あなたは、この人生において様々なものと向き合わなければなりません。
あなたは多くのものと向き合うことによって、人生の本質を学び取らなければならないのです。
あなたは、人生とは何か?という問いに答えを導かなければならないのです。
人生とは何か?という問いに答えを導かなければ、すべてが空虚となるからです。
あなたは常に人生とは何か?という問いに答えを求めていましょう。
その問い掛けが、あなたの人生を豊かなものとするのです。
人生とは何か?という問いを持たなければ、あなたが向き合うものの本質は見えてきません。
それは、人生とは何か?という全体的な問い掛けが、目の前の”それ”は何か?という部分的な問い掛けに繋がるからです。
あなたは様々なものと向き合う必要があります。
その時に、対象に合わせて問い掛けを変更する必要はないのです。
どのような対象に対しても、人生とは何か?という問い掛けで構わないのです。
部分的に問い掛けることは大切ですが、全体性を見失ってしまえば、何のためにその一部に問い掛けているのか?という本質が損なわれてしまうのです。
あなたはどのような局面においても、人生とは何か?という問い掛けを忘れてはなりません。
あなたは常に人生という全体性を思っていましょう。
部分的に問い掛けることは、視野の狭まりを意味しています。
人生に思いを馳せない者は視野を狭めるでしょう。
視野を狭めることの弊害(へいがい)は、盲目的な生き方を余儀無くされてしまうということなのです。
盲目的な生き方とは、物事の表面的な見方のことです。
多くの人は盲目的に生きています。
それは、見ても見えず、聞いても聞こえず、触れても触れられず、受け取っても受け取れず、与えても与えられない人生のことです。
多くの人は空虚な人生を生きているのです。
しかしながら、それが空虚な人生であるとは知らないでいるのです。
盲目的に生きる多くの人は、空虚を喜んでいるのです。
空虚を幸福と思い込むこと程、虚しいこともないでしょう。
しかしながら、多くの人は虚しく生きているのです。
例えば、多くの盲目的に生きている人達は、他人に依存しています。
意識的にも、無意識的にも、他人を必要としているのです。
盲目的に生きている人は、他人を大切に考えています。
それが建設的に現れれば、他人を好みます。
それが破滅的に現れれば、他人を嫌うのです。
他人を好いても嫌っても、それは他人を大切にしていることに違いありません。
どちらにしても、他人に依存しているのです。
盲目的に生きている多くの人は、他人を部分的に捕らえはしても、全体的には捕らえません。
全体性を見失っているために、他人を特別視するようになるのです。
あなたにとって、他人とは何でしょうか?
他人について部分的に思考したとしても、その答えは導かれません。
人生における他人とは何か?という形の問い掛けをしなければなりません。
全体的に問い掛けなければ、部分的な本質を得ることはできないのです。
それでは、人生における他人とは何でしょうか?
あなたは他人を何だと思いますか?
多くの盲目的に生きている人達は、他人とは自分とは別人であり、特別な存在だと考えるでしょう。
しかしながら、それでは一つの矛盾を抱えることになるのです。
それは、同一の他人が人によって別人となるということです。
あなたの知っている相手と、別の誰かの知っている同一の人物は、別人であるのです。
人によってその相手に対する見解は異なります。
同一人物なのになぜでしょう?
それは、相手が自らのイメージの虚像であることを知らせます。
他人とは、自らの自我意識の投影に過ぎないのです。
あなたの向き合っている他人は、あなたの今の自我意識の状態に等しいということに気が付かなければなりません。
相手とは、自らのイメージが作り出した”何者”かであるのです。
そのため、多くの人は他人を部分的に捕らえることをやめず、全体と切り離すのです。
他人を特別視することによって、あなたは他人に期待し、他人を恐れなければなりません。
それでは、いつまで経っても他人に翻弄(ほんろう)され、その本質を知ることはできないのです。
あなたは他人のために生きているのではありません。
他人のために人生を学んでいるのではないのです。
あなたは自分を知るために生きています。
人生とは何か?という問いは、同時に自分とは何か?という問いでもあるのです。
何かを特別視してはなりません。
それは、対象を全体から引き離すことによってその本質を隠します。
”すべてはひとつ”なのです。
人生はあなたの意識の中に存在し、この世界は意識の投影です。
さて、あなたにとって、人生とは何でしょうか?
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