多くの人は、苦しみを否定します。
多くの人が、苦しみを悪いものだと考えているのです。
それは、喜びを善いものだと考えているからです。
喜びを善と考えているために、相対的に苦しみが悪となるのです。
多くの人にとって、苦しみは悪であり、喜びは善です。
多くの場合、そのような価値観に固着しています。
しかしながら、それは安易な考えに過ぎません。
大切なのは、どのような価値観も再考し続けることです。
あなたは、自分が未熟であり、無知であるということに気が付いているでしょうか?
多くの人は自分が未熟であり、無知であるということに気が付いていません。
多くの人は、自分が正しいと思い込んでいるのです。
そのため、価値観を再考することはなく、既存の考えに追従(ついじゅう)します。
それは、苦しみが悪であり、喜びが善という価値観です。
重要なのは、善悪の基準がどこにあるのか?ということを考えることです。
あなたは、善悪の基準がどこにあるのか?を考えたことがありますか?
善悪の基準がどこにあり、誰が決めているのでしょうか?
多くの人が、それは自分で決めていると考えています。
確かに、善悪の基準は自分の中に存在し、それを決めるのは自分です。
しかしながら、多くの人は自分が未熟であり、無知であるということを知りません。
そのため、正しい自分の下す決断は正しいと思い込んでいるのです。
残念ながら、多くの人が自分で決断してはいません。
未熟であり、無知である者は、他者や教育によって影響を受け、それが善悪を判断しているということに気が付かないのです。
他者や教育によって決断しているにもかかわらず、それを自分が決断したと思い込んでいるということなのです。
あなたの判断は、他の多数の人々と大して異なりません。
あなたは周囲の他者と同じように考え、同じように選択するのです。
あなたは周囲の他者と共感し、互いに同情することができるのです。
それは、善悪の基準が同じであるということの証明です。
善悪の基準が同じであるために、仲間として足並みを揃(そろ)えることができるのです。
それはとても善いことでしょう。
敵対するよりは、親睦(しんぼく)を深める方が善いでしょう。
しかしながら、一つの価値観に固着しているのであれば、必ず問題が生じます。
停滞とは、乏しさの原因であり、苦悩の引き金であるからです。
人は、変化を義務付けられているのです。
苦しみを悪とし、喜びを善とする価値観に固執(こしゅう)しているのであれば、問題と苦悩が導かれます。
どのような価値観にも停滞してはならないのです。
苦しみを悪とし、喜びと善とする価値観を得たのであれば、次は苦しみを善とし、喜びを悪とする価値観を育む必要があるのです。
人が変化を受け入れるというのは、善悪の基準を改めるということでもあるのです。
あなたは価値観を再考しなければなりません。
苦しみを悪として否定しているのであれば、その苦しみにも縁があるということを知りましょう。
苦しみから逃れる方法ではなく、どう苦しむかを考えるのです。
喜びを絶対的な善として決め付けるのであれば、喜びによって苦悩の餌食(えじき)となるでしょう。
人の価値観に絶対というものはありません。
それは、善悪の基準を柔軟に移動するものなのです。
変化し続けるのが自然です。
善悪の基準が固着するのは不自然なのです。
苦しみを否定しているのであれば、苦しみを受け入れてみましょう。
喜びを受け入れているのであれば、喜びを否定してみましょう。
そうすれば、問題を解決し、苦悩を離れ、豊かさを得ることができるでしょう。
善悪の基準が不自然である時、人は苦しむようになっているのです。
誰かや何かによって苦しんでいるのではありません。
自らの未熟さと無知によって苦しんでいるのです。
あなたは、善悪の基準が生体的であることを知りましょう。
それは決して固着しません。
善悪の基準を変化させることに戸惑いを覚えるでしょうが、固着しないように注意しましょう。
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