すべては必要で満たされています。
この世界に存在するすべては、必要であるのです。
無駄なものは存在しません。
存在するすべてが、何等かの意図を以て存在を許されているのです。
しかし、必要性を失ったものは存在を許されることはありません。
それは、滅びるのです。
しかし、滅びるということは、必要の変化であり、そこには新たな必要性が生じます。
そのため、消滅するということではなく、役割の変化を与えられるということなのです。
植物の葉は、光を求めています。
植物の葉の役割の一つは光を集めることです。
これが最も優先される必要性なのです。
そのため、光を受けない葉は滅びます。
植物は、光を受けない葉を枯らすのです。
枯れた葉は、これまでの役割を離れます。
どれだけ、葉が願っても、その役割を続けることはできません。
光を受けず、その役割を果たさない葉は地に落ちて、別の仕事を与えられるのです。
それは、地に落ちて昆虫や微生物の食料となり、巡り巡って植物の養分となることなのです。
その養分が、植物に活力を与え、新たな葉を生じさせるのです。
光を受けない葉は、光を受ける葉の養分となる必要が与えられるのです。
どちらが優れているということはありません。
どちらにも必要な役割があります。
あなたが光を求めるのであれば、枝に付いて主である植物に仕えるでしょう。
あなたが光を求めないのであれば、地に落ちて昆虫や微生物に仕え、間接的に主である植物に仕えるようになるのです。
光とは、真理のことです。
真理とは、この世界の意味であると解釈しましょう。
人生には目的があります。
生きることには意味があり、それを知るためには真理を知る必要があるのです。
光を求めなければ、人が生きる意味を知ることはできません。
真理を知らずに思い付く意味は、残念ながら本質的なものではないのです。
真理を知らずに生きれば、いつかは必ず後悔することになります。
それは、生きる意味だと思い込んでいたものが、実は見当違いであったということがあるからです。
世界が何のために存在しているのか?ということを知らずに、その中の存在が生きる意味を知ることができるでしょうか?
全体の定義が間違っているのであれば、個体の定義も間違えるのです。
人は光を求めなければなりません。
光を求め、光のために働く必要があるのです。
やがて、光を受ける葉も必要性を失います。
新たな葉が生じれば、古い葉は地に落ちるのです。
すべての人が命を失います。
しかし、何も知らずに死ぬことと、知って死ぬことでは大きな違いがあるのです。
知らない者は、生(世)に執着します。
そのために、驕(おご)りと高ぶりが増すのです。
歪んだ葉は植物の問題にもなるのです。
驕り高ぶった老人ほど、社会にとっての問題はないのです。
光を求め、主であるこの世界に仕えているのであれば、人が謙虚さを失うことはありません。
そのような態度を貫く人には、知恵が増すでしょう。
そのような葉は大きく育ち、より多くの光を集めて貢献します。
また、葉が地に落ちた時には、より多くの昆虫や微生物を養うことができます。
人は、大きく育たなければなりません。
同じ”生きる”でも、より多くの光を集めるような生き方が良いでしょう。
光を受ける分、多くの真理に気が付くことができるからです。
物事に対して建設的な態度を示せば、多くの理解(気付き)と喜びを導き出すことができます。
それこそが光であり、真理であるのです。
その繰り返しが成長を導くのです。
すべては必要で満たされています。
しかし、選択次第で必要性が変わるということを覚えておかなければならないでしょう。
光を受ければ生き、光を受けなければ滅びるのです。
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