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「”天”から受け取った言葉を紹介しています。少しでも、あなたのお役に立ちますように」

2015年11月22日日曜日

”神”を見る

長らく観察しているのであれば、物事の本質が表面にはないことに気が付くでしょう。
短い観察時間であれば、そのことに気が付くことはできません。
なぜなら、人が肉体を通して見る時には、肉体の経験によって形成された思考や価値観を基準に判断せざるを得ないからです。
肉体の経験とは、”あなた”が肉体に入ってからの経験のことです。
肉体を以て母から生まれた後の経験なのです。
肉体の経験とは、小さな世界の体験です。
それは、何も経験していないに等しく、その判断は確実に未熟なものです。
しかし、多くの人は肉体の経験によって正しく判断することができると考えています。
次の状況も今までの経験と同じような結果に至ると思っているのです。
そして、経験上知り得た情報が正しいと考え、それが本質であると思い込んでいるのです。
多くの人は自らを正当化するために、結論が経験値の域を出ることができません。
物事の判断は、経験値の領域で処理されるのです。
そして、経験値の領域内に結論が至るように修正します。
これまでに経験のない事態を得たとしても、その結論は経験値の領域内で導かれるのです。
唯物論を支持している者は、その本質を唯物論に頼ります。
唯神論を支持している者は、その本質を唯神論に頼ります。
どちらも正しく、どちらも間違っています。
人は、”あなた”と肉体の合作です。
”あなた”とは意識であり、これを捉えるには唯神論が必要です。
肉体とは肉と血と骨であり、これを捉えるには唯物論が必要なのです。
人を捉えるためには、唯物論と唯神論の二つを用いなければならないのです。
多くの人はどちらかに偏っているものです。
自分ではバランスを取っているように思うかも知れませんが、その基準が間違っていればバランスを崩しているのです。
人が物事の本質を見極めることができなければ、そこには苦悩が導かれます。
何かに対して苦悩を覚えている人は、バランスが崩れているのです。
勿論、無知であればどうしようもありません。
そのため、唯物的にも、唯心的にも知識に長けていなければならないのです。
何かに対して長らく観察していると、誰であってもその対象を唯物論だけでは説明することができないことに気が付きます。
例えば、何の変哲もない陶器であっても、長らく観察しているのであれば、それが泥と火であるとは思わないでしょう。
何の変哲もない陶器であっても、それが人によって作られたものだと理解し、そこには”心”があることを理解することができるはずです。
何事に関しても、唯物論と唯神論の両方を用いる必要があるのです。
人が陶器を”心”によって作り出すように、すべての存在は”心”によって作り出されたのです。
世界(時空)という大きなものから、足元に列を成して働く蟻(あり)。
そして、あなたが認識することさえできない極小の物質やエネルギーまで、すべての物質は”心”によって作り出されたのです。
人はそれを”神”と呼ぶのです。
長らく観察していると、誰であっても”心”に出会うことができます。
そして、その気付きが”神”を思い出させるのです。
あなたが”神”を知りたければ、唯物論と唯神論のバランスを保ち、無知を退けなければなりません。
唯物論と唯神論の両方を使って見るのです。
それは、左右の目を使って物を見るのに似ています。
片方の目だけで見れば、対象を正しく認識することはできません。
目の前の物でさえ、片目では掴むことが難しいのです。
”神”を掴むためには、両目を開く必要があるのです。
唯物論に傾いている者は唯神論を取り入れましょう。
唯神論に傾いている者は唯物論を取り入れるのです。
反対の目を否定してはなりません。
陰と陽の二つが両立するのが自然なのです。
唯物論と唯神論は、両立するのです。
”神”を見る者に苦悩はありません。
”神”を見ることができるのならば、苦悩する必要がなくなるのです。
それは、苦悩ではなく”神”を見ているからです。
人は自らの歪みや不足に気が付かなければならないのです。
自らを正当化して無知を誤魔化していてはならないのです。
そのような方法がいつまでも通用するほど、世界は甘くないのです。
すべての偽りは暴かれ、追求されるということを知っておきましょう。
無知は故意ではありませんが、無知が偽りであることには違いないのです。
物事を観察している時には、その本質が表面にはないということを覚えておきましょう。
”神”は本質にこそ存在しているのです。

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