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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2016年11月30日水曜日

人は多くのものを求めます。
すべての人に欲求が備わり、それに翻弄(ほんろう)されているのが現状です。
それは不足を感じているためです。
不足は恐れから生じる感情です。
恐れているために不足を感じ、不足を感じているために求めるのです。
多くの人の人生とは、不足と欲求によって成り立っているのです。
人が恐れているのは、過去や未来を生きているためです。
”今”この瞬間には問題は存在しません。
問題が生じる場所は、過去と未来に限定されているのです。
あなたは問題について考察してみましょう。
そうすれば、問題の本質が恐れであるということを理解することができるでしょう。
恐れを手放せば問題も手放すことができます。
しかしながら、多くの人が恐れを手放せないでいるために、問題を抱え続けているのです。
一つの問題を解決したと思えば、次の問題が生じています。
問題は休むことなく生じ続け、人を苦しめるのです。
豊潤な土壌には草木が茂ります。
草木の種子はどこからともなく飛んで来て、土壌を覆うのです。
土壌が豊潤であるほどに、草木は茂り、大きく育つのです。
問題は、問題にとっての豊潤な心を好みます。
それは、ネガティブな感情に支配された心です。
問題の栄養となる感情は、不安、怒り、心配、悲しみ、傲慢(ごうまん)、怠惰(たいだ)、卑屈(ひくつ)、憐憫(れんびん)・・・
妄想的な感情はすべて、問題の栄養となります。
ネガティブな感情に支配された心を抱える人には、問題がやむことはありません。
そのような人は常に問題を抱えて苦しんでいるのです。
土壌が痩(や)せているのであれば、問題が茂ることはないでしょう。
ポジティブな感情に支配されている人の心には、問題は不毛なのです。
もちろん、ポジティブな心を持つ人も多くの問題を抱えてはいますが、それが肥え太ることはないのです。
問題に栄養を与えなければ、問題が大きく育つことはないと知りましょう。
あなたには問題があるでしょうか?
過去や未来に集中することをやめてみましょう。
過去がどうであったか?
未来がどうなるか?
そのような思考に価値はないのです。
あなたが過去や未来に集中することをやめれば、そこに問題は存在しないはずです。
あなたに不足はなく、恐る必要もないことに気が付くでしょう。
多くを求める人は、自らの器を知りません。
あなたは自らの器を所有しているのです。
器に合わせて何かを所有することができるのです。
あなたは、器に合わせたものがとどまるということを理解しましょう。
多くの人は自らの器を知りません。
そのため、笊(ざる)に水を貯えようと考えるのです。
しかしながら、笊に水の粒子は小さ過ぎるのです。
笊に水はとどまりません。
笊に水をとどめようと考えることが不足を覚えさせるのです。
自らの器が笊の形をしていることを知っていれば、それに水をとどめることが不可能であるということを理解することができます。
そうなれば、笊に水を貯えようとは思わないでしょう。
求めても求めなくても結果は変わりません。
あなたが求めても、祈っても、笊に水をとどめることはできないのです。
唯一の解決策は、笊にとどまるものを貯えることです。
それは、自らの考え方や態度を改めるということなのです。
あなたはどうしても水を貯えなければならないのでしょうか?
他人の器が陶器であり、水を貯えることができたとしても、その人には水が必要であっただけであり、あなたには必要ではないのです。
あなたの器が笊であれば、笊に貯えることができるものが必要であるということなのです。
多くの人が誤解しています。
多くの人が自らの器の形を知らないのです。
あなたがすべきことは、自らの器の形を知ることです。
残念ながら、自分を知ること以外に必要なことはありません。
自分を知るためには、”今”に生きなければなりません。
過去も未来も妄想に過ぎません。
なぜなら、そのようなものは存在しないからです。
厳密に言えば、そのような場所に存在することができないということなのです。
過去や未来に”逃避”することは現実的ではありません。
不足を考えることをやめましょう。
不足は過去や未来にこそ存在しているのです。
それは手の届かない場所だからです。
不足を考えるのであれば、”今”に生きることはできません。
あなたは、何が有るか?ということを考えましょう。

2016年11月29日火曜日

遠回り

あなたには、目の前で起きていることの意味が分からないでしょう。
あなたは何のためにその状況を経験しているのか?ということを理解しないままに経験しているのです。
あなたの理解は状況に追い付きません。
あなたが状況の意味を理解するのは、ずっと後のことなのです。
目の前の状況の意味を理解するためには、それを理解するための”材料”を集めなければなりません。
状況の意味を理解するための材料とは、知識と経験のことです。
知識と経験は、あなたに知性を導きます。
それが成長という状態です。
あなたは成長することによって、状況の意味を理解することができるのです。
目の前で起きている状況の意味を理解するには、より大きな知性を必要とします。
知識と経験を得なければなりませんが、そのためには時間が必要なのです。
そのため、あなたには目の前で起きていることの意味が分からないでしょう。
あなたは、目の前で起きていることの意味を理解する必要はありません。
それは、いつか理解することができるからです。
多くの人は、自我意識によって状況を眺めています。
そのため、判断も自我意識のそれとなります。
自我意識は弱い心です。
そのため、自我意識は常に恐れています。
恐れは、人を”今”という瞬間から遠ざけます。
恐れによって、人は過去か未来へと逃避するのです。
”今”に有るという状態を実現しなければ、目の前で起きていることの意味を理解することはできません。
”今”に有れば、どのような人にも目の前の状況の意味を理解することは可能です。
それは、”今”に有ることが、あなたが真(本当の自分)によって状況を眺める唯一の方法だからです。
しかしながら、あなたは自分を自我意識だと思い込んでいます。
あなたは自分が誰かを知らないのです。
自我意識の存在すらも知らないでいるのです。
そのため、あなたが目の前の状況の意味をその場で理解することは現実的ではありません。
不可能なことを実行する必要はありません。
あなたにできることは、”目の前で起きていることの意味は、後に必ず理解することができる”ということを覚えておくことなのです。
それは誰にでも、すぐに実行することができるのです。
あなたには、理解することができないことがたくさんあります。
あなたには、理解することができないことの方が多いのです。
しかしながら、この世界には意味が存在するということは理解しましょう。
すべてが因果の仕組みの中に創造される必然です。
無意味なものは存在しません。
あなたには多くの無駄に思えることがあるでしょう。
あなたはそれを遠回りだと思うかも知れません。
しかしながら、その遠回りにも意味があるということを覚えておかなければならないのです。
遠回りに意味があるということを忘れてしまえば、あなたが”今”に有ることはできないのです。
状況は常にその意味を伝えています。
あなたはどのような状況からも知識と経験を得ることができるのです。
あなたが”今”を手放し、過去や未来に逃避するのであれば、知識と経験を得ることはできないでしょう。
そのため、意味が分からないとしても、目の前の状況に向き合っていなければならないのです。
それが遠回りに思えたとしても、あなたにはその意味が分からないのです。
意味が分からないという理由によって、”今”を拒絶するのであれば、あなたは知識と経験を損なうでしょう。
関係の無いように映るものであっても、必要な関係性を持ちます。
この世界には無駄は存在しません。
あなたの未熟な手順(願望)と、人生の成熟した手順(目の前の状況)には大きな違いがあるのです。
その意味を理解することができないからといって、簡単に拒絶してはなりません。
意味の無いように映る状況の中に、知識と経験を探すのです。
意味は後に理解することができます。
何の心配もありません。
あなたは”今”に有ることを大切にしなければなりません。
”今”に有るということは、目の前の状況と同化することです。
目の前の状況を否定してはなりません。
この世界には、意味の無いことなど存在しないのです。

2016年11月28日月曜日

課題の区別

人は、自分の課題を抱えています。
それは、問題であり、学びであり、成長であるのです。
あなたは自分の問題を抱え、自分の学びを経験し、自分の成長を実現するのです。
あなたは自分のために生きています。
あなたは自分のために人生に存在しているのです。
大切なのは、”これ”が自分の課題であるということです。
あなたには解決しなければならない課題があります。
あなただけが、その課題を体験することができます。
あなただけが、その課題を解決することができるのです。
どのような他者も、あなたの代わりにあなたの課題を解決することはできません。
”これ”は、あなたが自力によって果たさなければならないことなのです。
あなたには自分の課題があるように、他人には他人の課題があります。
人は人生において、それぞれの課題に向き合っているのです。
そして、それを解決する必要があるのです。
あなたは他人に課題を押し付けることはできません。
あなたの課題を他人が肩代わりすることもできません。
他人の課題を引き受けることもできないのです。
あなたは自分の課題と向き合わなければならないのです。
それは、どのような状況においてもそうなのです。
あなたは自分の課題と他人の課題を混同してはなりません。
抱えている問題が苦しく、あなたはそれを手放したいと考えるでしょう。
しかしながら、それを手放すことはできません。
他者の抱えている問題を不憫(ふびん)に思い、それを代わりに抱えてやりたいと思うでしょう。
しかしながら、他者の問題を引き離すことはできません。
それぞれの課題は、それぞれが成長するために必要な問題なのです。
それを拒絶したり、相手から奪おうとする行為は、人生を歪めることだと知らなければならないのです。
すべては必要であるために目の前に存在しているのです。
必要でなければ、それを所有している必要もないのです。
あなたは、すべてに意味が存在するということを知らなければなりません。
意味の無いものは存在しません。
あなたや周囲の人に理解することができない意味は存在します。
しかしながら、理解することができないからといって、意味が存在しないということではないのです。
あなたは苦しみます。
他者も苦しみます。
あなたはそれを受け入れる以外に方法はないのです。
自分のことなら我慢する覚悟のある者であっても、他者の苦しみには耐えられません。
しかしながら、他者が自らの課題を学ぶことへの邪魔は許されないのです。
人はそれぞれに学ばなければなりません。
あなたはあなたであり、他者は他者なのです。
同一視してはなりません。
人は、他者の課題を自分の課題だと思い込みます。
他者に干渉することによって、偽りの満足を覚えるのです。
多くの人が偽善によって幸福を身勝手に創造しています。
あなたが他者のためだと思っている行為は、他者の課題を邪魔する可能性があるのです。
誰も、他者からの行為を望んではいないのです。
他者からの行為を求めているのは、その人の抱える自我意識なのです。
弱い心が他者の行為を求めるのです。
あなたの真(本当の自分)は、自分で経験したいのです。
自我意識は課題を拒絶します。
しかしながら、真は課題を受け入れるのです。
あなたが問題(苦しみ)を拒絶するのであれば、あなたの主体は自我意識です。
あなたが問題を受け入れるのであれば、その主体は真なのです。
どちらの主体に従うかによって、あなたの受ける結果は異なります。
自我意識に従えば課題を増やし、真に従えば成長するでしょう。
他者との関係においても、あなたは常に自分の課題と向き合っていましょう。
他者の課題は、他者が自力で解決します。
あなたは自分の課題を疎(おろそ)かにしてはなりません。
あなたの、他者に対する手助けは、あなたの利己的な思い込みに過ぎません。
他者は自力によって課題を解決したのです。
それは、決して、あなたの功績ではありません。
あなたが他者の課題と向き合っている間、あなたの課題は放置されているのです。
都合良く、誰かが解決してくれることなどないのです。
誰もあなたの課題に触れることはできません。
そのことを覚えておきましょう。

2016年11月27日日曜日

全体視野

あなたは、この人生において様々なものと向き合わなければなりません。
あなたは多くのものと向き合うことによって、人生の本質を学び取らなければならないのです。
あなたは、人生とは何か?という問いに答えを導かなければならないのです。
人生とは何か?という問いに答えを導かなければ、すべてが空虚となるからです。
あなたは常に人生とは何か?という問いに答えを求めていましょう。
その問い掛けが、あなたの人生を豊かなものとするのです。
人生とは何か?という問いを持たなければ、あなたが向き合うものの本質は見えてきません。
それは、人生とは何か?という全体的な問い掛けが、目の前の”それ”は何か?という部分的な問い掛けに繋がるからです。
あなたは様々なものと向き合う必要があります。
その時に、対象に合わせて問い掛けを変更する必要はないのです。
どのような対象に対しても、人生とは何か?という問い掛けで構わないのです。
部分的に問い掛けることは大切ですが、全体性を見失ってしまえば、何のためにその一部に問い掛けているのか?という本質が損なわれてしまうのです。
あなたはどのような局面においても、人生とは何か?という問い掛けを忘れてはなりません。
あなたは常に人生という全体性を思っていましょう。
部分的に問い掛けることは、視野の狭まりを意味しています。
人生に思いを馳せない者は視野を狭めるでしょう。
視野を狭めることの弊害(へいがい)は、盲目的な生き方を余儀無くされてしまうということなのです。
盲目的な生き方とは、物事の表面的な見方のことです。
多くの人は盲目的に生きています。
それは、見ても見えず、聞いても聞こえず、触れても触れられず、受け取っても受け取れず、与えても与えられない人生のことです。
多くの人は空虚な人生を生きているのです。
しかしながら、それが空虚な人生であるとは知らないでいるのです。
盲目的に生きる多くの人は、空虚を喜んでいるのです。
空虚を幸福と思い込むこと程、虚しいこともないでしょう。
しかしながら、多くの人は虚しく生きているのです。
例えば、多くの盲目的に生きている人達は、他人に依存しています。
意識的にも、無意識的にも、他人を必要としているのです。
盲目的に生きている人は、他人を大切に考えています。
それが建設的に現れれば、他人を好みます。
それが破滅的に現れれば、他人を嫌うのです。
他人を好いても嫌っても、それは他人を大切にしていることに違いありません。
どちらにしても、他人に依存しているのです。
盲目的に生きている多くの人は、他人を部分的に捕らえはしても、全体的には捕らえません。
全体性を見失っているために、他人を特別視するようになるのです。
あなたにとって、他人とは何でしょうか?
他人について部分的に思考したとしても、その答えは導かれません。
人生における他人とは何か?という形の問い掛けをしなければなりません。
全体的に問い掛けなければ、部分的な本質を得ることはできないのです。
それでは、人生における他人とは何でしょうか?
あなたは他人を何だと思いますか?
多くの盲目的に生きている人達は、他人とは自分とは別人であり、特別な存在だと考えるでしょう。
しかしながら、それでは一つの矛盾を抱えることになるのです。
それは、同一の他人が人によって別人となるということです。
あなたの知っている相手と、別の誰かの知っている同一の人物は、別人であるのです。
人によってその相手に対する見解は異なります。
同一人物なのになぜでしょう?
それは、相手が自らのイメージの虚像であることを知らせます。
他人とは、自らの自我意識の投影に過ぎないのです。
あなたの向き合っている他人は、あなたの今の自我意識の状態に等しいということに気が付かなければなりません。
相手とは、自らのイメージが作り出した”何者”かであるのです。
そのため、多くの人は他人を部分的に捕らえることをやめず、全体と切り離すのです。
他人を特別視することによって、あなたは他人に期待し、他人を恐れなければなりません。
それでは、いつまで経っても他人に翻弄(ほんろう)され、その本質を知ることはできないのです。
あなたは他人のために生きているのではありません。
他人のために人生を学んでいるのではないのです。
あなたは自分を知るために生きています。
人生とは何か?という問いは、同時に自分とは何か?という問いでもあるのです。
何かを特別視してはなりません。
それは、対象を全体から引き離すことによってその本質を隠します。
”すべてはひとつ”なのです。
人生はあなたの意識の中に存在し、この世界は意識の投影です。
さて、あなたにとって、人生とは何でしょうか?

2016年11月26日土曜日

人は、他人との親密化を図ります。
それは、人が独りでは生きていけないからです。
すべての人は他人を必要としています。
それは、他人によって多くのことを学ぶことができるからです。
人は、他人という存在を通じて、自分を学ぶのです。
他人はあなたに”あなた”を教えます。
あなたは他人によって自分を知ることができるのです。
しかしながら、あなたが他人によって知ることができるのは自我意識という自分です。
あなたは他人によって真(まこと)(本当の自分)を知ることはできません。
あなたが他人によって知ることができるのは、自分が自我意識であるということだけなのです。
あなたは、他人を通じて自らの抱える自我意識に気が付くでしょう。
しかしながら、多くの人はそのことに気が付きません。
多くの人は自我意識を自分だと思い込んでいるのです。
多くの人にとっては、自分である自我意識を大切にしています。
それは、他人を通じて親密になることができるのです。
そのため、人は他人との親密化を図るのです。
それは、自我意識との親密化です。
あなたは他人と親密になっていると考えているでしょうが、本当は他人を通じて接触する自分自身の自我意識と親密になっているだけなのです。
多くの人にとって、他人は欲望の苗床(なえどこ)でしかありません。
多くの人は欲望の苗床を友人と呼ぶのです。
あなたは友人と共に時間を過ごす時に、普段は抑えている欲望が頭をもたげるのに気が付くでしょう。
それは、他人(友人)によって自我意識が強化されたからです。
あなたは他人と親密になることによって、集団(社会)的自我意識に触れます。
独りでは何も出来ない愚者が、仲間を引き連れていると傲慢(ごうまん)な態度を取ることがあります。
それは、愚者の自我意識が集団(社会)的自我意識によって強化された姿なのです。
自我意識が成長するためには、他人という存在が必要です。
欲望に訴えることによって自我意識は成長するのです。
欲望の苗床である他人という存在は、自我意識にとっては恰好(かっこう)の住処(すみか)なのです。
そのため、自我意識は他人を求めます。
自我意識は他人を必要とします。
何をするにしても、他人が必要なのです。
自我意識は独りを嫌います。
それは、独りでいることは真(本当の自分)との親密化を図る行為だからです。
真との親密化は、自我意識の衰退を意味します。
そのため、自我意識にとっては、人が独りでいることは問題となるのです。
自我意識はあなたに恐れを与え、他人を求めるように仕向けます。
自我意識を自分だと思い込んでいる多くの人は、そうやって他人に依存していくのです。
あなたは必ずしも、他人と親密になる必要はありません。
それは、自我意識を強化すれば、同時に苦悩も強化されるからです。
多くの人が他人と親密になることを美徳とする教育を受けます。
自我意識による親密化は、欲望と恐れの強化に繋がるだけであり、あなたが本当に求めている結果を得ることはできません。
自我意識によっては、あなたが本当に求めている結果は得られないのです。
真(本当の自分)の目的は、自我意識を解放し、真(本当の自分)に向き合うことです。
あなたは真(本当の自分)に向き合わなければならないのです。
自我意識の強化に繋がる人間関係はあなたの”光”を奪うでしょう。
あなたは自我意識によって他人と親密になってはなりません。
あなたは真(本当の自分)によって他人と親密になるように努めるのです。
そのためには、恐れを克服しましょう。
恐れを抱えていれば、あなたの自我意識が頭をもたげ、他人という苗床で欲望を育てるでしょう。
無意識の内にあっても、他人と欲望によって繋がってはなりません。
真(本当の自分)の目的を見失ってはなりません。
あなたは他人から自分の抱える自我意識を学びましょう。
自我意識は、他人に欲望を投影します。
あなたは自我意識の欲望と真(本当の自分)の目的を混同してはなりません。
他人との親密化に対して、冷静さを失ってはなりません。
必ずしも、他人との親密化が必要ではないということを覚えておきましょう。
民族、家族、兄弟、友人、恋人、敵・・・
これ等の”言葉”に騙されてはなりません。

2016年11月25日金曜日

断捨離

すべての人は人生の意義を求めています。
すべての人は人生に重要な意味を見出したいのです。
意義のある人生とは、重要な意味を見出すことのできる人生のことなのです。
あなたは人生に意味を探していることでしょう。
それは、満足という形によって実現します。
あなたが満足を得れば、人生は意義深いものとなるのです。
しかしながら、多くの人が人生に満足することができません。
多くの人が人生に意味を見出すことができず、意義を得ることができないのです。
多くの人が無意識の内に人生を終えます。
多くの人が無意識の内に生きているのです。
あなたは何のために生きているのでしょうか?
人生とは何でしょうか?
何となく生きて、何となく死んではなりません。
あなたは人生に満足し、それを意義深いものとしなければならないのです。
あなたが人生に満足し、それを意義深いものにするためには、”道”を追求する必要があります。
それは、意義を追求する道です。
どのような方法(生き方)でも構いません。
あなたは、自分の好きな方法によって人生の意義を追求しなければなりません。
道を追求するということは、道を研究するということです。
あなたは自らの進む道の研究者でなければなりません。
できる限り深い知識を求め、できる限り深い技術を身に付け、できる限り深い体験をし、できる限り理解を深めなければならないのです。
道を始めることは誰にでもできることです。
誰に対しても、道は開かれているのです。
誰もが道を歩み始めることができるのです。
しかしながら、それを歩み続け、進むことは限られた者にのみ許されるのです。
道を進むことを許される者とは、諦めずに努める者です。
道は進む程に狭まります。
道を進み続けるためには、より洗練された能力が必要となるのです。
余計な荷物を抱えて道を進み続けることはできません。
未熟さという荷物を抱えたままでは、道を進むことができないのです。
あなたは余計な荷物を手放さなければなりません。
そのためには、自らを鍛錬(たんれん)する必要があるのです。
鉄塊(てっかい)は多くの不純物を含みます。
それを熱して叩くことによって不純物を取り除くことができます。
人生には多くの問題が生じますが、それはあなたの不純物である自我意識(弱い心)を取り除くためです。
自我意識を抱えたままでは、道を進むことはできません。
自我意識は余りにも大きく、余りにも重いのです。
自我意識によってあなたは道を進むことができないのです。
人生の意義を見出すためには、自我意識を手放さなければなりません。
多くの自我意識を抱えているのであれば、人生に満足することなどできるはずもないのです。
なぜなら、自我意識は常に恐れているからです。
恐れを抱く自我意識によって、あなたは不足を感じずにはいられないのです。
人生の意義を見出すためには満足しなければなりませんが、自我意識が満足することはありません。
道を進むということは、自我意識を手放すということなのです。
多くの人は道を進むためには多くの荷物が必要だと考えているのです。
多くの知識、多くの技術、多くの体験、多くの理解・・・
道を進むためには多くの荷物は必要ありません。
より洗練された知識、技術、体験、理解が必要であるだけなのです。
数ではありません。
大切なのは質なのです。
多くの荷物を抱えて次第に狭くなる道を進むことはできません。
あなたは多くの荷物の中から、本当に大切だと思うものを残して後は手放しましょう。
そうすれば、しばらくの間、道を進むことができるでしょう。
しかしながら、再び進むことができなくなります。
その時には、再び、荷物の中から本当に大切だと思うものを残して後は手放すのです。
その作業の繰り返しが道を進めるでしょう。
人生の意義に辿り着くためには、あなたは”小さく”ならなければなりません。
自我意識によって肥え太り、立ち止まっていてはならないのです。
道は進む程に狭くなっていることを知りましょう。
自我意識を抱えたままでは、決して人生の意義に辿り着くことはできません。
道が狭くなり、それ以上先へ進めない時には、できる限り素早く自我意識(弱さから生じる執着)を手放しましょう。
そうすれば、あなたが苦悩することもないでしょう。

2016年11月24日木曜日

人生の不条理

あなたが自分だと思っている存在は、あなたではありません。
あなたが自分だと思っている存在は、あなたの自我意識であり、それはあなたの弱い心なのです。
あなたは自らの所有する自我意識を自分だと思っています。
そして、自我意識を通して世界を見ているのです。
あなたが世界に対して受ける認識は、自我意識の見解です。
あなたは自我意識を通して覚えた見解を自らの見解として誤用しているのです。
自我意識という弱い心は、理想という願望を所有します。
自我意識は常に恐れています。
そのため、理想に反した状況を受け入れることができません。
自分の理解の及ぶ範囲の展開を好み、理解の及ばない範囲の展開を嫌うのです。
自我意識は自分が知ったつもりでいます。
自我意識とは思い込みそのものなのです。
認識が狭ければ、心は強さを得られません。
認識が広い程に、心は強さを得ることができるのです。
自我意識という弱い心は、狭い認識の中に存在しています。
それは、多くを受け入れることができません。
自分の理想通りの展開を期待し、それ以外を否定します。
残念ながら、あなたは人生を思い通りに展開させることはできません。
それは、自我意識の求める展開と、人生が求める展開は相違するからです。
自我意識の求める通りに人生が展開すれば、多くの問題が導かれるでしょう。
それは、自我意識が未熟であり、弱い心が求めるのは不足であるからです。
自我意識が求めるものは不足に起源します。
そのため、導かれる結果も不足であり、それは問題となるのです。
あなたが人生において豊かさを実現するためには、自然の理(ことわり)を受け入れる必要があります。
自然の理を否定することによっては、幸福を実現することはできないのです。
しかしながら、自我意識にとっては自然の理を理解することは難しいということを覚えておかなければなりません。
それは、自我意識の求める理想が、自然の理とは相違しているためです。
自我意識とは人工美です。
人が美しいと思うものは、自我意識の美しいと認めるものです。
人が醜いと思うものは、自我意識の醜いと認めるものなのです。
自我意識は複雑を理解することはできません。
ある程度の複雑さであれば理解することもできます。
しかしながら、複雑さのレベルが上がれば理解することができないのです。
あなたは森を見て、そこに理を見極められますか?
森を見て美しと感じることができるでしょうか?
自我意識は、人工の庭園を美しいと判断します。
そして、森は手入れがされておらず、荒れた場所だと判断するのです。
これは価値観の違いです。
自我意識の認める美の姿と、自然の認める美の姿には違いがあるのです。
自我意識が美しいと認める姿を、自然の理は美しいと認めません。
もしも、自我意識が美しいと認める姿を自然が美しいと認めるのであれば、自然界には自我意識の認める姿が形成されるはずです。
しかしながら、自然界には人工的な形は発生しません。
真似ているのはいつも自我意識の方なのです。
それは、自然の理が美しいということを、自我意識が知っているからなのです。
しかしながら、自我意識にはそれを認めることができません。
弱い心は自尊心を育むのです。
自我意識は自分の権利が脅(おびや)かされそうになれば声を荒げます。
自我意識は強烈な自尊心を持つのです。
そのため、あなたは簡単には自然美を受け入れることはできません。
自我意識に慣れ親しんだあなたには、自然の理を理解するのは簡単なことではないのです。
あなたには森の美しさを理解することができるでしょうか?
一見すれば、何の規則性もなく乱雑に自生しているように見える樹木も、一つ一つには意味と価値があるのです。
どのような樹木も、意味と価値を持ちます。
無意味な存在、無価値な存在はありません。
乱雑に見える生態系にも、自然の理が存在しているということを知りましょう。
この世界に無駄は存在しません。
あなたは、人生に不条理を感じていませんか?
自然災害という見解は、自我意識によるものです。
自然の理は、それを必要と認めているのです。
自我意識には、その美しさを理解することは出来ないのです。
それは自我意識を主体としている証明です。
あなたが真(本当の自分)に至れば、人生におけるすべての状況に条理を見るでしょう。
自我意識は未熟ですが、自然の理は成熟しています。
人生の不条理の美しさに気が付きましょう。
苦悩は本来、美しいのです。
人生には最善のみが導かれているのに、それを歪めているのはあなたの自我意識なのです。
あなたの自我意識が人生に不条理を感じているだけなのです。
自然の森の美しさに気が付くように、人生の美しさに気が付きましょう。
すべてが自然の恵みであることを知れば、人生に不条理など存在しないということを理解することができるでしょう。

2016年11月23日水曜日

小さな自我意識

人生は成長の場所です。
人は人生において、成長するという目的を持っています。
あなたは成長しなければなりません。
しかしながら、多くの人は成長することを恐れています。
それは、成長するためには人生の定める通過儀礼を受けなければならないからです。
それは、苦悩という形で導かれます。
苦悩とは、成長のための通過儀礼なのです。
あなたが成長するためには、苦悩を受けなければなりません。
苦悩を体験することなく、人が成長を実現することはできません。
それは、人が成長するということは、自我意識と向き合うことによって、それを乗り越えるということだからです。
自我意識とは弱い心のことです。
弱い心はすべての状況を恐れています。
そのため、自我意識にとってはすべての状況が問題となり、それを苦悩に感じるのです。
自我意識を通して状況を観察しているあなたは、自我意識の感情である苦悩を自分の生み出す感情だと誤解します。
そして、自我意識と自分を同一視することによって、状況を問題とし、成長するための通過儀礼である苦悩(と思い込んでいる状況)を否定するのです。
あなたが成長を実現するためには、苦悩を体験し、それを乗り越える以外に方法はありません。
そのために、先ずは自我意識の抱える感情を自分の生み出す感情だと誤解しないことです。
あなたは自らの抱えている感情を観察することができるはずです。
観察することができるということは、あなたの中にそれを観察する存在がいるということなのです。
感情よりも、感情を観察している存在の方があなたの本質に”近い”のです。
実際には、感情を観察している存在も自我意識ではありますが、より自我意識の薄い自我意識であるのです。
自我意識は玉ねぎの皮のように、幾重にも積み重なっています。
最終的には自我意識は消滅します。
自我意識が消滅した後に残る存在があなたなのです。
しかしながら、今回の人生においては、あなたが自我意識を離れることはできません。
そのため、自我意識を離れた後のことを考える必要はないでしょう。
あなたが”今”にするべきことは、自我意識を観察することによって自分の本質に少しでも近付くことなのです。
あなたは多くの自我意識を抱えています。
それは、多くの弱い心を抱えているということです。
それは、多くの問題を引き起こし、多くの苦悩を導きます。
そのため、あなたは多くの問題と向き合わなければなりません。
一つの問題に見えるものでも、その原因には多くの自我意識が使われています。
あなたが問題を解決するためには、その原因である自我意識を、問題を形成している数だけ乗り越えなければならないのです。
一つ一つの問題は単純です。
しかしながら、それが複雑に絡まれば単純さは失われます。
どのような機械も、一つ一つの部品は単純な構造をしています。
しかしながら、それ等が組み上がれば、複雑な動きを可能とするのです。
組み上がった自我意識は、その本質を隠します。
多くの人が人生に苦悩しているのは、組み上がった自我意識を体験しているからなのです。
大切なのは、一つ一つの自我意識は至極単純であるということです。
人生の苦悩は思い込みです。
あなたが苦悩だと思い込まなければ、それは取るに足らない状況であるのです。
幼い頃の苦悩は、成長すれば苦悩にはなりません。
それは、状況が問題の本質ではないということの証明であるのです。
問題の本質は自我意識です。
それ以外の原因は存在しません。
誰かや何かがあなたを苦しめている訳ではないのです。
あなたが勝手に苦悩しているだけなのです。
自我意識の機械は、あなたにとっての大きな問題となります。
自動運転をプログラミングされた自我意識の機械に対して、真っ向に向き合っても歯が立ちません。
しかしながら、分解すれば取るに足らないのです。
全体像に惑わされてはなりません。
どのように大きく見える問題であっても、あなたの態度によって解決するのです。
すべての問題があなたの胸の内に存在している小さな自我意識でしかありません。
あなたは、胸の内に収まる程の小さなものに苦悩しているのです。
問題の本質を見失ってはなりません。

2016年11月22日火曜日

時間の果実

あなたは、時間について考えなければなりません。
それは、あなたが時間と共に生きているからです。
あなたは時間の概念(がいねん)を所有しています。
あなたは時間を感じているはずです。
それは、過去と今と未来を築きます。
多くの人の時間の概念は、過去と今と未来を同一視したものです。
過去と今と未来は一つに繋がっており、過去を引き摺(ず)り、未来に翻弄(ほんろう)されるのが”普通”です。
多くの人が時間について考えたことがありません。
多くの人が時間について考えることがあるとすれば、制限時間についてや、持て余した時間についてでしょう。
時間とは何か?という時間の本質を探る問いについては考えることがないのです。
あなたは時間について考えなければなりません。
時間とは何か?この答えを探し続けなければならないのです。
時間とは何でしょうか?
あなたは過去と今と未来という同一線上の時間に存在しているのでしょうか?
あなたの状況は、その選択によって変化します。
この世界には因果の仕組みが存在し、あなたの選択によって状況は変化します。
あなたは過去を思い、過去に陶酔(とうすい)することも、過去に引き摺られることもできます。
あなたは未来を思い、未来に希望を抱くことも、未来に絶望することもできるのです。
しかしながら、あなたの所有している時間は過去でも未来でもありません。
過去と未来は妄想(もうそう)によってのみ浸ることができるのです。
あなたが生きることを許されているのは、今のこの瞬間だけなのです。
あなたが生きているのは今という時間の概念の中だけなのです。
過去と未来を思うことはできますが、そこで生きることはできません。
過去と未来という時間は、幻想に過ぎないということを理解しなければなりません。
今を変えることによって、過去と未来は変わります。
あなたの今の選択が、過去と未来に影響するのです。
あなたが今を充実させれば、過去は強い根幹となり、未来は果実を茂らせる枝葉となるのです。
しかしながら、今を蔑(ないがし)ろにするのであれば、樹勢(じゅせい)は衰えます。
過去という根幹と、未来という枝葉が弱れば、樹木自体が枯れてしまうのです。
苦悩を抱えている人は、樹勢の衰えた樹木のようです。
それは風雨に倒れてしまうでしょう。
小さな問題によって大きく苦しむことになるのです。
過去とは熟れ過ぎた今です。
そして、未来とは”青い”今なのです。
時間は果実のように、旬を所有しています。
熟れ過ぎた果実は食えたものではありません。
それは青い果実も同じです。
果実には食べ頃というものがあるのです。
時間で言えば、今という概念だけが旬であるということを理解しなければなりません。
過去と未来は幻想であり、それは妄想に過ぎません。
あなたは過去や未来に逃げ込んではなりません。
過去を思い出して感傷に浸っている場合ではありません。
未来に良いことを待ち侘(わ)びている場合ではないのです。
過去によって傷が癒えることはありません。
良い未来が来るはずがないのです。
それは、あなたが今に生きているからです。
妄想を膨らませることが状況を変えるでしょうか?
状況に対する影響力とは、実践のみなのです。
根幹を蔑ろにし、枝葉を放置してはならないのです。
適切な管理によって、樹勢は保たれます。
不適切な管理は樹勢を衰えさせるのです。
今に生きることだけが、適切な生き方であるということを知りましょう。
過去と未来に生きることは、不適切な生き方なのです。
今と向き合わなければなりません。
過去と未来を手放した瞬間に、あなたは今に生きるでしょう。
遅過ぎることも、早過ぎることもありません。
あなたはこの瞬間から、今に生きることができるのです。

2016年11月21日月曜日

無知な者の容易い幸福

すべての人は幸福を求めています。
それぞれの人に、それぞれの幸福が存在しています。
それがどのような幸福の形であれ、幸福を求める気持ちに変わりはないのです。
あなたにも自らの求める幸福の形があるはずです。
あなたはそれを求めれば良いでしょう。
しかしながら、幸福の形は無限の広がりを見せます。
あなたの求めている幸福の形がすべてではありません。
他人の求めている幸福の形は、他人にとっての幸福なのです。
あなたの求める幸福の形も、常に変化しています。
それは、あなたの意識レベルに従って変化するのです。
意識レベルとは、認識の幅だと考えれば良いでしょう。
あなたが世界を知る程に、意識の状態は上昇します。
あなたが世界を知らなければ、意識の状態は停滞するか下降するのです。
世界を知るということは、知恵を付けるということです。
それは、知識と経験と実践を経ることによって身に付きます。
あなたが知識と経験と実践を経ることによって、世界への理解は深まるでしょう。
知識と経験と実践が乏しければ、世界を理解することはできないのです。
それが、無知という状態です。
無知とは、知識と経験と実践の乏しい状態です。
多くの人は大切なことを知りません。
例えば、人生が何であるのか?ということを知りません。
あなたが人生を生きる上では、最も重要な問いであるはずです。
しかしながら、最も重要な問いであるはずの、人生とは何か?という問いを追求することはありません。
日銭を稼ぎ、人間関係に執心(しゅうしん)し、”思い出作り”に専念しているのです。
それを無知と言うのです。
無知であれば、幸福は容易いのです。
それは、無知である程に世界が狭いからです。
無知な者は幸福を自らの判断によって決めることができます。
それは、何も知らないからです。
自己満足に浸っていれば良いのです。
狭い世界を生きるすべての子どもが、自己満足の幸福に浸っています。
客観的に見ても決して満足のいく状況ではないのに、主観によって自分に満足を押し付けるのです。
無知な者にはそれでも幸福感を味わうことができます。
しかしながら、少しでも知恵が付けば、忽(たちま)ちの内にその幸福は脆(もろ)くも崩れ去ってしまうのです。
すべての人は無知を抱えています。
そのため、幸福の形は変化するのが自然です。
しかしながら、多くの人が自らの求める幸福の形が最高のものだと考え、それを手放すことを恐れているのです。
知恵が付けば無知は失われます。
無知の幸福の形は、知恵の幸福の形とは異なるのです。
そのため、あなたが知識と経験と実践を経ることによって幸福の形を変化させた時、古い幸福の形は使い物にならないのです。
その時には、あなたは古い幸福の形を手放さなければなりません。
使い物にならないものに執着しても時間の無駄なのです。
大切なのは切り替えることです。
仕事や人間関係や状況や環境に捕らわれてはなりません。
あなたはそれ等を手放さなければなりません。
知恵が付けば我慢することができなくなるのです。
過去に執着することは何の価値も導きません。
あなたは過去を捨てて、今に生きるのです。
無知の時の幸福の形を捨てて、新しい幸福の形を追求する必要があるのです。
多くの人は古い意識レベルに止まります。
周囲を見渡してみましょう。
多くの人が何年、何十年と同じレベルの思考によって、同じレベルの言葉を吐き、同じレベルの行為によって、同じレベルの幸福を得ているのです。
それは、世界の広がりが無いということなのです。
世界の広がりが無いということは、意識の向上もありません。
意識の向上の無い人生には何も期待することができません。
そこには何も無いのです。
変化しない人の人生は虚無であるということを覚えておきましょう。
無知を克服し、知恵を求めましょう。
そうすることで、幸福の形を変化し続けましょう。

2016年11月20日日曜日

役割と自分

人は、この世界において役割を担っています。
すべての人がそれぞれに何等かの役割を担う必要があるのです。
それは、成長するためです。
人は成長するために役割を担います。
それは、役割の導く経験値を得るためです。
あなたは自らの担う役割によって導かれる経験値を必要としているのです。
あなたは役割から多くの学びを得ることができます。
そして、役割を通じて成長することができるのです。
そのため、すべての人が自らの担う役割に対して、より良い結果を導くように努めなければなりません。
役割に対して怠慢(たいまん)や不備を働いてはならないのです。
あなたは与えられた役割に対して、十分に貢献する必要があるということを覚えておかなければなりません。
常に向上を目指し、鍛錬(たんれん)を怠ってはならないのです。
しかしながら、その役割に自分を同化してはなりません。
役割に邁進(まいしん)する余りに、役割と自分を同一視する人がいるのです。
役割というものは、自らの意識レベルに従って振り当てられた学びのための場所です。
役割というものは、自らの意識レベルに従っているため、意識レベルの変化に従って、役割も変わるのです。
そのため、役割とは不安定なものです。
それは変化するのが自然です。
役割に自分を同一視する人は、自らの意識レベルが変化したとしても、その役割を演じようと執着するのです。
大切なのは、役割と自分を区別することです。
多くの人が自分と役割を同一視することによって、役割そのものを自分だと考えるようになります。
役割は多くの人の間を移動します。
しかしながら、あなたは独りなのです。
役割は別の人が担うことができます。
しかしながら、あなたの代わりは存在しません。
あなたは自分を行わなければならないのです。
あなたが行うべきは役割ではありません。
役割に対して懸命に努める必要はありますが、条件が整わなければ、その役割を手放さなければならないのです。
役割は多くの人の共有財産です。
役割とは、意識の集合体です。
例えば、男という役割は、どのような人もある程度は男らしくさせます。
母親という役割は、どのような人もある程度は母親らしくさせるのです。
このような意識の集合体を所有しているものが役割なのです。
多くの人が役割の持つ意識の集合体を自分と同一視してしまうのです。
そして、その役割に成り切ろうと努めるのです。
大切なのは、意識の集合体に吸収されないことです。
あなたは現在の意識レベルという限定された状態で、その役割を演じているに過ぎません。
意識レベルが変化すれば、役割も変化します。
そのため、役割の持つ意識の集合体を自分だと思い込んではならないのです。
あなたは男かも知れませんが、男ではありません。
あなたは母親かも知れませんが、母親ではありません。
どのような役割を担っていようとも、それは限定的な不安定な状態に過ぎないのです。
多くの人は役割に捕らわれています。
長らく、その役割を演じてきたために、それを手放すことができないでいるのです。
いつの間にかに自分の一部となってしまった役割を切り離しましょう。
いつまでも役割を演じてはなりません。
それは、意識レベルという条件を満たしていないからです。
変化が重要なのです。
あなたには次の役割が存在しています。
次々に役割を変えるということは、次々に意識レベルが変化するということです。
それがどのような役割であろうとも、変わるということは成長しているということなのです。
役割に良いも悪いもありません。
どのような役割を振り当てられようとも、それが現在の意識レベルであり、そこで得られる経験値が成長に不可欠であるということを理解しましょう。

2016年11月19日土曜日

価値の二極化

人は、それぞれの価値観に従って人生を築きます。
人は、それぞれの価値観を必要としています。
人は、それぞれの価値観に沿った学びを得る必要があるのです。
それは、自我意識を解放するためです。
自我意識を解放するためには、価値観を学ぶ必要があるのです。
多くの人は価値を誤解しています。
多くの人が価値を外に求めているのです。
例えば、他人や財産に価値を見出そうと努めています。
他人や財産に価値を見出そうと努めることによって、心の安定を図っているのです。
ここで言う心とは、自我意識のことです。
人は、他人や財産などの外的な対象に価値を見出すことによって、自らの内的な対象である心を見失います。
それは、自我意識が解放されることを恐れているためです。
自我意識とは弱い心です。
それは常に恐れています。
恐れ(ネガティブな思考)は意識を外的な対象に向ける性質を持っています。
恐れを抱えている自我意識が内向することはできず、外向することによって表面的な価値に捕らわれ、本質を見失うのです。
物事の本質を見極めることができれば、自我意識は解放されます。
物事の本質を見極めるためには、恐れを克服する必要があるのです。
あなたが恐れを克服するためには、外向することをやめ、内向する必要があるのです。
他人や財産などの外的な対象に価値を見出してはならないのです。
外向的な価値観に従うということは、外的な対象を支えとして必要としているということです。
外的な対象を支えとして必要とするのは、恐れを抱えているためなのです。
恐れているために他人を必要とします。
恐れているために財産を支えとするのです。
あなたが自我意識を克服し、恐れを手放せば、他人や財産を必要以上に求めることはありません。
自我意識を克服し、真の自分によって生きれば、内に価値を求めることはあっても、外に価値を求めることはないのです。
恐れは武装を必要とします。
自我意識は常に恐れているために、周囲を圧倒する激しい感情や相手(の自我意識)を感服させる所有物によって武装しようと努めています。
恐れを抱かない者には武装する必要はありません。
武具を必要としているのは、恐れている者だけだからです。
外に価値が存在すると信じている者は、外に敵がいると信じています。
価値にも陰陽が存在し、有利と不利があるのです。
この世界はすべてのものを二分します。
陰と陽、善と悪、肯定と否定、与える者と受け取る者、女性性と男性性、集合と解散、幸福と不幸・・・
外に出れば、二極化が進むのです。
あなたが自我意識によって外の世界に価値観を見出せば、そこには二つの価値が存在することになります。
それは感情を陰陽に分断し、あなたはネガティブな感情とポジティブな感情の間で揺れ動くことになるのです。
その働きが苦悩として認識されるのです。
あなたは、外的な対象に価値を見出さないことです。
そこに真の価値は存在しません。
陰陽を一つにしたものが真の価値なのです。
陰陽を分離したものを価値と呼ぶのは難しいのです。
陰陽が統合されるのは、あなたの内に存在する真の自分の持つ価値観の中だけなのです。
あなたが自我意識に従って生きるのであれば、物事は必ず分断されます。
あなたが真の自分に従って生きるのであれば、物事は必ず統合されるのです。
あなたが外的な対象に価値を見出しているのであれば、自我意識に従っているということを知りましょう。
自我意識に従うのであれば、争いは避けられません。
争えば苦悩は避けられないのです。
あなたが苦悩を必要としないのであれば、内向しましょう。
外に価値を見出すことをやめて、内に価値を見出すのです。
そうすれば、陰陽の統合された視点を得ることができるでしょう。
そこには不安も心配も恐怖も争いもありません。
外的な他人や財産を支え(価値)とするために、あなたは恐れ、争っているのです。
そのことに気が付かなければなりません。
あなたが外的な他人や財産を気にしなくなった時、恐れと争いは止むでしょう。
あなたが恐れなければ、争いはないのです。
あなたが内向すれば、苦悩はないのです。
自我意識に翻弄(ほんろう)されることなく、真の自分と共に生きましょう。

2016年11月18日金曜日

意識を”今”に

多くの人は無意識の内に生きています。
無意識の内に呼吸をし、無意識の内に思考し、無意識の内に行動しているのです。
多くの人の人生は無意識の産物であるのです。
”今”に対して意識的に生きている人がどれほどいるでしょうか?
残念ながら多くはありません。
大半の人物は、”今”の自分が何者であるのか?すら知らず、”今”の自分が何をしているのか?すらも知らないのです。
当然のことながら、人生が何か?ということは知る由(よし)もありません。
自分が何者であり、人生の意義を意識しない者は、決して意識的に存在しているとは言えないのです。
あなたは自分が何者であるのか?ということを考えながら生きていますか?
人生の意義とは何でしょう?
あなたは”ここ”で何をしているのでしょうか?
意識的に生きるということは、目の前の状況に対する意味を問うということなのです。
多くの人は目の前の状況に対する意味を問いません。
与えられる刺激に反応しているに過ぎないのです。
それは肉体が熱いものに触れた時に咄嗟(とっさ)に手を引くようなものなのです。
肉体はその対象を熱いと認識しますが、その対象が本当に熱いとは限りません。
それが冷たいものであったとしても、脳が認識に至っていなければ、肉体はそれを熱いと誤解して飛び上がることでしょう。
それは、肉体が目の前の対象を十分に精査せず、与えられた情報を鵜呑みにしているからに他ならないのです。
反射には、それが熱いか冷たいかを確認している時間が無いのです。
それは、反射神経によって危機的状況を回避しなければならないという肉体の使命を持っているからです。
肉体は、その対象が熱くても冷たくても、肉体に仇(あだ)なす可能性があると直感したものを拒絶するのです。
それは、十分に精査する時間を与えられないためです。
肉体(脳)が認識するよりも早い速度の刺激を与えられるのであれば、肉体は反射的に行動します。
もしもそれが、あなたがその本質を認識するよりも大きい問題であれば、それがどのような問題であろうとも、あなたは反射的に行動することになるのです。
多くの人にとって、問題の本質は見えません。
多くの人は、問題の外装は認識しても、その本質を認識することはないのです。
それは、自分が何者であり、人生の意義を意識して生きてはいないからです。
あなたの抱える問題は、その本質を理解することによって消滅します。
その問題が何であるのか?ということが分かれば、問題は問題としての形を保つことができないのです。
肉体がそれを熱いものと認識すれば、反射的に飛び上がることもありません。
認識することが出来ないことが、反射神経を働かせるのです。
あなたには、知らなければならないことがたくさんあります。
先述したように、自分が何者であり、何をしており、人生とは何か?ということを知らなければならないのです。
それ等の認識を疎(おろそ)かにしているために、目の前の状況を精査することがなく、問題と苦悩を抱えてしまうのです。
目の前の状況に問題と苦悩を導くのは、それに無意識であるからなのです。
意識的に目の前の状況に向き合うことによって、あなたにはそれが何であるのか?ということを(いつかは)理解することができます。
それは、自分から認識しようとする働きであるために、対象を理解することができるのです。
目の前の状況に反射するのであれば、対象を理解することはできないのです。
あなたに求められているのは認識することです。
何かを認識するためには、意識的な状態でなければなりません。
与えられた情報を鵜呑みにし、それを消費するような状態に陥(おちい)ってはならないのです。
あなたは常に自らの状態を確認しなければなりません。
常に意識を保ち、それを手放さないように心掛けましょう。
多くの人は反射的に生きています。
それは、過去の経験によって築かれた既成概念(きせいがいねん)が思考を占領しているからです。
人は過去の経験を(自分の中で)正しいと考えています。
それは、精査した経験ではなく、”肌に触れたものはそれが何であろうとも払い除ける”という学習であるのです。
善悪や美醜(びしゅう)の判断は過去の経験に依存します。
人は善悪や美醜を、過去の経験に照らし合わせて判断するのです。
それは決して、本質的な方法ではありません。
なぜなら、善悪や美醜の判断基準は、常に不安定であるからです。
いつまでも、過去の経験に照らし合わせて対応しているのであれば、問題や苦悩を積み上げるだけなのです。
あなたが無意識を手放し、意識的に生きることによって問題や苦悩は解決します。
自分の正体や人生の意義を探す人は、自らの意識と出会い、短絡的な判断を下すことがないでしょう。
与えられる情報を消費(鵜呑みに)するだけの人間であってはなりません。
熱いかも冷たいかも分からないのに、それに飛び上がってはならないのです。
”今”に意識を保ち、反射に陥らないようにしましょう。
そうすれば、あなたが不用意に苦悩を積み上げることもないでしょう。

2016年11月17日木曜日

不安定な歩み

すべての存在は不安定です。
どのような存在も決して止(とど)まりません。
すべてが流転し続け、決して固定されることはないのです。
固定されているように見えるものであっても、それは決して固定されてはいません。
その集合はいつでも分離(解散)し、別々に集合するのです。
それがどのような集合であれ、安定しないのが自然です。
自然界においては、何一つとして固定されているものはないのです。
そして、あなたには、何一つとして固定することはできません。
どのような集合も必ず分離します。
それを食い止めることなどできないのです。
すべては”必要”に応じて集合し、分離します。
必要とは学びのことです。
どのような集合や分離にも、あなたにとっての学びが潜在しています。
あなたは学ぶために集合し、学ぶために分離するのです。
即ち、すべての感情は学びのために存在しているのです。
あなたの集合に対する感情は、学びのために存在します。
何かに好意を抱き、そこに接着したいと起こる感情は、学びを必要としているだけなのです。
決して、好意の対象に対する感情ではありません。
例えば、あなたが他者に対する好意を抱いていたとしても、それは他者を通じて得られる学びを実現するための感情”操作”であり、他者という存在そのものに感情を抱いている訳ではないのです。
そのため、好意を抱いて集合した人間関係も、その学びの消滅と共に分離することになるのです。
あなたは学びに従うことはできますが、他者に従うことはできないのです。
多くの人は感情を”自分”が生み出すものだと思い込んでいます。
多くの人は感情を選択することができると思い込んでいるのです。
しかしながら、感情というものは学びに付属している”接着剤”であり、あなたが所有しているものではないのです。
学びを得るということは、自我意識と向き合うということです。
学びを経験することによって自我意識を認識し、それを解放することができます。
自我意識が解放された状態を成長というのです。
自我意識が解放されることによって、同時に学びも解消されます。
あなたの他者に対する好意が急速に失われるのは、自我意識が失われたからに他ならないのです。
感情を司るのは自我意識です。
自我意識が学びに反応しているのです。
そのため、学びか自我意識が失われるのならば、(そのレベルの)感情も失われるのです。
多くの人は感情が主体であると考えています。
そのため、感情に翻弄(ほんろう)されます。
感情が人に苦悩を導いているということに気が付かないのです。
冷静に見つめれば、どのような苦悩も消滅します。
感情が荒立つために、苦悩という問題が引き起こされているのです。
あなたは、すべてが幻想に過ぎないということを知りましょう。
あなたの目の前には現実という名の”今”が存在していますが、その”今”も限定的な学びに過ぎないのです。
学びが消滅すれば、”今”も消滅します。
そして、”今”は過去という幻想に形を変えるのです。
過去は分離です。
未来も分離なのです。
あなたが”今”に生きる(意識を合わせる)時、そこには集合が存在しているのです。
あなたにとっての現実(集合)は”今”に限定されます。
しかし、それも常に流転しているのです。
あなたは、すべての存在が不安定であるということを覚えておかなければなりません。
何一つとして止まりません。
何一つとして止めることはできません。
すべてが幻想であるということを知り、何かに執着することをやめましょう。
不安定な場所に立ち竦(すく)むのであれば、足場が崩れて落ち込んでしまうということを覚えておかなければなりません。
すべてが不安定だと理解し、集合を離れましょう。
そして、再び集合するのです。
集合と分離を繰り返すことは、一歩一歩を踏み出す歩みのようです。
歩むことは不安定なことです。
歩むことには転ぶ危険もあります。
しかしながら、歩まなければ苦悩に落ち込むということを覚えておきましょう。
逆を言えば、歩めば苦悩は無いということを覚えておきましょう。
苦悩している者は歩みましょう。
人生とは、ただ、それだけのことです。

2016年11月16日水曜日

自然美と人間美

あなたの人生は、自然界の中に存在しています。
あなたの人生は自然を超えることはありません。
それは、あなたが肉体という自然の中に存在しているからです。
あなたは自然界の理(ことわり)を無視して豊かさを得ることはできません。
人生における豊かさとは、自然の中にこそ存在しているということを理解しましょう。
自然の理を無視してはなりません。
どのような豊かさも、自然の理の中に存在しているのです。
しかしながら、多くの人は自然の理を理解することができません。
それは、自然の理というものが、人間の心とは異なった理想を掲げているためです。
自然の理の理想と、人間の心の理想とは大きな隔たりがあります。
自然の理は、人間の心には理解することができません。
そのため、人間は自然に手を加えます。
自然の理を否定することによって、人間の心が掲げる理想を実現しようとするのです。
人間の心は、自然を大きく変えようと努めます。
それは、自然の理に対して、人間の心が余りにも未熟であるためです。
自然の理は人間の心には理解することができない価値を作り出しています。
人間の心にはその価値を理解することができないために、何かしらの手を加えます。
それは、自然の価値の否定であり、それを行っているのは自我意識なのです。
自然美と人間美(人工美)は異なります。
人間の心は、自然美を受け入れることができません。
それは、結果としては自然の理を否定する行為なのです。
自然美を否定することによって、人間美は生み出されるのです。
人間美は、人間の心が生み出しています。
人間の心とは自我意識に満たされています。
それは、無知であり、未熟であるのです。
人間の心は無知と未熟で溢れています。
そのために、人間の心が欲する価値というものは歪んでいるのです。
しかしながら、人間の心にはそのことが理解できません。
自らの求める価値こそが至高であると思い込んでいるのです。
人間美を美しいと感じるのは人間の心だけです。
人間の自我意識がそれを楽しんでいたり、それによって幻想的な安心に酔い痴(し)れているのです。
人間美を自然界は受け入れることができません。
そのため、人間は自然界を疲弊(ひへい)させるのです。
人間の心である自我意識は、自然美を犠牲にすることによって欲求(我欲)を満たそうとしています。
人間は、自我意識を継続させるために自然から活力を奪っているのです。
人間美(自我意識)が自然界に介入することによって、自然美は損なわれます。
人間がその人生を豊かなものにするためには、自然と調和した生き方を選択する必要があるのです。
あなたの人生は自然界の中に存在しています。
自然界が全体であるのならば、人生とは個体です。
内なる個体が不調和を選択すれば、全体が疲弊するのは明らかであるのです。
人間の心には、自然美を理解することはできません。
そのため、人生にはいつも不条理が付き纏(まと)うのです。
あなたが何かに対して理不尽を覚えるのであれば、それは自然美を理解していないということなのです。
人間の心よりも、自然の理の方が純粋です。
人間の心は利己的に働きますが、自然の理は利他的に働くからです。
利他的に働いている自然界を、利己的に働いている自我意識には理解することができないのです。
人間美とは利己的な美です。
自然美とは利他的な美なのです。
利己的に生きることと、利他的に生きることでは、どちらが豊かな人生を得られるでしょうか?
どうなるかは、行動によって結果を得ましょう。
どのように理解するかはあなた次第なのです。
覚えておかなければならないのは、あなたの人生は自然界の中に存在しているということ。
そして、人間の心には自然の理が生み出す自然美は理解することができないということです。
あなたの価値観で人生の出来事を計ってはなりません。
あなたには理解することができないことも多くあるのです。
決め付けないように注意しましょう。
自然美と人間美には、大きな違いがあるということを覚えておきましょう。

2016年11月15日火曜日

幸福を望む人

人にとって、”今”とは問題です。
人が”今”に向き合うということは、問題に向き合うということなのです。
人が抱える問題とは何でしょうか?
それは自我意識そのものです。
自我意識とは弱い心です。
そこには、汚れと歪みが存在しています。
それは物事を屈折して解釈する価値観です。
自我意識というものは、物事を歪めて解釈するものなのです。
そのため、自我意識による解釈そのものが問題となるのです。
屈折した解釈をしなければ、問題が発生することはありません。
そこには満足が導かれるのです。
しかしながら、人は多くの自我意識を抱えています。
人生とは、自我意識の浄化を実現する時間です。
あなたの目的は自我意識を浄化することにあるのです。
そのためには、”今”に向き合わなければなりません。
”今”とは、自我意識が導き出す問題です。
”今”に生きるということは、自我意識の提起する問題と向き合うということなのです。
自我意識はあなたに不要なものではありません。
無意味に抱えているのでもありません。
自我意識は、あなたに問題を与えることによって、物事に対する解釈の屈折に気付かせようとしているのです。
大切なのは自らの解釈が屈折しているということを理解することです。
多くの人は自分が正しいと考えています。
自分が正しいと考えているために、外に敵を作って争うのです。
敵は”今”にあります。
それは、敵が問題であるからです。
誰にとっても、”今”に生きることは簡単ではありません。
問題と向き合うということは、自らの弱い心と向き合わなければならないからです。
多くの人がそれを拒みます。
誰もが、化膿(かのう)した傷口には触れたくないのです。
しかしながら、化膿した傷口は治療しなければなりません。
化膿した傷口を治療するためには、痛みに耐えて皮膚を裂き、膿(うみ)を出さなければならないのです。
あなたは”今”に向き合わなければなりません。
しかしながら、多くの人は”今”に向き合うことを恐れ、過去や未来に逃げ込みます。
多くの人が未来を望むのは、”今”という場所からの逃避であるのです。
未来を望むということは、”今”の否定です。
もしも、”今”に満足しているのであれば、未来を望むことはないのです。
”今”を受け入れられないすべての人が未来を望んでいるのです。
多くの人が時間が問題を解決してくれると思い込んでいます。
しかしながら、時間があなたの問題を解決する義理などないのです。
どうして、時間があなたのために尽力しなければならないのでしょうか?
あなたが未来を得ようとも、問題は何も変わらずにそこにあるのです。
時間が問題を解決してくれるように感じるのは、時間を経ることによって何かを経験し、思考し、改めたからに他なりません。
時間を経ることによって成長したのです。
そのため、成長することによって問題が解決されたのですが、同時に時間を消費しているために、時間が問題を解決したのだと思い込んでいるのです。
自力によってのみ、問題は解決します。
時間が問題を解決することはありませんし、誰かや何かの外的要因が問題を解決することもありません。
如何(いか)なる他人も、あなたの問題には関係ないのです。
親兄弟であろうとも、あなたの問題には関係ないということを理解する必要があるのです。
そうでなければ、あなたは”今”を拒んでしまうでしょう。
誰かや何かが良い方法を見付け出し、いつか問題を解決してくれるなどという淡い期待に胸を躍(おど)らせてはならないのです。
あなたが”今”に向き合い、自らの抱える自我意識を浄化することがなければ、どのような小さな問題も決して解決することはないのです。
過去に隠れることも、未来に期待することもやめましょう。
あなたには、理想の未来はやって来ません。
理想とは違っても、あなたが未来へと向かって歩むのです。
どのような問題も問題としてはなりません。
それは、自我意識に過ぎないのです。
どのように大きく見える問題も、あなたの胸の中に収まっているのです。
そのことを忘れないようにしておきましょう。
自らを改めること以外の方法では、決して問題は解決しません。

2016年11月14日月曜日

それぞれの人生

すべての人が人生に目的を所有しています。
どのような人の人生にも目的があるのです。
あなたは目的を持って人生を生きているということを理解しなければなりません。
あなたには目的があるのです。
そして、どのような他者にも目的があるということを覚えておきましょう。
どのような人物であろうとも、人生の目的を所有しているということを忘れてはなりません。
人間の人生の目的は共通しています。
それは、成長することです。
成長するということは、自我意識(弱い心)を解放するということです。
強くあるということが、成長するということなのです。
すべての人が成長し、強くあることを目的としています。
そのため、すべての人が成長を求めなければなりません。
それは、”歩く”と同義語です。
成長するということは、人生という道を歩くということなのです。
成長することによって、人は前進することができます。
しかしながら、重要なのはどこへ向かうのか?ということです。
人生はただ前進すれば良いというものではありません。
どこへ向かうのか?という重要な事柄を忘れてはならないのです。
すべての人が目的地を所有しています。
成長することによって前進し、目的地へと辿り着くことが人生の達成です。
目的地に向かって前進し、少しでも近付くことを幸福と感じるのです。
ただ成長し、ただ前進するだけでは虚しいのです。
何のために成長するのか?ということです。
大切なのは目的意識なのです。
あなたは何のために成長するのでしょうか?
どこへ向かいたいのでしょうか?
目的地を持たずに歩むことは、疲弊(ひへい)を導くでしょう。
目的地を持てば、困難な道のりも乗り越えることができるのです。
多くの人は目的地を持ちません。
多くの人が何の計画性も無く幸福を求めています。
幸福の定義も無いままに、漠然と幸福というものを求めています。
定義付けの無い幸福は、幻想に過ぎません。
多くの人は幸福という言葉や概念(がいねん)に憧れを抱いているだけです。
それが何であるのか?ということは考えません。
良く分からない幸福という名が付いた”何か”を、漠然と手に入れようと考えているのです。
多くの人が必要の無いものを求めています。
”備えあれば憂いなし”と思っているのです。
しかしながら、必要な無いものを備えることは、余計な荷物を抱えることになり、それが憂いとなるのです。
人生の目的地は人それぞれに違います。
誰一人として、目的地が同じであることはありません。
すべての人が同じ目的を持ちますが、その向かう先は違うのです。
すべての人の人生の目的が同じであるために、すべての人の人生の目的地が同じだと思い込むのです。
人はそれぞれの目的地に向かって孤独に歩まなければならないのです。
誰も引き連れて行くことはできません。
そのため、あなたの幸福の形と、誰かの幸福の形が同じであることはありません。
あなたは独自の幸福を見出さなければならないのです。
あなたは自分の人生の目的地を見極めましょう。
他人の目的地と混同してはなりません。
誰かの幸福の形は、あなたには関係無いはずです。
あなたが満足することが重要であるはずです。
あなたが求める価値に対して前進すれば良いのです。
他者は他者の価値に従えば良いのです。
他人を気にする必要はありません。
他者からの価値の押し付けに注意しましょう。
そして、他者への価値の押し付けには気を付けなければなりません。
人はそれぞれの目的地を持ちます。
人生の目的と目的地を混同しないようにしましょう。
それぞれの人生を尊重しましょう。
それが強さであるということを覚えておかなければなりません。

2016年11月13日日曜日

人生に飽きる

多くの人にとって、人生は繰り返しです。
多くの人は繰り返しを受け入れています。
それは、繰り返すことを求めているからです。
繰り返すことによって安心感を得ているからです。
多くの人が安心感を求めています。
それは、心の平穏に繋がるからです。
心が平穏に包まれることを多くの人は幸福だと認識しているのです。
多くの人は安定志向によって、繰り返しを受け入れ、繰り返すことによって安心感を受け取っています。
多くの人は安心感が実現することを喜びますが、それも続けば問題となります。
それは、安心感が退屈を導いてしまうのです。
退屈とは変化の存在しない状況です。
多くの人は変化を恐れているために、変化の無い状況を求めていますが、それを続けるということは人生の目的に反するのです。
人生の目的は成長にあります。
成長とは変化するということです。
そのため、安心感を導く不変という状況は矛盾を抱えることになるのです。
安心感を求める人も、退屈は求めていません。
それは、退屈というものは安心感が腐敗した状態だからです。
退屈は苦悩を導くために、安心感と反発するのです。
安心感というものは、一瞬の状態に過ぎません。
一瞬の幸福を求めているのであれば、矛盾を抱えることもありませんが、多くの人が求めているのは長く続く幸福なのです。
長く続く幸福を得るためには、人生に矛盾を抱えないようにする他ありません。
人生に矛盾を抱えないようにするためには、変化を続けることによって成長し続けなければならないのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、安定志向を手放し、繰り返しから外れなければならないのです。
多くの人は繰り返しによって人生に飽(あ)きています。
絶望や諦めという感情ではないのです。
生きることに飽きているのです。
繰り返しは人生を習慣的な作業としてしまうのです。
安定志向の持ち主は、習慣的な作業の中に生きるようになるのです。
何の変化も無く、ただ同じことを繰り返すことによって、人生の意義を見出すことができるでしょうか?
退屈を所有している人には人生の意義を理解することはできないのです。
退屈しているということは、考えていないということです。
退屈しているということは、価値観が変わらないということなのです。
”自分”が変わらないために、退屈しているのです。
”自分”が変わらないことが苦悩の原因なのです。
あなたは考えなければなりません。
与えられた情報を鵜呑(うの)みにしてはならないのです。
あなたは自力によって思考し、自力によって決めなければならないのです。
あなたは人生を切り開くのです。
繰り返しという”檻(おり)”を破るのです。
現状の価値観を手放すのです。
安心感が得られたからといって、人生が終わりであるはずがないのです。
人生は常に学びの中なのです。
退屈している暇はないのです。
あなたには、学ぶべきことが無数に存在しているのです。
繰り返しに安心してはなりません。
退屈はあなたの精神を確実に蝕(むしば)みます。
それは、白蟻のように建物の柱に侵入し、その内部を失わせるのです。
見た目には変わり無くとも、構造は脆(もろ)くなっているのです。
気が付いた時には建物は倒壊します。
これと同じように、安心感に酔い痴(し)れている者の幸福や人生は、気が付いた時には倒壊することになるのです。
人生に安心感を求めてただ繰り返している者の末(すえ)は、苦悩と後悔であるのです。
あなたは人生に飽きていませんか?
それは価値観の停滞であるということを覚えておかなければなりません。
環境や人間関係を変える必要はありません。
価値観を変えれば良いのです。
価値観を変えることによって、あなたは繰り返しを外れることができるでしょう。
安心感を求めることは大切ですが、そこにとどまらないように注意しましょう。
人生の目的が成長にあり、そのためには変化が必要であるということを忘れてはなりません。

2016年11月12日土曜日

条件反射

あなたは、無意識の反射を所有しています。
それは無条件反射とは違います。
それは経験によって導かれる条件反射であるのです。
あなたは、無意識の内に条件反射を試みています。
無意識の条件反射を司(つかさど)っているのは自我意識です。
自我意識はすべての人の内に存在し、多くの人が”自分”だと思い込んでいるものです。
自我意識とは”自分”ではありません。
それは、魂(”自分”の全体像)の汚れであり、あなたの弱さなのです。
あなたは魂の抱える弱さを”自分”だと思い込んでいるのです。
それは、人生における最大の目的が自我意識の解放であるからです。
あなたは成長することによって自我意識を解放する必要があるのです。
自我意識を解放するためには、自我意識を理解する必要があります。
自我意識を理解するためには、それを主体としなければならないのです。
自我意識を主体としているために、多くの人はそれを”自分”であると思い込んでいるのです。
あなたの抱える無意識の条件反射とは、自我意識によって引き起こされる反射なのです。
例えば、”自分”に不利な状況に対峙した時、あなたは反射的にその状況を否定しているはずです。
もちろん、その状況を不利であると考え、その状況を否定しているのは自我意識です。
自我意識は、あなたに自らを発見されることを恐れているのです。
自我意識は”暗闇”に存在しています。
そこには”光”がありません。
あなたが自らの抱える自我意識を発見するためには、”暗闇”に”光”を投じれば良いのです。
”暗闇”とは否定のことです。
”光”とは肯定(こうてい)のことなのです。
”自分”が不利だと考え、反射的に否定する状況を肯定することによって、あなたは自らの抱える自我意識を発見することができるでしょう。
自我意識は物事を否定的に捕らえます。
そのため、いつも不満を吐いているのです。
あなたの嘆(なげ)きは、あなたのものではありません。
あなたの内の自我意識が嘆いているのです。
あなたが自我意識と同調すれば、自我意識の意思を自分のものと誤解してしまいます。
不満を吐いて、状況を否定しているのはあなたではないのに、それを自分の責任だと考えてしまうのです。
弱さはあなたの選択ではありません。
物事を否定的に捕らえているのは、あなたの自我意識なのです。
簡単なことではありませんが、あなたは無意識の否定的な反射を改めましょう。
それは簡単ではありませんが、不可能なことではありません。
あなたの心に否定的な感情が生まれた時、あなたはそれを打ち消すように状況を肯定するのです。
自我意識はあなたよりも早く否定を提案するでしょう。
多くの人は無意識に生きているために、自我意識の提案を受け入れてしまうのです。
その提案が自我意識の弱さから生じる破滅的な行為であるということに気が付かなければならないのです。
あなたは自らの内を注意深く観察しなければなりません。
あなたは意識的に生きなければならないのです。
自我意識の思い通りに事を進めてはなりません。
理想としては、どのような状況が導かれようとも、それを受け入れることです。
すべての状況を肯定し、一切を人生に任せることなのです。
その行為は、自我意識の姿を明確に現すでしょう。
すべての人が幸福を求めていますが、それを実際に手に入れる人はいません。
それは、”自分”という自我意識を自分自身だと思い込んでいるためです。
自我意識の求める幸福を求めることでは、真の幸福を実現することはできないのです。
人生を否定的に生きることによって幸福が実現すると考えているのであれば、あなたは既に自我意識に従っているということなのです。
敵や苦しみが存在する以上、真の幸福は実現しないのです。
敵や苦しみが存在するにもかかわらず、あなたが幸福を感じているというのであれば、それは自我意識の求める幸福であり、偽りの幸福であるということを理解する必要があるのです。
目の前の状況を受け入れることもできないのに、幸福であるはずがありません。
敵や苦しみを抱えているのに幸福であるのならば、辻褄(つじつま)が合わないということになるのです。
真の幸福は矛盾を抱えません。
自我意識はあなたに現実逃避という偽りの幸福を導きます。
あなたは幻想に酔い痴(し)れるでしょう。
それは、思い通りにいかない人生を嘆き、酒に偽りの幸福を求める愚者のようなものなのです。
現実逃避は自我意識の常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
あなたは反射によって目の前の現実から逃避してはなりません。
意識的に目の前の状況に向き合いましょう。
自らの内に潜伏(せんぷく)する自我意識に”光”を当てましょう。

2016年11月11日金曜日

新しい道具

世界は常に変革を求めています。
世界は常に新しい時代を求めているのです。
あなたは変化し続ける時代の中で、その”身”を変化し続けなければなりません。
時間が、放たれた矢のように未知の空間を目指して進むように、あなたも未知へと向かう必要があるのです。
過去に捕らわれ、現状に執着することは不自然です。
あなたは未来へ向かうために今に生きなければならないのです。
変化を続けるということは、今に生きるということです。
今とは、変化の中にこそ存在しているのです。
あなたが変化を否定した瞬間に、今を失うことになるでしょう。
今を失うということは、未来を失うということなのです。
時間は常に進み続けていますが、あなたは立ち止まることも、後戻りすることもできるのです。
しかしながら、それでは苦悩が増すばかりです。
あなたが満足のいく人生を求めているのであれば、立ち止まることも後戻りすることもなく、前進する必要があるのです。
先へ進むということは、変化を受け入れるということです。
変化とは未知への接近です。
未知へ接触しようとする試みこそが、変化を実現するのです。
あなたは未知へ向かわなければなりません。
多くの人は変化を恐れています。
それは、自我意識が重りとなっているからです。
多くの人は自我意識に従って争い、互いの足を引っ張り合っています。
それは、過去に引き込む行為なのです。
多くの人は互いを過去へと引き摺(ず)り込もうというのです。
過去は変化の否定です。
過去に執着するということは、苦悩に沈むということなのです。
あなたは過去に執着してはなりません。
古い価値観、古い感覚を手放すのです。
新しい感覚は、新しい世界のために与えられた礎(いしずえ)です。
新しい価値観が新しい世界を築くのです。
新しい価値観、感覚を理解するのは簡単ではありません。
なぜなら、多くの人が慣れ親しんだ価値観や感覚を大切に思っているからです。
大切に思う気持ちが執着に繋がるのです。
そのため、何かを大切に思う気持ちは大切ですが、それに惑わされないように注意しなければならないのです。
あなたが大切にしなければならないのは、新しい価値観や感覚です。
それは、変化のために必要不可欠な要素だからです。
新しい価値観や感覚は世界に可能性を示します。
世界を新しく作り変えるのは、新しい価値観や感覚なのです。
新しい価値観や感覚は、人を通じて世界に導かれます。
あなたが古い価値観や感覚に違和感を感じているのであれば、それが新しい世界の礎となる力なのです。
あなたが新しい価値観や感覚に脅威(きょうい)を感じているのであれば、過去に執着しているということを理解しましょう。
新しいもので”悪い”ものはありません。
それがどのようなものであろうとも、新たな時代に必要な”道具”なのです。
善悪を決めてはなりません。
あなたはその必要性を理解すれば良いのです。
すべての新しい”道具”には必要性が存在します。
必要性のない新しい”道具”は存在しません。
古い価値観や感覚の人間には、その用途が分からないだけなのです。
世界は変革を求めているのです。
新たな”道具”は決して受け入れられません。
新たな”道具”は必ず反発を受けるでしょう。
新たな”道具”はその価値を理解されず、蔑(さげす)まれるでしょう。
新たな”道具”は、それを活用することのできる新しい人間を待っています。
未知に向かって進む者だけが、新たな”道具”を使って、新たな時代を築くことができるのです。
過去に執着してはなりません。
未来に浮かれてはなりません。
あなたは今をしっかり生きることによって、新たな価値観と感覚を備えた人となるのです。
新たな価値観と感覚によって、新たな世界を築きましょう。
受け入れられない価値観や感覚を否定してはなりません。
それは、新たな時代を否定することになるでしょう。

2016年11月10日木曜日

善悪の基準の見直し

人は常に選択しています。
人は常に状況に対して選択を迫られ、何かを選択しているのです。
あなたは常に何かを選択しています。
人は選択を否定することはできません。
一方を選択することは他方を選択しないことであり、他方を選択するということは一方を選択しないということなのです。
どちらにしてもあなたは必ず何かを選択しているのです。
人が何かを選択するためには、それを決定する基準が存在しています。
大抵の場合、それを決めるのは道徳的な基準です。
道徳は善悪を決めます。
大抵の場合、人は自らの考える善を選択するのです。
そして、自らの考える悪を否定します。
人は、自らの考える善を選択することによって人生を形成しているのです。
大抵の人が善悪の基準を所有しています。
あなたの内にも、善悪を分ける思考があるはずです。
人は誰もが集団の中に生きています。
集団を形成、維持するためには道徳が必要です。
集団はある基準によって行動しなければ、その繋がりを保つことができないのです。
善悪の基準が異なっていれば、集団を形成することはできません。
人の形成する集団は、善悪の基準に従っているのです。
善悪の基準が異なれば、あなたは誰とも集団を形成することはできないのです。
大抵の人が善悪の基準に従います。
あなたの人生の選択は、善悪の基準に従っているのです。
あなたは自らの信じる善を選択し、自らの信じる悪を否定するでしょう。
あなたの現状とは、自らの信じる善そのものなのです。
あなたの目の前に広がっている現状は、あなたにとっての善です。
すべての人が自らの信じる善を受け取っているのです。
すべての人が満足し、すべての人が幸福を享受(きょうじゅ)しているはずです。
あなたは目の前の現状にどのような感想を覚えるでしょうか?
あなたは満足し、幸福を感じているでしょうか?
残念ながら、多くの人が不足を感じ、苦悩を生きていることでしょう。
多くの人が現状を嘆(なげ)き、不満や不安を抱えながら生きているのです。
人生とは選択の結果です。
人生が不正を働くことはありません。
この世界には因果の仕組みが存在しているのです。
現状は自らの信じる善そのものです。
多くの人は自らの信じる善に苦悩しているのです。
多くの人は矛盾を抱えているのです。
なぜでしょうか?
人はなぜ、自らの信じる善の結果を受け取っているにもかかわらずに、それに苦悩しているのでしょうか?
それは、そもそも、善悪の基準が間違っているということが考えられるのです。
善悪の基準は、あなたの人格によって判断されています。
あなたの人格の程度が、善悪の基準を決めるのです。
未熟な人格の善悪の基準と、成熟した人格の善悪の基準には大きな隔たりが存在しています。
愚者と賢者では、判断が異なるのです。
経験の乏しいあなたと、多くの経験を積んだあなたでは、善悪の基準と人生における判断は大きく異なるのです。
人生はあなたの選択によって決まります。
あなたの善の形が人生を決めるのです。
(大抵の人が善を選択するため)
あなたは何を善とし、何を悪とするでしょうか?
その基準が選択を決めるのです。
理想は善悪の判断を手放すことです。
しかしながら、それは容易なことではありません。
あなたの未熟な人格は、必ず善悪を決めたがります。
そのため、善悪の判断を手放すことを義務とする必要はありません。
ただ、未熟な善悪の基準には気を付けなければなりません。
人生はあなたの判断を如実(にょじつ)に現します。
あなたが苦悩を抱えているのであれば、善悪の基準が未熟であるということなのです。
苦悩を抱えるのであれば、善悪の基準を見直しましょう。

2016年11月9日水曜日

子育て

人生を生きているのは”あなた”です。
あなたは内に存在する自我意識のために生きています。
自我意識とは、あなたの弱い心に過ぎません。
あなたはこの人生において、弱い心を癒すという目的を持っているのです。
自我意識を癒すためには、それに向き合わなければなりません。
あなたは自分の内に存在する自我意識と向き合うことが求められているのです。
自我意識は人生の主導です。
あなたの人生の主役は自我意識です。
あなたは自我意識の”我が儘(まま)”に付き合わなければなりません。
人生とは、自我意識が経験を通して”成長”する場所なのです。
経験によって自我意識は癒されます。
あなたは自我意識に多くの経験を与えなければならないのです。
あなたは自らの抱える自我意識を我が儘な子どものように考えれば良いでしょう。
あなたは自分の内に我が儘な子どもを住まわせているのです。
自我意識は未熟です。
自我意識は幼稚です。
自我意識は乱暴です。
自我意識は短絡的です。
自我意識は無知です。
自我意識は無秩序です。
自我意識は無力です。
あなたはそれを教育することによって癒さなければならないのです。
自我意識は未熟な精神であるために、成長することは簡単ではありません。
自我意識は話を聞かず、理解せず、実行しません。
このような相手を教育するには多くの時間と労力を必要とするのです。
自我意識との対峙には根気が必要なのです。
自我意識を急に変えることはできません。
自我意識は徐々にしか変わりません。
そのため、あなたは辛抱(しんぼう)する必要があるのです。
忍耐強く向き合わなければ、自我意識を癒すことはできないのです。
あなたは物事を徐々に変えれば良いと学びましょう。
多くの人は物事を急いで変えることを望みますが、それは不可能です。
他人や状況や環境であろうとも、それはあなたの自我意識の投影に過ぎません。
多くの人は外的な要因に対して変化を求めますが、外的な要因が変化するためには、内的な要因である自我意識が変化する必要があるのです。
自我意識が簡単に変わることはありません。
そのため、物事に対して急激な変化を求めたとしても、それが実現することはないのです。
世界は、あなたの変化に従って変化します。
あなたの変化に従わずに世界が変化することはありません。
生き急ぐ必要はありません。
多くの人が問題を急いで解決しようとし過ぎています。
問題を解決するためには、自我意識を教育し、癒す必要があります。
自らの内的矛盾を解決しなければ、どのような問題も解決しないのです。
あなたは自我意識が問題の原因であるということを知りましょう。
そうすれば、問題が簡単に解決しないことが分かるでしょう。
”付け焼き刃”の方法では、決して問題は解決しません。
表面的な対応では、問題は再発するのです。
根を絶たなければ枝葉は蔓延(はびこ)るのです。
自我意識を絶たなければ、問題を絶つことはできないということを理解しましょう。
急ぐ必要はありません。
疲れたら休めば良いのです。
大切なのは本質的なアプローチです。
枝葉を落とす必要などないのです。
根を絶てば、枝葉も絶たれるのです。
あなたは時間を掛けて自我意識と向き合いましょう。
時間を掛けて自我意識を教育しましょう。
教育によって自我意識が”成長”すれば、親離れするでしょう。
自我意識の解放によって、あなたは人生の目的の一つを果たすでしょう。
人生とは、自我意識という我が儘な子どもの子育ての場所であると知れば良いでしょう。

2016年11月8日火曜日

大切な栄養

あなたは自分のことを知っているでしょうか?
あなたは誰ですか?
残念ながら、あなたは自分という存在を把握しているとは言えません。
それは、自分という存在を制御することができないからです。
あなたは自分の感情を制御することができますか?
思考を制御することができるでしょうか?
あなたの感情や思考は、あなたを離れて独自に動いているはずです。
それは、別の存在のように自由に動いていることでしょう。
あなたは、自らの抱える感情も思考も制御することはできません。
もしも、感情や思考を制御することができるというのであれば、あなたが人生に苦悩を覚えることはないのです。
あなたは常に満足し、何の矛盾も抱えてはいないはずなのです。
しかしながら、あなたは多くの不足を感じ、多くの矛盾を抱えていることでしょう。
人生に不足と矛盾を抱えない人はいません。
すべての人が不足と矛盾によって苦悩を抱えるのです。
それは、あなたが自分を知らないからです。
あなたが自分だと思っている存在は自分ではありません。
制御することができない存在がどうして自分なのでしょうか?
あなたが自分のものだと思い込んでいる感情も思考も、あなたのものではないということも考えられるでしょう。
あなたには、自分という存在が分からないはずです。
あなたは自分がなぜ苦悩するかを理解することができますか?
原因を知っているのであれば、あなたが苦悩する必要はないのです。
しかしながら、あなたにはその原因を知ることが難しいでしょう。
それは、苦悩しているのは自分ではないからです。
自分ではないために、理解に苦しむのです。
人生において苦悩しているのはあなたではありません。
それは、あなたの弱い心である自我意識が苦悩しているのです。
弱い心である自我意識はあなたの一部ではありますが、あなたではありません。
あなたとは、弱い心を所有する存在なのです。
人生において感情を生み出し、様々に思考しているのは自我意識です。
あなたは自我意識を自分だと思い込んでいるのです。
あなたが知っている自分というのは、自我意識のことなのです。
人生に苦悩しているのはあなたではありません。
あなたの自我意識が苦悩しているということを知る必要があるでしょう。
自我意識はあなたの思い通りには動きません。
それは、あなたと繋がっていますが、あなたという存在の範囲内においては、自由に動く権利を与えられているのです。
自我意識は自分の思う通りに動きます。
あなたには、自我意識を制御することはできません。
あなたにできることは、自我意識の制御ではありません。
自我意識の解放こそが、あなたに与えられた自我意識との付き合い方なのです。
自我意識を制御しようと考えてはなりません。
それは傲慢(ごうまん)です。
自我意識を制御しようとする傲慢こそが、自我意識の働きであるのです。
自我意識を解放するということは、自我意識の欲求を満足させるということです。
自我意識は苦悩を求めています。
それは、自我意識が解放されるためです。
自我意識は自由を求めています。
矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、あなたが自我意識に執着しているのです。
あなたが自我意識を繋ぎ止めているのです。
あなたは自分を自我意識だと思い込んでいます。
それを解放するということは、自分を失うことだと思い込んでいるのです。
しかしながら、実際にはその逆です。
自我意識を解放するためには、自我意識の求める苦悩を許さなければならないのです。
自我意識は苦悩を”食べる”ことによって満足します。
あなたが苦しみを否定するのであれば、自我意識が満足することはありません。
満足することのない自我意識は、より多くの苦悩を求めるようになるでしょう。
それは更なる苦悩と内的な矛盾を抱えることに繋がるのです。
自我意識はあなたの一部です。
それはあなたではありません。
苦悩を客観視することによって、それを欲している自我意識の存在に気が付きましょう。
自我意識は子どものように我が儘(まま)です。
あなたはそれを教育しなければならないのです。
自我意識に苦悩を与えることによって満足させましょう。
苦悩があなたを自我意識から解放するのです。
苦悩を嫌ってはなりません。
苦悩を学びましょう。
苦悩を避けてはなりません。
それは、自我意識にとっての大切な栄養なのです。

2016年11月7日月曜日

重り

あなたは苦しみを危惧(きぐ)する必要はありません。
あなたの自我意識にとっては、苦しみは否定したいものです。
それは、否定によって自我意識が強化されるからです。
苦しみを受け入れることは、自我意識の衰退に繋がります。
そのため、自我意識は苦しみを否定したいのです。
”普通”の価値観では、苦しみは否定すべき対象です。
苦しみを受け入れられる”普通”の人はいません。
それは、”普通”の価値観というものが、自我意識によるものであるからです。
”普通”の価値観は苦しみを否定します。
それを受けない方が有利だと考えるのです。
物事を感情的に判断するのであれば、苦しみは受けない方が有利だと思えます。
しかしながら、そのような短絡的な判断であっては、本当の利益を損ねてしまうのです。
あなたが選択しなければならないのは、本当の利益です。
本当の利益というものは、簡単には手に入らないものです。
あなたが有利だと”普通”に考えて辿り着く選択は、あなたにとっては本当の利益ではないということを知る必要があるのです。
”普通”に考え付く選択肢は、自我意識による選択なのです。
自我意識とはあなたの弱さです。
弱さの選択とは、損失なのです。
それは利益とは成り得ないのです。
あなたは強さによって選択しなければなりません。
強さによって選択するためには、”普通”を克服する必要があるのです。
それは、苦しみを苦しみと断定しないことです。
苦しみを喜びとしてこそ、その選択は強さによるものなのです。
苦しみを喜びと考えることは普通ではありません。
普通ではないことこそが、自我意識の解放なのです。
あなたは、苦しみを否定した後に残るものを考えなければなりません。
苦しみを否定した後に残るものは何でしょうか?
苦しみを否定した後に残るものは”気楽さ”なのです。
気楽さが導くのは”軽さ”や”薄(うす)さ”なのです。
人の精神を考えなければなりません。
気楽な状況ばかりを経た精神には、”重さ”や”厚み”を感じることができません。
そのような精神は軽く薄っぺらいのです。
苦しみを抱えない者は浮き草のようなものなのです。
それは地に根差すことなく、大きく育つこともなく、大量の実を付けることもありません。
風によって流され、波によって打ち上がり、干ばつによって滅ぶのです。
それは、周囲の状況に左右されるということです。
浮き草も役には経ちますが、地に根差すことがないために不安定なのです。
そして、地に根差す樹木のようには役に立ちません。
苦しみに会った時、気楽さを求める精神はそこからの逃避を考えます。
苦しみを受け入れられない軽く薄っぺらい精神であっては、役に立たないのです。
精神は苦しみによって地に根差すことができます。
重さがなければ、役に立たないのです。
苦しみを否定してはなりません。
苦しみを知らない精神は詰(つ)まらないのです。
苦しみを知らない人の価値観や人生訓は役に立ちません。
それは余りにも軽く、薄っぺらい内容だからです。
苦しみを抱える人の価値観や人生訓は大いに役立つでしょう。
あなたが豊かな人生を望むのであれば、誰かや何かに貢献する必要があります。
役に立たない者が豊かさを得ることはできないのです。
残念ながら、自我意識に根差した”普通”の人間は役には立ちません。
苦しみを克服した人間こそが役に立つのです。
苦しみの回避法を教えるのは自我意識です。
苦しみという重りは大切なものなのです。
それを否定するのは損失なのです。
利益や豊かさを求めているのならば、苦しみを否定してはなりません。
苦しみこそがあなたを地に根差す最高の財産であるということを知らなければなりません。
あなたは苦しみを受け入れ、それを克服する人の価値観や人生訓に学ばなければなりません。

2016年11月6日日曜日

矢を射ること

あなたは、自我意識と共に生きているということを知らなければなりません。
あなたの内には自我意識が存在し、今もあなたに影響力を所有しています。
自我意識とは、弱い心のことです。
それは、恐怖によって成り立ち、恨みの感情を抱えています。
自我意識の本質は恐怖です。
それは恐怖を肯定(こうてい)します。
自我意識は恐怖であるために、恐怖を肯定し、恐怖が内に保たれるように指導します。
多くの場合、人は自我意識の指導に従っています。
それは、無意識に生きているからです。
人生を意識的に選択している人は多くはありません。
多くの人が自分で人生を選択していると思い込んでいますが、そのようなことはないのです。
あなたは恐怖を土台とした選択をしているでしょう。
恐怖に突き動かされた人生設計をしているはずです。
恐怖を避けるために行動し、恐怖の対象が存在するために行動しているでしょう。
それは喜びのための行為ではないのです。
大抵の場合、不安や心配のために行動しているということに気が付くでしょう。
自我意識は恐怖を土台としての行動を選択します。
多くの人は無意識の内に、恐怖と共に生きているのです。
あなたは、自分の行動の動機を考えてみましょう。
大抵の場合、あなたは恐怖のために行動している(もしくは、行動せずにいる)はずです。
それでは、自我意識が助長するのを助けるだけなのです。
自我意識を育めば、あなたは自分の人生を生きることができないのです。
自我意識はあなたの抵抗となります。
それは、弦(げん)を引く力に似ています。
矢を射るためには、弦を引かなければなりません。
しかしながら、引いた弦を放さなければ矢を射ることはできません。
自我意識は人生において重要な役割を担っていますが、それを手放すことによって役割を果たすのです。
多くの人が自我意識を手放せずにいます。
引いた弦を保持しているのです。
弦を引くことは簡単ではありません。
それは強い緊張と労力を必要とするからです。
多くの人が緊張と苦労の中に生きています。
それは、自我意識を手放せずにいるからです。
あなたが人生に疲労を感じているのであれば、無意識の内に引かれた弦を保持しているということに気が付かなければなりません。
自我意識を手放すことによって、矢は放たれ、的(人生の目的)を射るのです。
一つの的を射れば、別の的が現れます。
人生の目的は一つではありません。
一つの目的を果たせば、次の目的を果たさなければならないのです。
的は次々に現れます。
その度に、あなたは無意識の内の自我意識によって引いている弦を手放さなければならないのです。
自我意識の解放によって、あなたは成長することができます。
それは、あなたに豊かさを導くでしょう。
自我意識である恐怖は、弦を手放すことを恐れます。
それは、人生の目的を果たすことができないということなのです。
恐怖によって、人は安住にとどまります。
居心地の好い空間は安心感を導くでしょうが、それは可能性を潰します。
可能性を潰すことは、より大きな恐怖を導くことに繋がります。
安住にとどまることは、新しいことに挑戦することよりも大きな恐怖を導くのです。
自我意識の目的はより大きな恐怖を育てることです。
あなたがより苦しむことを目的としているのです。
それが自我意識の仕事です。
それは弦を力強く引くためなのです。
素早く、数多く射れば、多くの的(目的)を果たすことができます。
恐怖を抱えていることは生涯において射る矢の数を少なくするということなのです。
あなたは居心地の好い空間を手放し、居心地の悪い空間に挑戦しましょう。
構えているだけでは何の価値もないのです。
下手な矢でも実際に射ることに価値があるのです。
詰まらない人生を生きてはなりません。
構えを見せびらかすのが人生ではないのです。
自我意識を自慢してはなりません。
財産や地位、自尊心や拘泥(こうでい)などの自我意識の欲するものは何の自慢にもならないのです。
自我意識(恐怖)を手放し、一つでも多くの人生の目的を果たしましょう。

2016年11月5日土曜日

人生とは

どのような道も、一朝一夕には成りません。
どのような道も、それを達成するためには多くの時間と労力を必要とするのです。
道を達成するためには道を理解する必要がありますが、道を理解することは簡単ではないのです。
道を理解するためには、経験から学ぶ以外に方法はないからです。
経験を得ることがなければ、理解はできません。
経験を得たとしても、それを理解するのは難解です。
それは、道の教えはあなたにだけ理解することのできる言語で語られるからです。
他人には、あなたの道の教えを理解することはできません。
そのため、他人に問うことは意味を成しません。
他人に教えを受けたとしても、それは他人の進むべき道の教えであって、あなたの進むべき道の教えではないのです。
あなたは人生の語る言語を聞き取る必要があるのです。
そして、その言語を理解することができるように訳さなければならないのです。
あなたにだけ語られる道の言語は、特殊な方法によって発せられます。
それは感じ取る以外に方法はなく、悟る必要があるのです。
あなたが道の言語を悟るためには、経験を積み重ねる以外に方法はないのです。
経験によって言語を聞き取り、経験によって言語を理解するのです。
経験によって自身の度量が育まれていなければ、道の言語を理解することはできないのです。
それは、あなたが外国の言語を学ぶことに似ているのです。
経験によってのみ、外国の言語を聞き取り、理解することができるのです。
経験によってのみ、度量が育まれるのです。
外国の言語を習得することは、あなたにとって簡単なことではないでしょう。
それと同じように、道を達成することは簡単なことではないのです。
多くの人は道を進むことを簡単に考えています。
それは、楽な方法を探すことに始まり、他力によって進もうと考えたり、奇跡を待ち侘(わ)びたり、すぐに投げ出して理解を深めないことなどの行為に現れています。
そのような方法によっては、道を達成することはできません。
道を悟ろうと努めない者には、道を進むことはできないのです。
多くの人は道を進もうとは考えません。
多くの人の考えは、安泰によって生き長らえることなのです。
そのため、苦難を否定します。
あなたはわざわざ苦難を選ぶでしょうか?
目の前の苦難の状況に対して、絶望して立ち竦(すく)んではいないでしょうか?
道を悟るためには、すべての経験を必要とします。
すべての経験とは、苦難を含めた経験なのです。
苦難を避けて悟りを得ることはできません。
苦難という最大の経験を否定しては、何の理解も得られないということを知る必要があるのです。
あなたが苦難を否定しているというのであれば、苦難が避けられないということを理解しましょう。
あなたが道を進むためには、苦難を受け入れる以外に方法はないのです。
豊かな人生というものは、道を進むことにあります。
道を進むことがなければ、人生は乏しさを導くのです。
あなたが道を進んでいる時、人生には豊かさを感じるでしょう。
あなたが道に立ち竦んでいる時、人生には乏しさを感じるのです。
あなたが幸福を求めているのであれば、道を進む以外に方法はありません。
道を進むためには、道の言語を理解する必要があります。
そして、道の言語を実践する必要があるのです。
外国の言語を聞き取り、理解することができれば、次はそれを使って会話を実現しなければならないのです。
言語は意思疎通の道具です。
あなたは道の言語を使って、道と会話をするのです。
それは、あなたを道とします。
あなたは道そのものになるのです。
あなたは道そのものであることができるでしょう。
あなたが道と成るのです。
人生とは、あなたなのです。
生きるということは、あなたがあなたに成るということなのです。
どのような道も、一朝一夕には成りません。
あなたは一生涯の経験を必要とします。
道は一生涯続くのです。

2016年11月4日金曜日

主役の生き方

すべての人は自分自身を特別視しています。
誰もが自分を特別な存在だと思っているのです。
人生の主役はあなたです。
それは、これがあなたの人生であるからです。
しかしながら、主役は脇役によって存在が許されるということを忘れてはならないのです。
すべては相対的に成り立っているのです。
脇役の存在がなければ、主役という存在はありません。
あなたが独りであるのならば、あなたが主役であることはできないのです。
脇役の存在が主役の存在を実現するということを覚えておきましょう。
あなたが主役として人生を”演じ”たければ、脇役を大切に扱いましょう。
大抵の人は自分が人生の主役であるということに、薄々感付いています。
あなたは主役ではありますが、主役でありたいと願うのです。
しかしながら、多くの人は自分という存在に自信が持てません。
自分という存在の意義を見出すことができず、欲求が満たされないのです。
多くの人は主役になりたいという願望を抱えています。
誰かに認められたい、大切にされたい、注目されたい、褒めて欲しい、人気を得たい・・・
このような願望は、自信の喪失(そうしつ)から導き出される心の不足なのです。
それは、嫉妬や恨みなどの歪んだ感情に繋がるでしょう。
誰かや何かに嫉妬や恨みの感情を抱く人は、自信を喪失しているということを知る必要があるのです。
自分自身に対して自信を得ることができれば、人が主役でありたいという願望を手放すことができます。
主役でありたいという願望は脇役の価値を認めず、脇役を主役である自分のために利用するようになるのです。
そこには利己的な生き方が導かれるのです。
心に不足を抱えている人は、その不足を満たそうとする余り、利己的に生きる以外に方法はなくなるのです。
利己的な生き方は視野を狭めます。
狭い視野で生きるということは、可能性を潰すということなのです。
それは益々心の不足を育む結果となるのです。
あなたは人生の主役です。
どのような人生を生きていようとも、あなたが主役であることに違いはないのです。
人生という物語には、起承転結(きしょうてんけつ)の流れがあるのです。
現在がどのような状況や状態であろうとも、それは人生という全体の一場面に過ぎないのです。
主役は様々な場面を生きなければなりません。
主役であるあなたは、苦しみや悲しみも引き受けなければならないのです。
主役はすべての場面を生きる必要があるのです。
あなたが苦しんでいるのは、あなたが人生の主役であるからです。
脇役は苦しみません。
他人があなたの苦しみを引き受けることはできません。
それは、他人があなたの人生の脇役に過ぎないからです。
主役であるあなたは、既に主役であるのです。
主役になりたいという願望は必要ではないのです。
あなたは、必ずしも誰かに認められる必要はありません。
あなたは、必ずしも誰かに大切にされる必要はありません。
あなたは、必ずしも誰かに注目される必要はありません。
あなたは、必ずしも誰かに褒められる必要はありません。
あなたは、必ずしも誰かから人気を得る必要はないのです。
歪んだ願望を保持し続けていれば、あなたは人生の目的を見失ってしまいます。
そして、自分が主役であることを脇役である他人に認めさせることに時間と労力を費やす人生を生きることになるのです。
あなたは独りで生きなければなりません。
主役とは独りなのです。
独りとは、独立自尊の精神です。
孤立のことではありません。
独りで立つこともできない者は、満足に主役を勤めることはできません。
脇役に媚(こ)び諂(へつら)うような人生を生きるでしょう。
あなたは主役として、この人生を生き抜きましょう。
脇役である他人を大切に扱い、自分自身に対する特別視を手放しましょう。
あなたは、人生を始めた瞬間から特別な存在です。
今更特別視される必要はないのです。
輝き方を間違えてはなりません。
あなたにとって必要なことは、自分自身の価値を認めるということだけなのです。
他人にあなたの価値を認めさせることなど必要ないということを覚えておきましょう。
主役と脇役は相対的な立場であるために、価値は同等なのです。

2016年11月3日木曜日

世界

あなたは、認識が世界を作るということを知りましょう。
世界が存在しているのではありません。
あなたが世界を存在させているのです。
あなたの認識が及ばないものは、”あなたの世界には”存在しないのです。
他人があなたの知らないものを知っているのは、その知っているものに対する認識があるためです。
他人もそれを知らなければ、同じように存在しないのです。
認識によって、世界は広がるのです。
未知が存在しています。
あなたには知らないことが山程あるのです。
それは、認識によって世界が広がっていないということを意味しています。
世界は広いのです。
しかしながら、多くの人は小さな世界に生きているのです。
それは認識が小さな範囲に限定されているためです。
認識が小さな範囲に限定されるのであれば、少ない知識で結論を導き出さなければなりません。
あなたは認識の範囲でしか世界を見ることはできないのです。
その判断は未熟なものであるのです。
少ない材料によって何かを作らなければならない時、それに満足のいく出来上がりは望めません。
知識、技術、材料によって、満足度は変わるのです。
未知の知識、技術、材料によって、より満足のいく出来上がりが望めるのです。
多くの人は認識が世界を作るということを知りません。
そのため、小さな認識の小さな世界に満足を望みます。
しかしながら、それには限界があるのです。
あなたはすぐに満足することができなくなるでしょう。
小さな世界であっては、あなたはすぐに苦しむことになるのです。
そのため、人は広く世界を求めなければならないのです。
鉢の中に根付く樹木は、小さな鉢を世界とします。
それは、根の広がりを限定します。
それは、根の自由を奪います。
それは、空気と水と栄養の吸収を妨げます。
根の広がりを限定された樹木は小さく育ちます。
そして、徐々に弱っていくのです。
樹木が大きく、豊かに育つためには、根をどこまでも伸ばし続けなければならないのです。
根の成長が限定されると、樹木は大きく豊かに育つことはできないのです。
あなたは認識を大きく豊かに育まなければなりません。
小さな認識の中に閉じ籠(こも)り、無知のままに生きてはならないのです。
あなたの人生においては、あなたが有ると思うものは有り、無いと思うものは無いのです。
有無の判断は認識によって下されます。
小さな世界に引き籠るように生きている者には、豊かな想像力は望めません。
無知な者は簡単に否定します。
無知な者は未知に対して恐れているのです。
それは自我による影響です。
魂の汚れの集積である自我は、あなたの内にあって、あなたと寄り添うように存在しています。
大きく分けて、あなたは二つの性質を持っているのです。
それは、強い心と弱い心です。
弱い心が未知を恐れ、否定するのです。
弱い心は変わりたくありません。
それは変わることを恐れているからです。
弱い心は何に対しても恐れています。
認識を広めることによって、自らの立場が脅(おびや)かされるということを恐れているのです。
そのため、弱い心は必死に抵抗します。
しかしながら、多くの人は内に別の自分が存在しているということを認識しません。
弱い心を自身と同一視することによって、別の自分の存在を隠しているのです。
人生の目的である成長を実現するためには、弱い心を克服しなければなりません。
魂の汚れを拭い去るのです。
そのためには、魂が汚れていることを認識する必要があります。
自分の内に弱い心が存在することを認識する必要があるのです。
認識することができれば、問題は解決します。
問題は認識の及ばないところにあるのです。
根を伸ばせば樹木は活力を得ます。
認識を広めれば人生は豊かさを得るでしょう。
未知を恐れずに、無知であることを恐れましょう。

2016年11月2日水曜日

分岐

人は誰もが、独立自尊の精神を保たなければなりません。
人は誰もが、自立した個人となり、自らを尊(とうと)ぶように生きなければならないのです。
あなたは自分自身を大切にしなければなりません。
自分自身を大切にすることができない者には、他者や世界を大切にすることができないのです。
あなたが誰かや何かを大切に思うのであれば、先ずは自分自身を大切に思う必要があることを覚えておかなければなりません。
独立自尊の精神こそが、あなたを救います。
自分自身を救うことができない者には、他者や何かを救うことは出来ないのです。
独立とは、自立のことです。
それは、他に依存することのない精神です。
他に依存するということは、自らを他に預(あず)けるということです。
自らを他に預けるということは、自らを蔑(ないがし)ろにしているということなのです。
あなたが誰かや何かに依存している状態であるのならば、自立することはできません。
あなたは自らを自分自身に頼り、他に依存しない精神を保たなければなりません。
あなたが他に依存することなく、自立を実現するためには、学ばなければなりません。
学ぶことによってのみ、あなたは自立を実現することができるのです。
多くの人が他に依存するように生きています。
他と協力することは良いことです。
互いに与え合い、支え合うことが自立の目的です。
しかしながら、多くの人は協力に至っていないのです。
無意識の内にでも、他に依存しているのです。
学ぶことは人の道を分けます。
即(すなわ)ち、学ぶ人は自立の道を進み、学ばない人は依存の道を進むのです。
学ぶ人は他に依存する必要がなくなります。
知恵は自立を助けるのです。
学ばない人は他に依存する必要を強めます。
無知は依存を助けるのです。
人の生き方としては、自立するか依存するかの二つの道しかありません。
自立の精神を持つ人物か、依存の精神を持つ人物のどちらかに分かれるのです。
あなたの中には二つの心があります。
それは、強い心と弱い心です。
強い心は自立を助け、弱い心は依存を助けます。
あなたが自立を求めているのであれば、強い心に従って進まなければなりません。
それは、弱い心への否定となります。
強い心を肯定するのであれば、結果的に弱い心を否定しなければならないのです。
弱い心とは自我(エゴイズム)のことです。
あなたが自立を求めるのであれば、自我との闘いは避けられないのです。
自我を否定する道のりが始まるでしょう。
それは困難な道のりです。
なぜなら、多くの人が自我と仲良く暮らしているからです。
多くの人が依存を許しているのです。
それは、自我の欲求です。
あなたは依存を断ち、独立自尊の精神を保つことができますが、そのためには克己心(こっきしん)が必要になります。
自我は努力を嫌います。
自我は学ぶことをしないのです。
人の中にいれば、あなたは自我の影響を受けるのです。
あなたが他者と共に過ごす時間が増す程に、自我は擦り寄ってくるでしょう。
多くの人の中にあっては、あなたの小さな克己心は全体としての自我に負けてしまうのです。
それは、他者と共に過ごすことは楽だと囁(ささや)きます。
そして、他者と共に過ごすことは考える必要を奪います。
あなたは自分よりも思考する他者に考えを委(ゆだ)ね、自分よりも決断力のある他者に決断を委ねるようになるのです。
自分では学ぼうとはせず、自分よりも学ぼうとする他者から学ぼうとします。
それは楽な道ではありますが、行き着く先は依存なのです。
あなたは自分で学び、自分で考え、自分で決断しなければなりません。
自力の積み重ねこそが、自立への道なのです。
思い通りに進まなくても良いのです。
他人と異なる意見を大切にしても良いのです。
失敗というものは存在しません。
すべてが学びであるのです。
上手く進む依存の道は、道を進んだような錯覚を覚えます。
しかしながら、目的地とは違う道を進んでいるだけなので、道を後退しているようなものなのです。
あなたが依存して運んでもらった道のりを、今度は自力によって引き返さなければなりません。
そして、そこから一歩を踏み出さなければならないのです。
独立自尊の精神によって生きなければ、あなたが人生を進むことはできないということを覚えておきましょう。
周囲と自分を比べる必要はありません。
依存することは表面上は大きな成果を上げるのです。
しかしながら、実際には成果を上げてはいないのです。
大きな建物を建設しても、柱が細く、その設計と組み立てが疎(おろそ)かであるのならば、簡単に崩れ去ってしまうのです。
依存とは、そのようなものなのです。
周囲と自分を比べる(依存、同一視)ことなく、独立自尊の精神を保ちましょう。
あなたの道はそこから始まるのです。