目の前に差し出された提案を安易に承知(しょうち)してはなりません。
	差し出された提案が、どのような結果を導くのか?ということを精査しなければなりません。
	差し出された提案をそのまま鵜呑みにするのであれば、あなたは多くの混乱を導くでしょう。
	物事には必要な過程というものがあります。
	何も考えず、何の根拠もなく必要な過程を経ることはできません。
	自我によって計画することは身の滅びを導きますが、非我(ひが)によって計画が免れる訳ではありません。
	非我によっても計画は必要ですし、努力や辛抱や信仰も必要であるのです。
	非我とは、自分以外の利益を求める志(こころざし)であり、目的地へと到達するための方法は、自我による時と同じなのです。
	あなたが二本足で歩むのであれば、自我も非我もそのようにしなければならないのです。
	目的地が違うだけであって、方法は同じであるということを理解しましょう。
	当然、目的地が違うことによる方法の違いはあります。
	自我によって海に向かうのであれば、泳がなければなりません。
	非我によって山に向かうのであれば、登らなければならないのです。
	そのような違いはあります。
	しかし、方法が全く異なるということではないのです。
	人は常に選択しなければなりません。
	差し出された提案は選択肢の一つに過ぎません。
	それが誰かから差し出されたといって、安易に承知するのであれば、釣り針に引き揚げられる魚のように大切なものを失うことになるのです。
	目の前の選択肢がどのような未来を導くのかを熟考する必要があるのです。
	しかし、選択に多くの時間を割く訳にはいきません。
	人の選択には時間制限が存在しているのです。
	結論に至っていなくても、あなたは決断しなければなりません。
	その決断がより有意義なものになるように、あなたは知恵を与えられているのです。
	知恵の高まりとは、有意義な未来(結果)を引き寄せるのです。
	知恵の高まりによって、決断までの時間において、未来に対する想像力が得られます。
	知恵の高まった者は、瞬時に未来を想像することができます。
	知恵の乏しい者にはそれができません。
	そのため、いつまでも有意義な決断ができないのです。
	有意義な決断ができなければ、苦悩を得ることになるでしょう。
	多くの人は目の前に差し出された提案に対して、それを精査することをしません。
	何の疑いもなく、それが”良いもの”だと思い込むのです。
	周囲の人、信頼の置ける人、多数の人・・・
	このような人達の選択と同じことをしていれば安楽を得られると本気で思っているのです。
	そのため、そのような人達と同じことをするようになるのです。
	そして、既成概念(きせいがいねん)に捉われ、時代の流れに消えていくのです。
	偉業とは、時代を築くということなのです。
	周囲の人、信頼の置ける人、多数の人の選択肢が正しいとは限りません。
	釣り針に食らい付くばかりであっては、海から魚はいなくなってしまうのです。
	多くの人は陸に釣り上げられた魚のようです。
	彼等は息をすることすら叶わず、苦悩の中に人生を生きています。
	人にとっての苦悩とは、怒り(争い)や不安(否定)などの破滅的な状態のことです。
	それは、空気や重力が陸に釣り上げられた魚の自由を奪うように、人の自由を奪うのです。
	怒りや不安の中であっては、人は何もできないのです。
	当たり前のことを当たり前としてはなりません。
	与えられた時間の中で、より有意義な選択肢を導かなければならないのです。
	人生の意味、意義を考えましょう。
	それ等を知らずに、有意義な選択ができるはずがありません。
	人生の意味を考えていない者が、差し出された提案を精査するでしょうか?
	知恵の乏しい者であっても、自分は考えていると主張するでしょう。
	知恵の乏しい者ほど、そのように高ぶるはずです。
	あなたは破滅的な状態に釣り上げられないように注意しておきましょう。
	破滅的な選択肢は、幸福を偽装します。
	釣り針の餌ほど、魚には魅力的に映るのです。
	厳しい道は、嘘を吐きません。
	楽な道は、あなたを裏切るでしょう。
	差し出された提案に対して、あなたは熟考することを忘れてはなりません。
	
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