あなたが自分だと思っている存在は、あなたではありません。
あなたが自分だと思っている存在は、あなたの自我意識であり、それはあなたの弱い心なのです。
あなたは自らの所有する自我意識を自分だと思っています。
そして、自我意識を通して世界を見ているのです。
あなたが世界に対して受ける認識は、自我意識の見解です。
あなたは自我意識を通して覚えた見解を自らの見解として誤用しているのです。
自我意識という弱い心は、理想という願望を所有します。
自我意識は常に恐れています。
そのため、理想に反した状況を受け入れることができません。
自分の理解の及ぶ範囲の展開を好み、理解の及ばない範囲の展開を嫌うのです。
自我意識は自分が知ったつもりでいます。
自我意識とは思い込みそのものなのです。
認識が狭ければ、心は強さを得られません。
認識が広い程に、心は強さを得ることができるのです。
自我意識という弱い心は、狭い認識の中に存在しています。
それは、多くを受け入れることができません。
自分の理想通りの展開を期待し、それ以外を否定します。
残念ながら、あなたは人生を思い通りに展開させることはできません。
それは、自我意識の求める展開と、人生が求める展開は相違するからです。
自我意識の求める通りに人生が展開すれば、多くの問題が導かれるでしょう。
それは、自我意識が未熟であり、弱い心が求めるのは不足であるからです。
自我意識が求めるものは不足に起源します。
そのため、導かれる結果も不足であり、それは問題となるのです。
あなたが人生において豊かさを実現するためには、自然の理(ことわり)を受け入れる必要があります。
自然の理を否定することによっては、幸福を実現することはできないのです。
しかしながら、自我意識にとっては自然の理を理解することは難しいということを覚えておかなければなりません。
それは、自我意識の求める理想が、自然の理とは相違しているためです。
自我意識とは人工美です。
人が美しいと思うものは、自我意識の美しいと認めるものです。
人が醜いと思うものは、自我意識の醜いと認めるものなのです。
自我意識は複雑を理解することはできません。
ある程度の複雑さであれば理解することもできます。
しかしながら、複雑さのレベルが上がれば理解することができないのです。
あなたは森を見て、そこに理を見極められますか?
森を見て美しと感じることができるでしょうか?
自我意識は、人工の庭園を美しいと判断します。
そして、森は手入れがされておらず、荒れた場所だと判断するのです。
これは価値観の違いです。
自我意識の認める美の姿と、自然の認める美の姿には違いがあるのです。
自我意識が美しいと認める姿を、自然の理は美しいと認めません。
もしも、自我意識が美しいと認める姿を自然が美しいと認めるのであれば、自然界には自我意識の認める姿が形成されるはずです。
しかしながら、自然界には人工的な形は発生しません。
真似ているのはいつも自我意識の方なのです。
それは、自然の理が美しいということを、自我意識が知っているからなのです。
しかしながら、自我意識にはそれを認めることができません。
弱い心は自尊心を育むのです。
自我意識は自分の権利が脅(おびや)かされそうになれば声を荒げます。
自我意識は強烈な自尊心を持つのです。
そのため、あなたは簡単には自然美を受け入れることはできません。
自我意識に慣れ親しんだあなたには、自然の理を理解するのは簡単なことではないのです。
あなたには森の美しさを理解することができるでしょうか?
一見すれば、何の規則性もなく乱雑に自生しているように見える樹木も、一つ一つには意味と価値があるのです。
どのような樹木も、意味と価値を持ちます。
無意味な存在、無価値な存在はありません。
乱雑に見える生態系にも、自然の理が存在しているということを知りましょう。
この世界に無駄は存在しません。
あなたは、人生に不条理を感じていませんか?
自然災害という見解は、自我意識によるものです。
自然の理は、それを必要と認めているのです。
自我意識には、その美しさを理解することは出来ないのです。
それは自我意識を主体としている証明です。
あなたが真(本当の自分)に至れば、人生におけるすべての状況に条理を見るでしょう。
自我意識は未熟ですが、自然の理は成熟しています。
人生の不条理の美しさに気が付きましょう。
苦悩は本来、美しいのです。
人生には最善のみが導かれているのに、それを歪めているのはあなたの自我意識なのです。
あなたの自我意識が人生に不条理を感じているだけなのです。
自然の森の美しさに気が付くように、人生の美しさに気が付きましょう。
すべてが自然の恵みであることを知れば、人生に不条理など存在しないということを理解することができるでしょう。
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