この世界に存在するすべての宗教は、偶像を礼拝しています。
	偶像の前に集まる人々は、それを”神”と崇(あが)めて信仰しているのです。
	偶像とは、木や石や金属などによって細工された加工物のことです。
	それを多くの人は”神”と呼んで崇めているのです。
	すべての存在は”神”から生じました。
	陰陽のすべてが”神”の産物です。
	善悪のすべてが”神”によって創造されたのです。
	そのため、すべてが”神”であるといっても過言ではありません。
	しかし、”神”から生じたものには、それぞれが独自に働くために意思が与えられました。
	この意思によってそれぞれの考えが生まれたのです。
	これを自我と呼びます。
	すべての存在が”神”から分かれた瞬間から、自我によって存在することになるのです。
	すべての宗教は”神”によって分かれた存在によって生み出されました。
	しかし、それを信仰することは”神”を信仰することとは違います。
	”神”から出た存在を信仰するのであって、”神”を信仰するのではないのです。
	宗教によって、真理は歪められます。
	それは巧(たく)みに歪められ、多くの人はそのことに気が付きません。
	そのため、”神”そのものではなく、”神”から分かれた存在を信仰することになるのです。
	しかし、気が付きません。
	”神”から分かれた存在を信仰することを、”神”への信仰であると思い込んでいるのです。
	宗教に偶像は欠かせません。
	それは、”神”から分かれた存在が自分自身を信仰させるための偽りであるのです。
	”神”は陰陽のすべてです。
	天から降る一粒の雨であっても、取るに足らない小さな虫の命であっても、太陽の偉大な輝きであっても、そのすべてが”神”であるのです。
	すべての宗教が主張する限定されたものが”神”であるはずがありません。
	宗教は陰陽を分け隔てます。
	善悪を対立させて”神”を分断するのです。
	それが”神”への信仰でしょうか?
	あなたは考えなければなりません。
	深く考察しなければ、簡単に躓(つまず)いてしまうからです。
	足元には荊棘(いばら)が覆い茂っているのです。
	その間を縫う様に進まなければ、真理を得ることはできないのです。
	真に会うことは簡単ではありません。
	懸命に信仰しても、間違っているのであれば辿り着くことはできないのです。
	すべての人が信仰心を所有しています。
	無神論者とは、”神”を信仰しない者のことではありません。
	”神”を信じず、唯物を信仰したところで、すべての唯物は”神”の産物に他ならないからです。
	信仰を持つすべての人の中の、多くの人、ほとんどすべての人が間違った認識によって信仰を続けているのです。
	有神論者も無神論者も歪んだ信仰を続けています。
	”神”を信仰するということは、すべてを信仰するということなのです。
	そこには何も無いのです。
	”無”こそが信仰であるのです。
	すべてとは”無”であるのです。
	歪んだ認識、信仰心があなたを限定的な”有”に縛り付けます。
	すべてを”有”として捉え、苦悩に至るのです。
	あなたは信仰について考えなければなりません。
	簡単に”神”を仰(あお)いではなりません。
	知らないのにどうやって信仰するというのですか?
	知らない者の言葉には、偽りが有るのです。
	当たり前を当たり前としてはなりません。
	すべては”無”であるのです。
	あなたは”有”から離れましょう。
	”無”から眺めた時に、世の矛盾に気が付くでしょう。
	
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