保護を受けた人は、人生の目的を果たすことができるでしょうか?
すべての人には人生の目的が与えられています。
人は、その目的に従って役割を受け、目的を果たすために生きているのです。
人の生きる意味は、与えられた目的を果たすことにあるのです。
目的を果たすためには、力が必要です。
力とは、目的を果たすための力です。
余計な力を必要とする訳ではありません。
目的を果たすための力とは、”当たり前”の力です。
それは、種が根を伸ばし、やがては果実を付け、種を蒔(ま)くのと同じです。
樹木にとっての当たり前の力は、樹木にとっての目的であるのです。
人にとっての当たり前の力とは何でしょうか?
それは、生存能力でしょうか?
生きていくこと、長生きすることが人生の目的なのでしょうか?
ただ生きるだけでは、人は不要です。
その欲によって地に満ち、地を崩すからです。
人はそのように作られてはいないのです。
人の役割、目的は生きること自体にはないということを覚えておきましょう。
生きることは、基本的な要素なのです。
基本的な要素が目的であるはずがありません。
生きるという基本的な要素に加えて、何かしらの個人的な目的を持っているのです。
それは、それぞれに違いますが、自らが所有する当たり前の能力の中にその答えがあります。
多くの人は自らの能力に気が付いてはいません。
自らの能力ではない力を自らの能力と思い込んでいる場合が多いのです。
それは、周囲の影響による誤解です。
人は、他者と自らを比較します。
その中で、人は自らを見失っていくのです。
保護を受けるとは、自らの能力を知らずに生きることです。
鉢に植えられた樹木は、簡単に自らの能力を発揮することはできません。
それは、鉢という限られた空間の中に根を伸ばすからです。
鉢に植えられた樹木は、管理者によって影響を受けます。
管理者によって、能力の操作が行われるのです。
能力を引き出す管理者もいれば、能力を押し留める管理者もいます。
過保護な管理者の元では、鉢に植えられた樹木は能力を発揮することはできません。
水の管理、日差しの管理、温度の管理、栄養の管理、土の管理、風通しの管理、剪定(せんてい)の管理・・・
これ等の管理を過保護に行えば、樹木は能力を押し留めてしまうのです。
これ等の管理が過保護に行われれば、樹木が樹勢を保つことはできません。
また、紅葉(黄葉)は際立たず、花は盛ることなく、果実がたわわに実ることもないのです。
強い日差しも、冷たい霜も、強い風も必要なのです。
それは、樹木にとっては厳しい環境かも知れません。
しかし、その苦しみがあってこそ、樹木は美しく自らの役割を果たすことができるのです。
多くの人は苦しみを嫌います。
苦しみを嫌って保護を求めます。
その結果、過保護に逃げ込み、悦を得(う)るのです。
しかし、それでは能力は引き出されず、目的を果たすことも叶いません。
多くの人は何の問題もない人生を望みますが、裏返せば、何の能力も使わずに生きるということであり、退屈な人生であるということなのです。
退屈が幸福なのでしょうか?
誰からも、何からも求められないのです。
用が無いということは、無能であるということなのです。
それでも、何の問題もない人生を望むのでしょうか?
多くの人は何の問題もない人生に安定を求めていますが、それは矛盾しています。
問題がなければ安定しないのです。
なん等かの厳しさがなければ、樹勢は得られないのです。
折れた枝からは、それよりも多くの芽が生じるのです。
夏と冬の厳しさを越えれば枝、葉、花、実は盛るのです。
過保護は能力を押し留める結果に繋がるということを覚えておきましょう。
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