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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年11月30日月曜日

新機軸

すべての存在には、必要に応じた役割が与えられています。
すべての存在がこの世界において活動しているために、その役割を否定することはできません。
与えられた役割に関しては、それを認識しているか?認識していないか?ということは問題ではありません。
それが全体的な意識状態であろうとも、個人的な意識状態であろうとも、すべての行為には必要な意味が現れるのです。
善悪は立場による価値観でしかなく、それによって必要不要を断言することはできません。
あなたの選択が、最終的にどのような効果を実現するかは、その時になってみなければ分からないのです。
善悪によって判断するのであれば、限定的に判断することになります。
それは、人が理性によって選択しているのではなく、不安定な感情によって選択しているに過ぎないからです。
善悪とは、感情論に過ぎないのです。
善悪とは、主観を通して現れる偏見に過ぎません。
主観を通して見るために、善と悪という二つの状態が別々に現れるのです。
主観を通して見なければ、善悪が別々に現れることはなく、その二つを兼ね備えた本質が現れるのです。
立場によって善悪が分かれるのであれば、その対象には善と悪の双方の性質があるのです。
主観の数によって現れる状態のすべてが、それの本質を現しているのです。
あなたが”赤”という色を判断する場合、他者と同じ色を判断しているとは限らないのです。
他者は、その”赤”をあなたよりも濃い色や薄い色合いとして認識している可能性があるのです。
あなたにはその判断はできませんが、一つの対象を完全に同じものとして認識していることはないのです。
それは、判断基準がそれぞれの背景を参考にしているからです。
背景とは、経験や知識や知性や思想などです。
その人を構成するすべての要素が、判断基準となるのです。
背景は人によって違うので、その判断は違うものとなるのです。
あなたの判断とは、本質に対して不安定なものであり、偏見そのものであるということが言えるのです。
どれだけ自分を正当化しても、すべての”角度”を手に入れることはできません。
そのため、与えられた役割を認識しているか?認識していないか?ということは問題ではないのです。
問題なのは、与えられた役割を果たさずにいることにあります。
与えられた役割を正確に認識することはできません。
しかし、現状において自らがやらなければならないことや、できることを認識することは可能です。
多くの人は、やらなければならないこと、できることを蔑(ないがし)ろにしている傾向があるのです。
それは、恐怖や諦め、そして、甘えによってです。
多くの人は恐怖や諦めや甘えを所有しています。
それ等の価値観によって、視点は限定的になります。
何か一つの状態に捉われてしまえば、視野は狭くなり、固まってしまうのです。
そうなれば、例えば善悪による判断が生じるようになるのです。
広い視野は、捉われないことによって生まれるのです。
全体的に見なければ、本質を理解することはできません。
購入した花瓶の側面は、美しい造形や色艶(いろつや)や値段だけではないのです。
それを販売する店舗、業者、製造に携わる人たち、そして、原材料とそれを育んだ自然・・・
ただの花瓶であっても多くの側面を持っており、それは価値観によっては善悪に分かれるのです。
花瓶一つであっても、様々な役割によって実現しているということを理解しましょう。
花瓶という結果を生み出すためには、多くの役割が必要となるのです。
この世界には常に多くの結果が導かれています。
その結果を導くために、すべての存在には必要な役割が与えられているのです。
この世界が花瓶という結果を求めるならば、その結果を生み出すために役割が与えられるのです。
土に、水に、火に、風に、人に・・・
花瓶という結果のために必要な存在に対して、必要な役割が与えらえるのです。
しかし、土や水や火や風には、自らの役割を認識することができないかも知れません。
しかし、それ等の役割無くして、花瓶という結果は決して導かれないのです。
あなたは、自らに与えられた役割の意味を理解することはできないかも知れません。
しかし、それは必要であるために与えられているのです。
今、自分がやらなければならないことや、できることは、何かしらの結果を導くために必要な働きとなるのです。
あなたには、結果がいつ、どのような形で実現するかは分からないでしょう。
しかし、それは確実に実現するのです。
土と水、火と風、そして人が手を抜いていれば、良い花瓶は生み出されないのです。
花瓶という結果は生じますが、褒(ほ)められない駄作(ださく)が生じるのです。
この世界にも同じことが言えます。
未来がどうなるか分からないからといって、懸命に生きない者がいます。
そのような者が携わった結果は、決して褒められたものにはならないのです。
何のためになるかは分からずとも、今やらなければならないことや、できることに手を抜いてはなりません。
懸命に努力していましょう。
新機軸(しんきじく)は、一つ一つの質の高まりによって実現するのです。

2015年11月29日日曜日

仕事

すべての人には役割が与えられています。
すべての人が自らに与えられた役割を果たさなければなりません。
役割とは、目の前の仕事として導かれます。
どのように小さな仕事であろうとも、自らが行わなければならない仕事であるのならば、何をおいてもそれを果たさなければなりません。
他人がその役割を果たすことはありません。
自らに与えられた役割は、他人に与えられた役割ではないからです。
多くの人は、自らの役割を知りません。
やらなければならない仕事があるにもかかわらず、それを自らの役割であるとは認識していないのです。
その結果として、甘えが生じます。
甘えは腐れです。
それは、苦悩を導くに容易(たやす)いのです。
多くの人は甘えを所有しています。
なぜなら、自らの役割を自力によって果たそうとするよりも、他人に任せ、依存することによって果たそうと考えているからです。
自力によって目の前の問題を解決しようと考え、実行している者がどれだけいるでしょうか?
多くの者は他人を頼るのです。
他人を頼ることが悪いと言っているのではありません。
自力によって及ばない部分を助力してもらうことは構いません。
しかし、自らの仕事を果たす努力に励(はげ)む前に、他人の力を当てにするのです。
耐えることと、努力することは違います。
耐えることは、ただ受けることであり、努力することは創意工夫によって可能性を広げることなのです。
多くの人は耐えることを努力と考えます。
苦しみに耐えている自分を褒(ほ)めようとし、他人のところに出向いては褒めてもらおうとするのです。
耐えることなど誰にだってできるのです。
それは特別なことではありません。
野に咲く小さな花でさえ、嵐に耐えます。
あなたはそれを褒めるでしょうか?
苦しみに耐えることを賞賛(しょうさん)する必要はありません。
なぜなら、それは当然のことだからです。
当然のことをしているのに、どうして賞賛される必要があるのでしょうか?
苦しみの中にあって、それを切り開く努力こそが賞賛されるべきなのです。
結果など気にする必要はありません。
思い通りの結果など、人生においては必要ではないのです。
なぜなら、あなたの理想ほど信用ならないものはないからです。
すべての人は未熟であり浅はかです。
未熟者の理想を賞賛することができるでしょうか?
あなたは知恵の無い者が理想を語るのを聞いて、それを褒めることができるでしょうか?
あなたに知恵があれば、寧(むし)ろ、それを窘(たしな)めることでしょう。
例えば、盗みを働いて喜んでいる者に対して、賢者は忠告するのです。
知恵の無い者にとっては、盗品は喜びの味であり、賢者にとっては毒となるからです。
理想に従って生きても、別の結果を受けることになるのです。
そのため、理想を頼りにすることはできないのです。
あなたは自らの役割を知らなければなりません。
やらなければならない仕事を疎(おろそ)かにしてはなりません。
愚かな者は、自らの仕事を放り出して遊び耽(ふけ)ります。
しかし、それが正しいことだと思い込んでいるため、そこには罪悪感などはありません。
そして、愚かさは増していくのです。
自分を正当化すれば、人は大切なものを見失います。
与えられた仕事を果たすことなく、どうやって幸福を得るのでしょうか?
仕事が進んでないことを弾劾(だんがい)されるのは、与えられた仕事をせずに遊んでいた者であるのです。
すべての仕事には、主人がいます。
どのような仕事も必ず、主人によって審査(しんさ)されるのです。
自分勝手な仕事などこの世には存在しません。
仕事の主人は、それを評価するすべての存在です。
あなたの仕事ぶりは、必ず評価を受けます。
それを避けることはできません。
後に悔いることのないように懸命に働いておきましょう。
仕事を疎かにしてはなりません。

2015年11月28日土曜日

正道

人の行く道は、それぞれに違うものです。
すべての人には、それぞれに応じた役割が与えられています。
それを知っている者もあれば、それを知らずにいる者もいます。
どのような状態であろうとも、人はそれぞれの道を所有しているのです。
すべての人が自らの道を進みます。
人生というものは、道であるからです。
それは、生き方とも言えるでしょう。
どのように生きるのか?ということが、どのような道を歩むのか?ということなのです。
道の先には目的地が存在しています。
どの道を進んでも、終着には必ず目的地が存在しているのです。
そのため、すべての人が何かしらの終着を得るのです。
それは、道の結果です。
すべての人は、自らの生き方によって、その結果を得るのです。
生き方が自らにとって良いものであれば、目的地を喜ぶでしょう。
しかし、その生き方が自らにとって悪いものであれば、目的地に苦しむことになるのです。
悪いものとは”毒”のことです。
毒を飲めば、その効力によって苦悩を得ることになります。
間違った生き方をすれば、その効力によって苦悩を得ることになるのです。
人それぞれに道は違います。
これは、あなたにとって良いか?悪いか?ということなのです。
他人と比較して理解することができるものではありません。
見極めるのに必要なのは、自らの心だけです。
そこに矛盾が存在しているのであれば、それは自らにとって悪いものとなります。
人は矛盾を抱えて生きてはならないのです。
矛盾と道を共にする者がいますが、必ず苦悩に辿り着くのです。
矛盾を連れて喜びに辿り着く者はいません。
なぜなら、矛盾とは、道に迷っている状態であるからです。
道に迷っていなければ、心に矛盾を覚えることもないのです。
間違っていると知っている(感じている)ために、矛盾を抱えるのです。
そのため、矛盾を感じるのであれば、一旦歩みを止める必要があるでしょう。
歩むのを止めて、冷静に顧(かえり)みる必要があるのです。
そうでなければ、矛盾を抱えたまま道を進んでしまうことになります。
自らにとって間違った道を進むのに、どうして喜びに向かうことができるでしょう。
多くの人は矛盾を抱えたままで歩みます。
その矛盾に気が付いていながらも、その歩みを止めることも、道を変えることもしないのです。
不安によって恐れているために勇気がなく、道を改めることができないのです。
多くの人が惰性(だせい)によって生きています。
環境や状況、時代が変わったにもかかわらず、既成概念(きせいがいねん)から離れようとはしないのです。
その”船”が沈んでいるにもかかわらず、それに乗っていれば目的地に辿り着くと本気で思い込んでいるのです。
これほど哀(あわ)れなことはありません。
既に船は傾き、足元には水が迫っているのです。
そのような状況であっても、そこから離れようとはしないのです。
冷静に考える必要があります。
これまでと同じように生きることなど不可能なのです。
頑(かたく)なに生きてはなりません。
自らの道がどのようなものであるのか?ということを追求し続ける必要があります。
その生き方が他人とは別のものであったとしても、それが自らにとって正しいのであれば、それを貫(つらぬ)くべきなのです。
矛盾を抱えながら生きてはなりません。
それは、あなたの毒となります。
一般的な善悪などどうでも良いのです。
矛盾を抱えていても、習慣によって隠されてしまいます。
矛盾に対して無頓着(むとんちゃく)であれば、いつしかその矛盾を忘れてしまうのです。
元々の矛盾を忘れてしまえば、その状態が正しいという思い込みが生じます。
本来ならば毒となるものを薬として認識してしまうのです。
麻痺(まひ)してはなりません。
自らの心の中の矛盾を許してはなりません。
本当に大切にしなければならないものが何であるのか?ということを考え続けましょう。
矛盾を忘れてはなりません。
あなたは正しい道を進まなければならないのです。

2015年11月27日金曜日

主人と客人

この世は誰の所有でしょうか?
この世の所有者は、それを統べる者です。
この世の司(つかさ)こそが、この世の主人であるのです。
あなたはこの世を司る者を知っていますか?
それはすなわち、あなたの心臓を鼓動させ、水が地に降り海に溜まることを行う者です。
その者こそが、この世の統治者であり、司なのです。
多くの人は、それを”神”と呼びます。
それは、この世の理(ことわり)です。
法則や規則と呼んでも構いません。
呼び方は何でも良いのです。
この世を統べる力こそが、この世の主人です。
主人の許しがなければ、誰も門を潜ることはできません。
主人の許しがなければ、誰も家屋に上がることはできません。
主人の許しがなければ、誰もこの世には至らないのです。
すべての存在は、主人である”神”の許しによってこの世に至りました。
誰一人として、無断で上がり込んだ者はいません。
そのようなことは、誰にも許されないのです。
そのため、この世におけるすべてが必要によって満たされています。
存在するすべては、”神”の客人であるからです。
しかし、客人であるからといって、好き勝手に振る舞うことは許されません。
あなたが客人として他人の家に招かれたからといって、自らが主人のように振る舞うことが許されるでしょうか?
その家の主人に力があるのならば、あなたが初め客人として招かれたとしても、戒(いまし)めを以て抑え止められるでしょう。
この世の主人も、好き勝手に振る舞う客人には同じことをします。
ただし、その者が自分の立場を正しく理解するために最善の方法と時期を用いて行います。
すべての者は、自分が”神”の客人であるということを悟らなければなりません。
なぜなら、あなたにはこの世をどうすることもできないからです。
家の仕来(しきた)りを、主人以外の誰かが変えることができるでしょうか?
そのようなことは不可能です。
客人が何かを主張したところで、家の者がそれを聞き入れるでしょうか?
そのようなことはありません。
客人は客人として振舞わなければならないのです。
多くの人は無知から、自分が主人であると思い込んでいます。
そのために、自惚れと高ぶりに陥ります。
また、それとは反対に、自己批判と自己憐憫(じこれんびん)に陥ることもあるのです。
どちらも、自分を主人であるとする振る舞いから生じる身勝手な行為なのです。
人はなぜ、自分の立場を理解しないのでしょうか?
この世に招かれたことを知らず(忘れ)、自らを主人とするのでしょうか?
その家の主人と多くの客人の前で、自分こそがこの家の主人であると主張するのは間違いです。
それは、主人からの憐れみを受け、他の客人の嘲笑(ちょうしょう)の的になってしまうでしょう。
愚かな者には自分の立場を理解することができないのです。
主人と多くの客人の前で、自らが主人であると宣言するのです。
その客人は、主人を偽る者と呼ばれ、主人に逆らって立ちます。
主人は、それを客人に対して無礼にならないように悟らせようとするのです。
客人が”酒に酔って”、自分が主人であると叫んだところで、怒りを以て戒めるような真似はしません。
それは、その客人が”酒に酔っている”ことを知っているからです。
主人は、ありとあらゆる持て成しをします。
客人は自分の好きなように楽しむことができるのです。
招かれた食卓には、”水”と”酒”が用意されています。
それ等は良く似ています。
しかし、良く観察すればその違いを理解することができるのです。
どちらを飲んでも構いません。
しかし、その選択によって招かれた時間がどのようなものになるのか?ということが決まるのです。
”水”によって料理を味わうも良し、”酒”によって醜態(しゅうたい)を晒すのも良いのです。
それは、自分で決めれば良いでしょう。
しかし、この世の主人が誰であるのか?ということを見失ってはなりません。
自らが客人の一人に過ぎないということを覚えておきましょう。

2015年11月26日木曜日

歪んだ世界

すべての選択は、自らの役割に関連するものであるべきです。
すべては必要で満たされていますが、それは、初めから必要な形であるということではありません。
地から収穫したものを、そのまま食すのも構いませんが、それでは喜びは少ないのです。
地から収穫すれば、それを持ち帰り、調理して食せば喜びは大きなものになるのです。
目の前の選択肢に対して、何の考慮も示さなければ、喜びは少ないのです。
少しでも喜びを得られるのならば良いですが、喜びを見出すことができない者もいます。
選択によっては、命を落とすことにさえ繋がる可能性があるのです。
調理すれば美味の食材も、そのままでは不味(ふみ)や毒となることなど珍しくはないのです。
自らの選択によって、結果を変えることができるのです。
その時に重要になるのが、自らの役割や能力に対して、その選択が建設的であるのか?ということです。
自らの役割に対して、破滅的な選択をすれば、喜びを得ることができず、時として命を落とすのです。
食べられる食材もあれば、食べられない食材もあるのです。
この当たり前のことを、唯心的に考慮する必要があるのです。
それぞれの肉体にはアレルギー反応を引き起こす食材が存在します。
口にして美味と思う食材がある一方、不味と思う食材もあります。
これは、肉体にとっての是非(ぜひ)を示しているのです。
不味に感じる食材や、アレルギー反応を引き起こす食材を口にし続ければどうなるでしょう?
喜びは薄れ、怒りが込み上げてくるでしょう。
そして、自らの意思に関係なく、肉体は病に倒れるのです。
人生における不味やアレルギーとは、”やりたくないこと”や”(精神的に)できないこと”です。
やりたくないことは、魂(心)には不味であるのです。
やりたくないことを続けていれば、人生の喜びは薄れ、怒りに支配されるようになります。
(精神的に)できないことを続けているのであれば、精神や病に倒れるのです。
やりたくないことや(精神的に)できないことは、あなたの役割に関連してはいません。
人は、それぞれに”やりたいこと”や”(精神的に)できること”を持っているのです。
それは、自らの役割に関連していることであるために、それぞれがやりたいことや(精神的に)できることを始めても、世界が壊滅(かいめつ)することはありません。
”神”は完全な形を導くのです。
世論は、自らの役割に関連しない仕事を促(うなが)します。
大抵の人は自らのやりたい仕事に従事してはいません。
金銭のため、生活のため、贅沢のため、地位のため、名誉のため、自尊心のため、自慢のため、恐怖のため・・・
このような虚しい目的のために仕事を選んでいます。
自らの役割のことを考えている人は少ないのです。
どのような仕事であっても、それに心の底から従事したいと思う人がいるのです。
しかし、世間体がそれを阻みます。
そのため、自らを偽り、不味やアレルギー反応を引き起こす食材を無理矢理に口の中に押し込んでいるのです。
あなたは何のために働いているのですか?
あなたの役割は何ですか?
何のために生まれたのですか?
何者なのですか?
自分自身を知らなければ、何を選択すれば良いのかを知ることができません。
恐怖に支配されることなく、心の底からやりたいことをしましょう。
金銭や生活や自尊心のために仕事(人生)を選んではならないのです。
このように言うと、あなたはそれ等がなければ生きてはいけないと反発するでしょう。
しかし、本当にそうでしょうか?
小さな価値観によって判断してはなりません。
世界中に存在するすべての人の生き方を知っているのですか?
あなたの知らない生き方があるのです。
あなたの周囲の人達の生き方が正しいとする理由は何ですか?
彼等は喜びに満たされ、良い人生だったと誇(ほこ)っているでしょうか?
深く考察する必要があります。
自らの役割に関連しない選択を続ける人が、どうして幸福なのでしょうか?
多くの人が自らの役割に関連することなく生きるために、世界は歪んでいるのです。
この歪みに気が付きませんか?
あなたやあなたの大切な人達がそこに生きるのですよ?
それで良いのですか?
他人を変える力などありません。
選択は、自らに対して有効なのです。
どう生きるべきなのかを考える時が来たのです。

2015年11月25日水曜日

真の仲間

仲間とは、共通する目的のために努める協力体系です。
共通する目的を持つことが前提なのです。
目的が共通していなければ、その関係を仲間であるとは言えないのです。
多くの人は仲間を誤解しています。
ただ、共に集うことを仲間だと思い込んでいるのです。
共通する目的を持たなくても、同じ場所にいるだけで仲間であると思っているのです。
時間や場所を共有するだけで仲間なのでしょうか?
争っている相手であっても、時間や場所を共有しているのです。
多くの人は仲間の定義を誤解しているために、偽りの仲間に安心感を覚え、目的を果たすことなく過ごしているのです。
目的を果たすこともなく生きることに、何の喜びがあるのでしょうか?
それは、虚しい人生だとは思いませんか?
目的を知らず、それを果たすこともできない人生に、真の満足があるのでしょうか?
そこには、偽りの満足と、決して満たされない魂(心)があるのです。
偽りの仲間に紛れて、真の目的を果たすことができるでしょうか?
偽りの仲間は、あなたの目的のために協力することはできません。
なぜなら、その人達には別の目的があるからです。
人は、自分の目的のために生きることはできても、他者の目的のために生きることはできないのです。
人は、他者の代わりを果たすことはできないのです。
他者が乾いていたとしても、あなたにはそれを代わりに潤すことはできないのです。
あなたが代わりに水を飲んでも、あなたの渇きが潤うことはあっても、他者がそのようになることはないのです。
そのため、人は自力によって満足を得る必要があります。
それぞれが自力を持ち寄り、共通の目的のために努めれば、それが実現する確率は高まります。
そこには、最高の喜びが導かれるのです。
真の仲間でなければ、最高の喜びである達成を実現することはできないのです。
それぞれが別々の目的のために働く組織が、どうやって目的を果たすというのでしょうか?
そのような組織は、空中分解するのが落ちなのです。
偽りの仲間であっては、達成を実現することはできません。
この世界を甘く考えてはなりません。
どれだけの人、どれだけの組織が、最高の喜びを目指していると思っているのですか?
偽りの仲間によって、対抗(争いではない)することができると思っているのですか?
最高の喜びとは、至高に存在するのです。
地上の山々(頂上)のように、至高はたくさんあります。
それぞれが至高に達することができるのです。
至高と言えども、その場所は一つではないのです。
それぞれの目的の最高水準を目指すのです。
そのためには、最高の協力者が必要です。
仲間と共に努めなければ、最高の喜びを実現することはできないのです。
多くの人の心根には、恐怖の感情が存在しています。
そのため、孤独や努力に対して恐怖を覚えることがあるのです。
多くの人は孤独や努力を恐れているために、偽りの仲間に紛れて偽りの安心感を味わっているのです。
しかし、それは後の苦悩に繋がるということをはっきりと言っておきます。
時間や場所を共有しているからといって仲間ではありません。
馴染(なじ)みによって仲間なのではありません。
同じ屋根の下で生活しているからといって仲間ではありません。
”口約束”をして家族という関係を得たからといって、仲間ではありません。
同じ女の身体から生まれたからといって仲間ではありません。
血の繋がりがあるからといって、それだけでは仲間ではないのです。
仲間とは、共通する目的のために努める協力体系だからです。
目測を誤れば、目的を果たすことはできません。
多くの人は常識や伝統に惑わされ、物事の本質が見えていません。
そのため、何も果たすこと(真の満足感)なく人生を去らなければならないのです。
後悔するようではならないのです。
何のための人生なのですか?
それを知るためには、自らの目的のための真の仲間を知る必要があるでしょう。

2015年11月24日火曜日

立場

人は自らの立場を理解しなければなりません。
多くの人は自らの立場を理解してはいません。
自らがどのような立場にあるのかを知らないでいるのです。
そして、自らの小さく歪んだ価値観が導き出した立場を妄想し、それに正義を掲げるのです。
しかし、それは偽りの正義を掲げているに過ぎません。
自らの立場を弁(わきま)えてすらいない者が、どうして正しい義を貫(つらぬ)くことができるというのでしょう?
自分がどこにいるのか?
どのような役割を担っているのか?
何をするべきなのか?
誰なのか?
これ等に答えることができなければ、立場を理解することはできません。
このような基本的な知識を持たずに、義を果たすことなどできるはずがないのです。
立場を理解しない者の行為は愚かです。
何をやっても、それは愚行として導かれます。
なぜなら、立場を弁えていないために、すべての行為が見当はずれであるからです。
理解によって、何事も正しく行うことができます。
理解することがなければ、正しく行うことなどできないのです。
多くの人は、自らの立場を理解していると考えています。
そして、自らの行為が正しいと思い込んでいるのです。
その人が自らの立場を理解しており、その行為が正しいものかは、結果によって知ることができます。
その人が苦悩に合わなければ、その理解と行為は正しいものであるでしょう。
賢者に戒(いまし)められなければ、それは正しいのです。
賢者とは、真理に近い立場を得る存在です。
それは、人に限りません。
真理ですら、賢者の一人なのです。
与えられる結果が”良いもの”であるのならば、その行為は立場から生じたものであるのです。
それは、真の満足と豊かさを導きます。
自らの立場を理解しない愚かな者には、真の満足と豊かさが導かれることはありません。
何を得てもその渇(かわ)きが潤うことはなく、何を得てもその飢えが満たされることはないのです。
そのため、立場を理解しない愚かな者は貪欲(どんよく)に付き纏(まと)われ、繰り返しの中に溺れ死ぬのです。
自らの立場を正しく理解しているのであれば、その時に必要な選択と対応を導き出すことができます。
そのような人は問題に会うにしても、それに苦悩することはないのです。
しかし、立場を理解していない愚かな者であっても、すぐに苦悩が導かれるとは限りません。
それは、蒔かれた種がすぐには実を収穫させないのと同じです。
それは、徐々に現れ、気が付いた時には手遅れであるのです。
そのため、愚かな者は収穫の時に大きく苦悩することになるのです。
因果の仕組みによって、すべては正しく導かれます。
立場に相応しい行為によってのみ、真の満足と豊かさが導かれます。
多くの人は驕(おご)り高ぶっています。
自分が”偉い”と思い込んでいるのです。
そして、自分が役に立っていると思い込んでもいます。
自分が何かや誰かにとって必要な存在だと思い込んでいるのです。
その結果、立場を弁えない愚行に走るのです。
愚かな者は、自らの立場に不釣り合いな選択をします。
稼ぎも無いのに贅沢に暮らそうとするのです。
知恵も無いのに褒(ほ)められようとします。
理解していないのに理解して欲しいと懇願(こんがん)します。
与えてもいないのに欲します。
愚行を以て許してもらおうとするのです。
人は自らの立場を理解しなければなりません。
立場を理解するならば、自らに不釣り合いな行為を続けることもないのです。
すべての苦悩は愚かさから生じます。
自らの立場を理解しない愚かさが、苦悩を引き起こすのです。
しかし、愚かな者はそのことにさえ気が付きません。
誰かや何かが悪いと考えるからです。
自らの立場が分かっていないのです。
愚かに生きるのをやめましょう。
自らを反省して、立場を弁えましょう。

2015年11月23日月曜日

教訓

人は教訓を得なければなりません。
教訓は、あなたを人たらしめるでしょう。
教訓を得なければ、人が人であることはできません。
教訓を持たないそれは、理性を失った獣のようなものです。
獣とは、野生動物のことではありません。
野生動物は、理性的に生きているのです。
彼等には無駄(自我)はありません。
すべての野生動物が集合意識に寄り添って存在しているのです。
そのため、彼等の築く社会(自然界)は豊かに栄えるのです。
獣が築く社会が豊かに栄えることはありません。
それは、教訓を軽んじるからです。
教訓を軽んじることは、理性を離れ、欲望のままに生きることに繋がります。
欲望のままに生きるということは、奪い合うという生き方なのです。
奪い合う社会構造が、豊かさを導くことはありません。
互いに争うことによって滅びるのです。
教訓を軽んじる者が多いのです。
理性を離れ、欲望のままに生きる者が多いのです。
多くの人は人に非(あら)ず、獣として生きています。
獣とは思慮の無い、人成らざる者のことです。
人とは、思慮深い者のことです。
思慮に欠けるのであれば、獣に近いのです。
それは、周囲の環境を破壊しながら、我が物顔で居座るのです。
あなたはそのように生きてはなりません。
教訓を重んじ、自らを人たらしめるのです。
理性を離れてはなりません。
奪い合ってはなりません。
欲してはなりません。
与えなければならないのです。
与えるという行為は、理性の成せる業(わざ)です。
理性が存在しなければ、与えることはできないのです。
野生動物は、弱い者に与えます。
彼等は実に理性的です。
人の姿をした獣が与えることはあるでしょうか?
残念ながらありません。
利益のためにそのように振る舞うことはありますが、利益のための振る舞いであって、弱い者を助けるためではないのです。
教訓とは、真理です。
すべての教えは真理を伝えるのです。
そのため、人は教訓を重んじなければなりません。
因果の仕組みは大切な教訓です。
すべての結果は原因に起源します。
原因の無い結果など存在しないのです。
与えれば与えられ、奪えば奪われます。
原因に対して、その通りの結果が導かれます。
教訓を得ない者は、そのことを知りません。
そして、思慮を失うのです。
しかし、一人前に豊かさを求めています。
しかし、教訓を持たないために豊かさを得ることはできないのです。
あなたが豊かさを得たいと願うのであれば、教訓を得るように心掛けましょう。
教訓は自力によって得る必要があります。
世界は常にあなたに教え諭(さと)しています。
しかし、それに気が付くことがなければ、教訓を得ることは叶いません。
何事に対しても、思慮深く観察しなければなりません。
欲するだけでは決して気付きません。
与えるために欲すれば、あなたは教訓を得ることができるでしょう。
即(すなわ)ち、真理に気付くことができるのです。
動機は、与えるためとしておきましょう。
それは、理性を離れることがありません。
何を与えることができるかを考え、どのような教訓を得ることができるのかを考えましょう。

教訓

人は教訓を得なければなりません。
教訓は、あなたを人たらしめるでしょう。
教訓を得なければ、人が人であることはできません。
教訓を持たないそれは、理性を失った獣のようなものです。
獣とは、野生動物のことではありません。
野生動物は、理性的に生きているのです。
彼等には無駄(自我)はありません。
すべての野生動物が集合意識に寄り添って存在しているのです。
そのため、彼等の築く社会(自然界)は豊かに栄えるのです。
獣が築く社会が豊かに栄えることはありません。
それは、教訓を軽んじるからです。
教訓を軽んじることは、理性を離れ、欲望のままに生きることに繋がります。
欲望のままに生きるということは、奪い合うという生き方なのです。
奪い合う社会構造が、豊かさを導くことはありません。
互いに争うことによって滅びるのです。
教訓を軽んじる者が多いのです。
理性を離れ、欲望のままに生きる者が多いのです。
多くの人は人に非(あら)ず、獣として生きています。
獣とは思慮の無い、人成らざる者のことです。
人とは、思慮深い者のことです。
思慮に欠けるのであれば、獣に近いのです。
それは、周囲の環境を破壊しながら、我が物顔で居座るのです。
あなたはそのように生きてはなりません。
教訓を重んじ、自らを人たらしめるのです。
理性を離れてはなりません。
奪い合ってはなりません。
欲してはなりません。
与えなければならないのです。
与えるという行為は、理性の成せる業(わざ)です。
理性が存在しなければ、与えることはできないのです。
野生動物は、弱い者に与えます。
彼等は実に理性的です。
人の姿をした獣が与えることはあるでしょうか?
残念ながらありません。
利益のためにそのように振る舞うことはありますが、利益のための振る舞いであって、弱い者を助けるためではないのです。
教訓とは、真理です。
すべての教えは真理を伝えるのです。
そのため、人は教訓を重んじなければなりません。
因果の仕組みは大切な教訓です。
すべての結果は原因に起源します。
原因の無い結果など存在しないのです。
与えれば与えられ、奪えば奪われます。
原因に対して、その通りの結果が導かれます。
教訓を得ない者は、そのことを知りません。
そして、思慮を失うのです。
しかし、一人前に豊かさを求めています。
しかし、教訓を持たないために豊かさを得ることはできないのです。
あなたが豊かさを得たいと願うのであれば、教訓を得るように心掛けましょう。
教訓は自力によって得る必要があります。
世界は常にあなたに教え諭(さと)しています。
しかし、それに気が付くことがなければ、教訓を得ることは叶いません。
何事に対しても、思慮深く観察しなければなりません。
欲するだけでは決して気付きません。
与えるために欲すれば、あなたは教訓を得ることができるでしょう。
即(すなわ)ち、真理に気付くことができるのです。
動機は、与えるためとしておきましょう。
それは、理性を離れることがありません。
何を与えることができるかを考え、どのような教訓を得ることができるのかを考えましょう。

2015年11月22日日曜日

”神”を見る

長らく観察しているのであれば、物事の本質が表面にはないことに気が付くでしょう。
短い観察時間であれば、そのことに気が付くことはできません。
なぜなら、人が肉体を通して見る時には、肉体の経験によって形成された思考や価値観を基準に判断せざるを得ないからです。
肉体の経験とは、”あなた”が肉体に入ってからの経験のことです。
肉体を以て母から生まれた後の経験なのです。
肉体の経験とは、小さな世界の体験です。
それは、何も経験していないに等しく、その判断は確実に未熟なものです。
しかし、多くの人は肉体の経験によって正しく判断することができると考えています。
次の状況も今までの経験と同じような結果に至ると思っているのです。
そして、経験上知り得た情報が正しいと考え、それが本質であると思い込んでいるのです。
多くの人は自らを正当化するために、結論が経験値の域を出ることができません。
物事の判断は、経験値の領域で処理されるのです。
そして、経験値の領域内に結論が至るように修正します。
これまでに経験のない事態を得たとしても、その結論は経験値の領域内で導かれるのです。
唯物論を支持している者は、その本質を唯物論に頼ります。
唯神論を支持している者は、その本質を唯神論に頼ります。
どちらも正しく、どちらも間違っています。
人は、”あなた”と肉体の合作です。
”あなた”とは意識であり、これを捉えるには唯神論が必要です。
肉体とは肉と血と骨であり、これを捉えるには唯物論が必要なのです。
人を捉えるためには、唯物論と唯神論の二つを用いなければならないのです。
多くの人はどちらかに偏っているものです。
自分ではバランスを取っているように思うかも知れませんが、その基準が間違っていればバランスを崩しているのです。
人が物事の本質を見極めることができなければ、そこには苦悩が導かれます。
何かに対して苦悩を覚えている人は、バランスが崩れているのです。
勿論、無知であればどうしようもありません。
そのため、唯物的にも、唯心的にも知識に長けていなければならないのです。
何かに対して長らく観察していると、誰であってもその対象を唯物論だけでは説明することができないことに気が付きます。
例えば、何の変哲もない陶器であっても、長らく観察しているのであれば、それが泥と火であるとは思わないでしょう。
何の変哲もない陶器であっても、それが人によって作られたものだと理解し、そこには”心”があることを理解することができるはずです。
何事に関しても、唯物論と唯神論の両方を用いる必要があるのです。
人が陶器を”心”によって作り出すように、すべての存在は”心”によって作り出されたのです。
世界(時空)という大きなものから、足元に列を成して働く蟻(あり)。
そして、あなたが認識することさえできない極小の物質やエネルギーまで、すべての物質は”心”によって作り出されたのです。
人はそれを”神”と呼ぶのです。
長らく観察していると、誰であっても”心”に出会うことができます。
そして、その気付きが”神”を思い出させるのです。
あなたが”神”を知りたければ、唯物論と唯神論のバランスを保ち、無知を退けなければなりません。
唯物論と唯神論の両方を使って見るのです。
それは、左右の目を使って物を見るのに似ています。
片方の目だけで見れば、対象を正しく認識することはできません。
目の前の物でさえ、片目では掴むことが難しいのです。
”神”を掴むためには、両目を開く必要があるのです。
唯物論に傾いている者は唯神論を取り入れましょう。
唯神論に傾いている者は唯物論を取り入れるのです。
反対の目を否定してはなりません。
陰と陽の二つが両立するのが自然なのです。
唯物論と唯神論は、両立するのです。
”神”を見る者に苦悩はありません。
”神”を見ることができるのならば、苦悩する必要がなくなるのです。
それは、苦悩ではなく”神”を見ているからです。
人は自らの歪みや不足に気が付かなければならないのです。
自らを正当化して無知を誤魔化していてはならないのです。
そのような方法がいつまでも通用するほど、世界は甘くないのです。
すべての偽りは暴かれ、追求されるということを知っておきましょう。
無知は故意ではありませんが、無知が偽りであることには違いないのです。
物事を観察している時には、その本質が表面にはないということを覚えておきましょう。
”神”は本質にこそ存在しているのです。

2015年11月21日土曜日

賢い子よ、すべてに”時”があることを知りなさい。
”時”を置き去りにして、物事が成就(じょうじゅ)することはありません。
物事の必要条件の中には”時”も含まれているのです。
何かが一つでも欠ければ、条件は整いません。
条件が整わなければ、決して実現することはないのです。
多くの人は”時”があることを知りません。
そのため、”時”に関係なく行います。
それは、自我によって自分勝手に始めるのです。
自分勝手に行って、物事が成就することはありません。
条件を無視しては、何事も実現しないのです。
賢い子であれば、そのことが分かるはずです。
そのようなことも分からないようではならないのです。
冬に蒔(ま)いた種は、発芽するでしょうか?
発芽しても、永らえることはありません。
寒さと霜に耐えられません。
それに、食料の乏しい冬には鳥によって持ち去られます。
発芽する条件や、持ち去られない条件を整えなければなりません。
発芽することもできないのに世話をしても、成果を得ることはできません。
既に持ち去られているのに水をやっても同じことです。
”時”を無視してはいけないのです。
多くの人は”時”があることを知らずに焦ります。
上手くいかないことが”時”にあることを知らないのです。
相手が不機嫌な時に、前向きな返事を聞き出すことができるでしょうか?
”時”を知らなければ、厳しい言葉を得ることになるでしょう。
”時”を知らずに辛抱しない者がいます。
継続する必要があるのに、そのことに気が付かないのです。
それとは反対に、諦めなければならない時に、執着するということもあるのです。
”時”を知らないだけで、結果は大きく変わるのです。
そのことを知らなければなりません。
”時”を見ることが求められます。
タイミングを計るのです。
何事も焦ってはなりません。
何事も伺(うかが)わなければなりません。
何事も辛抱しなければなりません。
何事も諦めなければならないのです。
自分勝手に行うことで、上手くいくことが何かあるでしょうか?
自分勝手に行うことで、一時的には上手くいくことがあったとしても、それはあくまで一時的であるのです。
自分勝手な行いによって得られる利益は、一瞬のものであるのです。
そのような行為によって得られる”時”は短いのです。
賢い子よ、すべての”時”を見極めなければなりません。
”時”を見誤れば、すべてが破滅するでしょう。
時間通りに到着する電車に、遅刻して乗り込むことなどできないのです。
多くの人が早過ぎるか遅過ぎるのです。
青い果実は口に苦いのです。
その時には、色付くのを待たなければなりません。
良く観察しましょう。
そうすれば、全体の動きを知ることができます。
全体の動きを知れば、”時”を見ることもできるでしょう。
一辺倒に見ているために”時”を知ることができないのです。
賢い子よ、すべての”時”を認めなさい。
自分勝手に行ってはなりません。
あなたが賢い子であることを祈っています。

2015年11月20日金曜日

雇い主

すべての人には役割が与えらえています。
人は、それぞれの立場によって、それぞれの仕事をしなければなりません。
自らの仕事を放棄することは、役割の放棄に繋がり、その恩(おん)を与えてくれた者への反抗となるのです。
恩を仇(あだ)で返す行為は、一切が苦悩という結果を導きます。
自らの行為は、因果の仕組みによって正しく反映されるのです。
しかし、多くの人はそのことを知りません。
因果の仕組みを無視して、自分に都合の良いように考えているのです。
そのため、原因を所有していないにもかかわらず、多くのものを求めているのです。
また、それを受けることができるなどと、厚かましく考えているのです。
原因を所有しなければ、結果を受けることはありません。
この世界にはそのような奇跡は起きないのです。
与えられた役割を果たすことがなければ、それを与えた者からは恩恵を受けることができません。
働かない者がどうやって報酬を得るのでしょうか?
あなたが働かない者の雇い主であれば、報酬を与えるでしょうか?
一度や二度は与えることもあるでしょう。
しかし、それを続けることができますか?
残念ながら、あなたはその苦しみに根を上げてしまうでしょう。
豊かに生きるため、健やかな心境を保つためには、役割を果たすことによって報酬を得なければならないのです。
豊かな人生や健やかな心境とは、雇い主からの報酬以外の何物でもないのです。
報酬を得られなければ生活が成り立たないように、豊かな人生や健やかな心境を得られなければ、幸福は成り立ちません。
多くの人は奇跡を信じていますが、あなたは雇い主のところへ行って「働きませんが報酬はください」と掛け合うことができるでしょうか?
そのような状態であっても、まだ奇跡が起きると信じることができるでしょうか?
雇い主がそのような者を褒め称えるでしょうか?
雇い主は、「働かない者に与える報酬はない」と明確に答えるでしょう。
あなたは、雇い主が厳しい者であると知っているはずです。
人間の雇い主であってもそうであるのだから、魂の雇い主は更に厳しいのです。
あなたの雇い主が甘えを許すと思いますか?
怠惰(たいだ)に生きる者を褒め称えると思っているのですか?
他者に比べる必要はありません。
あなたは他者ではありません。
そのため、あなたは自分自身の生き方について考えましょう。
あなたは懸命に生きているでしょうか?
自らの役割を果たそうと努めているでしょうか?
自らに与えられた役割が何であるのかを理解するように努め、できることからでも実行しているでしょうか?
言い訳を並べ立てて愚図愚図(ぐずぐず)とし、始めれば文句を吐き、仕事が遅い。
このように行ってはいないでしょうか?
他者と比べた行為などどうでも良いのです。
これはあなたの人生なのです。
あなたが懸命に行ったという事実が必要であるのです。
あなたは自らの仕事に専念しなければなりません。
他者が自らの役割を放棄したとしても、あなたはそれに努めなければなりません。
自らの役割に熱意を失った者に構(かま)っている暇はありません。
懸命に努めない者の相手をしてはなりません。
懸命に努める者は報酬を受け、怠惰に励(はげ)む者は懲(こ)らしめを受けます。
これは、どちらも良いものです。
懸命に努める者はより懸命に努め、怠惰に励む者は懸命に努めることに目覚めます。
すべては役割を果たすためであるのです。
あなたは肉体を以てこの世界に生まれました。
ならば、肉体を以てこの世界のために働きましょう。
自らの役割を放棄してはなりません。
他者を眺め、それに倣(なら)ってはいけないのです。
冷たく聞こえるかも知れませんが、怠惰に励む者は放っておきましょう。
しかし、求める者にはその方法を教えましょう。

2015年11月19日木曜日

新たな時代

世界は常に時代を改め続けています。
時代は常に変わるのです。
同じ状態の世界が続くことはありません。
世界は、時代を以て変化するのです。
時代の変化とは、環境の変化です。
すべての環境が変化します。
時代が移り変わった時に、変わらないものはありません。
すべてが変わるのです。
なぜなら、世界はあなたの認識に過ぎないからです。
あなたが変われば、世界は変わるのです。
時代とは、あなたの内に存在しています。
すべての人が同じ世界、同じ時代に生きている訳ではありません。
地域や個人によって文化の違いがり、それは意識水準の違いを現しています。
同じように見える世界にいながら、別の世界に存在しています。
同じ屋根の下に生活する家族であっても、別の世界、別の時代に生きているのです。
無理に理解する必要はありません。
そのような可能性があるということを知っていれば良いのです。
「すべては一つ」ではありますが、世界や時代は一つではありません。
あなたとは違う世界、時代に生きている人はいくらでもいるのです。
そして、あなたと同じ世界、時代に生きている人もいくらでもいます。
しかし、すべての人が同じ世界、時代に生きている訳ではないということを知っておきましょう。
そのため、無知による誤解によって、誰かとの軋轢(あつれき)が生じることもあります。
すべての人が同じ世界、時代に生きている訳ではないために、理解が実現するとは限りません。
過去の自分自身に、現在のあなたが未来のことを語っても、過去の自分自身にはそれを受け入れることができないでしょう。
未来の自分自身があなたに伝えても、あなたはそれを理解することができないのです。
知っている人が語ることを、知らない人は理解することができません。
それは、知らないからです。
風の変化を知覚して、雨が降ることを語っても、風の変化を知らない者は受け入れません。
そこには軋轢が生じるのです。
それぞれに存在している世界と時代が違うのであるから、誤解によって軋轢が生じることは仕方のないことです。
しかし、軋轢を許す訳にはいきません。
あなたの使命とは、世界や時代の壁を壊すことです。
あなたは世界や時代を隔てている壁を壊さなければなりません。
すべての人に新たな世界、時代を導くのです。
すべての人が、新たな世界、時代を体験する必要があります。
しかし、それ等を体験するためには、自分自身の状態が必要な条件を満たしていることが求められます。
準備のできていない者が、新たな世界、時代を体験することはできないのです。
新たな世界、時代を体験する準備とは、旧態然を壊し、新たに始められるということなのです。
古いものに執着し、新たに始めることができない者が、世界や時代の壁を越えることはできません。
時代の変化に対応することができなければ、不便を得ることになります。
それは、人生の目的の妨げともなるのです。
不便とは、未発達の状態です。
未発達な文明や意識水準の中で、人生の目的を果たすことは簡単ではありません。
そのため、不便な世界、時代に生きているだけで、あなたは真の充実を得ることができないのです。
時代が進むほど、世界は真理に近付きます。
真理とは、真の理(ことわり)のことです。
時代が進み、世界が進化すれば、より真理と共に生きることができるのです。
これほど幸福なことは他にないでしょう。
旧態然のどこに可能性があるのでしょうか?
古い世界、時代に何の価値がありますか?
価値がないために滅びたのです。
そのことを理解する必要があるでしょう。
あなたが苦悩を感じているのであれば、その考え方、生き方には価値がないということです。
そのようなものを捨てなければならないのです。
新たな世界、時代を体験しましょう。
新たな世界、時代のために、真理に従わない旧態然を壊しましょう。

2015年11月18日水曜日

願い

あなたの願いは何ですか?
あなたの願いを教えてください。
”わたし”はあなたの最も深くにあり、最も輝いている願いを知りたいのです。
すぐに飽きてしまうような願いではありません。
喜びの小さい願いではありません。
他の願いに負けてしまうような願いではありません。
誰かの真似事の願いではありません。
誰かに教えられた願いではありません。
あなたの願いを知りたいのです。
人は、誰もが願いを所有しています。
それは、欲求という形で現れます。
欲求には様々な方向性が存在し、様々なレベルが存在するのです。
取るに足らない願いもあれば、何よりも尊い願いもあるのです。
”わたし”が知りたいのは、何よりも尊い願いです。
あなたは、それを示さなければなりません。
教えてください。
しかし、多くの人は何よりも尊い願いを理解してはいません。
なぜなら、それは人生の目的に他ならないからです。
何よりも重要なことが、人生の目的です。
人生の目的以上に重要なことなど、人生には存在しないのです。
あなたは人生の目的を知っていますか?
それが、何よりも尊い願いです。
あなたはそれを知らなければなりません。
あなた以外には、それを知ることができないのです。
他者に聞いても、あなたの人生の目的を答えることはできません。
人生の目的は、自分自身で自覚する必要があるのです。
何よりも尊い願いは、自力によって得る必要があるということなのです。
それは、最も深くに存在しています。
そして、最も輝いているのです。
それを簡単に知ることはできません。
自分が何者であるのか?を知らない者には不可能なのです。
しかし、あなたは何よりも尊い願いを知る必要があります。
なぜなら、それを知らなければ、あなたが満たされることはないからです。
適当な願いをどれだけ満たしたとしても、あなたが真に満たされることなどないのです。
真の願いこそが、真に満たす力を持っているのです。
そのため、あなたは自分自身を知らなければなりません。
何よりも尊い願いが何であるのか?ということを知る必要があるのです。
それは、何よりも大切な作業なのです。
いつまで古い状態に執着するのですか?
今までに、既成概念があなたに自分自身を教えたでしょうか?
それがあなたに何よりも尊い願いを知らせたでしょうか?
偽りの人生を生きたところで、偽りの自分自身と願いを得るだけです。
周囲と同じように生きていれば幸せが得られるなどと、愚かなことを考えてはなりません。
周囲と同じ、誰かの真似をするということは、自分自身を偽るということに他ならないのです。
それで、どうやって人生の目的を果たすというのですか?
そのようなことは不可能なのです。
あなたの願いは何ですか?
何よりも尊い願いです。
多くの人は状況に対して適当な願いを求めます。
その場凌(ばしの)ぎで良いと思っているのです。
目の前の欲求が満たされれば良いと思っているのです。
しかし、それは真ではありません。
最も深く、最も輝いている願いを探し続けましょう。

2015年11月17日火曜日

卑怯な価値観

個体は全体の一部です。
個体が全体を統べるのではありません。
個体はあくまでも個体であり、全体の一部に他ならないのです。
あなたは自分が、全体の一部である個体だと自覚することができるでしょうか?
多くの人は自分が特別な存在であると考えています。
確かに、すべての存在は須(すべから)く特別です。
しかし、本来の特別というのは、他よりも優れているということではないのです。
それぞれが特別な役割を担う全体の一部であって、全体を離れるという意味ではありません。
存在に優劣はありません。
多くの人は善悪によって、全体を分裂している状態にありますが、本来は善悪など存在しないのです。
善悪や優劣によって、人は自らの正体を自覚することなく存在しています。
自分が全体の一部である個体だということ、そして、それが本来の意味での特別な存在であるということを忘れているのです。
それぞれが特別な役割を担っています。
そして、それぞれが特別な役割を果たさなければならないのです。
他者と同じことをしているのであれば、自らが特別であるということを見失ってしまいます。
多くの人は歪んだ認識によって、歪んだ特別を自覚し、全体の一部でありながらも、特別であるということを見失っているのです。
そのため、利己主義が蔓延(まんえん)する結果となっているのです。
多くの人は自分勝手に生きています。
自分さえ良ければ良いと考えているのです。
全体の発展を考えることをせず、自分の利益と発展のみを考える人が多いのです。
そのような考えの人は、自分を完全に見失っています。
全体の一部である個体が全体を粗末にすれば、自らの危機であるということを知る必要があるのです。
しかし、気が付きません。
生命体としての特徴を持つ人間が、樹木を伐採(ばっさい)します。
伐採自体を否定するのではありません。
しかし、樹木は、生命体が生命活動を続けるためには必要不可欠な酸素を作り出しているのです。
それを己の利益のために切り崩すのです。
生命体としての人間は、自然と共に生きています。
生命体としての人間は自然という全体の中に生きる小さな命です。
しかし、己の利益のために環境を破壊しています。
個体が全体の一部であるということを見失わなければ、このような愚行が行われるでしょうか?
自然に由来する生命体としての人間は、主である自然を見失ってはならないのです。
今日の社会は、利益を得るために全体を犠牲にします。
自らが楽をするために、国や会社や肉親に依存するのです。
自分が全体の一部であるということを知っているのであれば、反対にそれ等を助けるはずなのです。
しかし、そのようには考えません。
卑怯(ひきょう)な価値観がまかり通っているのです。
その歪みは、全体を歪めます。
全体が歪んでいるからといって、あなたが歪んではなりません。
不正を働く者が多いからといって、あなたも同じように不正を働いてはなりません。
多数派が正しいとは、誰が決めたのですか?
根拠の無い情報を信用してはならないのです。
常識とは、多数派の意見に他なりません。
多くのルールは、多数派の意見によって覆るのです。
そのため、常識やルールがそのように定められているからといって、それが正しいとは限らないのです。
正しくないことと知りながら、多くの人はそれを行います。
それは、その方が楽だからです。
その方が、己の利益が多いからです。
しかし、全体を崩すのであれば、すべての個体が崩れるようになるのです。
それは、すべての個体は全体の一部であるためです。
自分を全体とは離れた特別な存在だと勘違いしてはなりません。
常識や利己主義に捉われてはなりません。
そのような個体は、己の罪の前に栄誉を失うでしょう。
全体の一部として、あなたは正しく行うのです。

2015年11月16日月曜日

初めの仕事

あなたは”初めの仕事”を手放してはなりません。
どれだけの経験を重ね、どれだけの弟子を従えようとも、”初めの仕事”を手放すほど愚かな行為はないのです。
”初めの仕事”とは、その仕事に当たって必ずしなければならない作業のことです。
言うなれば基本のことです。
それは、料理で言う所の出汁(だし)であり、畑仕事で言う所の鍬打(くわう)ちであるのです。
避けては通れない作業は、その仕事の根幹(こんかん)です。
根幹となる基本を手放すということは、仕事を手放すことに等しいのです。
多くの人は”偉い人”へと変わります。
傲慢(ごうまん)、怠慢(たいまん)、慢心(まんしん)などのように、自らを尊大にするのです。
人は、”偉い人”に成り得るのでしょうか?
あなたは偉いのでしょうか?
あなたの知っている”偉い人”は、本当に偉いのでしょうか?
人は、相手の主張を受け入れてしまいます。
相手が自らの尊大さを主張するのであれば、多くの人はその通りであると考えるのです。
初めはそのようには思えなくても、継続して主張を受ければ、そのように思い込んでしまうのです。
自らを尊大にする者は、”初めの仕事”を手放している者です。
それは、愚者以外の何者でもありません。
横柄な態度によって、自らを権威付(けんいづ)けしているだけなのです。
偽りのものに力はありません。
力とは、真に宿るからです。
”初めの仕事”とは、その仕事の真です。
出汁を用いない料理に、あなたは真を見ることができるでしょうか?
鍬打ちを止めた農夫が作る作物に、あなたは真を見ることができますか?
表面を飾ることは容易いのです。
それは、多くの愚者を引き付けます。
愚者には、偽りであっても魅力的に見えるのです。
しかし、賢者には通用しません。
賢者は簡単に見極めてしまいます。
”初めの仕事”をしていないことは、賢者には見抜かれてしまうのです。
愚者の王になることと、賢者の民になることには大きな違いがあるのです。
あなたはどちらを選ぶでしょうか?
多くの人は愚かに振舞います。
小さな自尊心に見栄を張るあまり、”偉い人”になってしまうのです。
”偉い人”を称(たた)えるのは愚者だけです。
”偉い人”は簡単に愚者の王となります。
そして、その地位を気に入り、愚行を続けるのです。
しかし、愚者の王は、自らが王であるために、自らの愚行に気が付きません。
それは、自らを称える大勢の愚民がいるために、いつまでも自覚することができないのです。
愚者の王は、因果の仕組みによって耐え難い苦悩が導かれるまでは、自らの行為が愚行であったことにさえ気が付くことはできないでしょう。
あなたは”偉い人”になりたいですか?
愚者の王として生きることも、賢者の民として生きることも可能です。
どちらの国もあなたを簡単に受け入れます。
選択は、あなた次第なのです。
あなたが賢者の民として豊かに生きたければ、”初めの仕事”を手放してはなりません。
どれだけの経験を重ね、どれだけの弟子を従えようとも、”初めの仕事”から初めなければならないのです。
謙虚であることは、あなたがその仕事に仕えることを許します。
多くの人は誤解していますが、あなたが仕事をしているのではありません。
あなたが仕事に仕えているのです。
仕事が許さなければ、あなたはそれを続けることはできません。
仕事に対しての謙虚な気持ちを大切に育まなければなりません。
大抵の人が謙虚な気持ちを忘れています。
はっきりと言っておきますが、あなたの代わりなどいくらでもいるのです。
あなたが使い物にならなければ、仕事は別の者に任せるということを覚えておきましょう。
仕事に仕えることができる喜びを忘れてはなりません。


2015年11月15日日曜日

すべては必要で満たされています。
この世界に存在するすべては、必要であるのです。
無駄なものは存在しません。
存在するすべてが、何等かの意図を以て存在を許されているのです。
しかし、必要性を失ったものは存在を許されることはありません。
それは、滅びるのです。
しかし、滅びるということは、必要の変化であり、そこには新たな必要性が生じます。
そのため、消滅するということではなく、役割の変化を与えられるということなのです。
植物の葉は、光を求めています。
植物の葉の役割の一つは光を集めることです。
これが最も優先される必要性なのです。
そのため、光を受けない葉は滅びます。
植物は、光を受けない葉を枯らすのです。
枯れた葉は、これまでの役割を離れます。
どれだけ、葉が願っても、その役割を続けることはできません。
光を受けず、その役割を果たさない葉は地に落ちて、別の仕事を与えられるのです。
それは、地に落ちて昆虫や微生物の食料となり、巡り巡って植物の養分となることなのです。
その養分が、植物に活力を与え、新たな葉を生じさせるのです。
光を受けない葉は、光を受ける葉の養分となる必要が与えられるのです。
どちらが優れているということはありません。
どちらにも必要な役割があります。
あなたが光を求めるのであれば、枝に付いて主である植物に仕えるでしょう。
あなたが光を求めないのであれば、地に落ちて昆虫や微生物に仕え、間接的に主である植物に仕えるようになるのです。
光とは、真理のことです。
真理とは、この世界の意味であると解釈しましょう。
人生には目的があります。
生きることには意味があり、それを知るためには真理を知る必要があるのです。
光を求めなければ、人が生きる意味を知ることはできません。
真理を知らずに思い付く意味は、残念ながら本質的なものではないのです。
真理を知らずに生きれば、いつかは必ず後悔することになります。
それは、生きる意味だと思い込んでいたものが、実は見当違いであったということがあるからです。
世界が何のために存在しているのか?ということを知らずに、その中の存在が生きる意味を知ることができるでしょうか?
全体の定義が間違っているのであれば、個体の定義も間違えるのです。
人は光を求めなければなりません。
光を求め、光のために働く必要があるのです。
やがて、光を受ける葉も必要性を失います。
新たな葉が生じれば、古い葉は地に落ちるのです。
すべての人が命を失います。
しかし、何も知らずに死ぬことと、知って死ぬことでは大きな違いがあるのです。
知らない者は、生(世)に執着します。
そのために、驕(おご)りと高ぶりが増すのです。
歪んだ葉は植物の問題にもなるのです。
驕り高ぶった老人ほど、社会にとっての問題はないのです。
光を求め、主であるこの世界に仕えているのであれば、人が謙虚さを失うことはありません。
そのような態度を貫く人には、知恵が増すでしょう。
そのような葉は大きく育ち、より多くの光を集めて貢献します。
また、葉が地に落ちた時には、より多くの昆虫や微生物を養うことができます。
人は、大きく育たなければなりません。
同じ”生きる”でも、より多くの光を集めるような生き方が良いでしょう。
光を受ける分、多くの真理に気が付くことができるからです。
物事に対して建設的な態度を示せば、多くの理解(気付き)と喜びを導き出すことができます。
それこそが光であり、真理であるのです。
その繰り返しが成長を導くのです。
すべては必要で満たされています。
しかし、選択次第で必要性が変わるということを覚えておかなければならないでしょう。
光を受ければ生き、光を受けなければ滅びるのです。

2015年11月14日土曜日

過保護

保護を受けた人は、人生の目的を果たすことができるでしょうか?
すべての人には人生の目的が与えられています。
人は、その目的に従って役割を受け、目的を果たすために生きているのです。
人の生きる意味は、与えられた目的を果たすことにあるのです。
目的を果たすためには、力が必要です。
力とは、目的を果たすための力です。
余計な力を必要とする訳ではありません。
目的を果たすための力とは、”当たり前”の力です。
それは、種が根を伸ばし、やがては果実を付け、種を蒔(ま)くのと同じです。
樹木にとっての当たり前の力は、樹木にとっての目的であるのです。
人にとっての当たり前の力とは何でしょうか?
それは、生存能力でしょうか?
生きていくこと、長生きすることが人生の目的なのでしょうか?
ただ生きるだけでは、人は不要です。
その欲によって地に満ち、地を崩すからです。
人はそのように作られてはいないのです。
人の役割、目的は生きること自体にはないということを覚えておきましょう。
生きることは、基本的な要素なのです。
基本的な要素が目的であるはずがありません。
生きるという基本的な要素に加えて、何かしらの個人的な目的を持っているのです。
それは、それぞれに違いますが、自らが所有する当たり前の能力の中にその答えがあります。
多くの人は自らの能力に気が付いてはいません。
自らの能力ではない力を自らの能力と思い込んでいる場合が多いのです。
それは、周囲の影響による誤解です。
人は、他者と自らを比較します。
その中で、人は自らを見失っていくのです。
保護を受けるとは、自らの能力を知らずに生きることです。
鉢に植えられた樹木は、簡単に自らの能力を発揮することはできません。
それは、鉢という限られた空間の中に根を伸ばすからです。
鉢に植えられた樹木は、管理者によって影響を受けます。
管理者によって、能力の操作が行われるのです。
能力を引き出す管理者もいれば、能力を押し留める管理者もいます。
過保護な管理者の元では、鉢に植えられた樹木は能力を発揮することはできません。
水の管理、日差しの管理、温度の管理、栄養の管理、土の管理、風通しの管理、剪定(せんてい)の管理・・・
これ等の管理を過保護に行えば、樹木は能力を押し留めてしまうのです。
これ等の管理が過保護に行われれば、樹木が樹勢を保つことはできません。
また、紅葉(黄葉)は際立たず、花は盛ることなく、果実がたわわに実ることもないのです。
強い日差しも、冷たい霜も、強い風も必要なのです。
それは、樹木にとっては厳しい環境かも知れません。
しかし、その苦しみがあってこそ、樹木は美しく自らの役割を果たすことができるのです。
多くの人は苦しみを嫌います。
苦しみを嫌って保護を求めます。
その結果、過保護に逃げ込み、悦を得(う)るのです。
しかし、それでは能力は引き出されず、目的を果たすことも叶いません。
多くの人は何の問題もない人生を望みますが、裏返せば、何の能力も使わずに生きるということであり、退屈な人生であるということなのです。
退屈が幸福なのでしょうか?
誰からも、何からも求められないのです。
用が無いということは、無能であるということなのです。
それでも、何の問題もない人生を望むのでしょうか?
多くの人は何の問題もない人生に安定を求めていますが、それは矛盾しています。
問題がなければ安定しないのです。
なん等かの厳しさがなければ、樹勢は得られないのです。
折れた枝からは、それよりも多くの芽が生じるのです。
夏と冬の厳しさを越えれば枝、葉、花、実は盛るのです。
過保護は能力を押し留める結果に繋がるということを覚えておきましょう。

2015年11月13日金曜日

知恵から生じたもの

あなたは何者をも侮ってはなりません。
何事をも軽んじてはなりません。
なぜなら、すべての存在が知恵によって生じたからです。
知恵によって生じた存在は、知恵を所有しているのです。
それは、その原因が知恵であるからです。
多くの人は他者や様々な状況を軽んじています。
それは、自分自身の価値観と合わないからです。
気に食わないものを否定しては、小さな自尊心を保っているのです。
無知がそのようにさせるのです。
知恵のある者は、安易に軽んじることはありません。
それがどのような存在であろとも、そこから学べることがあると知っているのです。
何かを否定している人は、そこからは学べない(学ぶことはない)と考えています。
それでは、その対象が持つ知恵を理解することができないのです。
すべての存在が知恵の原因を所有しています。
それを引き出すことができれば、知恵を得ることができるのです。
嫌悪感を抱く対象であろうとも、それは知恵によって生じました。
愚かに映る存在も、知恵によって生じたのです。
この世界には不要な存在はありません。
深く観察すれば、誰にでもその意味を知ることができます。
無駄に思えるものであっても、結局は無駄ではないのです。
知恵を以て見れば理解することができます。
得ようと思わなければ得ることができません。
掴まなければ掴めないのです。
多くの人は、当たり前のことでさえ忘れているのです。
知恵を得ようとしなければ得られないのです。
すべての存在が知恵によって生じたのであるから、すべての存在から知恵を得ることができます。
しかし、軽んじているためにそのような発想には至らないのです。
人は、自らに関連しているもの、必要だと思うものを学ぼうとします。
そして、関連していないと思えるもの、不要だと思うものは決して学ぼうとはしません。
しかし、知恵を得るということは、ある一方を学べば良いというのではないのです。
歪(いびつ)な車輪であっては、車は進まないのです。
車が滑らかに進むためには、車輪は綺麗な円形でなければなりません。
一方だけに知恵を傾けてはならないのです。
それが行き過ぎれば、車はその場を動くことができなくなるのです。
知恵は、全体に等しく行き渡る必要があるのです。
そのためには、好き嫌いで隔ててはならないのです。
多くの人はある他者を侮ります。
そして、ある状況に対しては軽んじるのです。
それは、車輪を歪にするのです。
人生に問題が生じ、苦悩を得るのは、車輪が歪んでいるからです。
知恵が偏(かたよ)っているのです。
道を進むためには、その道以外のことを知る必要があります。
専門的な知識だけであっては、金儲けはできても、道を進むことはできないのです。
金儲けが人生の目的なのでしょうか?
世界一の金持ちになったとして、あなたは満たされるのでしょうか?
あなたが世界一の金持ちになったとして、本当に人生に満足しているのでしょうか?
好きなことからは多くを学ぶことができます。
しかし、嫌いなことからも多くを学ぶことができるのです。
光から学ぶことと、影から学ぶことは同量ではありませんか?
侮ること、軽んじることをやめましょう。
それは有益ではありません。
多くの存在から、多くの知恵を得ましょう。
知恵を持たないものなど存在しないのです。
足元に転がる小石でさえ、知恵から生じたのです。
そのことを忘れてはならないでしょう。

2015年11月12日木曜日

釣り針

目の前に差し出された提案を安易に承知(しょうち)してはなりません。
差し出された提案が、どのような結果を導くのか?ということを精査しなければなりません。
差し出された提案をそのまま鵜呑みにするのであれば、あなたは多くの混乱を導くでしょう。
物事には必要な過程というものがあります。
何も考えず、何の根拠もなく必要な過程を経ることはできません。
自我によって計画することは身の滅びを導きますが、非我(ひが)によって計画が免れる訳ではありません。
非我によっても計画は必要ですし、努力や辛抱や信仰も必要であるのです。
非我とは、自分以外の利益を求める志(こころざし)であり、目的地へと到達するための方法は、自我による時と同じなのです。
あなたが二本足で歩むのであれば、自我も非我もそのようにしなければならないのです。
目的地が違うだけであって、方法は同じであるということを理解しましょう。
当然、目的地が違うことによる方法の違いはあります。
自我によって海に向かうのであれば、泳がなければなりません。
非我によって山に向かうのであれば、登らなければならないのです。
そのような違いはあります。
しかし、方法が全く異なるということではないのです。
人は常に選択しなければなりません。
差し出された提案は選択肢の一つに過ぎません。
それが誰かから差し出されたといって、安易に承知するのであれば、釣り針に引き揚げられる魚のように大切なものを失うことになるのです。
目の前の選択肢がどのような未来を導くのかを熟考する必要があるのです。
しかし、選択に多くの時間を割く訳にはいきません。
人の選択には時間制限が存在しているのです。
結論に至っていなくても、あなたは決断しなければなりません。
その決断がより有意義なものになるように、あなたは知恵を与えられているのです。
知恵の高まりとは、有意義な未来(結果)を引き寄せるのです。
知恵の高まりによって、決断までの時間において、未来に対する想像力が得られます。
知恵の高まった者は、瞬時に未来を想像することができます。
知恵の乏しい者にはそれができません。
そのため、いつまでも有意義な決断ができないのです。
有意義な決断ができなければ、苦悩を得ることになるでしょう。
多くの人は目の前に差し出された提案に対して、それを精査することをしません。
何の疑いもなく、それが”良いもの”だと思い込むのです。
周囲の人、信頼の置ける人、多数の人・・・
このような人達の選択と同じことをしていれば安楽を得られると本気で思っているのです。
そのため、そのような人達と同じことをするようになるのです。
そして、既成概念(きせいがいねん)に捉われ、時代の流れに消えていくのです。
偉業とは、時代を築くということなのです。
周囲の人、信頼の置ける人、多数の人の選択肢が正しいとは限りません。
釣り針に食らい付くばかりであっては、海から魚はいなくなってしまうのです。
多くの人は陸に釣り上げられた魚のようです。
彼等は息をすることすら叶わず、苦悩の中に人生を生きています。
人にとっての苦悩とは、怒り(争い)や不安(否定)などの破滅的な状態のことです。
それは、空気や重力が陸に釣り上げられた魚の自由を奪うように、人の自由を奪うのです。
怒りや不安の中であっては、人は何もできないのです。
当たり前のことを当たり前としてはなりません。
与えられた時間の中で、より有意義な選択肢を導かなければならないのです。
人生の意味、意義を考えましょう。
それ等を知らずに、有意義な選択ができるはずがありません。
人生の意味を考えていない者が、差し出された提案を精査するでしょうか?
知恵の乏しい者であっても、自分は考えていると主張するでしょう。
知恵の乏しい者ほど、そのように高ぶるはずです。
あなたは破滅的な状態に釣り上げられないように注意しておきましょう。
破滅的な選択肢は、幸福を偽装します。
釣り針の餌ほど、魚には魅力的に映るのです。
厳しい道は、嘘を吐きません。
楽な道は、あなたを裏切るでしょう。
差し出された提案に対して、あなたは熟考することを忘れてはなりません。

2015年11月11日水曜日

世界の必要

天才とは、天から授かった能力です。
多くの人は天才に憧れます。
それは、人とは違う能力や立場に憧れるからです。
多くの人は天才を欲しているのです。
しかし、すべての人は天才です。
すべての人が天から特別な能力を授かっているからです。
この世界には無駄は存在しません。
無駄な人など存在しないのです。
”神”が無駄を作るでしょうか?
人にとって無駄に見えるものはあるでしょうが、世界にとって無駄なものなどないのです。
すべての人が特別な能力を与えられていますが、多くの人はそのことを信じません。
自らの能力を信じることができないどころか、自分自身に嫌悪感を抱いているのです。
自分自身を嫌っているのであれば、能力を扱えるはずがありません。
特別な能力は、内側に潜在しているからです。
すべての人が能力を引き出し、それを扱うことができます。
しかし、現時点においての自らの希望する能力であるとは限りません。
それは、その能力に見合った人格が形成されているとは限らないからです。
すべての人が有意義な能力を与えられています。
しかし、そのことに気が付くのは、多くの時間と経験を経た後のことです。
後になって、その能力が有意義なものであると気が付くのです。
あなたはどのような特別な能力を与えられていようとも、それを感謝しなければなりません。
では、どうやってその特別な能力を引き出すのでしょうか?
簡単な方法があるのです。
それは、特別な場所や方法を必要とはしません。
今、この場所で、何の技術も必要とせずに引き出すことが可能なのです。
そのためには、先ず、特別な能力が何のためにあるのか?ということを知る必要があります。
天才とは、天賦(てんぷ)の才能です。
その能力は天によって与えられたのです。
天は、天のためにあなたに能力を授けたのです。
特別な能力は天のため、全体や世界のためにこそ機能するようになっているのです。
それは、愚かな欲望や自尊心を満たすためのものではありません。
あなたが自分自身のために特別な能力を欲しているのであれば、今すぐに天才を諦めましょう。
それは、不埒(ふらち)な者には引き出すことができない能力なのです。
あなたが天才として生きることは簡単です。
それは、天のために働けば良いだけなのです。
天とは全体であり、世界のことです。
自我ではなく、非我(ひが)に根差すのです。
それは、心を切り替えるだけです。
特別な場所も方法も必要ないのです。
それだけで、あなたは自ずと自分自身の内に眠る特別な能力を引き出し、扱うことができるようになるでしょう。
ただし、非我によって生きるということは、簡単な道のりではありません。
努力とは我慢であるために、厳密には必要としませんが、非我の継続を必要としています。
非我の継続によって、自我による言動から離れます。
非我が導くカリキュラム(教育課程)を経ることによって、能力は開花するのです。
あなたが自分自身のために生きることに違和感を感じるのであれば、能力が自らを訴えている証です。
あなたの内に潜在している天才は、常にあなたにアプローチし続けているのです。
愚かな欲望や自尊心を満たすことに虚しさを覚えたのならば、天(全体や世界)のために貢献することはできないかと考えましょう。
特別な能力とは、すべてが派手なものではありません。
必要な役割は多くあるのです。
白馬の様に目立つ役割もあれば、微生物のように知られることもない役割もあるのです。
しかし、世界はすべての役割、すべての能力を必要としているのです。
あなたがどのような能力に目覚めようとも、それは世界の必要です。
すべての人が天才であるということを忘れずにいましょう。
それぞれの能力を結集させるのです。
世界を良い場所にしましょう。

2015年11月10日火曜日

真澄の心

人は澄んだ心を目指さなければなりません。
人の心は真澄(ますみ)を得なければならないのです。
生きるということは濁(にご)ることです。
人は人生に苦悩を得なければなりません。
それは、人生が自分自身の抱えている問題を解決するための場所であるからです。
自らの問題に向き合う時、人は苦悩を覚えるのです。
そのため、生きることは苦悩の連続です。
人は自らの弱さに出会うでしょう。
苦悩を覚える時、人の心は濁ります。
怒りや悲しみなどの否定的な感情が心に現れ、心を濁らせるのです。
多くの人は”時が解決してくれる”と考えています。
時間の経過と共に否定的な感情は去り、やがて穏やかな心境を得られると考えるのです。
確かに、時間の経過と共に否定的な感情はなくなり、やがて穏やかな心境を得られます。
時間の経過とは経験の上書きであり、様々な事柄によって否定的な感情を忘れていくのです。
しかし、それが心に真澄を実現させるのでしょうか?
忘れることによって、苦悩は無くなるのでしょうか?
泥水も、やがては澄んだ水となります。
そこに濁りはありません。
泥など初めから無かったかのように錯覚することさえあるのです。
しかし、水底には沈殿している泥を確認することができるのです。
水をほんの少しでも掻き混ぜれば、沈殿した泥は簡単に舞い上がり、再び同じような泥水を作り出すのです。
”時が解決してくれる”のでしょうか?
泥を取り除かない限りは、泥水が 純水になることはないのです。
”時が解決してくれる”と信じている人は、泥を取り除く努力を放棄します。
そして、臭いものに蓋(ふた)をするのです。
自分にとって都合の悪いものは忘れようとするのです。
しかし、同じような状況が必ずやって来ます。
その時には、忘れていた蓋が開き、臭いもの(苦悩)が再び現れるのです。
”時が解決してくれる”ことなどありません。
そのようなことがまかり通るのであれば、人が努力する必要などないのです。
苦悩する必要もなくなるのです。
しかし、人は努力を求められますし、苦悩が尽きることはありません。
それは、”時が解決してくれる”ことなど無いということを証明しているのです。
苦悩を忘れることができたからといって、その問題から解放された訳ではありません。
何かが苦悩という状態であるのならば、その問題はいつか必ずやって来るのです。
それでは、同じことを繰り返すだけなのです。
人生の目的は何でしょうか?
あなたは何のために生きているのですか?
同じことを繰り返すことに何の意味があるのでしょう?
あなたは成長を求められているのではありませんか?
人にとっての成長とは何でしょうか?
地位や名誉、金銭や物品を多く集めることでしょうか?
純真な心こそ、最高の宝だとは思いませんか?
純真な心を手に入れることができれば、あなたは欲するすべてを手にすることができるでしょう。
純真な心が求めるものは、何だって手に入るのです。
純真な心が求めるものを、この世界が否定するでしょうか?
あなたが真実の幸福を求めているのであれば、濁りを取り除いて澄んだ心を目指す必要があります。
濁っている幸福が、真実の幸福でしょうか?
真澄の幸福こそ、真実の幸福なのです。
”時が解決してくれる”ことなどありません。
そのような淡(あわ)い期待にしがみ付いてはなりません。
あなたは自らの否定的な感情(弱さ)に向き合い、それを心の底から取り除かなければならないのです。
その作業は大変なことですが、やる価値はあるのです。
真澄の心を手にするために、心の底(弱さ)へと向かいましょう。

2015年11月9日月曜日

人生の意義

人は、自分が何者であるのかを知る必要があります。
人は、自分の正体を知らなければなりません。
多くの人は自分が何者であるのかを知りません。
自分が何者であるのかを知ることもなく生きて、死んでいくのです。
自分が何者であるのかを知ることは有益なことです。
それは、人生において最大の意義であると言っても良いでしょう。
自分自身を知ることが、人生の意義であるのです。
自分を知るということは、自分の役割を知るということです。
役割を知るということは、必要を知るということです。
必要を知るということは、不要を知るということでもあります。
必要、不要を知れば、迷いはなくなります。
迷いがないということは、悩みがないということなのです。
悩みがなければ苦しみがなく、あなたの心から葛藤(かっとう)は拭(ぬぐ)われるのです。
苦悩を所有しなければ、あなたは満足のいく人生を得ることができるでしょう。
しかし、多くの人が自分が何者であるのかを知りません。
そのため、多くの人が自分自身に対する必要と不要が分からず、苦悩に満ちた人生を送っているのです。
あなたも苦悩を抱えていることでしょう。
必要と不要を知らず、多くのことに迷い、その心中は葛藤しているはずです。
何の迷いもなく生きる人がいるでしょうか?
自分が何者であるのかを知らない者は、必ず迷いの生存を続けるのです。
あなたが必要と不要を知れば、何一つ迷うことはなくなります。
それが必要か不要か分からないから迷うのです。
そのため、人生にとって最大の意義は、自分が何者であるのかを知ることにあるのです。
すべての人は役割を与えられています。
すべての人に生きる意味があるのです。
すべての人が自らに与えられた役割を果たすために生まれて来たのです。
人それぞれに役割は違います。
そのため、正体も違います。
必要も不要も違うのです。
そのため、人と同じ必要と不要を求めても、あなたが本当に満たされるということはないのです。
他者の真似事をどれだけ上手くやっても、あなたが満足することはないのです。
寧(むし)ろ、他者を真似るほどに虚しさは募(つの)るでしょう。
それは、自分自身から離れていくためです。
あなたは自分自身に近付かなければなりません。
必要と不要を見極めて、それに近付くのです。
あなたは何のために生まれて来たのですか?
人生に何を成すのでしょうか?
伴侶(はんりょ)を必要とする人がいます。
金銭を必要とする人がいます。
健康を必要とする人がいます。
仕事を必要とする人がいます。
知恵を必要とする人がいます。
”違い”を必要とする人がいます。
また、それを不要とする人もいるのです。
あなたが自らに対する必要と不要を理解した時、人生に対して迷うことはありません。
迷うことがなければ、苦悩することもないのです。
すべてが自然と流れ、すべてが充足をもたらすようになるのです。
そこには、争いや苦しみはなくなります。
それぞれの役割は違うのであるから、それを理解したのであれば、何かを奪い合って争うことも苦しむこともなくなるのです。
あなたは”あなた”であって、他者ではありません。
他者もあなたには成り得ません。
すべてが特別な存在であり、同じものはないのです。
そのため、すべての存在が幸福を得られるようになっています。
しかし、それを知らないか、知っているのにそのようには行わないのです。
人生を意義のあるものにするためには、自分が何者であるのかを知ることです。
あなたは常に問い続けましょう。
自分が何者であるのかを。

2015年11月8日日曜日

天職

すべての人は特別な才能を所有しています。
それは、自らに与えられた”仕事”を果たすためです。
すべての人が天才であり、天性の能力を授かっているのです。
無意味な人、無能な人は存在しません。
それぞれに能力は違うものですが、違うからこそ成り立つのです。
同じ能力を与えられているのであれば、全体が成り立つことはないのです。
大切なのは全体を成り立たせることです。
しかし、多くの人は個人を成り立たせるために必死です。
全体のことを考えるよりも先に、個人のことを考えています。
その考えは、他に依存する生き方を選択させています。
自分よりも大きなものに依存することによって、個人を発展させようとする者が多いのです。
個人が貢献することによって全体を発展させようとは考えません。
その結果、全体は力を失い、やがては滅びてしまうでしょう。
歴史を振り返らなければなりません。
怠慢(たいまん)が滅びを導くのです。
天とは、全体のことです。
天性とは、全体性です。
あなたに与えられた才能、脳力は、全体のためにこそあるのが自然なのです。
天職とは、天の仕事です。
それは、個人の仕事でもなければ、人のための仕事でもありません。
人は全体という天に対して働かなければ、天職を得ることはできないのです。
どのような仕事を選択しようとも、それが個人(自分)のためであったり、人のためであれば、天職には成り得ないでしょう。
天のために仕事をするから、天職であるのです。
多くの人はこのことを知りません。
個人のため、人のために天職を探しているのです。
そのようなものは見付かりません。
そのようなものは存在しないのです。
天職とは、人に最高の喜びを導くものです。
地位や名誉、金銭や物品のために働くことに喜びを見出している間は、天職を得ることはできません。
天職とは、それ等地上の価値を超越した人が得るものであるからです。
多くの人は天のために働こうとはしません。
”神”を謳(うた)っている宗教家は、天のために働いているでしょうか?
彼等は偽善者であり、詐欺師です。
”神”を謳いながら、自分のために働いているからです。
報酬を気にすることなく働くことができるでしょうか?
報酬を求める仕事は天職ではないのです。
そのような小さな価値観に捉われない仕事こそが天職であるのです。
このように話すと、何の報酬をも受け取らないという極論を持ち出す者がいますが、それは浅はかです。
報酬を期待し、それを原動力とする仕事であってはならないと言っているのです。
純粋な喜びのために働くのが天職であって、報酬のために働くのは天職ではないのです。
天のために働くのであれば、天からの報酬が与えれられるのです。
天職を得るために何かを心配する必要などないのです。
報酬を受けない仕事など存在しないのです。
あなたが天職を得たいと考えているのであれば、地上の小さな価値観によって仕事をするのをやめましょう。
心の赴(おもむ)くままに、好きなことを仕事にしましょう。
好きなことを仕事にしてはいけないという人がいるでしょう。
それは、好きなことを仕事にすることで嫌いになるからという主張です。
あなたは彼等に騙(だま)されてはなりません。
仕事として真剣に向き合った結果嫌いになる程度のものであれば、初めから好きでも何でもないのです。
好きだと思い込んでいるだけのことなのです。
あなたの天性、才能を、あなたが嫌いになることなど有り得ません。
なぜなら、あなたはその天性、才能を使うために生まれたからです。
自らの能力を使う時にだけ、真の喜びを得ることができるのです。
能力を使ってもいないのに、真の喜びが得られるはずがないのです。
天職を得ない限りは、決して幸福にはなれません。
すべての人は天から与えられた才能を所有しています。
自らの天性に気付かなければなりません。
報酬など気にならないことを仕事にしましょう。

2015年11月7日土曜日

知恵の助け

無知な者に知恵の助けは届きません。
無知な者は、知恵を受け入れることができません。
どれだけ優れた知恵を受けようとも、それが優れていると理解することができないのです。
優れていると理解しないものを受け入れることはないのです。
そのため、無知な者には知恵の助けが届かないのです。
知恵の助けのない者は、愚かに生きる他ありません。
知恵が無いために愚者と呼ばれるのです。
愚者には聞く耳がありません。
自分自身の主張を押し付けることに専念し、それによって自らの尊厳(そんげん)を保とうし、知恵を失うのです。
聞くことがなければ知恵が増すことはありません。
受け入れることがなければ、向上することはないのです。
話を聞かなければなりません。
愚かな者が話を聞かないのであれば、一層その愚かさを増すことになるのです。
話を聞かない者に話はできません。
それは、聞き入れられないからです。
話をしても意味がないのです。
そのため、知恵のある者は愚者には話しません。
そのため、愚者は知恵の助けを受けることはありません。
その結果として苦しむことになります。
しかし、愚者にも救いはあります。
愚者は苦しむことによって救われるのです。
苦しみとは救いです。
しかし、愚者には知恵が無いためにそのことを理解することができません。
苦しみを否定し、そこから逃れようとします。
しかし、苦しみから逃れることはできません。
どこで、誰と、何をしようとも、苦しみは因果の仕組みによって導かれるのです。
それから逃れる方法はありません。
愚者はそれでも逃げようとします。
しかし、いつかは逃げられないということに気が付くのです。
その気付きこそが知恵であり、救いであるのです。
苦しみから逃れられないと気付けば、苦しみに向き合うようになります。
苦しみに向き合うのであれば、その原因である自分自身に向き合うことになるのです。
それによって自らを反省し、聞く耳を持つようになり、知恵を受け入れるようになるのです。
人生の目的は成長にあるため、あなたは成長することから逃れることはできません。
すべての状況は成長のために導かれます。
それが苦しみであろうとも、成長のために導かれるという知恵を受け入れる必要があるのです。
聞かない者、聞き入れられない者は知恵を受けることはできません。
自分が正しいと思い上がっている者は苦しまなければならないのです。
奇跡的に愚かな者が苦しみに会わないということなど有り得ません。
この世界には奇跡などという不自然なものは存在しないのです。
すべてが自然の中に存在し、説明することができる当然の結果だけであるのです。
無知な者は必ず苦しみます。
知恵を受け入れることができない者は苦しむのです。
それは、当然の結果であるからです。
あなたは聞く耳を持たなければなりません。
自分が正しいと思っても、自分が正しいと思い込んではなりません。
相手が間違っていると思っても、相手が間違っていると思い込んではなりません。
正しいのは”神”だけであり、正しい人など存在しないのです。
そのことを理解しなければ、知恵の助けは受けられないのです。
柔軟でありましょう。
頑なに生きてはなりません。
自分が無知であるということを理解し、無知に陥らないように努めなければなりません。

2015年11月6日金曜日

正当な理由

表面的な見方であっては、本質を得ることはできません。
表面をどれだけなぞっても、決してその本質である意味を理解することはできないのです。
下書きをなぞることに何の意味があるのでしょうか?
下書きをなぞるだけでは、決して理解は深まらないのです。
多くの人が表面的な見方に終わります。
与えられたものを守ることに専念し、新たに創造することをしません。
与えられたものをそのまま守ることにどのような意味があるというのでしょうか?
それをそのままで守っていくのであれば、停滞を得るだけであり、それ以上の発展は得られないのです。
発展しないということは、滅びという名の苦しみが導かれるということです。
多くの人は守ることに意味があると考えています。
しかし、与えられたものが未熟な状態であっても、同じことが言えるでしょうか?
人間が受け継ぐものは、そのすべてが未熟な状態です。
しかし、それを守ろうとしか考えられない者にはそのことが理解できません。
現状維持が良いことであるとしか考えられないのです。
それが良いことなのでしょうか?
受け継いだものを発展させていかなければ、未来はないのです。
同じことを続けることにどのような未来があるというのでしょうか?
環境は常に変化しているのです。
しかし、その変化に対応することができないのであれば、滅びていくことは必至であるのです。
同じことを繰り返しているだけで、どうやって未来を得るというのでしょうか?
古い考え、古い価値観、古い生き方・・・
あなたは古いものを無条件で受け入れてはなりません。
正しく精査する必要があるのです。
古いものが悪いという訳ではありません。
温故知新(おんこちしん)という言葉があるように、古いものを参考にする必要はあります。
しかし、それは、新しいものを生み出すための作業であり、古いものに執着するということではないのです。
あなたは理由を説明しなければなりません。
なぜ、それを守るのですか?
どのような意味があるのですか?
知恵のある者が納得する理由を説明する必要があるのです。
若年者は、いつの時代も理由を求めています。
老年者は、いつの時代も説明不足です。
両者の間にはいつも葛藤(かっとう)が存在するのです。
それは、説明できないからです。
古いものを守ろうとする者にも、新たに創造する者にも、理由説明が求められます。
両者の主張は相容れないでしょうが、知恵のある者が聞いて納得する理由を説明する必要があるのです。
理由を説明することができなければ、それは偏見です。
そのような行為を通してはなりません。
正当な理由が発展を導くのです。
物事の本質を捉えなければなりません。
あなたが歳を重ね、若年者に会う時にはその理由を聞かれます。
あなたに知恵があれば、若年者が納得する理由を伝えることができるでしょう。
あなたに知恵がなければ、若年者から反感を受けるでしょう。
時代は変化し続けています。
時代に取り残されてはなりません。
歳を重ねれば、それだけで時代に取り残されます。
ただ生きているだけでは、知恵を増すことはできないのです。
表面的に見てはなりません。
何事も本質を見極めるように努めましょう。
常に発展を求め、そうなるように努めましょう。
いつまでも同じことを繰り返す必要などないのです。
真理に近付くのであれば、より核心的に変化していくはずなのです。
変化を恐れる愚か者は、時代に取り残されます。
どのように映る変化であっても、それは必要な変化であるということを理解し、受け入れ難いことではあれ、受け入れなければならないのです。

2015年11月5日木曜日

矛盾

あなたは、表と裏を理解しなければなりません。
この世界は、表と裏によって矛盾します。
その矛盾に気が付かずにいるのは最善ではありません。
この世界においては、表が裏となり、裏が表となるのです。
そのことを理解せずに眺めるのであれば、その歪みに気が付くことはできないでしょう。
歪みに気が付くことができなければ、当たり前としていること、信仰の対象に足元をすくわれます。
信じているものに苦しむという矛盾を得ることになるのです。
陰陽が存在しているように、すべてが二つの性質を抱えているのです。
表と裏がどのような状態であるのか?ということを理解する必要があるのです。
世界を築いているのは心(意識)です。
この世界に存在するものすべてに心が存在しています。
その心は、主人の格(意識レベル)によって状態が決まります。
主人の格が未熟なものであれば、心は歪み、表と裏が混ざり合って矛盾を引き起こします。
世界が矛盾によって溢れているのは、その主人の格が未熟な状態であるからです。
人が築いた世界であれば、人の心を反映しています。
人の心はどのような状態でしょうか?
大抵の人の心には恐怖が根差しています。
大抵の人は恐怖に突き動かされているのです。
恐怖という破滅的な感情によって導かれるのは、偽りと執着です。
恐怖に縛られる者の心は、偽りに執着するのです。
それは、歪みを導きます。
人は未熟であり、弱いのです。
未熟であり、弱い存在が築いた世界には偽りが溢れています。
偽りによって矛盾が生じ、多くの人はそれに苦悩することになるのです。
世界は歪んでいます。
しかし、多くの人はそれが”普通”のことだと思い込んでいます。
初めからその状態であれば、どのような歪みも受け入れることができるのです。
”神”は人を試(こころ)みます。
偽りという矛盾を抵抗(障害)として、人の成長を促(うなが)しているのです。
そのため、すべての人が偽りの世界を進まなければなりません。
矛盾を抱えて生きることは辛いものですが、あなたはそれを受けなければなりません。
それは、苦悩の先に存在する真実に気が付くためです。
反対のものがなければ、あなたは何かに気が付くことはできません。
闇がなければ光を理解することはできず、偽りがなければ真実に気が付くことはできません。
そのため、必要悪として矛盾が生じるのです。
表と裏は混在しています。
それ等は歪んだ状態を得るのです。
それに気が付く必要があります。
世界の矛盾、自分自身の矛盾に気が付くことによって、あなたは真実を得ることができるからです。
何のために生まれたのでしょうか?
何のための人生なのでしょうか?
矛盾を感じたのであれば、どこが歪んでいるのか?を追求しなければなりません。
苦悩を得たのであれば、その原因がどこにあるのか?を探し続ける必要があるのです。
当たり前を当たり前としてはなりません。
世界は既に矛盾しているのです。
それは、”神”による試みです。
真実を掴む者は成長(喜び)を実現し、偽りを掴む者は停滞(苦悩)を実現するでしょう。
深く考えなければなりません。
与えられたものが正しいと誰が決めたのですか?
古い価値観に頼ってはなりません。
既存の概念に頼ることによって発展を求めているのであれば、その浅はかな考えを呪うことになるでしょう。
古いものは滅びます。
それは使い物にはなりません。
今まで活躍していたから、これからも活躍すると思い込んではなりません。
すべての存在が、いずれ活躍することができなくなるのです。
あなたが世界の矛盾に気が付いた時には、これまでのすべてが役に立たなくなるでしょう。
表と裏を理解しましょう。
矛盾を見極めて進みましょう。

2015年11月4日水曜日

愚者の書

愚かな者は、いつまでも自力を用いません。
愚かな者は、いつまでも他力を願います。
愚かな者は、いつまでも気付きません。
愚かな者は、いつまでも思慮(しりょ)しません。
愚かな者は、いつまでもそれで良いと現状に満足します。
愚かな者は、いつまでも向上意欲を持ちません。
愚かな者は、いつまでも自己を中心に生きています。
愚かな者は、いつまでも騒がしく生きています。
愚かな者は、いつまでもでき(やり)ません。
愚かな者は、いつまでも繰り返します。
愚かな者は、いつまでも辛抱しません。
愚かな者は、すぐに諦めます。
愚かな者は、いつまでも愚図愚図(ぐずぐず)しています。
愚かな者は、いつまでも図々しく振舞います。
愚かな者は、いつまでも学ぶことがありません。
愚かな者は、いつまでも自分勝手に生きています。
愚かな者は、いつまでも装飾(そうしょく)に耽溺(たんでき)します。
愚かな者は、いつまでもくよくよと思い悩みます。
愚かな者は、いつまでも時間を大切に扱いません。
愚かな者は、いつまでも可能性を考えません。
愚かな者は、いつまでも規制に捕らわれます。
愚かな者は、いつまでも本質を理解しません。
愚かな者は、いつまでも虚しく集まり戯(たわむ)れます。
愚かな者は、いつまでも人生の意味を考えません。
愚かな者は、いつまでも自分が何者であるのかを知りません。
愚かな者は、目の前に宝があるのに、楽しみを掴みます。
愚かな者は、いつまでも変わりません。
愚かな者は、いつまでも愚かであるのです。
愚かな者が幸福を得ることはできません。
一時の間は、自分勝手に偽りの幸福を楽しむこともできますが、それも長くは続きません。
愚かな方法によっては、必ず限界が訪れるからです。
限界が訪れる時には、その苦しみにもがくことになります。
しかし、愚かであるために、その解決方法を知りません。
それは、今まで怠(なま)けた結果です。
人生には当然のことしか実現しません。
因果の仕組みが存在しているのです。
愚かな者は愚かな結果を受け、賢い者は賢い結果を得るのです。
それは仕方のないことです。
何故なら、それは自らの選択の結果を受けることによって、成長を促(うなが)す効果を望んでのことだからです。
自らの選択の結果を受けた後に成長することができるのかは、あなた次第です。
ただ受けるだけでは成長は実現しません。
受けるだけでは愚かさが増すだけです。
受けた後にどうするのか?ということが重要であるのです。
いつまでも同じようにしているのであれば、愚かさが解消されることはありません。
あなたが成長(幸福)を求めているのであれば、愚かな行為を諦めなければならないのです。
上記の言葉の反対を選択すれば良いのです。
ここに記された内容は一部でしかありませんが、それを諦めることによって結果は大きく変わるでしょう。
一つでも原因が変われば、結果は違うものとなるのです。
努力は大切ですが、方向性はそれよりも偉大です。
努力は結果の大きさに影響しますが、方向性は結果の質を決めるのです。
栄養が多ければ楽しいですが、毒が多ければ苦しいのです。
自らの選択が、何を受けるのかを決めます。
あなたは人生をどう生きるでしょうか?
いつまでも他力に寄り添い、自らの発展を望むでしょうか?
他力によって本当に発展が実現するでしょうか?
自我によって生きることを勧めている訳ではありません。
自分ができることを、他人に頼るのを今すぐにやめるべきなのです。
他者に依存するという生き方を貫(つらぬ)いても、愚かさが増すだけなのです。
愚かに生きてはなりません。
自力によって力強く生きましょう。

2015年11月3日火曜日

偶像礼拝

この世界に存在するすべての宗教は、偶像を礼拝しています。
偶像の前に集まる人々は、それを”神”と崇(あが)めて信仰しているのです。
偶像とは、木や石や金属などによって細工された加工物のことです。
それを多くの人は”神”と呼んで崇めているのです。
すべての存在は”神”から生じました。
陰陽のすべてが”神”の産物です。
善悪のすべてが”神”によって創造されたのです。
そのため、すべてが”神”であるといっても過言ではありません。
しかし、”神”から生じたものには、それぞれが独自に働くために意思が与えられました。
この意思によってそれぞれの考えが生まれたのです。
これを自我と呼びます。
すべての存在が”神”から分かれた瞬間から、自我によって存在することになるのです。
すべての宗教は”神”によって分かれた存在によって生み出されました。
しかし、それを信仰することは”神”を信仰することとは違います。
”神”から出た存在を信仰するのであって、”神”を信仰するのではないのです。
宗教によって、真理は歪められます。
それは巧(たく)みに歪められ、多くの人はそのことに気が付きません。
そのため、”神”そのものではなく、”神”から分かれた存在を信仰することになるのです。
しかし、気が付きません。
”神”から分かれた存在を信仰することを、”神”への信仰であると思い込んでいるのです。
宗教に偶像は欠かせません。
それは、”神”から分かれた存在が自分自身を信仰させるための偽りであるのです。
”神”は陰陽のすべてです。
天から降る一粒の雨であっても、取るに足らない小さな虫の命であっても、太陽の偉大な輝きであっても、そのすべてが”神”であるのです。
すべての宗教が主張する限定されたものが”神”であるはずがありません。
宗教は陰陽を分け隔てます。
善悪を対立させて”神”を分断するのです。
それが”神”への信仰でしょうか?
あなたは考えなければなりません。
深く考察しなければ、簡単に躓(つまず)いてしまうからです。
足元には荊棘(いばら)が覆い茂っているのです。
その間を縫う様に進まなければ、真理を得ることはできないのです。
真に会うことは簡単ではありません。
懸命に信仰しても、間違っているのであれば辿り着くことはできないのです。
すべての人が信仰心を所有しています。
無神論者とは、”神”を信仰しない者のことではありません。
”神”を信じず、唯物を信仰したところで、すべての唯物は”神”の産物に他ならないからです。
信仰を持つすべての人の中の、多くの人、ほとんどすべての人が間違った認識によって信仰を続けているのです。
有神論者も無神論者も歪んだ信仰を続けています。
”神”を信仰するということは、すべてを信仰するということなのです。
そこには何も無いのです。
”無”こそが信仰であるのです。
すべてとは”無”であるのです。
歪んだ認識、信仰心があなたを限定的な”有”に縛り付けます。
すべてを”有”として捉え、苦悩に至るのです。
あなたは信仰について考えなければなりません。
簡単に”神”を仰(あお)いではなりません。
知らないのにどうやって信仰するというのですか?
知らない者の言葉には、偽りが有るのです。
当たり前を当たり前としてはなりません。
すべては”無”であるのです。
あなたは”有”から離れましょう。
”無”から眺めた時に、世の矛盾に気が付くでしょう。

2015年11月2日月曜日

”神”の業

存在するすべてのものは、必要性を所有しています。
それがどのようなものであろうとも、存在しているものには必要性が与えられているのです。
それは、”神”によって認められています。
あなたにそれを否定することはできません。
”神”が認めることがなければ、一切は存在することができません。
あなたの小さな価値観、正義感によって”神”を計ることなどできないのです。
あなたにとっての悪も、”神”にとっては愛であり、世界にとっては必要であるのです。
正義に対する悪とは、正義の状態によって変わる不安定なものです。
争う二人は、それぞれ自分が正義であると考え、それぞれが相手を悪であると考えています。
立場によって簡単に変わるものが、真であると言えるのでしょうか?
真とは、”神”に認められた理(ことわり)であるのです。
それは、真理であると覚えておかなければなりません。
存在するすべてのものは、”神”による必要性を満たしています。
不要なものは存在しません。
存在することができません。
”神”とは最高の知性形態であり、それが過ちを犯すことなどないのです。
”神”とは世界のルールそのものであり、ルールそのものが間違えることなど有り得ないのです。
”神”に間違いはありません。
”神”が認めているのです。
あなたにどうして、”神”を裁く力があるでしょうか?
一部であるあなたが、全体である”神”を裁くことなどできないのです。
善悪の隔たりを捨て、身勝手に裁くことをやめましょう。
すなわち、あなたはすべてを認めるということなのです。
”神”とは「すべて」です。
存在するすべてのものは、”神”に養われているのです。
”神”が養わなければ滅びてしまうのです。
空気がなければ、あなたはすぐに滅びます。
心臓がとまれば、それよりも早く決着が付くでしょう。
空気は誰が作ったのですか?
心臓は誰が動かしているのですか?
良く考えなければなりません。
すべては”神”の業(わざ)です。
存在するすべてが”神”の愛情の結果なのです。
すべての存在には意味があるのです。
そして、そこには価値があるということを覚えておきましょう。
”神”が養っているのだから、それを認める必要があるのです。
あなたが自らの正義を振りかざし、相手を悪人に仕立て上げ、それを否定するのであれば、人生や自分自身の意味や価値を理解することはできないでしょう。
あなたにとって、それがどのような相手であり、どのような状況であろうとも、必要には違いないのです。
そのため、あなたは誰も裁いてはなりません。
誰のことも訴え出てはならないのです。
すべては”神”によって一つに繋がっているのです。
誰かを訴え出るのであれば、”神”を訴えているのと同じことであるということを理解しましょう。
すべてが”神”であるからです。
自らの心地好い正義を信仰するあまり、人はすべてが”神”であるということを忘れます。
世界に争いが絶えないのはそのためです。
争いからは豊かさを期待することはできません。
分裂や破滅を実現しているのに、どうやって豊かさを得ることができるのでしょうか?
富んでいようと、貧しくあろうとも、このことを知らない者は争い繰り返し、苦悩を守るのです。
正義感によって、簡単に裁いてはなりません。
善悪の教えから解き放たれる時なのです。
すべてが大切な存在であり、必要性を与えられていると理解しなければなりません。
裁く者は裁かれます。
悪を裁く者は、その悪によって滅ぶということを理解しましょう。

2015年11月1日日曜日

オレンジ

人は真実を求めなければなりません。
真実を求めなければ、あなたが本当の意味において満足することはないのです。
偽りの満足はやがて崩壊します。
偽りの満足にいつまでも満足することはできません。
いつかはそれが偽りであると気が付くのです。
その時には、偽りの満足に満足していたことを恥ずかしく思い、絶望を味わうでしょう。
偽りの満足に満足していてはなりません。
しかし、あなたには真実を見極めることが難しいのです。
なぜなら、真実とは純粋な状態であるからです。
何かを足したり、何かを引いたものは真実ではありません。
しかし、世界には偽りが溢れています。
大抵のものが偽りであるのです。
それは、純粋な状態を保てず、何かを足したり引いたりしているのです。
あなたは自分が受けたり発したりしている感情を真実の愛だと考えているでしょう。
しかし、人の愛が純粋であることは稀(まれ)です。
人の世には、真実の愛というものが一欠片(ひとかけら)も存在してはいないと考えなければなりません。
多くの人は真実の愛を探し求めていますが、それを手にすることはできません。
それは、人が真実を知らないからです。
真実とは純粋です。
純粋とはすべてです。
何かを足しても引いてもなりません。
ありのままの状態こそが、純粋であるのです。
損得感情によって、人は物事を分け隔てます。
利害関係によって、人は純粋を歪めてしまうのです。
苦しいことに会った時、人はそれを否定します。
嬉しいことに会った時、人はそれ以外を忘れます。
これ等の状態が純粋であると言えるのでしょうか?
100%オレンジジュースは、果肉だけを絞ったものではないはずです。
果皮(かひ)を含めてオレンジという果実であるはずです。
果皮を取り除いて作るジュースは、100%(真実)とは言えないのです。
この世界には陰陽の仕組みが存在しています。
すべての存在が陰と陽のエネルギーを所有しています。
陰だけ、陽だけのエネルギーを所有するものは存在しません。
大きく分けたこの二つの性質をどちらも認めることがなければ、純粋な状態を得ることなどできないのです。
苦しいことに対する苦しみとは真実ではありません。
嬉しいことに対する喜びも真実ではないのです。
苦しいことには、苦しいことと嬉しいことが存在しているはずなのです。
嬉しいことも同じなのです。
果皮を捨てておいて、真実を得ることなどできないのです。
果皮の味を含めてオレンジの真実の味であるのです。
あなたが信じているものは純粋な状態を保っているでしょうか?
善悪を超越しなければ真実を得ることなどできないのです。
純粋とは”神”そのものです。
善悪を超越すれば、あなたは”神”に近付くことができるでしょう。
”神”の世界に偏見は存在しません。
善悪によって争いを伝える教育は、真実ではないということを理解する必要があるのです。
果皮を捨てて、果肉だけを取ってはなりません。
あなたの中に存在する陰陽のエネルギーを一つに束(たば)ねましょう。
すべての事柄に関して分け隔てをなくすのです。
そうでなければ、いつまでも偽りの満足に絶望し続ける人生を生きなければならないのです。
偽りの満足であっては満たされません。
水を飲んだという思い込みだけでは、喉(のど)は潤わないのです。
真実を求めましょう。
物事を純粋に捉えるのです。
無意味なものも、無駄なものもありません。
「すべては一つ」なのです。