人は、既成概念(きせいがいねん)に捕らわれるのです。
既成概念に捕われている人は、既成概念に従って行為します。
多くの人は、当たり前の教育を、当たり前のように行うのです。
それが自分にとって、他者にとって、社会にとって、人類にとってどのような影響力を持っているのか?ということは考えません。
当たり前に教えられたことを、当たり前にこなすという習慣によってのみ動かされているのです。
残念ながら、既成概念に捕らわれるのであれば、自分の人生を生きることはできません。
既成概念というものは、誰かにとっての最善であって、あなたの最善ではないからです。
多くの人は、自分が何者であるのか?人生が何であるのか?ということを考えずに生きています。
命の目的を持たずに生きているのです。
大切なのは、自分の人生を生きることです。
人には、それぞれに役割が与えらえています。
それは、あなたにだけ与えられる特別な役割なのです。
しかしながら、既成概念に捕らわれるのであれば、自らの役割を果たすことはできません。
誰かのように、また、皆と同じように生きるのが関の山です。
そこには、自分の人生が無いのです。
大切なのは、これが自分の人生だと理解することです。
あなたは、自分の人生を生きているのです。
誰かのようになる必要も、誰かと同じように生きる必要もないのです。
誰かのようになってはならないのです。
自分の人生を生きるのです。
誰も、あなたの”自分”を知りません。
そのため、誰かに問い掛けても答えを得ることはできません。
あなたは自分自身に問い掛けなければならないのです。
そのためには、あなたを自分から引き離す既成概念を疑う必要があるのです。
当たり前を疑い、”普通”を退(しりぞ)けなければなりません。
当たり前や”普通”であってはならないのです。
あなたが自分であるのならば、当たり前や”普通”ではいられないのです。
あなたが自分であり、自分を生きるのであれば、歪みの無い、自然な人生を生きることができるでしょう。
それは豊かさであり、充足なのです。
多くの人は、自分では無いために、乏しさを生きているのです。
苦悩を抱えている人は、それが自分の人生ではないからです。
あなたは自分を生きるために生まれたのです。
あなたは自分を生きなければなりません。
そのために、既成概念を疑いましょう。
既成概念こそが仇(あだ)となることを知りましょう。
あなたは歪んでいます。
あなたは不自然なのです。
あなたは正しくありません。
自然でもないのです。
そのことを理解する必要があるのです。
既成概念を手放せば、自分が見えてくるのです。
あなたは自分を生きましょう。

2017年6月14日水曜日

手の中の事実

現実とは、あなたの最良です。
理想とは、あなたの最悪です。
多くの人は、現実と理想を履き違えています。
現実を最悪と思い、理想を最良と思い込んでいるのです。
しかしながら、事実は現実が最良であり、理想は最悪であるのです。
あなたはこの事実を理解することができるでしょうか?
すべての人は、現実に苦悩しています。
多くの人は苦悩を最良だとは思いません。
多くの人は、苦悩はそのまま最悪だと思い込んでしまうのです。
しかしながら、人生を深く考察するのであれば、苦悩がどれだけ人生にとって重要な役割を担っているのかを知ることができます。
人生を深く考察した時には、苦悩を最悪と考える人はいないのです。
それは、苦悩こそが自らの背を押し、成長の原動力として働いてくれるからです。
苦悩が存在しなければ、人は成長する必要性を見出すことができません。
苦悩が存在しない人生においては、人は何も変えることがないのです。
しかし、苦悩が存在しない人生など存在しません。
すべての人が苦悩と向き合うことになるのです。
それは、成長する必要があるからなのです。
成長する必要があるということは、苦悩する必要があるということです。
あなたが苦悩することによって、初めて成長することができます。
成長は視野を広げ、行動範囲も広げます。
それは、あなたに新たな人生を導くのです。
苦悩することで成長し、成長することで新たな人生を生きることができます。
新たな人生を生きることこそが、豊かさを得るということなのです。
多くの人は誤解の中に生きています。
現実は最良であり、理想は最悪ですが、それを反対に解釈しているのです。
多くの人は、現実を最悪と考え、理想を最良としています。
そのままの価値観では、人生が豊かさを得ることはなく、乏しさを導くだけなのです。
不自然は乏しさを導きます。
現実において苦悩することが最善であり、自然です。
理想に逃げて気楽にすることは最悪であり、不自然なのです。
あなたは誤解を手放さなければなりません。
そのためには、認識を引っ繰り返す必要があるのです。
そして、新たな認識を得て、新たな人生を生きるのです。
現実とは、手に入るものです。
あなたは常に現実を手にしているのです。
この世界においては、手に入るものが最良です。
手に入らないものには縁が無く、必要ではないのです。
現在所有しているものを大切にすることによって、成長することができます。
成長することによって、相応しいものも変わります。
それは、新たな縁が結ばれるということなのです。
残念ながら、自分に相応しくないものを手に入れることはできません。
そのため、理想を生きることはできないのです。
あなたは自分を知らないのです。
そのため、自分に相応しいものが何か?ということも知りません。
そのため、現実は軽視され、理想は誇張(こちょう)されるのです。
多くの人は誇張された自己像に陶酔(とうすい)しています。
そのため、理想を求めるのです。
現実を受け入れることができる人が、どれだけいるでしょうか?
多くの人は、目の前の現実が自分には相応しくないと思い込んでいるのです。
高慢(こうまん)にも、そのように思い込んでいるのです。
あなたは謙虚に生きましょう。
現実こそが、あなたには相応しいのです。
自分を見誤らないようにしましょう。
人生を誤解してはなりません。
現実が最良であり、理想が最悪です。
手に入らないものをいつまでも求めず、手にしているものを大切にしましょう。

2017年6月13日火曜日

やりたいことをやる

人生を豊かなものにするためには、やりたいことをやらなければなりません。
あなたがやりたいことは、あなたの役割であり、人生の目的の一部でもあるのです。
やりたくないことは役割や人生の目的とは異なります。
そのため、やりたくないことをやり続けていると、苦悩と絶望が導かれるのです。
やりたくないことをやり続けてはなりません。
それは、人生を乏しくします。
あなたはやりたいことをやりましょう。
また、やりたいことがやれる環境作りに尽力しましょう。
やりたいことをやるには、自分を変える必要があります。
自らの心境を変えることによって、やりたいことがやれる環境を作ることができるのです。
大切なのは、やりたいことをやろうとする気持ちです。
多くの人は、やりたいことをやろうとはしません。
様々な制限によってやりたいことをやろうとはしないのです。
多くの人は自分のやりたいことを知っています。
しかしながら、そこに多くの言い訳を投じてやろうとはしません。
やろうと思えばやれることをやろうとはしないのです。
大切なのは、一つ一つの結果を積み重ねることです。
いきなり理想の結果を導くことはできません。
やりたいことを直ぐにやれるほど、人生は簡単ではないのです。
環境作りには、時間と手間が掛かるということを覚えておかなければならないのです。
そのため、あなたは辛抱強く努めなければなりません。
やりたいことがないという人もいます。
しかしながら、それは、やりたいことがない訳ではありません。
やりたいことを知らないだけなのです。
すべての人が役割を担い、人生の目的を所有しています。
そのため、やりたいことは必ずあるのです。
やりたいことがない人はいないのです。
そのことを覚えておきましょう。
やりたいことをやるためには、目の前の小さな問題を解決する必要があります。
どのような問題も、あなたのやりたいことをやるための障壁でしかありません。
そのため、目の前の問題を解決することによって、あなたはやりたいことをやることができるのです。
やりたいことがないという人も、目の前には必ず何かしらの問題が存在しています。
その問題を解決していれば、やりたいことが見えてくるのです。
問題に埋もれて、やりたいことが見えないのです。
この世界は、問題を解決するために存在しています。
世の中は、問題を解決するためにこそ動いているのです。
すべての人が問題を解決しなければなりません。
すべての人は、問題を通じて、やりたいことを知り、やりたいことをやることができるのです。
多くの人は、問題を誤解しています。
人生を豊かなものにするためには、問題が邪魔だと思い込んでいるのです。
しかしながら、問題によってのみ、人生は豊かさを得るのです。
やりたいことができないと不貞腐(ふてくさ)れて過ごしてはなりません。
やりたいことがないとだらだらと過ごしてはなりません。
あなたにはやりたいことがあります。
そして、やりたいことをやれるのです。
目の前の問題に向き合いましょう。
目の前の問題を解決しましょう。
目の前の問題ならば、解決することができます。
どのように小さな問題でも構わないのです。
それが問題であれば良いのです。
問題を解決するほどに、やりたいことが分かってきます。
問題を解決するほどに、やりたいことをやることができるのです。
問題を抱えていれば、不自由な人生を生きなければなりません。
問題を解決しようと努めなければ、あなたは虚(むな)しく生きることになるでしょう。
どのような言い訳も捨てて、目の前の問題に向き合いましょう。

2017年6月12日月曜日

中立

あなたは、中立にいなければなりません。
偏(かたよ)ることは許されません。
この世界には、陰陽の仕組みが存在しています。
この世界には、陰と陽の二つの方向性が存在しているのです。
人は、陰と陽のどちらかの性質に惹(ひ)かれ、属します。
人は、意図してどちらかの性質に属することもあれば、結果的にどちらかの性質に属することもあるのです。
どちらにしても、どちらかの性質に属しがちなのです。
すべての人は、偏見を抱えています。
偏見は無知による結果です。
偏見は見解を歪めます。
そのため、陰か陽のどちらかの性質に惹かれ、属するようになるのです。
例えば、多くの人は喜びを求めています。
楽しいこと、嬉しいこと、興奮することを求めているのです。
喜びによって幸福が実現すると考えているのです。
多くの人は苦しみを嫌います。
退屈なこと、嫌なこと、消沈することを恐れているのです。
苦しみによって不幸が実現すると考えているのです。
残念ながら、どちらの考えも偏見に満ちています。
喜びによって幸福は得られません。
苦しみによって不幸を得ることもないのです。
それは、この世界には、陰陽の仕組みが存在しているからです。
どのような状況にも、陰陽の仕組みが存在するのが自然です。
都合の良いこともあれば、都合の悪いこともあるのが自然なのです。
都合の良いことばかりであれば不自然です。
都合の悪いことばかりでも不自然なのです。
多くの人が陥(おちい)っているのは、偏ることによって実現する不自然な世界であるのです。
自然にこそ幸福は存在しています。
自然とは、陰陽のすべてが存在している状態です。
そのため、都合の良いことばかりを優遇し、都合の悪いことを冷遇するのであれば、自然を生きることはできないのです。
都合ばかりを考えている者には、幸福は得られません。
自分にとって都合の良いことばかりを求めているのであれば、人は不幸を得るのです。
喜びによって幸福を得ることはできません。
喜びも苦しみも同時に所有する必要があるのです。
あなたが自分にとって都合の良いことばかりを求めるのであれば、喜びの絶頂の時に、それに相応しい苦しみを導きましょう。
あなたが自分にとって都合の悪いことばかりを求めているのであれば、苦しみの果てに、それに相応しい喜びを導きましょう。
どちらにせよ、あなたが中立を得るように導きます。
人は、中立を生きなければならないのです。
積み上げれば崩します。
崩れたのであれば、積み上げさせます。
あなたには、相応しい中立を与えましょう。
すべての人には、分(ぶん)というものがあります。
あなたが、自らの分に相応するために”わたし”は働きます。
あなたは自らの分から逃れることはできません。
弁(わきま)えなければなりません。
贅沢が過ぎてはなりません。
質素が過ぎてもなりません。
健全は、贅沢と質素の中立に存在しているのです。
ただ、前向きではなりません。
ただ、後ろ向きでもなりません。
建設的でありながら、破滅的でなければなりません。
すべてを大切にした時にだけ、幸福は訪れます。
偏見に従ってはなりません。
偏見を手放し、中立を保ちましょう。
そこに幸福があるのです。

2017年6月11日日曜日

問題と存在意義

この世界における一切には、大切な意味があります。
どのような存在も、意味を以(もっ)て存在しているのです。
不要な存在はありません。
無駄な存在はないのです。
すべてが大切な役割を担い、すべてに価値があるのです。
あなたはそのことを覚えておかなければなりません。
多くの人は、ものの価値を見失っています。
すべてに意味があるということを忘れているのです。
それは、人がその弱さ故(ゆえ)に都合を重視するからです。
多くの人は、自分にとって都合の良いものに価値を見出します。
自分にとって都合の悪いものには価値を見出すことをしません。
そのため、この世界には価値と無価値、意味と無意味が生じるのです。
しかしながら、そのような矛盾は存在しません。
自分の都合によって価値の無いように思えるものにも、大切な価値があります。
無意味に思えるものにも意味があるのです。
それを理解するためには、全体性を理解する必要があります。
全体性を理解することがなければ、すべてに大切な意味があることを理解することはできないのです。
例えば、自然界には無意味なものはありません。
無意味に思えるのは、その働きを理解してはいないからです。
全体を俯瞰(ふかん)した時、その繋がりを知ることができるでしょう。
しかしながら、無意味に思えるものを部分的に見ている時には、他との繋がりを知ることができません。
他との繋がりを知ることができなければ、その意味を理解することはできないのです。
機械には、不要な部品はありません。
必要であるために、その部品が備わっているのです。
自分の都合によって、その部品を取り除いてしまえば、問題が生じてしまうのです。
その機械には、その部品が必要なのです。
都合とは、感情に過ぎません。
感情とは、思考の作用です。
思考とは、主観です。
それは、偏見に過ぎないのです。
偏見によって、ものの意味や価値を見出すことはできません。
偏見に頼らず、全体を俯瞰する必要があるのです。
そうすることによって、あなたは人生の意味や価値を見出すことができるのです。
すべての人には、存在意義があります。
あなたという存在は無意味でも、無価値でもないのです。
大切な意味と価値を持っているのです。
それは、問題を解決することによって見出すことができるでしょう。
人の存在意義は、問題を解決することにあるのです。
人は、何かしらの問題と向き合い、それを解決することによって存在意義を見出すのです。
すべての人が問題を抱えています。
大なり小なり問題はあるのです。
自分の問題もあれば、他者の問題もあります。
社会の問題もあれば、人類の問題もあるのです。
そのため、問題がなくなることはありません。
あなたは常に、問題と共に生きているのです。
それは重要なことです。
問題と向き合い、それを解決することによって存在意義を見出すことができるのです。
言い方を変えれば、問題によって充足を得ることができるということなのです。
多くの人は、偏見によって自分の都合を優先します。
偏見に従えば、問題は抱えない方が価値があるのです。
しかし、本当にそうでしょうか?
問題に価値を見出すことができないというのであれば、改めて現状を俯瞰してみましょう。
偏見に従っている人が、どのような現状を生きているのかを観察してみましょう。
そうすれば、自分がどうするべきなのかを知ることができるでしょう。
あなたが豊かさを必要としているのであれば、何かしらの問題に向き合い、それを解決するために尽力しましょう。

2017年6月10日土曜日

摩擦

あなたは、自分の道を進み続けなければなりません。
自分の道とは、理想の道のことではありません。
あなたの心の奥底から導かれる欲求によって実現する現実の道です。
現実の道こそが自然の道なのです。
あなたの目の前の現実は、あなたにとっての必要であり、あなたは常に自然の道に誘(さそ)われています。
しかしながら、多くの人は理想の道を歩みたがります。
それは、思考が導く欲求によって実現される不自然な道です。
思考とは、教育によって形作られた楼閣(ろうかく)です。
それは、砂上に建設されているのです。
多くの人が思考に従って理想を追い求めます。
しかしながら、それは不自然な道であるために、最終的には崩れ去ります。
理想を追い求めて残るのは、苦悩だけなのです。
人は自然の産物です。
あなたは、自然の存在なのです。
それを教育によって歪めてはなりません。
教育とは、人が自然を知るためにあるべきなのです。
自然とは、自分らしく在るということです。
人は教育によって、理想を手放し、現実と向き合うべきなのです。
現実と向き合うために教育があるのです。
不自然な理想を追うために教育があるのではありません。
履き違えてはならないのです。
現実には多くの壁が存在します。
例えば、他者という障壁が存在するのです。
人が自然を生きるためには、他者との摩擦(まさつ)を避けることはできません。
それは、通過儀礼(つうかぎれい)のようなものです。
人が不自然を離れ、自然を得るためには、様々な壁を乗り越える必要があるのです。
様々な他者との関わりによって、多くのことが制限されます。
他者によって状況が築かれ、他者によって環境が築かれます。
あなたが自然を生きるためには、他者という障壁を乗り越える必要があります。
しかしながら、他者とは別の存在ではありません。
他者とは、自分自身なのです。
自分自身を反映しているのが他者です。
あなたは他者によって自分自身を体験するのです。
あなたの道を邪魔する相手は、自分自身の内に存在する障壁を現しているのです。
自分自身の内に、自然を生きるための邪魔が存在しているために、他者を通じてそれを教わっているのです。
多くの人が、自分自身の問題を他者の責任としているのです。
自分が自然を生きられないのは、自分の責任です。
自分自身が弱いために、自然を生きられないのです。
あなたは、自分自身の弱さと向き合い、それと闘わなければなりません。
他者と争ってはなりません。
自分自身と闘うのです。
多くの人は摩擦を嫌います。
しかしながら、自然を生きるためには摩擦は避けられません。
何があっても突き進む覚悟がなければ、自然を生きることはできないのです。
闘いを恐れてはなりません。
他者と争うのではありません。
自分自身の弱さと向き合うのです。
そのため、敵は存在しません。
敵が存在しないのであれば、恐れる必要はないのです。
摩擦とは苦しみです。
しかしながら、人は摩擦によって前進することができます。
苦しみが存在しなければ、あなたは前進することができないのです。
苦しみに向き合い、自分の道を切り開きましょう。
他者からの承認(しょうにん)を求める必要はありません。
誰からも認められる必要はないのです。
認めてくれる人もいれば、認めてくれない人もいて良いのです。
それが自然です。
あなたは、自分の道を進み続けなければなりません。
どのような壁も乗り越えて、自分(自然)に成りましょう。

2017年6月9日金曜日

引き際

すべての状況には、引き際というものが存在しています。
あなたは、引き際を弁(わきま)えなければなりません。
それは、すべての状況が出入り口によって繋がっているからです。
状況には区切りが存在します。
この世界には、始まりがあれば終わりがあるのです。
始まったものは必ず終わります。
終わったものは必ず始まります。
状況は始まりと終わりを繰り返しているのです。
始める時には、終わる時のことを考えておく必要があります。
始まった状況がいつでも終わることができるように心を決めておかなければならないのです。
始まった状況が終わることを恐れ、それに執着してはなりません。
始まった状況は終わるのが自然だからです。
自然の流れを塞き止めれば、不自然が導かれます。
不自然は問題を生じさせ、苦悩を導くのです。
始まった状況は終わらなければならないのです。
終わりが訪れたのであれば、それを受け入れましょう。
しかしながら、多くの人が執着します。
始まった状況を終わらせたくないのです。
しかしながら、終わりが訪れているにもかかわらず、その状況に執着しているのであれば、状況は不自然を導きます。
執着する程に問題は増え、苦悩は膨(ふく)らむのです。
しかしながら、多くの人は幸福を求めています。
引き際を弁えず、一つの状況に執着するにもかかわらずに幸福を求めているのです。
それは、無謀(むぼう)です。
一つの状況に執着した上で幸福を実現することはできません。
幸福を実現するためには、引き際を弁え、状況に終わりを導かなければならないのです。
状況が終わるということは、新たに始まるということです。
それは、変化であり、幸福なのです。
多くの人は失うことを恐れています。
しかしながら、失うことは良いことだと知る必要があるでしょう。
抱え切れない程に荷物を所有する必要はないのです。
新たな荷物を抱えるためには、古い荷物を手放さなければならないのです。
あなたは引き際を弁えましょう。
引き際は、絶頂に訪れます。
山の頂上に到達したのに、それよりも登ろうとしても意味がないのです。
頂上に到達したのであれば、そこから下るという選択が必要なのです。
頂上に到達したのであれば、そこでだらだらと時を過ごしてはなりません。
引き際を弁えなければ、時が腐ってしまうからです。
時が腐れば、多くの問題を抱えることになるでしょう。
あなたは一箇所に長居してはなりません。
新たな状況を求めて歩みを進めるのです。
人生において、時間程の価値はありません。
時間がなければ、何もできないのです。
時間とは、変化の中に活性します。
執着は、時間を腐らせるのです。
山の頂上に到達すれば、直ぐに下山し、次の山に登りましょう。
多くの人は、下山した時が終わりだと思っています。
しかしながら、登頂した時から終わりが始まっているのです。
腰を重くしてはなりません。
あなたは直ぐに行動できるように荷物を軽くしておきましょう。
機動力が重要なのです。
状況に大して対応する力に乏しければ、停滞の中に腐ってしまうでしょう。
問題に苦悩している人は、機動力を損ない、停滞の中に腐っているということなのです。
執着を手放し、変化を受け入れましょう。
絶頂で引くことを忘れてはなりません。

2017年6月8日木曜日

善悪の基準

多くの人は、苦しみを否定します。
多くの人が、苦しみを悪いものだと考えているのです。
それは、喜びを善いものだと考えているからです。
喜びを善と考えているために、相対的に苦しみが悪となるのです。
多くの人にとって、苦しみは悪であり、喜びは善です。
多くの場合、そのような価値観に固着しています。
しかしながら、それは安易な考えに過ぎません。
大切なのは、どのような価値観も再考し続けることです。
あなたは、自分が未熟であり、無知であるということに気が付いているでしょうか?
多くの人は自分が未熟であり、無知であるということに気が付いていません。
多くの人は、自分が正しいと思い込んでいるのです。
そのため、価値観を再考することはなく、既存の考えに追従(ついじゅう)します。
それは、苦しみが悪であり、喜びが善という価値観です。
重要なのは、善悪の基準がどこにあるのか?ということを考えることです。
あなたは、善悪の基準がどこにあるのか?を考えたことがありますか?
善悪の基準がどこにあり、誰が決めているのでしょうか?
多くの人が、それは自分で決めていると考えています。
確かに、善悪の基準は自分の中に存在し、それを決めるのは自分です。
しかしながら、多くの人は自分が未熟であり、無知であるということを知りません。
そのため、正しい自分の下す決断は正しいと思い込んでいるのです。
残念ながら、多くの人が自分で決断してはいません。
未熟であり、無知である者は、他者や教育によって影響を受け、それが善悪を判断しているということに気が付かないのです。
他者や教育によって決断しているにもかかわらず、それを自分が決断したと思い込んでいるということなのです。
あなたの判断は、他の多数の人々と大して異なりません。
あなたは周囲の他者と同じように考え、同じように選択するのです。
あなたは周囲の他者と共感し、互いに同情することができるのです。
それは、善悪の基準が同じであるということの証明です。
善悪の基準が同じであるために、仲間として足並みを揃(そろ)えることができるのです。
それはとても善いことでしょう。
敵対するよりは、親睦(しんぼく)を深める方が善いでしょう。
しかしながら、一つの価値観に固着しているのであれば、必ず問題が生じます。
停滞とは、乏しさの原因であり、苦悩の引き金であるからです。
人は、変化を義務付けられているのです。
苦しみを悪とし、喜びを善とする価値観に固執(こしゅう)しているのであれば、問題と苦悩が導かれます。
どのような価値観にも停滞してはならないのです。
苦しみを悪とし、喜びと善とする価値観を得たのであれば、次は苦しみを善とし、喜びを悪とする価値観を育む必要があるのです。
人が変化を受け入れるというのは、善悪の基準を改めるということでもあるのです。
あなたは価値観を再考しなければなりません。
苦しみを悪として否定しているのであれば、その苦しみにも縁があるということを知りましょう。
苦しみから逃れる方法ではなく、どう苦しむかを考えるのです。
喜びを絶対的な善として決め付けるのであれば、喜びによって苦悩の餌食(えじき)となるでしょう。
人の価値観に絶対というものはありません。
それは、善悪の基準を柔軟に移動するものなのです。
変化し続けるのが自然です。
善悪の基準が固着するのは不自然なのです。
苦しみを否定しているのであれば、苦しみを受け入れてみましょう。
喜びを受け入れているのであれば、喜びを否定してみましょう。
そうすれば、問題を解決し、苦悩を離れ、豊かさを得ることができるでしょう。
善悪の基準が不自然である時、人は苦しむようになっているのです。
誰かや何かによって苦しんでいるのではありません。
自らの未熟さと無知によって苦しんでいるのです。
あなたは、善悪の基準が生体的であることを知りましょう。
それは決して固着しません。
善悪の基準を変化させることに戸惑いを覚えるでしょうが、固着しないように注意しましょう。

2017年6月7日水曜日

初めと終わり

人生は、豊かさを増すのが自然です。
人生が乏しくなるのは自然なことではありません。
豊かさには様々な形があり、偏見を以(もっ)て判断してはなりません。
資産が増えたから豊かな訳ではありません。
有名になったから豊かな訳ではありません。
健康であるから豊かな訳ではありません。
知識が増えたから豊かな訳ではありません。
人間関係が広がったから豊かな訳ではありません。
愛する誰かと共に過ごすから豊かな訳ではありません。
欲しいものを手に入れたから豊かな訳ではありません。
理想を実現したから豊かな訳ではないのです。
豊かさとは可能性です。
可能性とは変化なのです。
可能性に向かって変化し続ける人生こそ自然であり、豊かであるということを知らなければならないでしょう。
変化には、建設的な方向性と、破滅的な方向性があります。
多くの人は、建設的な変化を豊かさだと理解し、破滅的な変化を乏しさだと理解します。
しかしながら、豊かさとは変化そのものです。
停滞することが乏しさなのです。
建設的な変化だろうが、破滅的な変化であろうが、変化は豊かさであるのです。
多くの人は誤解しています。
そのため、自分にとって都合の良いことばかりを願っているのです。
資産が増えることを豊かさだと考えている者は、それが増え続けるか減らずに停滞することを豊かさだと考えるでしょう。
有名になることを豊かさだと考えている者は、名声が轟(とどろ)くことや、忘れられないでいることを豊かさだと考えるでしょう。
健康な者も、知識が増えた者も、人間関係が広がった者も、愛する誰かと共に過ごす者も、欲しいものを手に入れた者も、理想を実現した者も、同じように考えているのです。
失うことは乏しさではありません。
しかしながら、多くの人は恐怖に根差しているために理解することができません。
多くの人は、入れることや増やすことを考えています。
しかしながら、それをどう出すか?どう減らすか?ということは考えていないのです。
入れることは大切ですが、出すことはより大切です。
消化されない物、排出されない物を飲み込んでしまえばどうなるでしょうか?
簡単に想像することができるでしょう。
出すこと、減らすことを考えずに、入れても増やしてもならないのです。
それは自然のことなのです。
自然を考えることができず、不自然に陥っているために、苦悩が導かれます。
変化こそが自然であり、豊かさであるにもかかわらず、それを理解することができないのです。
あなたは、どうやって積み上げるのか?と考える時に、どうやって解体するのか?ということを同時に考えていましょう。
入れ方を考える時には、出し方も考えておかなければなりません。
生まれたのであれば、死に方を考える必要があるのです。
多くの人が自分に理解することしか受け入れることができません。
それは、豊かさの本質を理解してはいないからです。
多くの人が都合の良い変化によってのみ、豊かさを得ようと企(たくら)んでいます。
しかしながら、あなたに都合の良いものが、豊かさであるはずがないのです。
あなたは自分に理解することしか受け入れることのできない詰まらない人間になってはなりません。
可能性を見出すことができない人間ほど、退屈なものはありません。
可能性の存在しない人生は、乏しいのです。
不自然なあなたの都合の良いように進めば、人生は必ず乏しさを得ます。
あなたが自分の都合の良いように操作しようとした結果が現状なのです。
あなたは人生に豊かさを感じていますか?
目の前に変化が存在しているでしょうか?
小さな変化でも構いません。
何かを失っても構いません。
変化と共に生きることが大切なのです。
見た目に騙(だま)されてはなりません。
既成概念(きせいがいねん)や周囲の人に騙されてはなりません。
常識を疑いましょう。
変化と共に生きれば、道を誤ることはありません。

2017年6月6日火曜日

完全燃焼

人生とは、長い旅路です。
人生を短絡的に考えてはなりません。
人生に対して、全体性を失っては、その判断を誤ることになるのです。
人生とは、全体です。
人生における部分的な状況や時期を取り出し、それを人生だと考えてはならないのです。
多くの人は、部分的な状況や時期を人生だと思い込んでいるのです。
人生は、最後まで判断することはできません。
部分的な情報によって判断することができるほど、人生は単純なものではないのです。
残念ながら、あなたは”今”にしか生きることができません。
過去も未来も幻想であり、錯覚です。
過去や未来はどこにも存在しません。
あなたが過去や未来を強く求めたとしても、それを生きることはできないのです。
あなたに与えられているのは”今”という時(空)間だけなのです。
人は”今”という視点しか持ちません。
人が認識することができるのは”今”という限定的なものなのです。
そのため、人は部分的な視点に捕われてしまいます。
部分的な視点に捕らわれるために、短絡的に考えてしまいます。
また、部分的な視点に捕らわれるために、過去や未来を妄信(もうしん)しているのです。
大切なのは、”今”という限定的な視点の連なりを知ることなのです。
人生は、”今”の連続に過ぎません。
あなたの臨終(りんじゅう)まで、”今”は連続します。
そこには、過去も未来も存在しません。
あなたが体験しているのは”今”という現実です。
過去や未来は妄想なのです。
あなたは”今”という現実に生き、そこに連続性を見出す必要があるのです。
多くの人は、現実と妄想を織り交ぜます。
そのため、人生は”今”の連続であるにもかかわらず、短絡的な判断を下してしまうのです。
多くの人は簡単に諦めてしまうでしょう。
人生を短絡的に考えている人は、持続力を得ません。
人生を短絡的に考え、妄想を抱いているために、絶望を覚えてしまうのです。
実際には、人生は最後まで判断することができません。
そのため、絶望する必要も、諦める必要もないのです。
多くの人は、勝手な判断によって継続を投げ出します。
多くの人は、火種が急に燃え上がることを知らないのです。
燻(くすぶ)っている時には、煙が立ち込めます。
それは、目に刺さり、肺を焼きます。
多くの人は、その苦しみに耐えられないのです。
しかしながら、炎が燃え上がるためには、燻(くすぶ)る必要があるのです。
燻っている火種を育むことによって、炎が燃え上がるのです。
多くの人は短絡的な考えに従っています。
そのため、煙を嫌って、その場を離れます。
そして、火種は消えてしまうのです。
多くの人が簡単に諦めています。
あなたは何のために生まれたのでしょうか?
何のために生きているのですか?
人生の意味を考えなければなりません。
何も成し遂げず、燻って死んでいくのであれば、それでも良いでしょう。
しかし、そんなことのために生まれたのでしょうか?
有名に成れと言っているのではありません。
自分がやりたいことや決めたことなら、飽きるまでやり尽くせと言っているのです。
惨(みじ)めな気持ちで諦めてはならないのです。
満足して諦めなければならないのです。
完全燃焼によって満足することができます。
燻っている不完全燃焼であれば悲惨です。
あなたには、自分がやりたいことがあるはずです。
無いとは言わせません。
自分を偽ってはなりません。
判断を急がず、困難に会っても怯(ひる)まず、やりたいことをやり尽くしましょう。

2017年6月5日月曜日

観念の家

人生は、観念によって築かれます。
あなたの人生は、あなたの観念の形そのものなのです。
すべての人の人生が、所有する観念に起源します。
人は、観念を離れた人生を生きることはできません。
人が人生において経験する状況は、その観念に相応しいものに収まるのです。
どのように努めようとも、人生が観念を離れることはありません。
どのような画策も意味を成しません。
すべては、観念に従っているのです。
この世界には、因果の仕組みが存在しています。
原因に相応しくない結果を得ることはできないのです。
人生の原因は観念です。
それは、あなたの思考も行為も観念に起源しているからです。
あなたは、自らの所有する観念に従って思考し、行為します。
それ以外の選択を導くことはできないのです。
あなたは、自らの人生が観念に従っているということを知りましょう。
そして、物事に対する直接的な手法を改めなければならないのです。
例えば、金銭を求めて賭博(とばく)に努めたり、盗みを働くようなことがあってはならないのです。
金銭を必要とするのであれば、その金銭を受けるに相応しい自己を形成する必要があります。
器が無ければ、受けることができないのです。
金銭を求めるのであれば、誰かや社会に貢献する働きを導く観念を育む必要があるのです。
間接的な手法とは、本質的な手法です。
直接的な手法は、表面をなぞるだけなのです。
浅はかな観念を所有する者は、物事に対して直接的な手法を用います。
それは、知らないからです。
無知な者は、間違える以外に方法はないのです。
大切なのは、観念を育むことです。
観念は、未知の知識と経験によって育まれます。
観念を育みたければ、知らないことを学ばなければならないのです。
多くの人は、既存の観念に止まります。
多くの人は、学ぶ意欲を持たないのです。
多くの人は、未知を恐れます。
多くの人は、既存の観念によって築かれる人生に満足して(もしくは諦めて)いるのです。
残念ながら、変化を受け入れることができなければ衰退(すいたい)します。
既存の観念に止まることは、苦悩を意味しているのです。
多くの人は苦悩を嫌います。
しかしながら、変化を嫌うのです。
矛盾は苦悩なのです。
あなたは知らない観念を求めなければなりません。
その観念が変化し続ける必要があるのです。
変化しない観念を喜ぶ者と共に衰退してはなりません。
学ぶ意欲のない者と止まってはなりません。
変わりたくない者は見捨てましょう。
それ以外に方法はありません。
人は、相応しい場所を得るのです。
観念の異なる者を無理矢理に引き連れていくことはできません。
すべての人が理解し合うことはできません。
人は、観念によって区分されるのです。
ただし、どのような他者も軽んじてはなりません。
観念が異なるということは、隣人(りんじん)と付き合うことと等しいからです。
隣家(りんか)には隣家の観念があります。
それが異なっていても良いのです。
しかし、共に住むことはできません。
人は、観念という家に住んでいるということを知りましょう。

2017年6月4日日曜日

空虚の役割

すべての人の心には、空虚が存在しています。
空虚を所有しない人の心はありません。
どのような人物であろうとも、心の中に虚しさを抱えているのです。
多くの人は、都合の良いものを重要視しています。
自分にとって都合の悪いものを軽視します。
多くの人にとって、空虚は不都合です。
それは、恐怖の感情に繋がっているからです。
人は恐怖の感情を嫌います。
それに属する怒りや悲しみ、寂しさや虚しさを嫌うのです。
恐怖の感情は不都合であり、それを否定します。
多くの人は、空虚を否定するために、それを埋めようと努めるのです。
多くの人が空虚を悪いものだと考えています。
そして、それを誰かや何かを利用することによって目を逸(そ)らしているのです。
空虚に向き合うことは簡単なことではありません。
それは、多くの人がそれを悪いものだと決め付けているからです。
都合の良いものばかりであれば、豊かさは導かれません。
豊かさは、あなたの都合に従っては成り立たないのです。
寧ろ、あなたにとって都合の悪いものによって、豊かさは導かれるでしょう。
それは、あなたが未熟であり、歪んでいるからです。
この世界は、様々なものが複雑に関連しています。
複雑に関連することによって、豊かさが導かれる仕組みとなっているのです。
未熟であり、歪んでいる者には、そのことが理解できません。
そのため、不都合を否定して豊かさを得ようとしているのです。
しかしながら、その行為は矛盾を導きます。
豊かさとは、好都合と不都合の関連によって導かれるからです。
未熟者は、全体の一部を理解するにとどまります。
そのため、判断を誤るのです。
大切なのは、全体を見極めることです。
自らの理解することができる一部分を切り取って、理解したと思い込んではなりません。
都合の良いものも、都合の悪いものも、同時に存在して良いのです。
好都合と不都合が同時に存在しているのが自然なのです。
そのため、人の心に空虚が存在することは自然です。
あなたはそれを否定し、誰かや何かによって無理に埋めようとしてはなりません。
空虚には空虚の役割があります。
その力を活用する必要があるのです。
心が虚しい時は良いのです。
空虚は、未知の発想を導くことができるからです。
心の中に何も無ければ、あなたが捕らわれることはありません。
空虚は可能性を見出すということを覚えておきましょう。
心が何かで満たされていれば、既知を延長した発想しか導くことができないのです。
心の中に何かが有れば、あなたは捕われてしまうでしょう。
満足は可能性を見失うということを覚えておく必要があるのです。
満足は、停滞です。
満足することは大切ですが、それを続けてはなりません。
満足とは、旅路の休息のようなものだからです。
休息を続ければ、旅路を進むことはできないのです。
人は不足(虚しさ)によって先を進むことができるのです。
多くの人は空虚を嫌います。
そのために、何かに捕われ、停滞するのです。
満足とは思い込みであり、錯覚(さっかく)に過ぎません。
休む時間よりも、歩む時間が多くなければなりません。
空虚こそが、あなたの足なのです。
安易に空虚を嫌ってはなりません。
心の中を何かで満たそうと慌ててはなりません。

2017年6月3日土曜日

無い物ねだり

人生においては、誰一人満たされることはありません。
誰も、真の満足を得ることはできません。
誰もが不足を抱え、それが満たされることはありません。
すべての満足は偽の満足に過ぎません。
人は常に不足を抱えているのです。
あなたはそのことを覚えておきましょう。
すべての人は不足を満たすために行動します。
行動することによって、不足は満たされます。
それによって一時的な満足を得ることはできます。
しかしながら、別の不足が生じます。
そして、その不足を満たすために行動するのです。
人生とは、その作業の繰り返しです。
人は、生涯を通じて未熟な存在であり続けるのです。
あなたは決して不足を手放すことはできません。
それは、人生の目的が成長にあるからなのです。
成長するということは、不足を満たすということです。
不足を満たす過程において、成長が実現します。
そのため、人は生涯を通じて満たされることはないのです。
それで良いのです。
もしも、真の満足を得ることができれば、人生に意味はありません。
真の満足を得ることによって、あなたは生きる理由を失うのです。
あなたが得ることができるのが偽の満足であるために、生きる理由を失わずにいられるのです。
あなたが生きているのは、満足してはいないからです。
中には、満足していると思い込んでいる人もいるでしょうが、残念ながら、それは真の満足ではないのです。
それは、あなたの内に存在する欲求が教えてくれます。
あなたは、常に不足を感じていることでしょう。
より良いものを求めているに違いありません。
無いものを欲しがるのです。
人の不足は、無い物ねだりです。
何を得ようとも、自分に無いものを欲しがるのです。
人はそれぞれに特別な能力や魅力を持っています。
人は、それぞれに個性を所有しているのです。
個性とは限定的であり、その能力や魅力は偏っているのが自然です。
そのため、人は常に全体の一部しか所有することはできません。
しかしながら、そのことに気が付かないのです。
人は、多くを欲しがります。
自分の所有に満足することができないのです。
そのために、無い物ねだりに陥(おちい)るのです。
無い物ねだりに陥れば、自分の所有を軽んじます。
それは、自分の個性である、能力や魅力を軽んじることになるのです。
自分の個性を否定するのであれば、偽の満足ですら失うことになるのです。
人がどれだけ努めても、真の満足を得ることはできません。
真の満足とは、全体的な満足のことです。
あなたはすべてを満たすことはできないのです。
あなたが得られるのは、部分的な満足だけです。
それが自然なのです。
人は、部分的な偽の満足を得ることしかできません。
すべてを満たせると考えてはなりません。
できることもあれば、できないこともあります。
それで良いのです。
不満と満足を同時に所有しましょう。
何もかもを得られると考えてはなりません。
あなたは常に全体の中から一部を与えられるのです。
自分の所有に満足しましょう。
あなたが得られるのは、偽の満足です。
それを忘れてはなりません。
一部が満たされていれば良いのです。
無い物ねだりに陥らないように注意しましょう。

2017年6月2日金曜日

競争

人は、それぞれの人生を生きています。
あなたは、他の誰の人生も生きることができません。
あなたは、あなただけの人生を生きるのです。
他者は、他者の人生を生きます。
それが自然なのです。
多くの人は、自分の人生と他者の人生を混同して考えます。
自分が他者の人生を、他者が自分の人生を生きることができると考えているのです。
しかしながら、あなたは自分の人生を生きる以外に方法はありません。
すべての人にとって、自分の人生こそが現実なのです。
現実を離れて生きることのできる人はいないのです。
あなたは常に現実と向き合うのです。
あなたが生きているのは、自分の人生であるということを自覚しましょう。
あなたは、自分のことを考えなければなりません。
自分が何のために生きているのか?ということを考える必要があるのです。
多くの人は、人生について考えません。
自分が何のために生きているのか?という問いに答えを持ち合わせている人は少ないのです。
あなたは答えることができますか?
あなたは何のために生きているのですか?
限定的には答えることもできるでしょう。
例えば、欲求を満たすために生きているのです。
多くの人は、欲求を満たすために生きています。
生存のための欲求を満たすために生きているのです。
胃袋を満たし、安心して眠り、仲間を増やし、子孫を残す・・・
不足しているものがあれば、それを満たすために生きるのです。
しかしながら、それ等が満たされても人生は続きます。
もちろん、満たされることがなくても続くのです。
生存のための欲求が満たされたところからが、人生の本番であるのです。
人は、生存のための欲求に突き動かされて年齢を重ねます。
しかしながら、大抵の場合、その欲求は満たされるのです。
そして、自分が何のために生きているのか?という問いに向き合うことになるのです。
残念ながら、あなたは生存の欲求を満たすために生きているのではありません。
安全な暮らしが実現することによって、人は迷いを見出すのです。
生存の欲求が不足していた時には、人は競争の中に生きることになります。
安全な暮らしが実現しない間は、人はそれを奪い合うのです。
多くの人は自分と他者を比較することによって優劣を定めます。
他者を競争に巻き込むことによって、自尊心を保っているのです。
自分が満たされるためには弱者である他者が必要なのです。
多くの人は、自分よりも不幸な相手を探しているのです。
しかしながら、その方法は矛盾を導きます。
それは、これが自分の人生であるからです。
他者との比較によって得られる満足など、真実ではないのです。
あなたは、他者と比べられるものを誇(ほこ)ってはなりません。
自分と他者を比べている間は、成長することはありません。
それは、自分の人生を生きてはいないからです。
多くの人が他者と競争し、優劣を決めようとしています。
それは、同じ市場で客を奪い合うようなものなのです。
そこには成長はないのです。
あなたは自分が何のために生きているのか?という問いを持ち続けましょう。
そうすれば、他者との比較と競争を手放すことができるでしょう。
あなたは生存のために生きてはなりません。
この世界はあなたを生かしてくれます。
あなたは死を迎えるまで生き続けるのです。
既に満たされている生存に対して尽力してはなりません。
生まれてきた理由に対して力を尽くすのです。

2017年6月1日木曜日

人間の劣化

人生が思い通りに進むことほど、大きな問題はありません。
あなたが危惧(きぐ)しなければならないのは、物事を思い通りに進ませようとする傲慢(ごうまん)さであるのです。
人生を思い通りに進ませようと試みる者は多いのです。
多くの人は、導かれる現状に対して不満を抱き、文句を吐きます。
多くの人が、現状を否定するのです。
それは、現状が思い通りに進んではいないからです。
傲慢に陥(おちい)った者にとっては、思い通りに進まない状況が許せないのです。
多くの人は、理想を最善だと思い込んでいます。
それは、人生というものを知らないからです。
あなたは人生を俯瞰(ふかん)する必要があります。
人生を俯瞰した時には、思い通りに進まないことが自然であるということに気が付くこともできるのです。
しかしながら、懸命に生きる者にとっては、人生の自然の姿を知ることはできません。
そのため、思い通りに進むという不自然を求めるようになるのです。
今までに一度でも人生が思い通りに進んだことがありますか?
残念ながら、そのようなことは一度もなかったはずです。
あなたの理想は実現することはなく、目の前には常に思い通りには進まない現実が導かれているはずなのです。
それが自然です。
あなたは人生の意味を考えなければなりません。
傲慢に陥った者にとっては、難しい問いです。
それは、自己中心的な視点に捕らわれているからです。
人生の立場から自分を俯瞰することができないのです。
思い通りに進まない現実が導かれるということは、それを導いている存在がいるのです。
因果律(人生)こそがあなたに現実を導いているのです。
残念ながら、あなたは未熟です。
そして、無知なのです。
あなたは自分自身のことを知らなければ、人生の意味も知らないのです。
あなたはそのような者に主導権を渡すでしょうか?
道を知らない者に道案内をさせる者はいないのです。
あなたは人生の最善を知りません。
しかしながら、因果律(人生)はそれを知っているのです。
最善の道程を進み、目的地に辿り着くためには、先導者に従う必要があるのです。
傲慢に陥り、思い通りに進もうとする者は、最善の道程を失います。
それは、目的地に辿り着くことができないということを意味しているのです。
目の前で先導者が導いてくれているのに、それを否定するのは愚行(ぐこう)なのです。
現実を否定し、理想に逃避するということは、最善の道程を否定し、遭難(そうなん)することになるのです。
思い通りに進むことが最善だとする価値観を手放しましょう。
仮に、思い通りに進む状況が導かれたとすれば、その状況は人を劣化させるのです。
傲慢を許された者は大きく道を迂回(うかい)し、怠慢(たいまん)に陥り、醜態(しゅうたい)を晒(さら)すことになるのです。
目的地は成長ですが、迂回路の終点は苦悩なのです。
あなたは思い通りに進まないことを大切にしなければなりません。
自分が正しいなどと思い込んではならないのです。
思い通りに進まない状況を辛抱して努力するのです。
自然界には、思い通りに進むことなどありません。
自然界には謙虚(けんきょ)さが存在しているのです。
そのため、それぞれが与え合いながら共存しているのです。
人間だけが傲慢さによって不自然な世界を築いているのです。
人間だけは奪い合って対立しています。
理想への願望を手放しましょう。
人生が思い通りに進まなくても良いのです。
そうすれば文句を吐く必要もないでしょう。
文句を吐く必要がなければ、苦悩する必要もないのです。
人間の劣化を喜ぶものではありません。
あなたは劣化を受け入れてはなりません。
人生を思い通りに進ませるような愚行に捕らわれてはなりません。
先導者を無視して、道を迂回してはなりません。