仲間とは、共通する目的のために努める協力体系です。
	共通する目的を持つことが前提なのです。
	目的が共通していなければ、その関係を仲間であるとは言えないのです。
	多くの人は仲間を誤解しています。
	ただ、共に集うことを仲間だと思い込んでいるのです。
	共通する目的を持たなくても、同じ場所にいるだけで仲間であると思っているのです。
	時間や場所を共有するだけで仲間なのでしょうか?
	争っている相手であっても、時間や場所を共有しているのです。
	多くの人は仲間の定義を誤解しているために、偽りの仲間に安心感を覚え、目的を果たすことなく過ごしているのです。
	目的を果たすこともなく生きることに、何の喜びがあるのでしょうか?
	それは、虚しい人生だとは思いませんか?
	目的を知らず、それを果たすこともできない人生に、真の満足があるのでしょうか?
	そこには、偽りの満足と、決して満たされない魂(心)があるのです。
	偽りの仲間に紛れて、真の目的を果たすことができるでしょうか?
	偽りの仲間は、あなたの目的のために協力することはできません。
	なぜなら、その人達には別の目的があるからです。
	人は、自分の目的のために生きることはできても、他者の目的のために生きることはできないのです。
	人は、他者の代わりを果たすことはできないのです。
	他者が乾いていたとしても、あなたにはそれを代わりに潤すことはできないのです。
	あなたが代わりに水を飲んでも、あなたの渇きが潤うことはあっても、他者がそのようになることはないのです。
	そのため、人は自力によって満足を得る必要があります。
	それぞれが自力を持ち寄り、共通の目的のために努めれば、それが実現する確率は高まります。
	そこには、最高の喜びが導かれるのです。
	真の仲間でなければ、最高の喜びである達成を実現することはできないのです。
	それぞれが別々の目的のために働く組織が、どうやって目的を果たすというのでしょうか?
	そのような組織は、空中分解するのが落ちなのです。
	偽りの仲間であっては、達成を実現することはできません。
	この世界を甘く考えてはなりません。
	どれだけの人、どれだけの組織が、最高の喜びを目指していると思っているのですか?
	偽りの仲間によって、対抗(争いではない)することができると思っているのですか?
	最高の喜びとは、至高に存在するのです。
	地上の山々(頂上)のように、至高はたくさんあります。
	それぞれが至高に達することができるのです。
	至高と言えども、その場所は一つではないのです。
	それぞれの目的の最高水準を目指すのです。
	そのためには、最高の協力者が必要です。
	仲間と共に努めなければ、最高の喜びを実現することはできないのです。
	多くの人の心根には、恐怖の感情が存在しています。
	そのため、孤独や努力に対して恐怖を覚えることがあるのです。
	多くの人は孤独や努力を恐れているために、偽りの仲間に紛れて偽りの安心感を味わっているのです。
	しかし、それは後の苦悩に繋がるということをはっきりと言っておきます。
	時間や場所を共有しているからといって仲間ではありません。
	馴染(なじ)みによって仲間なのではありません。
	同じ屋根の下で生活しているからといって仲間ではありません。
	”口約束”をして家族という関係を得たからといって、仲間ではありません。
	同じ女の身体から生まれたからといって仲間ではありません。
	血の繋がりがあるからといって、それだけでは仲間ではないのです。
	仲間とは、共通する目的のために努める協力体系だからです。
	目測を誤れば、目的を果たすことはできません。
	多くの人は常識や伝統に惑わされ、物事の本質が見えていません。
	そのため、何も果たすこと(真の満足感)なく人生を去らなければならないのです。
	後悔するようではならないのです。
	何のための人生なのですか?
	それを知るためには、自らの目的のための真の仲間を知る必要があるでしょう。
	
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