人の判断は、そのすべてが推測(すいそく)です。
すべての人が推測で判断しているに過ぎません。
誰も、何も知らないのです。
あなたは、自分が何者であるのかを知っていますか?
あなたは、人生が何のためにあるのかを知っているのですか?
誰も、自分が何者であり、人生が何のためにあるのかを知りません。
自分のことも、人生のことも知らないのです。
この根本的な問いに答えを持たないのです。
それは、何も知らないのと同じです。
何も知らない者の判断は、そのすべてが推測の域を脱しないのです。
あなたは、自分が正しいなどと思い上がってはなりません。
自分の判断が正しいなどと思い込んではなりません。
あなたは決して正しくなく、あなたの判断も正しくないのです。
もちろん、他者が正しいこともありません。
他者の判断が正しいこともないのです。
すべての人が未熟であり、すべての判断は推測なのです。
多くの人は自分が正しいと思い込んでいます。
もしくは、尊敬する他者を正しいと思い込んでいます。
多くの人は、誰かや何かに対して、それが正しいという偏見を所有しているのです。
その偏見は執着を生み出します。
多くの人は、何かに執着しているのです。
偏見を所有しているのであれば、何かを正しく判断することはできません。
それは、必ず主観に導かれるからです。
主観に基づく判断は未熟です。
それこそが推測そのものなのです。
あなたには、正しいことは判断できません。
何が正しく、何が間違っているのかを判断することはできないのです。
何かを判断するには経験が不足し過ぎています。
経験不足では、価値判断はできないのです。
経験とは、直接的な体験です。
経験値は、自分で実際に体験することによって積むことができます。
自分で実際に体験したことがなければ、経験値を積むことはできないのです。
自分でやったこともないのに何が分かるというのでしょう?
自分でやってみた実際の体験によって、見えてくるものがあるのです。
多くの人は自分が正しいと誤解し、自分の判断は優れていると錯覚しているのです。
そして、偏見に執着するのです。
あなたは自分が正しい判断ができるなどと思い込んではなりません。
すべての判断が推測であることを前提にしておきましょう。
あなたにできることは、無数の推測の中から、最も本質的な推測を選ぶことだけです。
すべての判断が推測です。
しかしながら、多くの人はそれを嫌います。
どうしても、自分や尊敬する誰かが正しいと思い込みたいのです。
それは、哀(あわ)れな姿なのです。
我意(がい)を通すことしかできないのです。
あなたは何も知りません。
あなたの尊敬する他者も何も知らないのです。
すべての人が推測を話しています。
そのため、自分の意見にも、他者の意見にも余裕を以(もっ)て向き合いましょう。
正しい意見など存在しないのです。
あなたは、自分の意見も、他者の意見も真に受ける必要はないのです。
すべての人が何も知りません。
そのことを覚えておきましょう。
何かに執着する必要はありません。
その考えや価値観も、推測に過ぎないのです。
推測は覆(くつがえ)ります。
変化し続けることこそが重要なのです。
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